それはたった一枚の、薄い肉壁。
人智の外に位置している化け物を阻むにはあまりにも頼りない弱々しい盾。
──けれども。
それを承知の上で飛び出したその意思は、心は、魂は。
何よりも気高く、尊いものだろう。
雄叫びをあげながら、背中の少女たちを守ろうとしたその姿は、誰よりも大きなものだろう。
そんな彼を見ると同時に、少女の片割れ──白鳥歌野は迷うことなく前を見据えた。
一秒でも早く、本宮へ。
そうすることが何よりも最善の行動であることを、彼女の本能が告げていた。
故に、親友である藤森水都に彼女は叫ぶ。
「みーちゃん! つかまって!」
「で、でも! うたのん、お兄ちゃんが!」
「──っ、良いから、早く!」
これまで出したことの無いような怒声が、歌野の口から飛び出した。
長年の付き合いである水都ですら聞いたことがないほど真に迫った声。
それを聞いて、ようやく水都は抱き着くようにしがみつき、歌野は全力でペタルを踏み込んだ。
瞬間。
硬質なナニカが砕ける音が響いた。
柔らかなナニカが引き裂かれる音が響いた。
見たこともないほどに悍ましい量の真紅の液体が地へとぶちまけられて、その内の少しが水都の腕へと跳ねた。
「──────っ!」
反射的に叫びだしそうだった水都が、己の手で無理矢理抑えて前を見る。
早く、早く、何よりも早く先へ。
されども、化け物は止まらない。
人ひとりの盾では決して止まらない、止まる訳がない。
しかし、それでも。
耳朶に引っかかるような、地を削る音が宙を揺らした。
とっくに取れそうになっている腕が微かに、その進撃へと止めをかけた。
もう死にゆくことが決定付けられた少年の、最後の尽力。
一般的な言葉に当てはめてしまえば、それはきっと、あまりにも無駄な努力だろう。
だが、それでもその最後の一手は、勇猛に灯された炎は、この地獄の中で一掴みの幸運を勝ち取った。
化け物の恐ろしい巨大な顎がガチン! と閉じられる。
二人を乗せた自転車を砕き、背を向けている少女の服を少しだけ噛みちぎり、されどもその肌にはほんの数ミリメートル届かない。
ガシャン! と二人重なり転ぶ。だが、歌野が止まることは無かった。水都が振り向くことは無かった。
二人同時に手を取り合って、ひたすら前へと進み──転がり込むようにして本殿へと入り込んだ。
「みーちゃん、この後は!? 私は、どうすれば良い!?」
「そ、そこに──そこにあるはず! ちょうど、すぐそこに!」
「オーケー!」
言葉と同時に歌野は手元を探る。
外はすっかり暗くなっていて、本殿内にも明かりは無いがしかし、歌野は水都の言葉と、己の勘を頼りに探り──それらしきものを掴んだ。
「これは……鞭?」
思わず、といったように歌野がそう言葉を零す。
酷くボロボロで、所々錆びてすらいる古ぼけた鞭。
軽く振るえばそれだけで千切れてしまいそうだったそれは、しかし歌野が握ったその瞬間バラバラと、殻を脱ぎ去るみたいに『古さ』や『痛み』が消え去った。
まるで鞭そのものに意思があるように、歌野の手元で光り輝いている。
同時、煌々と発せられていたそれらは歌野に吸い込まれるように消え去り──歌野は、理解する。歌野は感じ取る。
己の成すべきことを。己に与えられた使命を。
「みーちゃん、これって……」
不思議そうにそれを見てから歌野は、水都へと言外に問いかける。
"これ"は何かと。
それを、水都は聞き返すまでもなく察した。
それと同時に、"それ"が何であるかも理解した──否。
この化け物と同質、しかし全く別の、敢えて言うのであれば自分たちの味方である"何か"から聞かされた。
それがどういうことなのかを、水都はまだ分かっていない。
だが今はそれでよかった。
迷うことなく、水都は言葉を紡ぐ。
「そ、それは……それは──本殿に秘されていた、古の神器。
大国主の子、
うたのんはたった今、それを扱う勇者に選ばれた。だから、だから、お願い。
私たちを、皆を、助けて──」
「──えぇ、勿論よ!」
歌野はそっと大きく息を吸い込み、少しだけ吐き出してからトン、と地を蹴った。
床を砕くほどの力があったわけではない、けれどもその場に残されたのは暴風だった。
水都の身体が少しだけ煽られ、それでも走り出し──歌野は、一瞬にして化け物の元にまでたどり着いた。
