「即位礼への協力ったって……こんなの、魔法使いの出る幕なんてほとんどないじゃないですか」
ビルの屋上から身を乗り出して、秋津・
令和元年十月二十二日、首都東京は天皇の即位を内外にしろしめし、祝賀するためにその機能を半ば停止させていた。降って湧いた休日を手に入れられたものは、パレードを何らかの方法で見るなり、あるいはめいめいの興味のままに休みを謳歌していることだろう。だが、ミズホはそうではない類の人間だった。なぜならば──
「そうぼやくな、新人。日本じゃあな、闇祓いは世間様の休みにはたいてい休めないもんなんだよ」
と、後輩の愚痴に対して、背後で煙草の煙とともに答えが吐き出された。
煙草の吸い殻を足元に散らばらせながら、屋上のフェンスに背を預けているのは敷島
つまり、彼らは魔法使いであり、その中でも日本魔法省闇祓部に属する捜査官たちであるのだった。
とはいえ、ミズホもエイシュウも今現在、何らかの事件の捜査のためにその場にいるわけではない。さきほどミズホが言ったとおり即位礼正殿の儀への協力のため、もう少し具体的に言えばパレードの警備のために駆り出されているのだった。いわゆる「マグル」の社会では、魔法の存在は一切知られていない。もしも魔法使いの中に何らかの害意を抱いたものがあったとしても、マグルの警官だけでは絶対に対処がしきれないということだ。ゆえに、現代の国家は大抵の場合、一大行事に際しては秘密裏にマグルの政府と魔法界とが協力して警備体制を構築するものだった。
だが、それにしてはあまりにも、ミズホたちは無聊をかこちすぎているように見受けられる。姿現しを使える成人魔法使いにとっては距離はそう問題ではないと言っても、パレードを遥かに見下ろす高層ビルの屋上というのはいくらなんでも異常を検知するには遠すぎる。本格的に魔法使いを警備体制に組み込むとすれば、本職の警官や群衆に紛れさせてレードの沿道に配置して然るべきだろう。だが、そうなってはいないのだ。
ビルの縁、エイシュウがもたれかかるフェンスの外側のほんの数十センチの足場を、ミズホは飛び跳ねるように移動していく。魔法使いはたいていマグルに比べて高所への恐怖心が薄いが、それにしてもミズホの行動はずいぶんと大胆だ。左手にいつの間にか杖を掲げ、何かしらの魔法を行使しながらの行動であるところを見るに、車列を待つ群衆の中から何かを探しているものらしい。実を言えば、その「何か」こそが彼らが屋上で
「あいつとあいつ、それからあっちの警官もそう。それからあのへんにも一人、二人──うっわ、すっごい。ここから見える限りで少なくとも五十人ぐらいは居ますよ、陰陽師連中。全員、装備にあらゆる呪文だとか呪いだとかへの対抗呪文を重層的に掛けてるから、逆に丸わかりになっちゃってる」
やがて、目的を果たしたらしいミズホは、見つけ出した数を意味もなく報告する形で不満を垂れ流し始めた。そう、ミズホが探しだしていたものとは、警官や群衆に紛れた彼らの同業者であったのだ。だが、陰陽師、などという役職は一体何のことであるだろうか? 勿論、魔法界には存在しないものだ。
がしゃり、と金属のぶつかり合う音が鳴り響いた。それまで背を向けていたエイシュウがはじめて後輩の方を向き、フェンスを手で掴んだのだ。
「秋津、お前陰陽師に呪文をかけたのか? あちらさんのは対抗呪文じゃない、呪い返しだぞ。こっちで言う
後輩の身に何らかの呪文の効果が跳ね返ってくることを危惧するエイシュウに対し、ミズホは杖を掲げたまま肩をすくめてみせた。
「知ってますよ、だから使ったのは全部美顔のおまじないです。一般人に当たるかもしれないのに、変な呪文なんて使いませんよ。だからほら、今すごくお肌の調子が良くなってますよあたし」
エイシュウの口から、煙が大きく吐き出された。ミズホが煙の向こうに目を凝らしたならば、彼女の先輩が心底呆れた表情を浮かべていたことが分かっただろう。
「お前なあ。あとで問題になっても知らんぞ」
「こっちの業務の範囲内だって説明できますよ、念のため陰陽師以外に、不必要に防御呪文を使っている魔法使いを洗い出そうとしたものだ、って」
「いや、だからなあ、そもそもそんなことくらい……」
「そんなことくらい、我々魔法使いがやらずとも、伝統と格式ある陰陽師さまがたがとっくの昔にやってくださっている、ですか? ええ、分かってますよ。なにしろ、日本国内じゃあ向こうのほうが「魔法族」を束ねる事に関しちゃ本家大本、こっちは明治以降のぽっと出ですからねえ。任されることといったらそこらのビルの上に
ビルの縁の角の角に右足のつま先だけを預け、両手を広げ、バレリーナのような具合でバランスを取りながら、ミズホが半ばやけになったようにまくし立てた。日本における闇払い、ひいては魔法界というのは、残念ながらそのような存在であるのだった。
「だいたい、未だに魔法省管轄の魔法教育機関への就学率が三割程度に留まってるのがおかしいんです。そりゃ、英国だって全員が全員正規教育を受けろ、なんて無茶は言いませんけど、でもだいたいの魔法族の子供はホグワーツに来るわけですよ。なのに、日本じゃあ大抵の魔法族が基本教育はマグルのものを受けて、魔法は家庭教育だより、ちょっと本格的に学ぶにしても高校卒業後の陰陽寮入りが優勢と来てる。こんなだから魔法族の魔法離れ、とか魔法預言者新聞に書かれるんですよ」
