南硫黄島。小笠原諸島に属する島嶼群のひとつであり、東京からおよそ南に七百カイリ離れた場所に存在する、無人島である。すり鉢を伏せたようなピラミッド状の外観が特徴のひとつで、周囲は切り立った崖に囲まれ、船での上陸は極めて困難を伴う。天候に恵まれれば、標高九〇〇メートルを超す高い山頂に雲の笠がかかっている雄大な景色を見られるだろう。──
と、いうのは、あくまで表向きの姿である。表向きというのは、つまり、魔法族ではない一般人、マグルが近づいたときに見られる光景だ、ということだ。では、魔法族がそこに近づいたならいかなる光景を目にするか?
抜けるような晴天の下、南硫黄島の高い山頂には雲の笠がかかっている。その山頂へと、ある決められた手順を踏んだ上で近づいたものは誰しも一度は驚くものだ。なにしろそこには、丁度ピラミッドを逆さにしたような巨大な石が浮き、さらにその上では石造りの宮殿が堂々たる威風を払っているのだ。人間の科学力によって作りうる建造物ではない。魔法の力によって、ひとつの宮殿がその基礎ごと南硫黄島のちょうど頂上と対称をなすような形で浮き上がっているのだ。陽光に輝く
宙に浮かぶ石造りの基礎の上に作られた校舎は、回廊を成している。その中央にある文字通りの空中庭園は、自然から完全に隔絶された環境であるにも関わらず、四季のあらゆる装いを一つの空間で織りなし、さらにはあらゆる種類の幻獣たちをその中で育んでもいる。なにも知らぬ状態でこの庭に迷い込んだ者がいれば、たとえ魔法や陰陽道、修験道、その他の秘せられた道に通じる魔法族であったとしても、この世のものならぬ楽園かと思ったものだろう。
秋も過ぎようというのに舞い散る満開の桜を眺めながら、しかし、敷島エイシュウの顔は全くもってその光景の美しさに惑わされてはいなかった。なぜならば、彼にとってその光景は、
「ああ、クソ……もう二度と見ずに済むと思ってたのになあ」
と、感想を漏らすたぐいのものであったのだ。端的に言えば、嫌というほど見すぎて見飽きていた、と言うことだ。
エイシュウは中庭に面する校舎の窓から顔を出し、タバコの煙を宙へと吐き出している。その姿は、タバコの臭いを校舎の外に逃がそうとしている、というよりは少しでも校舎から離れようとしているかのようだ。彼にとって、母校たる魔法所への感情というのはつまり、そういうものであるようだった。
彼が背を向ける先には、両開きの分厚い扉がある。その扉を開ければ、魔法所の生徒たち全員を受け入れうる巨大な講堂があることを彼はよく知っていた。周知の通り、魔法所が受け入れている生徒の割合そのものは、日本の魔法族の数からすれば大変少ない。おそらく、全世界の魔法学校の中で最も低い割合だろう。だが、生徒数は実を言えば、千人近い規模を誇っている。というのも、魔法所ではマグルで言うところの小学校一年生から高校三年生に至るまでの十二学年を教えているため、総数としてはどうしても大所帯となるのだ。
今現在、その十二学年すべてが集まっている講堂からは、分厚い防音扉腰にも時折、笑い声が漏れ聞こえてくる。来日中のウィーズリー・ウィザード・ウィーズいたずら専門店共同経営者──つまりは、ロナルド・ウィーズリー氏が、講演のなかで子どもたちを大いに笑わせているようだ。WWW悪戯専門店の各種魔法ジョークグッズは、魔法所の生徒にも大変な人気を誇っている。その経営者の一人であるロン・ウィーズリーの話ともなれば、校長の話とは違って大いに生徒たちも関心を持って当然というものだろう。そう、あの校長の話だけは、絶対に二度と聞きたくないものだ──
そんな物思いにふけりつつ、エイシュウが何度目かに煙を吐き出したときのことだった。
「あれっ、鍵? どうしよ、もう入れないのかな」
そんな声とともに、背後から講堂の扉を揺らす音が彼の耳に飛び込んできた。振り向いた先では、女子生徒が焦ったように扉を揺らしている。体格からして、中等部以上の生徒。それも、梔子色のローブをきっちりと着込んでいるところからしてかなり真面目なほうだ。魔法所のローブは、その色がどれだけ金に近いかで成績を示す。自らの成績を誇示したいものやよほど真面目な性質でもない限りは、初等部の高学年ともなると公式行事以外の場では誰も着なくなるものだ。
「悪い、警備の関係で一旦締めちまったんだわ」
「えっ、闇祓いさん? あの、私、家の手伝いで週末はいつも一時帰宅をしてて、いま戻ってきたところで……」
「ああ、いーよいーよ。学生証もってる? うん、高等部三年、白虎寮の一ッ目渚ちゃんね。OKOK、入っていいよ」
差し出された学生証の写真と目の前の少女が同一人物であることを確認すると、エイシュウは講堂の扉にかけた魔法を一時的に解いて渚を講堂へと押し込んだ。
「……あ、でも、もうじき校長の話になるよなあ。言ってやりゃ良かったか」
扉を再び封印したあと、時刻的に講演の終りが近いことに気づいてエイシュウは小さくつぶやいた。魔法所の校長はエイシュウの在学時から変わっていない。つまり、その話の長さも未だに変わっていないはず、ということだ。エイシュウが、校長の話を聞かずにすませるためにウィーズリー氏の直接の警護を秋津・ミズホ・ローレンスに任せ、廊下に待避したほどに、校長の長話は魔法所の生徒たちから恐れられ、忌避されているのだった。
案の定、一ッ目ナギサが講堂に入ってから五分もしないうちに、扉の向こうからは拍手が鳴り響いてきた。ロン・ウィーズリーの講演が終わりを告げたようだ。
「あとは、校長待ちか。今日ばかりは中から脱出も出来ないからなあ、ご愁傷さまだ」
校長の長話をいかに聞かずに済ませるかは、魔法所の生徒たちがあらゆる科目の試験以上に頭を悩ませるところである。魔法界やマグルの公的施設と同様に敷地内での姿あらわしと姿くらましは封印されているため、これは完全なる頭脳勝負になる。エイシュウを含む大抵のちゃっかりものはどうにかして近場の先生方の目をくらましつつ物理的に講堂から外に出ることを目指したものだ。しかし、今回ばかりは扉が封印されている以上、脱出手段は存在しない。生徒たちの苦痛たるや、推して図るべしだ。──
と、扉を眺めながらその向こうの生徒たちに思いを馳せた矢先のことだ。エイシュウの目の前の空間が歪んだ、と思ったのもつかの間、次の瞬間、目の前に人の姿が現れた。それも、現れたのはひょろ長い体格にやや古風なスーツを着込んだ、赤い髪の白人男性──
「──は? ミスター・ウィーズリー!? 何やって、あんた警護対象が勝手に、だけど姿あらわしは、ええ……?」
思わず口に加えたタバコを取り落しながら、エイシュウは目の前の人物に半ば掴みかかっていった。ロン・ウィーズリーにとっては、彼を警護する日本の闇祓いの混乱ぶりは想定内のものであったらしい。
「そう、そうだよ。魔法ってのはこうじゃなきゃあいけないんだ。誰にとっても見たことがなくて、面白くて、この上なく素敵なものでなけりゃあ」
と、手にしたライターの火打ち石を擦りながら、ロンはかすかにそばかすのあとが残る頬に満足げな笑みを浮かべてみせた。その背後では、どうやら演壇の上から消えた警護対象を探しに来たものらしいミズホが血相を変えて講堂の扉を押し開けたところだった。
「でもまあ、これは僕や兄貴の発明品じゃあないんだけど。でも、僕に贈られたものなんだから、せっかくだ、魔法の力の一端として見せたってダンブルドアには怒られやしないと思うんだ」
再度、ロンの持つライターが擦られた。その火口には、先程と同じく火が現れることはない。代わりに、エイシュウとロンの間には、小さな火が浮かび上がっていた。よく観察していたならば、その火は今しがた床に落ちたタバコの先に灯っていた火と同じものであることに気づいたろう。
火消しライター、英国の大魔法使いアルバス・ダンブルドアからロン・ウィーズリーへと贈られた、遺品の一つだ。その能力は、基本的にはあたりに存在する火をその中に収め、そして再度外へと移動させることである。が、実のところはもう一つ、人を強く願った場所へと移動させる機能も隠されていたのだ──というのは、ロンがヴォルデモートとの戦いのため、友人たちとともにあてのない放浪を続けていた頃に発見した事実だった。
「だけども、どうもこれ、上手いことやると今みたいに普通の移動にも使えるっぽいんだよね。僕一人だけじゃなくて他の人も願ってる必要がある、みたいな条件はあるみたいで、それは今も研究中なんだけど。今の場合、話を聞いてくれてたみんなが、僕が講堂から一瞬で消えたらすごいって期待してくれてたから上手く行ったみたいだ」
研究ノートに新たな成功事例を書き入れながら、ロンはニコニコと笑って火消しライターに隠された機能を解説した。至近距離で解説を聞くミズホの口からは、無許可移動魔法、無認可海外魔法用品、密輸入、といくつかの小さなつぶやきが漏れ出していたが、その言葉は周囲に満ちた子どもたちの興奮した声にかき消されてしまっている。ミズホが講堂の封印を解いて駆け出てくるのとともに、講堂からは生徒たちが溢れ出てきてもいたのだ。おそらくは、ロンの行方を探すことにかこつけて、その後にくっついてくる校長の話を回避するために。
