無線から指示が流れるや、闇祓いの握る杖からは一斉に様々な呪文が飛び出はじめる。途端、起こり始めた異変は、そこに常ならぬ力の概念を持たぬものが居たならば自らの目を疑い、魔法や魔術に通じていたとしても尋常の魔法使いやそれに準ずる存在であれば、驚愕から逃れることは出来なかっただろう。
事実、その光景を目の当たりにした陰陽師たちは呆然と口を開け、この世のものとは思われぬ、ハリウッド映画のSFXやコンピューターグラフィックスを現実で再現したかのようなありさまを見届けるほかなくなっていた。
「建物が、消えていく」
穂村カツミはそう表現したが、その形容ではそこで起きていることを完全に説明しきることは不可能だ。闇祓いが総出で行っている『腹中蟲事件犯人のアジトへの強制捜査』は、正しくは建物の外壁をなすコンクリートをパンの耳を千切るように引き剥がし、鉄骨を蔦に変えて取り除き、顕になったフロアからまた同様に内壁をなくしてゆく、という手順で行われる、あまりにも大規模なものであるのだから。
「穂村、驚いている場合か。各フロアの捜索は我々の仕事だ、分かっているだろう」
上司たる賀茂ヤスナ陰陽頭の声に、は、と穂村は慌てて居住まいを正した。折しも、陰陽師たちの前線司令部であるテントの前には各フロアに残っていた証拠品が飛来しているところだ。
「各フロアの捜索ったって、証拠品の保全と分類だけじゃないのよ」
そう数が多いわけでもない残存物を前に、猿曳陰陽師がそんなことをぽつりと呟いた。
「仕方ないだろ。俺たちに、あんなことはできやしない」
刻々と常ならぬ方法で解体され、その内部に残った証拠品を外に吐き出してゆくコンクリートの建物を眺めながら、穂村陰陽師は自らの班員の愚痴に端的な答えを返した。
日付が変わる頃から始まった「御前様」の拠点と目される建物への強制捜査は、実に異例のことではあるが、陰陽寮と闇祓部の合同で行われることとなっていた。安藤タクヤ、小鳥遊カリン、葛西シュウジらの捕縛と取り調べの過程で両組織の権限の引っ張り合いになり、最終的にはスカイツリー上空で呪文の応酬にまで至ってしまったことへの反省──というのが主な理由だが、その実、マグル社会への影響を鑑みずに動く闇祓いへの監視として陰陽寮が直接乗り込んだ、というのが正しいところだろう。
ただし、闇祓いは闇祓いで、陰陽寮の思惑は承知で合同捜査を引き受けたものと見える。その結果が、夜を徹して行われる魔法による拠点の解体作業なのだ。事前の準備があれば別だが、予め術の規模と効果の決まった呪符を使う陰陽師は、あの規模と複雑さを持つ術を即興で行うことは出来ない。つまり、体よく陰陽師を追い払ってことに当たれる、というわけだ。──と、陰陽寮側は思っている。
実際、闇祓いたちは建物を完全に解体しきるまでの間、一度たりとも陰陽師に協力を仰ぎはしなかった。全くその必要がなかった、という方が正しいだろう。
山々の合間から小さな村へと朝日がようやく差し込むころ、基礎の上に唯一残った建物である一階の床の上に、黒いマント姿の魔法使いたちはどうにも所在なさげに立っていた。というのも、
「これだけやって、何もなしってどういうことですかぁ」
と、秋津・ミズホ・ローレンスが鴉頭の防護面を外しながら述べた通りの状況であったからだ。
正直、可能性としては十分にありえることではあった。葛西による魔力放送ジャック事件から四日、小鳥遊カリンの魔法所での事件からは一週間、安藤タクヤの祝賀パレードの事件から数えればすでに半月近くが経っている。三人とも「御前様」やその拠点に関する記憶が巧妙に消されていたとはいえ、高位の忘却術師であれば記憶復元が可能であることも広く知られていることだ。事実、この場所も三人の記憶を断片的にであるが復元し、その結果突き止めたものであるのだ。となれば、すでに「御前様」が拠点から引き払っていてもなんの不思議もあるまい。
「なにもない、とまでは行かんさ。蟲を育てていた水槽や、使っていた家電なんかは残っていたんだ。そこから意外な線がつながるかもしれんぞ」
倉田闇祓部長はそう言って部下を鼓舞しようとしたようだが、完全に「なにもない」ことがこの上なくわかりやすい状態で示されている以上、どうにもその言葉も空虚な響きを帯びてしまう。
部長が頭をかきながら、随行していた事故惨事部員たちと建物の処理について話し合いをはじめ、闇祓いたちがめいめいに座り込んだり煙草をふかせたりし始めた矢先のことだった。
「おーい、もうこれ以上なにも出てこないのか? なら、人目につく前にこちらだけ先に帰っておくが」
穂村陰陽師が、そんな事を言いつつポケットに手を突っ込んで近づいてきた。すでに証拠品の分類と保存を終えていた陰陽師たちは、前線司令部の白いテントの中でストーブにあたりつつこちらを伺っている。単純に、手持ち無沙汰であるため進退を伺いに来たようだ。
「見りゃ分かるだろ、ここから何が出るってんだ」
白い煙とともに、吐き捨てるように答えたのはエイシュウだ。どうにも、魔法所の一件以来この穂村陰陽師とは妙に縁がある。エイシュウは眉間にシワを寄せたが、向こうにしても同様の事を考えているらしい。穂村の顔には、露骨な嫌悪の色が浮かび上がった。
「見りゃ分かるだろって言われても、こっちにゃあんたらのやることは分からんよ」
さほど収穫のない捜査のために大規模な魔法を使い続けてきた闇祓いも大概不機嫌だが、それをじっと横で傍観させられていた陰陽師もなかなか、気が立っている状況である。エイシュウが放った僅かな棘は、更に刺々しい言葉とともに打ち返されることとなった。闇祓いたちの間にはぴりぴりとした空気が流れ、中には再び防護面をつけ、あるいは杖を握るものまで現れたために慌ててミズホが仲裁に入ろうと立ち上がる。
が、そんな空気を知ってか知らずか、穂村は反りの合わない同業者たちを威嚇するように数歩前へと歩み出ると、ふと、わずかに残る内壁の付け根の、その影へと目をやり──
「──なにぶんこっちは無学な〝半端者”だもんでね、この妙なタイルに何も異常がなかったのか、それともあんたらが見落としてるのかすら分からないんだ」
そうして、そんな事を言いながら、内壁の影に革靴の爪先を伸ばした。そこにある、「妙なタイル」に闇祓いたちが気づいていないことを指摘し、わずかばかりでも溜飲を下げようとしたものだろう。
実際、そこに何らかの異物が存在することに闇祓いたちは気づいていなかった。穂村の着目点はたしかに的を得ていたし、うまく一矢をむくいたとも言えるだろう。
ただ、穂村にとって予想外なことが、一つだけ存在した。それは、タイルへと目をやったミズホが
「え? ──駄目です!」
と、顔色を変えて穂村へと手を伸ばし、同じくタイルの表面に書かれた文字列を──「ポートキー」という文字を目にしたエイシュウが、
「触るんじゃない! お前も──」
とミズホを止めようとその腕を引いたところで、三人の姿は忽然とその場から消え失せた、ということだった。
† † †
魔法による瞬間移動特有の妙に引き伸ばされるような、めまいのするような感覚から抜けてはじめにエイシュウが感じたものは、水の冷たさだった。足が、膝のあたりまで水に浸かっている。プロテクターを完全に装備した状態であるのでまだ今はその間から水が入ってきているという程度だが、逆に言えばこのままこの場に居れば、ブーツの中が完全に水浸しになってしまうということでもある。