「そりゃあ、お前、仕方ねえよ。魔法教育を受けたって、魔法関連の仕事に就けなきゃ小学校から先学歴のない日本人の一丁上がりとなるんだから、そりゃあ進学率も下がるってもんだろう。対して向こうは日本国宮内省直轄の陰陽寮で、高校卒業後からでも受け入れてくれて卒業後には陰陽師のポストが約束されるとくりゃあ、向こうさんのほうが進学先としても就職先としても魅力的にすぎるってもんだ」
長々と垂れ流される愚痴を聞かされたエイシュウは、肩をすくめて、大方の日本魔法族が返すであろう答えを口にしてみせた。それから、ふと何かに気づいたように口元に皮肉な笑みを浮かべ、
「ホグワーツに
と、新人闇祓いへ向け、直球の皮肉を投げつけた。散々日本魔法族の正規魔法教育機関への進学率の低さを嘆いている秋津・ミズホ・ローレンス当人が、日本の魔法学校である
とっさには言い返す言葉が思いつかなかったらしい。ミズホは数度瞬きをして、視線をあたりに彷徨わせた。姿勢はさきほどのまま、つまりはビルの角につま先立ちをした状態でのことである。
「あっ」
そうして何かに気づいたように声を上げた途端、ミズホの体がぐらりと揺れ、屋上の向こうへと大きくかしいでいった。バランスを崩したのだ。半ば顔を背けつつミズホと応対していたエイシュウが即座に杖を振り、無言のままに
エイシュウは一旦安堵のため息を付いたあと、ふと眉間にシワを寄せてあたりを見回しながら、スマートフォンを取り出して操作をし始めた。
「──ああクソ、ここらは姿あらわし禁止区域になってるってのに、面倒なことしやがって──」
闇祓いにせよ陰陽師にせよ、魔法族が警備に関わっている以上当たり前のことだが、この屋上もパレードの沿道も一時的に姿あらわしが封印されているはずなのだ。で、あれば、ミズホは一旦離れた場所に姿をあらわし、そこから物理的に移動して再びここに戻ってくるしかなくなってしまう。
行方をくらました秋津・ミズホ・ローレンスの電話番号をエイシュウがタップする直前、しかし、その指は静止した。ミズホに連絡するのをやめたわけではない。スマートフォンを持つ手の、その向こうに白く輝く牝獅子が現れ、
「下に来てください、いまさっき、群衆の中に姿あらわしをしたやつらがいたんです!」
と、告げたのだ。声は他でもない、ミズホのものだ。あまりお目にかかることはない存在だが、そのエネルギー体が何であるかくらい、闇祓いであればひと目で分かる。
エイシュウは、フェンスを一足で飛び越えるとビルの下の雑踏を眺め渡した。植え込みの陰に作られた警官用の指揮所裏、ちょうど沿道の観客からは死角になる場所から、いささか小柄な機動隊員がビルの上に向けて手を降っている。ミズホがそこに何の外傷もなく建っている理由などひとつしかない、飛び降りながら姿をくらまし、ビルの真下で姿をあらわしたのだ。
起きている現象を把握した直後、彼もためらうことなくビルから飛び降りつつ姿をくらまし、ミズホのすぐとなりに姿をあらわした。姿くらまし特有の破裂音も、何万の群衆の立てる話し声のなかにあってはないのと同じようなものだ。
「敷島さん、魔法族はふたり、一人は紋付羽織に袴姿で、あとの一人は紺色のパーカーに──」
「頭の浮かれた魔法使いどもはあとだ、先にこのあたりを姿あらわし禁止にする。姿あらわしが出来なけりゃあ、万一害意があったとしても物理的に近づくほかなくなるからな。お前、無線持ってるな。状況をすぐに報告、闇祓い部全員で呪文をかけるぞ」
指示を受け、ミズホはすぐさま無線に向けて状況を報告し始めた。紋付羽織に袴姿などといえば、普段ならば探そうとせずとも目に入ってくるほどの目立ちようだろう。だが、なにしろ、今は即位を祝賀するパレードがはじまろうとしているときだ。パレードを待つ観客の中には明らかに何らかの政治団体らしき一団も居て、そろって羽織袴を着込んでいるのだ。そうでなくとも完全に群衆の中に混じってしまっていては、これだけの大群衆となれば、いくら目立つ服装と言っても探し出すのは困難だったろう。
一分も経たないうちに、テントの影には次々と破裂音が鳴り響き、闇祓いたちが集結し始めた。
「いま確認してきた、パレードの沿道全体が姿あらわし放題だぜ」
「と、なると、何回かに分けて呪文をかける必要があるな」
闇祓いたちがパレードの予定コースの地図を広げ、各員の配置について手早く打ち合わせをしていく少し向こうでは、どこかの局のアナウンサーが、パレードの予定時刻まであと二十分を切ったことを嬉しそうに告げている。
「では、第一班第二班はパレード進行方向右手、第三班第四班は進行方向左手で、都度無線で連絡を取り合いつつ移動呪文の封印を掛けていくということで問題ないな」
一秒の時間をも惜しむなか、倉田闇祓部長がそう告げて闇祓いたちが散開しようとした、その時のことだった。
「おい、貴様ら、なぜこんなところにいる」
