ドアにかけられた鍵の開く音が、あっさりと室内に響き渡った。呪文の力にもよらず、ただ鍵だけがかけられたドアなど、魔法学校低学年の生徒であろうと魔法族にとっては施錠がされていないのも同じことだ。
けれど、ドアノブに手をかけていた秋津・ミズホ・ローレンスが外に出ることはなかった。というのも、
「あ、やっぱ外に出ちゃう系? まあ、出るよねえ。例のテロリストと話したいって言ってたもんねえ」
と、開いたドアからミズホを押し戻す形で入ってきたものが居たためだ。青槻よりはるかに年上の警察官の姿は、室内の三人には見覚えのあるものだ。
「
穂村カツミが再び前を向いた。廊下の寒さに凍えた手をこすりながら入室してくる鳥辺
鳥辺は二人の部下とともに、部屋の隅に並んだパイプ椅子を先に室内に居た三人の前に並べはじめた。
「いやあ、ごめんね、うちの課長が。仕事はできるんだけどね、どうも特事に回されたのが気に食わないみたいで」
「トクジ……?」
何の略とも取れる略称に、ミズホが怪訝な声を上げた。
「特殊事件対策課。まあ、いわゆる魔法関係の事件に対応する部署ってこと。君も座ってよ」
部下たちがパイプ椅子に続き長机を運ぶ横で鳥辺は三つ並んだ椅子の中央に座り、まだドア近くに留まったままのミズホに椅子に座るよう促した。鳥辺の口調や態度は、先程の青槻とは違い、ごく友好的で優しげなものだ。
話を聞かずに出ていくことも無論可能だが、その場合、数多いマグルの警官たちに阻まれる中、ドーマの居場所を探し出す必要が出てくる。出来ないことではないが、と、両膝の間に立て掛けた一ッ目虎動に手を当てつつ、敷島エイシュウは行動力に溢れた新人闇祓い、もとい現在はエイシュウとともに闇祓いに追われる身となったミズホへと視線をやった。出来ないことではないが、大立ち回りをやりたいとも思えない。
幸い、今回はミズホもエイシュウと同様の判断を下したものであるらしい。ミズホが再び着席するとともに鳥辺の部下たちも席に付き、ぎしぎしと軋む長机をはさんで丁度三人ずつが向き合う構図が産み出された。もっとも、エイシュウは未だ椅子ごと大きく横を向いたままで、穂村も椅子をやや後方に引いてその上であぐらを組んでいる状態であるため、実質的に机に向かっているのは警察側の三人とミズホだけであるのだが。
「例のテロリストへの取り調べに同席したいって話だけどね。条件付きでってことになるけど、大丈夫そうだよ」
長机に身を乗り出して、鳥辺はそう切り出した。本当ですか、と返すミズホの口調は、そう明るいものでもない。条件付き、というところと、青槻との態度の落差に警戒心が上回っているのだろう。鬼と仏。はじめに「鬼役」にきつい態度で取り調べに当たらせて、その次に「仏役」が優しく接することで被疑者を
「あー、これ、普通に警戒されてる? まあ警戒するよねえ。でも、条件って言ってもそんなに大したことじゃなくて、契約を結んでほしいってだけだから」
逃亡中の闇祓いたちの警戒を理解した上で、鳥辺は飄々とした態度を一切変えることはない。鳥辺は羊皮紙を三揃い机上に置き、三人の客人に向けて押し出した。同時に、鳥辺の右隣に座る婦警が服の内側から杖を取り出し、その手に握る。ミズホが驚いて顔を上げると、婦警ははにかんだように微笑んでみせた。
「本格的に魔法を習った方々にお見せできるような力量ではありませんが、少なくとも、契約に必要な魔法くらいは使えます」
森
「、沢村、とりあえず契約だけ先にやっちゃって」
鳥辺が部下にそう命令すると、羊皮紙に書かれた文字列が光り、ミズホの空いた側の手へと吸い付こうとした。拇印、あるいは手形を勝手に取ろうとしている。明らかに、結んではいけない種類の契約だ。エイシュウは虎動の鯉口を切る。だが、妖刀が刀身をすべて現すよりも、ミズホと手を結んだ沢村が何か衝撃を受けたように後方へ吹き飛ぶほうが早かった。無言、杖なしの
「手をつないで二者が契約を結び、第三者が保証人として立ち会う。破れぬ誓いの変種ですね。どんな内容であれ、刑罰など裁判所の判断によるものを除き、契約を結ぶ行為そのものが違法とされている魔法契約です、間違っても強制的に結んで良いものじゃない」
破れぬ誓い、その名の通り、誓いを破れば死が訪れる、強力な拘束力を持つ魔法の契約だ。通常は手をつないだ両者が口頭で合意を結ぶことで成立するものだが、この場合は契約書をその代わりとして強制力をもたせたものだろう。
エイシュウは羊皮紙を呼び寄せ、触れることなく空中に浮かばせたままその書面に眼を落とした。魔法のかかった契約書など、殆ど呪物と同じだ。触れるだけでどのような効果が発揮されるかもわからない。
「なんだこれは」
数行にも目を通さないうちに、エイシュウの口からは、自然、そんな感想が漏れていた。
羊皮紙の上でほのかに赤く光る文字列は、「然るべき監督者の許可を得た場合を除き以下の呪文を行使しないことを誓う」との文言から始まっていた。呪文を自らの意思によらず制限される契約というのが、そもそもおよそ一般的な魔法使いにとっては信じがたいものだ。
さらに、それ以上に許容し難いのは、その下に続く魔法の一覧だった。それが、
「この内容で破れぬ誓いを結ばせるなんて、魔法使いに死ねとでも言うのか。というか無意識に誓約を破って死ぬぞこれは」
羊皮紙を指差しながら、エイシュウは長机の向こうに座る三人、特にその中央に座る鳥辺アオイを睨みつけた。鳥辺は、なんの前触れもなく吹き飛ばされた自分の部下と、空中に浮かんだままの羊皮紙とを興味深げに見やっている。
「呪文を口にせず、なんの予備動作もなしに魔法を発動。そっか、上手い人だとそういう事も出来るんだねえ」
「魔法学校の全過程をきっちり終了してりゃあ誰でも意識せず出来る。だいたい、何だこの禁止呪文のリストは、浮遊呪文を禁止して姿あらわしに姿くらましも出来ないとなればこの先ずっと移動手段が無いことになる、我々を軟禁したいなら軟禁したいで、扉にきっちり対抗呪文をかけておけばいいだろう」
後半は、鳥辺ではなくその部下たちに向けての言葉だった。鳥辺はともかく、部下二人は破れぬ誓いを結ぼうとしたところからして魔法の知識があるものと判断したのだ。
けれど、エイシュウの言葉を受けて、も沢村も困ったような笑みをその顔に浮かべるばかりだ。この反応は、まるで──
「いや、ごめんね、うちの連中、魔法の力があるってだけでそっちの教育は受けてないんだよね」
まるでマグルと変わらない反応だ、とエイシュウが思ったことを裏付けるように、鳥辺が部下たちの反応について、フォローを入れた。
魔法の力を持っていても西洋式の魔法教育を受けていない層、魔法所卒業者の言うところの「半端者」は、魔法学校入学者がごく少数に留まる日本においては魔法族の最大ボリュームでもある。狭義の魔法界、つまりは魔法所出身者の生活圏以外で出会う魔法族は半端者である可能性のほうがよほど高い。知識として理解はしていても、魔法界の住人にしてみればなかなか気づきづらい事実でもある。
「でも、こいつらだってこれ全部遵守してきっちり普通に生きてるし、慣れたら案外いけるもんだよ」
底の知れない笑顔を浮かべたまま、鳥辺はミズホが吹き飛ばした羊皮紙を拾い上げ、再び机上に乗せた。上司の言葉に、ふたりの部下たちはそのとおり、と言わんばかりにこくこくと頷いてみせる。全部遵守して、というのは、羊皮紙の内容を指すものとしか思い難い。
ミズホが立ち上がり、信じがたいものを見るような目で警官の制服姿の「半端者」たちを見やった。
「まさか、二人ともこの契約を結んだの」
「二人とも、じゃないよ。異能持ちの警官は全員、この契約を結んだ上でうちに入ってくるんだ」
答えたのは、鳥辺だった。途端、パイプ椅子の表面が弾け、長机にいくつもの傷がつく。ミズホが魔力を暴発させたものだ。
「馬鹿じゃない、こんなもの、敷島さんが言ったとおり魔法使いに死ねって言ってるのと一緒よ。それも魔法教育を受けてない人に対して結ばせるなんて、労働法を知らない人を違法な契約で働かせてるのと一緒か、それよりひどい」
沢村が、上司を守るように前へ出て印を結ぶ。なし崩しに戦闘が始まる気配に、ミズホが杖を握り、エイシュウも今度こそ妖刀を抜き放った。
が。
「待て! おい、二人とも待て、契約書を見ろ、後半部分だ」
長机の上に残っていた契約書を覗き込み、その内容を読み込んでいた穂村が振り返り、声を上げた。エイシュウは羊皮紙を顔の前に浮かばせて、長い呪文の列に続く条項に目を走らせる。
「眼前にて常人が無力化、あるいは傷害を負いうる、人命を落としうる魔法及びそれに準ずる力を関知した場合、これを看過せず、防ぐことを誓う」
呪文の羅列の次、羊皮紙の終わり近くに無造作に記された言葉の意味をエイシュウが完全に呑み込みきれていないうちに、鳥辺がそれを読み上げた。魔法及びそれに準ずる力を看過せず、防ぐという誓い。つまり、いまの状況に当てはめるならばエイシュウやミズホが呪文を放ち、と沢村が防ぎ切れずに鳥辺が怪我を負う自体になったならば、それだけで誓いが破られた事になってしまう。
いや、厳密に言うならば、いま、この部屋を出ていくことだけならやりようはいくらでもある。先に部下二人を気絶させてから鳥辺を拘束する、あるいは単純に、魔法を一切使わず物理的な手段で三人共に制圧するだけで、誓約破棄とは言えなくなる。だが、問題はその後だ。もし力で押し通ろうとすれば、当然に他の警官たちとの戦闘は避け得ない。だが、先程の口ぶりならば魔法族の警官は他にも居るはずで、その全員がいま眼前にあるものと同種の契約を結んでいるならば、非魔法族の警官に魔法を行使するだけで彼らは命を落とすことになる。無論、それで攻撃をする側が死ぬわけではない。どのみち魔法で攻撃する時点で非魔法族の警官もそれなりの数が死ぬのだ。一切の犠牲を鑑みなければ、押し通ることは可能ではある。可能ではあるが。──
ミズホが杖から手を離すのを見て、エイシュウもほっと息をついた。
「ああ、攻撃は止める系? うん、そういうタイプだよね君たち、分かってたよ」
へらへらと笑う鳥辺を前に、ミズホは悔しげな表情を浮かべつつも再び椅子に腰を下ろす。そうだ。秋津・ミズホ・ローレンスというのは、そのような人間だ。マグルの社会で生きるために馬鹿げた契約を結んだ哀れな「半端者」が命を落とす可能性も、マグルの警官が死ぬ可能性も出来得る限り排除しようとする、正義感に満ちた理想的な闇祓いなのだ。
「君たちいい子だし、契約してさえくれればすぐにでも特殊事件対策課の一員としてドーマくんの取り調べに参加させてあげるよ。どう、穂村ちゃん的にもいい話じゃない? そしたらほら、経歴に空白もない状態で就職も決まっていい感じだと思うんだけど」
穂村は、かねてからの知人──友人ではないだろう──の問いに答えることなく、ただ苦しげに首を横に振るばかりだ。今しがた攻撃を止めたのが彼女であるのだから、必要以上に荒波を立てようとはしないだろう。そもそもがマグルの政府、マグルの社会に組み込まれた魔法族の組織に属していた穂村カツミは、その性格の割に、マグルに対しては存外に従順だ。辛いとは思いながらも、黙ってやり過ごそうとするのが習性となっているのだろう。
「でも、案外あれだよ、今は無理に思っててもやってみたら幸せに暮らせるかもよ。普通の人間がみんなやってる生活を送るだけなんだしさあ。幸せの青い鳥は、魔法で巡り回った先じゃあなくチルチルとミチルの家の中に──」
続き、エイシュウに向けてもって回った言い回しで話しかけはじめた鳥辺の言葉が、途中で途切れた。彼の目の前で、二人の部下がなんの前触れもなく宙を舞い、壁に激突して気を失ったのだ。どれほど豪胆なものでも、度肝を抜かれないはずがない。
「えっ、何やってるんですか敷島さん」
ミズホも同じく驚愕し、振り返ろうとする。振り向きざまのその顔に向け、エイシュウは無言のまま、素手で
瞬時に意識を失い、崩れ落ちたミズホの体を、エイシュウは魔法で出したクッションの上にそっと寝そべらせた。
ぱらぱらと、雨が窓を打つような音が部屋に響きはじめた。同時に外からは、ゴブリンの水を散布している旨を拡声器で繰り返し呼びかける声が聞こえはじめてもいる。ゴブリンの水とは服従呪文や変身術その他諸々の、偽装の効果を持つ呪文を洗い流す効果を持つものだ。魔法の燐光を放つ水に全身を濡らしてもなお機動隊員たちが命令を遂行している様子は、それが呪文の効果に強制された行動ではないことを端的に示すこととなる。マグルのマスコミやその視聴者には意味はわからないだろうが、映像は魔法族の目にも当然触れることとなる。少なくとも、警視庁前に布陣する闇祓いへの牽制としては十分な意味を持つはずだ。
窓の外では、拡声器ごしの割れた声が延々と同じ言葉を繰り返し続けている。──現在警視庁前にゴブリンの水を散布している、魔法族ならば意味が理解できるはずだ、ゴブリンの水は善意の魔法族から提供を受けたものであり警視庁内に魔法族が居ることを意味するものではない、闇祓いを名乗る武装組織は直ちに警視庁の前から立ち退くことを求める、繰り返す、現在警視庁前に──。
「お前たちの作家が作り上げた寓話をもとに物を言うなよ、
外から聞こえる音ばかりがしばし響き続けていた室内に、ようやく割って入ったのは、エイシュウのそんな言葉だった。椅子の上で、凍りついたように成り行きを見守っていた穂村が立ち上がり、後退る。対して、明確にその言葉を投げかけられた警察官はと言うと、すでに部屋の前方、スクリーンの設置された壁のギリギリに立っていたためにそれ以上どこに逃れる余地もなく、強がりかそれともそうするのが癖となっているものか、不思議と笑顔を浮かべている。
「あ、は──穢れた血、か、正義の味方の集まりかと思ったら、なかなかの
「よく言われるよ。あんた、自分の上司にも同じことを言えたら上等だと思うが」
鳥辺の懐から鉄の塊が飛んだ。
「敷島さん、あんたそれは」
「ああ、悪いな穂村、お前の人脈、一つ潰すことになっちまう」
「いやそんな事どうでもいい、そうじゃあなく」
穂村の怯えた声を聞き流しながら、エイシュウは拳銃の撃鉄を起こした。
「こんなもの、一定以上の力量のある魔法使いにとっちゃ豆鉄砲ほどにも効果はないが、お前たちにはこれで十分な驚異になるんだったな」
銃口を向けられた男は、その顔に張り付いたような笑みをこわばらせつつ、自ら両手を上げ、頭の後ろで組む。落ち着け、おい、早まるな、との穂村の声が、スピーカーから響く割れた音に混じりエイシュウの耳を打つが、その意味までは脳に伝わりはしない。
「俺はな、はっきり言ってどうでもいいんだ。ドーマとかいうテロリストのことも、魔法界がどうなろうと、日本がどうなろうと。ただ、
こいつ、と、エイシュウはクッションの上に倒れたままのミズホを示した。エイシュウが
「だが、どうにもこいつは人の話を聞かないたちでな。あのテロリストからまだなにか引き出せると信じてるようなんだよ。服従呪文でもかけて英国まで連れて行くかとも思ったが、なにぶん俺たちは魔法使いだ、ほんの数回姿をくらますだけで、また日本に戻ってきちまう。だから、さっさとこいつがこの国に留まる理由を消すことにした」
「それは──」
エイシュウに鳥辺が話しかけようとした。消す、の真意を問おうとしたのだろう。だが、その頬を銃弾がかすめ、背後の壁に弾が当たり、ひしゃげるに至り、その口はつぐまれる。発砲音はない。ニューナンブの銃声程度ならば、
「マグルの言うことを聞いて馬鹿げた契約を結ばされた半端者どもも、正直どうでもいいんだがな。お前に服従呪文をかけて、偶然出会った半端者が死んでことが露見しても面倒だ。黙って例のテロリストの居るところまで案内しろ」
銃口を鳥辺の背に押し付けて、エイシュウはその体を廊下へと押しやった。廊下には誰も居ない。表であれほどの騒ぎが起きているのだ、余剰の人員など居るはずもないだろう。
「穂村、そいつらを見張っておいてくれ。そう時間はかからないはずだ」
魔法族の警官たちを
「あんた、浅い付き合いの相手にはそれなりにモテるけど、付き合ったあと重いとか言われてフラれるタイプだろ」
エイシュウの背に飛んだのはそんな言葉だった。エイシュウの言葉を了承したのかどうかはわからないが、パイプ椅子の上で膝を抱えて座り込んだ様子を見るに、この局面でなにか能動的に動こうとするつもりもないようだ。
背後で扉が閉まり、振り返ることなくエイシュウは歩き出した。
† † †
昨日まで陰陽寮であった地下空間で、百地
大抵の魔法省職員の生き残りがそうであるように、百地もまたろくに眠った様子もなく、顔色は土よりなおひどい。それでも膨大な書類を精緻な魔法で操り、整理し続けているのは、勿論この数日の間に魔法界が被った甚大な、もはや取り返しの付きそうにない事態と無関係ではない。
「──部長、百地部長」
事故惨事部の霧隠
「部長!」
霧隠が再度声を張り上げるに至り、ようやく、舞い散る書類はその場で動きを止めた。整理がなされないままに床に落ちたのではない。空中で静止し、時が止まったかのように固まっているのだ。
書類を避けながら、霧隠は百地に近づいていった。
「忙しい所すみません。ですが、魔法大臣……倉田魔法大臣からの事付けで」
倉田の名前が出た途端、百地の口の端にはどこか寂しいような、苦しいような笑みが浮かんだ。
「どうせあれだろ、柳生や間宮の一族、伊賀者や甲賀者に話をつけろと言うんだろう。この状況を乗り切るには魔法界に属さない忍びの末裔たちの協力は不可欠だ、とか言って。馬鹿なやつだ、部下に乗せられて政治になんか手を出しやがって」
明治以前、魔法の概念が流入する以前にも勿論、日本には魔法族が存在していた。彼らの生きる場所は、仏門や神道、修験道などの宗教の中であり、あるいはそれ以外では陰陽道、医術などの職能を身につける者も居た。そんな古の魔法族の職能集団のうち、最も有名かつ巨大なものは、忍者や素っ破、草、影などとよばれるものたちの集まりだ。──そう、忍者とは、明治維新以前日本に存在した魔法族集団の一つの形なのである。
いま現在の日本の魔法族も、たいていは先祖をたどればそのようなルーツに行き着くことになる。魔法事故惨事部には忍びの末裔である者が比較的多く、百地部長も、霧隠にしてもその種のルーツを持つものだ。倉田魔法大臣はその血縁を生かして、魔法界に直接属していない魔法族への招集を行おうと言うのだ。
霧隠は目を伏せ、頭を下げた。
「すでにお分かりでしたか。すでに個人的判断で
「服部ハンナか、いい人選だ。うん、旧大名家の出だからな、僕や他の誰かが出るよりも話が付きやすいだろう、その件は以降服部に任せる」
空中に羊皮紙が出現し、百地部長が杖先で撫でるとともにその表面に文言が浮かび上がって公文書を生成する。新たな文言を書くならばともかく、定型句の組み合わせで作られる公文書ならば、わざわざ万年筆だの羽ペンだのを持ち出すまでもなく作成が可能なのだった。
「忍びの末裔」との交渉を服部ハンナへ一任し、必要な権限を付与する旨を記した羊皮紙を部下に向けて飛ばすと、再び百地部長は杖を振り、書類の移動を再開した。紙の嵐の中、羊皮紙を握った霧隠は、渋い顔を浮かべたまま動くことはない。
「……部長。大変申し上げづらいのですが、その、現状において我々魔法事故惨事部が本来の意義を果たすことは、到底……」