エイシュウは、すぐさま姿くらましで美術館跡へ戻ろうとした。が、姿くらましが発動することはなく、ただ不発に終わった呪文が特有の閃光を伴って体の周囲を取り巻いただけだった。──姿あらわし・姿くらましへの対抗呪文が掛けられている。
「畜生、最悪だ」
そんな感想を漏らしたのは、エイシュウではない。エイシュウももちろん同じ事を考えていたが、一足先に彼の前に立つ陰陽師が思ったことを口にしていたのだ。
エイシュウはあたりを見回した。昇る朝日のもとに居た目は、周囲の状況を認識するのにやや時間がかかる。あたりは、ほとんど真闇に近かった。
「ここは、洞窟? 鍾乳洞の中かしら、御杖村にこんなところがあったなんて聞いていないけど」
その結果わかったことを口にしたのは、またもやエイシュウではなかった。ミズホが、同じくフクロウ目の呪文のかかった防護面ごしに周囲の状況を把握したのだった。
エイシュウは黙って杖先に光をともした。少なくとも、光をつけた途端に敵が襲って来るような状況でないことは分かったからだ。穂村が光に照らされた途端ぎょっと目を見開いたのは、
呪文の光に照らされて、三人は自分たちが洞窟の丁度水の溜まった場所に居ることや、一見する限り、出口らしい出口を見出すことはできそうにないことを確認することとなった。
「あのタイルが、触れたら発動する移動アイテムで、それを俺が踏んだからここに飛ばされたと。RPGのダンジョンにあるトラップかよ……」
ひとまず水から上がり、濡れたブーツや装備を乾かす傍ら、ポートキーについての説明を一通り聞き終えた穂村は、そう言って頭を抱えた。
「そう落ち込まないでください、たしかにあのポートキーはわたしたちが見落としてたのでこちらの落ち度でもあるんです」
そんな穂村を哀れんでのことだろう。杖先に生じさせた炎を直接あててブーツの水分を飛ばしつつ、ミズホがそんな慰めを口にした。基本的に闇祓いの装備には
「見落として……いや、逆にじゃあ、あんたらはああいうものがあると思ってことに臨んでたわけか」
「ええ、まあ、相手が魔法に通じていれば、そういったものが存在する可能性はありますから。それ、
ミズホは続いて、穂村の衣服の簡単な清掃を申し出た。というのも、穂村はスーツも革靴も靴下もすっかり濡れて、泥水に汚れたままであるというのにそのまま火にあてているのだった。
「え? ──うっわすごい、汚れを落とす術? すごいな、こっちには全く無い区分の術だ」
呪文の名前を言われてもピンとこない様子の穂村に向けて基本的な清掃用の呪文を新入り闇祓いが唱え、その効果が現れると、賀茂陰陽頭に次ぐ高位にあるはずの陰陽師は心から驚いてみせた。この場に呪符がないというだけではなく、もともとそういった種類の術が陰陽道には存在しないものであるらしい。
社交力の高い二人のやり取りを横目に、一足早く装備を乾かし終えたエイシュウは改めて辺りに光を向けた。彼らが居るのは大雑把に言えばすり鉢状になったそれなりに開けた空間であり、上方を見ればいくつかの横穴が見える。足だけを馬のものに変えて横穴まで跳躍してみるが、防護面を付けた上で
「この場所をポートキーがあった場所からたどることはできるんだろう?」
断続的に続く会話の中、穂村がミズホに問いかける声がエイシュウの耳に届いた。けれど、答える声は歯切れの悪いものだ。発動した無許可のポートキーの行き先を調べることは、たしかに可能だ。だが、そのためには交通局の記録を照会し、該当する発着の記録を探す必要がある。それにしても、万一何らかの偽装工作が施されていて、発着の記録がなされないようになっていたらそれだけで追跡は不可能となってしまうのだ。
そんな説明を聞かされた穂村は、しばし宙を見上げて何やら考え込んでいた。が、やがて意を決したように立ち上がると、
「……OK、わかった。俺のせいで揃って遭難死なんて御免だからな──」
と、言うや、二本指を突き出し、空中に複雑な軌跡を描いた。軌跡は炎となり、彼らの呪符に描かれているものと似た文様を為したと見えたのもつかの間、燃える文様からは次々と白い縄のようなものが──無数の白蛇を吐き出しはじめた。
「うわ、わわわ、何ですかこれ!?」
ミズホが飛び上がり、近くの岩の上に飛び乗った。白蛇は洞窟の岩肌をたちまちのうちに覆い尽くし、天井を覆うほどの数となっていたのだ。
「掛まくも畏き
蛇の群に向けて、穂村が祝詞のような形で命令を下した。いや、命令を下した、と理解できたのはエイシュウがそのとき足だけとは言え半ばその身を獣へと変えていたからで、
「穂村さん、
「え? ああ、蛇と話せることを魔法使いはそう言うのかな。実家が蛇神様の神社だから話せるってだけだよ、陰陽寮にもそれなりにいるし」
「ハリー・ポッターっていうイギリスの闇祓いのすごい人がいるんですけど、その人もそうなんです。魔法使いだとすごく珍しいんですよそれ」
幸いというべきか、ミズホが重度のハリー・ポッターファンであった上にマグルの出身であったため蛇舌への偏見が穂村に向けられる事態は避けられたようだった。白蛇の群れは岩肌を擦りながら洞窟の奥の暗がりへと消えていき、しばしの間、ミズホがポッター英国闇祓い局長の主に学生時代の活躍について熱く語る声ばかりが地下空間には響いていた。
白蛇が帰ってきたのはおよそ三十分後のことだった。行った時とは違い、帰ってきたのはほんの数十匹ばかり、それも姿をあらわしたのは横穴の中で最も上方に位置するやや大きめの穴だけとなっている。どうやら、行き止まりに達した白蛇は姿を消した、ということのようだ。
白蛇たちはしゅうしゅうという音を出し、穂村へ報告をしはじめた。
「この道をゆけばいずれ陽の光に出会えよう」
「これぞ
「しかし気をつけよ、
「そこに至る道には良からぬものが潜んでおるぞ」
術者である穂村が、彼らを蛇神として扱うためだろうか。呪文で出現させられただけの使い魔にも満たない存在であるはずの白蛇たちの報告は、まるきり神託を
蛇の言葉のわからないミズホは穂村のオリエンタリズムあふれる所作をただただ不思議そうに見ているが、獣の耳を借りることのできるエイシュウは、すっかり鼻白んで穂村を眺めていた。彼にしてみれば、穂村陰陽師のなすところはすべて、
「俺は、神様の言葉を読み解くのは苦手なんだがね。さっきのはつまり、ここを進めば外に出られるが、その道には危険がある、ってことか」
祝詞のような言葉が途切れるタイミングを見計らって、エイシュウは穂村に問いかけた。穂村は一瞬怪訝そうに横穴の縁に立つエイシュウを見やったが、その両足が馬の後ろ足に変化していることを見て、彼が蛇の言葉を理解していると気づいたようだった。
「ああ、だいたいその理解で良いよ。悪かったな、時間を取らせて」
「全くだ、ただの魔力の塊に対して祭儀を行うなんて、まるきり魔法を知らないマグルのやり方だ」
一瞬、穂村の顔が怒りにこわばり、周囲に炎が走った。杖なしで呪文を操れるものは、時に感情の高ぶりに応じて呪文の効果や魔力を漏れ出させることがある。
とはいえ、炎が上がったのはほんの一瞬のことだった。この場に閉じ込められている原因は自分である、という負い目のゆえか、穂村は怒りを表に出さないことにしたようだ。
「敷島さん、さっきの言い方はないですよ」
白蛇に先導される形で洞窟を進み始めてしばらくしたころ、ミズホがエイシュウに小声でそんな抗議の声を上げた。が、エイシュウはにべもなく首を左右に振る。
「お前、ほんの少し前には陰陽寮の半端者どもに憤ってたってのに、宗旨変えしたのか」