礼服姿の警官が、苛立たしげな声を上げ、闇祓いたちに近づいてきた。事情を知らされていない警官が闇祓いの動向を不審がったのか、と数人の闇祓いが杖に手をかけようとしたが、部長がそれを制した。
「やあ、賀茂
つまりは、現れたのは警官ではなく、警官に扮した陰陽師のひとりであったのだ。それも、陰陽頭といえば陰陽寮のトップ、陰陽師を統括する立場のものだ。日本国のいち省庁に組み込まれているから簡単には比較できないが、あえて陰陽寮出身者全体を魔法界に比するなら、魔法界で言えば魔法大臣と闇祓部長と魔法教育機関の校長を兼ねているような立場と言えるだろう。
「姿あらわし? ああ、隠形のようなあれか。馬鹿な、すでに昨晩より一帯の八門を塞ぎ九星を退け八神に祈祷し、付近へ至る隠された道は惑わせている。もし不具合があったとしても我らの敷いた奇門遁甲の陣を乱されては困る、何しろ奇門遁甲は複雑な術、西洋由来の魔法なぞという乱暴な術では修復など──」
賀茂保奈は陰陽師式の、正確に言えば古代中国の卜占術に由来する一種の込み入った魔法についての説明を長々と述べた後、魔法への文句を並べ立て始めようとした。その言葉が唐突に途切れることとなったのは、別段彼女の気が変わったというわけではない。陰陽頭の前に、何かの弾けるような音とともに影が落ちたのだ。音は、何であるかなど考えるまでもない。姿あらわしに伴うあの独特の音だ。では、誰がそこに姿をあらわしたのかと言えば──
「だぁから! こうやって出来てるでしょうが! そっちの魔法の仕組みは知らないけど、とにかく失敗してんのよ姿あらわしを防ぐ魔法が!」
加茂のほぼ頭上にあらわれた秋津・ミズホ・ローレンスは、位置エネルギーと体重を運動エネルギーに変えながら、陰陽頭にむかって噛み付くように怒鳴り散らした。つまり、陰陽頭の上に落下していった、ということだ。後ろから歓声が上がったのは、先輩闇祓いたちが怖いもの知らずの新人にむけて無責任な喝采を送ったことによるものだ。
「多分こっちの呪文のほうが早いから、こっちで対処させてもらうわ。パレードまで時間がないんでしょ」
落下の勢いで下敷きにした賀茂保奈に、額がぶつかるというほどに顔を近づけながらそう言い放つと、ミズホは決然と立ち上がった。かつてない偉業を達成した新人が合流したところで闇祓いたちはすぐさま姿をくらまし、先だって部長に命じられた通りに呪文を行使しはじめた。
あとに残されたのは、アスファルトの上に仰向けに倒れたままの賀茂陰陽頭と、彼女を助け起こすべく手を差し出した倉田闇祓部長の二人だけである。
「これは、部下がたいへんな失礼をいたしました。謝罪につきましては後ほど、パレードの警備体制についての報告とともに書面の形で提出させていただきます」
闇祓部長は、手を差し伸べつつ形式的な謝罪を述べた。ただし、先程の部下の蛮行を途中で止めようとはせず、今も口の端にかすかな笑みを浮かべているところからして、心から申し訳ないなど思っていないことは明らかだ。
陰陽頭も、その程度のことは感じ取ったらしい。彼女は差し伸べられた手を払い、自ら身を起こした。
「報告のみで結構よ、倉田
そうして、口にした言葉の内容に関わりなく、この上なく不本意である、という感情を滲み出させた声色で賀茂保奈が礼を言った。彼女が部下たちに無線で状況を伝え、あとは闇祓いたちが降って湧いた大仕事をやり遂げれば恙無くパレードは遂行される、はずだった。
「OK、姿くらましも姿あらわしも不可能だわ。これでパレード沿道全域が外と切り離された」
パレードの終着地点、赤坂御所前で、ミズホがそう声を上げた。周囲に居る一班、二班の闇祓いたちも同様に姿くらましが発動しないことを確認し、安堵の声を上げている。
近くの観客が持つスマートフォンからは、パレードの開始予定時刻まであと五分であることを告げるアナウンサーの声が漏れ聞こえている。時刻は午後三時二十五分、三時半のパレード開始予定時刻にはギリギリ間に合ったと言えるだろう。闇祓いの後を追うように奇門遁甲の陣の修復にあたっていた陰陽師たちによって隠形術も不能になっていることが確認され、あとはパレードの開始を待つだけかと思われた。そんな時のことだ。
『こちら陰陽第三機動部隊、第3地区にて呪具無許可使用者を発見、確保』
魔法族たちの持つ無線からそんな声が漏れ出し、陰陽師と闇祓いはともに行動を止め、雑音混じりの音に耳を傾け始めた。無線のチャンネルは魔法族の移動系呪文・呪術が封じられていることを確認する際に合わせているため、警備に関わる魔法族ならば全員が同じ連絡を耳にしていることになる。
『ただし呪具使用者は陰陽道、魔法に通ずるものにあらず。極めて強い呪法にて自我を乗っ取られていた、一般人の模様。被害者は羽織袴姿、服装からしてパレードの見物人に呪具が違法に付与されたものと見られる。繰り返す──』
「あっ」
と声を上げたのは、ミズホだった。無線から伝えられるその服装はまさに、姿あらわしする瞬間を見かけた二人のうちの片方にほかならなかった。だが、その正体がマグルであり、呪具──魔法界で言うところの、呪いをかけられた魔法製品によって自我を支配されていた、というのは一体どういう事であるのか?
