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「……終わった」
『羅針盤』を紋章の中に戻した私は、すぐにでもラディアラへと向き直りたかった。
けれどできない理由がいた。
「死んだか」
黎明の空の中に光の塵となって消えたスレッジ・ハンマーの名残から目線を外して、アイス・ブレイカーが槍を地面に突いて大きなため息を吐いていた。
彼はこれからどうするのだろうか。槍の光自体は消えているものの、彼のAGI強化はまだ効いているようで私では到底食らいつけるような速度ではない。退いてくれるに越したことはないんだけど。
警戒を募らせるのは私だけではなくラディアラも同じで、私よりも彼女の方が厳しくアイス・ブレイカーを睨んでいた。
けれど戦いを望んでいないのは、むしろ彼の方だった。
「おいおい、まさかやりあおうってんじゃないだろな」
「必要があるなら私たちはあなたとも戦う」
「勘弁してくれ、俺は今セーブしたいんだよ。俺はさっさとギデオンにでも向かうからさ、お互い不干渉にしとこうぜ」
「いいよ」
きっと《真偽判定》を持っていたのだろう。彼は「ありがとな」と言うが早いか、残像を残して森の中へ消えていった。
去ったようだった。
ふぅ、と息を漏らした時、私の《
「ほんとにギリギリだった。もうちょっと長居されてたらやばかった」
「私もちょうどね」
見やれば、ラディアラのステータスも莫大な強化が失われた所だった。【
夜が明けたのだ。
まだ低い太陽は輪郭の一部を山の向こうから出しているだけで私たちはまだ夜の名残の中にいたけれど、それでも夜明けに違いはなかった。
ようやく訪れた静寂を噛み締めるように向き合う私とラディアラだったが、改めてひどい有様だった。
ラディアラはやっぱりボロボロで血に塗れていて、私はもっとひどかった。左腕は途中から無いし、右手は炎で焼かれたせいで皮膚の下のピンク色が見えていて、ちょうど焼き貫かれた部分は黒く炭になっていた。治療は到底できないだろう。もっとも、デスペナで簡単に
「……あなたには、無理をさせたわね」
呟いて、ラディアラが私の右手を取った。
私の身体なら簡単に
「私なら大丈夫だよ。怪我だってずっとこのままって訳じゃないんだし」
「それでもあなたは傷ついた」
触れあう手からラディアラに流れる鼓動を微かに感じ取る。
やはり、紛れもなかった。
この手に感じるのは、ティアンであるラディアラの命だ。
ラディアラも、その手に同じく私の鼓動を感じているはずだった。〈マスター〉である私の命。
あの夜。私達の最後の夜になっていたかもしれなかった夜を思い出しているのは、私だけじゃないだろう。
「あなたは——」
ラディアラはあの時の続きを言うようにして、そこで言葉につまった。私は彼女の言葉を待っていけれど、ラディアラの視線が私の右腕と左腕を行き来するばかりだった。それでもしばらくしてから、ようやくラディアラは握っていた私の手を放して「なんでもない」とだけ呟いた。
「そっか」
何を聞こうとしていたのか、聞きたかった。でも今は聞かなくてもいいと思う。
今は言葉にされなかった空白が、ラディアラの口から形にされる“いつか”が来るだろうから。
確かに、今日は私もラディアラもひどく傷ついたし、ラディアラが命を落とし得た瞬間だって数え切れない。でも、ラディアラは私が来た時には「ありがとう」と言ってくれた。この世界には〈UBM〉も〈マスター〉もいっぱいいるけど、これからそんな災いがラディアラに来る時があったとしたら、きっと、彼女は私を隣に立たせてくれる。きっと今日みたいに二人で越えられるのだと思う。
だからやがて訪れる“いつか”で、ラディアラの口から続きを聞きたい。
私が森の向こうに手をかざすと、ゆっくりと浮かび上がる影あった。必殺スキルで船体の半分を失い、スレッジ・ハンマーの《アルゴー》との衝突で森に落ちた私の【アルゴー】だ。
船首と、船尾と、マストと、それらを繋ぐように残された竜骨の他には、乗れる甲板が辛うじて残されただけの【アルゴー】は帆船を名乗るには些かみすぼらしかったが、それでもゆっくりと空を行く様はまだ確かに船としての機能を保っている。
そのまま静かに、空気を押し退けて微風を吹かせて私達の傍に着陸した【アルゴー】をラディアラは見上げていた。黒髪を風になびかせる彼女に、私はふとした思いつきを口にした。