「あれは闇祓いが蚊帳の外に置かれてたことに怒ってたんです、固有の文化にまでどうこう言いませんよ。あと、半端者って言い方、嫌いです」
エイシュウはまだ反論しようとしたが、ミズホが足早にあるき出し、エイシュウから距離を置いたために会話はそこで終わりを告げた。小声でのやり取りとはいえ、狭く静かな洞窟内でのことだ。短い会話を聞いていたであろう穂村も別段振り返ることはなく白蛇のすぐ後ろを歩き続け、以降、暗闇以上に重い沈黙の中を三人は進み続ける事となった。
沈黙が破られたのは、先を行く白蛇が不意に動きを止め、したがって後続の人間たちも足を止めることとなったときのことだった。場所は、一見するに突き当りのように見える場所だ。が、蛇は一度外へとつながる道を見出しているはずで、道に迷ったということもあるまい。
「どうしたんです」
と、ミズホが穂村に尋ね、穂村は蛇語で同じ内容を白蛇に聞く。だが、その答えが帰るよりも、
「──くなとの神、来な処の神」
そんな声が岩の合間に響き渡るほうがよほど早かった。三人は振り返り、穂村は懐から呪符をあるだけ引き出し、闇祓いたちは杖を構える。「御前様」の拠点から飛ばされた先で遭うものが、善良な存在であるとは誰にも思えなかったのだ。
「来てはならぬ処に迷い込んだものをいかにせよと、御前様は仰ったものだったかな」
御前様、との言葉が発せられた瞬間、暗い洞窟は無数の呪文の閃光で照らし出された。未だ敵の姿は見えはしないが、声の距離からしてそう遠くはないと判断したゆえのことだ。だが──
「残念、こちらだ」
三人の背後、行き止まりであるはずの場所から、そんな声がした。エイシュウは振り向きざまに
けれど、その効果はあくまで衝撃を緩和する、と言うだけのことで、岩が鉄の鎖へと変化し、体を地面の岩肌に縫い付けることまでは防ぎはしない。
「
鎖から逃れようともがく最中、そんな声が響き渡った。途端、エイシュウの手からは杖がもぎ取られ、宙を飛ぶ。杖が収まった先は、洞窟の暗がりから現れた人影の手の中だ。人影が奪い取ったのは、エイシュウの杖だけではない。ミズホの杖と、それに穂村のスーツの内側から溢れ出てきた呪符も、僅かな時間の間に男の手に渡っている。
「妙な蛇がたくさん現れたものだから、なにかと思って待っていたんだよ。陰陽師と闇祓いが一緒にいるとはね、珍しいものが見られた」
男が自らの杖を振るとともに、洞窟の中のあらゆるものが音を立てて動き、その様子を変え始めた。岩が生きたもののように動き、狭い通路であった場所は開けた場所へと変化してゆく。
畜生、と血を吐くような声がしたのは、少し向こうで地面に縫い留められた穂村のものだ。自身の使った術のせいで敵に自分たちの存在が知られ、罠にまではめられたのだ。この洞窟に飛ばされる原因にもなったことを思えば、悪態の一つ二つ吐きたくなるのも仕方あるまい。
エイシュウの視界に、影が落ちた。うつ伏せの状態で、保護面によって視界が極端に悪くなっているために直接は見えないが、洞窟内に潜んでいた男がエイシュウの上にかがみ込んだようだ。程なく、保護面とヘルメットの金具を外す音が聞こえ、顔が外気にさらされる。どうやら男は、闇祓いの防具を剥がしにかかり始めたらしい。
「んん? あっれえ? お前、青龍の……そう、敷島だ、敷島エイシュウじゃないか」
続いてプロテクターの金具が外され始めたところで、エイシュウの耳にそんな言葉が届き、現状を打開する方法を必死に考えていた思考がすべて停止した。いや、何も驚くことではない。魔法使いの世界というのは、ひどく狭いものだ。社会の構成員がすべて一つの学校の卒業者だけで構成されると考えれば、小さな田舎町のようなものと言ってもいい。そんな中で、どうしようもないほどに目立つ特徴を持っていたエイシュウの存在は多かれ少なかれ知られていておかしくないし、同級生と望まぬ邂逅を果たす可能性も十分にありえるものだ。
「覚えてる? お前と一緒の学年で白虎寮の、
エイシュウは、自身の体をまたいで防具を剥ぎ取っている男に目をやった。確かに年齢は同年代のようだが、その顔にも名前にも見覚えはない。あちらは自分を知っているようだが、こちらに見覚えはない。よくあることではあるが、経験するたびにどうにも言い表し難い不快感を感じる状況でもある。
「悪いが覚えてないな。覚えていても、御前様だかの手下に成り下るほど落ちぶれてりゃあ、分かるものも分からないだろうさ」
「あっは、お前はほんと昔と変わんないなあ、クッソ厭味ったらしいことしか言わねえの。そのくせ妙にいつも女ばっかと群れてて」
脇腹に痛みが走った。プロテクターのベルトを切る勢いが余って、ナイフが脇腹を割いたようだ。続いて腰の金具が壊され、上半身の防具が全て乱雑に剥ぎ取られる。下に着ているものはシャツ一枚だ。日は差し込んでいるとはいえ、十一月も半ばを過ぎたころの、それも地底でのことだ。途端に体温が奪われ、エイシュウは全身が震えるのを感じた。
だが、それ以上に彼の体を震わせたのは、その次に浴びせかけられた言葉だった。
「そうか、お前闇祓いになってたんだなあ、敷島。闇祓いって
鎖を揺らす金属音とともに、ばちり、と閃光がエイシュウの周囲に走った。単純な、呪文とも呼べないほどの魔力の奔流だが、ある種の攻撃力を伴ってもいたものらしい。何かに撃たれたように、鷺羽は手を引っ込めた。
「あ、は──すげえな、さすが闇祓い。いや、最初から白服だっただけのことはある、って言ったほうが良いのかな」
続いて閃光がエイシュウの体の周囲に渦巻くが、すでに鷺羽はエイシュウから離れて、もうひとりの闇祓いの──ミズホの防具を剥がしにかかっている。
「鷺羽、そいつは新入りだ、放っておいてもなにも出来ない。おい、そいつに妙な真似をするな」
エイシュウの怒鳴り声は、しかし、悪意に満ちた笑い声を呼んだだけだった。
「ほんとだ、君若いねえ。あ、このセーターってマグルのブランドのだよね、君マグルの出身なんだ。だったらさ、新卒であんなやつと一緒に組まされるの、怖くなかった? 白服の敷島の話、君らの世代だともう伝わってないのかな」
鷺羽の声に対し、ミズホはなにも答えない。わざわざ犯人の挑発に乗る必要もない、という以上に、単純にエイシュウについての話を今初めて聞いたために答えようがないのだ。
が、それを抵抗の意思と見たものか、鷺羽は杖先をミズホの顔のすぐ脇に向け、呪文を放った。無言呪文だが、放たれた閃光の色は緑だ。つまりは、
「あたしは、ホグワーツの出身だから、魔法所での噂なんて知らないし、どうでもいい」
エイシュウの叫ぶ声と鎖の触れ合う音が洞窟の中にこだまする中、ミズホがかすれた声で答えを口にした。その答えの、なにが一体面白かったものか。鷺羽は、弾かれたように笑い声を立て始めた。
「は、ははは、はは、そりゃあ面白い! 結局は陰陽師だの外国帰りだの、余所者とつるむしかないわけか、
哄笑をあげる鷺羽の体が、唐突にひっくり返り、地面に尻餅をついた。彼が飛ばされたのと逆の方向を見れば、エイシュウが、半ば体を無理やり捻る形で鷺羽へと右手を伸ばしている。その手の甲から血が溢れているのは、大きく皮膚が剥がれ、肉すらも削ぎ落とされていることによるものだ。エイシュウは手枷から無理やり手を引き抜いて、杖なしで呪文を行使したのだ。
続いてエイシュウは残る枷を全て呪文で破壊すると、血のあふれる右手を鷺羽へと向けた。