クルリと身体を捻り、腕を振るう。
正確に言えば右手に握られた『藤蔓』を軽く、しかし精緻に振り切った。
鞭が撓り、さながら太刀の如く宙を切る。
鞭の先端が白の化け物の肉へと食い込み──そこから一瞬にして腐敗し朽ち落ちた。
それは、正真正銘、人外の一撃。それを目にしながらも、歌野の瞳に映っているのはたった一人の少年だけだった。
ぐらりと化け物の顎から解放された彼の身体が宙へと投げ出される。そしてそれを、誰よりも早く水都が抱き留めた。
己が血にまみれることもうとわずに、ただ涙を零しながら彼女は受け止める。
同時、彼女の腕にかかる重みは、しかし彼女が想像した以上になかった、なさ過ぎた。
当然のことである。
彼の骨肉は先の一撃によって既にその大部分を失っていた。それこそ、受け止めた彼女の体重を下回ってしまうほどに。
故に、非力な水都の腕ですら、易々と支えられる、支えられてしまう。
「おにい、ちゃん……?」
絞りだされたような苦しい声が、彼の耳朶を微かに揺らす。
反射的に頭を撫でようとして、しかしもう無いことに気づいて彼は小さく笑った。
もう、とうの昔に感覚は無くなっていて本当に笑えているのかは分からなかったけれど、それでも彼は笑おうとした。
最後まで守ろうとした少女の為に、微笑んだ。
そんな彼に水都は何か言おうとしたが、しかし嗚咽と涙で何一つ言葉にすることはできない。
そして、そんな二人ごと支えるように、歌野は抱きしめた。
「……ごめんなさい、ありがとうございます」
たった一言。
歌野はたったの一言だけ口にした。
それは彼女が冷たい人間だから、という訳ではない。逆だ。
むしろこれ以上喋れば、胸の内にいる激情をこらえていられる自信がなかった。
そうなってしまえばきっと、暫く動くことすらままならないだろう。
それが分かっていた、だからこそ歌野はそれだけを口にする。
そのたった一言でしかない言葉に、万感の想いを込めて、歌野は口にする。
「何だ、今の。ちょー、かっけぇじゃん」
そう言った声音は、もしかしたら言葉にはなっていなかったかもしれない。
けれども歌野にははっきりとそう聞こえ、目を見開く。
「私にも……良く、分からないんですよ。でも、どうやらこれは、アレらへの対抗手段みたいで。勇者っていうのに、なったみたいなんです」
「へ、ぇ、そいつぁ、大変だな。社畜って、レベルじゃないくらい、しんどいポジション、じゃん」
「本当ですよ。頼りになる、男の人が一人、支えてくれれば楽、なんですけどね」
「はっ……クラスの友達でも、誘っとけ」
「分かっている癖に、意地悪ばっかり」
「意地悪は、どっちだよ……」
そう言ってから穣は少しだけ黙った。
いや、正確に言えば彼は黙らざるを得なかった。
元よりその身体は半分以上抉り、千切られている。
それこそ、一目で生存は不可能であるということが分かってしまうほどには。
だが、それでも穣はもう一度口を開いた。
正確に声を出せはしてないし、外で聞くにはあまりにもか細かい声だったがそれでも、彼は言葉を紡ぐ。
「ま、良い、や。それより、さ。実は、言っとかないと、いけないこと、あんだよ」
「言いたい、こと……」
歌野は声を震わせながら、それでも水都を抱きしめて、もう少しだけ穣に近寄った。
一音でも聞き逃すことがないように、慎重に耳を立てる。
これが最後の言葉であることを、彼女は察していたからだった。
そしてそれは、同時に水都もそうである。
とめどなく溢れる涙をそのままに、それでも兄の言葉を聞き届けようと必死に嗚咽を抑えていた。
それを見て穣は少しだけ、寂しそうに笑う。
「お前、さ。結構、溜め込むくせして、表に出そう、と、しないじゃん。だから、さ。俺から言っといてやる、よ」
「は、い……」
「逃げても良い。俺が、許す。苦しかった、ら。つら、かったら。こえぇと、思ったら。逃げろ。生きろ。どれだけ、カッコ悪くても、絶対、生きるんだ。誰かの為に、死ぬな」
「そ、れは──」
「逃げる、ことってのは、恥なんかじゃ、ねぇんだ。俺を、見てみろよ。逃げ、に、逃げを、重ねてきた、人間だぜ……? だから、大丈夫、だ。できる範囲だけで、がんばりゃいい。生きてれ、ば、必ず勝てる日が、来る」
「で、ですが」
「あぁ、でも。水都は、うちの、妹だけ、は。連れて行ってやってくれ、な。俺、もう守って、やれねぇからよ。悪い、けど頼んだ」
