5時になった。起床時刻よりも少し早いが、眠る気にもなれなかったので寝室を出た。洗面台の鏡で自分の顔を見た。ほとんど変化はなかった。たった一晩ごときで変化が現れるはずもなかった。
作業場に父はいなかった。今のこの少し心苦しい心境の中、誰もいないのはありがたかった。しばらくすると父が来たが私はその心境を押し殺すように笑顔で父に接した。
パンを並べるために店の方に出る。母はいなかった。パンを並べ、朝陽が昇るのを待った。しかしあたりは暗いままであった。空には一面に黒い雲が広がっていた。雨が降りそうだった。
朝食の席に着いた。昨日のこともあり何かを口にすることはひどく怖かった。しかし母の料理はおいしかった。おいしいと感じることができた。私は少し自信を取り戻した。
テレビはいつものようについていなかった。その画面は私の少し明るくなった気持ちとは対照的にいつまでも暗いままだった。
開店と同時に雨が降り始めた。いつものように有咲(今日は遅れずにに来た)がうちによっていった。雨が降ると客足は悪くなってしまうのだが朝はそれなりに人が入っていた。だがいつもより人が少ないということは目に見えてわかった。
いつものように昼をすごし夕方になった。レジに立っていると昨日と同じくらいの時間にまたあの男性は店を訪れた。彼は傘を閉じ早々と店内へ入ってきた。しかし私に雨の日にわざわざここに来てくれたことに対する感謝はなかった。私は昨日のこともあり終始彼のことを観察していた。彼はメロンパンをトレーにとるとすぐに私の方のレジに並び会計を済ませ店を出て行った。私は時が自分を置いていったような、ふわふわした気持ちをそのとき常に感じていた。
昨日は少しイレギュラーがあったが今日はいつも通りすごした。電気をつけて階段を上がった。例の扉は依然としてその存在感を示していたが昨日ほど気にすることはなかった。自分の部屋でしばらく過ごしているとノックが聞こえた。
「紗南だけど。入っていい?」
「紗南?いいよ。入って」
紗南は静かに部屋に入り私の前に立った。
「今日なんか変だったよ。なにかあったの?」
突然だった。心臓が跳ね上がった気がした。隠し通しているつもりだった。私は冷静に努めた。
「何が変だった?」
「よく笑ってた」
確かに今日、私は暗い気分を押し殺すために何度か無理やり笑っていた。でもそれはわずかな回数であったと思うし、第一紗南は大学に行っている。私と接する時間はかなり短いはずだ。
「そうかな?私にはわからないや」
私はうそをついた。しかし紗南の澄んだ瞳はうそを見通しているような気がした。
「・・ならいいんだけど。それじゃあおやすみ」
紗南は静かに部屋を出て行った。
紗南と個人的に話すのは久々なような気がした。姉妹といってもかなり年が離れている。だから私は自然と彼女を子ども扱いしていたのかもしれない。彼女は私が思っている以上に大人であった。
そういえばあの事件の後、一番早く立ち直ったのは彼女だっただろうか。
私はベッドに潜った。昨日ほとんど寝てなかったからすぐに寝つけるだろうと思っていた。しかしできなかった。私は私が思っている以上に動揺しているようだった。頭の中では紗南のあの一言が嫌になるほど響く。
『よく笑ってた』
私は今日そんなに笑っていただろうか。