「杖なしの無言呪文!? 待て待てそんなのアリかよ──こいつらがどうなってもいいのか?」
が、同時に鷺羽も自身の杖をミズホと、ついでにその向こうにいる穂村に向け、杖の周囲に緑色の閃光を渦巻かせはじめてもいる。
エイシュウは奥歯を噛み締め、血まみれの手を下ろした。
「それでいい、物分りが良くて助かるね。けど、そこまでして仲間を助けようとしたのはすごいよ、実に感動的だ。だから、せっかくだ、お前に一つチャンスをやろう」
言葉の内容に反して、一体、何を思いついたものか。鷺羽の顔に浮かぶものは実に邪悪な笑みだ。
「究極の選択だ、同僚か陰陽師か、どちらか片方が死ぬ。どちらを助けたいか──」
「陰陽師はどうでもいい。新入りを助ける」
だが、鷺羽の悪意に満ちた言葉が、当人の望んだ通りの効果を発揮することはなかった。もったいぶった言葉を遮って、エイシュウが究極の選択を即断したのだ。
「マジかよお前、そんな簡単に」
「そもそもそいつとは別につるんでいるわけじゃない、そいつがポートキーを踏んで、俺たちが巻き込まれただけだ」
「えーっ、何だよ面白くない。……よし、気が変わった。それじゃあこうしよう」
鷺羽が杖を振るとともに、穂村の体から鎖が解け落ち、その体は呪文の力でエイシュウの前に引き立てられてきた。直接、手を下させるつもりであるのか。エイシュウは嫌な予感に眉根を潜めたが、次に鷺羽がとった行動は以外なものであった。
穂村の眼前に、十五センチほどの白木の棒が浮かんだ。装飾らしい装飾もなく、根元から先まで同じ太さの一見するに短い木製の警棒のようにも見えるそれは、エイシュウの杖だ。木材は榊、芯材には竜の髭を使った杖は、反抗的な杖だがお前には馴染むはずだ──と遠い昔に杖職人に言われた記憶がかすかに蘇る。
「決闘クラブだ。陰陽師は、札なしじゃあきついだろうからな、ハンデとして杖を使わせてやろう。ルールはどちらかが死ぬまで。さあ、お辞儀をするのだ」
困惑の色を隠すこともなく、穂村は目の前に浮かんだ杖を恐る恐る手にとり、エイシュウのやり方を真似して頭を下げた。ハンデと言ったところで、陰陽師はそもそも杖を使った魔力の使い方を知りはしないし、決闘のやり方についても承知してはいない。形は違うが、結局はエイシュウに穂村を殺させるつもりであるのだ。
だが、杖がそこにあるならば、多少なりとも打つ手は見えてきた。視界の端には、ミズホの体に馬乗りになって喉元に杖を押し付ける鷺羽の姿がある。少しでも妙な真似をすれば、その杖先から緑の閃光が走ることは容易に想像がついた。
「しっ、敷島さん、あの……」
「大丈夫だ、心配するな」
ミズホの声に振り向くことなく答えると、エイシュウは右手を手刀の形にして体の前に立てた。
「なあ、おい、決闘って──」
「要は、魔法を使って戦えということだ。悪いが俺も死にたくはない、出来る限りの力は出させてもらうぞ」
穂村に目配せをしつつ右手の周囲に適当な呪文を纏わせて、エイシュウは地面を蹴った。杖なしでも呪文は行使できるが、命中の精度はかなり落ちる。この場合、狙った方向に当てるには──つまり、穂村を然るべき場所に誘導するには、直接殴りに行くほうが手っ取り早いと判断したのだ。
が。
「待て待て待て、そりゃ色々とこっちの落ち度なのは分かるけどな、俺も死にたくないんだよ!」
エイシュウの繰り出した掌底は穂村の裏拳で裁かれ、伸ばした状態となった右腕を逆に取られ、がら空きになった喉にエイシュウの杖の先が迫る。完全に、訓練された動きだ。とっさに掴み返した穂村のシャツを燃やし、一瞬の間隙を見計らって距離をとったが、その判断がなければ喉を物理的に破られていただろう。
「お前、馬鹿か!? 馬鹿なのか!?」
「そっちが先に手ぇ出してきたんだろうが、誰だって死にたくはないだろ!」
「OK分かったお前は馬鹿だ!
もうこうなれば、強制的に然るべき場所に誘導するしかない。腹をくくり、エイシュウは右手に
だが、穂村はそんな思惑を汲むどころか、エイシュウが放つ呪文すらも驚異的な身体能力で躱し、またたく間にエイシュウの懐へと入り、まるきり警棒かなにかのように杖を振りかぶり──
「──掛けまくも畏き
そんな言葉を早口に言い切った。途端、穂村が両手で頭上に掲げた杖の先からは黒い炎が何条も生じ、全てが見る見るうちに炎の蛇──否、龍へと変化していく、と見えたのもつかの間。
「あ」
と、妙に緊張感のない声が聞こえた。黒い炎の龍の奔流を呆然と見上げていた鷺羽を、一頭の龍が一口で飲み込んだのだ。いや、飲み込んだ、というのは正しいところではない。形は龍とはいえ、あくまでその性質は炎のそれだ。正しくは、全身が炎に包まれた、と言うべきだろう。
「──うわ、あ、熱い、熱いッ、消して、消してくれ!」
鷺羽は、
エイシュウは
「おい、なにやってる秋津」
「さっき炎の龍が現れた瞬間、そいつがこっちに目をやったんです! たぶん、そこになにかがあるはずで──」
ミズホの指差す先には、たしかによく見ればさらなる横穴が開いている。それも、明らかに人の手が入り、整備されたような横穴だ。が、そちらに近づこうにもなかなか、暴れまわる黒い龍に行く手を阻まれ、近づくにも近づけない。どころか、龍たちのせいで洞窟内の生木や草はおろか、岩までもが燃え上がり始め、動くことすらままならなくなってゆく。
「俺たちまで焼き殺すつもりか、陰陽師!」
一時的に周囲に風を起こして炎や熱を遠ざけてはいるが、それもいつまで持つかと言った状態だ。黒炎の向こうに立つ穂村を見れば、未だ炎の龍を吐き出し続ける杖を両手で抑え、手から飛び出そうとするのを防いでいるように見える。明らかに、制御しきれていない。杖など無いことを前提に作られた神道式の術式を杖を使って行使したために、当人の想定している以上に術の威力が上がっているのだ。
エイシュウとミズホは、即座に
「穂村さん、杖を捨ててください、自分も焼け死ぬことになります!」
周囲の龍を消しながら、ミズホが叫ぶ。制御のできない魔法は、術者を簡単に飲み込んでしまう。闇祓いならば訓練段階で嫌というほど聞かされ、悲惨な実例を豊富な資料付きで見せられることになる基礎的な事柄だ。彼らは魔法使いの中でも特に魔力量に恵まれ、魔法の運用にも長じた者たちであるが故に高度な魔法を使おうとして自滅する者が一定数現れてしまうため、新入りの頃から禁じ手として叩き込んでおくというわけだ。
だが、穂村は黒炎の向こうで膝を付き、なにやら祝詞のようなものを唱えている。時折杖を左右に振る所作は、杖を御幣に見立てたものか。
エイシュウは眼前の黒炎を
「何やってる、闇の魔術レベルの呪文がそんなもので消えるか、杖を捨てろ馬鹿!」
そこではじめて、穂村は闇祓いたちの存在に気づいたように顔を上げ、振り返った。どうやら、これまでは単純に彼らの声に気づいていなかったらしい。
けれど、穂村は炎に囲まれた状態で首を左右にふる。
「降りた神に帰っていただくには、こうするしかない。そういうものだと教わってきたしほかのやり方は知らない、だから俺にとってはこれが一番いいやり方なんだ。……あんたらは、ものを呼び寄せる術で箒でもなんでも呼び寄せれば脱出できるだろう」
そうして、再び「降りた神に帰っていただく」儀式を再開しはじめた穂村の後ろでは、焼けた石が熱に耐えかねたものか弾け飛び、崖の中腹から岩が落下する。洞窟そのものが崩壊する兆候だ。だと言うのに穂村は、何もかもを無視して祝詞を上げ続けている。一体何を考えているのか、先程は死にたくないと叫んでいたのに、一体何のつもりか、今は命を捨てるつもりでいるのだ。いや、何のつもりか、などよほどの馬鹿でもなければ予想はつく。段違いの実力を持つ同業者の存在を前にして、