言葉尻を濁しはしたが、ついに思い切って上司に向けて進言した言葉が、書類の中から一抹の希望を見出そうとする上司の行いを無意味だと言っていることは疑いようのないものだった。魔法事故惨事部の優秀な部員がそのような発言に至るのも、無理はあるまい。魔法省墜落事件が発生し、マグルに魔法界の存在が暴露されてから二日。今日に至るまで、魔法事故惨事部は諸外国の同業者は勿論、高度な忘却術の使い手とされる人物やはたまた
「無理じゃあないよ。無理じゃない」
百地はそう答えたが、霧隠にはその言葉がまるきり、人のいい上司が現実逃避をしているようにしか思えなかった。この期に及んでは、百地部長は居ないものとして扱うほうが良いのではないか。そう話すものまで部内に現れ、霧隠はそのような意見をたしなめてはいたが、この様子を前にしてはその意見もあながち間違いではなかったのではないかと思われるほどだ。
けれど、百地ミヨシはまっすぐに部下の顔を見て、言った。
「ずっと、思っていたんだ。
† † †
留置場の重いドアが開く音とともに、伏せられていた目が長い蓬髪の合間で開かれた。
男は廊下の最奥、丁度ドアを開けてすぐ目に入る房へと入れられていた。服装は、あの直垂姿のままだ。通常、留置場では長い紐になりうる衣服のパーツなどは没収されるものだが、帯や紐を含む直垂は全くあの日魔法省墜落の現場に現れたときと変わりはしない。
「どうしてか、没収しても勝手にもとに戻っちゃうし、日用品も差し入れられてないのにひげも剃られてるし顔も洗えてるんだよねえ。移動系の呪文は封印されてるはずなのにねえ」
先を歩く鳥辺が、そんなエイシュウの心を読んだかのように誰にともなく言った。無駄口を叩くな、と言いたいところだが、もうここまで来た以上は拳銃で脅すなどという野蛮な方法で鳥辺を従わせる必要もないだろう。
「
足縛りの呪いで鳥辺をその場に直立させた上で、エイシュウは奥へと進んでいった。背後からは抗議の声が上がり続けるが、ごく短時間のことなのだ。わざわざ
留置場の奥、細かな格子の向こうでは、ドーマと名乗った男がじっとエイシュウを見つめている。まるでその来訪を待ち望んでいたかのように、口元に笑みさえ立てているのは一体どのようなわけか。単純に、暇を持て余していたのでどのような来訪者であれ嬉しいのかもしれない。いずれにせよ、そんな理由など、エイシュウにはもう、どうでも良かった。もとより彼は、ドーマがあの事件をいかにして起こしたのかにも、その出自だの動機だのにも興味はない。闇祓いの職にとどまっていたならば、職務の範囲でそれを知ろうとしたかもしれなかった。けれど、今はもうそうではない。敷島エイシュウにとってもはや、ドーマは彼があるべきと考える未来を不当に妨げる障害物でしかなかったのだ。
「
ドーマが彼の呪文の射程に入ったところで、エイシュウは無造作に一ッ目虎動を抜き放つとともに、即死呪文を放った。緑の閃光は一迅の斬撃へと変わり、廊下の奥へと駆け抜ける。斬撃の効果が付与される妖刀であれば、間に存在する鉄格子程度は難なく破壊しえるものと判断したものだ。
事実、留置場にはなにかの破砕される音が響き渡った。ただ、それは独房の鉄格子の立てた音ではない。
「
見えないガラスが砕けたような音とともに空中でたち消えた即死呪文の閃光を見て、エイシュウは舌を打つ。妖刀を使った即死呪文でも一度で貫通しなかったところを見るに、盾の呪文は独房の格子にかなりの回数重ねがけされているものらしい。拳銃の銃弾よりも細かな金網が設置されている上、
だが、打開策はいくらでもある。エイシュウは
そうして、無数の鍵を一つずつ試しはじめたときのことだった。
「待って、待ってくれ、それは困る」
足元に、そんな声とともに絡みつくものがあった。足縛りの呪いをかけた鳥辺が、足は動かないままに床を這い、エイシュウにしがみついてきたのだ。数度蹴りつけるもなかなか離れはせず、
「ああ、
エイシュウが鳥辺を痛めつける中、格子の内側で、ドーマがそんな声を上げた。即死呪文を放っている以上、エイシュウの目的は魔法の知識があるものならば誰であれ明らかだ。
けれど、自らを殺しに来た魔法使いと、それを止めようとする警察官の争いを前にしてもテロリストは少しも動じることなく、むしろ恍惚としたような、陶然とした笑みをエイシュウへと向け続けている。
「きっと、こうしてここに来てくれることは信じて
「何が目的かと思えば、ただの自殺志願者か。大それた自殺を企てたものだ、一人で死ねばよかったんだ、このクズが。──お前もいい加減に離れろよ、この野郎」
死を待ち望むかのような態度を隠しもしないテロリストの言葉に、自爆テロを起こす類の有象無象と同じだ、と断じつつ、エイシュウは再度鳥辺の体を吹き飛ばした。偶然に魔法界の知識と協力者を手に入れ、自らのなしうる最も巨大な破壊を思いついて実際に成し遂げ、満足して死んでいく。ただそれだけの自殺志願者だったのだろう。それならば、あとから怒り狂うことが目に見えている秋津ミズホへの説明も随分と楽になる。エイシュウは、少しばかり肩の荷が軽くなった感覚を覚えた。
鳥辺は、背中から近くの房の鉄格子に叩きつけられてうめき声を上げている。しばらくは動けないだろう。あとは、盾の呪文さえ削りきればようやく目的を達成できるわけだ。エイシュウは再度鍵の束を手に、適合する鍵を探し始める。
そうして、ようやくシリンダーが回り、鉄格子の扉が開こうとしたときのことだった。
重い金属の扉が勢いよく開く音が響き渡った。続き、
「貴様、何をやってる!」
という怒声を皮切りに、喧騒が留置場の廊下に溢れかえりはじめた。侵入者の存在に気づかれたものだろう。それだけならば、振り向きざまに廊下の床を隆起させて防壁の代わりとするだけで十分に防ぎ得る障害だ。
エイシュウの手を止めさせたのはただ一つ、喧騒に交じる
「敷島さん、何やってんです馬鹿ですか!」
との声だった。
振り返れば、そこにあったのはスーツ姿の警官と、それを追う形のミズホと穂村と、更にその後ろから追いすがる無数の警官の姿だった。先頭を走っているのは三人の魔法族に対して「鬼役」を務めたマグルの警官、青槻ショウだ。
「俺じゃないぞー! そいつが秋津さんを叩き起こしたんだからなー!」
穂村は、自分がミズホを起こしたわけではないことを訴えているが、そんなことは彼女がおそらくは
「次から次へ、面倒な連中が──」
吐き捨てながら、エイシュウはまず大量の警官たちの前で床を隆起させ、廊下を封鎖した。続き、先頭を走り来る青槻を衝撃呪文で弾き飛ばし、その足を縛った上で鳥辺と同じ場所へと投げ飛ばす。やめろ、馬鹿野郎やめてくれ、と叫んでいた鳥辺も、自らの上司の体を真正面から受け止め、再び沈黙に至った。
「丁度いい、秋津、こいつはただの自殺志願者だ、大義もクソもありやしない、何を吐かせようとしても無駄だ!」
マグルの警官たちにはそれ以上の注意を払うこともなく、エイシュウは檻の中に佇むドーマを示し、ミズホに向けて声を張り上げた。が、その程度でミズホが動じるはずもない。
「そんなの、ほんのちょっと話しただけで分かるわけないでしょう! っていうかあたしを英国に出国させたいからそいつを殺すってなんなんです、馬鹿ですか!?」
杖を構えながら、ミズホはエイシュウに毅然と歩み寄り、抗議の声を上げた。その後ろでは、やはりミズホによって引きずられながら穂村が両手を合わせて頭を下げ、詫びるような格好をしている。どうやら、穂村が吐いた──というより吐かされたものらしい。服従呪文を少し使うだけで、その程度のことは簡単に聞き出せるだろう。ここに来て事態は混迷を極め、一体どのように対処したものかとエイシュウが思考を巡らせはじめたさなか、それは起きた。
「────あっ──」
エイシュウとミズホが対峙する、そのおよそ中間あたりの位置から、小さな声が上がった。青槻と鳥辺をまとめて放り投げたあたりからだ。
「クソ、嫌だ、いやだ──」
声は、鳥辺のものだった。エイシュウたちの前に現れたときには底の知れない笑みをたたえていたその顔には、今や恐怖が張り付き、顔中には脂汗を浮かべている。同じ場所に倒れていた青槻も、異変に気づいて足が動かないなりに体勢を変え、明らかに具合の悪そうな部下を抱き起こすほどだ。
部下の上体を支え、鉄格子に押し付けられたような姿勢を変えようとした青槻のシャツに、赤い血が飛んだ。鳥辺が、吐血したのだ。
「えっ、何だ──貴様ら、何を」
青槻は、その場にいる魔法使いが何かをしたものと思ったらしい。だが、マグルの視線を受けたミズホは首を振ってエイシュウを見やり、エイシュウもまた何の影響なのかもわからない事態を前に、困惑の表情を浮かべるほかない。
どん、と地響きのような音が廊下に響いた。床を隆起させた防壁が爆薬かなにかで破壊されたものらしい。もうもうと舞うコンクリートの土煙の中、警官たちが防壁の残骸を乗り越え、そして血を吐いている鳥辺と青槻を見て、凍ったように足を止める。駆けつけた警官は魔法族であるか、そうでなくてもこの場に常ならざる力の持ち主が居ることを知っていると見える。原因不明の死を迎えつつある人間を前に、なんらかの魔法の効果を恐れたのだ。
「──嫌だ、死にたくない、こんなの嫌だ、
血を吐きながら鳥辺が身を起こし、二人の魔法使いに手を伸ばした。
「助けて、嫌だ、死にたくない、助けて──」
血を吐きながらコンクリートの上を這い、闇祓いたちににじり寄ろうとしていた鳥辺は、その途上不意に力尽き、うつ伏せに倒れた。再び青槻がその体を助け起こすが、先程とは違い、体はぐたりと重力に引かれて自らはピクリとも動きはしない。──死んでいる。何の前触れもなく、何かの発作でも起こしたように。
「普通の人間に。……まさか」
青槻が、はっと何かに気づいたように鳥部のスーツに手を差し入れ、その内ポケットから何かを引き出した。一枚の紙片──羊皮紙を小さく折りたたんだものだ。
古びた羊皮紙が広げられた瞬間、その表面からは燐光を放っていた文字たちがバラバラとこぼれ落ち、黒い灰へと変わり、霧散していく。
「破れぬ誓いの、契約書」
乾ききった声で、青槻が呟いた。そう、それはエイシュウたちが突きつけられたのと同じ、破れぬ誓いの誓約を書面に起こした契約書だった。文面はわからないが、おそらくはあの部屋に用意されていたものと同じであったのだろう。そうでなければ、目の前でマグルである青槻が呪文で攻撃を受けたというそれだけで、鳥辺が血を吐いて死んでいった理由に説明がつかない。
何をやっている、確保しろ、と遠くで誰かが叫んでいる。何のためにお前らみたいなのを雇ってると思っているんだ、とも。けれど、警官たちは動かない。彼らは、鳥辺が持っていた羊皮紙の意味も死の理由も理解できるものであるのだ。
空虚な命令ばかりが意味もなく下され続ける中、その声にまじり、がん、がん、と何か、金属を叩くような音が留置場の廊下に響き始める。誰かが、留置場の重い戸を叩いているものだろうか。
警官たちの指揮官の一人も、そう考えたものらしい。制服を着込んだ年配の警官が、特に何の警戒もせずに金属扉のドアノブへと手をのばす。
「何だ、外が黒い? いや、これは──」
そして、金属製の分厚い扉がわずかに開いた瞬間。
その隙間からは、怒涛のごとくに黒い塊がなだれ込み、独房の並ぶ廊下は羽音とぎゃあぎゃあという声に埋め尽くされていった。
「烏! 嘘だろう、屋内だぞ!?」
エイシュウは飛び来る烏を撃ち落としながら、その悪夢としか言いようのない光景を見た。烏の群れは、まるで一つの巨大な塊であるかのように狭い空間を飛び回り、鋭い爪で肌を裂き、くちばしで目を抉り出そうとする。距離を置いて見られるものならば、古いスリラー映画の一幕のようだ、と評することも出来たかもしれない。その渦中にいる者たちには、そんな余裕など存在はしなかったが。
「
「この場に死の代償を伴う魔法契約を結んだ者が居るならば、早く逃げろ! ここに居る魔法使いは私を殺すつもりであるらしいからな、止めきれなければ死は免れんぞ!」
金網を掴んだまま、ドーマは魔法族の警官へと煽るような言葉をかける。その態度は、エイシュウと話していたときとは違い、あの日数々の動画を通して何千何万もの人々に語りかけたときと同様の自信に満ち溢れたものとなっていた。
明らかに混乱を招く目的の言葉は、警官たちに期待通りの効果をもたらしたようだった。もはや、命令の言葉も繰り返されては居ない。僅かな静寂のあと、
「──嫌だ」
と、はじめに言ったのは、誰であったものか。
「嫌だ、あんな死に方は嫌だ」
「死にたくない」
そんなことを口々に叫びながら、警官たちは本来彼らが捕縛すべきものたちに背を向け、その後ろに居る同僚を押しのけ、突き飛ばし、我先にと駆け出す。烏の襲撃によって、鳥辺の死体が目だの鼻だのを抉られ、もぎ取られ、見るも無残な姿となっていたことも彼らの恐怖を掻き立てたものだろう。もちろん全員がそうというわけではなく、その場に踏みとどまろうとするものや静止しようとするものも居ないわけではない。だが、圧倒的に少数すぎた。
鉄扉が再び開いたとき、その先でも烏は飛び交い、ぎゃあぎゃあと彼らにだけ分かる言葉を発し続けていた。だが、その行動は先程留置場の中に飛び込んできた群れほどに攻撃的ではなく、めいめいに逃げてゆく魔法族の警官を襲うまでは行かない。エイシュウはいっとき足だけを馬に変え、彼らの言葉を聞く。ミツケタ、ハグレモノダ、ホウコクヲアゲロ──。つまり、烏たちは、見つけるべきものを見つけ出したのだ。表に居る烏の親玉たちが警視庁に踏み込むにたる証拠、すなわち逃亡した二人の闇祓いの姿を。
「じきに、戦闘が始まる」
エイシュウは静かにつぶやいた。エイシュウとミズホと、ついでに穂村がこの場に居ることが知れた以上、それを口実に闇祓いは警視庁に突入するだろう。エイシュウの言葉を聞いた青槻は弾かれたように立ち上がり、烏の死体と羽根を踏みつけるとどこかへ駆けていった。
「時間切れだ、あとは一刻も早く移動呪文の封印区画から出るしかない」
ドーマの入れられた独房に背を向け、エイシュウは未だ彼の前に立ち続けるミズホに言った。こうなった以上は、ドーマのことなどかまっている暇はない。放っておけば勝手に闇祓いが連行して、そのまま自殺扱いにするなりなんなり好きにするだろう。いま最も優先すべきは、自分たちがこの場から逃れることであることぐらい、ミズホにも分かるはずだ。
だが、ミズホは動こうとしない。
「なら、そいつも連れていきます。いまの魔法省に渡したら、分かることも分からないし、マグルと魔法族の関係も余計にひどいことになる」
「馬鹿な。それで、俺達だけでこいつを取り調べて、事件の真相に迫って、何になる。お前の読みが完全に当たっていたとしても、せいぜい今の情勢が少しばかり良くなるかどうかだろう、この国にも魔法界にも、そこまでする価値なんてない」
エイシュウの言葉など聞いてもいない、というようにミズホの杖先から閃光が伸びた。攻撃呪文ならば弾かれるが、単純に、戸を開くために力を加えただけのことだったのだろう。すでに鍵の開いていた独房の戸は、難なく開け放たれる。
いつしか、あれほど辺りを覆い尽くしていた羽音は聞こえなくなっていた。「親玉」が乗り込んでくるにあたって、使い魔は引き上げていったと言うことか。ならば、なお一層時間はない。ミズホと言い争っている時間すらもない、ということだ。
「おい、喧嘩は後にしてくれ、どうにかしてここから逃れるほうが先だろう」
うんざりしたように口を挟んだ穂村に反論する道理も存在せず、十分も経たないうちに、三人は縛り上げたドーマを
意外にも、まだ闇祓いは警視庁に踏み込むことが出来てはいない。どうやら、それにはつい先程脱兎のごとく逃げたかに見受けられた青槻シュウが関わっているようだった。
『──〝破れぬ誓い”の誓約のもとにある魔法族は、契約書を示した上で直ちに警視庁を離脱せよ。魔法による戦闘が始まれば諸君の生命を守るすべがなくなる。彼らが投降するまで他の警官には一切の抵抗を禁じる、彼らは死の代償によって魔法の力を持たない人間を死守することが義務付けられている──』
警視庁内では、そんな放送が流れている。青槻が、館内放送を使って魔法族の警察官や、そうではない警官に向けて呼びかけているのだ。はじめに見せた「鬼役」としての顔はあくまで演技であったか、あるいは本気で言っていたにしてもその後、同じ人間と思っていた部下が誓約の内容によって死んでいくのを目の当たりにして心変わりをしたか。ほんのいっときしか青槻と顔を合わせていない以上、実際のところは伺いようがない。
いずれにせよ、青槻によるその呼びかけはいまのエイシュウたちにとって、少しばかり事態を有利に運んでくれていた。警視庁の外には未だマグルも魔法使いも問わず、多数の報道陣が詰めかけている。警視庁内での放送は外にも聞こえており、実際に魔法族の警官が魔法契約の書面を掲げて警視庁の入り口から外へと駆け出している状況で闇祓いが呪文を使用すれば、哀れな魔法族たちを見殺しにすると宣言するようなものだ。適当なものに
「映画が、見られなかったんですよ」
廊下の床材を剥がし、絨毯に直して滑空に耐えられるほどの強度を持たせる作業の最中、不意にミズホがそんなことを言った。
「ホグワーツの冬休みにホグズミード村でアルバイトして、そのお金で映画を見に行こうと思ったんです。ローグ・ワンって、スター・ウォーズのスピンオフ映画だったんですけど。でも、ホグズミードって魔法族だけの村なんですよ。だからお金もガリオンで、でも当たり前なんですけど魔法界じゃ映画館が存在しないからポンドに変えなきゃいけなくって、でもポンドとの両替サービスも存在しないから、無理やり鋳造して英国政府の刻印押してちゃんとした金塊ってことにして、ポリジュース薬で成人に化けてマグルの貴金属店に持ち込んでどうにか換金したんです。でも、額面よりもかなり価値は下がっちゃって、しかもそのときにはもう冬休みも終わりかけで」
なかなか、魔法界マグル社会双方の法律をいくつも破っていそうな思い出話に、どう相づちを打ったものか分からずエイシュウは変身術を行使しつつ、ただ数度うなずいてみせる。
「で、まあそれだけだったらアルバイトはマグルの店ですればよかったー、って笑い話にできるじゃないですか。休みが明けて、ホグワーツに行ってすぐ、その話をしたんですよ、寮の友達に。そしたら、まずみんな、ローグ・ワンを知らなかったんです。それだけだったらまあ、スピンオフだからそこまで有名じゃなかったって話かもしれないんですけど、それだけじゃなくて、スターウォーズもルーカスフィルムもディズニーも、なんだったら映画っていう娯楽のジャンルそのものを知らない人も居て」
英国その他の欧州魔法界は、日本に比べるとかなり早いうちにマグルの社会と早めに完全な分離を果たしている。マグル製品への魔法使用の禁止や、独自通貨の採用といった制度を見るに、魔法族側からマグル社会への交流自体が厳格に制限されていると言っていい。そうである以上、近代に入りマグルが科学力を飛躍的に発展させて以降は、魔法界の中だけで生きている者とそうでない者との間に横たわる情報の格差はかなり巨大なものになっているはずだ。
「で、そのときに、無理だなって。スターウォーズとかディズニーとかを知らない、映画すら知らない人が大多数の中でずっと暮らすって考えたら、無理だって思ったんです。だから、日本に来たんです」
結びの言葉を口にしつつ、ミズホが廊下を覆うフローリングを糸に変えて絨毯に織り込んでゆく。そこでようやく、エイシュウはこの話が先程彼が口にした、この国にも魔法界にもそこまでする価値なんてない、という言葉への返答であり、さらにはもう随分と遠いことに思われるあの日、即位礼の日に彼が何度も口にした、英国で闇祓いになればよかったんじゃないか、との言葉への返答でもあったことに気がついた。
