ふと、故郷でのことを思い出した。
冬の早朝。
扉を開けると、視界を埋め尽くす純白。
山の冬は寒さも一入で、雪が降るたびに足によく霜焼けができた。
それが嫌で冬はあまり好きではなかったけれど、頬を刺す冷たい空気を吸い、吐く息がその空気に溶けて透明な音を残していくあの瞬間は、静謐な銀世界を独り占めしているような気がして存外に嫌いでもなかった。
柔らかな光を散りばめる陽光に誘われるようにして、真っ白な絨毯へと足を踏み出した。
お下がりの靴が新雪に残していく跡は、本来の自分のものよりも随分と大きくて、それがなんだか不思議で、おかしくて、無意味にたくさん歩いて回った。
そんな風に一人ではしゃぎながら見慣れた山道を進んでいくと、ぽつり、ぽつりと真っ赤な花弁が落ちているのに気付いた。
見上げると自分の背丈よりもずっと高い木々が雪でその肩を重たそうにしながらも、足元に散る花弁と同じ色の花をつけていた。
一面が光り輝く純白の世界で、その鮮やかな紅い花は目がチカチカするほどに目立っていた。
その妖しげな魅力からいつの間にか釘付けになり、意味もなく遥か頭上に咲くその花に手を伸ばした瞬間。
ゴトリ、と。
まるで首を落とされたかのように、1輪の花が丸ごと落ちてきた。
音もなく、予兆もなく。ただ、息絶えるようにその頭を静かにこぼした。
体の内側から血液が抜かれていくような、そんな感覚に陥った。
呼吸の仕方がわからなくなったみたいに息が詰まって、そうしたら突然、自分が踏みつぶしてきた雪原の汚さに気づいた。
純白で、静寂で、柔らかかった世界は振り返ると、乱雑な傷跡のように自分の軌跡が残されていて。もうどうしようもない状態になっていた。
途端、足元に散らばる花の頭すらもそのせいに思えてきて、瞼に焼き付いて離れない紅い色に眩暈がした。
自分は本当に取り返しのつかないことをしてしまったのだと、今更思った。
とにかく。とにかく早く帰ろうと。
痛いほどに冷たくなった足を踏み出そうとして「あれ?」と疑問に思う。
帰るって、どこに?
世界が暗転した。
吐き気。
塞き止める。
「うぷ……ッ!?」
眼球を直接回されたような眩暈と耐えられないほど
ここはどこだ?僕はだれだ?なにが起こっている?
わからない。わからない。わからない。
脳が強制停止させられたように理解不能の4文字を繰り返す。
ダメだ。これはダメだ。
認めてはいけない、理解してはいけないと本能が頭が割れるほどに警鐘を鳴らしている。
それでも愚かな、そして不幸なことに、なけなしの理性が状況理解へと奔走してしまう。
───ここはどこだ?
ここは『迷宮』。怪物の巣窟。世界の大穴。
───僕はだれだ?
ベル・クラネル。ヘスティア・ファミリア所属。レベル1。
───なにが起こっている?