エイシュウはあたりを見回した。穴の中は、開口部まで含めて黒炎に包まれている。
「──馬鹿か、こんなところに何を呼び寄せたところで、何もかも消し炭になるのが落ちだ」
そう吐き捨てると、エイシュウは熱で靴底が溶けはじめたブーツを
「秋津、援護を頼む!」
目の前に現れた黒龍の上を馬に変化して飛び越え、人に戻りざまに
エイシュウは手を伸ばして穂村の手の中にある榊の杖を掴み、唱えるべき呪文を口にした。だがそれは、奇しくも穂村が、降りた神の帰還を願う一連の言葉の最後の一説を唱えるのと同時であり──
「
「
と、二つの言葉が重なるとともに杖が震え、その先から白い光を放出するに至っても、一体それがどちらの魔力の成したものであるのか、あるいは両者の効果が混じったものであったのかすらも判別することはできなかった。
ただ、確かなことは、杖先からあふれる白光に触れるや黒い龍たちは自らも同じ白光へと姿を変え、やがて一匹の巨大な白龍として天へと登り去って行った、ということだ。
白龍が雲に空けた大穴から、地面の大穴の底へ燦々と日光が降り注いでいる。その光景を、すっかり煤けた岩肌に座り込み、あるいは倒れ込んだまま、三人は何の感慨を抱けばいいかわからない、と言うような表情で眺めていた。
「──秋津、穂村、生きてるか」
雀のなく声の響くなか、疲れ切った声で問いかけたのはエイシュウだ。焼けた岩の上に仰向けになったままの姿は、すぐ横に座り込んでいる穂村の生死を確かめる気力すらない、と言った様子だ。
生きてます、とミズホが答え、ああ、と穂村が声だけを出すと、エイシュウは続いて話しだした。
「いいか、陰陽師。何か勘違いしているようだがな、こっちは魔法使い、闇祓いだ。そこの新人はホグワーツで七年、俺は魔法所で十二年魔法教育を受けてきて、四六時中魔法を使って生活を送る、その中でも一握りの存在だぞ。マグルに混じって生活をして、たかだか神事と仕事のために魔力を行使する程度の半端者が、魔力の使い方において対等なはずがないだろう」
秋晴れの空の晴れやかさの下、エイシュウの放つ言葉は、いつもどおり皮肉に満ちた、攻撃的なものだ。だが、不思議と常に比べ、人を思いやるような響きもこもっていることも確かであった。
「──ああ、そうか」
再び、穂村はほとんど声を出すだけに近い答えを発した。けれど、こちらもまた、どこか晴れやかな、はるか上空に広がる青空を思わせる響きをまとっていたのは、気のせいではなかっただろう。そこで会話は途切れ、ちちち、と鳴きながら、雀たちが丸く切り取られた空の中を飛び交うのを、三人はしばし眺め続けていた。
そうして、やがて雀たちが地底にまで舞い降りるに至った頃。
「あ、そうだ、鷺羽は……」
と、我に返ったようにミズホが立ち上がった。そうだ、あまりにも直前まで急場に置かれたせいですっかり失念していたが、まだ鷺羽を拘束していないままだったのだ。
見れば、鷺羽は焼け焦げたローブを纏って、大きな岩に呆然と寄りかかっているところだった。大火傷をしてはいるが、聖マンゴの癒者ならばほんの一瞬で治せるような怪我だ。
ミズホが
「ああ──クソ、なんだよ、なんだってんだよ敷島、お前ばっかりいい目を見やがってよぉ、最初っから白服の、人殺しのくせしやがって──痛っいだだだだ、おいちょっとお嬢ちゃん、もうちょっと優しく拘束できないのかよ──」
近場の岩から作り出したロープで拘束される間、鷺羽はぐちぐちとそんなことをつぶやき続けていたが、その言葉は途中から悲鳴混じりのものに変わりはじめた。ロープを操っていたのはミズホだが、そのロープがどういうわけか、かなり通常よりも
「あー、そうだよな、おかっぱの嬢ちゃんも俺女のねーちゃんも、どっちもこいつのこと知らないんだもんな。いいか、こいつはな……」
拘束されながらもなお少しでもダメージを与えようとしたものか。エイシュウの過去について鷺羽が言及しようとした所で、その口には布が巻きつけられた。穂村がシャツの切れ端を猿轡代わりに、鷺羽の口を塞いだものだ。腕を伸ばして
もごもごと抗議の声を上げる鷺羽をよそに、闇祓いと陰陽師たちは怪我の簡単な治療を行いつつ救出を待った。そう時間を置かずに到着した烏の姿をした守護霊によれば、どうやら彼らの居る洞窟は廃美術館と同じ御杖村のなか、村唯一の神社の近くに出現したものらしく、穂村の放った龍も含めて地上では事故惨事部がその隠蔽工作に奔走しているところだという。
そうして、上空に無数の影が現れ、その影が舞い降りはじめた頃のことだ。
「あ、ガっ」
唐突に、鷺羽がその口から血を吐いた。いや、血は口から溢れるだけではない。その喉が真一文字に切り裂かれ、おびただしい量の血が吹き出しはじめている。
あまりにも唐突な出来事にエイシュウもミズホも防御の呪文すら唱えられずにいる中、甲高い哄笑が巨大な縦穴に響き出した。
「あはは、はははは、ははは! 馬鹿な奴! せっかく蟲をくれてやったっていうのに無駄遣いしやがって!」
そして、鷺羽の体の上に小さな姿が現れるに至り、ようやくミズホとエイシュウは盾の呪文を唱え、穂村の前に立った。
鷺羽の半ば焦げ付いた胴体をもののように踏みしだき、闇祓いたちの前に立っているのは、一人の童子だった。赤い狩衣を身にまとい、禿髪に切りそろえた白い髪の中から同じく白い兎の耳が垂れているその姿は、明らかにごく一般的な人間とも、魔法族とも異なっている。そして、なにより異様なのは、その指から伸びた大きな爪から、真っ赤な血を滴らせていることだろう。
童子にむけて何条もの閃光が伸び、大蛇がその身を喰もうとし、しかしそのどれもが標的には当たることなく数段威力をましてもと来た方向へと弾き返された。閃光は呪文のそれであり、呪符の放つそれでもある。上空を見上げれば、箒に乗った〝鴉”姿の闇祓いと呪符で足場を構築した陰陽師とが旋回し、降下しながら攻撃を次々に放つ様子を見て撮ることができただろう。先刻の白い龍を見た闇祓いと陰陽師が、即座に大穴の上空へと到達したのだ。
だが、魔力によるあらゆる攻撃は、童子の周囲で次々に跳ね返されてゆく。どうやら、童子が両の手で結んだ印の効果であるようだ。盾の呪文というよりは、陰陽師の呪い返しに近い術と見受けられる。
「やあ、ぎゃあぎゃあと煩い明けの烏どもが、よくも集まってくれたもんだね」
返された呪文がさらに防御術で別の方向へと弾き飛ばされ、呪文が乱反射し、洞窟の中は大小の炎や爆発、あらゆる音響に満ち満ちはじめている。そんな音響の中に、ひときわ高い声で童子の悪意に満ちた声が響き渡った。
「──イチモウダジンにスルのヲ狙ッテいタ、とでも?」
けれど、その声に答えるものが存在しないわけではない。混乱の合間を抜け、一条の黒い影が舞い降りた。人の声を模した声帯から吐き出されるその声は、大鴉の
「たった一人でどれほどのことが出来るつもりだ、自惚れるなよ、小僧」
大鴉は人の姿へと変化しながら、赤い狩衣の童子に向けて無数の大岩を頭上から降り注がせた。上方から飛来する大質量の物質は、防御術でも防ぎ難い。一度弾いたものが、また再び重力に引かれて落下してくることになるためだ。それを防ごうとすれば変化術なり何らかの攻撃呪文なりで岩そのものを消さねばならないわけだが、一人ではその間、防御が一切不能ということになる。闇祓いが基本的に二人一組で動くのは、この隙をなくすためだ。陰陽師が複数人のチームで動くのも同様の理由によるものだろう。