「こっちの魔法界も大概、クソ田舎と変わりやしないぞ。どこ行っても同窓生だらけで知った顔しか居やしないし、変人とクズばっかりだ」
「それでも映画は見るし、ディズニーは知ってるし、稼いだお金を無理やり換金して額面を大幅に減らしたりせずに好きなことに使えるでしょう。それで十分ですよ。いや、ほんと言ったら全然、もっとなんでこうならないのかって思うとこもめちゃくちゃ大量にありましたけど、でも、映画とか生活については、それで十分だったんです」
空中でひとりでに紡ぎ出されていた糸が、結び目を作った。床材の剥がれた廊下に、簡素なカーペットが一枚出来上がったのだ。
いつしか、放送は止まっていた。上空を飛ぶヘリコプターのけたたましい羽音が、事態の緊迫感を掻き立てるように窓から漏れ聞こえてくる。
先程より数は減ったとはいえ、窓の外には未だ烏の群れが集まっている。警視庁内に逃亡者が三人居ることはすでに知れているのだ。脱出を図ることも容易に想像がつく。窓を開ければ、即座に烏の攻撃を受けることは間違いない。
「十メートルも滑空できれば、それで移動呪文の封印区画からは出られるはずだ」
カーテンの隙間から黒い禽の飛び交う空を眺めながら、エイシュウがつぶやく。飛行用につくられたものではない以上、絨毯に
「なあ、これ、要は落ちるってことだよな? 何の安全装置もなしにふんわりと、烏の群れの中を、魔法の絨毯に身を任せて」
「俺を信じろとでも言ってほしいか?」
手を出しようもないために絨毯を織り上げる作業をただ見守るばかりだった穂村は、いざよたよたと浮き上がった絨毯に乗り込むに至ったところで、どう考えても正気じゃない、と言いたげな目を逃亡中の闇祓いたちに向けた。が、おそらくは今すでに下階へと闇祓いたちが踏み込んでいるであろうことを思えば、今更これ以外の脱出方法など模索する暇もない。
陰陽師の悲鳴とガラスの破砕音とともにいびつな絨毯は空中へと飛び出し、そして、落下しはじめた。
意外にも、烏による襲撃はそう大した脅威とはならなかった。なぜならば、予想よりも成人四人分の体重を乗せた絨毯の落下速度は早く、烏を振り切って地面に近づいていったからだ。
ゆえに問題はただ一つ、
「距離が稼げない!」
と、ミズホが叫んだ通りだった。無論、闇祓い級の魔法使いが二人いてあえなく墜落死などということになりはしない。着地程度なら、
そう思った、エイシュウの眼前。つまりは急角度で落下してゆく絨毯の前に、ぱちん、という音とともに赤いものが現れた。いや、正確には、赤いのは身につけた狩衣と瞳の色であって、その髪や、髪の間から伸びる長い耳は白色を示している。見覚えのある姿だ。この姿は、確か──
「お待たせしましたぁ。まったく完全にドーマ様の思い通りにことが進んで嬉しい限り」
幼児特有の甲高い声とともに、ギョクトと名乗る狩衣姿の童子は絨毯に飛び乗った。同時に、
「さあ、それじゃ、
絨毯は、ほとんど地面に接触する寸前だ。周囲に集まった闇祓いたちは杖を絨毯に向けている。その杖先から、呪文が一斉にほとばしった、その刹那。
再び破裂音が鳴るとともに、絨毯の上に乗っていた四人とギョクトの姿は消え去っていた。あとには、無数の呪文を受けて穴の空いた一枚の絨毯だけが舞い落ちるばかりだった。
† † †
「ちょっとそこのあなた──お願い、お願いを聞いてもらえないかしら」
南方サクマはそんな押し殺したような声を聞き、足を止めた。魔法魔術伝習所、通称
サクマは、声のする方を振り返った。季節を問わず蓮の花の狂い咲く「極楽池」のほとり、牡丹の咲き乱れる茂みに、一人の男──あるいは女がうずくまっている。男か女かを保留したのは、一見するにサクマの目にはその人物が金色に脱色して短く刈った髪に、なにやらおしゃれな柄を剃り込んだ男性のように見えたが、言葉遣いは女性のそれであったためだ。魔法生物にも、雌雄の判断をつけがたい、あるいはそもそも性別が雌雄とは限らない生物は多い。そういった生物には、とりあえず判断を保留した上で接する──例えば個別のケージに隔離して様子をうかがうとか──のが最適であるとサクマは知っている。
「ごめんなさいね、あたし、陰陽寮の猿曳
猿曳が手を伸ばしてこの子、と言った途端、極楽池の水面が揺れ、水音を立てて巨大な蜥蜴のような顔が現れた。鱗は青白く、首の付根にはエラが見える。
「駄目だよ」
思わずサクマの喉からはそんな言葉が口をついて出て、猿曳の顔に失望の色を浮かばせる事となる。が、サクマにしてみればそれは、蛟を預かることについての可否を述べたものではなかった。
「この池、水場として使ってるから散歩の時に
蛟は、虎やそれに類する大型の猫科の動物を天敵とする。極楽池に入れておけば、そのうち中庭の魔法生物と邂逅してひどい騒ぎになるのは目に見えていた。かといって、弱った状態で外海に放すのもそう得策とはいえず、杖を振って水の膜ごと蛟を運搬し始めたのはサクマにとっては当然の判断だった。
魔法生物飼育学科用に作られた地下室は、魔法界の大抵の建造物の例に違わず外からは想像もつかないような広大かつ混沌とした空間を為している。一見するに屋内とは思えないような牧場や森では外来の美しい魔法生物たちが草をはむ一方、その横には朽ち果てた日本家屋が立って唐傘小僧や化け提灯その他諸々の付喪神たちが外の様子をうかがい、井戸の周囲には人の言葉を話す
「あー、でもあれだな、こないだ人面魚を入れたから深型水槽の空きがないんだよな……いや、来賓用のプールが、河童のみんなに来てもらうときにしか使わないからいまは空いてるな。一旦プールに人面魚を移して、空いたとこにその子を入れよう」
その中で、水生生物については複数の水槽という比較的常識的な飼育環境が採用されている。水質の区分などの関係上、一つの大きな水槽を用意するよりもそちらのほうが利便性が高いのだ。水槽も、魔法生物のために最適化させたものであるためアクアリウムのように見た目のいいものではない。それでも
「これはひどいな、何やった怪我なんだ。相当強い攻撃呪文でも受けなきゃこうはならないぞ」
人面魚を来賓用のプールへと移し、空いた水槽の中に蛟を下ろしたところで、改めてサクマは蛟が負った怪我を目の当たりにすることとなった。蛟の長い胴体の何箇所かに、鱗を貫くほどの深い裂傷が付けられている。あきらかに魔法かそれに類する力でも受けなければつかないような傷だ。
「猿曳さんだっけ、この子の名前は? ズッチー、うん分かりやすくていい名前だ。OK、ズッチー、ちょっと苦いけど我慢してね、痛いのがこれでしばらくは大丈夫になるからね。うん、偉い偉い。えーっと、あとは軟膏だな、油ベースのやつじゃないと駄目だよな、ストックあったかな……」
ひとまずは痛み止めの薬草を煎じたものを蛟ことズッチーに呑ませ、その上で傷の炎症止めを手元に呼び寄せたところで、サクマは猿曳の困惑した顔と対面することとなった。
「あ、もしかしてズッチー、アレルギーで駄目な薬とかある?」
「いや、蛟のアレルギーは知らないっていうか、多分そっちの薬ならあたしたちが使うようなのよりよっぽどいいと思うけど」
「じゃあ、とりあえずこれ、仙桃膏……傷を塞いで癒着するまで表面を覆ってくれる軟膏を使うよ。傷がある部分を水面に出すようズッチーに言い聞かせてもらえるかな」
サクマは手にした軟膏の蓋を開くとはしごをよじ登り、ズッチーの傷に軟膏を塗り始めた。全く予想外の展開に虚を突かれたようにぽかんと口を開くばかりの猿曳がどこか不安げなのは、うまく行き過ぎているとしか思えない状況に恐怖を感じているゆえのことだ。が、いまは何よりも手当が先決と思い直したらしい。猿曳は別の水槽からはしごを引っ張ってくるとサクマによるズッチーの手当てを手伝い始めた。
そうして、およそ三十分ほどをかけて全ての傷に軟膏を塗り、傷の表面に防水呪文をかけ終わった時、ようやく、サクマは元来はじめに聞くべきであったはずの質問を口にした。
「それで、あなたは何だってここに居るんだい?」
すでに猿曳もごく短い付き合いながら、南方サクマというのがいかなる人物であるか、その片鱗を理解しつつあったようだ。アイラインとシャドウの落ちかけた瞼が数度開閉した他には特に何のリアクションもなく、陰陽師はその問いへと答えるべく、口を開いた。
「昨日の、──」
だが、猿曳が答えを言い終えることはなかった。ちょうどそのとき、地下室の戸を開く音が響いたためだ。
「まずい、あいつらに見つからないようにしないと」
「見つからないように? どういうことだい」
「あー、なんで今の状況で教員が事態を把握してないのよ! とにかく見つかると、この子が殺されるの」
無数の足音が近づく中、手早く要点だけをまとめた猿曳の言葉に、サクマはさっと顔色を変えた。そして、無言で杖を振るとズッチーの入った水槽を他の水槽で隠し、さらに猿曳をやや離れた場所にある茂みの中に押し込むと、
「あなたはそのままそこに居て。私が対応するよ」
と、足音の方へと歩いていった。
歩いてきたものは、魔法生物飼育学科の他の教員に先導された闇祓いの一団であるとすぐに分かった。黒いペストマスクのような防護面とヘルメット、プロテクター一式にマントを装着したその姿は、魔法生物以外のことにほとんど興味を持たないサクマでさえも闇祓いであると分かるほどに特徴的なものだ。
「どうしたんです、椿先生。闇祓いの人がどうして魔法所に?」
「昨日の襲撃騒ぎの後処理に来てくれているんです。南方先生、分かってますよね、昨日半端者の連中が魔法所を襲撃して、
「え? ああ、そのくらいは分かってます」
同僚教員の説明に、さも当然知っているような顔で、サクマはうなずいて見せた。
「それで、闇祓いのみなさんが連行しようとしたところで、向こうの魔法生物のトレーナーが逃げ出して。蛟を連れて逃げてるんですよ、上の池にも居なかったから、校舎内で居るとしたらここじゃないか、って話なんですが」
烏頭の闇祓いたちはすでにいくつも積み重なった水槽の中を覗き込み、
とはいえ、きっちり一つずつ水槽をずらして中を改めていく闇祓いの様子を見るに、ズッチーの入った水槽が発見されるのもそう遠くはないだろう。サクマは、不自然ではないような笑顔を浮かべ、近場に居る闇祓いへと近づいて行った。
「蛟? いいな、野生じゃまず捕まらないんだよ。生徒用の教材にほしいな、もし見つかったらうちで引き取ってもかまわないかい?」
話しかけられた闇祓いはやや困惑したように他の闇祓いへとくちばしのついた防護面を向けた。そちらが上位者であったのだろう。部下、あるいは後輩の視線を受けた闇祓いは、くぐもった笑い声を上げつつ特徴的な防護面を外した。
「玄武の南方サクマ、先生になったって聞いてたけどほんと変わんないね、うん、そう反応するよねキミなら」
サクマには覚えがなかったが、朱雀寮出身の日向ナツキと名乗った闇祓いはどうやらサクマの同級生であったらしい。魔法省や魔法所といった公務員職は僅かな海外の魔法学校出身者を除き魔法所出身者だけで占められる関係上、同級生や先輩後輩との遭遇率が凄まじく高い。先日も、青龍寮出身の敷島と出会ったほどだ。とはいえ、日向が自分のことを知っていようと居まいと、いまのサクマにはどうでもいいことだった。
「でもごめんね、逃げてる蛟は陰陽師に使役されて人間への危害を加えた魔法生物だから連れて行かないといけないんだ」
続く言葉に、サクマは眉根を寄せ、目を細めた。人に危害を加えた魔法生物を、役所が連れて行く。そのことが何を意味するかなど分かりきっている。
「殺処分のために、わざわざ逃げている蛟を探し出して連れて行くのか?」
「あー……いや、どうだろ、魔法生物はうちの管轄じゃないからね、魔法生物課のほうの判断によると思うけど。もしかしたら野生に戻すことになるかも」
「まさか。危険度三類とはいえ、人に慣れた雑食性の大型魔法生物を自然環境下に放せばどうなるか。餌付けした羆を山に返すようなものだよ。だいたい、人を襲ったって言うけどおかしいじゃないか、市來先生が陰陽師は一通り全員とっ捕まえたんだろ」
サクマは、黒い大鴉のような一団に背を向け、水槽の前に立った。丁度、闇祓いたちの前に立ちふさがる形だ。日向が表情をこわばらせ、周囲の闇祓いは杖に手をかける。
「もしここに蛟がいたら魔法所で飼育を行うという許可がもらえるまではこれ以上の捜索は許可しない。ここは魔法生物飼育学科の実習場で、私は管理者だ。令状も持たない捜査を拒む正当性はあるはずだよ」
目の前の大水槽の底、骨鯨がゆうゆうと泳ぐ下で緩やかに開閉を続ける巨大な
その背を見つめていた日向は息を吐き、一度は外した鳥頭の防護面を再び装着した。
「そこに、蛟が居るってことだね。南方先生、闇祓いを前にして、魔法を使い立ちふさがるものががどうなるかご存知かな」
日向の言葉に合わせて闇祓いたちが一斉に杖を抜き、その先をサクマの背に向けた。闇祓いを案内してきた椿教諭が悲鳴を上げ、サクマに駆け寄ってすぐに退かせようとするが、どれだけ腕を引いてもサクマは大水槽に片手をついたままその場を動こうとはしない。
その様子を、近場の茂みに押し込まれた状態で見ているものが居る。猿曳陰陽師だ。サクマの言うことに、正当性はある。そのことは、魔法界の法律を知らない陰陽師であってもマグルの法律からおよそ推測はできる。だが同時に、おそらくは現状、闇払いに対して大した抑止力とはならないであろうことも分かっている。陰陽寮に飛ばした式神が一切返事を持ち帰らないことの意味は、一つしかないだろう。
意を決して、猿曳は茂みから外に出ようとした。現状のまま闇祓いが実力行使でに出た場合、南方サクマ教諭も共犯とみなされて連行されかねない。だが、今のうちに自分が名乗り出て、勝手に水槽に蛟を隠していたと言い張れば、少なくともをサクマを巻き込むことは避けられるはずだ。
見たことのない海外の妖精らしき生き物の潜む茂みを揺らし、猿曳が姿を表そうとしたときのことだ。
「わいら、こげんところを探しちょったんか!」
薩摩訛りの強い言葉とともに、天井を抜けてふわりと降りてくる半透明の姿があった。以前に魔法所を訪れた際にも、猿曳はその姿を見たことがある。この魔法学校の校長である、市來タテワキだ。ポルターガイスト現象によって下の海まで叩き落されたときにはとてつもない悪霊としか思われなかった姿だが、今見ると──いや、どこからどう見ても、旧日本陸軍の亡霊にしか見えない。そこは、否定のしようがない。
戦死した姿のままの亡霊はしかし、いまこの時においてはサクマや猿曳にとって、そう悪い存在として現れたわけではないようだった。
「蛟はもう下海まで逃げてしもたぞ! 追おうとしたが、気ぢたときにはおいん力ん届っ範囲から出ちょって、こん状況で校舎を動かすわけにめかん。わいら、はよ行かんか!」
「え、あ、はいっ、ありがとうございます!」
市來タテワキ校長の怒声が地下空間に響き渡るとともに、闇祓いたちはその声に叩き出されたように駆け出していった。現役世代の日本の魔法使いは、魔法所の出身者であれば間違いなく全員が市來校長の教え子だ。その影響力は計り知れない──というより、この場合は十二年間の在学中に身についた反応を思わず再現してしまった、と言ったところだろう。
本当に関係なくてあの反応だったのかよ、玄武のやべーやつ本気でヤバすぎる、などなどと口々に話しながら闇祓いたちが遠ざかり、地上部へと上がっていったところで、
「南方先生。シェンシェンですね、これは」
と、ささやくような声が空気を震わせた。椿教諭の声だ。その声色は、責めているとも肯定しているともつかないものだ。サクマは、いたずらのばれた子供のような表情を浮かべながら、目の前の巨大水槽からようやく手を離した。途端、ゴーストの校長の姿は幻のように消え去り、跡形もなくなる。ゴーストは、勿論実体を持たず、様々な物体を通り抜けていく。だが、今のようにその場で跡形もなく消え失せる、と言った挙動は出来ないものだ。
ゴーストという認識ではないが、怨霊や亡霊についての知識を有する陰陽師にも、その挙動が本来の市來タテワキ校長ならばありえないものであることは理解できる。茂みを揺らしてサクマのもとに近づいていった猿曳は、大水槽の中で口を開けた巨大な二枚貝の、その中から姿を現した東洋種の龍を見て、今しがた起きた出来事の全てを理解した。
「シェンシェン……つまり
シェンシェンは、くりくりと目を辺りに向けながら、その口からピンク色の泡を吐き出した。泡は音もなく弾けてピンク色の靄をあたりに広げ、その場に居る人間の周囲に小さな幻を発生させていく。
「蜃気楼、と古代人は言っていたそうだけれどね、本当のところ、楼閣だけじゃあなくてそこに居る人が望むものを見せてくれるのが蜃の能力なんだ。海に出た人々が故郷を偲べば楼閣や陸地を見て、それ以外のものを見たならば水妖の類の怪異として認識した、というところだろうね」
水槽の中に水竜用のおやつを放り込みながら、生徒に話すようにサクマは蜃の生態を解説した。つまり、先程の校長は、サクマが心に思い描いたことを蜃気楼として再現させたものであったのだ。
椿教諭は、いきなり現れた猿曳陰陽師のことも含め何も見なかったし何も知らない、と言って、頭に杖先をあてて銀色の靄を引き出しながら地下室を出ていった。銀色の靄は、魔法で引き出された記憶だ。おそらくは今見た記憶を捨て、記憶修正術と合わせて自身の記憶を書き換えるつもりだろう。
「市來先生にはあとで口裏を合わせてもらうとして、こうなると問題はあなた達がどうやって魔法所を出るかだ。ズッチーにはひとまずトランクの中に水槽ごと入ってもらうとして、うーん……今わたしが動くと明らかにおかしいよなあ、かといってあなたが直接動くわけにも行かないし」
サクマは、ズッチーの入った水槽を例によって検知不可能拡大呪文で極限まで巨大化されたトランクの中に入れ、ついでにシーサーペント用の餌を数袋と予備の痛み止めを放り込み、その傍らで新たな傷薬を調合し始めた。猿曳とズッチーが、無事にこの場を離れるための準備をしているのだ。慌ただしくも真剣に脱出計画を練り上げるサクマを前にして、
「……なんで、そこまでしてくれるわけ」
と、猿曳が半ば恐怖を感じたかのように問いかけるのは、当然の感覚だったろう。普通は、どれほど動物が好きでも、ただ動物を連れている、というだけの初対面の相手を何も聞かず助けることはない。先日襲撃に訪れた組織の一員を、半ば命までかけるような真似までして、となればなおさらのことだ。
質問をされたサクマは、仙桃と
「だって、嫌だろ、動物が殺されるの」
サクマにしてみれば、罪もない蛟が殺処分されることは耐え難い苦痛である。それを避けるために全力を尽くすのはまったくもっておかしなことではない。例えるならば、道を歩いていて、目の前に邪魔な障害物があったので避けるということくらいに自然なことなのだ。
ただ、サクマも自分の感覚が随分と他の人間とは乖離しているらしいことは把握している。当然のように答えたあと、サクマは目の前の陰陽師がぽかんと口を開いているのを見て、付け加えた。
「どうも、みんながみんなそうじゃないみたいで、だから奇人とか言われるらしいんだけどね。まあ、仕方ないよね──えっ?」
そして、付け加えた言葉を言い終える頃には、照れ笑いを浮かべていたサクマの表情が、実に珍しく、驚きを表すものへと変化していた。というのも、気づけば目の前にいる陰陽師が
「──仕方なくなんてないわよぉ!」