ワカラナイ。
ここがどこで、自分が誰かは理解できても目の前で起きていることだけは受け入れられない。
本当はとっくに見えているはずの『ソレ』を理解できないふりをし続ける。
ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。
ワカラナイ。のに。
消えない。
冷え切った指先の感触が。
腐り切った汚れのようにこびりついた匂いが。
目の前に広がる紅く染まった仲間
「あああああああああああああッッッッ!!!!!!!!!」
どんなに理解を拒絶しようと、それらすべてが事実として存在し続ける。
どれだけワカラナイふりをしようと、脳裏から焼き付いて離れてくれない。
真っ赤な花が堕ちるその情景。
咲き誇ったそれが、ただただ静かに首を落としていく姿
明滅するかのように、真っ赤な花が何個も。
何個も。
何個も。
何個も。
「…ッ!ぁあ……!」
叫びすぎて声にならない声が喉の奥から絞り出される。
喉を直接締め付けられているかのように息ができない。肺が酸素を求めて、息をとにかく吸おうとする。胸が痙攣して上手く呼吸ができない。苦しい。涙が溢れる。力みすぎて震える手でそれを拭う。顔に触れた手にナニかがついている。思わずを目を開く。
赤い。
鉄さびの臭い。
仲間の───
足に力が入らなくなり、ついには立っていることすら儘ならなくなった。四肢を情けなく地面に投げ出し、べちゃりと音を立てて地面に倒れこむ。
赤い花弁が舞い散る。鉄さびの臭い。それに腐臭。
五感で感じるすべてが「認めろ」と声を上げ、叫んでくる。
「お前の目の前の『ソレ』はなんだ」と「お前と目が合っている『ソレ』はなんだ」と。
迷宮の中はどこまでも仄暗く、常人であれば自分の手元すら満足に見ることができない。
けれども恩恵で常人のそれよりはるかに強化された視力は、はっきりと『ソレ』を捉えてしまう。
「……ッ ! …うぁ…おぇ……」
吐き気。
手のひらで口を塞ぐ。
止められない。
嘔吐。
ビチャッビチャと喉の奥から音を立てて吐しゃ物が流れ出る。
息が上手くできない。胸の奥が引くつく。胃液の味で舌が痛む。涙が溢れ続け、絶え間ない吐き気に口から唾液が漏れ続ける。
見てしまった。分かってしまった。認めてしまった。
濡れ羽色の美しかった髪は、赤さびた色に染まって、以前の艶は見る影もない。
───いつの日だったか、その髪の色を褒めたとき、頬を赤くしながら君は「ありがと」とはにかんでいた。
猫人の特徴的な可愛らしい耳は、どうしてか片方しか見当たらない。
───好奇心からつい触れてしまったとき、「もう!」と眉根を寄せながら耳をつままれたことを覚えている。
夕暮れ時の太陽を思わせる、黄金に輝いていた瞳に光はもう宿ってなかった。
───ふと目が合ったとき、先に目を逸らすまで絶対に目を逸らさないその癖が好きだった。
「…っ……ぅあぁぁ…」
仲間が死んだ。
死んだのだ。
疑いようもなく、誰よりも良くしてくれて、優しく笑いかけてくれた仲間が死んでいた。。
彼女だけじゃない。
少し癖は強いけど誰よりも仲間思いだった彼も、めんどくさがり屋だけどその実誰よりも努力家なあの子も、何があっても豪胆に笑い声をあげていたあの人も、みんな死んだ。
いや、殺された。
誰に?
「…ぃやだ……いやだ……」
認めたくない。認めたくない。認めたくない。
認めたくないのに。
手のひらに残る温もりが、残り香が、その色がずっと囁いている。
被害者面するなよ、と。
凄惨な姿の大切な人の瞳が訴えかけてくる。
分かっているんだろ、と。
「…ぁぁぁぁああ」
そう。
僕だ。
僕が殺した。
「いやだああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
ゴトリ、とどこかから聞こえた気がした。
◇◆◇
目が覚める。
ゆっくりと瞼を開くと、視界の端で魔石灯が柔らかい光を灯しているのが見える。
ぼんやりする頭を覚醒させるように、瞬きを数回し、ゆっくりと息を吐く。
「……朝か」
教会下の少し狭い地下室でぽつりと呟く。
悪い夢を見た。
また、『あの日』の記憶だ。
『あの日』以来、それ以外の夢を見たことが無い。それほどまで苛烈に脳裏に焼き付いている最悪の記憶。
そして、僕はそれに
どんなに願ったってあの日をやり直すことなんて出来ない。それこそ願うだけならもう数えきれないほど願った。
だから当然、あの日の出来事は決して消すことのできない僕の罪。
そしその罪人に許される贖罪も与えられる罰も、何一つとして存在していない。
だからせめて、決して忘れることが無いように何百回でも何千回でも思い出していきたい。
わかってる。僕は最低だ。