すでに大岩の合間には、部長の意を汲んだ闇祓いの呪文が隠されている。縦穴には闇祓いのみならず陰陽師たちも群れをなし、降下しているま、童子がどのような術を使ったところでもはやこの場を逃れることは不可能かと思われたが。──
「自惚れているのはお前のほうだ、鳥頭」
大岩の一つが地面に落下し、続き、連鎖的に呪文が発動していく中、
「人の尺度でものを考えるのがお前たちの限界だ、馬鹿烏ども。だいたい、ボクが小僧だって? お前たちの尺度で物を考えるんじゃあない、ボクはもう三つだ、りっぱな大人だぞ!」
声が凄まじい勢いで上方へ移動してゆくとともに、あちこちから悲鳴が上がる。声の移動とともに闇祓いたちは箒のコントロールを失い、あるいは陰陽師が呪符の足場から叩き落されているのだ。──そう、赤い狩衣の童子は、信じがたい脚力と瞬発力で飛来する岩や人の体すらも足場代わりに、大穴の外へと向かっているのだった。
「あはははは、手も足も出ないんだろう、烏合の衆ども!」
そして、赤い残像と哄笑の残響を引きながら穴を登ってゆく童子が地表の高さを超えたところで、その手が新たな印を結んだ。
その様子を、洞窟の底に居るエイシュウもミズホも、見て取ることはできていない。杖のない状態では本格的な呪術戦闘において戦力にもならないことはよく分かっている。彼らにできることと言えば、ひたすら盾の呪文を張り巡らせ続けて自らの身を守ることばかりだった。だが、はるか上空で童子が印を結んだ途端、エイシュウは、自らの構築した盾の呪文が消えるとともに身体が重くなるのを如実に感じ取っていた。
「何だこれは、魔力が吸われているのか?」
背後にいる穂村も、同様の変化を感じ取ったものらしい。地面に膝を付き、自らの手を見つめている。だが、それ以上に魔力吸収の影響を受けたのは、上空にいる闇祓いたち、陰陽師たちだ。
「箒が、浮遊術が効かない!」
「飛ぶことだけに集中しろ、一つの術に集中すれば緩降下は可能だ!」
術理は違えど、陰陽師も魔法使いも魔力を使って宙に浮かんでいることに違いはない。魔力が何らかの呪術で吸い上げられている今、彼らは全力を尽くさなければ即座に落下の運命を避けられなくなっていたのだ。
ついに落下するものが現れ、着陸に成功したものが複数人で
「待て、秋津! お前、杖無しでどうする気だ」
どうする気だ、と言いつつエイシュウもその後を追っているのだから、後先を考えていないという点ではそう大差はない。 横穴は、そう長いものではなかった。入ってすぐの場所にある木戸を無理矢理に破れば、その奥に暗い石室が隠されていたのだ。
「これは──」
石室を前に、しかし、ミズホもエイシュウも足を止めていた。石室の中には赤く光る血のような液体で所狭しと呪術的な文様が描かれている。いや、それだけではない。文様の中心には、同じく赤く光る液体に満ちた水槽が置かれているのが見える。その中で蠢き、雷の如き閃光すら発しているものは、三匹の巨大な地蟲だ。明らかに、今まで依代に植え付けられてきた腹中蟲、魔力を吸い上げて強力な呪文へと変換する呪術の道具と同種の存在だ。ならば、いうなればこの洞窟は蟲の植え付けられた胎の中そのもの、ということか。
「あれを、壊せば……」
巨大な胎内で、魔力を吸い上げられながらもミズホは術式の中心をなしているらしい蟲に近づこうとする。だが、少しでも赤い術式に触れれば、その瞬間崩れ落ちてしまう以上、どうしても石室の中に入ることはかなわない。かと行って、遠隔攻撃の可能な呪文も石室の中に届くほどの威力を出すことはできない。と、なれば、取りうる方策は──
エイシュウが結論を導き出すよりも早く、風を切る音がエイシュウとミズホの間をかすめていった。直後、パリン、と水槽の割れる音がして、水槽の中に満ちた薬液がどぼどぼとあたりに漏れ出しはじめた。途端、エイシュウは身体が軽くなるのを感じた。薬液は呪術の根幹をなす文様を覆い、消し去るに至ったのだった。割れた水槽の近くには、手に乗るほどの石が落ちている。
エイシュウは振り返った。振り返った先に立っていたのは、いくつかの石を握った穂村だ。
「いや、物理で壊しゃ早いだろこういうときは」
呪文を使った攻防を繰り広げているとなぜかどうしても忘れがちになるが、たいていの魔術的な道具は、物理で壊せる。もちろん物理防御を施されている場合もあるが、この場合、水槽にはその種の防御術は駆けられていなかったらしい。
洞窟上空では、闇祓いと陰陽師たちが再び宙に浮く力を取り戻したらしく、歓声が上がっている。さしあたって救助の必要なものが居ないことを確認すると、エイシュウは靴底で念入りに呪術的な文様を消しながら、投石で割れた水槽の中でうぞうぞと収縮を繰り返す三匹の蟲へと近づいていった。
三匹の腹中蟲は、今まで「御前様」の依代たちに植え付けられてきたものとよく似ていた。一匹は巨大な鯰に似た姿で、残る二匹が地虫のような姿であることも含め、似すぎている──いや、酷似している、と言っていい。
「……何だ、これは」
割れた水槽を覗き込み、その姿を間近で見た所で、改めてエイシュウは思わずそうつぶやいていた。彼の目を引いたのは、それぞれの蟲の表面に刻まれた番号だ。
「あの……これ、
穂村のあとに続いて水槽を覗き込んだミズホが口にした問いは極めて抽象的なものだったが、エイシュウには十分、その意図は伝わっていた。蟲の体表に浮かぶ数桁の番号は、その書体も番号の形式も、闇祓部が証拠品に付与するものと合致していたのだ。だが、三匹の腹中虫はたしかに今も闇祓部の鑑識部で保管され、調査を受けていることも間違いはない。
「
エイシュウは、彼の知る限りの知識から、目の前にある現象を説明しうる魔法の組み合わせを引っ張り出してみせた。
「だとしたら──ここで蟲たちに魔力を吸い上げさせれば、自動的に鑑識課の……魔法省の中の蟲も魔力を吸い上げることになる? だけど、鑑識課は基本的に証拠品を常に結界内に置いているはずで──ああ、でもその結界も結局の所、魔力で構築しているとしたら、さっき盾の呪文がかき消されたのと同じことになるはずで──」
推論を組み立てるミズホの顔色は、みるみるうちに蒼白へと変化していく。話を聞いていた倉田部長が、箒を呼び寄せ、スマートフォンを手に上空へと飛び上がろうとした時。
「ピギュッ」
と、断末魔の声を上げ、砕けた水槽のガラスに、蟲の体液が飛び散った。三匹の腹中蟲が、なにかに上から潰されたかのようにいっぺんに弾けて死んだのだ。無論、誰もそんな魔法を行使したものは居ない。
「まさか、そんな──いや、ならばなぜ我々を残した? それならば、闇祓いを残す意味などないはずだ、それこそ、今までどんなタイミングであれ、それこそ文字通り、一網打尽にする機会などいくらでもあったことになる」
恐ろしい可能性を前に、圏外を示したままのスマートフォンを片手に倉田部長は震える声でそう呟いた。
腹中蟲。生き物の体内に潜み、宿主の栄養を吸い、魔力を吸いあげる異形の虫。大抵は、吸い上げた魔力で独自の強力な魔法や術式を、今までの事件であれば禁呪を生み出すために使われるものだが、それが無数の魔法族の集う閉鎖空間で使われたらどうなるかは、今しがた見たとおりだ。ならば、魔法で宙に浮かぶ建物の中に置かれたならば、一体どのような効果をもたらす?