もはや、こうなってしまえば講堂に戻るようにとどれだけ教師や監督生たちが叫んでも誰も聞くはずがない。なし崩しに全校集会はそのままお開きとなり、初等部の生徒たちは帰りの大海燕バスを待つために屋上へと向かい、残る寮生たちはめいめいに自室へと引き上げていった。
「いやあ、それにしてもすごい景色だな。空飛ぶ宮殿か、アニメ映画にそういうのがあったよな」
全校を一望する多重塔の上で、混乱の原因を作ったことを気にもとめず、ロン・ウィーズリーは見渡す光景への率直な感想を述べた。石造りの多重塔は、本来的には日本式の仏塔を意識した作りであるはずだが、その素材が相まってどちらかといえばインドのストゥーパを思わせる外観となっている。そこから見えるのは、同じく無国籍なアジア風の校舎やその中央で四季を内包した庭園、そしてそのはるか下界に広がる南硫黄島と四方を囲む青い海、つまりはここにあるすべてのものだ。
「下の島が火山島ですからね。浮かせとかなきゃもしものときに巻き込まれるってだけですよ」
警護対象者の感動に対して、エイシュウの答えは実に簡素なものだ。ただ、この場にいるものの中で、この景色に飽いているのはエイシュウ一人だけでやや分が悪いようでもあった。何しろそこにいるもうひとりの闇祓い、秋津・ミズホ・ローレンスも魔法教育はホグワーツで受けたのであり、初めて見る日本の魔法学校を前にして、
「うわーっ、すごい! あれなんですかあれ、すごいおっきな海燕! あたしたちが乗ってきたやつの十倍ぐらいある! あれが大海燕バス? ああ、だから背中に屋根と座席がついてるんですね! 初等部の子はあれで登下校するんですよね? うわーっいいなあ!」
と、目を輝かせて目に入るもの全てを口に出して感想を述べ続けている。完全に新入生が取るのと同種のリアクションだ、というのはエイシュウも思いはしたものの口にしなかった。流石にひどいと思って遠慮したわけではない。何なら一年生のクラスに今から入るか、と言おうとしたところで、彼の背筋に冷たいものが触れ、
「なんじゃあ、敷島。折角来たちゅうのに顔も見せんと、薄情な奴じゃのう」
との地底から湧き出たような声があたりに響いたからだった。
「い、市來先生! いや、俺は仕事で来たので、その、私的な挨拶はまた今度にしようと……うひゃあ!」
エイシュウが慌ててその場から飛び退いたのは、完全な判断ミスだった。なにしろ、彼が飛び退いた先にこそ市來
「ロナルド・ウィーズリーどん、はじめまして。魔法所ん校長を務めちょっ市來タテワキち申します。命亡き身にて、斯様な衣服んままで握手もできず、失礼を許したもんせ。……おいエイシュウ、早う退かんか、邪魔じゃ」
物体をすり抜ける半透明の体を上手く床に立っているように見せかけながら、魔法所の校長は深々と頭を下げた。ゴースト、死んだ魔法族がまれに意識をそのままこの世に残留させた存在だ。ホグワーツには寮ごとにゴーストが住み着いているほどであり、ホグワーツ卒業者であるミズホもロンも、ゴーストを見ただけで驚くようなことはない。
だと言うのに、ふたりのホグワーツOBが目を丸くしているのは、一つはゴーストが校長を名乗ったことによるものであり、もう一つは、その出で立ちが血の滲んだ旧日本軍の軍服姿であったことによるものだ。ゴーストの外見は、死んだその時の服装と年齢で固定される。してみると、髪を短く刈り上げ、カーキ色の薄汚れた軍服に身を包んだ青年の姿が持つ意味というのは、一つしかないだろう。
「市來先生、あなたは、戦争で──」
思わずそう訊ねかけたミズホが、口をつぐんだ。その正面、ちょうど市來校長の体を透かした向こうで、ゴーストの体を通り抜けた事による寒気に身を震わせながらもエイシュウが「戦争の話は絶対にするな」と光り輝く文字を空中に漂わせ、激しく首を左右に振っていたのだ。
だが、すでに遅い。すでに、戦争という話の端緒をミズホは口にしてしまっていた。
「ああ、ここから六十キロほど北に行ったところに、硫黄島ちゅう島があっとじゃが、そこで戦死しもした。まあ、ようあっ話じゃっどんね。うちは軍人一族で、爺どんな田原坂で弾を食ろうてん生き延びた、ちゅうのが自慢ん種でよう子供のころからおいはそいを聞かされちょったもんで、戦争が始まったやもう居てん立ってん居られず、あん時は教育ん制度が旧制やったで魔法所中学部ん四年次やったが魔法省が少年魔法兵を募集し始むっや、すぐさま志願をしたんじゃな。あん頃は、魔法使いん子供がマグルん戦争に加わって大活躍をすっ、てった子供向けん読み物もたくさんあったで、そげん活躍を思い描いて。じゃっどん──」
そして市來校長の、生徒たちから恐れられ、忌み嫌われる思い出話が始まってしまった。はじめは興味深そうに聞いていたミズホも、西南戦争から始まってとどまるところを知らない話に、徐々に不安が募ってきたものらしい。話を聞いているふりをしつつ市來校長の体の向こうに立つ視線を向けた。エイシュウは心底うんざりした顔をしつつ、「この話は長いぞ、覚悟しろ」と新たな文字を空中に光らせた。
だが、意外にも彼らの忍耐が試されるのは、そう長い時間ではなかった。というのも、
「校長先生! 発着場に、陰陽寮の方が」
との言葉とともに、箒にまたがった女子生徒が尖塔の外に現れたためだ。
「事件の捜査のために来たと言うんですが、それよりも、連れてきた変な使い魔が大海燕と喧嘩をはじめて収拾がつきません」
一同は、尖塔から発着場を見下ろした。今しがたまで、整然とならんだ初等部の生徒たちが大海燕バスに乗り込もうとしていた景色は、僅かな間にすっかり様変わりしていた。女子生徒が言ったとおり、そこには水干姿の陰陽師たちがわらわらと屯し、鱗を持つ長大な竜と思しき生物が海燕バスと互いに威嚇しあうのを止めきれずに長い尾や巨大な羽根で吹き飛ばされているのだった。
「何をやっとるか、あん半端者どもは! 発着場に蛟なんぞ連れてきて! 小鳥遊、おまん、南方先生を呼んでこい!」
小鳥遊と呼ばれた女生徒はすぐにうなずいて中庭へと飛んでいき、同時に市來校長も床を通り抜け、阿鼻叫喚の騒ぎの発着場へと真っ直ぐに向かっていった。つまりは、陰陽師たちが魔法所の事情を知らずに
「さっきの子は監督生だな。襟んとこにバッジが付いてたろ。たぶん、そのへんのシステムはホグワーツと同じかと思うが」
眼下で繰り広げられる怪獣大戦争と、そこに参戦するゴーストの校長の姿を眺めつつ、エイシュウが誰に求められるともなく今しがた現れた女生徒についての解説を述べた。表には出さないが、校長を前にして取り乱したことを気にして、ごまかそうとしているのだ。
「ああ、知ってるよ。小鳥遊
そのような次第で、特に意味もなく発した解説の言葉であったため、答えが帰ってきたエイシュウはぎょっとして振り返った。しかも、細かな情報を補ったのは、どういうわけか完全な客人であるはずのロン・ウィーズリーであるのだ。
「えっ、なんで……」
エイシュウが発したそんな疑問は、当然のものだったろう。そして、その反応はロンにとっては理想的なものだったらしい。WWW経営者はまるで千里眼を持つかのような遠い目をしてみせたあと、破顔した。
「いや、彼女、講演の終わりがけに僕に質問してきたんだよ。実に政治的意識に満ちた、クソ面倒くさい……いや、将来の有望さが透けて見える質問だったね。我が英国魔法大臣閣下のホグワーツ三年生時代を思い起こしたものさ。……うん、実を言うとだな、さっき僕が例の小道具を使ってみせたのは、彼女の質問から逃げるためだったわけだ」
ロンがわざとらしく声を潜めるとともに、下方からは盛大な破砕音が鳴り響いた。蛟と大海燕と校長による争いに南方
「僕もまあ、不用意に「マグル」って言葉を使ったのは悪かったかもしれないけどね。ただ、「マグル」も「ノーマジ」も僕から言わせりゃ一緒の意味だよ。……ってのも、今じゃあ保守的で古臭い大人の意見ってことになるのかな」
「ああ……普通まあ、気にしませんって。呪文でも
講演の終盤で浴びせられた厄介な質問の内容におおよそ見当がつき、エイシュウはロン・ウィーズリー氏の当惑に思いを馳せた。マグルとは、言わずとしれた非魔法使いを意味する単語だ。しかし近年その言葉は
エイシュウのフォローをどう受け止めたものか、ロンは小首をかしげてみせた。もっとも、その行動は市來校長が引き起こしたポルターガイスト現象によってあたりに飛び散った様々な物品を避けるためのものだったかもしれない。粉々になったバスの屋根やら座席やら魔法預言者新聞やら週間魔女自身やら校舎の欠片が凄まじい勢いで吹き付ける中、ミズホが悲鳴を上げながら変身術を駆使して尖塔の開口部を閉じにかかっている。
「まったく、自分はいつまでも若い感覚を持っているつもりだったけれど、いつの間にか時代のほうが変わっていくもんだ。僕は自分のことを未だに、ど田舎の貧乏大家族の
流石に何もしないでいるわけにはいかず、エイシュウもロンの話を聞きつつ、ミズホとともに尖塔の開口部を塞ぐ作業に従事し始めた。あらゆるものを煉瓦に変身させるため、警護対象に背を向けることができていたことは幸運だったろう。ちょうどそのとき尖塔に飛び込んできた週間魔女自身の最新号の表紙に、『ウィーズリー家 英国魔法界の「王家」 来日!』との見出しが踊っていたのだ。あまりのタイミングの良さに皮肉な笑みが口元に浮かぶのを、エイシュウはどうにも抑えられなかった。