「──もうひとりが、魔法族だったんだ。魔法族が付き添えば、マグルも姿あらわしに巻き込むことが出来る」
どうやら、彼女の先輩も同じ思考に至っていたものらしい。敷島エイシュウが、ミズホよりも一歩早くその答えを口にした。だが、それだけではまだ、事態の全容には至っていない。
「だが、なぜわざわざマグルを巻き込んで姿あらわしをした?」
次にエイシュウが口にした疑問こそが、問題の核心であった。マグルを操って何らかのテロに及ぶというなら、姿あらわしなどせずに現場で誰かに首飾りだけ渡せばいい。逆に、姿あらわしで何らかのテロを行うならば、事前に現場に現れるのではなくまさにパレードが始まったその時に行うほうがよほど賢いやり方だ。
「このやり方じゃあ、まるで俺たちに姿あらわしをわざわざ封印させたようなものじゃないか。だが、そんなことをして何になる? 巻き込むマグルにしても、なぜそんなに目立つ服装のものを選んだ? まるで、おとりのようだが────」
そこまで口にしたところで、はたとエイシュウは目を見開いた。ついに彼の思考は、真相へと至ったのだ。
だが、今度はミズホのほうが、一歩早かった。真相に至るのが、ではない。行動を開始するのが、だ。
「
守護霊を呼び寄せつつマグルの景観に向けて呪文を撃つという暴挙に及びながら、ミズホは白バイを奪取せしめ、即座にパレードのためにガラガラになった車道を逆行しはじめた。ただし、呪文が警官に対してしっかりと効果を表したかどうかは定かではない。
「うわーっ!? 何やってんだあいつ!?」
あとに残されたエイシュウは、思わずそんな悲鳴を上げていた。なにしろ傍目には、機動隊員が白バイ隊員を蹴り倒してバイクを奪取していった、としか思われない光景である。観客たちの間からはざわめきが沸き起こり、少なくないマグルたちがすぐさまスマートフォンを確認しだす。このとき各種SNSをチェックしていたならば、今しがた目の前で繰り広げられた光景を実況する投稿が無数に見受けられただろう。
エイシュウは、もう知らない、と言うように頭を振ると、肩の無線を無造作に掴み取った。無線の先に、彼が至った結論を伝えるためだ。
「闇祓い部捜査第一課第一班敷島より通達! 一連の騒ぎは警備担当者を移動呪文封印区画に閉じ込めるための揺動だ! 皇居に近いものはすぐに皇居へ向かえ! 敵の本命は皇居だ!」
無線にむけて必要な言葉を叫び終えるや、エイシュウは跳躍し、そして、観客たちの頭上を飛び越えて車道へと降り立った。明らかに人間の挙動としては常人の粋を超えている。だが、白バイを奪取した後輩に比べれば多少マシであったのは、車道に現れた彼の姿は、
「あれっ、何あれ、馬?」
「パレードに使うやつが逃げ出したのかな」
と観客が述べたとおり、どこからどう見ても黒い馬に他ならなかったからだ。
獅子の形の守護霊に先導されるように走る白バイの横に、黒馬が追いつくまではほんの僅かな時間だった。白バイの速度も明らかに法定速度どころか人の作った機械が出しうる速度を超えているが、黒馬の速度も自然そのままの馬が出しうる速度を遥かに超えている。パレードが三十分以上をかけてゆっくりと進んでいくはずの道のりを闇祓いたちは数分で駆け抜け、眼鏡橋を走り抜け、皇居正門をくぐり──
「あっやばいこれ止まるときのこと考えてなかった、ごめん避けて避けてマジで避けて!」
そして、正門を抜けた直後に屯していた無数の黒い影を前にしても止まることなど出来るはずもなく、二人して影に向けて突っ込むこととなったのだった。
結論から言えば、その黒い影とは
だが、それも長い時間ではなかった。エイシュウが黒馬から人に?化し、白バイから跳ね飛ばされたミズホがその場で姿くらましと姿あらわしをして衝撃を受け流すや、吸魂鬼たちも再び陽炎のように行動を開始する。どうやら今の突撃によって仲間を大量に消し去っていった闖入者が、吸魂鬼の最も優先すべき攻撃対象に選ばれたものらしい。黒く冷たい影たちは、半ば魂を吸われかけていた陰陽師たちを無視して新人闇祓いを取り囲んでいった。
「お前、あれが人だったらとんでもないことになってたぞ。後先を考えて行動しろよ、英国帰り」
「敷島さんも、散々蹄で吸魂鬼を蹴散らしてたでしょう。それより守護霊を出したらどうです──」
目の前に迫る吸魂鬼に対し、ふたりの闇祓いが再び守護霊を放とうとし、まだ戦意のある陰陽師たちもめいめいの取りうる術を行使しようとした、そのときだった。
頭上から黒い影が落ちた、と思ったその次の瞬間、突然の驟雨のごとくに、どっ、と白いものが降り注いだ。降り注いだものは、皇居の石畳に触れた端から長大な固まりを成し、あたりを素早く這い回りながら吸魂鬼だけを押し流し、消し去っていく。その様は、守護霊の効果に似ているところもあれば、似ていないところもある。
「これは──」
最も顕著な違いは、吸魂鬼を消し去った固まりからは鱗が落ちるように長方形の紙片が剥がれ落ち、辺りに散らばっていくことだろう。どうやら、その紙片に書かれた文言が魔法における呪文と同様の効果を持ち、守護霊に似たエネルギー体を生成しているようだ。
「式神だ、おそらく陰陽師が自分の到着より先に式を打ったんだ」
と、呆けたようにその光景を眺めるミズホに、短くエイシュウが答えた。
「あちらさんが吸魂鬼を相手してくれている、今がチャンスだ。ホシを上げるぞ」
そう告げたエイシュウの檜の杖は、すでに紙の大蛇の向こうへと向いている。舞い飛ぶ護符の合間から見える後ろ姿は、ジーンズに紺色のパーカーを着た、ごく普通の青年のものだ。その姿は、ミズホが目撃した魔法族の特徴とも一致している。
いつもならば、ミズホはすぐさま後先も考えず駆け出していたところだろう。半年以上彼女とコンビを組まされているエイシュウもそう考えたものらしく、その手はプロテクターの襟首をしっかりと掴んでいた。だが、彼女の足は、どういうわけか今に限りその場から動こうとはしない。どころか、気圧されたように後じさりまでしかける始末だ。一体、彼女は何を見たというのだろう?
