中華料理店から小太りのおじさんが歩道に出てきて、慌てた様子で私たちに話しかける。白髪交じりの頭髪は、五十歳くらいだろうか。飲食店にふさわしく、短く刈り込まれ清潔感がある。おじさんは私たちに近づく為に一度跨いだ看板を、店の戸口を半分塞ぐように立てかけ、またこちらに向き直ってやってきた。怪我はないかと心配そうに訊いてくる様は真剣そのもの。お店の看板が落ちたのは管理不行き届きとはいえおじさんにとっても不測の事態だろうに、他人である私たちのことを心から心配してくれているのが分かった。
「大丈夫ですよ。斜めになったのに気づいて、慌てて避けたんです。」
「ならいいけど・・・とりあえず、大事にならなくて本当によかった。」
安心したように言うおじさん。私たちが授業があると言って去ろうとすると、今は気が動転しているだろう何かあったら連絡するようにとメモで携帯の電話番号とサインまでくれた。法律に則った大人の対応だ。責任逃れしようとする人間だってたくさんいるのを私は知っている。誠意には相応の誠意を返したい。もし何かあればと私も携帯番号を渡し、男の子と二人その場を去った。
キャンパスまでの間、私たちはしばらく無言で歩いていた。彼が何か訊きたがっているのがわかった。どう訊いたものか決めかねているのだろう。何度も口を開いてその気配を見せるが、タイミングも難しいらしく飲み込むようにまた閉じる。まあ特殊な出会いだものね。でもどうせなら口をぱくぱくさせる度に顔の造形が崩れる挙動不審の男の子よりは、無口でもしかめっ面でも普通の表情をした男の子の隣を歩きたい。私は彼に提案することにした。
「歩きながらもなんですから、もし時間があったら学食で話しません?そこではっきりさせましょう。」
安心したのか、彼からそわそわした空気が消えた。よかった。本当は見た目よりも、私の一番苦手なシチュエーションに落ち着かなかったんだ。彼が空気の足りない魚みたいじゃなくなってくれて、とりあえず私も一安心だ。
学生食堂は校門を通ってまっすぐ二番目、左手にある建物の中にある。食堂と名前は付いているが、学生は食事を注文しなくても座席を利用して良いことになっているので、十時過ぎのこの時間にも、人がまばらに座っている。
私たちは一番奥の、一番人が少ないスペースに荷物を置いた。
「君、何か食べる?えっと・・・。」
「倉橋です。君は?」
「あ、渡辺清三郎です。・・・えっと、それで・・・。」
自己紹介くらい歩きながらしてれば良かったかな。
「私は後で珈琲を買いに行くので、渡辺君何か買うならどうぞ。」
「あ、じゃあ。」
素直に券売機に歩いていく。男の子ってこういう瞬間可愛いな。なんというか、本当にご飯を喜んでるのが分かる。
と思って眺めていたら、券売機に到達する前に引き返してきた。
「財布忘れちゃった・・・。」
声音と表情から漂う絶望感に、私は思わず手にしていた財布から千円札を取り出すのだった。