実際のところ、王家は言い過ぎにせよ、現代を生きる魔法族にウィーズリー家を「ど田舎の貧乏大家族」だと思っているものは居ないだろう。目の前にいるロン・ウィーズリーからして、みそっかすどころか兄弟とともに国際的な魔法製品メーカーWWWの経営陣に名前を連ねているのだ。その妻ハーマイオニー・G・ウィーズリーは英国魔法大臣を勤めており、妹のジニーはクィディッチ選手として名を馳せた後にあのハリー・ポッターと結婚し、さらに兄弟たちの多くが英国魔法省に籍をおいているとなれば、これを華麗なる一族と呼ばずしてなんと呼ぶ、と言わざるを得まい。
「ミスター・ウィーズリー、気にすることないですよ! マグル出身のホグワーツ生にしてみたら、ロナルドおじさんは子供の頃に思い浮かべるとおりの、優しくて面白い魔法使いのおじさんなんですから!」
ついに飛んできた人間を
「あたし、はじめてダイアゴン横丁へ行ったときに魔法族出身の子と友達になって、その子に連れられてWWWに行ったんです。ちょうどロナルドおじさんが店でねこねこコネールの実演をしてるときで、おじさんがスライム猫になって色んな隙間に入ったり飛び散ったりするところを見て、ホグワーツの入学許可証だとか教科書だとかよりなにより、あたし魔法の世界に来たんだ、って実感が湧いたんです」
新人闇祓いによる感動的で幸福な思い出話は、傷心気味のロンにとって何よりの特効薬であったらしい。影の落ちていた顔が、ぱっと輝いたようだった。
「それこそ、僕にとって最高の褒め言葉だよ」
魔法は誰にとっても見たことがなくて、面白くて、この上なく素敵なものでなければいけない。WWW経営者ロン・ウィーズリーが度々口にする理念だ。そして、その言葉には時として、「魔法界は、たとえマグルがなにかの拍子に紛れ込んだとしても、魔法を恐れることなく、遊園地に来たような気分で帰ることができる場所にならなければいけない」とのフレーズも付随するものだった。その基準からすれば、マグル出身のミズホに抱かせた感想は百点満点に近いものだったろう。
英国魔法界の文化を共有する二人が感動的な場面を繰り広げる中、しかし、エイシュウはその空気に水を差さざるを得なかった。
「OK、素敵な話をありがとう、秋津! だがちょっと、無言呪文でいい、
エイシュウはひたすら緩衝呪文を連発しながら、声を上げた。なにしろ最初の一人を皮切りに、尖塔にはひっきりなしに陰陽師たちが飛来しているのだ。軍人の幽霊が、とか、目の前に戦場が見える、とかうわ言を言いながら震えるその様子を見るに、ひとり残らず市來校長の起こすポルターガイスト現象によってこの場所へと投げつけられた結果であるらしい。
「あのクソ校長……俺がどうにかすると思ってここを狙ってやがるな」
エイシュウの漏らした呪詛は、おそらくは真実であるようだった。次々に飛来する陰陽師たちは全く寸分の狂いなくバリケードを築いていない部分から尖塔の中に飛び込んできては、二人の闇祓いと、ついでに途中から協力し始めたロン・ウィーズリーの
騒ぎは、およそ一時間ほどかけて沈静化に向かっていった。一人残らず十月の海に叩き落されたあと数百メートル上空に投げ上げられた陰陽師たちは医務室へと引き取られていき、蛟は中庭の池に誘導され、海燕の発着場は教師たちと高学年の生徒たち総出でたちまち修復されていく。おおよその魔法学校にありがちなことではあるが、魔法所では大きな事故が起きる頻度がそれなりに高く、蛟による校舎の破壊程度ならばすぐに対処が可能なのだった。
ただひとつ、問題があった。
「一体、あの連中は何を考えてるんだ! 蛟を陸にあげた上バカスカ蛟避けスプレーだの鳥よけの魔法だのを使ったもんだから、うちの大海燕たちまで大怪我だ! だいたい、野生のならまだしも、自分たちの飼ってる蛟だぞ!? その鼻先に蛟避けスプレーを撒くなんて、何考えてるんだよ陰陽寮の連中は!」
中庭の魔法生物飼育区域で蛟にシーサーペント用の餌を与えつつ、南方教授が怒声を上げた。南方サクマ魔法生物飼育学担当教師だ。大海燕の世話の担当者でもあるという。
「初等部の子たちは寮に泊まり込みになるかもしれないぞ。大海燕の体調だけは、万全の状態じゃなきゃあ飛ばすわけにはいかないからな」
後ろで無造作に束ねた髪を一旦ほどき、再び束ね直しながらサクマは腹立たしげにそうつぶやき、それからふと、何かに気づいたように後ろを振り返った。日焼けした顔には、そこではじめて背後に二人の闇祓いが立っている事に気がついた、と言った表情が浮かんでいる。
何故か硬直してしまったサクマを前に、エイシュウがミズホの脇腹を突っついた。言うべきことを、後輩に言わせようという魂胆なのだ。
「はじめまして。わたしたちは魔法省闇祓部のものです。海燕なんですが、集団登下校用の大型のものでなくても良いので、──」
闇祓いたちは、ロン・ウィーズリーを本土へと送り届けるため、なんとかして個人用の海燕でいいので飛ばしてもらえないか、との交渉に来たのだった。しかし、そのための言葉は、途中で止まることになった。硬直していたサクマが、おもむろにサファリジャケットのポケットへと手を突っ込むと杖を取り出し、
「せっ、青龍の敷島! ななな何しに来たんだ、教師として生徒に手出しはさせないぞ、このいじめっ子め!」
と、杖先をエイシュウに向けたのだった。数度の瞬きのあと、ミズホの怪訝な顔が先輩闇祓いへと向けられる。
サクマの杖と、後輩の視線を受け止めつつ、エイシュウは盛大に息を吐きだした。
「俺も闇祓いだよ、仕事できたんだ仕事で。あと、お前も他の連中も在学中にいじめた覚えはない」
「ほらー! いじめた側ほどそういうことは覚えてないんだ! 青龍の敷島、お前の評判は覚えてるぞ! 寮を問わず女の子を泣かせて回ってるって!」
うんざりしたようなエイシュウの反論に対し、更に打ち返された返答は、あまりにも予想外のものだった。
うぐっ、と笑いを必死に押し留めて失敗した声がすぐ隣で漏れ出すのを、エイシュウは聞いた。ミズホはスーツの袖口を口元に当てて笑いを漏らすまいとしているが、どう見ても肩が震えている。こうなってしまえば当のエイシュウとしては、絶望的な表情を浮かべて虚空を見上るほかにはどのような反応もしようがない。
「……いいか、『玄武のやべーやつ』、『むしろお前が新手の魔法生物』、南方サクマ。その評価は間違っちゃいないが、お前は意味を盛大に勘違いしているし、俺も現役の生徒に手を出したら捕まることぐらいは理解してる。お前は安心して一刻も早く海燕を回復させて、それから『女泣かせ』を辞書で引け」
笑いの発作への最後の抵抗が敗北に終わった音がミズホの口から吹き出した。サクマはミズホの反応と、エイシュウの言葉の意味と、二つ同時に理解できないことが現れたために途方に暮れたように二人の顔を見比べている。見かねたミズホが「女泣かせ」の意味を解説し始めるに至って、エイシュウの居たたまれなさは頂点に達した。ゆえに彼はあとは任せたと言い残し、足早にその場を立ち去っていったのだった。
実際のところ、海燕が今日中には使えないであろうことは薄々エイシュウにも分かってはいた。魔法所の海燕は、本土と南硫黄島の間を約一時間で飛ぶ。約七〇〇カイリ、一三〇〇キロの距離を一時間で飛ぶのだ。参考のため、音の速度が時速一二〇〇キロである。音速を超える速度での飛行は、海燕の名で呼ばれる魔法生物に、さらに速度強化だの衝撃吸収だの空気抵抗無効化だのといった各種の魔法を施した上でようやく実現できるものだ。それだけピーキーな改造を施した生物に、万にひとつでも異常があればどんな大惨事になるかは目に見えている。ましてや、乗せるのは何十人という子どもたちか、あるいはWWW経営者にして英国魔法大臣のファーストジェントルマンたるロナルド・ウィーズリーであるのだ。正直な話、警護役を仰せつかった身としては万全の状態になるまでは絶対に乗せる許可など出せるはずがない。かと言って、箒やその他の移動手段で海を超えるのも御免被りたいところだった。何しろ、繰り返しになるが本土との距離は一三〇〇キロだ。最高速度二〇〇キロ程度の箒だの各種
対処しなければならない様々なことに思いを馳せ、突発的なアクシデントとその原因に脳内で悪態をつきながら、エイシュウは白い引き戸を開いた。部屋の中からは、アルコールの臭いと各種の薬草の混じった独特の香りが漏れ出てくる。在学中、生徒ならば誰もが一度や二度はお世話になる場所、医務室だ。ただし、いま現在その部屋を占拠しているのは魔法所の生徒ではない。二十床もあるベッドの半分以上を占拠しているのは蛟を呼び込んで魔法所を本格的な絶海の孤島に仕立て上げた張本人、陰陽師たちだ。残らず海に叩き込まれた後再び上空一キロ以上に持ち上げられたせいで、急激な気温差やら気圧差やらで鼓膜をやられていたり凍傷にかかっていたりするようだ。校医の緒方
「あんたらの責任者は誰だ。いや、聞かなくても分かる。あんたらもたしか服の色で位階を示すんだったな」
ぼこぼこと湯立つ緑色の煎じ薬を苦渋の表情で飲み下す陰陽師たちのうち、青い水干を着た一人へとエイシュウは近づいていった。緒方慰師は、患者に近づく部外者になど気づかないかのように席を立った。さあて、便所にでも行ってくるか、とわざとらしく口に出したところを見るに、緒方慰師のトイレは少々長くなりそうだった。