青年は玉砂利の上に立ち、その先で作り出されている護符による防壁に向け、攻撃魔法を叩きつけている。護符はすべて、「えげつない
「第一号指定禁呪、厄介だが、所詮はただの呪文だ。向こうさんの護符で防げているなら、物理障壁で十分防げるってことだ、分かるな」
おそらくは初めて見る第一号指定禁呪を前に身をすくませている新人闇祓いに向けて、言い聞かすようにエイシュウが言った。そう、今陰陽師たちに放たれているのは日本魔法運用法における第一号指定禁呪──
「まず周辺の玉砂利で障壁を作る。その影に隠れて姿をあらわして、即座に無力化呪文だ。できるな、訓練どおりだ」
指示を下すが早いか、エイシュウの握る杖から発せられた呪文により、あたり一面に敷かれていた玉砂利が浮かび上がり、青年の周囲を竜巻のように旋回し始めた。
「訓練通り──遮蔽物に隠れて、
「そうだ、物理的な障壁の影にいる限りは、死の呪文であっても直撃はしない。そこらの小口径の銃弾と一緒のようなものだ。習ったとおりだろう」
ミズホの顔に、血色が戻り始めた。訓練の状況を思い出し、即死呪文への恐怖が若干なりとも和らいできたのだろう。そうしているうちに、玉砂利は堆積し、青年の前に分厚い壁を作り上げていく。
「いまだ!」
完全な壁が作り上げられたところで、エイシュウの声とともに、闇祓いたちは被疑者を拘束するべく破裂音を響かせて姿を消し、直後、即席の遮蔽物の影に現れた。青年もすぐに姿をくらまそうとしたようだが、二本の杖から麻痺、武装解除、その他諸々の無力化のための呪文が放たれるほうが早い。
「よし直撃だ、援護を頼む!」
誰の呪文がどう作用したか、
やや後方より無言のままに呪文を撃ち続けるミズホの前で、エイシュウが手錠を取り出し、膝立ちになるような形に引き起こした青年の両手にかけようとした。そんな時のことだ。
「敷島さん、そいつおかしいです、下がってください!」
ミズホがなにかに気づいたように声を上げるのと、
「──気をつけろ、そいつはヨリシロだ!」
護符の防壁の向こうから、そんな声が上がるのとは、ほぼ同時だった。青い水干姿の陰陽師が、何かに気づいて警告を発したのだ。だが、何に?──
その答えは、直後に明らかになった。麻痺呪文を受け、もはや何ら抵抗のしようもないかと思われた青年の体が唐突に仰け反り、さかしまになった顔からパーカーのフードが脱げ落ちる。ちょうど、上半身だけでブリッジをしているような状態だ。どう見ても、自然に行いうる動作ではない。
そして、なにより異様なのは、顕になった青年の顔に一面、赤く禍々しい呪言が刻まれていたことだ。
予想外の出来事を前に、とっさにエイシュウが背後へと姿をくらましたのはさすがの判断だったろう。もし一瞬でも待避が遅れていれば、がぱり、と開いた口より漏れ出でた、
「あばだ、けだぶら」
との声とともに青年の体より発せられた緑色の閃光によって、生命を失っていたことは明らかであったからだ。無論、青年の手には杖などはない。杖もなく、なんとなれば当人の意識もないであろうに、何者かに無理に動かされているかのようにその体は魔力を絞り出し、禁呪を行使しているのだ。当人の意思に反した行動を取らせるという事ならば魔法にも、第三号指定禁呪、服従呪文が存在している。だが、完全に意識を喪失した上で人間を操るなどという業は、少なくとも西洋魔法の体系には存在していない。
「あいつ、石化が効かなかった! 最初から対抗呪文を服に掛けてるんです!」
一拍遅れて障壁の後ろに現れたミズホがそう叫んぶなり、エイシュウは、苦々しげに地面を殴りつけた。
「石化は無効、他の無力化系呪文は通じても意味がない、ってか。──秋津、お前、禁呪は使えるな」
エイシュウの問に、ミズホははっと目を開いた。あたりには、あばあああ、だあああ、けだあああぶうううう、るううああああ、との奇声とともに緑色の閃光が吹き荒れ、時折その閃光に撃たれた玉砂利が細かく砕けて飛び散っている状態でのことだ。即死呪文の雷嵐の中では、無力化系の呪文がたとえ通じたとしても撃つ暇すら存在しなかったろう。
「勿論です。ですが彼、どう見ても操られてます」
「分かってる。だから、使うのは第二号、磔に絞れ」
日本魔法法第二号指定禁呪、
ややためらいを覚えた様子のミズホが何かを言おうとした、その頭上から、玉砂利の欠片が降り注いだ。物理障壁を超えては効果を発しない即死呪文とはいえ、確実に遮蔽物そのものを削り取りつづけてもいる。このままではジリ貧であるのは間違いない。意を決したミズホが頷くのを確認すると、
「石を動かして奴を埋めるから、その隙にお前は
と、いうが早いか、エイシュウは壁を構成している玉砂利をふたたび動かし、即死呪文を間断なく放ち続ける青年の体の上に降り注がせた。非魔法使いならば、それだけで行動不能に陥ることだろう。だが、相手は魔法使い、それも他者によって体を使役されている状態だ。山となった玉砂利は、築かれてから数秒もしないうちに鳴動し、内部から弾けたように四方へ飛び散ることとなる。杖のないまま、何かしらの呪文を行使して砂利を弾き飛ばしたのだ。
「
その瞬間、飛び散った砂利から顔をかばいもせず、ミズホは磔呪文を放った。遅れ、エイシュウの杖からも禁呪が飛び出し、砂利の下から不自然な動きで立ち上がろうとする人影を狙う。同時に二つの呪文を使える魔法使いは居ない。玉砂利を弾き飛ばしているいまこの瞬間が、即死呪文を食らう危険を負わずに呪文を叩き込める僅かな好機であるのだ。
