それは、あまりにも突然で、あまりにも鮮烈で、あまりにも残酷な瞬間だった。
これほど『最悪』かつ『意味不明』で『非現実的』な光景は、これまで14年ほど生きてきた中でも初めてであると断言していいだろう。
それほどまでに、目の前の光景は受け入れがたいものであった。
先ほどまで元気良く動いていた人間が、少なからず親交があって、良くしてくれていた人が、その半身を失い痙攣しながら血の沼へと倒れ落ちる。
バチャリ、と人が倒れたにしてはあまりにも軽い音が響いた。
当然だ、それはもう人ではなく、人であったただの何かだ。
それが分かる、分かってしまう、だからこそ、俺の頭の中はこの瞬間一気に真っ白に染め上げられた。
いや、ていうか何、これ? 夢? はは、悪夢にしてはリアリティがありすぎるだろ。
いつもならスムーズに動くはずの脳内が、何も動かずにぼんやりとそんな程度のことを思う。
否、その程度のことを考えるだけで精いっぱいだった。
逃げるとか、戦うとか、助けを呼ぶとか、そういった判断を下すことすらできずに呆然としてしまい、ましてやそうしてしまっていることにすら気付くのが遅れてしまった。
白鳥のおばさんを殺した化け物が、その真っ白な体躯を血で汚しズルリ、と目のような器官をこちらへ向け──そしてガチャリと、白鳥の家の扉が開いた。
先ほど上げた二人の悲鳴が、もしかしたら聞こえていて不審に思ったのかもしれない。白鳥のおばさんが中々戻らないから、心配したのかもしれない。
もしくはそれらのどれでもなく、何か別の用事があったのかもしれない。
それは俺に分からない、だがその行動は、この場合においては最も最悪なタイミングで行われたことだということだけは理解できた。
「──おじさん! 逃げろ!」
次こそは、大きく叫ぶ。
間に合わなかったさっきの後悔を取り返すようにそう言って、しかしそれは意味を為すことは無かった。
こちらを見かけたそれが、グルリと後ろに振り返り──それが口を開くその前に、おじさんはぐちゃりと砕かれた。
鼓動の音が恐ろしい速さで打ち鳴らされていく、背筋を冷や汗が伝って行って、
止まっていた思考が急速に回りだす、だがそれより先に、俺は白鳥の手を掴んでいた。
「白鳥! 行くぞ!」
「へっ、え──?」
無理矢理引っ張る形で背を向けて走り出す。
直後、ガシャン! と音が響いて顔だけを振り返るように見れば白鳥家の家の一部が砕かれていて、小さく舌打ちした後に走る速さを上げた。
「ゆ、ゆたかさ、わ、私、私──」
「白鳥! ダメだ、今は何も考えんな! 今は走ることだけ考えろ、アレのいないところに逃げることだけ考えろ! 良いな!」
「で、ですが、どこに、行くんですか──」
そう言われてから、また頭を回す。
空を見上げれば未だ雨のように降ってくる白の化け物を見ながら、逃げる場所なんてどこにも無いんじゃないか、と嫌な予測が頭を過って言葉を淀む。
「諏訪大社だよ、諏訪大社の、本宮に向かって」
そんな俺の代わりに、とでも言うように水都が小さな声でそう言った。
不安に怯え、うっすらと涙を零し、身体を震わせながら、しかし何か確信があるように彼女は俺たちに言った。
「そこに行けば──ううん、そこに行かないと、全部終わっちゃう。だから、早く」
「……分かった、行くぞ白鳥」
「は、い──」
聞いてるこっちが不安になるくらいか細い声。だが、それでも白鳥がまだ正気を保っていられるのはきっと、この状況があまりにも現実味が無いからであろう。
これが例えば、見知らぬ誰かによって親が刺し殺されていた、だったり、車に撥ね飛ばされただったり、そういうある種この世にありふれている事柄であればどうだったかは分からない。
最悪の一言に尽きるこの現状で、そのことだけが唯一の救いだった。
まだ白鳥は、自分の足で立って歩き、走ることができる。
……それがこの後、どうなるのかはわからないが。所詮今はまだ、現実が追い付いていないだけだ。いつか必ず、それは彼女の肩に手をかける。
少なくともその前には辿り着きたいな、と意思を決めなおして走り出した。
俺だってショックな訳じゃない、だけど今の俺にはきっとこの二人を守り通す役目がある。
それを果たすまでには止まる訳にはいかないのだから。
ゆっくりと歩き帰ってきた道を死にそうな思いで駆け抜ける。
今日何度目の運動だよ、そろそろ過労死でぶっ倒れちゃうんですけど? ほら見てくださいよこの膝、めちゃブルってるからね?