「魔法省闇祓部捜査官、敷島エイシュウだ。あんたら、何しに来た? 魔法所は日本魔法省認可済みの魔法魔術学校だ、あんたらマグルの政府の役人がくちばしを突っ込む権限なんぞ存在しないはずだがな」
校医が扉の向こうに消えるとともに日本闇祓部の印をこれみよがしに光らせながら現れたエイシュウを前に、青水干の陰陽師は顔をしかめている。もっとも、表情の原因がエイシュウであるのかはたまた竜鱗湯の想像を絶する苦さであるのかはこの場合、判然としない。
「宮内庁陰陽寮、穂村
「卒業者名簿の件か? あれなら先週に送ったろう。あれだって、本来ならばマグルの下働き連中なんぞに提供する義務はなかったんだがなあ。依代の男、安藤だったかの身元をそちらが突き止めた関係上、義理でくれてやっただけで──」
「そうじゃない、昼に連絡した件だ!」
怒鳴り声とともに穂村は身を起こし、エイシュウの胸ぐらを掴んだ。いま彼が顔を歪ませているのは、間違いなくエイシュウへの怒りによるものだ。
「魔法界のエリートだかなんだか知らんが、事件を解決したいなら秘密主義をどうにかしたらどうだ、闇祓い! そちらじゃあ安藤タクヤの身元すら割れなかったんだろ、その上安藤の供述を連絡したってのに、礼を言うどころか嫌味を言うしか能がないのかよ、魔法使いさまは!」
エイシュウは、目を瞬かせた。ネクタイを掴まれ、引き寄せられた状態で浴びせられた怒声に圧倒されたわけではない。その内容が、彼にとっては全くの予想外のものであったのだ。
「この間の即位礼にしても、唐突に現れて何の連絡もなしに動いて──いや、事態を収拾してもらったことには感謝しているが──普段はこちらから要請しないと動きもしないくせに──」
穂村は、半ばとりとめを失った言葉を次々に吐き出しはじめた。黙り込んだ闇祓いを前に、今まで溜めに溜めた鬱憤をすべて吐き出しているのだろう。けれど、エイシュウはその言葉にはほとんど耳を傾けず、ジャケットに手を突っ込んだ。穂村が口をつぐみ、居並ぶ陰陽師たちもまた身を固くしたのは、杖を取り出すことを予期したゆえのものだろう。
けれど、エイシュウが引っ張り出したのは、彼のスマートフォンだった。
エイシュウが印籠のごとくに突き出したスマートフォンへと怪訝そうに目を止めた穂村は、はっと目を見開いた。ネクタイを強く引いていた手がゆっくりと緩められ、布団の上に落ちる。
「他のことはひとまず置いておくとして──連絡の件は、こういうことだ。考えりゃあ分かると思うがな、電波入るわけねえだろ、南硫黄島だぞ」
突きつけたスマートフォンの右上には、圏外の文字が表示されている。陰陽師たちも今気づいたように自分のスマートフォンを取り出しては、同様の表示か海水で完全に使用不能になっているところに直面し、うめき声を上げ始めた。
「で、あんたらは何の証言を聞いて、何のためにここに来たんだ?」
ネクタイを直しながら、再度、エイシュウははじめに訊ねたのと同じ趣意の質問を繰り返した。ただし、一度目の質問がほとんど嫌がらせのために発せられたのと違い、今度は本気で発せられている。
「それは──」
と、穂村が答えようとしたのと、
「大変です、敷島さん!」
と、声を荒げながら秋津・ミズホ・ローレンスが医務室に飛び込んでくるのは、ほとんど同時だった。
ミズホは、医務室に飛び込んだところでそこが医務室であることに気づき、口を抑えた。静かにしないと、と思ったものだろう。が、エイシュウに促され、すぐに告げるべき言葉を再開する。
「いま、倉田部長の
エイシュウは穂村へと視線を向けた。ベッドから半ば身を起こして、青衣の陰陽師はこくこくと首を縦に振っている。ミズホの言ったことは完全に正しいものであるらしい。
遠く、海鳥のなく声が風に乗り、開け放たれたままの窓から吹き込んでいる。夕暮れの水平線には、赤く焼けた空を背に群れをなし、住処へと帰るうみねこの他にはいかなる影もない。もちろん、元来ならば行き交っているはずの大海燕すらも見られはしない。
引き戸がまた開かれた。今度は緒方校医が戻ってきたのだ。潮風が一気に医務室へと吹き込み、生臭い潮の臭いを運び込む。
「つまり、俺達は絶海の孤島で、九百人以上の生徒に紛れた蟲入りの依代と一緒に海燕の回復を待たなきゃならないわけか」
エイシュウの言葉は、びょうびょうと吹きすさぶ風の音の中にあって、奇妙にかすれたような響きをともなっていた。
† † †
「危機を伴う状況であることの説明は必要だが、生徒への具体的な状況の説明は避けたほうが良い」
市來校長をはじめとする魔法所の教職員に今の状況を通達し、話し合ったすえの結論は、満場一致でそのようなものだった。腹中蟲が植え付けられた存在が生徒の中に居る可能性など、どのような種類のパニックを引き起こすかは火を見るより明らかだったからだ。
「えーっと、ロナルド・ウィーズリー氏をねらう反社会的魔法使いによる襲撃が予想されるため、生徒の皆さんは寮の大広間で、監督生および教師の監督のもと、集団で就寝してもらう。──って話で問題ありませんね?」
講堂の舞台袖で、秋津・ミズホ・ローレンスは先輩闇祓いへとごく小さな声で問いかけた。彼女は、講堂に再び集められた魔法所の生徒へと嘘の危機についての情報を話す大役を仰せつかったのだった。
エイシュウは一つうなずき、それから脇に立つロンを手で示してみせた。
「ウィーズリー氏の許可ももらってるんだ。ガキどもへ、スリルあふれる安全な一晩をプレゼントしてやれ」
実のところ、その安全対策と安全対策のための口実を発案したのはロンであったのだから、許可をもらうも何もあったものではない。舞台では、魔法薬学の貝原
「申し訳ありませんね、こんなことに巻き込んでしまって、対応策まで考えていただいて」
けれど、ロンは髭の生えた頬に微苦笑を浮かべつつ、首を左右に振った。
「考えたのは、僕じゃあない。僕がホグワーツ生だった頃の先生がただよ。知ってのとおり、僕の友人にはちょっとした有名人が居てね、彼をねらった事件が毎年のように起きていたんだ」
「ああ、トム・リドル事件のなかで。第五次報告書までの抄訳は読んだことがあります。当時は、さぞ大変だったことでしょう」
トム・リドル、通称ヴォルデモートはハリー・ポッターを葬るべくホグワーツ校へと度々魔術的な攻撃を仕掛け、最終的には校舎で生徒たちと少数の成人魔法使いによる籠城戦が繰り広げられた末にポッター氏によって討ち取られた。現在ではあまりにも有名な事件であり、当該事件とその背後関係に関する報告書も公開されているほどだ。だが、一連の事件が起きている時はけして今ほどにその次第が知られていたわけではなく、むしろトム・リドルの帰還を認めまいとした英国魔法省により隠蔽が図られ続け、結果的にリドル一派の躍進を招いたとも言う。──エイシュウの知る事件の概要は、おおよそそんなところだった。だが、その程度の情報でも、リアルタイムでハリー・ポッターの友人であったことに伴う困難はおおよそ予想がつくというものだ。
ロンは、しみじみとうなずいた。
「あの頃は、こんな対策七面倒臭いだけで何の役にも立たないだろうと思っていたものだけれど──なるほど、こんなことぐらいしか大人には出来ないし、それでもやらざるを得ないものなんだな」
そうして、青い瞳が遠い過去へと向けられた、そんなときのことだった。
講堂からざわめきが沸き起こり、そして、爆発のように広がっていったのだった。
「皆、静かに! 落ち着きなさい、そのような噂を流したのは誰です! 落ち着きなさい、そんなものは嘘です──」
貝原教授が、冷静さを装った声で生徒たちに呼びかけている。だがその声は拡声呪文を使ってなお、混乱する生徒たちの耳には届いているとも思えない。
「どうした、何が起きたんだ」
慌てて舞台に走り出たエイシュウは、壇上で途方に暮れるミズホに問いかけた。
「それが、」
とミズホが離しだそうとするのと、生徒たちの恐慌のなかからひときわ高い声で、
「ねえ、本当なんですか! 魔法所の中に、闇の魔法で操られてる生徒が居るっていうのは!」
と、声が上がるのとは、ほとんど同時だった。
その後に訪れたのは、完全な狂乱だった。あちこちから悲鳴が上がり、初等部の生徒が泣きはじめ、中等部や高等部の生徒の中からも気絶をするものや、過呼吸を起こすものが出始める。典型的な集団パニックだ。
その場は教師たちや監督生たちが
「──どこから漏れた?」
ようやくエイシュウがその疑問を口にできたのは、初等部の生徒を四つの寮へと振り分けきり、会議室の大円卓の周囲に大人たちだけが集まった時のことだった。暗い海からの潮風が吹き込む会議室で額を突きつけあっているのは、校長と寮監を除いた教師たちと陰陽師たちに、ふたりの闇祓いだ。
「倉田部長の守護霊は最初に『子供の居ない場所で聞け』と指示して、南方先生が魔法生物の能力であたりに音が届かなくしてくれました。守護霊の伝言が漏れた線はありません」
ミズホの証言に、サクマがこくこくとうなずいた。なんでも、中庭には
「あんたらが蟲の話をしてたって言うと、俺が戻ってきたときだろ? あんときゃ外には誰も居なかったよ」