磔呪文ははたして、飛び散る砂利の合間を抜けて青年の体に命中した。もとより傀儡じみた不自然な動きをくりかえしていた体が壊れたゼンマイ人形のようにがくがくと痙攣し、目がぐるりと白目をむき、顔が苦悶に歪む。磔呪文が成功した以上、この世に存在するあらゆる拷問を同時に受けているような苦痛が青年の体をさいなんでいるはずなのだが──
「やった!」
「油断するな、下手に近づくんじゃない!」
今度こそ相手の自由を奪ったと思い数歩前へ出たミズホへ、エイシュウが上げた叱咤の声は、完全に正しかった。神経を直接灼かれ、脳を酸に漬けられるかのような苦痛に襲われているはずの青年の体に、発動しそこねた呪文の閃光が走った、と思った次の瞬間、
「あばあああああ、け、だああああらああああ」
喉から発せられるゴボゴボという音にまじり、即死呪文を発動するための呪文がまさに呪いの如くに発せられた。磔呪文が破られたわけではない。無理矢理に糸で吊り下げられているような立ち姿は、どう考えても呪文の行使など不可能なほどに震え、苦痛に歪んでいる。事実、先程までは申し訳程度に動かされていた両手も今は自らの体に絡みつき、動かされてすらいない。だというのに、一体どのように魔力を行使しているというのか、その体からは緑の閃光が発せられたのだ。もはやそれは呪文を発動していると言うよりは、無理に魔力を搾り取られ、呪文へと変えさせられている、というべき有様だ。
触れるものを即死させる緑色の閃光は、まっすぐに、その真正面に立つミズホへと伸びた。エイシュウが石動呪文で再度防壁を築こうとするが、石の移動速度よりも閃光のほうが遥かに早い。数名の陰陽師が飛ばした護符にしても同様だ。
「あ──」
緑の光がミズホの体を飲み込むかと思われた、その刹那。
びょう、と風が吹きおろした、とその場に立つものには思われた。いや、その時上空から降り注いだ呪文の中には、
けれど、それだけではその時起きたことのすべてを説明できはしまい。そのとき降り注いだ無数の呪文は、同時にあらゆる効果を発生させていた。即死呪文に撃たれる寸前のミズホの体は、
「
の呪文が傀儡のごとくに動き続ける青年の体を打ち据えていたことだろう。
変化術による即席の檻の中で、青年の体は数度、激しく痙攣した。そこまでならば、今までと変わりはしない。だが、違ったのは、その次に起きた変化だ。
「ご、ぼッ」
傀儡のような体の、胸板が大きく上下した、と思ったのもつかの間。下水から泥水があふれるような、そんな汚らしい音が喉から発せられるとともに、その喉から飛び出したものがあった。嘔吐の反応だけによるものではない。つまりは、青年の喉から吐き出されたものこそが、
吐瀉物や粘液とともに飛び出したその物体は、檻の合間を抜け、玉砂利を剥ぎ取られた地面へと落下した。それは丁度、目の前で起きた事態に呆然と立ち尽くしていたエイシュウの、すぐ目の前でもあった。
「──うわっ!? 何だこりゃあ」
自然と目を落としたエイシュウが思わず飛び退ったのも、無理はあるまい。何しろ、そこに現れたのはおよそ三十センチほどの、大振りなコッペパンのような形をした巨大な蟲であったのだ。それも、カブトムシの幼虫や蝶の幼虫のような、柔らかで青白い表皮を持つ芋虫のような外観をしているものだ。大きさと相まって、その外観はあまりにもグロテスクとしか言いようがない。
「チカヅクナヨ、ソイツハ、フクチュウムシダ」
それでも再度、蟲の様子を覗き込もうとしたエイシュウの前に、カタコトの言葉とともに黒いものが舞い降りた。舞い降りたのは、一匹の大鴉だ。
「ヒトノはらノナかニ虫ヲ寄生サせ、操ル呪術……あれだよ、帝都物語のやつ。今の若者は知らんか?」
大鴉は、地面に着地する寸前に急激にその姿を膨らませ、黒い羽を舞い散らしながら人の姿へと変わっていった。現れたのは他でもない、倉田闇祓部長だ。エイシュウと同じく、倉田部長も
「そいつがつまり、その男を操って……その上で即死呪文を連発させていたと?」
「陰陽師が保護した一般人も、同じ腹中蟲で操られていたと言うからな。そういうこったろうよ」
倉田部長の杖の先から放たれた呪文が周囲の土から瓶を作り上げ、腹中蟲をその中に閉じ込めた。虫はうぞうぞと蠢いては粘液を表皮から染み出させている。空気にさらされるのが苦痛であるのだろう。
「──そうだ、あいつ、秋津は──」
口のない瓶の中にしまい込まれるのを見守ったところで、はっと思い出したようにエイシュウはあたりを見回した。周囲にはいつのまにか、闇祓いたちが現れて現場の記録をはじめている。どうやら、上空に姿あらわしをして適宜呪文を放つとともに、
「ああ、秋津なら局長どのと一緒だよ」
部長が発した答えに、エイシュウは首を傾げた。日本魔法省では、魔法大臣の下にあるのは部であり、局とつく部署は存在していない。かといって、陰陽師のほうは平安時代式の呼び名を律儀に使い続けているため、こちらにも局長という肩書は存在しない。一体、誰のことを言っているのか、とエイシュウが尋ねようとしたその矢先、
「ありがとうございます、わたし、ほんとうになんて言っていいか──」
聞き慣れた声が、ゆっくりと上空から近づいてくるのが彼の耳に入った。だが、その明らかに興奮を隠しきれない声色や口調は、全く聞き慣れないものだ。
「──あなたは命の恩人です、ポッター局長。後ほど、ぜひお礼をさせてください」
声の先を振り返ったエイシュウの表情は、その瞬間、腹中蟲の詰め込まれた土蔵にを前にしたのような表情へと変わっていった。その先には、たしかに彼が探していた秋津・ミズホ・ローレンスの姿があった。だが、その姿はいったいどういうわけか、丸眼鏡を掛けたタキシード姿の西洋人男性とともに箒の上にあり、その両手でいわゆるお姫様抱っこをされてすらいるのだ。
