次の日は朝、少し遅いくらいに家を出た。隣町へは電車で行けたが私は歩いていくことにした。川沿いの道は私以外にはほとんど人がいなかった。太陽がのんびりとした世界を照らす。
純の時計は7時過ぎぐらいで止まっていた。高校進級の際に父さんが買ったものだった。時計がさしているのはあの事故の起きた時刻だった。あの日以来この時計はずっと止まったままだった。
昼前には隣町に入り、住所を頼りに店の前に着いた。少し古い感じの日当たりのあまりよくない立地だった。店内にはたくさんの時計が並べられていた。入口の上には飾り気のない文字で「時計屋」と書かれていた。しかし、窓ガラスには少し小さな文字で「時計屋 未来」とも書かれていた。未来。あまり聞かないような名ではあったが時計と関連していて少しいい名前だと思った。
「こんにちは」
店の中は薄暗く、少し不気味な雰囲気を漂わせていた。入口のカーペットや店内の壁の様子からかなり古い店であると推測するのは容易であった。
「こんにちは、山吹さん。よくいらしてくださいました」
「修理してほしい時計持ってきました。腕時計ですが大丈夫ですか?」
そう言って私は純の時計を手渡した。彼はしばらくそれを見定めていた。
「はい。大丈夫です。…少しお時間いただきますがよろしいでしょうか」
「私も少し見て回りたいところが近くにあったんで、全然大丈夫です」
「ではそうですね…1時間後ぐらいにまたおいでください」
父の言っていた表情が柔らかくなったというのが少しわかった気がした。気がしただけかもしれないが。
少し見て回りたいところがあったとはさっき言ったがそれはやはり建前で、私は隣町の商店街を彷徨っていた。時間が早すぎるためそこまで活気はなかったが、眺めながら時間をつぶすには十分すぎる店が鮮やかに一本道に並んでいた。
歩いている途中、私はあるにおいをかいだ。いつも嗅いでいるにおい。私を安心させてくれるにおい。臭源など推測するまでもなかった。においの元をたどっていくとそこにはやはりパン屋があった。
そのパン屋に入った。私は並べられているパンをじっくりと眺めていた。パン屋の娘として生まれたからには自家製のパンと他店のパンを比べてしまうのは性なんじゃないだろうか。焼き加減、大きさ、値段そのすべてが比較対象だ。総合的に見てこのパン屋のパンはうちのより全体的に値段は同じぐらいであったが少し大きいと感じた。すべてのパンを観察し、気になっていたパンを買い、店を出た。そのパンは確かにおいしかった。おいしかったが少し甘すぎる気もした。
携帯で時間を確認する。時計屋を出てから1時間半ほど経過していた。あのパン屋にかなりの時間滞在してしまったようだ。迷惑をかけてしまったなと思いつつ私は少し急いで時計屋へ向かった。
時計屋に入るすぐのところで男性はまだ作業をしていた。私は少し安堵し、店に入った。
「すいません…。もう少々お時間をいただいてよろしいでしょうか?自分から時間を指定しておいて本当に申し訳ない」
「いえいえ。気にしないでください。私も少し遅れてしまった身なので」
「そういっていただけると助かります」
そういうと彼はまた作業に戻った。作業台の上にはかなり小さい道具が無数に置いてあった。
さっきと異なり、店の奥が少し良く見えた。日が傾いてきたからだった。私はなんとなく自ら迷い込むようにたくさんの時計が並べられている店の奥に足を進めていた。目覚まし時計から腕時計まで様々な種類の時計が並んでいたが少し古臭いようなものばかりだった。この店がおそらくすでに営業を終了していることは想像に難くなかった。まだ動いている時計もあったがほとんどの時計が様々な時刻を示し止まっていた。
そんな中一つとても立派な時計が壁に掛けられていた。何かの金属で作られた銀色の時計だった。その時計はもし家に置くとしたら飾ると表現した方がよいようなそんなものだった。時計の針は止まっていた。3時半ぐらいだろうか。
「立派な時計でしょう?私の大切な時計なんです」
突然の声掛けにひどく驚いてしまった。振り向くと男性が立っていた。
「はい。立派で、何よりきれいだったんでつい見とれてしまっていました」
「それは関西の方で妻と娘が二人暮らしをしているときに使っていたものだったんです」
言いながら男性は壁にあるスイッチを押した。明かりがつき、たくさんの時計が照らされる。あの銀色の時計は光を反射して輝いて見える。
「ここら辺にある時計はほとんど止まってしまっていて動かせないんですが、それは違うんです。動かそうと思えば動くんですよ」
そう言って男性は時計に触れる。するとすぐに時計は動き出した。秒針が音を立てて時間を刻む。そんな光景を男性はじっと眺めているようであった。
「動かない時計と動かしていない時計はやっぱり大きく違うと思うんです」
突然のセリフに私は生返事しか返せなかった。
店の入り口で時計を受け取る。純の時計は外見に何の変化も見られなかった。
「ここのボタンを押せば動き始めるはずです。時間がかかってしまい申し訳ありませんでした」
「いえいえ。お気になさらないでください。お代はいくらですか?」
「お代なんてとんでもない。先日も申しましたがこれは私からの感謝ですから」
そういわれても困る。私からも何か返さなくてはきまりが悪い。
「…そうですね。ならこんな年寄りの自分語りでも聞いていってはくれませんか。こんな年になっても自分語りはしてみたいものでして…。時間がないのなら本当に構わないんですけれど」
予定は明日の下準備が少しあったが時間が押しているわけではなかった。今帰っても男性は何も気にしないであろうことはなんとなく感じたが、ここで帰ったらあの眠れない日々がまたやってくることは目に見えていた。
「はい。私でよければお聞きしますよ」
「そうですか。ありがとうございます。
何年も前のことなんですが私が時計屋を始めた頃―私がまだ30代だったころの話です」