「この店を構える前から妻とは結婚していました。自分の店を持ちたいと提案した私に妻は快く賛成してくれました。ここは―もうお気づきかもしれませんが―昼間の日当たりが悪くてそれなりに値段も落ち着いていました。ここを見つけたときの興奮は今でも忘れられないくらいのものです。
時計屋なんてものはここら辺にはなかったんです。ありがたいことに店を開いてからすぐにお客さんが足を運んでくれました。新しい時計を買ってくださる方もいたんですが、修理してほしいという仕事の方が多かったんです。まあ、時計なんて探せばどこでも売ってるものですしね。でも、修理依頼を受けていると時計というものは思い入れがあるものなんだなと思わされました。実際、修理費の方が高い場合にも修理を選んだお客さんもいました。
時計の修理にはかなり時間がかかります。2時間程度で終わるものもあれば1日かけても終わらないものまで様々です。私は1日中作業場に座っていました。ですがそんな私に妻は愛想もつかさずに面倒を見てくれました。そしてしばらくして私たちは子どもを授かりました。
出産の場に立ち会いましたがやはり女性というのは強いんだと心の底から思いました。そうしてかわいい女の子が産まれました。自分の娘だということもあったんだとは思いますが本当にかわいかった。
それからも私は自分でいうのもなんですがよく働きました。家族が一人増えたわけですから今まで以上に稼がないといけなかった。でも、赤子の面倒もまた見なければならなかった。妻は気にしなくても構わないとは言いましたがやはりそういうわけにもいかなかった。私は妻の苦労が少しでも減るようにと簡単な家事をこなしていました。
光陰矢の如しとはよく言ったものですが時間は本当にあっという間に過ぎていきました。娘も大きくなり学校に通い始めました。私も徐々に仕事の方に戻っていきました。成長しても娘はやはりかわいかった。
しばらくして娘の大学進学について考えるまでに至りました。娘は芸術方面に興味があるらしく、その方面に進むつもりらしかった。そして関西の方の大学に行きたいと娘は言いました。娘は普段おとなしく自分の意見なんてあまり言いませんでしたから私は娘に関西の方に行かせてやりたかった。妻に相談するとついていくと言い出したのでしばらくの間、娘と妻は関西の方に住むことになりました。その時にあの銀色の時計をプレゼントしたんです。その時、娘に今までありがとうと言われました。その言葉がなにか他意を含んでいたのかもしれなかったのですが、私はその時父親になってよかったと心から思いました」
そこまで言い終わると彼は外を眺めた。私はその視線を追いもせず彼の話を反芻していた。聞いている限り彼と彼の家族はとても幸せそうなものだった。私は幸せな家族でよかったですねという少しの嫌味すら腹の奥に抱え込んで彼が続けるのを待った。
「ところで山吹さん。ちょっと前に関西で起こった地震のことをご存じですか?」
「事実だけなら知ってるんですけど…。詳しくは知らないですね」
何年か前の出来事だった。かなり規模の大きな地震だったと記憶している。死者も何人か出たらしい。
「その地震が起こった時、娘と妻が関西にいたんです。そして二人は死んでしまった。地震で人が死ぬなんて思ってもいませんでした」
―彼もまた私たちと同じように(というのは失礼かもしれないが)家族を失っていたのだ。
「あの銀色の時計は私が地震の後、関西に行ったときに持ち帰ったものなんですが床に落ちた衝撃か何かで止まっていました。
家族を養うために仕事に精進していた自覚はあったんですがそれ以降はますます仕事に励みました。家にいるのは今まで通り一人だけであるはずなのにどうにも落ち着かなかった。寝る間も惜しんで時計の修理に没頭していました。数年そんな生活を続けていました。ですが、客足は悪くなる一方でついには仕事がなくなってしまいました」
彼はまた少し話を止める。私は続きが聞きたかった。
「山吹さん。流れる時は人の心を癒すとは言いますが本当にそうだと思いますか?」
「どう…なんでしょう」
「私は違うと思うんです。時間が経つにつれてその痛みに、その苦しみに慣れてくるだけだと思うんです。癒されてなど、治ってなどいないから何かを機にまたそれに苦しめられる」
彼は続ける。
「仕事がなくなってきて、最後の修理が終わりました。私は最後だなんて思っていなかったから次に取り掛かろうとしたんですが何もなかった。その時、私はどうしようもなく死にたくなったんです。好きだった家族を思い出してしまって。家族を忘れるために今までがむしゃらに仕事をしてきたのではないかとも思いました」
―そうか。もしかしたら私も…
「死にたいと思っても死ぬことなんてできないから、私はそれこそ生きた屍のように人生を浪費していました。そんなときにあなたとあなたの家族が営んでいるパン屋を見つけた」
―あの日だ。私が夜、眠れなくなった日。
「私は甘いものがあまり好きではなかったんです。昔にメロンパンを食べて完食できなかったこともありました。でも、おいしくないと知っていても食べてみたくなることってあると思うんです。或いはパンがあまりにもおいしそうだったからかもしれません。いずれにせよ私はメロンパンを買ってしまったんです。
そのパンは本当においしかった。食べ物にこんな言い方をするのもなんですがその味はやさしかった。そして私は思い出したんです。娘もメロンパンが好きだったことを、メロンパンを食べたきっかけが娘が勧めてきたからだったことを。そしてまた一つ、この店の名前も思い出しました」
―私のメロンパンが人を変えた。それもたぶんいい方に。私はパン屋をやっていてよかったと心の底から思った。
「未来というのは私の娘の名前なんです。娘が生まれてすぐに妻が店の名前がなかったからといって勝手に決めたんです。その時の私は名前なんてどうでもいいと思ってましたし、今思えば娘にとってもひどく迷惑なものです。でも、この店は妻が名前を考えてくれて、そして娘の名前が刻まれている家族そのものだったんです。そして今では私の宝物なんです」
彼が話し終えるのを確認してから視線を挙げる。夕日が差し込み店の奥までよく見える。あの銀色の時計が静かに時を刻んでいた。