丸眼鏡の西洋人が両手を離したまま器用に箒を着陸させ、地面に両足をついたところで、ミズホはエイシュウに気づいたらしい。紅潮した顔に満面の笑みを浮かべ、興奮冷めやらぬ様子でミズホは彼のもとへと走っていった。ただし、口を開くやでてきた言葉は、
「敷島さん、すごいですよ、あの人誰だと思います? ハリー・ポッター闇祓局長なんです! イギリスの、あのハリー・ポッターさん! さっき武装解除呪文を犯人に当てたのもポッター局長だったんですよ、わたしたち、ハリー・ポッターに助けてもらったんですよ!」
とのもので、それを聞かされるエイシュウの顔に浮かぶ表情はもはや、何千匹という腹中蟲のうごめく中に突き落とされたかのようなものへと変化している。
「そりゃあ……またどうして、英国の闇祓局長がこんなところに」
どうにかこうにか絞り出したことの明白な言葉ではあったが、エイシュウの疑問は実にまっとうなところだっただろう。ハリー・ポッターといえば、かつて英国魔法界を震撼させたヴォルデモートをホグワーツ在学中に打ち倒し、それ以来闇祓いとして一線にたち続けている伝説的な存在だ。それが日本の皇居に居るとなれば、疑問が思い浮かぶのも当然だ。
ポッター局長が日本の闇祓いに混じりこの場に居るわけは、次のような次第だった。
「ハーマイオニーの……ああ、つまり英国魔法大臣の護衛役で赤坂離宮に入っていたんだが、そこにこちらの闇祓いの諸君が駆け込んできてね」
ポッター局長の説明に、周囲で陰陽師とともに慌ただしく動き回る闇祓いたちはそうそう、大変だったんだ、と相づちを打った。
パレードの終点、赤坂離宮の前に取り残された闇祓いたちは、ミズホとエイシュウが行ったように、直接およそ四キロ半の道のりを踏破しようとはしなかった。彼らはポッター局長の言う通り赤坂離宮へと駆け込み、宮殿内のある古い暖炉へと向かったのだ。
「暖炉……煙突飛行ネットワーク?」
「そのとおり。皇居宮殿や赤坂離宮、その他少なくない御所には、煙突飛行ネットワークが敷かれているんだ。もう少し待ってりゃあ、お前らも俺からの連絡が聞けていたはずなんだがな」
と、横から説明に割入ってきたのは、現場の原状復帰作業に勤しむ倉田部長だった。煙突飛行ネットワーク。その名の通り予め指定された煙突と暖炉のある指定地点への行き来しか出来ない反面、姿あらわしよりも長距離を、免許なしでも移動できるという利点がある。ポートキーのように屋外の仮設地点ではないため、安全かつ確実な移動手段として未だ魔法族には根強い人気があるが──まさか、日本の御所にも使用されているなどとは夢にも思わないところだ。
「それで、うちの部下連中が
一通りの説明をし終えると、倉田部長はポッター局長に向けて、どうもありがとうございます、と頭を下げた。そこに、ミズホも一緒になってまたぞろ感謝の意を伝えはじめるものだから、礼を言われているほうが苦笑いを浮かべる始末だ。
「やっぱり、イギリスで闇祓いになったほうが良かったんじゃないか?」
エイシュウの皮肉は当人の耳には一切届くことなく、皇居正門付近を元の状態へと戻そうとする慌ただしい空気の中に消えていった。
† † †
祝賀パレードは十一月へと延期されており、十月二十二日には、即位礼正殿の儀と来賓らを招いた饗宴の儀だけが行われた。テレビからは、はじめからそう決まっていたかのようなニュースばかりが流れている。
「ドーマさま、ドーマさま、折角育てた蟲、掴まっちゃったみたいですよお」
即位礼の様子を伝えるアナウンサーとは逆に、不満げな声が室内に響く。声の主は小さな子供だ。髪をまっすぐに切りそろえ、赤色の狩衣を着込んだその姿は、舌足らずの声とあわせて実に愛らしいものだ。ただ一つだけ奇妙なのは、その両耳がまるでうさぎのように長く伸び、毛皮に覆われていることだ。
「構わないさ、ギョクト。あれは実験だからな。蟲程度、また作ればいい」
答えたのは、液晶TVの正面に置かれたソファに座り、特に興味もなさそうにテレビを眺める男だ。およそ、年の頃は三十歳程だろうか。ギョクトと呼ばれた幼児と同様、大時代的な直垂を着込んで長い髪を伸びるままにしたその姿は、およそ俗世はおろか、魔法族の基準でも異様なものと言えるだろう。
「ええ~、作るのは僕なのにい」
ギョクトは不服げに頬を膨らませて、背後を仰ぎ見た。コンクリート造りのだだっ広い部屋の一角には、呪符の張られた大型の水槽がいくつも置かれている。その中を何の前知識もなしに見たものは、少なからず衝撃を受けることとなったろう。無数の水槽にはどれも、何百もの地虫が入れられて蠢きまわっているのだ。
狩衣姿の子供は、水槽の表面に貼られた呪符に手を触れてまわりはじめた。すると、一体どのような効果があったのか──呪符が赤く光を発するとともに、水槽の中の地虫たちは突如激しく蠢きはじめ、そして、目の前にいる仲間の身を食い破り始めたのだ。何百もの虫を狭い空間に閉じ込めて共食いをさせ、最後に残った一匹の怨念をもって呪術の媒介とする業──蠱毒だ。ドーマは、呪術の方法としてはあまりに有名なそれを魔法族の力をもって実行させているのだった。
「そんなの、見てて楽しいですかあ?」
再度流されている即位礼の映像を見守るドーマに、ギョクトが問いかけた。ギョクトはといえば、虫たちが互いに食い合う光景を楽しげに見守っている。
ドーマの頬に、薄い笑みが浮かんだ。