と、号泣していたのだ。全部の文字に濁点がついているような具合の声を上げ、流れる涙でアイシャドウだのつけまつげだのファンデーションだのをぐちゃぐちゃにしながらのことだ。むしろ、少し驚いた、ぐらいのリアクションで済んだことが驚異的だと言えよう。
号泣しつつ猿曳陰陽師がサクマのあり方を肯定し、サクマはそんな猿曳をなだめつつ水棲生物用の傷薬を追加で作り、一時間ほど。その頃には二人は、魔法所脱出計画をともに考えるに至り、
「問題は、誰にするか、よねえ」
「今のタイミングでここを離れても違和感がなくて、かつ、本人は魔法所にしばらく隠れることを了承してくれる人。……表立ってわたしが動くと怪しまれるし、ノーと言われるといちいち記憶を消して回る羽目になる。これはなかなか難問だぞ」
などと話し合いながら、二人は魔法薬の瓶を前に額を付き合わせる事となっていた。魔法薬は、傷薬とはまた別のものだ。
「誰にするか」とその選定方法を更にサクマと猿曳が話し合い、しばらく経ったときのことだ。
がこん、と地下室へ続く戸を開く音が響き渡った。すぐさま猿曳が空間を拡張されたトランクに飛び込み、サクマがそのトランクを水槽の隙間に押し込む。が。
「──南方先生、すみません、一ッ目です、相談したいことがあるんです」
女生徒の声が響くに至り、サクマはトランクから手を離し、そのトランクの蓋には隙間があいて猿曳が外をうかがった。様々な魔法生物、妖怪類の間を縫って近づいてきたのは白虎寮の役員生一ッ目ナギサだったのだ。杖職人志望の彼女は、杖の素材集めのためによく魔法生物の世話を買ってでてくれるため、人の顔と名前を覚えるのが苦手なサクマの印象にもよく残っている。
「あの、実は私、敷島エイシュウさんって人に渡さないといけないものがあって」
「それなら、その辺りにいる闇祓いに渡せばいいんじゃないかな、彼、いまは闇祓いだろたしか」
「いえ、それが……」
ごく普通の調子を装って対応するサクマに、ナギサが一枚の紙片を差し出した。真新しいポスターだ。魔法界の印刷物らしく、その紙面を飾る敷島エイシュウの写真は不機嫌そうに視線を反らしつつ煙草をふかしている。「指名手配犯」との文字列の下でのことだ。つまり、敷島エイシュウは今、指名手配犯として追われる身となっているのだ。その下には、よく見れば秋津・ミズホ・ローレンスと穂村カツミの写真も小さく掲載されている。
「昨日、大納言横丁のうちの店に来て、新しい杖を注文して、そのあと陰陽師とか大きな蛇とかが横丁を襲撃して、それをたぶんうちのご先祖が作った刀を使って撃退したらしいのは分かってるんですが、それから何がどうなったのか朝になったら横丁じゅうにこれが貼られてて」
ナギサは、そう説明しながら箱に入った一本の棒──十五センチほどの、短い杖を示してみせた。敷島エイシュウのために作られた新たな杖だ。
「何があったのかはよくわかりませんけれど、とにかく刀だけじゃ不便だと思うし料金も先にもらってるのでこれを渡そうと思って。でも、どこに居るのかわからなくて、もしかして先生なら探し出す方法がわかるかも、って。もし、知っていたら、で良いんですけれど……」
新しい杖の入った箱を、ナギサは僅かな希望にすがるような調子でサクマに向けて差し出す。その箱を、それを握る生徒の手ごとためらうことなくサクマは掴み取った。いつの間にか脇に押しやられたトランクの中からは猿曳も姿を現し、完璧よ、と満面の笑みを浮かべている。
「失せ物探し人なら
見知らぬオネエ系成人男性の登場にたじろぐナギサを横目に、サクマと猿曳は地面に置きっぱなしになっていた薬瓶──ポリジュース薬の入った瓶を取り上げ、二人同時にナギサに向き直った。
「髪の毛、ちょっとだけください!」
† † †
夢を見ていた。遠い日の夢だ。
エイシュウの目の前には、一人の少年が立っている。海風が満開の桜を散らす魔法学校の中庭でのことだ。ちょうど昼時のこととあり、桜の下にはたくさんの子供達が座り、談笑しながら昼食を食べている。
松の木の影に隠れて様子をうかがっていた少年は、何気ない調子を装って桜の下へと近づいていく。一緒に食べていい? そう声をかけて、同級生たちの輪に入りたいのだ。けれど、その試みがうまく行かないことをエイシュウは知っている。少年が近づいてくることに気づくと、子どもたちは談笑をやめ、給食のトレイを持って三々五々、桜の下を去っていってしまうのだ。
桜の下に一人だけ残された少年は、給食のトレイを手にしたまましばし立ち尽くしている。
「……やめろ。こんなもの、今更思い返す必要なんてない」
エイシュウは思わず呟いた。彼は、このあと誰に出会い、何を言われるかも覚えている。子供の頃の切なくも美しい思い出の一幕だ。もう今となっては何の意味もない、彼の根源とも言える記憶だ。だから、早く夢から覚めようと意識する。けれど、エイシュウの努力も虚しく、夢はたゆたう水のように少年の日の思い出を再生し続ける。
舞い散り続ける桜の花弁に、黒い羽根が混じった。海燕のものではない。もっと大型の鳥、大鴉の羽根だ。
少年は、松の梢から黒い禽が舞い降り、その姿が人へと変わるのを見て、目を丸くした。彼にとって、自分の他に動物へと姿を変えることのできる人間を見たのなどはじめてだったのだ。
「なんだ、花の下だっていうのにみんな酷いな。はるかに人家を見て花あればすなわち入る、論ぜず貴賤と親疎とを、といってな。花見の席じゃあ分け隔てしないことが習わしだっていうのに」
男は闇祓いの倉田テンゴウと名乗ると桜の下に座り、困惑する少年にも隣に座るよう促した。その手には、いつの間にかどこかから現れたサンドイッチが握られている。
「みんな、俺を怖がってるんです。ローブが白いから」
見知らぬ大人と並んで給食を食べながら、少年はぽつりと呟いた。そんなことはおそらく言わなくてもすでに倉田は知っていただろう、と今ならばエイシュウは思う。偶然魔法所に居た闇祓いが、特殊な過去のせいで仲間はずれにされたかわいそうな少年に偶然声をかける、などということはまずあるまい。
倉田は肩をすくめ、立ち上がった。
「なんだ、そんなこと」
右手が振られると、倉田の手元には橙色のローブが引き寄せられてきた。どこか近隣の教室に置きっぱなしになっていたものを適当に、杖なしの無言呪文で呼び寄せたのだろう。倉田が羽織った途端、橙だったローブの生地からは見る間に色が消え、漂白されていく。
真っ白になったローブをこれみよがしに広げながら、倉田は、現在よりも二十年ぶん若い顔に笑顔を浮かべてみせた。
「見てのとおりだ。俺たち闇祓いなんてローブを着たら全員もれなく真っ白になるぞ。なにせ禁呪を使うからな、闇祓いは」
闇祓い、と、少年は異国の言葉のように、初めて聞いた言葉を繰り返した。この時まで、エイシュウは闇祓いという職業を知らなかったのだ。
子供向けにわかりやすく倉田が闇祓いの仕事を説明し、それを聞きながら一通り給食を食べ終えたとき、少年は、一つの質問を口にした。
「それは、俺でもなれますか」
遠い日の、懐かしい記憶をいま、エイシュウは意味がないものと断じる。なぜならば、この記憶は、彼が闇祓いになろうと決意した日の記憶であるからだ。
松に吹く風が、散っては咲き咲いては散り続ける花をさらい、花弁は雪となり雨となる。
「ああ、なれたよ」
桜吹雪に覆われる視界の中、エイシュウはかつての自分に対する答えを口にしていた。あのあと、倉田テンゴウはどのように答えたものだったか。確かに、エイシュウは闇祓いになった。けれど、いまや魔法界、魔法学校の出身者だけでつくられた小さな世界は壊れて落ちて、エイシュウは暁の名を持つ友烏らに追われる身だ。ゆえに、
「だが、もはやなんの意味もない」
と、彼は断じる。腸を裂かれ、悲痛の叫びを上げるように。
「──いいや。意味はあったさ」
悲嘆の声を聞いたものが居たものか。桜色の視界の中に、一点の染みのように、小さな人影が浮かび上がった。子供の頃のエイシュウ、魔法所の制服を着た少年の姿だ。
いや。その出で立ちは、少年が舞い散る花弁をすり抜けるようにエイシュウへと近づくに連れて変化し、白いローブ姿に変わり、白い直垂姿に変わってゆく。
「忘れているのも、当然のことだけれどね。だが、
直垂姿の少年が、エイシュウに手を伸ばし、その胸に触れんとする。──触れられてはいけない。直感的にエイシュウは小さな手を払い、花弁をかき分けて走り出そうとした。だというのに、エイシュウの足は思うように動かず、いかなる呪文も発動はしない。当たり前だ、なぜならこれは夢なのだ。はやく、夢から覚めなければいけない。
「そうだ、早く目を覚ますんだ」
背後から、少年の声がエイシュウを追う。視界にはもはや桜の花弁の他にはなにもなく、前に進むことすらままならない。
花弁の中を泳ぐように、少しでも前へと進もうとするエイシュウの手を、誰かが掴んだ。そして、
「────」
なにか、夢の中で聞いた大事なことを忘れ去ってしまったような感覚とともに、エイシュウは目覚めていた。
「大丈夫ですか、敷島さん!」
視界はもう桜に覆われてはおらず、その代わりに、見知った顔が巨大な木を背にして映っている。ミズホが、エイシュウが伸ばした手を掴み、顔を覗き込んでいるのだ。
「たぶん、この木のどこか上の方へ姿をあらわしたみたいで、全員別々の場所に落ちちゃってたんですよ。ドーマってやつとあの兎耳の子供はもうどこかに消えちゃってるし、ここがどこなのかも全く」
と、ミズホは遥か天空へと伸びる大樹を示しつつ、首を振った。木は、桑の木だろうか。起き上り、やや距離を取って眺めててみれば、その大きさにエイシュウは置かれた状況も忘れ、しばし感嘆することとなった。ひび割れた幹は大人が数人手を広げて取り囲もうとしても届くかどうか、というほどに太く、見上げた先では黒々とした枝が天を覆わんかのように広がっている。樹齢は百年や二百年どころではないだろう。
だが、奇妙なのは、その大樹が朽ちかけた建物の天井を突き破って生えている、ということだ。いや、正確には建物の床下から、建物をまるごと突き破っている、と言うべきか。建物は純和風の木造住宅で、あとから木が生えてきたのならばすでに建物は朽ち果てていて然るべきだ。だというのに、桑の木に割られたと思しき床板や天井を見れば、割れた木材の断面にはまだそう泥や砂も着いておらず色も薄く、まだ破壊されたのはごく最近のように見受けられる。室内も、相応に床板はきしみ土壁は剥がれ落ちているとはいえ、大樹によって破壊された部分を見なければ打ち捨てられた屋敷とは思い難い。
「具体的な地名まではわからないが、たぶん東北だな」
とは、大樹の根に上りその向こうの様子を眺める穂村の言葉だった。同じく木の根に上ってみれば、その向こう、大樹にほとんどすべて占拠された板間の隅に、木の棒に白い布を幾重にも巻きつけたようなものが転がっていた。
「あれはオシラサマだよ。東北、とくに養蚕の盛んな地方で信仰される神様だ。養蚕家の家だと考えれば桑の木があることもまあ、サイズ以外はうなずける」
オシラサマ。地域によってはオコナイサマ、オシンメサマなどとも呼ばれる、土着の神だ。養蚕、農業、馬産などを司る神で、一般的には柳田国男の『遠野物語』に蒐集された、馬と娘の悲恋に端を発する蚕の由来譚がよく知られている。それにしてもいくつかの異伝があるが、おおよその内容としては、ある家の娘が馬に恋をして自ら嫁ぎ、それを憎んだ父によって馬が殺されると、馬の皮が娘を包み込んでこれが蚕の繭になった、あるいはその死体から湧いた虫が蚕である、と言った筋書きとなる。
「でも妙だな。たしかオシラサマは男女一対、というか馬頭と女の頭の神体で一対のはずだけれど、ここにあるのは一つだけなんだよ。まあ、この有様だからどこかに転がっていったのかも知れないが。……あと、着せる服もたしかよく見かけるのはもっと色とりどりだったはずだが」
元養蚕家の家と考えても、いきなり床を突き破って桑が育つのはおかしいとか、人のいない様子なのになぜ家の手入れがされているのかとか、いくらでもある他の妙なことを無視して、穂村は自分の知識とそこにある神体の相違について悩み始めた。事態が理解し難いために、自分の知っていることだけに集中してひとまずの安心を得たいのかもしれない。
「派手な服を着せるのも馬頭女頭の対なのも有名な、遠野のやつだろう。家の神なんだからこういうのはそれぞれの家ごとに流儀があるんだよ」
適当に返事をしつつ、エイシュウは木の根を飛び降りて神像の近くに着地した。中心部をぶち抜かれた広い板間の床がきしみ、グラグラと揺れる。危ないですよ、とミズホの声が頭上から降ってくるが、万一床が抜けても床下までは精々、子供一人がしゃがんで隠れられるほどの高さしかない。いま飛び降りた木の根から床までの距離のほうがよほど高いほどだ。
エイシュウは床に転がった神像を無造作につかみあげた。白い絹の衣は、神体に近い古いものは流石に黄ばみが見えるものの、外側の一番新しいものはまだ真新しく、手触りもなめらかなものだ。オシラサマやそれと同種の神体には、命日と呼ばれる祭日に新たな衣を着せるのが習わしであるから、きちんとその祭儀が行われていたのだろう。
「そもそも
普段どおりの調子で、頭に浮かんだ言葉をそのまま並べ立てていったエイシュウは、そこまで口にしたところではたと押し黙り、口元を抑え、あたりを見回した。同時に、勝手に他所の家の神体を弄り回すエイシュウに苦々しい目を向けていた穂村とミズホの表情が同時に固まり、なにか、奇妙な沈黙が辺りを支配する。
「うちじゃあ、って、敷島さんあんた、地元がこの辺なのか?」
桑の根の上から、穂村の問いがエイシュウに投げかけられる。その声は、一挙に警戒に充ちたものへと変化していた。だが、エイシュウにはその問いに答える余裕はない。それと気づいた途端、目に入る景色の全てが懐かしい、見覚えのあるものへと変化してゆく。いや、もちろん記憶の断片と目の前にある景色には、あまりにも大きな変化がいくつも生じている。言うまでもなくエイシュウのかすかな記憶ではこの道場に桑の木など生えてはいなかったし、彼の記憶にある景色はもっと低い視線からのものだ。
だが、それでもなお、壁の傷や
「ここは、
土間に膝を付き、上り
「俺の家だ、俺は、ほんの小さな頃、ここで暮らしていたんだ」
「家ってでも、敷島さん、たしかあんた、家族は」
両親は、エイシュウを神の使いに仕立て上げてマグルに向けた新興宗教をはじめて、最後には信者全員で集団自殺を図った。彼の認識する家族についての顛末は、昨日、陰陽寮の円卓の間で告白させられたとおりだ。
その家族が暮らしていたのがほかならぬこの屋敷であったことを、エイシュウは覚えている。いや、その記憶は、いま二十年の時を経て、いま初めて蘇ったものだった。台所を上がり、女中たちに割り当てられた部屋を抜ければ広い奥座敷に出る。その奥座敷に集まった百人近い人々が手を合わせ、生まれたばかりの赤ん坊を拝む景色すらも、エイシュウは今起きていることのように幻視できていた。
赤ん坊は、産湯の中で泣き声を上げている。
──おお、若様の回りの水が。
集まった人々のなかから、そんな驚愕の声が上がった。赤ん坊の鳴き声に合わせて、赤ん坊の周囲から産湯が退き、ぽっかりと盥の湯に穴があいたかのような具合になっているのだ。明らかに超常の力が働いていることは間違いない。だというのにその場に集った人々はマグルであるだろうに、驚くどころか、それを喜ばしげに見やっている。
──オガミサマがご母堂であるだけのことはある。
──これで、マカトの村も安泰だ。
オガミサマ、とは、霊の言葉を聞き口寄せすることのできる巫女、いわゆる
やがて、隣り合う寝所の襖が開き、羽織袴姿の一人の男が進み出た。その顔は、どことなくエイシュウと似ている。敷島家の当主、つまりはエイシュウの父だ。
──聞け、我が妻衣織が、生みのしとねのさなか、祖霊の声を寄せた。
敷島
──玉世の姫とせんだん黒毛の名馬とが七日七夜も恋しあい、生まれ落ちたる敷島の、
赤ん坊の泣き声とともに、産褥のなか敷島家の祖霊が告げたという託宣が、平伏する人々の上に、いたこのあの独特な抑揚をもって響き渡った。
──この童こそ赤き衣を纏うもの、遠き昔に桑より射落とされた烏を天に戻すものなり──
村人たちの間からどよめきの声が上がり、それは感動の声へと変わってゆく。この瞬間をもって、敷島エイシュウという子供は、敷島の家の一人として村人たちから神にも等しい崇敬を集めることとなるのだ。そして──
「マカト村、というのが、この場所の名前なんですか、敷島さん」
そんな声が聞こえて、ふとエイシュウは我に返った。気づけば彼は、薄暗い部屋の中に立ち、まるでそこに何十人もの人が集まっているかのようになにもない奥座敷に向けて喋っていたようだった。その手には、あの神像を抱きかかえたままで。
ミズホと穂村は奥女中の間から座敷へとつながる襖の手前で、不安げにそんなエイシュウを見やっている。その反応を見るに、どうやらエイシュウは、今しがた目の当たりにしていた記憶を一人で喋り、再現していたものらしい。どう考えても、突如エイシュウが発狂したとしか思えないだろう。
「ああ、そうだ。真桑の戸、と書いてマカトと読むんだ。マクワトが訛ったんだろうが、近隣の地域からは魔が処だとかも言われてたな。場所は、ええと……宮城だったかな。いや、福島だったか……すまない、あまり、当時のことは覚えていないんだ。ただ、何か、奥のお堂で目覚めてからどうも記憶がおかしくて」
当時の記憶でさえ、つい最近までは全く思い出せないものであったと言うのに、いまや記憶を塗りつぶしていた黒い炭が洗い流されたかのように赤子のころの記憶すらも蘇っている。どう考えてもおかしい状況だ。
「あまり、長くここに居ないほうがいい。あんたの故郷だと言うなら、追っ手もすぐにつくだろう」
今しがたのエイシュウの奇行や過去の来歴には直接触れることはないままに、穂村がいわくつきの家を離れることを提案した。見た目にはわからないとはいえ、集団自殺の現場となった地であるという前知識も相まって、単純に長く居たい場所とも思い難いだろう。
「そうだ、たしかにそうだ。あのドーマとかいうやつと兎耳のガキも、追手の撹乱のために俺たちをここに放ってさっさと逃げたんだろうし──」
と、そこまで言って、エイシュウは何か、引っかかるものを覚えた。この場所には、あの兎耳の子供、ギョクトの姿あらわしによって移動してきた。わざわざエイシュウと所縁の深い場所を選んだのは、そうすれば邪魔な三人だけが早期に闇祓いの手に落ちる可能性が高いからか、単純に嫌がらせか。いや、そこではない。それ以前に、根本的に何かを見落としている気がする──
「……なんで、あの子供が、敷島さんの故郷を知ってたんでしょうね?」
静寂のなか、ミズホの声が奥座敷に静かに響いた。基本的に、秋津・ミズホ・ローレンスはこの種の違和感に気づくのが早いという以上に、気づいたことを細かな人間関係の機微を気にせず口にする。その横で、こいつ言っちゃった、と言いたげな表情を浮かべている辺り、すでに穂村も同様の疑問には思い至っていたものらしい。
そうだ。なぜ、見ず知らずのテロリストの侍童が、エイシュウ自身ですら今まで忘れていたような忌まわしい故郷を知っていて、ピンポイントで生家に彼らを放っていくことができたのか? 無論、集団自殺事件そのものはマグルの新聞でもそれなりに取り沙汰されているはずで、そこから類推して敷島と結びつけることも出来なくはないはずだ。だとしても、そもそも、敷島エイシュウをなぜ彼らは知っていた?