強い不安の中、おおい、と叫ぶ声があった。見れば、事故惨事部の
「──倉田くん、魔法省が」
百地事故惨事部長は、完全に箒が降下するのも待たずに地面に向けて飛び降り、やや着地に失敗しながらも手にしたスマートフォンを突き出しながらその画面に杖先で触れた。空中には何らかの事故を伝えるニュースの映像が映し出される。
もうもうと上がる煙と、その合間からかすかに見える鉄骨混じりの膨大な瓦礫は、どこかの巨大な建造物が一挙に崩れ去ったことを伺わせた。だが、その映像を前にした百地部長以外の者たちの反応は薄い。画面にはマグル向けの民法ニュースであることを示す他にはいかなる説明も表示されておらず、アナウンサーも土煙で全く見通しがきかないことばかりを離していて、一体どこでどのような惨劇が起こったものか判断が付かなかったからだ。
大変なことが起きているらしい、という予感と、けれど起きていることの実態を掴むことのできない、奇妙に茫洋とした空気が破られることとなったのは、続いて百地部長が発した、
「魔法省が、落ちた」
との言葉が、彼らの耳に届いたときのことだった。折しも、画面は視聴者提供の映像に切り替わり、その事故が発生した瞬間が余すことなく映し出されはじめている。土煙で様子の伺えない現場の状況を写し続けても意味がないと判断がされたものだろう。
『──ええ、こちら、視聴者が、スマートフォンで近くのビルから撮影した映像ということですね。……上空に、巨大な、ビルのように見えますが、何か巨大なものが突然現れて……そのまま落下して、東京タワーにぶつかった……えっ、これ、正しい映像ですか? フェイク映像ではない? 現実にこれが起きた? ちょっと待って、他の映像、本社ビル屋上の定点カメラではどうですか──』
ニュースの司会者が述べたとおり、投影された画面の中では、よく晴れた東京の空の中に突如、逆さに吊り下がった巨大なビルが出現し、その巨体を重力に引かれるままに落下させ、直下に存在する赤い大鉄塔を飲み込みながら崩壊してゆく様が余す処なく映し出されていた。魔法省が落ちた。何の比喩でもなく、魔法省という巨大建築が、その巨体を宙に浮かせるための魔力をほんの数分の間断たれ、その数分のために、物理法則に従いはるか地上に落下することとなったのだ。
はじめに叫び声を上げたのは、誰であったものか。茫洋とした空気とともに訪れていた奇妙な沈黙は、いまや無数の悲鳴、無数の恐慌に取って代わっていた。時刻はすでに午前十時半を回っている。すでに登庁時刻は過ぎ、直下の東京タワーにも無数の客たちが訪れている時刻だ。ニュースの司会者は、未確認情報ですがと前置きをした上で東京タワーには修学旅行の学生が訪れていたとの情報もあることを伝えている。切り替わった現地の映像は、未だ膨大な土煙に覆われて断片的に瓦礫が見えるばかりだが、その瓦礫もそれと知った上で見れば、確かに大鉄塔のあの赤錆びた鉄骨と魔法省のコンクリートが絡み合った無残な
あとは、もはや職務規定だの魔法法だのは、あってないようなものだった。
魔法使いの世界は、ひどく狭いものだ。魔法省職員の中に友人や恋人、あるいは親族を持つ闇祓いは少なくない。そうでなくとも、魔法省がその職員の大半を抱えたまま文字通りに崩壊したいま、救助活動が可能なものがいまここに居るものしか存在しないことは明白だ。闇祓いたちが誰の命令も待たず、惨劇の現場へと姿をくらましてゆくのを止めるものは、誰も居なかった。
† † †
その日、日本国内外で、どのような手段であれ、映像を見るための媒体にふれることができたものは、不可思議な映像をいくつも目にすることになった。
映像は、空中に突如現れた真っ逆さまに落下する巨大な摩天楼が東京の象徴たる大鉄塔を飲み込む様子を映したものから始まり、土煙の晴れないうちに摩天楼と大鉄塔の残骸の上に現れた無数の人々が文字通りに瓦礫を消し去ってゆく様子や、奇跡的に救出された生存者や大怪我を負ったものたちが、その場で人知を超えた方法で治療を施される様子などを、余すことなく映していた。東京という大都市の中心部で起きた巨大な惨劇の現場には当然ながら多数の人々が居合わせていた。めいめいに映像を記録することのできる通信端末を手にした、多数の目撃者たちが、だ。各テレビ局のテレビカメラと合わせて何十何百というカメラがその様子を記録し、ありとあらゆる方法で更に多くの人のもとへと拡散されるのは、避けようのない事態であったろう。
だが、数多くのカメラが、あらゆる角度、あらゆる場所から記録し、拡散することとなった無数の映像のなかでも、事故の瞬間のものと並んで最も耳目を集めたのは事故から数時間が経過し、あらかたの瓦礫が消え去った頃に置きた、ある一連の出来事を納めたものだった。
奇跡的な、文字通りにマグルの目からは「奇跡の救出劇」としか見えない活動が終わり、膨大な数の死体と、ほんの十数人の生存者とが発見されきったあとには、夕日に照らされた広い空き地が残されていた。夕映えに染まる空き地には、くたびれ果てた様子で二十人足らずの人々が座り込み、あるいはアスファルトに直接倒れ込んでいる。彼らに直接一体何者であるのかを問うものが現れないのは、周囲を警察が封鎖しているためであるが、当の警察官たちも奇妙な出で立ちの集団に対して興味を抱いているのは明らかな様子だ。
魔法使いたちが再びその身を動かしだしたのは、彼らの上に、一つの黒い影が落ちた時のことだった。
どういうわけか、その姿はあらゆるテレビ局、映像を流しうるあらゆるメディアで伝えられていた。赤い狩衣姿の侍童を連れた平安装束の男が現れるとともに、その場でカメラを回していた人々は、テレビ局のカメラマンもネットニュースサイトのドローン操縦者も、ただ偶然その場に居合わせてスマートフォンのカメラを起動させていたものさえも、残らずその姿をカメラに納めねばならない、との義務感に突き動かされたのだった。
「我が名はドーマ。
ほんの一日前までは、東京タワーの展望台が存在したあたりに、その姿は立っていた。そう、血のような夕日に照らされて、ドーマは空中に、兎耳の童子ギョクトとともに、何に支えられることもなく立っていたのだ。
直垂を風になびかせたまま、ドーマは話しだした。その声は、到底届くはずのないあらゆる録音機器に届き、映像とともにリアルタイムで共有されている。動画サイトやSNSでは、その装束や明らかにこの奇妙な状況について知っているらしい話しぶりと合わせて、即座に「ラスボス降臨」だとか「横の小さいほうを先に倒さないと倒せないやつじゃん」だとか「ただの空中に立ってるだけのコスプレ野郎だろ」だとかの有象無象のコメントを集めることとなった場面だ。
「突然の惨劇、それも巨大ビルが空から文字通りに降って湧いて東京タワーを押しつぶすなどという理解を超えた原因による惨劇を前にして、皆、怯え、混乱していることだろう。──だが、私はその原因を知っている。空中に高層建築を浮かせ、更にはその姿をいかなる人間のテクノロジーからも秘匿しうる、その力を知っている。いや、この映像を見ているものならば、すでにもうその力を見たはずだ。あの膨大な瓦礫を消し去っていったあの力を。そしていま、いまこの身を宙に留めおき、あるいはこの私に迫ろうとしているあの力を」
話しながら、ドーマは下方を睥睨してみせた。彼の示した先にいるものは、箒を駆る魔法使いたちだ。彼らにしてみれば、訳知り顔で物を語るドーマをこの惨劇の犯人とみなさない理由は何もなかった。
けれど、闇祓いと魔法事故惨事部員とを問わず、ドーマに向けて発せられる呪文の攻撃はどれも周囲に張られた力場に弾かれて術者への攻撃へと転じ、ネット上では「完全にハリウッド映画」「マジでフェイクじゃねえのこれ」「どっちが悪役?」「これは強キャラの風格」「見た目だとプロテクトギアもどきのほうが悪役っぽいな」などなどのコメントが寄せられることとなる。
あらゆる攻撃を気にもとめず、ドーマは話し続ける。
「有史以来、我々人間は様々な呼び名でこの力を呼び習わしてきた。皆のなかには、超能力、と呼ぶものも居るだろう。あるいは神通力、奇跡の御業だと考えるものもいるかも知れない。宗教者ならば、悪魔の力、と呼ぶものもいるだろう。それは全て正しい。古来、あらゆる文化の中で神の力、あるいは魔の力とされてきた超常の力、すなわち魔法を、いまはじめて、諸君は目にしているのだ。
そう、なぜいまこの時、初めてであるのか、それが問題だ。古代から魔法は存在してきた。魔法を使うもの、魔法使いももちろん存在してきた。だというのに、我々がそれを知ることがないのは、まるで彼らとその力がこの世に存在しないかのように人々の目から隠し通され、その恩恵からすらも遠ざけられてきたということにほかならない。いったい、これほどの力を人類社会が表立って受け入れられていれば、どれほどの恩恵を受けることができただろう? 我が国に絞って、我々が目にした種類の魔法だけで考えてみても、その効果は絶大だ。我が国が度々被ってきた自然災害、その現場に彼らが居たら一体どれだけの命が救われたことと思う? あるいは、空中に浮かぶ楼閣、それが万人の物となっていたならば、地震という災害そのものと決別することすらできたのではないか?