「ラディアラ、少し乗ってみない?」
「……そうね、そういえば、落ち着いてあなたの船に乗った事は無かったわね」
首肯したラディアラの前に【アルゴー】がバラバラとタラップを下ろした。先に私が掴まろうとしたが、左腕は無く右手も物を握れる状態ではなかったためにラディアラが私を背負ってタラップを握った。
「あの時の逆みたいだね」
「【スプリンガー】の?」
「そう」
「あの時ほど荒々しい乗船では無いわね」
「それは確かに」
再びバラバラとタラップが巻き上げられながら、【アルゴー】は高度を上げていく。地面がはるか下になる頃に巻き上げられたタラップが甲板まで届き、ラディアラが私を担いでいるとは思えないほどにふわりと甲板に飛び乗った。
下ろしてもらった私が振り向けば、背後、東を昇る朝日があった。
朝だった。とても静かな朝。戦いに満ちた騒がしい夜の向こうに待っていた、雲が流れてゆく音さえ聞こえそうな朝。
輝く太陽を見る私の隣で、ラディアラも太陽を見ていた。【冒険家】のスキルによって眩しさに耐性を持つ私と違い、ラディアラは少し目をひそめて眩しそうにしながら、それでも太陽を見ていた。太陽と、陽光に照らされる稜線、森、いまだ空に残る雲、照らされる全て。ここから見える世界、その全てを感じ取るように見ていた。
「ふぅぅぅ」
「……フォリウム?」
バタリ、と倒れ込んだ私をラディアラが見下ろしていた。
「気が抜けちゃった……今まで生きてきた中で一番気が張り詰めた気がする」
不安そうな表情を浮かべる彼女の心配を打ち消すように笑ったけど、浮かべた笑みは疲労感のせいで完璧とは程遠いものだろうと分かった。
ラディアラは少しだけ安心したように「そう」と短く言って、寝転がって笑う私の隣に座り込んだ。
それからしばらく二人で空を見ていた。だんだんと昇る朝日は少しずつ西の空まで明るくしていく。
私の言葉が出てきたのは、流れゆく雲を眺めているうちの事だった。
「すごい怖かったんだ」
まるですり抜けるように口から出ていた。言わなくてもいいのに、だとか、そんなことさえ考えないまま、顔を覗かせた言葉が最後まで現れるのを私は他人事のように見ている。
「あの夜が最後になるんじゃないかって、ずっと怖かった」
「……私も」
同じく通り抜けるようにラディアラからこぼれた言葉は、空耳かもと思った。でも見上げたラディアラの顔は確かに私を向いていて、それは聞き違いではなかった。
「戦いがそばまで来ていたから逃げれば良かったのにね。身を隠して、やってくる連中をやり過ごして、いつかやってくるあなたを待つ事だってできたのに」
私を見るラディアラの藍の瞳の上で光の粒が跳ねているみたいだった。
「でも顔も知らない誰かにフローの家が荒らされたらって、焼かれたりしたらって思うと、その光景を見るのも見ないでいるのも私には耐えられなかった」
身を起こした私から、ちょうど距離を保つようにラディアラが立ち上がって、この景色を取り込むように息を吸った。
光の粒はラディアラの黒い髪の上でも、血に濡れてなお白い肌の上でも跳ねているようだった。
それは美しいのに。間違いなく美しいのに、どうして、手の内から溢れゆく雫を見ているような儚さを感じてしまうのだろう。
吸い過ぎた息のおつりを払うように短く嘆息して、ラディアラは言った。
「ここを離れようと思うの」
ラディアラはアイテムボックスから一冊の本を取り出した。それは日記のようで、持ち主の名前が書かれている。名前はフローレイア・リベナリル。
ラディアラがかつてロケットを握りしめながら叫んだ名前、フロー。ラディアラがここに留まり、たった一人で〈UBM〉にさえ立ち向かった、彼女の理由。
「フローの日記があるのを見つけて開いてみたの。悪いとは思ったけど、最後になるかもと考えたら少しでもフローの事を思い出したかった」
ラディアラは日記に記された名前をなぞった。今は亡き人の筆跡にその面影を見るように、輪郭に触れるように。
「日記はレジェンダリアにいた時の頃から書かれていた。フローから私と出会う前の事はほとんど聞いたことがなかったから、私の知らない事がたくさんあった。でもやっぱり、私が知るフローだった」
慈しむ指先には、一体どれだけの歴史が刻まれているのだろう。吸血鬼であるラディアラは〈マスター〉が増加する前より……いや、そんな数年なんて単位がくだらなくなるほど昔から独りだった。