黒い鉄格子と、その中に折り重なる無数の死体、そしてその中で子供をかばうようにうずくまる女の姿が、瞬間的にエイシュウの脳裏をかすめる。
「あ」
まさか、そういうことなのか。
ひとつの可能性に思い当たり、エイシュウは広い屋敷に次から次へと現れる襖を無言呪文で開け放って行き、中庭を駆け抜け、裸足のままで庭の砂利を踏み、記憶の場所へと駆けていく。
土蔵の木戸はすでに開き、ご丁寧にその地下へと続く隠し扉までも開け放たれたままとなっていた。
地下は、古くから存在するものだ。敷島の家には、他の多くの日本人魔法族の家系と同様、「神通力」を使うための先祖伝来の秘術が存在している。魔法の体系どころか神道や陰陽道、修験道と比べてさえも随分と非合理的かつ限定的な効果しか持たない土着のやりかたではあるが、元来が土地を開梱し、荒れ狂う水を治め、畑を耕し、襲いかかる自然の脅威を鎮めるために培われてきた技だ。地下部分の増設程度ならば、魔法の知識がなくとも十分に「神通力」の範囲でなし得ることだった。
地下へと続くはしごを降りるのももどかしく、二メートルほどの高さを飛び降り、真闇に近いというのに
マカト村の地下には、村と同じかそれ以上に広大な地下空間が広がっている。もとから存在した鍾乳洞をつなぎ、切り拓いて作り上げた、
炎が黒馬を照らすとともに、影は幽鬼のごとくに暗い空間に揺らめきはじめる。──否、それは間違いなく幽鬼の群れ、生を失った人間の成れの果てたちだ。魔法使いの間では
幽鬼と炎の合間を黒馬が走り抜けた先に、その檻は存在していた。鍾乳洞の地面から天井までをつなぐほどに巨大な鉄格子で一つの行き止まりになった横穴を塞いだだけの、ごく簡単な牢獄だ。牢獄を前に、エイシュウはようやく馬から人へと戻る。
いま、その中にあるのは闇ばかりだ。けれど、エイシュウはそこに一人の女とその幼い息子が閉じ込められている様子を、つい今しがた起きたことのように思い出していた。そして、牢獄の外に折り重なる、首を絞め、素手で相手を殴り、考えうるあらゆる方法で互いに殺し合った人間たちの死体をも。
檻の中によこたわる闇の奥から、ひとつの影が歩み出るのをエイシュウは見た。その姿は、ほんの少し前、警視庁の中で見たものと同じだ。鉄格子の内と外で向き合うという構図すらも同じと言っていいだろう。違うのは、今や檻の外に立つものが、檻の中に立つものを恐れているかのように立ちすくみ、今にもその場に崩れ落ちそうなほどに震えているということだ。
「やっと、思い出してくださったのですね」
ドーマは、立烏帽子の下の長い髪を払いつつ、鉄格子に──その外に立つエイシュウへと近づいていった。エイシュウは、檻の合間から伸びる手から逃れようと
「ほんとうに、そうなのか。お前は……きみは、あの時そこにいた、最後の」
伸ばされた手が自らの顔へと触れることに耐えながら、エイシュウは自らも黒い鉄格子の中に手を伸ばす。
「ええ、その通りです。随分と、長い時が必要でした、ここでこうしてあなたにお目通りが叶うまで」
ドーマの顔の半ば以上を覆う長い蓬髪を、エイシュウの手が掻き分ける。その下の顔はおよそ三十歳前後、エイシュウと同年輩の男の顔であり、何より目を引くのは、その額から頬にかけてまっすぐに、古い傷が刻まれていることだ。
古い記憶が、眼前の傷の由来を否応なしに思い起こさせる。
──あとは、あなたたちだけだ。やはりあなたたちも、死ななければならないらしい。
自分の舌が、拙いながらにそんな言葉を紡ぎ出し、檻の中に残った母子へと投げかけたことすらも、今のエイシュウは思い出していた。
──もう、外の者たちがやってきている。奴らが来る前に成し遂げねば、何もかもが台無しになる。
そのときにはすでに、村には闇祓いたちが踏み込んでいるところだった。だから、早く「成し遂げねばならない」。一体、だれにそう言われたものか。早く、この場にいる人間を互いに殺し合わせねばならない。心からそう信じ込んで、エイシュウは我が子をかばう母と、小さな子供に向けてそう言い放った。
母親はエイシュウの言葉を拒否し、それどころかエイシュウにむけて、こんなことをする必要はない、あなたはお父さんとお母さんに利用されているだけだ、と叫びさえした。だが、自分とその周囲の世界しか知らない子供は、檻の中で叫ぶ女の言葉の意味を理解などできるはずがない。
少年は、淡々と女に死の運命を告げる。
──父上も母上も、みなに先んじて命を捧げている。わたしは神託を成し遂げようとしているだけだ。
檻の中で、金切り声が上がった。誰か、ここに閉じ込められている、はやく誰か助けて、と女が叫びはじめたのだ。外のものが来ている、との情報から判断すれば、たしかにその場で助けを待つのが最適解になる。
けれど、女にとっての誤算はふたつ存在した。一つは、目の前にいるのが子供とは言え独自の魔力行使法を知る魔法族で、その知識の中には人間を操る術も存在したことであり、もう一つは、
──お母さん、オシンメ
彼女の子供が、そう言って彼の母を押し倒し、檻の外に落ちていた帯を使い、その頸を全力で締め始めたということだ。
遠く、鍾乳洞の中に靴音が響いていた。
我が子に首を絞められる母親は、しばしその体をやんわりと押しのけようとし、何事かをささやくように語りかけようとしていたようだった。けれど、その口が酸素を求めて喘ぎはじめ、顔が赤黒く変色し始めたところで様相が変わった。全力で子供を殴打し、わずかに伸びた爪でベルトを握る手の甲や顔を引っかき始めたのだ。エイシュウは、二人共に殺し合うよう、魔力を使い命令を下していた。それ故のことだろう。
静かな死闘の結果は、程なく出た。やがて母親の方が力尽き、ぱたりと動かなくなったのだ。額に爪を立てていた手が落ちるとともに、ひときわ深く子供の顔に一条の傷跡を残す。
動かなくなった母の体には見向きすることもなく、少年は鉄格子の前に立つエイシュウに顔を向け、ゆっくりと歩いてきた。引っかき傷だらけの顔の中、最後についた額から頬にかけての傷は特に深く、だくだくと血が流れ続けていた。
靴音が、近くにまで迫っている。
生き残った男の子についていたものと同じ位置の古傷を、エイシュウは鉄格子越しに指先でたどっていた。
「──申し訳ない。すまない。それ以外に、何も言いようがない」
傷跡をなぞる手がゆっくりと離れ、その代わりに、エイシュウの頭が深々と下げられる。
「どうしてか、ついさっきまですっかり、何もかも忘れていたんだ。都合のいい話と思われるかも知れないが、本当に。きみがどこかで生きている可能性どころか、ここで具体的に何が起きたかも、敷島ホウジョウや敷島イオリの顔も──俺が昔どう呼ばれていたかすら、忘れていた。償いをしなかったのじゃあなく、その必要性にすら思い至らなかったんだ」
鉄格子の前に手をつき、冷たい岩の上に膝をつき、額を岩肌にこすりつけるエイシュウを、ドーマはただ、眺めている。その視線は、憐れむようとも、蔑むようともつかない。
マカト村で起きた集団自殺──あるいは大量殺人事件についての詳細は、公的にもエイシュウがつい先程まで認識していた程度の概要しか判明してはいない。実質上の教団指導者であったと思しき敷島ホウジョウとイオリが、自身の住む村の住民を主体とするマグルの信者に対し、互いに殺し合うことを口頭で、またはある種の魔法によって強要し教団は壊滅、その教えやマカト村での信者同士のコミュニティがどのようなものであったかは、一切の資料が残されていない上、僅かな生存者が幼い未成年者であったためにいかなる有用な証言も得られず不明。それが、マグルの警察、および魔法省双方が調べだすことの出来たマカト村集団自殺事件のすべてだった。
「思い出したことは、すべて証言する。いまの魔法省、闇祓いに言ったところでどうしようもないだろうから、マグルの……きみたちの警察に対して証言することを約束する」
エイシュウの言葉への返答はない。体は氷のように冷え切っていると言うのに、その顔には汗が噴き出し、岩肌にしみを作る。
「そうだ、もしきみが俺を殺したいと言うなら、勿論そうしていい。あの、ギョクトとかいう子供に磔呪文でもかけさせて、好きなだけ痛めつけてくれても構わない。それで、きみの思いが晴れるとも思えないが、もう、それくらいしか思い浮かばない。俺が何かをお願いできる立場じゃないのは分かっているが、それで、俺以外の魔法使いや、魔法族へ危害を加えることをやめてもらえるのなら──」
次第に近づいてくる足音の合間を縫うように、くつくつ、と喉の奥で押し殺したような声がエイシュウの頭上から降り注ぎ始めた。忍び笑いはそのうちに抑えることもない笑い声へと代わり、さらには哄笑へと変わっていく。
エイシュウは、恐ろしいものを伺うようにゆっくりと、恐る恐る、顔を上げていった。鉄格子の中で、かつての生き残った男の子が嗤っている。額を地面に擦り付け、震えながら謝罪する情けのない姿に、多少なりとも溜飲を下げてくれたものか。そんな淡い期待が心中密かに湧き上がったところで、ドーマも地面に膝を付き、視線をエイシュウと同じ程に下げて、話しだした。
「ああ、御前様。私はけして、そのようなことは望んでおりません。──いや、状況に流されて逃亡するに至っただけで、未だ闇祓いという肩書への未練をたっぷり残している凡庸な小役人の敷島エイシュウ、と言うべきか」
ドーマは鉄格子の合間から手を伸ばし、エイシュウの服の胸ぐらをつかみ、はじめて正面からエイシュウに対して怒りをぶつけはじめていた。真っ向から向き合ったドーマの表情は、嘲りとこの上ない憤りを一緒くたに表したような具合になっている。だが、その怒りの対象にエイシュウは、困惑せざるを得ない。そして、エイシュウの困惑はなお一層ドーマを苛立たせるようだった。
「いいか、敷島エイシュウ。お前がただ自らの傷を覆い隠すために偽悪的に振る舞って、自分の咎を隠しうるというだけで居場所と定めた場所に恋々とし、悪いと思っていながら同僚のやることを見過ごす、想像力のかけらもない矮小な人間であることはよく分かっている。だがな、かつてやったことを心から侘び、どんな復讐にも甘んじると頭を下げ、ぶるぶると打ち震える、そんな無様な真似を、その姿でもって──御前様と同じ体でもって、私の前でしてくれるな。私は、お前に復讐をするつもりで行動などしてはいない。ましてや謝罪の言葉など、こちらから願い下げだ!」
服を掴む手が引かれ、エイシュウは鉄格子に額をぶつけそうになる。ごく間近に迫ったドーマの顔は、いつしか今にも泣きそうな、感情の決壊する寸前のような具合に歪んでいた。
けれど、それも僅かな時間のことだ。不意に襟首を掴む手が放されたかと思えば、ドーマはしばし岩の上に突っ伏し、それからゆっくりと顔を上げた。そのときには、長い髪の下の顔はまた再び、恋焦がれたものに対面したかのように陶然としたものへとすっかり様変わりしていた。
「御前様、わが君。私が望むのは、あなた様がかつて成そうとした神託をいまこそこの世に成就せしめること。そのために我が身をいまこそ捧げ、礎となることなのです」
「俺に、神のまねごとをやれというのか。かつて、ここでやっていたように」
「まねごとではありません。まさに、髪となっていただくのです。そのために、私は卑小なマグルの身にて成しうる全てを為してまいりました。あなた様のために生き残った最後の地虫として、種を撒き、憎悪を広げてまいりました」
「最後の、地虫」
言われてみれば、かつてこの牢の中で繰り広げられた惨劇は、そのまま蠱毒に通ずる。死をもたらす術が存在しなかった故か、そのほうが得手がいいと判断した故か──いまでも、エイシュウは服従呪文を得意とする──閉鎖空間に閉じ込めた人間を相たがいに殺し合わせ、そして、ただ一人が生き残った。その様はまるきり、壺に放り込んだ蟲を相たがいに食みあわせ、生き残った最後の一匹に怨念を凝縮させる呪術そのものだ。
かつての自分が生み出した蠱毒の呪物、生き残った男の子の成れの果てを前に、再びエイシュウは平伏する。
「無理だ、本当にすまないがそれだけはできない、昔の俺や、敷島ホウジョウや敷島イオリがいったい何をしようとしていたかなんて覚えていないんだ、そもそも神託なんてでまかせに決まっている」
魔法の力を使えるもののなかでも
また再び酷い怒りを呼び起こすだろう、と思いながら口にした言葉は、しかし、ドーマには今回ばかりはその真逆の反応をもたらしたようだった。
「なんだ、まだすべてを思い出したわけではなかったのですね。ゴブリンの水だけでは不十分でしたか。安心いたしました。ならば、いまから思い出していただければいいだけの話」
ドーマは安心したように顔をほころばせ、檻の外、エイシュウの腰に差した一ッ目虎動へと手を伸ばした。妖刀は、所有者以外の手で抜かれることを嫌がっているかのように刀身から妖気を放ち、抜き放ったものの手へと黒い気を伝わらせる。エイシュウでも、魔力で抑えない限りは手にしびれを覚えるほどに強い妖力なのだ、魔力など持たないドーマにはそれ以上の苦痛をもたらしているはずだ。思わず、かれが何をしようとしているかを考える前にドーマの手に自らの手を重ねて刀身に魔力を通したところで──
「ああ。ようやく、この時が来た。頼みます、御前様──」
ドーマが、囁くようにそう言ったかと思った途端。くるり、と一ッ目虎動の刃が返され、その刃が、柔らかなものを貫いた。同時に、暖かな液体が、エイシュウの顔に飛沫となり降りかかる。血だ。妖刀で自らの喉を貫いたドーマの、その喉から血が迸り、口から血が溢れ、エイシュウの顔を汚しているのだ。
「──かけまくも、かしこき心に、こうりんの、いっさいのしょうじんのもとの、こんきゅうに、お送りたてまつる」
ドーマの口からはごぼごぼと苦しげな音とともに
すぐ近く、エイシュウの後ろにまで二人分の足音が迫り、そして、止まっている。ミズホと穂村がようやくこの場所を見つけ出し、そして鉄格子を挟んで血に塗れるドーマとエイシュウを見て、立ちすくんでいるのだ。
足音が途絶え、ドーマの口から祭文の代わりにおびただしい血が溢れ出るに代わるように、新たな祭文がどこからともなく聞こえ始める。
「東の隅にも神留まるな、西の隅にも神留まるな、南の隅にも神留まるな、北の隅にも神留まるな、四方の隅にも神留まるな」
祭文を奏上するものは、細く高い石柱の頂上にあった。白髪兎耳の怪童子は石柱のうえにちょんと立ち、主人の代わりに祭文を宣べ立てていく。ミズホが赤い狩衣姿に向けて数条の攻撃呪文を放つが、事前に作られていたらしい防御の力場によって呪文はどれも弾かれて終わる。
「戸に立つな、窓にも立つな、八百万の神呼ばれ、六万八千億の仏呼ばれ、主ある神呼ばわば宮々までお送り届けもうす、主ある仏呼ばわば寺々までお送り届けもうす、主なき神呼ばわば野さえ山さえ島々までもお送り届けもうす、主なき仏呼ばわば天さえ地さえ十万億土の彼方までもお送り届けもうす」
何を還そうとしている。そんな悲鳴にも似た声が、祭文に混じり響き渡る。遅れ、代わりに蛇神を降ろす祝詞が早口で宣べられ始めたのは、穂村が祭文の意図を理解した上で対抗しようとしているものだ。祝詞も祭文も神に対し何かを述べ伝えるという点では似たようなものであるために、片方の知識があればもう片方もおよそ類推ができる。穂村が察したとおり、この祭文は、口寄せのために降ろした霊や仏や神を還すときのものだ。神道の知識を持つものにしてみれば、すでにこの場に降りているはずの神を還そうとしているとの解釈になり、いま存在する何らかの神威が消えるとも、その次に新たな何かを呼ぼうとしている前触れとも取れ、先んじて自らの祭神を降ろしておくべき局面と判断するに至ったのだろう。
もっとも、いまドーマとギョクトが還そうとしているものとその還るべき場所からすれば、その対応は正しいとも言い難いものであったが。
「──畏れながら、御前様、
そして、祭文の結びが朗々と宣べられた。すでにドーマの体は鉄格子に寄りかかり、動かなくなっている。檻の合間から差し伸べた片手でその体を支えつつ、エイシュウは残る片手で頸を貫く刃をゆっくりと引き抜いた。血がごぷりと溢れ、冷たい金属に隔てられたまま可能な限りに密着したエイシュウの服を赤く染めていく。
敷島さん、敷島さん、とミズホが呼ぶ声がエイシュウの耳を打っている。そして同時に、何を思っているものか、そんなミズホを押し留める穂村の声も。けれど、その声は彼の脳裏にまでは届かない。なぜならばいま、エイシュウの頭には、彼のものなれど彼の知らない記憶が、銀の奔流となり押し寄せていたからだ。
† † †
真桑戸は
その話をエイシュウにしたのは、ろく爺だった。ろく爺は里からやってきた天人なので、尋ねればよく里の話をしてくれた。戦争から里へと帰ってきて、自分がすでに死んだことになっていて妻も弟と一緒になっていたのを目の当たりにし、絶望して山に入った先で真桑戸にたどり着いたというから、里のことと言っても六十年ちかく前のことだ。それでも、マカトで生まれ育った子供にとっては耳に新しい話にほかならない。ろく爺が底根へ還されるまで、エイシュウは幾度となく里の話を聞いたものだった。
もちろん、里から来た天人は他にもいた。けれどろく爺ほどに悩みのない者はいなかった。悩みの多い天人には、より沢山の地虫を呑ませねばならない。虫をなん匹も呑ませた天人は、往々にして何を聞いても単純な答えしか返せなくなる。ろく爺が底根へと還ったのが残念でならなかったことを、エイシュウはよく覚えていた。
残念と言っても、せいぜい三つになるかどうかという頃のことだ。あくまでも、気に入っていた絵本がなくなってしまった、という程度の残念さでしかない。そも、マカトの主たる敷島の「若御前」として生まれ育った子供は、天人をおなじ人間とは認識していない。天人たちはみな赤い文様を顔に描きこまれ、敷島家のものとは見た目からして違っていたし、父も母も、天人は人とは違うものとして取り扱っていた。
父ホウジョウは、家の虫棚でエイシュウにこう言ったものだった。
「世話を怠れば、すぐに悩みに憑かれて働けぬようになるのが天人というものだ。働けぬ天人は、底根へと還さねばならない。故に、敷島の家のものは彼らから悩みを取り除き続けねばならない」
幼い子供は父の言葉を疑うこともなく飲み込み、天虫に魔力を注ぐ父のようになりたいと望んだものだった。
子供から見れば遥かに大きく、絶対的とも見える父の姿だが、今見れば、現在のエイシュウとそう年齢は遠くない。はたして敷島ホウジョウは内心、どのような思いを抱いていたものか。
──欺瞞だ。
と、いまのエイシュウは、父の言葉をそう断じる。その上で、あからさまな欺瞞を一体どのように受け止めて幼子へと伝えていたのか、諦念でもって受け入れていたのか、はたまた心からその欺瞞を信じ込んでいたのか、その心中へと思いを馳せたくなってしまうのだった。
だが、記憶はただの、触れ得ぬ過去に過ぎない。作り物のような田園の景色、閉ざされた世界の紛い物の牧歌の中にあって、エイシュウは誰の目にとまることもない過客だ。
どこまでも新鮮で懐かしい記憶の景色は時の旅人を置き去りにして、銀の靄にかすみながら、否応なしに進んでゆく。
エイシュウは魔力の行使という分野において、優秀な子供だった。銀の燐光につつまれた記憶を、既知のものとも未知のものとも、我のものとも彼のものともつかぬものとして体験するエイシュウにも正直、自身の力量についての自負はある。
ろく爺が底根へと還されてから、数年の月日が経った頃のことだ。広い御殿の庭を少年は駆けている。駆ける先にあるのは、石に囲まれた庭池だ。けれど、彼はそれを避ける気配も見せず真っ直ぐに池へと進み──
「いまだ!」
と、池の縁を踏み切る瞬間、敷島ホウジョウの声が飛んだ。その声に合わせて少年の姿は黒い馬へと変わり、池の上を難なく飛び越える。
池の向こうの草むらに着地した黒い子馬は、その姿のまま父の元へと駆け寄り、誇らしげに足を踏み鳴らす。父は、子馬の鬣をなでつつも多少、面食らってもいる様子だ。自らが課した挑戦を幼い息子がかくも簡単に成し遂げるとは思っていなかったのだろう。
「よくやった、私でさえ十歳になった頃から練習をはじめて、ようやく成功するまで半年ほどは掛かったというのに」
敷島ホウジョウはそう述べると自らも黒馬へと姿を変え、子馬へと首を擦り寄せた。敷島の家に生まれて魔力を有するものは、例外なく黒い馬へと身を変える力を持つ。それは丁度、馬と娘の悲恋とうまく合致する特徴でもある。ゆえに、敷島の一族は、
「玉世の姫とせんだん黒毛の名馬とが七日七夜も恋しあい、生まれ落ちたる御神馬御前、真桑の地をば見つけ出し、仙境楽土をつくりたもう」
との由来を持ち、神のごとき存在として真桑戸の地に君臨することとなっていたのだ。
姫君と名馬が悲恋ではなく恋を成就させた伝承が、本当に祖先の来歴を説明するものであるかどうか、エイシュウは知らない。知らないが、おそらくはもとから存在した悲恋の伝承と神の名を使い、うまく人々に──魔力を持たない常人たちに自分たちの一族が持つ力を受け入れさせたものだろう、と思う。そも、馬と娘の悲恋による蚕の由来譚は日本固有のものでもオシラサマ信仰とはじめから一対一で結びついていたものでもなく、捜神記という中国の古典に由来する民話が後に蚕の神と関連付けられただけのものだ。それと類似する内容が、具体的な過去を表すものとは思い難い。
「御神馬の姿を取ることが出来たならば、エイシュウ、お前にも
御神馬の血を引くことを示し得た祝いに盲目の
