まだ考えていたいという方は、この話は飛ばしてください。
――――――こんにちは。ようこそ、寒々しい絶望の日々へ
2016年4月6日 午前11時00分 神奈川県横須賀市 横須賀女子海洋学校 第7女子トイレにて
酷く、気分が悪かった。
「ぅ、げぇっ!う、ぷっ……ひ……ぎぃ……っ!!!」
便器に向かって汚物を吐く。身体を思い切り掻き抱き、肌を爪でひっかく。
傷が増えていく。過っているのを自覚しているから、悪いことをしていると分かっているから、したくないことをしなければならないから。ストレスが溜まっている。過去が明乃を責め立てる。幻聴が聞こえる。幻覚が見える。幻想に逃げたくなる。
人に暴力を振るってはいけません。
人を騙してはいけません。
人を殺してはいけません。
法を犯してはいけません。
他人を尊重しましょう。
人の役に立ちましょう。
そんな当たり前の『正義』を護れないから、明乃は自分が大嫌いだった。
「あ、はぁーっ、ははっ!はぁーっ、はぁーっ!!!」
呼吸が荒くなる。過呼吸になりそうになる。心臓の鼓動が煩くて、身体の中を蛆虫が這いずり回っているように感じる。全てが汚らわしい、凡てが汚らしい、完全な正義を為せない己が憎い。
傷つけなければ救えないなんて、
戦わなければ助けられないなんて、
殺し合わなければ意思疎通をできないなんて、
なんて、
矛盾。背反。牴触。
正義を為すために悪である必要があるならば、その時点で明乃は正義ではない。
「ぇふ……っ、っ――――――それ、でも……行か、ないと」
胃の中のモノを全部吐き出して、口元をトイレットペーパーで拭い、明乃はふらふらと立ち上がった。いつまでもトイレで鬱っているわけにはいかない。全てはまだこれからなのだ。
明乃はあずみの遺志を継いだのだから。
「あずみ、さん……」
暴力は嫌い。
血液は嫌い。
赤色は嫌い。
暗闇は嫌い。
そして、人は大嫌い。
何より自分のことが大嫌い。
この命は、あずみに救われたものだ。
故に、明乃もまた人を救い続けなければならない。あずみの遺志を継いだ者として、誰かを助け続けなければならない。それが存在価値。それが託された者の使命。
人を救えない自分に価値はない、だなんて。
そんな思い込みが間違っていることなんて、明乃自身が一番分かっている癖に。
「っ、酷い……顔だなぁ……」
洗面台の前に立ち、鏡を見る。
憔悴しきった、とても人間とは思えない顔。とてもクラスメイトには見せられない顔を、それでも何とか整える。
先ほどのもえかとの戦いはそれほどまでに明乃を消耗させていた。
だって、本当は戦いたくなんてないのだ。
そもそも、いくつもの宿痾を抱えながら戦うなんて本当は無茶なのだ。
それでも戦うのは、明乃が只管に無能だから。戦うことでしか先に進めないから。
乾いた声で笑う。
そして、呪いの言葉を吐く。
「
ポケットの中から1枚の紙を取り出す。戦闘の途中にもえかから託された、『#8301-56480321-4710』と書かれた紙を。
分かっている。
分かっていた。
明乃はきちんと理解していた。
もえかのメッセージの意味を。
それを分かっているからこそ、もえかも明乃にこの紙を託した。
(――――――知名もえかは)
もえかは明乃の前でこれ見よがしにその手に持った詩集『コブザール』を90度傾けながら制服の中に仕舞った。
あの手の人間は意味のないことを決してしない。だから、もえかの一挙手一投足には必ず意味があるのだ。
なぜ、もえかは詩集『コブザール』を持っていたのか?
なぜ、もえかは詩集『コブザール』を90度右に傾けながら制服の中に仕舞ったのか?
これ見よがしに、
まるで、明乃に見せつけるかのように。
『本当に、驚いたんだよ?まさか、私と同じことを考えてる人がいるなんて』
同じこと?