続き、緒方校医が発言し、あとは沈黙が場を支配した。エイシュウの問いへ、答えるものが居なくなったからではない。校内に蟲を植え付けられた依代が居る、という情報の出どころが、ただ一つしか考えようがなくなったことによるものだ。
「つまり、依代はご丁寧に自分が紛れ込んだことを知らせてくれたってわけか」
沈黙を破ったのは、エイシュウのそんな言葉だった。そう、他に情報が漏れた可能性が存在しないならば、その噂を流したのは紛れ込んだ本人としか考えようがないのだ。
「先の事件のガイ者が証言したってことは、目撃した時期は22日前後だろう。その時期に外出か帰省していたもので絞り込めないか」
「20日が日曜の、一日飛んで22日も祝日だろう。外出者なんていくらでもいる、絞り込むには骨が折れるぞ」
「年齢は? 女、って証言だったはずですから、子供には見えない年齢だったんだと思うんです」
「って言ってもな、高校から上であれば、育ち具合によっちゃあ判別つかんぞ。実際、制服着てても制服とわからなかったんだろう……」
と、議論が進まず錯綜するなか、不意に扉が開いた。駆け込んできたのは、見たところ初等部にあたる年まわりの生徒たちだ。生徒が勝手に寮を抜け出して、会議室に入ってきたのだろうか? だが、それにしては妙なのは、先生たちの反応だ。
「あなた達、一体何を──いや、あなた達、誰?」
初等部を受け持っているはずの教師たちは特に、一様に怪訝な顔をして席から立ち上がっている。どうやら、そこにいる子どもたちに見覚えがないらしい。警戒を顕に中等部以上の教授陣や、闇祓いの二人も立ち上がったときのことだ。
「失礼、こっちのスタッフだよ。
青い水干姿の陰陽師にそう命じられると、四人の子どもたちはぴょんとその場で飛び上がってみせた。飛び上がった子どもたちは空中で回転しながら陰陽師たちの頭上を超え、円卓の上へと着地する。人の子供にしては驚異的な身体能力と言えよう。いや、実際に、子どもたちであった四つの姿は、円卓の上に現れたときにはすでに他の姿に変わっていた。
「
ミズホが思わずそんな感想を漏らしたが、それにかぶさる形で響いた、
「うわあ! すごい、化け──じゃなかった、稲荷神の使いだ! はじめてお目にかかります!」
との声のほうが、どうやら正解であったらしい。机上に現れた四匹の白狐は魔法生物飼育学教授に視線をやると、胸を張ってみせた。サクマは一人だけ場違いに興奮しながらも、どこから取り出したのか、皿に載せた油揚げを差し出している。
「なんや、魔法使いはんらにも、うちらへの礼儀を知ってはる方がおるんやなあ。魔法使いちゅうのんはうちらを魔法生物やなんやゆうて、分類だの人との関わりだの野暮を言わはる方だけか思うてたわ」
つまりは、陰陽寮では「稲荷神の使い」こと化け狐をスタッフとして雇い入れており、時としてその変化術を使って情報収集を頼んでいる、ということのようだ。今も初等部の生徒に化けて朱雀・玄武・白虎・青龍四つの寮へと潜入し、噂の出どころを探ってきたところであるのだという。
「噂は、大半の子ぉらはあの講堂ではじめて聞いた、ちゅう話や。ほんで、その講堂で騒ぎ立てた子ぉらが問題や」
飯綱狐が話す横で、残る三匹の狐が再び宙返りをして炎へと化けてみせた。炎は一度各寮のシンボルの姿を取ったあと、いくつかの子供の姿へと?化してゆく。おお、と驚嘆の声を上げたのは、変身術の教授陣だった。狐たちの変化はどうやら、かなり高度な技術であるようだ。
「噂をたどっていくと、この子ぉらから前には辿れへんかったわ。だから、問題はこの子ぉらがどこでその噂を聞いたかやけど、この子ぉらは『みんなが言っていた』としか言わへんのよ」
狐火の作った像は、子どもたちを特定するには十分なものであったらしい。すぐさま生徒名簿が
「かわいそうに、おそらく何らかの術を掛けられとるんやろなあ。せやけど、それは人の領域の話や。うちらはこれにて」
と、最後に飯綱狐も宙返りとともに炎へ変わり、四匹ぶんの狐火は一つにまとまって空中で大きな提灯となり、天狗となり、達磨となり、ガシャドクロとなり、何処かの祭神じみた姿になり、七変化の末に穂村陰陽師の持つ竹筒の中へと収まって行った。七変化のさなかに油揚げもさらっていったものらしい。空になった更を前に、南方サクマ教授だけが興奮して何かを凄まじい早口で喋っている。が、目下の注目の的は、生徒名簿からピックアップされ、空中に投影された写真と経歴だ。
「朱雀が三人、玄武が一人、白虎が二人、青龍が二人。学年は全員が初等部である以外、まんべんなく一年生から六年生に散らばっている。──と、なると、ここにいる全員に接触を図ることができる機会なんて、そうはなんじゃないか?」
エイシュウの言葉に、すかさず貝原教授が杖を振った。すると、今日の初等部の全学年四クラスぶんの時間割と校舎のミニチュア模型が机の上に現れ、その中で「噂の発信源」の子どもたちの出席した授業で使われた教室だけが時系列を追って光り輝いていった。だが、初等部は一部の科目を覗いては完全なクラス制で、給食もクラスの席で食べる方式になっているという。四クラスの生徒が同じ場所はおろか、近い場所に集まることすら無いまま時間割は六時間目へと至ってしまった。
「授業時間中には接触は不可能か。となると、その前か後? 待てよ、後と言ったら……」
エイシュウの視線が校舎の模型を超え、陰陽師たちへと向いた。丁度視線を受け止める形となった穂村はぎょっとして首をブンブンと左右に振ったが、他の陰陽師の中には事態を理解したものもいたらしい。中でも、ああ、と得心したように声を上げたのは、赤い水干を着た陰陽師だった。赤色は、陰陽師の位階では紫と青に次ぐ位階を表すものだ。
「あんなにズッチーが暴れたの、おかしいと思ったのよ。いつもならあたしの言うことを聞かないなんて絶対にありえないし。あそこに誰か、害意を持った第三者がいたのなら理解できるわ」
赤水干の陰陽師の言葉に、えっ、と声を上げたものが居た。それまでじっと話を聞いていたミズホだ。
「ズッチーってあの蛟のこと? 誰かが蛟よけスプレーを使ったと聞いたんですが、あなた方が使ったわけじゃあ無かったんですか?」
「蛟避けスプレー? 蚊避けスプレーの誤字じゃなく? なにそれ、魔法使いはそんなの使うの?」
ミズホの質問に、猿曳という名の陰陽師は本気で蛟避けスプレーを知らない様子で逆に問いを返した。その後さらに話を聞き出したところによれば、どうやら鳥避けの魔法の類も陰陽師たちは使っておらず、つまりはあの場で起きた騒ぎの原因も直接的には陰陽師達によるものではなかったらしい。考えてみれば、当たり前の話ではある。非魔法所出身の魔法族たちは、ほぼマグルに近い生活を送る。業務の範囲内では魔法界の事情に通じているはずの陰陽師にしても、魔法界の日用品である蛟よけスプレーや、同じく生活の知恵である鳥避けの魔法については知悉していないのだ。
「と、なると、あの場に犯人が居たと見て間違いなさそうだ。蛟避けスプレーと鳥避けの魔法で騒ぎを起こして、その隙に初等部の生徒に何らかの呪文を掛けた。いや、この場合、使った呪文は一つしかありえないな」
エイシュウの言葉に、陰陽師を除くその場の全員が重々しくうなずいた。
「第三号指定禁呪、
ミズホの言葉を待つまでもなく、何名かの教師はすでに立ち上がり、小走りに会議室をでていった。噂の発生源となった子どもたちを隔離しておくためだ。日本魔法法第三号指定禁呪
「だが、依代が禁呪を使ったとなれば話は早い。あのとき初等部の生徒以外であの場に居た生徒を連れてきて、ローブを着せればいいんだ。先生方、ご協力願えますか」
緒方校医や薬草学、魔法薬学の教授陣が子どもたちに害のない睡眠薬を急遽作り上げる横で、残る教授陣はエイシュウの言葉に深くうなずいて何人かはすぐさま立ち上がった。が、今度は陰陽師のみならず、ミズホも不思議そうに首をかしげる番だった。
「ローブって、あれですよね? 色が変わるっていう。禁呪を使っても色が変わるんですか?」
「ああ。禁呪だけじゃあない、他の呪文のコンボ技で人を殺したり傷つけたり物を盗んだり──まあ、とにかく倫理に大きくもとることを実行したが最後、ほれ」
事情が飲み込めていないらしいホグワーツ出身の新人闇祓いの肩に、エイシュウは先生が用意した新品のローブを乗せた。誰も袖を通していない状態では桜色だったローブはミズホの方に振れた途端その場所から白く脱色したように色が変化していき、しまいには全て真っ白になってしまった。
「はは、真っ白だな。その格好で生徒たちの前に出るなよ、すごい勢いで逃げられるからな」
前述のとおり、魔法所のローブは成績に応じて桜色から金色の間で色の変化を起こす。だが、その他にもう一つ存在するのが、白色の状態だ。
「つまり、禁呪を使った上でローブを着たら、絶対にローブが白くなるから誰が禁呪を使ったか分かる、ってことですね」
「そういうことだ」
ミズホが脱いだローブはまた再び色の変化を始め、机の上に置かれた途端にもとの桜色へと戻りきった。明確な持ち主の居るローブであれば一度袖を通して変化した色は脱いでも保たれるのだが、このローブの場合は予備の品であるために誰も着ていないときには初期状態に戻るようだ。
「……でも、妙だと思いませんか、敷島さん」
生徒を待つ間に、ふとミズホが深刻な表情で疑問を発した。
「ん、なにがだ」