底根。幽鬼らの棲むマカトの地下空間。その空間が村とともに切り開かれてきたものであることは先に述べた。幼いエイシュウも、村に広大な地下があることと、そこが禁足地であることは知悉している。敷島ホウジョウが教えると言うのは、その場所が存在する意味についてだ。
エイシュウは父のあとを付いて底根へと降り、鍾乳石の灯火が指し示す方向へと進んでいった。二十年余り後と同じく、幻燈の合間には吸魂鬼、幽鬼の群れがうごめいている。
「あれらは人の魂を食み、感情を糧とする幽鬼たちだ。だが、我ら敷島の一族を襲うことはない」
その言葉のとおり、先をゆく敷島ホウジョウは人の姿をとっているにもかかわらず、影のごとき鬼らが襲い来ることはない。吸魂鬼は、極めて人間に敵対的ではあるがけして知能のない存在ではない。英国ではある時期までその特性を利用して牢獄の看守として登用されていたほどには知能もあり、交渉も可能な存在であるのだ。
「敷島の家の開祖がこの地に居を定めたのは、彼らがここにいたがゆえのこと。マカトの地が仙境楽土たり続けるには、この底根の国がなくてはならぬのだ」
あいも変わらず、父は欺瞞を幼い息子に教え続ける。
「マカトは隠れ里、外のものに見つかればたちまち消え去るあぶくのような存在だ。──ゆえに、この地に馴染むことのできぬものには、底根へと還ってもらわねばならない」
幽鬼を付き従えて進む道の行く先には、鉄格子の嵌った横穴が、暗闇の中にあってなお暗く横たわっている。鉄格子の向こうには数人の人間の姿があった。幼いエイシュウは彼らを、奇妙な格好の人間だと思ったものだった。なぜなら彼らは、ジーンズにTシャツ、スニーカーを身につけ、大型のカメラと機材を携行した、マグルのマスコミ関係者と思しき者たちだったからだ。マカトの人間は、エイシュウも含め全員が時代劇のような和装姿で過ごしているし、カメラだのバッテリーだのライトだのといった近代以降の発明品なども村の中には一つも存在しない。エイシュウにとっては、初めて目にする「外」の人間が彼らだった。
マグルたちは、一見するに何らかの番組のディレクターとスタッフのように見える。近づいてくる親子の足音を聞きつけていたものらしい。敷島ホウジョウが姿を見せた途端、彼らの責任者と思しき男が鉄格子を掴んで怒鳴り出した。
「あんた、ゴゼンサマだったかってやつだな、こんなところに人を押しこめて半日も放置しやがって! 今どきこんな馬鹿げた真似を、あんた、オウムがあんな事になって、イカれた宗教団体なんて簡単に目ぇつけられて潰されるぞ」
周囲の若者たちは怯えた声で、ディレクターやばいっすよ、怒らせてどうすんです、と激高する男を止めようとしている。とはいえ、カメラマンは手にしたカメラに時折視線をやり、レンズを敷島ホウジョウやエイシュウに向けもいる。まだ彼らは「撮れ高」を気にした上で振る舞う程度には余裕があるようだった。
当時は全く意味のわからない言葉としか聞こえなかった言葉だが、今ならば意味がわかる。彼らは、マカト村をなんらかの宗教団体の本拠地と認識し、その取材のために村を訪れたのだ。時代は九〇年代半ば。オウム真理教による一連の事件が発生し、教団本部への強制捜査が行われて教祖以下幹部らが一斉に逮捕されのがまだ過去の大事件ではなく同時代の出来事と感ぜられる頃のことだ。マカト村の様子を見て、なんらかの新興宗教団体の本拠地と断じるのは自然なことだろう。実際、実情としては似たようなものなのだ。
「これまでにこの辺りに来て帰らないって連中もどこかに監禁してるんじゃないのか、言っとくがもう、あんたらに捕まる前に撮影したテープは先に山を降りた連中に持たせてる。いまごろは速達で東京へ向かってる頃だ、俺たちに下手な真似をしたってじきに警察が」
鉄格子の前で、敷島ホウジョウは彼に向けられた言葉など少しも聞こえていないかのように、手にした神像で複雑な軌跡を描いた。それは、魔法の呪文に置き換えるならば
無造作に行使された超常の力を目の当たりにして、檻の中からは悲鳴が上がった。まさに力の餌食となっている男は声を上げることもできず、目を白黒させている。体の周りには無数の幽鬼らが集まりつつあるときのことだ。幽鬼を見ることは叶わぬまでも、その身は冷気に包まれ、急速に生気が失われているところだろう。
「エイシュウ、よく見ておけ。働けぬもの、悩みを払いきれぬものは、このようにして底根へと還さねばならない」
父の言葉に合わせて、幽鬼たちは宙吊りになった男へと一斉に群がりその顔を覗き込んだ、とエイシュウには見えた。
やがて、魂がすっかり吸い切られたものだろう。男の体を取り囲んでいた吸魂鬼たちがその体から離れるとともに、力を失った体は冷たい岩の上へとごみのように打ち捨てられた。死んだわけではない。ただ、もはや意識はなく、意思もなく、廃人同様となったその体は衰弱し、死を待つばかりだ。
「幽鬼に霊魂を抜かれたものは、いずれ幽鬼となり、底根の民として我らに仕える身となる。いま一人分の魂を喰らったから、万一のこともないだろう。エイシュウ、彼らに指示を出してみろ」
それまで念の為にと若駒の姿を取っていたエイシュウは、父に言われるまま人の姿へと戻り、幽鬼らに向き合った。吸魂鬼たちは幼い少年を襲うことはなく、その眼前に控えている。
「あ、あ──すみません、あの、まさか本当の超能力者だなんて思わなくて」
次に超常の力によって檻の外へと引き出されたカメラマンは、自由にならない体でどうにか頭を下げようとしながら、敷島ホウジョウへと話しかけた。
「でも、あれですよ、こんなすごいことできるのに山奥に引っ込んでるなんてもったいないっていうか、テレビ出たらもうチョー人気者間違いなしっすよマジで、宜保愛子とかユリ・ゲラーなんて目じゃないですって、だからあの、プロデューサーとか紹介しますし、ほら、特命リサーチってこないだ始まった番組、あれのPで──あのっ、だから──すみません、ごめんなさい、助けてっ、助けてください──」
カメラマンは、彼の思い浮かぶ限りの延命策を講じているようだった。だが、マカトの支配者たる父子にとって彼は、親が子に狩りの方法を教えるための都合のいい獲物でしかない。幼いエイシュウにとっても、自分たちの使う力をまるで怖いもののように恐れ、よくわからないことを口走る男の反応は不快で、早く目の前から消し去ってしまいたかったのだ。
「そいつを底根へ還せ」
子供の指が空中で泣き叫ぶカメラマンを指差し、忠実な影たちが動いた。断末魔の悲鳴が岩の合間にどこまでも響き、底根の地がわんわんと震える。
二人目の犠牲者の魂を吸い終えて、吸魂鬼たちはどこか期待した様子とともに鉄格子の前に集っている。どうやらその格子は吸魂鬼たちにはすり抜けられないような呪術が施されているようだ。
だが、敷島ホウジョウは彼らに脇へ退くよう命じた。牢の中に残っているのは、ADか何かだろう。随分と若い、学生バイトか何かとしか思えないような男女だった。
「あの二人は、もう随分と年をとっていた。だが、彼らはそうではない。悩みを捨て、マカトの地に馴染みうる可能性があるということだ」
年をとっていた、と言っても魂を吸われた二人はせいぜい四十歳そこそこだろう。単純に自分が手本を見せ、エイシュウに真似をさせる関係上二人が犠牲になる必要があったことを年齢にこじつけているだけなのだ、と、記憶を眺めるエイシュウは断ずる。
「だから、彼らは村に招き入れる。そのための秘術をお前に教えよう。難しい術だ、一度でできずとも構わない。身を変える必要があるゆえ、先に足の先でも神馬へと変えておきなさい」
そうして、父は息子に対し、マカト村を平成の世にあっても隠れ里として存続させ続けている最大の秘術の伝授を始めた。──なんのことはない。それは、魔法で言うところの
魔法どころか神道や陰陽道、修験道ほどにも洗練されていないただの家伝の魔力行使法でのことだ。禁呪に相当する効果をもたらすことができるのか、不思議に思う向きもあるかもしれない。だが、意外なことに人の意思を奪って従わせる呪術、魔術のたぐいというのは、残る二つの禁呪の効果と並び、あらゆる文化圏において発明されているものなのだ。なんとなれば、人を従わせ、苦痛を与え、殺害せしめる方法というのは魔法を使わぬ常人も常に工夫を凝らしてきたものである。古来どのような社会にも奴隷制度が存在し、現在でさえもしばしば他人を安価な労働力として使おうとする場面が見受けられることを思えば、人間が社会を作るようになって以来人を意のままにする
──欺瞞だ、なにもかも欺瞞だ。
秘術の奥義を伝授する敷島ホウジョウと、そのさまをしっかりと観察する幼い頃の自分を眺めながら、エイシュウは声にならない叫びを上げる。
悲鳴を上げたのは、二人の若者たちも同じことだった。彼らの目の前では、敷島ホウジョウがおもむろに白い虫を口に放り込んだかと思えば、その身を黒馬へと変えたところだった。白い虫は、敷島の家で天虫と呼ぶものだ。黒馬が口を開けば、そこに二匹の虫が姿を見せていた。
「神馬へと変化するときに、天虫から地虫を作り上げるのだ。そうして──」
黒馬は、怯えきった青年を岩肌へと追い詰めて、口付けを落とすかのような動作を行った。馬の口から青年の口へと白い虫が移され、長い舌で喉奥へと押し込まれる。隣で女が悲鳴を上げ、逃げ出そうとしたのも無理はあるまい。
「──こうやって地虫を移せば、あとは天虫に力を注いでやるだけだ」
再び人へと戻った敷島ホウジョウは、手の上へと天虫を吐き出した。天虫が魔力の燐光に包まれて白い布へと姿を変えるとともに、青年の顔にはまるで、隈取のような赤い文様が浮かび上がり始める。天人の文様だ。赤い文様がくっきりと肌を覆い尽くした時、その顔は、文様の有無だけでなく大きな変化を遂げていた。その顔には、満面の笑みが浮かんでいたのだ。
「さあ、やってみなさい」
子供の手に、白い虫が落とされた。エイシュウは父に言われるままにグロテスクな幼虫を口に含み、その身を馬へと変える。
敷島エイシュウは優秀な子供だ。果たして、若駒の口の中には二匹の虫が現れていた。父は息子を褒め、教材となるべき女が逃げ出せぬよう秘術で体を拘束する。悲鳴すら上げられぬ女の口へと、仔馬は白い虫を食んだままゆっくりと近づいていき────
二人の若者の前で、敷島ホウジョウは人へと戻った息子の頭をくしゃくしゃと撫でた。赤い文様に覆われた顔に浮かぶものは、茫洋とした天人らしい表情だ。
「よくできた。本当は、女にはまた別の場所に入れたほうが地虫が長持ちするんだがな」
地虫にとって、人の体内というのはけして居心地のいい場所とはいい難いらしい。そのためであるのか、ある程度以上に魔力を流さた地虫はやがて溶け落ちてしまうのだ。
「天虫の布を神像へと被せれば、地虫が生きている限りはこの布を通していちどに天人らから悩みを払うことが出来る。地虫が死ねば、また天虫を使って今と同じように地虫を与える。そのために、天虫はいつでも作っておかねばならないのだ」
父はいつも、虫棚で天虫たちに魔力を流して互いの体を食ませるか、天人の様子を見て回っていた。敷島の家のものは、マカトという閉ざされた世界を保つことを生業としているのだった。
かくして、若者たちは閉ざされた村の一員となり、マカト村の日常は平穏無事に進んでいく。天人を魔力で隷従させて、その代わりに作られた幸福感を与え続けることで守られる、神馬の血を引く者たちだけの平穏な日常は。
──こんなものは、ただマグルを服従させて自分たちの生活を支えさせているだけのことだ、人間を天人と言い換えて実態を覆い隠し、欺瞞に満ちた平穏に安穏としているだけだ。
作物を上納させて労働力を搾取し、代わりに魔力で作られた幸福だけを与える、人と家畜のそれとも思しき関係を魔法の力で支え、平成の世にあっても続けている。そんな遠い昔の歪な光景を前に、声にならぬ声でエイシュウはいま、叫びをあげずにはいられなかった。秘術で隷属させた人々にさせている労働の半ば以上は、欧州の古い魔法族の家ならば
これほどに歪で、醜悪な魔法のありかたはない、とエイシュウは思う。あくまで表面上は理想的な、失われた日本の原風景のように美しい里を前に、彼はあらんかぎりの罵倒を叫び、何もかもが欺瞞だと慟哭する。そうしなければ、彼はどうしても心中に湧き上がる思いを抑えられなかったのだ。この場所へ帰りたい、今すぐこの場所へ帰って、村の周囲に
無論、これは記憶だ。ゆえに、エイシュウはただ目の前で起きる出来事、過去の記憶を追体験し続けるほかない。不完全な隠蔽によってすでにほころびの出た砂上の楼閣が崩れ去るところを、ただ眺め続けるほかないのだ。
エイシュウがあとから得た知識と照らし合わせれば、すでにあのテレビクルーたちが現れた時点で手遅れだったのだ。時代は九〇年代なかば、世の中はオカルトブームの真っ只中かつ新興宗教が耳目を集めている時期だ。「人が入って帰ることのない地図にない村落」として知られていたマカトの村は、すでにオカルト雑誌だのパソコン通信フォーラムだので語られる対象となっていた。村へとやって来る人間はいつにないほどに増え、だというのに敷島ホウジョウは古来と変わらない方法で彼らに対応をし続けている。内でも外でも、破綻が訪れないはずがなかった。
だが、それは外のことを知り、その後のことを知るエイシュウであるからわかることだ。幼い頃のエイシュウも、その父も母も、誰一人としてまだいずれ訪れる破局を知ることはない。
「若御前さま。いま、御前さまはお暇ですか」
幼いエイシュウが底根の姿を知って、およそ一年ほどが経ったころ。天人の少年が彼にそう言って声をかけた。年齢はエイシュウと同じほどで、ごく最近に外からやってきた津波倉
エイシュウはまるで大人のような口ぶりで少年に答えた。
「また、悩みを払いきれないものがいたのか」
子供は、体格の小ささの故に呑ませられる地虫の数が限られゆえに、「悩みを払う」度合いが弱くなってしまう。けれど、ライトはたった一匹の地虫を与えただけで驚くほどにマカトのありかたをよく飲み込み、たびたび「悩みがある」のに「悩みの無い」ふりをしているものがいることを伝えてさえくれていたのだ。つい最近は、ゲームボーイを欲しがっている子供がいることを伝えに来て、その子供が両親とともに底根へと還されたことをエイシュウは覚えていた。
ライトは、曖昧に頷いた。
「お母さんが、ときどき苦しそうにしてるんです」
エイシュウの顔が、にわかに陰った。基本的には秘術の効果でごまかしているとは言え、腹に本来いるはずのない虫を巣食わせるのだ。人によってはもちろん、合わないものも居る。体質的に虫が合わない天人は、底根へと還すほかなくなってしまう。
けれど、ライトは言葉を続けた。
「たぶん、お父さんが僕らを探しに来るかもしれないのを怖がっていて、それで悩みが払いきれてないんだと思うんです」
自分たちは父親から逃げるためにマカト村にやって来たのだ、とライトは説明した。たしかに、ライト少年は母親と二人で暮らしていた。父親から逃げる、というのがにわかには理解し難かったが、よくよく話を聞いていけばどうやら彼の父は、母やライト自身に対して度々暴力を振るっていたのだという。
「それで、おばあちゃんの家とか、アパートに住んだりもしたんですけど、すぐお父さんが来て、引っ越ししなきゃいけなくなって。だから、ここにも来るかもしれないって。たぶん、そう思ってるんです」
なにしろ九〇年代の話だ。DV被害者への支援体制などは皆無に近く、被害者は住民票の閲覧制限などといった必要な情報へとアクセスすることも難しかっただろう。その状態で一般的にはただの山としか認識されていないはずのマカト村を「逃げ場」に選んだのは、もしかすると心中でも図った結果の偶然の産物かもしれない、といまのエイシュウは思うが──それについてはもはや、確認のしようもない。
「大丈夫、外から人が来たらすぐに分かるようになってるんだ。もし来たら、父上かわたしがかならず最初に会うことになる。きみたちもそうだったろ」
少年に、必ず敷島ホウジョウへと父親の件を伝え、もし彼の父親が現れたら村に入れることはなく底根へと還すことを約束した上で、エイシュウは若駒へと姿を変えて駆け出した。一刻も早く、津波倉ライトの話を伝えねばならないと思ったのだ。
門をくぐり抜け、庭先で人の姿へと戻り、勢いよく草履を脱いで本屋敷の縁側に飛び乗ったところで、彼は妙な気配に気がついた。いつもは賑やかに話をしながら家の掃除だの煮炊きだのを行っている女中や下男の天人たちが、なにか神妙な雰囲気で集まり、閉まりきった襖を見やっているのだ。閉め切られたその部屋は、父の居室だ。
「ほら、お前たち、早く行きなさい。──ああ、エイシュウ。良かった、彼らの心配を払って、仕事に戻らせて頂戴な」
息子が近づいたことを足音で悟ったものらしい。盲目の母が壁伝いにエイシュウに近づいて白い衣に包まれた神像を手渡した。敷島イオリも魔力を持つが、使えるのは巫術や
「どうしたんです、母上。父上になにか」
エイシュウは天人に屋敷内のことに疑問を抱かず仕事を速やかにこなすよう命じた後、母に問いかけた。虫の秘術では、村の生活に疑問を抱かず、与えられた仕事をこなすことが幸福と思って暮らすことを命じてはいるが、細かな場合における振る舞いまでは規定しない。なので、このような場合には新たにその場に見合った命令を与える必要があるのだ。
母は、眉根を寄せて父の居室へと顔を向けた。
「警察の方が来ているのですよ」
この頃には、エイシュウも外へは出たことがないなりに、マカトの外には大きな国というものがあり、そこには警察や消防といった組織が存在するらしい、ということくらいは把握している。
「なら、大丈夫でしょう。父上も母上もわたしも誰も、悪いことなんてしていません」
エイシュウがそう答えたとき、襖が開き、その奥から数人の大人たちが何事かを話しながら現れた。背広姿の警官たちだ。
「では、ご当主。我々特事が相手をしているうちにすべてが終われば、お互いに幸せなままことが収まります。そのことをお忘れなきよう」
最上位者と思しき刑事はそう言って部屋の中に一礼をすると、エイシュウと母の前を通り過ぎて行った。すれ違いざま、エイシュウを一瞥したその目はまるで醜悪な生き物でも見るかのように嫌悪に満ちたものであり、幼い少年にはその奥にある感情までもは読み取れないまでも、酷く嫌な気分にさせられたものだった。
特事の警官たちが去った居室の中では、敷島ホウジョウが文机に頬杖をついて項垂れていた。エイシュウがそれまでに見たことのないほどに憔悴した父の姿だ。
「少し、良くないことになった」
と、敷島ホウジョウは妻と息子に向けて、暗い声で話しだした。外から人が来すぎて、失踪事件、あるいは監禁事件として騒ぎになっているらしいこと。その結果、警察がマカト村の存在に感づいて、警官たちが家に来たこと。「神通力」をむやみに人に向けて使うことは、外では禁じられていること。
「──それで、この村では一切、人に向けて術を使ってはいないし村の者たちは各々の意思でここでこのように生活しているのだ、と説明して帰ってもらったが……警官の中にも同じ力を持つものが居てな。私が秘術を、とくに村の者の悩みを取り除く術を使うと、すぐさま検知される術がかけられた」
と、父が寛げた襟首の内側、首の付根には淡く光る紅色の文様がぐるりと一周していた。おそらくは、未成年者の魔法行為検出呪文と同じ原理の呪文だろう。各国ともに未成年魔法族に対する似たような呪文は存在しているが、日本のそれは主に魔法所の生徒個々人に対して夏休み前などに施される、ある種の魔法契約に近い術式だ。家庭内や魔法族の街などでの学習時などを除く、許可されていない場面で魔法を使えば、たちどころにどのような呪文がいつ使われたかが報告される、悪名高い「魔の首輪」だ。
「では、わたくしたちは──マカトの暮らしは」
敷島ホウジョウの話を聞き終えた母が、悲痛な声を上げる。敷島イオリも、マカト村ほどではないが似たような環境の生まれだ。とても、マグルの社会の中や、あるいは魔法界に混じって暮らす、ということは考えようもないことだったろう。魔法教育を受けず、かといってマグルと同様の暮らしをするでもない魔法族──いわゆる、本来の意味における「半端者」というのは、そのような存在だ。ある意味で、彼らこそが日本における本来の魔法族のあり方、ということもできるかもしれない。だとしても、現代社会においてはもはや滅びゆくしかないあり方だが。
そう、この場でマカトの暮らしを捨て、潔く滅びゆく──端的に言えば、一家心中でも図る事ができたならば、まだ悲劇としてはありふれたものとして終わることが出来ていただろう。だが、事態はそうはならない。
「……わたしが」
と、父の言葉を聞き、母の嘆きを聞いていた少年が、声を上げた。やめろ。何もするな。そのまま滅んで行け。死ね。死んでくれ。かつての少年は過去の光景を前にうずくまり、頭を抱え、呪詛を吐き続ける。
「わたしが、父上の代わりを務めます」
けれど、過去の記憶は止まりはしない。敷島エイシュウは優秀な子供だ。この時点で、魔力量を除けば十分に父の代わりを務められるほどに秘術を使いこなし、また、村の惣領としての自覚すら持っていた。その上、なにより少年は、津波倉ライトと交わした約束を守らねばならないとの思いに駆られている。
少年が下した子供なりの決意を、両親はいったい、どう受け止めたものか。敷島ホウジョウは、妻がすがるように伸ばした手を取ると、しばしの黙考ののちに口をひらいた。
「そう、してくれるか」