「ああ。面白いとも。あそこに並んだものたちは、我らの作る世界の影に消えてゆくのだからな」
ドーマの答えを聞くや、冷たいコンクリートの内側にけたたましい笑い声が響き渡った。主人の答えが、ギョクトの琴線にふれたようだ。
袴の裾を引きずって、ドーマは立ち上がった。子供の甲高い笑い声と空々しいTVの声の響くなか、ドーマが部屋の一角に向かうにつれ、そこにかすかなうめき声も混じり始める。一人の少女が、寝台の上で身を捩っているのだ。
「やあ、一人目はまずまず上手いことやってくれたよ。次は君が役に立つ番だ、ともに頑張ろうじゃないか」
少女は、返答をしようとしたのだろう。だが、その喉から漏れ出たのは、ああ、うああ、という声だけだった。薄い下腹は時折ぼこぼこと蠢き、その裡になにかが居ることを示している。
だと言うのに、何より異様なのは、明らかに少女が、歓喜の色を示していることだ。
少女の頬に、ドーマの指が触れた。途端、その顔には満面の笑みが浮かび、体全体をドーマに擦り付け、喜びを現そうとする。その行動が果たして心からのものであるのか、あるいはその腹の中に詰め込まれた蟲に操られた結果であるのかは判然としない。
「ああ、動いてはいけないよ。いまから、君を世界で一番美しくするのだからね──」
示された愛に答えるように、ドーマの手は少女の額に触れ、頬を滑り、唇を撫でてゆく。その度に、薔薇色に染まった貌に赤い印が刻まれるさまは、遠い異国の化粧を眺めるようでもある。
けれど、それが化粧とは明らかに異なっているのは、印とはドーマの爪で膚に直接刻まれた傷であり、その鮮烈な赤はすべて、滲み出た血であるということだ。
文字通りに呪術の化粧が膚へと刻まれるたび、少女は身を震わせ、恍惚の吐息を漏らす。そのさまは、愛するものの愛撫を受けているようでもあり、神より聖痕を受ける法悦に身を任せているようでもある。
「──さあ、できた。これで、君はその非力から解放される。君の嘆き、君の悲しみを世界に気づかせる番が来たんだ」
禍々しい聖痕が刻まれた顔の前に、ドーマが脇にあった鏡を差し出した。傷跡からは真新しい血が滴り落ち、顔全体が真っ赤に染まったそのさまは、とうてい美とは程遠いものに見える。
だと言うのに、自らの変貌した顔を見せつけられた少女は、まるではじめて化粧を施してもらったかのように破顔し、
「は、あ、あふぅう──」
と、喜びの声を上げるのだった。腹のなかでは蟲もまた歓喜に身を躍らせているらしく、腹部は異様なほどに膨れ、ぼこぼこと蟲の形を浮き出させている。彼女に施された呪術が今しがた禁裏にて死の呪文を撒き散らした男の受けたものと同様であるならば、遠くない未来また同じ規模の、あるいはそれ以上の事件が起きるということになろう。けれど、それを取り締まるべき者たちがそれに気づいているかと言えば──
離宮での晩餐会も終わり、夜のニュースで即位礼の一連の出来事が報じられる頃には、開始時刻の遅れやパレード予定区域でのちょっとした混乱はすべてなかったこととなり、初めからパレードは延期されていたとことになっていた。勿論、その影には魔法事故惨事部の多大な尽力があったことは言うまでもない。
そんなニュースが流れる、闇祓部第一課のオフィスでのことである。
「……えーっと、あの時使った呪文は……わたし、武装解除は一発だけでしたよねたしか、その後はずっと麻痺呪文で、その後に一回石化呪文で」
「いや、無言呪文なんだから分かるわけないだろうが」
真っ先に現場へと駆けつけたたふたりの闇祓いは報告書作成のため、定時をとうに過ぎたあとだと言うのにデスクにかじりついていた。正確には、現場で使用した呪文が適正であったことを示すための使用呪文報告書、マグルの警察でいうところの拳銃の使用報告書にほぼ相当するであろう書類のためだ。
「だから言ったろ、杖を提出する前に
「それ、聞いたときにはもう杖を提出したあとだったんですってば。警官に麻痺、護身用に守護霊で、被疑者に最初に撃ったのが武装解除は間違いなくて……あー、麻痺の回数がわかんない!」
杖を提出して直前呪文で記録を取り、その上で使用者にも呪文をすべて書き出させるこの記録方式は、他のあらゆる闇祓いと同じく、英国ホグワーツ帰りの新人闇祓いにも多大な負荷を与えているようだった。その横に机を並べるエイシュウは、記録課からの催促を振り切ってしっかりと自分の杖に直前呪文を掛け、呪文使用履歴を写し取っている。あとは、ミズホの書類との整合性を図るばかりであるのだが、肝心のミズホがすでに杖を提出してしまっているために二人して残業に勤しむ羽目になっているのだった。
「そもそもなんなんですこの書類、どうせ提出する人が直前呪文で確かめるんなら直前呪文だけでいいじゃないですか、非効率に過ぎますよこんなの」
「なにせ役所のすることだからねー。非効率と理不尽の塊よもう」
「麻痺……多分時間的に十回? これ、提出した杖の記録と整合性が取れなかったらどうなるんです?」
「そりゃもう再提出願いに訂正書類に判子スタンプラリーに、大変なことになるよー。俺は別に良いけどねー」
「あー! もうやだ、こんな仕事あるって聞いてない!」
記録課に忍び込んで杖を一度盗み出す決意をしたミズホと、全力でそれを止めにかかるエイシュウの横では、壁にかかった液晶テレビが秋の味覚についての特集を流している。未だ、日本国魔法省闇祓部の中には、日本の魔法族の上に立ち込めつつある暗雲に気づくものは誰一人居ない。はたして、彼らが社会の影に隠れた存在に気づくとき、社会はいかなる形へと変貌しているものか。──