「どうして、自分がここにいることを知らせたりしたんでしょう。なにかを企んでいるなら、怪しい人物がいることなんて知らせないほうが絶対に楽なはずなのに」
たしかに、そのとおりだった。何を企んでいるにしても、怪しい人間が居ることなど知らせないほうが動きやすいはずなのだ。
「それは──当人を引きずり出したあとに聞いたほうが早そうだな」
扉の向こうに無数の足音が近づくのを聞き、エイシュウは結論を先送りにした。各寮から、条件に該当する生徒たちが教師たちに連れられてやってきたようだった。
集められた生徒は総勢二十五名、内訳としては各寮の男女一名ずつの監督生と役員生が数名ずつという形だった。役員生というのはモデルとなったホグワーツにはない独自の制度で、監督生の権限で一つの寮につき最大六名程度選ぶことのできる補佐役にあたる。初等部の生徒を大海燕バスに乗せるときには監督生と役員生が付くことになっているため、あのとき初等部の生徒の他にあの場に居たのは「優秀な生徒たち」になる、という次第だった。
「半数くらいはもうクリアしてますね。となると、残りはあと半分。どうします、一人ずつこっちに呼んでローブを着てもらいますか」
会議室の隣の多目的に集まった面々をブラインド越しに伺いつつ、ミズホが小声で訊ねた。生徒たちにはあくまで、初等部の生徒たちへの明朝の対応を伝えるためにこの場に集めた、という名目を伝えてあるため、半数ほどははじめからローブを羽織っている一方、残る半数はローブを小脇に抱えた状態であったり、あるいはローブなど持参してきていない、という状況であるのだ。監督生やそれに次ぐ役員生は、優秀な生徒ではあるが必ずしも真面目な生徒であるとは限らない。このあたりは、ホグワーツの監督生とも事情は同じだろう。
同じく隣室を伺っていたエイシュウは、ボリボリと頭をかいた。その表情からは、何を考えているかは伺いしれない。対してブラインドの向こうでは、教師たちが時折会議室に続く窓を伺っている。嘘の名目で集めているため、その場を取り繕うのに四苦八苦しているようだ。
「……いや。こうしよう」
と、言うが早いか、エイシュウは色の変化を試しては感嘆を漏らしていた陰陽師たちの手元から持ち主不在のローブを呼び寄せ、隣室へと続く扉を押し開けた。
「監督生、および役員の諸君。君たちの中に、服従呪文に極めて近いか、それ以上に厄介な呪いで操られている可能性のあるものが居る。その生徒はおそらく、禁呪を使わされたはずだ。それを調べるために、この場でローブを羽織ってもらいたい」
一挙にエイシュウがそれだけのことをいい切ったあとの多目的教室の中には、数秒間の沈黙の後、驚愕と困惑とが吹き荒れることとなった。驚愕を示したのは、生徒たちだけではない。彼らを連れてきた教授陣も、後から部屋に入ってきたミズホも、あまりに単刀直入な物言いに口を開き、目を見開いてエイシュウへ非難がましい眼を向ける他なくなっている。
「敷島さん、それは、この場でというのはあんまりじゃあ──」
直接に非難の声を上げたミズホを手で制し、エイシュウは言葉を続けた。
「諸君は、現在の魔法所の中でも責任を追うに足りる能力と判断力を持ったものであるはずだ。ならば、操られた監督生、あるいは役員生が居ることで起きうる弊害にも、意に反して操られた結果ローブが白くなった友人にどのような態度で接するべきであるかも理解できると信じている」
ミズホが、口をつぐんだ。生徒たちが互いに顔を見合わせ、そして、誰ともなくうなずきあったのだ。そうして、ローブを持っていたものはその場でローブを羽織り、そうでないものはエイシュウの前に並んで桜色のローブに袖を通しはじめた。室内には、山吹色、鬱金色、琥珀色、淡黄色、檸檬色、その他諸々の優秀な成績を示すローブの色が現れてゆく。翻せば、白いローブは現れないということだ。だが、だからといって石造りの冷たい室内に流れる空気に変化はない。むしろ、より一層緊張は高まり、張り詰めていくかのようだ。なぜならば──
「──あ、あたし、違う。違うよ、操られてなんて居ない、はず……」
そう、なぜならば、白いローブではないものが現れるということは、残るものの中に依代がいるということになる。無罪が証明されたものはどうしてもまだローブを羽織っていないものへと疑いの目をむけ、残されたものの方もことが服従魔法に類似した呪術とあって、自身が気づかぬうちに蟲の依代になっているのではないかとの恐怖に慄くことになるのだ。
ローブに手を伸ばしたまま、ガタガタと全身を震わせているのは、白虎寮の役員だった。いや、エイシュウはその少女を知っていた。ロン・ウィーズリーの講演に遅れて入っていった少女、一ツ目ナギサだった。ナギサは、昼には着込んでいたはずのローブを今は羽織ってすら居ない。
「ナギサ、そう言えばこないだも一時帰省してたよね。あれって……」
同じく白虎寮の役員が、ナギサの一時帰省について思い出したらしく口に出したところで、室内の空気はなお一層張り詰めたものとなった。もちろん、言われた側は必死で否定しようとする。
「違う、あれはいつものとおり、家の仕事の手伝いをしてただけだってば! だから、違う、違うんだって──」
ナギサが動転して友人に取りすがろうとするに至り、生徒、教師問わず杖を握るものも現れ始めた。今すぐに緊張が爆発してもおかしくない。エイシュウは両手を上げ、口を開こうとした。
だが、彼が仲裁に入るよりも、
「何言ってるの、あなた一ツ目さんとずっと同室で、いつも一緒に居たんでしょう、桐生さん。それが、友人を信じようともしないなんて!」
と、声を荒げた女子生徒が仲裁に入るほうがよほど早かった。朱雀寮女子監督生、小鳥遊カリンだ。
カリンはナギサに近づき、背後から肩に両手を置いた。カリンの顔には、安心しろ、というような微笑みが浮かんでいる。驚いて振り返ったナギサに向けたものだ。
けれど、カリンの表情はすぐに引き締まり、怒りをたたえたものへと変化した。その対象は、周囲の役員生、監督生たちだ。
「だいたい、あなたたち、さっきそちらの闇祓いの方が言ったことを聞いていなかったの? 操られた上で、白服になってしまった友人に対して取るべき態度がそんなものであるはずがないでしょう!」
朱雀寮監督生の叱咤の声を受け、生徒たちはもちろん、思わず杖に手を伸ばしてしまった教師たちも恥じ入ったようにうつむき、頬を赤らめはじめる。その様子を見てホッとしたように息をつくと、カリンはまた再び、一ツ目ナギサへと顔を向けた。今度はナギサの前へと周り、その眼を覗き込むようにして、だ。
「ねえ、一ツ目さん。気にすることはないわ。腹中蟲に操られていたら仕様がないことなんて、みんな分かっているんだから──」
カリンがそこまで言ったところで、
「え?」
と、ナギサが怪訝な表情を浮かべた。同時に、ミズホがすぐさま杖を抜いて周囲に
「な、何、どうしたんです? 闇祓いのお二方。私は大丈夫よ。それより、早く一ツ目さんを──」
盾の呪文を張り終えたミズホが、黙って一ツ目ナギサの肩に桜色のローブを掛けた。ローブは、たちまちのうちに色を変え──そして、金に近い梔子色へと変化を遂げた。そう、白ではなく、エイシュウが見た梔子色のままだ。
周囲で、同じく盾の呪文を唱える声が重なった。事態を理解した他の監督生と役員生、教師たちが、厳重に防御の体制に入ったのだ。
「小鳥遊さん、かばってくれてありがとう」
ナギサもまた盾の呪文を唱えた後、穏やかな調子でカリンに話しかけた。
「小鳥遊さんの言ったこと、そのとおりだと思う。だから、大丈夫よ。いま小鳥遊さんは操られていて、そのことに自分でも気がついていないのよね」
「何言ってるの、私はなにも──」
「腹中蟲って、私、聞いたことないわ。たぶん、他のみんなもそうだと思う」
カリンの目が大きく見開かれ、あたりを素早く見回した。監督生と役員生たちは、一様に緊張した面持ちでカリンに向けて杖を構えている。それこそが、ナギサの言ったことへの明白な答えに他ならなかった。
いつしか、窓から吹き込む風はやんでいた。代わりに、室内にはヘドロの混じったような磯臭さが漂っている。
「本物そっくりの、染色して作ったローブ。俺の頃にもあったよ」
桜色のローブがナギサからエイシュウへ渡され、そして、小鳥遊カリンの肩へとそっと掛けられた。輝く寸前の黄金のような色をしたローブの上で、桜色のローブはまたたく間に色を落とし、白へと変わってゆく。
「小鳥遊カリン、君の杖を証拠品として押収させてもらう。これは闇祓官職務執行法二条一項に基づいた処置だ」
杖をカリンに向けたまま、エイシュウはミズホに指示を出した。意外にも、カリンは抵抗することなく素直にミズホが杖を抜き取られるがままになっていた。真っ直ぐに切りそろえた黒い前髪の下で、カリンの黒い瞳は何の感情をもたたえてはいないかのようだ。その姿は、どこか望外の事件を前に呆然としているようにも見えないでもない。
今現在、腹中蟲に操られていた安藤タクヤが、はたして蟲をどのようにして植え付けられるに至ったのかはまだ証言を取れていない。そもそも、蟲を入れられたのが合意の上であるのか否かですらわかっていないのだ。だが、この様子ならばもしかすると、気づかないうちに蟲を植え付けられた可能性すらあるのではないか?