そこにほんの少しだけ違和感を覚えて、だから明乃は思考を飛躍させた。
知っている。詩集『コブザール』の作者はタラス・シェフチェンコだ。そしてタラス・シェフチェンコは一時期秘密結社『
農奴の解放。つまり、体制に対する反逆。
それを、ウクライナの人間が行った。
ウクライナの人間。
ウクライナ。
それに気づいた瞬間、明乃はウクライナ国旗を脳裏に浮かべていた。
青と黄色の二色で構成されたウクライナ国旗。それはとても、とてもとてもある物に似てはいないだろうか。
(裏切者、なんだよね?)
そして、だとしたら得心がいくのだ。もえかの不自然な態度の全てが。
ウクライナ国旗は右に90度回転させれば国際信号旗Kとほぼ同じ色形になる。
そして、国際信号旗Kの意味は『I wish to communicate with you』だ。これを日本語に訳すと。
(――――――『
だから明乃はこう返したのだ。
『
言うまでもなく、この言葉はチャールズ・チャップリンの名言だ。
さらに、国際信号旗Cの意味は『Yes』だ。
つまり、もえかの『
だからこそもえかは近距離戦闘を明乃に対して仕掛け、明乃に1枚の紙を託した。
『#8301-56480321-4710』と書かれた紙を。
「……………………………」
軽く戦闘して分かったが、もえかの実力はそうとう高い。単純戦闘能力では明乃を遥かに上回っている。だからこそ明乃は怖くてたまらなかった。そんなもえかが初対面の人間に、それも入学式の最中に校長室に侵入していたなんて怪しさ満点の人間に、これほど回りくどいで手段で情報を伝えてくるという事実が恐ろしくてたまらなかった。
監視されているのだろう。
監視の目があるのだろう。
明乃には分からなかったが、もえかはあの時、いやおそらくずっと監視されているのだろう。
それでももえかはどうにか『革命派』を止めたくて、そのために明乃に接触した。
そんな考えはあまりにも飛躍しすぎだろうか?
「………………………命を賭した、メッセージ……か……」
やはり親子ということなのだろうか。
もえかは明乃に多くの手掛かりを残してくれた。
『革命派』のことも、『ダモクレスの剣』についても、宗谷真雪についても。
だからこそ、明乃は決断しなければならなかった。
(この番号に電話を掛ければ、たぶん、色んな謎が解ける……)
『#8301-56480321-4710』。
伝言ダイヤル。
そこにはきっと、もえかからのメッセージがあるはずで。
だが、同時に明乃はこう思うのだ。
こんな都合が良い展開があっていいのか、と。
(だって、もし敵が知名もえかや私の想像以上の存在だったら?)
もえかがあれほどまでに警戒している相手。つまり、その仮想敵はもえかをも上回る力を持っているということだ。ひょっとしたら、もえかの策略など全て見透かされているのかもしれない。
だとしたら、電話を掛けるという判断は正しいのか?
罠の可能性はないか?
(……監視の目は感じないんだけどな)
このトイレに監視の目はないように思う。盗聴器も監視カメラも仕掛けられていないと思う。けれど、それを言えばもえかと戦った時だってそうなのだ。なのに、もえかは監視がある前提で動いていたように思える。
何かあるのかもしれない。明乃の知らない、知ることのできない何か、が。
「………………………………………」
だとしたらきっと、正しい選択は。
(――――――初対面の私を『信用』してくれた相手の努力の全てを)
だから明乃は、もえかから渡された
「それでも裏切る、か」
もはや原型をとどめないほどにビリビリに破られた紙をそのまま洗面台の排水溝に流す。これで、これ以上明乃以外の人間がこの番号を知ることは無くなった。
「でも、私は謝らないよ。知名もえか。だって、」
冷酷で冷徹。
残酷で酷薄。
非情で強情。
正しくない。誤っている。違っている。
でも、仕方がないじゃないか。誰かを信じるって言うのは、そんな簡単なことじゃないんだから。
「私なんかを信じた、あなたが悪いんだから」
もえかは明乃を信じた。
明乃はもえかを信じ切れなかった。
だから結局これは、それだけのお話だ。
今話のサブタイトル元ネタ解説!
――――――こんにちは。ようこそ、寒々しい絶望の日々へ
東出祐一郎のライトノベル、『ケモノガリ』第1巻カラーページより抜粋。
この無理やりな暗号、気づけた人間がいたら天才中の天才です。
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素晴らしい!
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特にない。