次の日からはまたいつも通りの日々が始まった。しかし多少の変化はあった。
1つはあの男性がほぼ毎日のようにパンを買いに来ることであった。その人がうちのパンを気に入っていることは帰納的に予測できた。しかし私は彼に感謝することがやはりできなかった。また、彼を何度も目撃することにより私は一種の耐性のようなものを獲得していた。それは言い換えれば「慣れ」と呼べるものなのかもしれない。とにかく私は彼が来店したからといってあの事件を思い出すこともなくなったし、暗い気持ちになることもなかった。
もう一つは夜の就寝についてだ。私は初めてあの男性を目撃してから夜に寝れなくなっていた。しかし昼の間に眠気が襲ってくるということはなかった。おそらく、私は夜、眠ることが無意識下においてできているのであった。しかしその寝たという事実を自覚することはできなかった。
昼の間に営まれるいつも通りの生活を送っているときの時間は恐ろしいほどに進むのが早かった。しかし反対に眠れない夜は進むのが遅かった。この事実に当初、私はひどく困惑していた。しかしここでも「慣れ」というものができ、私はそんな生活を受け入れることができていた。
そんな日常の中にその日は突然やってきた。私はいつものようにレジに立っていた。時刻は夕刻。そろそろあの男性が来る時間であるとぼんやりと思っていた。案の定、彼は来店した。トレーにメロンパンとカレーパンを乗せてレジに向かってくる。彼は最近、メロンパン以外にも何かパンを買っていくことが多々あった。
会計をしようとしたとき、私は急に声を聴いた。少し低めの男性の声。父の声ではなかった。声の主は今、会計を待っているあの男性であった。
「すいません…このメロンパンはどなたがお作りになられたのですか?」
私は一瞬動揺した。しかしすぐに切り替えた。
「…うちは家族全員で作ってるんでだれが作ったかはわからないんです。すいません」
「でもうちで出しているメロンパンの味はすべてこの子が決めてるんですよ」
突然父が言葉をはさんだ。
「いつもごひいきにしてもらいありがとうございます。うちの娘のメロンパン気に入っていただけましたか?」
「ちょっと、父さん……」
私は恥じらいを覚えた。
「はい。とても…おいしかったです。毎日のように食べさせていただいてます」
私は胸が軽くなるような気がした。
「そこでですね…勝手ながら何かお礼がしたいと思いまして…。私、隣町で時計屋を経営していたんです。ですから壊れた時計を修理するか何か新しいのを差し上げようかと思っているのですがいかがでしょうか?」
「いえいえ、お礼なんて!こちらからしたいぐらいなんですから」
あまりにも急な提案であり、お礼がしたいと彼は言うのだ。父の反応ももっともだった。
「なら私へのお礼だと思ってきていただけませんか。これならどちらの都合も合わせられるはずです」
どうやら譲る気はないようだ。
「そうですか…。そこまで言うならうかがわせていただきましょう。日時は…定休日なんで明日はどうですか?急すぎますかね?」
「いえいえ。大丈夫ですよ。明日ですね。私は店の中にいると思うので扉を開けてもらえれば気づくと思います」
彼は懐から紙を取り、私に手渡した。
「住所です。明日のご来店楽しみにしております」
「「ありがとうございました」」
彼はそう言い残すとすぐに店を出ていった。閉店準備をしようとした矢先、父が話し出した。
「明日の件だが……沙綾が行ってきてくれないか」
「別にいいけどなんで?」
私だって彼に感謝するべきだとは思っているのだ。してはいないが。
「彼はたぶん沙綾に来てもらいたいと思っていると思うんだ。あのメロンパンは沙綾が作ったといっても過言ではないからね」
どこまでメロンパンに固執するのか。
「私に来てほしいかはわからないけどね…」
「彼、最近表情が柔らかくなっただろ。たぶん何かあったんだと思うんだ」
彼の表情が柔らかくなったなんて少しも感じなかった。初めて来店したあの日と同じ顔だとずっと思っていた。
「………」
いつものようにわからないとは返せなかった。
父は調子の悪い時計はないと言い、母も同じように答えた。私は自分の部屋に時計をおいていなかった。新しいものを譲るとは言われていたがそれはどうも申し訳なかった。最後は紗南に聞いてみることにした。
夜、寝る(寝付けないのだが)前に紗南の部屋をノックした。
「私だけど、入っていい?」
「いいよ。入って」
彼女は机に向かい座っていた。体をこちらに向ける。
「明日、時計屋に行くことになったんだ。修理してほしい時計とかある?」
いろいろかいつまんで話したがうそは言っていない。
「急…だね。………あるにはあるよ」
彼女は部屋を出、隣の部屋へ入った。私はぎょっとした。純の部屋だった。彼女は平然とした顔で腕時計を持ってきた。
「これ…たぶん壊れてると思うから」
「純のだよね。直しちゃっていいの?」
ここで紗南がやっぱりやめるといってくれればどれだけ気が楽だっただろう。
「うん。たぶんお兄ちゃんもそういうと思う」
彼女は自分なりに純と向き合っていた。大人なのだと改めて思った。そしてその事実は、向き合ったとは当然言えないような自分との対比になり私の心をひどく苦しめた。
踵を返して部屋に戻る。寝つけはしないがベッドに入る。時刻は23時。夜はまだあまりにも長い。