かくしてマカトの地は、史上類を見ないほどに幼い「御神馬御前」を戴くこととなった。そのことに、異議を挟むものは居ない。天人たちは、敷島一族の意向を受け入れる他に選択肢などないのだから。
エイシュウが「御前様」となってからそれほど経たないうちに、津波倉ライトとの約束は果たされることとなった。ライトが懸念していたとおり、彼の父親は妻と子供の足跡を辿ってマカトの地へとたどり着いたのだ。
「あれがきみのお父上なのか、ライト」
半鐘が鳴る中、エイシュウは侵入者のいる場所を見通せる木の上でライトに問いかけた。スキー服を着て、登山道を離れて獣道を歩み来る男は、一見するにどこにでもいるような普通の男のようだ。けれど、エイシュウのとなりで小刻みにうなずくライトの顔は、蒼白を通り越して土気色になっている。
「よし、わかった。あいつは底根へと還そう。きみは家で待っていろ」
いともあっさりとエイシュウは津波倉ライトの父を吸魂鬼の餌にすることを決め、木の枝を飛び降りた。あとは、することは決まっている。若駒の姿で近づいて秘術を掛けて拘束し、底根へと導くのだ。
敷島家伝の秘術には、ものを動かす系統の術はそれなりに充実している。突如馬から変身した少年を見て驚いている隙に男を綱で縛り上げる程度はかんたんなことだった。
「待ってください、御前様」
縛り上げた男を宙に浮かせて底根への入り口へと運ぼうとするエイシュウの背に、そんな声が飛んできた。ライトには、ただ家で待つよう言っただけで秘術で命令は下していない。気が変わったか、あるいは少し父親と話そうという気にでもなったか、と思い、エイシュウは振り向いた。
顔面を蒼白にしながら、同じ年回りの少年は魔力によって操られた彼の父親を指差し、決然と言った。
「こいつが底根へと還るところを、見せてもらえませんか。二度と、僕やお母さんの前に出てこないってこと、お母さんにちゃんと伝えたいんです」
男は何事か、うめき声をあげようとしたようだった。自らを指差し、憎しみに満ちた目を向ける息子を前にして、何か言いたいことがあったのだろう。だが、エイシュウは男の口を塞ぐ縄を締め上げて僅かな声も漏らさないようにする。
底根は禁足地だ。だが、それは内情を秘密にしておかねばならないから、というわけではなく、単純に敷島の血を引く魔法族でなければ吸魂鬼に襲われて危険だから、というだけのことだ。逆を言えば、敷島家のものと一緒ならば、他のものも入ることはできる。
「分かった。きっちり見届けて、お母上を安心させてやるといい」
そう答えるとエイシュウは若駒に姿を変え、その背に乗るようライトに促した。少年は子馬の首にしがみつき、背後で馬に引かれる父を振り返ることのないまま底根の最奥部まで黒いたてがみに鼻先を押し当て続けていた。
「きみには見えないだろうけれど、いま、お父上の周りに幽鬼たちが集まって、その魂を吸い上げているんだ。完全に魂がなくなれば、もうあとは抜け殻のようになって、何も出来やしない」
光る鍾乳石の淡い光の中、男が黒衣の幽鬼に囲まれて岩の上に膝立ちになり、もがき苦しんでいる。辺りを震わせるのは、幽鬼たちによって男の魂が吸いとられる断末魔の悲鳴だ。断末魔のなか、エイシュウは「神通力」を持たないライトにも起きていることが分かるよう、目の前の出来事を解説し続けていた。自らの行いの正当性を疑いもしない子供のやることといえど、あまりにも異常な有様だ。
だが、もうひとりの子供の反応も、同じ程に異様である。ライトは彼より少し背の高い少年の腕を掴み、ぎゅっと身を寄せたまま、らんらんと目を光らせて父親の事実上の最期を見守り続けていたのだ。
「すごい。こいつ本当に怖くて、僕もお母さんも殺されちゃうって思ったことが何回もあって、警察なんてちょっと注意するだけで帰っちゃって、役場の人なんかも追い返されちゃったりして、なのに御前様、こんなに簡単にやっつけちゃえるなんて」
断末魔が途切れた。スキー服を着た体は岩の上に横たわり、淀んだ目で暗闇を見つめている。
「やっつけるんじゃない、底根に還るんだ」
そのうちその体が幽鬼へと変わる、ということはあえてエイシュウは口にはしなかった。幽鬼ならばエイシュウが従えることができるが、存在が残ることそのものをライトが怖がるかもしれないと思ったからだ。
外から津波倉母子を追ってきた父親を底根へと還したと伝えても、敷島ホウジョウもイオリも何も言いはしなかった。ただ、よくやってくれている、と言うようにその頭をなで、抱きしめただけだ。今ならばおよそ想像がつくが、おそらく彼らは遠からず訪れるであろう変化を知りつつ、それが少しでも遠くなることをただ願っている。ゆえに、息子が見事こなしつづける仕事が外では大罪であることを知りつつ、それによって保たれるいまこの日常を甘受し続けている。
後のことを思えば、それをこの上ない怠慢、この上ない卑怯として罵倒する権利は十分以上にある、といまのエイシュウは思う。思うが、しかし、もう彼はただ記憶を眺める他には何もしてはいなかった。その怠慢、その卑怯は、闇祓いであり続けるために同僚や上司のなすところを見過ごそうとし、秋津・ミズホ・ローレンスに服従呪文をかけたとき彼の心中にも芽生えていた種類のものであると分かっていたし、なにより、彼は叫び疲れていたのだ。
幼い敷島エイシュウは、見事に「御神馬御前」を務め続けていた。天人らの集めた虫を食い合わせて天虫を作り、地虫を天人の腹へと仕込み、まれに外から訪れるものが現れれば対応し、それ以外に何かが起きていないかも気を配り続ける。エイシュウの正確な生年はわからないため数歳の誤差はあるだろうが、少なくとも十歳にもなっていない頃の子供がやり遂げていると思えば、とてつもない偉業と言っていいだろう。
それに対し、彼の両親が何をしていたかといえば──母イオリは祈祷を続け、父ホウジョウは古い家伝の書物をひっくり返していた。
「マカトには、昔は桑があったはずなんだ」
と、エイシュウはライトに言った。田植え歌の響く水田を眺め渡す畦の上に並び立ってのことだ。空は高く青く、遠い空には雲雀が鳴く、そんな季節のことだった。
「それも、普通の桑じゃあなく、御神木とでもいうのかな。とにかく何か、すごい力を持った桑なんだ」
その桑が生えたならば世界が「その枝に太陽の烏が十も羽を休めていた頃」へと帰る。そこまでは、マカトに伝わる伝承だ。マカト、真桑戸という名に反して、この地では養蚕は行われておらず、桑畑も存在しない。絹糸を生み出す養蚕は他所の地域との交易が前提となる産業であり、隠れ里で行う意義がないからだ。となれば、真桑の名はその桑に由来する名であるのかもしれない。
敷島ホウジョウは、家に伝わる古文書を紐解き、その桑を蘇らせる方法を探しているのだった。そうすれば、全てをやり直すことができるかもしれない、と言って。
「やり直すってどういうことなんです?」
「わからない。ただ、それが成ったらわたしたちは助かるかも知れない、と父上は言っている」
エイシュウの言葉に、ライトは不思議そうに首をかしげる。
「僕、もう助かってますよ。マカトに来て、御前様がお父さんを底根へ還してくれて、お母さんの心配も御前様が取り除いてくれて。いままでで一番、ここで暮らしてるのが楽しいです」
そう言って、ライトはエイシュウの手をギュッと握った。
目の前で彼の父親を底根へと還して以来、ライトはエイシュウに、というより「御神馬御前」に随分と懐いている。村の中でなにか気づいた事があれば逐一エイシュウに報告してくれるのはもとより、事あるごとにエイシュウのもとにやってきては他愛もないような話をするようになっているのだ。心酔している、と言ってもいいほどだ。エイシュウもそれが悪い気はしていない。
「きっと、そんな暮らしをこのあともずっと間違いなく続けられるようになる、ということを言ってるのだと思う」
外から警察が訪れていることや、敷島ホウジョウが同種の力によって秘術を制限されていることは天人にはさとられぬよう、エイシュウは両親から言われている。それ以上に、自分を慕う少年を心配させたくないとの思いもあり、彼はライトを安心させるようなことを言った。ろく爺以来に外のことを知る天人である故にライトを気に入っている──と少年は認識していたが、傍から見る限りではけして、そればかりではないように見受けられる。
田植え歌が響いている。青空を映した水田に村人たちが一列に並び、歌を歌いながら早苗を植え込んでいるのだ。
牧歌的な風景そのものの情景に、にわかに乱れが生まれた。その歌声にうめき声がまじり、水を打つ音とざわめきがそれにつづき、一列に並んだ人々が一点へと集まってゆく。
「あ。お母さん!」
その光景を見て、まずライトが走り出した。水田の真ん中では、一人の女が膝を付き、腹を抑えている。ライトの母、津波倉
「ライト、ああ──ここに居たらだめ、はやく──」
津波倉エイコはそう言って、駆け寄ってきた息子の肩を掴み、必死の形相で何かを言い聞かせようとした。津波倉エイコは、やはり虫との相性がひどく悪いようだった。地虫を与えれば数日間は他の人々と同じように村での仕事に着くのだが、それが過ぎれば今のように様子がおかしくなり、虫を排出しようとしてしまうのだ。
いや。様子がおかしくなる、というのは、マカトの支配者に取ってあまりにも都合のいい物言いに過ぎるだろう。より公平に言えば、津波倉エイコは秘術を掛けられても自らの意志を失うことなく、正気に戻ろうとしているのだ。そのような人間は、実に珍しい。日本において、
元々、先天的にその種の術にかかりにくいのか、あるいはよほど確固たる意思を持っているのか。いかなる理由であるかはわからないが、津波倉エイコは頻繁に「悩みに苛まれ」、彼の息子や、周囲の人間がエイシュウの元へと走ることになるのだった。いま、水田の只中で起きたように。
必死に息子へと何かを伝えようとしていた津波倉エイコの顔から、だしぬけにすべての感情が抜け落ちて多幸感に満ちたものへと置き換わっていった。吐き出そうとしたぶんに加えて更に数匹の地虫をエイシュウの手が押し込みながら、直接に地虫へと魔力を流し込んだのだ。
「きっと、お母上は外でたくさん嫌なことにあいすぎて、わたしの術でも悩みを払いきれないのだ」
ライトにはそう言ったものの、この頃のエイシュウにとっては、彼の母の存在は文字通りに悩みの種だった。敷島ホウジョウは津波倉エイコについて、村へ馴染みにくい人間だろう、と言っていた。馴染みにくい人間というのは、得てして村から逃げ出そうとするものだ、とも。もしそうなれば、エイシュウは津波倉エイコを底根へと還さねばならない。津波倉ライトの両親を、ともに幽鬼の餌食にしてしまうということだ。
エイシュウは、人間の魂を幽鬼に吸わせることに抵抗はない。ただ、自分が両親をともになくして一人で暮らしていくことを思うと、それはひどく寂しく、悲しいことに思われた。なので、彼はどうにかして津波倉エイコを底根へと還すことだけは避けたいと思い、天人たちに津波倉エイコを監視し、彼女に悩みが現れたときにはすぐに敷島家のものに伝えるよう命令を下していたほどだ。
だが、そんな体制も、完全とは言い難い。エイシュウの不安はやがて事実となり、一つの破局を呼び込むこととなる。
田植えの季節が終わり、水田に水が満ちる季節のことだ。
ざあざあと村が雨音に包まれるなか、その知らせはもたらされた。梅雨時とあり、一日じゅう降り続いた雨が日暮れのあとも降り続き、村がまるごと泥田のようになった夜半のことだ。
「御前様、御前様!」
どんどんと雨戸を叩く音とともに、子供の声が本屋敷に響いていた。声の主は、津波倉ライトだ。
「すみません、お母さんが虫を全部吐き出して、山を降りようとして」
庭先に膝を付いて、ライトはエイシュウへと訴えかけた。少年の全身は雨に濡れているのみならず、泥まみれになって、服も半ば脱げかけている。ただ雨の中を走っただけではそうはなるまい。
「お母さん、マカトはおかしいって言って、麓の警察へ行くって、僕も連れて行かれかけて、だから僕、御前様に伝えなきゃって」
つまりは、ライトは村を出ようとする母親と揉み合いになり、どうにかその手を振り払って敷島邸まで走ってきた、ということであったらしい。その言葉を裏付けるように、真夜中のマカトに半鐘が鳴り響く。外からではなく、村の中から出ようとしたものがいることを知らせる鐘の音だ。
背後では、父と母が何事かを話し合い始めたようだった。だが、エイシュウはその結果を聞き終えることもなく雨の中へと飛び出し、その身を黒い仔馬へと変えていた。
「待ってください、僕も」
ライトの叫び声がエイシュウの背に追いすがる。その声はしかし、すぐに雨音にまじり、はるか後方へと遠ざかってゆく。
黒い若駒は泥濘を踏み、泥の河と化した道を駆け抜け、岩を飛び越し、木々の合間を縫って一人の女へと迫ってゆく。鐘の鳴り方でおよその方向さえわかれば、人が通れる道などは決まっているのだ。ただでさえなれない山を、雨の降りしきる夜に降りようとする津波倉エイコに追いつくことなどはそう難しいことではない。
行く道に黒い仔馬が現れ、直後にその姿が人間の子供へと変わるのを目の当たりにして、女は息を呑み、足を止めた。
「ライトのお母上。どうか、戻ってほしい」
周囲の木々は、雨の中だと言うのに青白い炎を枝にまとい、あたりを照らし出していく。冷たい炎に照らし出された津波倉エイコは、村に入った時に着ていたウィンドブレーカーの胸のあたりを握りしめ、目深にフードを被りガタガタと震えていた。歯の根が合わず、全身を震わせている理由は寒さだけではなかったろう。
「あなた、あのお屋敷の、御前様って呼ばれてる子よね。よくライトと話してる」
「敷島エイシュウだ。わたしはあなたを底根へと還したくはない、お願いだ、戻ってくれないか。ライトを悲しませたくないんだ」
「底根へと還すって、洞窟に連れて行って、殺すってことだよね? タカヒコさんもそうされたって、あの子が言ってた。それも、あなたがやったの」
「ライトのお父上のことか。確かにわたしが底根へと還した。でも、殺すのではなく、魂を抜いて、幽鬼の仲間入りをさせるんだ」
葉の合間を雨が伝い、大粒の雨粒となって降り注ぐ。ウィンドブレーカーの撥水は降り注ぐ水に追いついていないらしく、生地はじっとりと濡れて重く津波倉エイコの体に張り付いている。それに対し、彼女の行く手を阻むエイシュウの体はまるでその周囲に何らかの力場が働いているかのように雨が自然と避けていき、その衣服は少しも濡れてはいない。魔法ほどの汎用性はないが、雨を避ける程度のことならば敷島家伝の秘術でも出来るのだ。
津波倉エイコは、エイシュウの返答とその明らかに常人とは異なる有り様を見て、何かを考えているようだった。
「あなたは、ライトのためにわたしに戻るよう言ってくれてるんだよね。だったら、お願いだから、ここを通して頂戴。わたしは、ライトのためにあの村を出なければいけないの」
「ライトのためにマカトを出る。どういうことだ」
言われた言葉の意味がわからず、エイシュウは鸚鵡返しに聞き返す。
「あなたは知らないかもしれないけれど、日本では、大人は子供を学校に行かせなければいけないの。それに、子供に家の仕事をさせたりもしない。子供を学校に行かせて、たくさんのことを学ばせて、やりたいことを自分で決められるようにしなければいけないの。サッカー選手になりたいとか、野球選手になりたいとか、ゲームを作りたいとか、テレビに出たいとか、ライトにはそういう夢を、自由に持ってもらいたいの。あの子の父親のことで色々あって、そんな暇も上げられなかったけれど……あの村、マカト村では、お父さんやお母さんが子供にそういうことを考えさせたりしないでしょう」
考え抜かれたであろう津波倉エイコの言葉は、いま聞けば明らかに、ライトのことだけではなくエイシュウのことも包括しうる内容だ。それを聞いて、幼い頃のエイシュウはどう思ったものだったか。マカトの中しか知らない少年は、そもそも学校だとかサッカー選手だとか野球選手だとかいう個別の言葉の意味を具体的には知らない。知らないが、それがつまり、彼の知らない何かをライトに与えたい、と言っているらしいとは理解できる。
「わからない。マカトの外にしかないなにかを、ライトにあげたいのか」
エイシュウは、外の話を聞くのが好きだった。ライトはあまり外での出来事にいい思い出はないようだったが、マカトにはないものについてエイシュウが聞けばそれなりに答えてくれるのだった。いろいろな品物の並ぶ店だとか舗装された道、夜でも炎よりなお明るい光に満ちた街。そんなものが外にはいくらでもありふれていて、そしてそれらはマカトの中ではどうやっても手に入らないであろうことを、エイシュウは知っていた。
エイシュウが自らの話に理解を示したと見たらしい。津波倉エイコが、大きく首を縦に振った。
「そう、そうよ。そう、この山を降りたら、ほんとうに、あなたには考えられないくらいにたくさんのものがあって、そこでの暮らしを子供にさせてあげられないというだけで、親にしてみればとてもくやしいことなの」
少しでも多くの文化、少しでも多くの情報に触れ得るということは、それだけで子供の可能性を広げるということだ。津波倉エイコはつまるところ、そのようなことを言いたいのだろう。それは、親のあり方、大人のあり方として実に正しい。涙が出るほどに正しいことだ。そうではない両親のもとに生まれた子供の行く末である傍観者は、座り込み、頭を抱えたままその言葉を聞きつづける。
やがて見えざる傍観者になる少年もまた、秘術を使う気配をみせないまま、ライトの母の言葉をわからないなりに聞いていた。
「それは、マカトにいては出来ないのか」
「出来ない。あなたのお父さんや、今はあなたが皆に呑ませている白い虫。あれは、あなた達の……敷島のお屋敷に住む人のために、人を働かせるためのものでしょう。あれがある限り、絶対に無理」
「いや、あれは。……あれは、皆の、悩みを払うために」
「悩みをなくして、いい気分にさせて、あなたの家のためにみんなを働かせている。わたしにはそう見える。わたしは、ライトがあんなところで、あの場所しか知らないまま、ただ一生あなたやあなたの両親のためにこき使われて死んでいくのはいやだ」
少年に向けて、津波倉エイコは歩を進めた。幼いエイシュウの手には、数枚の布がある。津波倉エイコに呑ませた地虫とつながる布だ。大半は吐き出したようだが、まだそのうちの一、二枚は魔力でつながっていることは分かっている。
「通して頂戴。もし、どうしてもだめと言うなら、いつものあの虫でも使って、魂を抜きなさい」
少年は、布へと魔力を通そうとした。けれど、魔力はいつものようには効果を表さず、ただ燐光を放つだけに終わる。禁呪やそれに相当する術は、かなりの精神力を要する。即死呪文も磔呪文も服従呪文も、少しでも相手への害意が薄れれば、その効果は少しも発揮されないのだ。まして、津波倉エイコを服従させ、底根へと還すことに疑問を持っている状態ならばなおさらだ。
「……優しい子だね、ライトにも、優しくしてくれてありがとう。あの子は、必ず迎えに来るから。あの子に酷いことは、あなたならしないよね」
ばらばらと、ウィンドブレーカーの表面を叩く音が少年の横をすり抜け、後方へと遠ざかっていった。幼いエイシュウには、津波倉エイコの言うことは半ばほどしか理解出来ていない。ただ、悩みを払う秘術が敷島家のためのものでしかない、と言われていることは理解し、心に引っかかっている。そしてなにより、エイシュウはまるで対等な人間のように言葉をかわしたものを底根へと還したことはなかったのだ。
エイシュウは結局、去りゆく津波倉エイコを追うことは出来なかった。
人の姿のまま、このことをどのように両親に説明しようかと考えながら泥濘の道を戻りゆくさなか、エイシュウは、前方から無数の光が近づいてくるのを見た。家人を連れ、敷島ホウジョウが息子の様子を見に来たものだ。けれど、真っ先にエイシュウの元へと駆け寄ってきたのは彼の父でも使用人の誰かでもなく、泥に塗れた姿のままの少年だった。
「御前様! お母さんは」
「いま、山を降りているところだよ」
「山を、降りて……どうしてです、底根へは還さなかったんですか」
エイシュウは、ライトの問いかけに首を左右にふる。
「きみのお母上を、そんなこと、できやしない」
命令にない状況であるために顔を見合わせ、どうすればいいかわからない状態に陥っている天人らの中から、傘を差した敷島ホウジョウが歩み出てきた。父に対してエイシュウは頭を下げ、津波倉エイコに秘術をかけようとしたけれど出来なかったこと、そして、彼女と交わした会話の中で、特に秘術の行使をためらわせた要素を拙いながらも話していった。
「ああ、そうか」
きっと叱られると思っていたエイシュウの体を、不意に暖かな体温が包み込んだ。敷島ホウジョウが泥の中に膝をつくと、息子の体を引き寄せ、抱きしめたのだ。
「駄目だと、分かってはいたんだ。お前に神の真似事を引き継がせても、単に問題を先送りにするだけだとは。けれど、お前があまりにも見事に御神馬御前をやり遂げてくれるものだから、つい、甘えてしまった。すまない、ほんとうに、すまない。もう、終わりにしよう」
痛いほどに息子の体を抱きしめ、頭を撫でまわしながら、何度も敷島ホウジョウはエイシュウに向けて謝罪の言葉を口にした。
「終わりにするって、何をです」
「マカトを。この暮らしを」