「小鳥遊カリンさん。あなたが呪術で操られた結果禁呪を使っていたり、あるいは反社会的魔法使いに該当する存在による脅迫によってそのような呪術を受ける事になっていた場合、決してあなたはこの学校から追い出されたり、将来の道を絶たれることはない」
ミズホも、同様の考えに至ったものらしい。押収した杖をエイシュウに渡すと、白いローブを羽織ったままうつむいた少女の顔を覗き込み、ことさらに好意的に聞こえるよう務めた声で話しかけ始めた。
「あれよ、闇祓いなんてしょっちゅう禁呪を使うから、ローブなんか着たら間違いなく全員真っ白だし。だから、別にあなた、犯罪者になったわけじゃあ──」
さらにミズホはカリンに近づき、ローブを取ろうとしたのだろう、両手を肩へと伸ばした。
その瞬間のことだ。
「……、ない」
まるで、地の底から響くような声が、多目的室の中に小さく響いた。同時に、ミズホがぱっと背後へと飛び退り、わずかに遅れて室内に赤い閃光が走った。赤い閃光を体から直接放つ小鳥遊カリンの顔には、あの呪術的な文様が赤々と浮き上がっている。前回の安藤タクヤと同じで、杖なしでも強力な呪文の行使が可能になっているのだ。とはいえ、いかなる呪文であれ、
「脅迫でも、操られた結果でも、どちらでもない! 私は、私の意思で
凪いでいた潮風に変わり、室内にはカリンの体を中心に突風が巻き起っていた。フローリングマットはもちろん、机や椅子、はては黒板までもが風に剥ぎ取られ、互いにぶつかり瓦礫となって飛び交い、多目的室の中は一瞬にして肉挽き機の中であるかのような様相を呈することとなる。日本式の
だが、この場に居たのは、魔法所の教師と各寮でも最も優秀な生徒たちだ。生徒の半数近くはすでに無言呪文を習得しており、そうでないものもすぐさま盾の呪文に変わる適切な呪文を唱え、自らに迫る脅威を排除するだけの瞬発力は有していた。室内を荒れ狂う瓦礫はあちらでは跳ね返されそちらではバリケードの材料となりこちらではシャボン玉へと姿を変え舞い散る花びらに変わり、海の外へと吹き飛ばされていく。瓦礫の合間を縫って走る赤い閃光も、
やがて風すらも打ち消され、床材を変化させた檻がカリンの周囲を取り囲んだ。意外にも、先程の突風以上の抵抗らしい抵抗はなく、周囲を囲む檻とその向こうに見える無数の杖を前にして蟲の依代は静かに微笑んでいる。だが、先程の一件を思えばその程度で油断はできるはずがない。
「ねえ。ずっと思っていたのだけど、大人の人っていちいち何をするにも大掛かりで、何もかも遅すぎるわ」
さらに、全く脈絡のないことを口にしながらカリンは不敵な笑みすらも浮かべてみせた。ブラフにしてはあまりにも堂々としすぎているようだ、が、だからといってこの状態で何ができるとも思えない。
「そのローブ、おそらく防御呪文をかけているな、いますぐに脱げ」
「それに、人の質問に答えようともしない。あのWWWの経営者もそうだったわ、質問に答えもせずに逃げてしまって。私、もっとたくさん言いたいことがあったのよ、彼の信念はあまりに魔法族と非魔法族を別種の生き物かのように考えた上、非魔法族を見下した視点によるものではないか、とか、とか、H・G・ウィーズリー大臣のマグル製品不正使用法の修正案はあまりにも限定的にすぎるのじゃないか、とか」
「ローブを脱げと言っている、聞こえないのか」
小馬鹿にしたような溜息とともに、カリンの手がゆっくりと偽物のローブのボタンを外しはじめる。その様子は、まるで時間を稼いでいるかのようだ。
いや、考えてみれば、これまでの行動も全てが、時間稼ぎなのではないか。そう効果のない
ことさらゆっくりとローブを脱ぐ小鳥遊カリンの体を挟んだちょうど真向かい、檻の向こう側にあるミズホの薄茶色の目と、エイシュウの視線がかち合った。どうやら、ミズホにしても同種の危惧を抱くに至ったようだ。
「小鳥遊さん、あなた、一体何を待っているの?」
ミズホの問いに、少女の赤い唇がにい、とつり上がっていった。ローブを床に置け、とエイシュウが怒声を上げるのと、
「
との声とともに扉そのものが勢いよく開くのとは、ほとんど同時だった。
度重なる異常事態に直面して、その場にあってすぐさま動けたものは皆無だった。すでに緊張の糸など一度途切れている。刺激に対し、神経は鈍麻し始めている頃合いだ。その上、開いたドアの先に立っていたのは杖を持っているとは言え、パジャマ姿の初等部の生徒たちだったのだ。あらたな危機が訪れたと思って動くものなど皆無であったろう。
「
「
「
たどたどしく放たれたいくつもの呪文は、しかし、人に害をなすには至らなかった。あらん限りの護符が飛来し、呪文を防いでいったのだ。陰陽師の護符だ。
「おい闇祓い、なんだよこれは! 会議室の方も子どもに占拠されかけてるんだ、あの子たちも操られてるのか!?」
青服の陰陽師、穂村カツミがあるだけの護符を撒き散らすスキに、陰陽師たちが会議室から多目的室へと待避してきた。会議室に続くドアの向こうにも、無数の子どもの姿と護符の防衛線が築かれている。どうやらこの護符は物理障壁に近い効果を持つものらしく、子どもたちは空中に整列する護符で隔てられた空間から先には進めずに居る。だが、護符の防衛線も、子供の魔力によるものとはいえ何十何百と飛来する攻撃呪文の前には徐々に削られているようだ。
再び室内にあるものを変化させて護符の防衛線を補強する形で障壁が作り上げられるなか、哄笑が響き渡った。その出処は無論、檻の中の少女だ。服従呪文の影響下にある者に対しては、距離や間に存在する物理的な障害物に関わりなく術者さえ存在していれば命令を下すことが出来る。トム・リドル事件に際して、多数の英国魔法族がトム・リドルの支配下に置かれた──あるいはそう称して罪を逃れ得ることができた所以である。この場合、この部屋に来る以前か、あるいは盾の呪文が途切れた合間を縫えばいくらでも命令は下すことが出来ただろう。
「あはは、はは、ははは、ああ、可笑しい! こうしてしまえばよかったんだわ、ずっと早くに! じきに、魔法所は御前様のものになる。みな御前様のお考えに従い、御前様の理想を実現するために魔法の力を使うようになるのだわ。なんて美しい──」
「御前様? さっきも言っていたな、それが、お前に蟲を植え付けた人物か」
「植え付けただなんて、品のない言い方はやめて頂戴。御前様は、私にこれだけのことを成す力を注いでくださったのよ」
カリンは脱ぎかけていたローブを再びその身にきつく巻きつけながら、自らの下腹をなで上げてみせた。その薄い腹の中に存在する蟲を、まるで愛しく思っているかのように。
各種爆発音に混じり、札が尽きた、と叫ぶ声が室内に響いた。陰陽師の手持ちの護符がついに底をつきたものらしい。防衛線の一層を失ったバリケードは、崩壊する速度を増し始める。
「あなた達も、御前様にしたがってその理想を受け入れれば、すぐに考えが変わるわ。……と言っても、そっちのおじさんはもう頭が固くなって無理そうだけど、でも、あなた、ええと、秋津・ミズホ・ローレンスさん、でしたっけ? あなた、見たところ私とそう年が変わらないのじゃない? あなたならきっと、御前様の考えを──」
修復の間に合わないバリケードの破片が飛び散る中、カリンはくるりと後ろを向き、檻の外でバリケードの構築を続けるミズホに向けて手を伸ばしてみせた。その手には、赤い閃光がある。これまでの件から考えるに、おそらくその閃光は服従呪文であるのだろう。通常は不可視の呪文だが、蟲によって増幅された結果閃光を帯びるようになったのかもしれない。
が、その閃光は不意に、かき消えた。誰かが対抗呪文や盾の呪文を放ったわけではない。振り返ったミズホがカリンに手を伸ばし、そのローブを掴んで思い切り引っ張ったのだ。
檻の外から着ている服を引っ張っているため、当然ながら、カリンは檻に押し付けられている形となる。
「えっ? いやちょっと、何やって、」
「あっ本当だこの服パチもんだから案外生地がショボい! 敷島さん、ハサミ作ってくださいハサミ! ナイフでもいいです!」
「え? ──ああ、そうか、分かった!」
一拍の呼吸のあと、意図を理解したエイシュウはすぐさま目の前に飛んできたバリケードの破片を裁ちバサミに変化させ、魔法所の生徒御用達の成績偽装用偽ローブ、『お母さんも安心! 理想の成績ローブ(ほぼ金)』の布地に走らせた。魔法合戦になると何故か頭から抜け落ちてしまいがちだが、魔法製品は、物理的に破壊できる。というかよほど念入りに作られた品でもない限り、物理破壊のほうが手っ取り早いことのほうが多い。
小学生のお小遣いからでも買うことの出来るローブには基本的な制圧用魔法への対抗呪文は掛けられていたものの、物理的な攻撃への防御は全く備わっていなかったようだ。ミズホがローブを掴んでカリンを檻に固定している間に、『理想の成績ローブ(ほぼ金)』の背は完全に両断され、袖口も半ばまで切りさかれるに至り、
「やった、脱げた! 敷島さん、呪文を!」
ということになった。
ローブの切れ端を両手に掴む後輩闇祓いと、その前で慌てふためいて今更に檻を両手で揺らし、逃げ出そうとする小鳥遊カリンの姿を見据えながら、エイシュウは杖を構え、呪文を口にした。