酷く掠れていたし、ほとんどが喉を空気と血が通るだけのような、そんな声で紡がれたそれは、ある種呪いの言葉ですらあった。
人を助け、人を守り、人の為に戦う力を得た歌野にとってそれは、酷く残酷な呪い。
受け入れるわけにはいかない、しかし受け容れるしかない。矛盾した言葉。
これが他の人間であれば、歌野はこれを聞き届けはしなかっただろう。
高潔な魂を持つ歌野は、神に選ばれるほどの奉仕の心を持った歌野であれば、『それでも』と言ったかもしれない。
だが、しかし。
白鳥歌野という少女は、彼の前では小さな、弱く、幼い女の子でしかない。
そして藤森穣という少年は、彼女にとって兄のようで兄じゃない、友のようで友ではない、しかし何よりも頼りにしていて、数少ない甘えを見せられる人間だった。
歌野の心は揺らぐ、魂が震える。彼が、何を以てこんなことを言っているのかが手に取るように分かってしまうからこそ、歌野は躊躇った。
「おにい、ちゃん……」
不意に、水都が口を開く。
声は涙に揺れて聞けたものではないが、しかし穣は少しだけ首を傾けて水都の方へと向いた。
「あぁ、水都。ごめ、んなぁ。お兄ちゃん、はここま、で、みてー、なんだ」
「お兄ちゃん、私、私──」
「良い、大丈夫、だ。何も、言わなくて、良い。わかってっか、ら……」
「でも、でも……!」
「あ、でもアレだな。これだけ、は言っとく」
「ふぇ……?」
「一生愛してるぜ、マイシスター」
「っ、馬鹿。馬鹿、馬鹿ぁ……!」
そう言って、水都は力いっぱい穣を抱きしめる。
逃がさないとばかりに、死ぬのは許さないとばかりに。
それが分かって、やはり穣は笑う。
彼にはもう、それしかできなかった。
そして、それを見て。見てしまって、歌野は思う。思ってしまう。
これはずるい、と。
そうして彼女はゆっくりと想いを飲み込んで。
穣の願いを、聞き届けた、汲み取った、受け容れた。
押しとどめたはずの雫が一筋、頬を伝って落ちる。
だが、それだけだ。
ぐっと拭って彼女は言う。
叫ぶように、己に言い聞かせるように、そして何より、彼を安心させるために。
「──ゆたかさん」
その力強い言葉に、細めていた目を穣はこじ開ける。
既にその視界は酷くぼやけていたが、それでも不思議と歌野と水都の姿はちゃんと見えるようだった。
薄い金の混じった歌野の瞳と、穣の真っ黒な瞳が重なり合う。
「お任せください、みーちゃんも、私自身のことも。私が守ります、守ってみせます。やく、そ、く……します……!」
言葉の途中で、拭いきったはずの涙が、押しとどめ切ったはずの涙が零れ落ちる。
それでも歌野は言葉を紡ぎ続けた。己の抱いた決意を言葉にして表明してみせた。
それを最後まで耳にして、ようやく少年は息を吐いた。
安堵したように、緊張を解くように、我慢を、やめるように。
「──よかっ……た、悪いな。ありがとう、たの、む」
「──はい!」
穣は笑う。
最後くらいは、笑って死んでやると、そう思って。
今、自分の為に泣いてくれている二人の少女の為を思って。
せめて安らかそうにと、そっと目を閉じて。
そして、だらりと身体から力が抜けた。
それが何を意味するか、二人の少女はもう分かっている。分かることができてしまう。
だからこそ。
数秒の間だけ、そっと目を閉じた。
自分の気持ちを落ち着かせるために、今ここで、崩れる訳にはいかないと整理をつけるために。
溢れ出る悲しみを、拭い捨てて。
彼女たちは、目を開く。前を見る。先を見据える。
「ねぇ、みーちゃん」
「……なに? うたのん」
「私、戦うわ」
「──うん」
「でも、でもね。もし──折れそうになったら、一緒に逃げてくれる?」
「勿論、その時は私が、うたのんの手を引くよ」
「ふふ、流石みーちゃんね!」
「うたのんにばっかり負担賭ける訳にも、いかないしね」
そう言って、二人の少女はそっと手を握り合う。
一人の少年の亡骸の前に誓いを立てるように立ち上がり、それから言った。
『行ってきます』
さらりと風が吹く。
どこからか『おう、行ってこい。なるべく時間をかけて、こっちに来るんだぞ』なんて声が聞こえたような、そんな気がした。
おしまい。
今作品のうたのんとみーちゃんは四国に逃げ延びます。
やったね!生存ルートだ!