積極的な狩猟を行わないラディアラによってあれほど溜め込まれた【エメンテリウム】が、なによりも年月を語っている。
「フローは、種族の違いなんて本当は些細なものだって……故郷での種族間のいがみ合いや支配とは無関係で対等な隣人として、いろんな人と一緒に暮らせるはずだって、その考えが正しいという事を証明したくてこんな所まで来ていた」
レジェンダリアは今でも“妖精郷”の名に偽りなく、妖精を始めとする獣人、エルフ、吸血鬼などの多種多様な種族が共存する国ではあるが、平穏とは言い難い政治闘争が繰り広げられ、〈マスター〉が増加した今でも〈マスター〉さえ政治の道具の一つとして使われている影の側面を持つ。レジェンダリアの吸血鬼は今でこそ力を失っているが、かつて妖精郷の夜を担うとまで言われた一族がどれほどの支配と構造を生み出しいてたかは想像に難くない。そんな地を去ったフローレイアという人物に何があったかは想像に任せるしかないが、一つ分かるのは、そうして故郷から離れたこの地で、彼女はラディアラに出会ったのだ。そして、如何様にしてかその生を終えた。
ラディアラが日記をアイテムボックスにしまった。彼女の独白はいよいよ佳境に来ている。
「この前、私が言ったこと覚えてる?独りになった私はむしろ出会った人を拒絶するような生き方をしてきた。フローは私に命と愛を与えてくれたのに」
「でも、それは……ラディアラが人とは違う秘密を抱えていたからでしょ?」
「だとしてもフローは最期の時まで対話を望んでいた。そして、きっと私がこんな生き方をしていくのを望んでいなかった」
違う、違う。そんな事は言わないで欲しかった。だって、それじゃあまるで——
「……改めたいの、フローがくれたこの命を。だから——」
「なら一緒に行こう」
見下ろしていたラディアラの隣に立つために立ち上がろうとした。でも片腕だけ、それも自由の効かない手とあってはうまく立ち上がれず、右腕を支えにしてようやく立ち上がれた。
「一緒に行こうよ」
生きてきた事を間違いみたいな言い方はしてほしくなかった。
——それじゃあまるで、私達の出逢いまで間違いだったみたいだ。
彼女が必死に生きてきた事は決して間違いでも、無意味でも、望まれなかった事でもない。
だって、無限の可能性があるこの世界で私とラディアラが出会えたんだから。
「もう、一人で行くとか言わないで。【スプリンガー】のときも、〈マスター〉が来た時も私はそばにいなかった。だけどこれからもそうだなんて、寂しいよ。そんな寂しいこと言わないでよ。私は、あなたがこの世界をもっと見たいって言うなら、その隣にいたいよ」
ラディアラは、生きている。そして私も、この世界に生きている。〈マスター〉にとってこの生命は本当の命ではない。この世界と生命をただの遊戯だと思い込むことだって、偽物だと割り切ることだってできる。でも私はどうしようもなくこの世界に生きている。
「行こうよ、ラディアラ。私の船でどこにでも行こう。私の船で、あなたが見たいこの世界のどこにでも」
身体中の息を全て使うように言った。
ラディアラの顔に浮かんだのは驚きか、それとも……安堵だろうか。
光に照らされる彼女は柔らかく、言った。
「先に言われちゃったわね」
「それじゃあ」
「えぇ」
ラディアラは微笑み、眼差しと笑みを私に向けた。
そこにはもう儚さはなかった。新雪を解かしたような暖かな色だった。
「あなたと、この世界の可能性を見ていきたいの。フォリウム、あなたと一緒に」
◇
朝日が森を照らしている。
その中の開けた場所にある黒い館も照らされていた。
今は誰もいない館。かつて二人の吸血鬼が暮らした館。
たった一人になった吸血鬼が長く、時代が移ろうほど長く過ごした館。
一人だった吸血鬼は一人の〈マスター〉と出会い、その二人がしばし時を同じくした館。
はるか昔からと同じように館は今も、窓に嵌められた硝子で陽光を反射し煌めいていた。
その館のそばに誰かがいたなら、光に照らされて空を去ってゆく帆船が見えただろう。
空を行き、空の向こうに旅立っていく帆船がどこまでも行くのが、きっと見えた。
これにて完結です。
長い間お付き合いいただいて本当にありがとうございました。もし楽しんでいただけたなら、評価などしていっていただければ嬉しいです。感想などもお待ちしています。それでは。