なんて、くそほど下らないことを考える。
そうでもしていないと
一度でも真面目に受け止めてしまえば即座に足は止まってしまうだろう、ただでさえ、今だって死にそうなくらい息切れを起こしてるんだから猶更だ。
ここで止まってしまえば、きっと俺たちは直ぐに死んでしまうだろう。走っていてたとしても、即死くらいは充分あり得るこの状況だ。
だから、せめて止まってはならない。生きようとすることを諦めてはならない。
後どれくらい走れば辿り着くのか、町の被害はどうなっているのか、すぐ近くにやつらはいるか。そして何より、白鳥は近くにいるか、水都を落としてないか。
これだけを考える、一心不乱に、脇目も振らずに駆け抜ける。
呼吸がどんどん下手くそになっていく──関係ない。
次第に足がちゃんと上がらなくなっている──関係ない。
何だか視界がぼやけてきている──関係ない。
もう疲れたという思いが頭過る──関係ない。
怖い、逃げ出したい、楽になりたい──関係ない。
白鳥の家が壊されたということは、すぐ近くにあるウチの家も──関係ない!
母ちゃんも、もしかしたら親父も──関係ない! 関係ない関係ない!
「お、お兄ちゃん……」
思考が止めようにも無いほど加速しているの感じてかぶりを振っていれば、不意に水都の声が耳朶を打つ。
「下ろして、先に行って。このままだと、お兄ちゃん倒れちゃうよ」
それは、普段ひどく臆病な彼女が言うには、あまりにも似合わないセリフだった。
涙を瞳に湛え、指先を震わせながらも、依然として言葉には芯が通っている。
「……馬鹿が」
それを、短い一言で切り捨てた。
──否、それは切り捨てるためだけに吐いた言葉ではない。
その提案に、一瞬、ほんの少しだけでも揺らいでしまった自分があまりにも情けなくて吐いた言葉でもあった。
再度、己に言い聞かせるように、言葉を紡ぐ。
「黙って背負われとけ。つか、諏訪大社に行けって言ったのはお前だろーが、せめて着くまでの責任は持てよな」
責任ってのは大切なものなんだぜ? 具体的に言えば社会に出た時とかめっちゃ問われる。
何せ入社した瞬間から「この会社の社員であることに誇りと責任を持って言動するように」とか言われて謎の責任持たせられちゃうからな。
「いやお兄ちゃん、働いたこと無いじゃん……」
「親父が言ってた」
「お父さん……」
それは、あまりにもこの場に相応しくない、他愛のなさすぎる会話。
緊張身も何もなくて、いつもの空気と変わらない雑談。
短くともそれをすることで落ち着きを取り戻す。全身の疲労は変わらないが、気だけはほんの少しだけ楽になって視界が広がった。
「白鳥は、まだ大丈夫か?」
「私は……はい、まだ。まだノープロブレムです」
その瞳には若干の曇りが見えるが、敢えてスルーする。
いや、おそらく無視しあっている。
「ん、オーケーだ。じゃあちょっとこれからすることに目つむってくれな」
「?」
「よっ、と」
そう言って、落ちてた自転車を拾い上げる。
……落ちていたというのは語弊があるか、正確に言えば、捨て置かれていた自転車。
きっと持ち主はもう死んでるのだろう、それがはっきりと分かるくらい煩雑に道に捨てられていたそれを起こす。
「お兄ちゃん!?」
「よし、白鳥乗れ」
「私ですか!?」
「あったりめーだろお前、もうさっきからフラつきすぎなんだよ」