「
前回と違い、本人をそう痛めつけては居らず、しかも術者もかのハリー・ポッターほどには魔力を有していないごく平均的な闇祓いである。もしかすると、一度では効果がないのではないか、とのエイシュウの危惧は、しかし、すぐに晴れることとなった。
「うぐ、あ、うああ、ああ」
という苦悶の声とともにその両足の間に血を滴らせ、最後に血の塊とともに巨大な地虫を産み落とさせる効果をもたらしたようだった。そう、この場合、腹中蟲はまさに産み落とされたという表現がふさわしかった。小鳥遊カリンの
エイシュウが杖を振ると、腹中虫は瓶の中に詰め込まれて手元へと飛んできた。明らかに前回の腹中蟲よりも図体が大きく肥大しているぶん、瓶も駄菓子屋にある飴の瓶ほどの大きさになり、片手では受け止めきれずそのまま床へと軟着陸させる。未練がましくカリンの手が瓶に向けて伸ばされたが、檻の中からは手の届きようもない。
いつしか、バリケードを破壊する音は消え去り、子供の泣き声と不安げなざわめきへと置き換わっていた。初等部の生徒たちを支配していた禁呪の効果が、蟲と依代のつながりが絶たれたために消え去ったようだ。
やがて、窓から流れ込む生臭い潮の臭いと血の臭いが交じる中、泣き声にまじり、あちこちで呪文を唱える声が上がりはじめた。呪文はたいていは、応急処置の呪文だ。たまに額に札を貼られている子供が居るのは、陰陽師が救急用の呪符を応急処置呪文の代わりとしたもののようだ。が、どうも効果が過剰であるらしく、傷を治すのに解熱の効果も発揮されて喉の渇きを訴えるものも現れ、なかなか現場は混沌としつつある。
「ふ、ふふ」
自分も応急処置に加わりつつ、校医を呼ぶため使い魔代わりの守護霊を医務室まで飛ばしたエイシュウの耳に虚ろな笑い声が届いた。小鳥遊カリンが血の中にうずくまったまま、それでもどうにか虚勢を張ろうとしているのだ。一度は視線をすぐに外しかけたが、その足元に溜まった血が先程より増えていることについては見過ごすわけにも行かず、彼は蟲の依代であった少女に視線を向けた。心情的には全く同情の念は沸かないものの、出血だけは放置しては命に関わる。が、部位的に男の自分が応急処置呪文をかけるのも気が引けて、エイシュウはあちこちで
ミズホが杖先を少女の腹部に当て、無言で呪文を行使したときのことだ。
「いい、安心するのはまだ早いわ」
カリンは未だ闘争心を失っていない様子で、不敵な笑みを浮かべた。
「計画はまだこれで終わりじゃあないのよ。遅すぎる、と言ったでしょう、この場所にはとっくに、御前様の眷属が向かっているのよ。少しばかり予定が狂ったけれど、これだけボロボロの様子じゃあ、もうあれほどの攻勢には耐えられないことでしょう」
エイシュウは、応急処置呪文をカリンに施すミズホと顔を見合わせた。二人の顔に浮かぶのは、ちょっとした驚きの表情だ。だが、それは偶然に見かけたデジタル時計の時刻がゾロ目だった、とか、そういった類の驚きをあらわしたもののように見える。さらに言えば、エイシュウは開いた窓の外へと視線をやり、安心したように笑ってさえ見せたのだ。その様子はまるきり、危機を前にしたものの態度とは思い難い。
「な、何よその態度は、一体何を見て──」
と、エイシュウと同じく窓の外を見たカリンは、彼女が想定していたであろう反応を、自身で再現することとなった。それまで苦悶に歪むことはあれど、常に余裕ぶった態度を取ろうと努めてきた小鳥遊カリンは、窓の外に広がる景色にはじめて驚愕の表情を浮かべたのだ。無理もあるまい。窓の外、元来どこまでも黒い海と空に星ばかりが光っているはずの景色の中には、まばゆいばかりの光の塊が水平線の上に浮かんでいたのだ。船団や、あるいは飛行機の光というわけではない。それは明らかにビルの光、夜も眠ることを知らない大都市の灯だった。しかもその灯りは次第に、ゆっくりとではあるが窓に近づいてきているように見受けられる。
いや、街の灯が動き、近づいてくることなどありえない。だとすれば、動いているものが何であるかは明白だ。
「ま、魔法所を──校舎を、まるごと本土まで運んでいるというの!? いったい、どうやって、いつから!」
もはや動転を隠しもせずにカリンが叫んだことで、他にも窓の外に目を向けるものがあらわれたようだ。室内から、感嘆のどよめきが上がりはじめた。野戦病院じみた状況にあっても、それほどにその光景は──上空一キロほどの高度を保ったまま魔法所の校舎そのものが風を切り、千三百キロあまりの距離を移動して東京湾へと辿り着こうとしているこの光景は、あまりに衝撃的なものであったのだ。
「時間的には、君の存在が明らかになったあたりからかな。いや、おそらく襲撃が予定されているというのはウィーズリー氏の助言というかほとんどヤマカンみたいなものだったんだがな、本当に当たるとはな」
答えたのはエイシュウだった。そう、校舎の移動は実は日が暮れ始める前、海燕による移動が不可能となり、校舎内に依代が居ると判明した時点ですでに始まっていたのだ。海燕ほどの速度は出せはしないが、それでも一晩以上の時間を掛ければ十分本土に到達できるというわけだ。
「でもって、方法というか動力源については──」
と、説明を続けようとしたエイシュウの背に、冷たいものが走った。精神的ななにかによって怖気が走ったというわけではない。その瞬間、間違いなくエイシュウの背筋には冷たいものが触れた、というか重なり合っていた。ゴーストの半透明の体が、エイシュウの背をなぜかわざわざ通り抜けて部屋の中に現れたのだ。
「動力源とは失礼なことをゆ、動かしちょったんなおいじゃ。だいか一人くれはおいが居らんこっを不思議に思うてくれてん良かったて思うどがな」
カリンの顔は、市來タテワキ校長の姿を前に蒼白を通り越して土気色に変わりつつある。市來校長は、理性は保っているもののおおよそポルターガイストと同種の現象を起こすこともできる。その上、その力は死による変質を経たせいで物質の移動に関しては大抵の魔法使いよりはるかに強いものですらあるのだ。それこそ、専念さえすれば一人で魔法所そのものを移動させることが可能なほどに。
小鳥遊カリンは、眼前に膝をついて目線を合わせようとした市來校長から、顔を背けた。文字通りに、合わせる顔がない、と感じたのだろう。
対して市來校長はなんとも言い表し難い、憐憫と怒りをないまぜにしつつつ、それでも慈しみを現そうとしたかのような表情を浮かべてみせた。
「わいにもわいなりん義憤があって、きっとそいをどこかん悪人に煽り立てられて、ここまでん行動に変えられてしもたんじゃろう。そけ至っまでに気ぢてやれんかったことを、詫びさせてほしか」
そして、市來校長は彼の教え子に向けて深々と頭を下げた。市來校長の外見は、死亡時の姿のまま時を止めている。外見だけ見れば、彼よりも数歳年長の少女に向けて頭を下げているかのような光景だ。
「じゃっどん、小鳥遊。どげん理由があってんな、子供を巻き込んだや何もかも、どげん大義も意味が無くなっど。子供を戦わせて、死地に追いやっもんは、それだけで最悪ん屑以下や」
戦死時点の姿を保ったままの少年兵の霊は、カリンの手を包み込むかのような場所に自らの手を固定して、強く語りかけた。それは半ばは彼女を依代にした『御前様』のことであり、半ばは初等部の生徒に服従呪文を掛けたカリンのことであったろう。それを聞かされた小鳥遊カリンの心中に、どのような変化が訪れたものか。あるいは、訪れなかったか。彼女は泣き出しはしなかった。ただ、少しだけ心苦しそうに眉根を寄せて、床に這いつくばった姿勢のまま、深々と頭を垂れたのだった。
校舎内は、にわかに騒がしくなりつつある。初等部の生徒たちの反乱によって石に変えられたり拘束されたりしていた各寮の上級生や教師たちが戒めを解かれ、緒方校医の指揮のもと、負傷者の本格的な治療に当たり始めたのだった。
窓の外には、地に光る満天の星のごとき夜景が広がっている。玉で作られた魔法学校の校舎は、東京湾上空に到着したのだった。この時なにも知らずに夜釣りでもしていて、ふと空を見上げたものがいれば、さぞかし仰天したことだろう。はるか上空に、一見するに天空の城かなにかとしか思えない巨大な建造物が浮遊しているのだから。
「もうそろそろかな」
いつのまに火を着けたものか、潮風の中に煙草の煙を吐き出しながら、エイシュウは窓の外に向けて
「東京湾まで、校舎をまるごと動かして、生徒を全員避難させる。聞いたときにはそんな事ができるのかと思ったが、本当に可能だとはなあ」
大鴉の羽根の飛び散る中、室内に次々飛び込んでくる闇祓いたちのじゃまにならない場所でそんな感想を述べたのは、穂村陰陽師だった。魔法使いの基準でも、これだけ大掛かりな魔法はまずめったに見られない。魔法使いよりはるかにマグルに近い生活を送る陰陽師が、
「まるで、魔法だな」
と感嘆混じりにつぶやくのも無理もない話だったろう。実のところ、校舎の移動は厳密にはポルターガイスト現象に近いのではあったのだが、そのつぶやきを耳ざとく聞き止めていたロン・ウィーズリーが
「そうだとも、これが魔法だ」
と、どこか誇らしげに答えた声に、反論するものは誰も居なかった。