自分で犯した罪を思い出して、勝手に救われている。
自罰的にもなり切れない、ただの最低なやつだ。
いや、僕は最低なんて表現じゃ足りないくらい最低な人間で、そもそも、こんな風にのうのうと生きていること自体が糾弾されるような人間なのだろうと思う。
僕は決して許しなんて求めない。なにより、僕は僕自身を一切を許すことが出来ていない。
だから、僕は嘘偽りなく願っている。
贖罪と罰を。
ずっとずっといつまでも。
「さて、と…」
これ以上は堂々巡りなため、思考の沼から無理やり引きあがる。
わざとらしく声を出したことで、意識がだんだんとハッキリしていく。
今日の予定や出かけなければならない時間を壁にかかったボロボロの時計(中古市で一番安かった)をぼんやりと見つめる。
いつもよりかなり早い時間に起きたせいで、まだ随分と時間に余裕はあるものの、たまにはゆっくりと朝の時間を過ごすのも悪くないかと思い、少し汗ばんだ体をベッドから起こそうとして、そこで右腕に何かやわらかいものが絡みついていることに気付く。
「またかな…」
この心地の良い温もりに心当たりがあり、僕は思わず苦笑してしまう。
音がなるべく出ないように気を遣いながら、そっと布団をめくる。
予想通り、そこには僕の腕をギュッと抱いて、気持ちよさそうに寝ている美少女がいた。
敬愛する僕の主神であり、世界でたった一人の家族であるヘスティア様。
そんな彼女のいじらしい所作に、庇護欲にも似た愛おしさを感じる。
いっそこのまま二度寝をしてしまおうか、なんて強い誘惑に負けそうになったものの、寝坊した時のことを考えて必死にその欲望を振り払う。
名残惜しさを抱きながらも、神様を起こさないように静かに抜け出そうとする。しかし、思ったよりもガッチリと抱擁され、なかなか動けない。
「神様…これじゃあご飯作れませんよ…」
「……う~ん…もっと食べたいよぅ…」
返事を期待したわけじゃない独り言のような呟きにとんちんかんな寝言が返ってくる。その絶妙に間が抜けたセリフに思わず吹き出してしまう。
そんな僕の笑声に反応して「うーん」と声を上げる神様の姿を見て起こしてしまったかと思い、慌てて口を押えるも、その心配は杞憂だったようで、神様は変わらずすやすやと穏やかな寝息を立てていた。
その見るもの全てを幸せな気持ちにさせるような姿は、自然と僕の笑みを誘う。
「しょうがないなぁ…」
あぁ、本当にこの女神様のことが愛おしい。
無理に解こうと思えば解けるだろう神様の抱擁だったが、そうする気はまったく起きない。
この寝顔を見れば、誰しもが彼女の安眠のために最大限の努力をするだろうと確信を持って思う。
手持ち無沙汰になった僕は、なんとなく神様の頭を優しく撫でた。
別に起きているわけではないだろうけど、神様は「ふへへ」と嬉しそうに、だらしなく頬を緩ませた。
「……神様は今どんな夢を見ていますか。」
ぽつりと、思わず呟く。
あの日以来、僕にとっての夢とは最悪の記憶の再上映だ。
気が狂いそうなほどの罪悪感ともうどうしようも無いのだと言う虚脱感を与えてくる、絶望の形でしかない。
だからこそ、本当に幸せそうに眠る神様の顔を見ていると、どんな夢を見ているのか知りたくなってしまう。
ねぇ、神様。教えてください。と今度は声には出さず、心の中で訪ねる。
貴方は今どんな夢を見ていますか。
貴方が幸せな夢を見てこんな風に笑ってくれているなら、僕もとても嬉しいです。
けれど悪い夢を見たのに、無理をして笑っているなら、僕はとても悲しいです。
僕は、よく鈍いと言われるけれど、神様のことはよく見ています。
だから神様が僕と同じように、僕の幸せを心から喜んでくれていることも、僕の不幸を心から悲しんでくれていることも分かっています。
それでも。
それでも、願ってもいいですか。
いつか僕が終わる日のことを。
そして、神様が見る幸せな景色に僕がいなくても平気な日が来ることを。
「…きっと、これは間違っているんだろうけど。」
それでも僕はずっとずっと望んでいます。
僕がいない世界でも笑っている貴方の姿を。
「…むにゃ…ベルくん……」
突然名前を呼ばれ一瞬ドキリと心臓が跳ねる。けれどすぐにそれが再びの寝言であることに気づく。
敬愛する神様のその間の抜けた感じに、張り詰めていた気持ちが弛緩した。
本当にこの方には敵わないなぁと思うとなんだかおかしくて、そして無性に泣きたくなった。
優しく、できる限り優しく頭を撫で続ける。
あなたの幸せな時間が少しでも長く続きますように、と。
そして、小さく、決して彼女の安眠が遮られることが無いように囁く。
「……ごめんなさい。」
メインでは出さないつもりですがオリキャラが出ます。(事後)
ここからなるべく明るくしていきたいです(は?)