お腹を空かせ財布を忘れた可愛そうな渡辺君に、千円札をずいと差し出す。彼の目が秒速三回くらいで私と私の指先を往復している。またか。優柔不断だな。
「お腹空かせたままじゃ後味悪いし、受け取りなよ。巻き込んじゃったお詫びと思って。」
「いや、だけど。」
「現金に抵抗があるなら私が買ってきて渡すし、そしてその方が私のこと動かしてて何の遠慮かって感じだし、貸し借りが気になるなら私はあげる気でいるし貸しにするつもりもないのだから君のはすべて杞憂なの、さっさと腹を括ってさっさと買ってこい!」
「はいはいただいま。」
渡辺君は最後は私に被せるように返事し、急ぎ足で券売機に向かった。彼が券売機の陰に隠れたのを見届けて、視線を手元に戻す。
渡辺清三郎君か。五月という今の時期と彼の言動を考える。高校生と大学生の大きな違いの一つは、自由が格段に増えること。時間もそうだし、金銭面においてもそうだ。大学に入って一年もすれば、お金のやりとりくらい慣れる。私も最初は遠慮ばかりしていたが、もっとドライでいいのだ。垢抜けたファッションをしていても私には分かる。渡辺君はまだ初々しい一年生だ。
「あの、倉橋さん、ありがとうございました。」
開店したばかりの食堂に食事を求める人は少なく、渡辺君はすぐに戻ってきた。トレイをテーブルに乗せ、自分も席に着く。トレイにはほかほかの牛丼とサービスの味噌汁、水の入ったグラスが二つ乗っている。味噌汁が少しこぼれているな、と見ていると、渡辺君はグラスを一つとってはい、と私に差し出した。
「倉橋さんどうぞ。」
「ありがとう。」
普通に返事したが、私は静かに驚いていた。グラスと共に紙ナプキンが手渡されたからだ。私の所属するサークルの男性誰一人、もしかすると女性ですら発揮するか分からない気遣いを、この男、あざとさも無く当然の様に行った。
「それとこれお釣りです。」
「細かいからいらない。持ってて。私珈琲買ってくる。」
「あ、じゃあ買ってきますよ。何がいいですか。」
「いいよ食べてて。食べ終わらないと話しにくいし。」
購買に向かいながらやりとりを反芻する。買ってきます、ときた。なんてこった。大学一年生でこの甲斐性。私渡辺君のファン第一号になりたい。もう居るかな?顔だけでも可愛いしな・・・。
珈琲を買って席に戻ると、渡辺君はまだ箸をつけていなかった。
「食べてて良かったのに。」
椅子を引きながら言うと、彼は当然の様に返す。
「それも落ち着かないですし、まあいいじゃないですか。」
私が席に着いてカップを持つと同時に、味噌汁椀を口に運ぶ。話は食べ終えてからだなと思いながら渡辺君の所作をぼんやり眺めていた私は、珈琲を口に含む前に固まってしまった。
ふーふーしてる。
味噌汁に息を吹きかけ、恐る恐るといった様子ですする。適温だったらしい。安心して、今度は箸を動かし具を少し口に含んで租借する。余程空腹だったのだろう。ほとんど目を閉じる様な表情をして、凄く幸せそうだ。気づけば私は珈琲を飲むのも忘れ牛丼を食べる渡辺君を凝視していた。