そう言って自転車を押し付ければ、彼女はゴクリと息をのんだ後にそっと乗り込んだ。
ここで言い争っている時間が一番無駄で、リスクが高いことを彼女も承知しているのだろう。
最初はフラフラとしていたが、安定して走れるようになったのを確認してから大丈夫そうだな、と後ろに水都を乗せてやった。
こうした方が安全かつ安心だ。何せ俺はもういつぶっ倒れるか、自分でも分からないほどなのだから。
普段、運動しておけば良かったなんて、思う日が来るとはな、と薄く笑う。
「ゆたかさん!?」
「お兄ちゃん!?」
「よーし、頼んだぞ」
俺は走るから問題ない、と言い切って白鳥達の少し後ろを走る。
流石に白鳥も止まりはしなかったが、頻繁にこちらを心配するように振り返るが、それにしっしと手を振った。
どちらにせよ白鳥も水都を乗せてる上に疲れててスピードが出てないのだ。
前だけ向いて走れと、口に出さずに目で伝えてやれば、彼女はようやく前へと向き直った。
水都の、不安そうな瞳と目が合うが、大丈夫だ、と言ってやる。
それから、できるだけ白鳥にくっついておけ、と。
何せ街中はもう散々な状態だ。
あの白の化け物があちらこちらにいて、未だ俺たちをターゲットとしてないやつがいないのが、あまりに幸運なことなのだとはっきりわかる。
まぁ、多分俺たちと違って悲鳴やら叫び声を上げながら逃げてる人の方が多いから、その分だけそちらに注目がいっているのだろう。
……だからと言って、俺たちが安全という訳ではないし、もしかすれば声の有無等関係なく、ただやつらの気分によっているだけなのかもしれない。
だから走る、だから急ぐ、だから焦る。
血だまりを飛び越え、人だった何かの横を駆け抜ける。
自分の息遣いがやけに荒く聞こえるが、本宮はもうすぐそこだった。
既に視界には収めることができていて、後数分も走れば中に入れるくらいの距離。
自然、気持ちが楽になっていく。直ぐそこがゴールなのだと分かってしまえば、助かった、と思ってしまうのも無理ないことだった。
──だけれども。
世界はそんなに、甘くできてはいなかった。
基本的に希望は絶たれるものだ。望みは叶わないものだ。思いは届かないものだ。期待は裏切られるものだ。
そんなことくらい分かっていたのに。
それは空から悠然と降りてくる。
見ようによっては笑っているようにすら見えるその顎を重々しく開き、一音も発することなくそれは動いた。
「ゆたかさん! 早く!」
「お兄ちゃん、逃げて!」
その速度は車と同じくらいだろうか、初速でこれだから、これからもっと早くなるであろうということは素人目でも分かった。
素直に、なんで、どうして、と思う。
ここまで来たんだから、もうすぐ、あとちょっとなんだから見逃してくれも良いじゃないかと思う。
だがそれは止まらない。止まる素振りも見せることはない。
このまま進めば、目の前の二人の少女が一瞬にして物言わぬ肉と化すのは明白だった。
ギリリ、と奥歯を噛みしめる。恐怖で身体が竦みそうになっている。
逃げろと本能が叫び散らしている、逃げろと理性が冷静に宥めすかしてくる。
自分だけでも生き残れと、全身が強く訴えかけてきている。
そして、そして、そして、俺は、俺は────
「早く行けぇぇぇぇ!」
全力を以て、飛び出した。