だが、そうなってはいない。彼らがいまこの場で白日のもとに晒されている理由はただ一つ、この私、道魔法師が、空中に浮かんでいた彼らの総本山、魔法省の魔力を絶ち、自然の摂理の求めるままに地上へと叩きつけたからにほかならない。ああ、その犠牲については心から申し訳無いと思う、だが、間違いなく必要なことでもあったのだ、我々人類が魔法という偉大な力の恩恵を受けるためには──」
そこではじめて、ドーマは言葉を止めた。その原因を確かめるならば、近隣のビルからある会社員が映した映像を確かめるのが最もわかりやすかっただろう。
ドーマが長い口上を途切れさせた時、スマートフォンのカメラは、一人の闇祓いが箒で一直線にドーマの元に向かう様を映し出していた。その手に杖はなく、その身ひとつで力場を突破し、ドーマへ接近しようとしている。すぐ近くで声を拾うことができていたならば、その闇祓い、すなわち秋津・ミズホ・ローレンスが、
「ふざけるな!」
と、鳥頭のマスクごしに怒声を発していたことが分かっただろう。
ギョクトは印を結び、飛び来る闇祓いに攻撃を加えようとした。だが、その効果は結局、ミズホを迎え撃つことはなかった。他でもないドーマが侍童を手で制し、闇祓いの接近を許したのだ。
直後、ドーマの体は宙を飛び、ミズホの箒の横に宙吊りになった。ドーマが何かをしたわけではない、ミズホがごく単純な
とはいえ、外野の見方とは裏腹に、あくまで使われたのは
「──ふざけるな、必要なことだと? 何様のつもりだ、これだけの被害を出して、あたしたちを引っ張り出して、それが魔法の恩恵を人類に与えるためだとしても、必要なことであるはずなどない!」
呼び寄せ呪文によって空中に浮かんだ身体の、その襟元を掴んでミズホは立て続けにまくしたてる。けれど、まるでその言葉を待っていた、とでも言うように、ドーマの顔には満足げな笑みが浮かびさえした。
「は。恩恵を、人類に、与える、か。実に魔法使いらしい意見をありがとう、闇祓い、暁の名を持つ金の烏の眷属よ。その意見こそ、お前たちの傲慢を示すものだ。
お前は、なぜ、私が魔法使いや、それに類する存在だと思った?」
「え?」
ミズホが思わず問い返し、ドーマの笑みがさらに深くなる。下方からは、声が上がっている。それ以上話をさせるな、そいつを叩き落とせ、いやすぐに捕縛しろ、とギョクトに接近を阻まれながら魔法使いたちが叫んでいるのだ。
だが、それすらも予想の範疇、というようにドーマは哄笑を上げはじめた。
「はははは、ははは、私を叩き落としてみるか。いいだろう、それもいい。何のことはない、お前がこの手を離せば私はほんの数十秒も経たずに私が殺した何百人かと同じく、数百メートル下のアスファルトに叩きつけられて死ぬことになる。
なぜならば、私はただの人間で、いかなる超常の力、いかなる魔法の力も持たないのだからな」
「な、だってさっき空に浮いて──」
驚愕するミズホの手を、ドーマの手が払った。
杖のない状態での魔法はひどく不安定なものだ。ましてや、一日ぶ
ドーマの身体はギョクトの張った力場で僅かに勢いを失いつつも落下を続け──
「──いや、それは困りますよドーマさまぁ。まだまだやることいっぱいあるんですよお、全部ほんとにボク一人にやらせるつもりですかあ?」
と、上空から数人の魔法使いを蹴り、自然落下以上の速度で地表に迫ったギョクトによって受け止められるに至った。
「ははは、そうだったな、悪い悪い」
自分よりも遥かに背の高い成人男性を難なく受け止めた童子は、自らの主人を地面に下ろすと、うやうやしくその足下に跪いた。とはいえ、着地した先は「被災地」である東京タワー跡だ。上空には闇祓いと事故惨事部員たちが、周囲には警察官に混じり、陰陽師が総出で防御陣を張っている。けして、闇祓いの包囲を抜けた、などと言える状況ではなく、むしろ
「おとなしく投降しろ、もはや逃げ場はないぞ!」
と、拡声器ごしに賀茂ヤスナ陰陽頭が叫んだ通りだ。
ドーマは別段、その呼びかけに動じることもなくあたりを見回し、ふむ、と首を傾げた。そして、一つ頷くと、再び手を広げ、周囲を囲む人々の、その手に持ったカメラのその向こうへと語りかけはじめた。
「──いまの様子をみた人間たちよ、ゆめ忘れるな! 我々は、このような力を隠し通されてきたのだ!
即位礼に際して、私は依代を使い御所の中で事件を起こした。その数日後には、はるか数百キロの洋上から巨大な城塞が東京湾へと上陸するよう仕向けた。ついこの間の東京の停電、あれもまた魔法使いたちが、私の起こした事件に対処するために起こしたものだ。だが、そのどれもが表沙汰にはなっていない。あるいは、魔法の影響など何もなかったかのような形で事件の姿が捏造され、偽りの報道がなされていた。では、それ以前には一体どれほどの隠蔽がなされてきた?
私がかくも酷い惨劇を起こさざるを得なかったのは、それほどの力に対抗するためなのだ。この力とは、ただ魔法の力を指すものではない。魔法の存在を隠蔽してきた魔法省という組織。これを一挙に壊滅させ、そして魔法省、魔法使いらに対しその身を隠すことを強いて、魔法という強大な力をほしいままにしてきた日本国政府の権力、それに抗うためであったのだ!」
ドーマの演説は佳境に入り、その口調も身振りも、心より熱の入ったものとなっている。ギョクトは再び印を結んでいるが、演説を止めるべく攻撃を加えるものも、あるいはその演説を伝えるカメラに妨害を試みるものも、誰一人として居ない。無数のマグルの目のある中で、マグルに対して攻撃を加えていいものか、誰一人として判断を下すことができずに居たのだ。
「私は、魔法という力が素晴らしいものであると信じる。城塞を浮かせ、人が空を飛び、岩を羽に変え、無から水を生み、炎も電気もなしに光を生むことのできる、我々の思い浮かべる魔法そのものの力だ。だが、いま我々のこの世界はその力を許容していない。つまりはその力を持つものすらも許容していないということだ。いったい、これほどの差別がどこに存在するだろう? こんにち、どのような被差別民、迫害を受ける少数民族であれ、その存在は多かれ少なかれ人に知られ、問題とされている。だが、魔法の力を持つものはそうではない。完全に人間社会から阻害され、その存在すらも我々の知るところではなかったのだ。これほどの分断、これほどの迫害を許していいものか!
諸君、私の言葉を聞いた人間たちよ、この映像を保存し、人に話し、広め続けろ! もしも昨日この話をしたはずの人間が今日その事を忘れていたならば、それこそがあらゆる欺瞞、あらゆる隠蔽の確たる証拠だ! この事実を知り、広め、衆目に知らせることこそが、歴史の上に類を見ない不平等から魔法の使い手を守り、その力を人類を導く光とするためのたしかな戦いなのだ!」
東京という大都市の只中に不意に出来上がった巨大な空白に、ドーマの声は
長い演説を終えたドーマは、ふう、と息をついた。それから、彼の足元に付き従い、印を結ぶ童子の白い髪に手を置き、優しく撫で上げた。
「さて。ギョクト、しばらくお別れだ。私は縄に付かなければならないからな」
いつしか、冬の日は完全に沈んでいた。この日拡散された数多くの「ドーマの演説」動画は、投光機に照らされる中、警察に──そう、マグルの警察に投降するドーマの姿で終わりを告げることとなった。ドーマが自らをマグルであると名乗り、実際に自ら違法な魔法を行使した形跡がない以上、闇祓いは捕縛する権限を持たないのだ。可能性があるとすれば侍童たるギョクトの方、ということになるだろうが、赤い狩衣の童子はドーマに頭を撫でられた直後、すぐさまその場から文字通りに姿をくらましていたのだった。
かくして、魔法は取り返しのつかない形で暴露された。