そんな、と、声が上がった。後から追ってきていた敷島イオリが、夫の言葉を聞いて悲痛な声を上げたのだ。意味のわからないままに父の腕に抱かれていた少年は、声を押し殺して泣き始める。ここにきて、両親の反応を見て自分がしたことが恐ろしくなってきたのだ。何が起きているかわからないなりに天人たちも頭を垂れ、主人らと同じく悲嘆に暮れる中、敷島ホウジョウが立ち上がり、頭上に向けて神像を掲げた。
神像の先からは閃光が上空に向けて放たれ、一定の高さに至ったところで閃光は傘を広げるように村中へと広がっていく。同時に、敷島ホウジョウの首に刻まれた文様が紅色に光ったのは、魔力の行使を感知した故だろう。
白い閃光は、敷島家の人々を除く村人たちの体を打ち、貫いてゆく。その効果は、おそらくは
やがて、雨の中というのに、村にはにわかに青い炎が立ちはじめた。家という家に炎が上がっている。家に残ろうとしているものをも外へと追い立てるための措置だ。
敷島ホウジョウは、集まってくる人々に向けて、声を張り上げた。
「皆、よく聞いてくれ。この場所のことが、外のものに知られた」
不安げな囁きは、雨の中でざわめきへと変わり、敷島家の三人を取り囲む。
「この地にて生まれ、これまでの間過ごしてきたものにはわからないだろうが、外から来たものには意味が分かることだろう。もはや、マカトの地が存続することは叶わない。皆、長きに渡り、我ら敷島の家のためにすまないことをした」
ざわめきの中には、洞窟で一緒だったはずの人を探す声や、いまさらに目の前で魂を抜かれる人間を見た恐怖に駆られた叫び声すらも混じり、喧騒へと変わっていく。
「これから、マカトには外の人間が──おそらくは警察や、あるいは敷島の家のものと同じような力を持つものたちがやってくることだろう。だが、彼らは皆に対して害意があるわけではない。彼らはただ、わたしたち敷島の家のものに用があるだけだ。だから、彼らの言うことを聞いて、そうして、元の生活があるものは元の生活に、そうでないものは新たな生活をはじめてくれ」
喧騒は、敷島ホウジョウが言うべきことを言い切る頃には怒声と悲鳴の入り混じった狂乱へと変わり、雨音すらも圧倒し始める。今まで彼らを不当に支配していた力が取り払われ、その原因である敷島家の人々へと怒りの矛先が向いたのか。敷島ホウジョウとイオリは、そのつもりで怒声の只中に立ち、打ち震えつつも自らの子供を抱きしめ、来るべき運命を受け入れようとしている。
この時の敷島夫妻の反応を鑑みるに、彼らの思い描いていたその後の経緯は、次のようなものだろう。つまりは、民衆を支配していた魔力が消え、真実に気づいた民衆がかつての支配者を打ち倒し、血祭りに上げる。それで終わっていたならば、話は明快だったのだ。
けれど、そうではない。マカトの地で起きた出来事は、それほどにわかりやすく、単純な悲劇ではない。
「──お願いします、御前様。どうか、外から来る者たちを追い返してください」
喧騒の中、ひときわ大声で、誰かがそう叫んだ。それは、敷島ホウジョウが思い描いたものとは、真逆の反応だった。
「いまさら外の生活になんて戻れるはずがない」
「見捨てないでくれ、お願いです」
そして、それは、ただ一人だけの願いではなかった。またたく間に請願の言葉がマカトの地において神にも等しかった家族を取り巻き、救いを求め、手が伸ばされる。狂信者、と彼らを呼んでやるのは、酷というものだ。虫の秘術は、
敷島ホウジョウは、泥の中に膝を付き、神に祈るかのような天人の群れを、呆然と眺めていた。彼がいったい、どの程度外の世界のことを知り、マカトについてどのように思っていたかは定かではない。ただ、恐らく彼は、常識的な人間だ。常識的な感覚で、後ろめたい思いを抱きながらもそれ以外に生きる術がないために天人らを操り、その支配を終わらせたときには家族ともども嬲り殺されることをも覚悟していたのだ。
だが、魔法族の持つ力は、それほど常識的なものではない。
「こんな酷い気分には耐えられない、どうか悩みを消してください」
「御前様、助けて」
「助けてください」
敷島ホウジョウの口から、数度、何らかの言葉が漏れかけ、言葉にならないままに終わった。自らの一族が長年に渡り行ってきた生業がいかなる結果を生むものであるか、彼はこの時初めて目の当たりにしたのだ。自ら自由意志を放棄するに至った人の群れを前にして、彼らの神たる存在は何を言えば良いのかも、何をすれば良いのかもわからなくなっている。
雨音の中、けたたましい鐘の音が村に響き始めた。侵入者を知らせる半鐘だ。それも、一方向ではなく複数の方向から、一人二人ではなく何十人もの人が、村の領域へと踏み込んでいる。津波倉エイコが山を下りきって、警察に駆け込んだにしては時間が早すぎる。敷島ホウジョウが、喉に巻き付いた文様を撫でた。以前、魔法族の警官たちが村を訪れた際に施された、呪文検知の「首輪」だ。
雨音と鐘の音の中には、
「──御前様、あの、ご神木の話は」
非常を知らせる騒音と、救いを求める人々の声の中にひときわ高く、子供の声が響き渡った。津波倉ライトの声だ。自らの母の逃亡を告発した少年もまた、他の村人たちと同様に神にすがり、彼なりの救いを求めている。
「その枝に太陽の烏が戻ると、全てをやり直すことができる、そう聞きました。お願いです、僕、今まで生きてきて、マカトに居るときが一番幸せなんです。御神馬御前様に地虫をいただいて、悩みをとりのぞいてもらって、声をかけていただくのが本当に嬉しくて、それが終わるなんて、絶対にいやだ」
降り続く生ぬるい雨に打たれ、泥を洗い流されながら、津波倉ライトはエイシュウの着物の裾を握り、必死に訴えかけている。僅かな希望にすがりつこうとするかのように。神木が生えたなら、「枝に太陽の烏が十も羽を休めていた頃」へと帰る。エイシュウが語った伝承を、ライトはしっかりと覚えていたのだ。そして、その伝承を実現する方法を敷島ホウジョウが探していたことも。
エイシュウは、父へと視線をやる。けれど、敷島ホウジョウは険しい顔で、首を左右に振った。
「十陽の生る扶桑──原初へと時を巻き戻す桑の木は、たしかに、この地に現れたことがあるという。だが、それは神通力により血が流され、多くの人々が殺し合った、その果てのことだ」
だから、そんなことは達成し得ない。言外にそんな言葉が隠されているのは明らかなほどに、苦々しい口調だった。敷島ホウジョウは、魔力を持つというだけでごく普通の感覚を持った人間だ。明確な効果もわからない伝承のために、具体的な方法もわからないながら、大量の犠牲が必要であることだけは確実な呪術など、使えるものとすら思わなかっただろう。
だが、僅かな希望にもすがりつこうとする人間は、敷島ホウジョウほどには冷静な思考を有していない。
「なら、それを。それを、今すぐやってください。やり直せるのなら、いま死んでも構いません」
少年の声が、狂信者の声色を帯びて、吐き出される。それに同調する声が三人の魔法族を取り巻くまでは、ほんの僅かな時間しか必要ではなかった。
エイシュウの視界には、村人たちの苦しげな、助けを求める顔が満ちている。その先頭に居るのは、彼を慕う少年だ。少し横へと視線をそらせば、白い布に包まれた木の棒も目に入る。天人たちをなだめようとする父の、その手には件の神像が握られたままなのだ。
あくまでも敷島ホウジョウはまともな人間だ。それなりに外の世界についての知見を持ち、今後に及んで、新たな命令を秘術で下さないという良識さえ持っていた。
だが、彼の息子はそうではない。
「──わかった」
子供の狭い了見に基づいて、敷島エイシュウは、決断を下す。手をのばせば、神像は簡単にその手に収まる距離にあった。天虫と魔力をつなぐ布の巻かれた魔力の介助具が手に入れば、あとは、いつもの生業と少しも代わりはしない。
赤い閃光が、幾条にも分かれ暗闇に走った。
黒い雨に打たれていることにも構わず、人の群れが一つの方向へと、軽い足取りで移動を始める。まるで楽土へと向かうかのように、歓喜に満ちた表情で。
「駄目だ、エイシュウ、そういうことじゃあない、そういうことじゃないんだ」
息子が何をしようとしているかを悟った敷島ホウジョウは、慌ててその身を黒馬に変えた。天人らの前へと回り込み、行く手を遮ろうとしたのだ。結果から言えば、その判断は間違いだった。動物へと変化した動物もどきは、魔力を行使できない。つまり、天人らが振るう鉈だの鎌だのに対抗する術をも捨ててしまったということだ。
鐘の音の合間を縫うように馬の嘶きが響き、続き、女の悲鳴が上がる。敷島ホウジョウが覚悟した、天人らのもたらす死は、いま齎されていた。彼の覚悟した死との違いはほんの僅か、彼の息子が天人らを操っていた、という違いだけだった。
ふたつの死体が現れるとともに、天人たちはなにかに憑かれたように規則正しい歩調で歩みはじめた。彼らの向かう先は、村の西側にぽっかりと開いた洞窟、底根の国だ。
なぜ、こんなことをしたのか。遠い記憶を眺めるエイシュウには、そんな疑問を抱くことすら許されなかった。今や、彼はこのときの気分すらも完全に思い出していたのだ。彼は、優秀な子供だった。教わった秘術を失敗したことは、一度たりとも存在しない。だから、いま聞いたばかりの伝承を再現するための儀式を、そのとおりにやり遂げさえすれば、「全てをやり直すことができる」。そう心の底から信じていた。いま目の前に苦しんでいる天人がいて、彼らを救うための明快な解決策が存在するのに、なぜ父がそれを実行しないのか疑問に思うほどだった。人がそのために死ぬということももちろん分かっている。だが、その結果、どのような次第でかはわからないが全てをやり直せるのならば、死すらも一時的なものだ。──明確にそこまで言語化は出来ていないにしても、少年は、およそそのように確信していた。伝承がそもそも誤りである可能性や、誤りでないにせよ、未だ分かっていない条件が存在する可能性に思い至らないままに。
かつてないほどの数の生者の気配を感じたものだろう。幽鬼らが、死へ赴く人々の隊列に連なり、取り囲んでいる。新鮮な獲物の群れを前にした肉食動物さながらに。
彼らに向け、少年は首を振った。
「駄目だ、彼らにはその命を捧げてもらわねばならない」
いつしか、記憶は底根の奥底──あの、忌まわしい惨劇の、その現場へと至っていた。冷たい光を放つ鍾乳石に囲まれた石の広間。その奥には、黒い鉄格子が存在している。
「殺し合え」
石の広間を見下ろす鍾乳石の上に立ち、エイシュウは短く命令を下していた。人を操り殺し合わせのも、虫たちに魔力を注ぎ、凶暴性を高めて互いを食ませ合うのも、魔力の使い方に大差はない。
あとは、定められた惨劇が繰り広げられるばかりだ。
無数の幽鬼が見守る中、生者たちは互いに互いの命を奪い、また自らの命を奪われるために、静かな死闘を繰り広げる。誰も彼もが秘術のもたらす歓喜の中、笑いながら他人の首を絞め、手にした石で頭蓋を割り、眼窩に指を突き入れ、死者の数を増やしてゆく。
小さな世界の神にも等しい少年は、そのさまを悠然と見守っていた。自らがいま死に追いやっている者たちを救いうると信じ切った子供は、彼らの死を当然のものとして受け入れていた。
数多の死を前にして悲しみに暮れているかのように見えるのは、むしろ、生者ならぬものたちだ。自らの腹の足しにはならずに魂が失われてゆくのが悔しいものか。鍾乳洞の光の届かぬ暗がりに集った吸魂鬼たちは、嘆き、悲しんでいるかのように大仰な身振りで身を捩っているのだ。
そんな幽鬼の群れが、不意に一つの方向へと顔を向け、蠢き始めた。生者が現れたときの反応だ。追手がついに洞窟に至ったものか。──いや。近づいてくる靴音は小さく、数も少ない。それに、よく聞けば、か細い声が地下空間に反響しているのが聞こえる。
「──ライト。ライト、どこに居るの! 返事をして!」
女の声。津波倉エイコの声だ。エイシュウは、ふと、彼女に言われたことを思い出す。息子を迎えに来る、と。津波倉ライトの母は、そう言っていたはずなのだ。いまごろ、村は炎に包まれているはずだ。立ち上る火の手を見て、一度は降りかけた山を再び登ってきたものか。
エイシュウは、凄惨な殺し合いを繰り広げる人々へ目を走らせた。未だ、津波倉ライトは生き残っている。彼の下した殺戮の命令は、大雑把なものだ。誰が誰を殺すかなどは各人の自由意志によるところが大きい。そのため比較的殺すにあたって罪悪感の大きい子供は、後回しになりがちであるようだ。
「駄目だ、その人はここまで連れてこい」
少年は幽鬼たちに向け、命令した。同時に、津波倉ライトを殺戮の中から引き出して、背後の鉄格子の中へと隔離する。
それは、気まぐれのようなものであった、とエイシュウは記憶している。津波倉エイコを無事に通し、贄の儀式のなかから彼女の息子だけを連れ出して、再会させる。どのみち今起きていることなどは全てなかったことになると信じている以上、ただそれは、ほんの少し「良い格好」をしてみたかっただけに過ぎない。
その後に起きることが、子供の気まぐれを示すいい証拠だ。彼は親子を再会させて、吸魂鬼の入り込めない牢獄へと一旦隔離さえした。だが。
遠く。靴音が響いていた。一人二人のものではない。ついに外のものが底根を発見し、その中へと踏み込んだのだ。エイシュウが命じるまでもなく、幽鬼たちは新たな人間の気配に引かれ、その迎撃に向かっていく。踏み込んだのは闇祓いだ。闇祓いを相手に吸魂鬼など大した脅威にはなりえないが、少なくとも足止めにはなったろう。
幽鬼の群れが消え、神にも等しいはずの少年の前には、ただ、折り重なった死体だけがあった。贄は正しく捧げられた。ただそれだけだ。何も、起きはしない。死体から木が生えるとか、あるいは村のどこかに木が生えるとか、そんな異変が起きた気配は、何一つなかった。
死者たちは誰も彼も、至福の表情を浮かべている。楽園へと生まれ変わることが約束されているかのように。
だが、彼らはただ、死んでいるだけだった。
服従呪文と同様、虫の秘術は術者にもある種の陶酔がもたらされる。村人たちを支配し、殺し合わせていたその間、エイシュウは確かに支配の喜びに全身を浸していた。けれど、操るべき人間が居なくなったいま、エイシュウは、全身から急速に陶酔と、それに伴う根拠のない自信が抜け落ち、それに伴ってはじめから持っていた確信すらも揺らいでいくのを感じていた。
靴音が響いている。確実に、こちらへと近づきながら。
背後で音がして、エイシュウは、はっと振り返った。
檻の中には、二人の生き残りが居た。そうだ。まだ、全て終わってはいないのだ。自分に向けて話しかける女の言葉を無視し、エイシュウは檻の中に向けて語りかける。
「あとは、あなたたちだけだ。やはりあなたたちも、死ななければならないらしい」
そうして、幾ばくかのやり取りを経て女が叫びだし、エイシュウは魔力を使い、母子に殺し合うよう命令を下す。
記憶が、終着へとたどり着きつつある。
やがて女は自らの息子の手で死を迎え、母の手でつけられた傷から血を流しながら、少年は檻の外に立つエイシュウのもとへと歩み寄ってくる。それ以外に、なにも、異変が起きた様子はない。秘術による殺し合いは、最後の一人を残すだけだと言うのに。
「御前様。あとは僕だけです。どうしたらいいですか」
今しがた母を絞め殺したことなど感じさせないほどに穏やかな表情で、津波倉ライトはエイシュウに尋ねた。エイシュウは、殺し合え、とは命じたが、自殺しろ、とは命じていない。最後の一人まで殺し尽くすためには新たに自殺を命じるか、あるいはエイシュウがみずから手を下す必要があるのだ。
「あの、出来たら僕、御前様に殺していただきたいです。出来たら、でいいですけど」
穏やかな笑顔で、少年は彼の信じる神に願いを伝える。わかった、と、答えるべき場面だとわかってはいた。けれど、エイシュウの喉は渇いたように張り付き、印を結んだ手からは、魔力が思うようには出てくれない。少しでもためらいがあれば、禁呪級の術は成立しない。
いまや、エイシュウには、目の前の少年を殺したところで「全てがやりなおせる」などとは思えなくなっていた。なにかが間違っていたのだ。あるいは、全てが間違っていた。間違って、自分は、天人を意味もなく殺し合わせ、両親すらも殺してしまった。ようやくその事実に気づいて、エイシュウは後悔などという言葉では言い表しようのない感情に襲われ、手足が震え、地面がおおきくたわんでいるかのような感覚にすら陥っていた。
靴音が、近づいている。
「ああ、やっぱり駄目ですよね。でも、僕、自分で死ぬ方法なんて全然知らなくて──あっ、それでいいかな、先に気づいてればよかったな」
途方も無い間違いを犯したという現実を前に、立ち尽くし、がたがたと震えるエイシュウをよそに、ライトは檻の外に手を伸ばし、なにかを手にとった。一体誰が持ち込んだものか、包丁がそこには落ちていたのだ。料理でも仕込んでいる途中に家を出て、ここまで来たものがいたものだろうか。いや、そんな理由はどうでもいい。
重要なのは、ライトがその包丁を手に取り、迷いなく自らの喉に突き刺した、ということだった。
「────」
エイシュウは叫んでいた。死ぬ必要などもはや存在しないのに、最後の一人までもが死んでいく。彼の、間違った思い込みに従おうとして。
「いやだ、駄目だ、死ぬな」
鉄格子の向こうに手を差し伸べて、崩折れようとするライトの体を支えながら、エイシュウは祈るように言った。包丁が岩の上に転がって、金属音を立てる。抑えるもののなくなった傷口からはごぷりと血が溢れ、エイシュウの服を赤く染めてゆく。
「わたしが間違えていたんだ、きみが死んでも何もならない、死ぬな」
エイシュウは、必死で知っている秘術を思い出し、ライトに掛ける。家伝の秘術は、ほとんどが?化術に類するものばかりで、傷を直すためのものはごくわずかにすぎない。血を止める程度の事はできても、失った血まで補いうる現代
血を失った津波倉ライトの顔は真っ青で、息も止まったままだった。それでもエイシュウは、一縷の望みをかけて、記憶の片隅にある言葉を口にする。
「──虫の数は五十三揃い、虫の数と申せども、御所に
それは、母イオリが神や祖霊を降ろす時に使う祭文だ。それも途中からで、順番は前後しており、完全なものですら無い。
「これ鳥の数は四百四方、鳥の数と申せども、来祖の鳥と定まりて、大の鳥小の鳥、セロ鳥、アワ鳥、ヒワ、こんがら、明けの烏まで招じ入れもうす」
いまこの時にその祭文を口にして、成しうることがあるとは到底おもえない、が、その身から離れつつある霊魂をとどめうるものであれば、とばかりにエイシュウはその祭文を唱えているのだ。
「神の数は八百万、桑の木の下にこそ十六ぜんの御神馬神とて、
無論、祭文をどれほど唱えても血を失いきった少年に息が戻ることはない。故にエイシュウは、祭文の言葉を途中で取りやめ、もはや祈りですらもない、心からの願いを叫んでいた。
靴音は、すぐ後ろにまで迫っている。
洞窟に、閃光がほとばしった。
光の中、しゅうしゅうという音に混じり、誰かの声がする。
「そう、あのときは間違ってしまった。因果が全て逆さまだったんだ。だけれど、もう大丈夫」
それは、子供の声のようで、大人の声のようで、どこかで聞いたような声でもあった。
「わたしはわたしの目を借りて、魔法の世界を見てきた。それで分かったよ。
白い光に満ちた空間で、エイシュウは振り返る。
そして彼は見た。
「だから、もう大丈夫。共に行こう」
なにか白いものをまとわりつかせたままエイシュウに向けて手を差し伸べる、白い衣をまとった彼自身の姿を。
その手を、彼は、────
────────
──────
────
† † †
「あのとき、敷島が一体何をやったのか。結局、わからないまま終わりそうだな」
とは、大臣執務室の奥で倉田テンゴウが煙草の煙とともに吐き出した言葉だった。
大臣執務室と言っても、先日まで陰陽寮であったはずの場所でのことだ。その部屋も、陰陽頭の執務室だった場所を魔法で改装して倉田の好みにあう調度に変えたものだった。
「マカト村で生き残ったマグルの少年に、敷島エイシュウが何をしたのか、ですか。記録では、敷島夫妻が集団自殺を図る中、彼が土着の呪術を使い一人の少年だけは救おうとした──となっていたはずですが?」
革張りのソファに座ったまま、周防ウコンが答える。闇祓いたちの動きが逐一反映される立体地図に視線を落としたままでのことだ。地図は、マカト村をそのまま縮小したかのように精緻なものだ。
「いや。あの村での惨劇そのものに、敷島がどう関わったか、ということだ。それに、あの報告書は作文だよ。あの時の状況を最大限、生き残った子供たちに好意的に解釈して想像した、作り話だ」
「初耳ですね。つまり、最悪の事態、全部を子供の頃の彼がやった可能性もあった、と?」
「正直言うと、俺はそう思っていたし、いまもそう思っている。ただ、何一つ証拠がなかった」
倉田は自らのこめかみに杖先を当て、銀色の靄を引き出した。靄は空中でシャボン玉に包まれ、シャボン玉の表面には、桜の舞い散る魔法学校の中庭が映し出される。白いローブを着込んだ少年と若い闇祓いが話し合う、幽玄の世界を感じさせる情景だ。
「──あいつに
村の縮小地図に目を落としていた周防が、失笑を漏らした。何気ないことのように、無断で他人に、それも自らが捜査に携わった事件関係者の未成年に開心術を掛けるという違法行為に手を染めたことが告白されたからだ。
「言っとくが、ちゃんと記憶は消したぞ」
「法律違反の二重重ねですね。まあ、二十年前ならどちらも時効でしょうが。……それにしても、なにもない、とはまた。自ら記憶を改竄していたとか、ショックを受けて記憶が消えていたというわけでもなく?」
執務机の向こうで、薄い報告書を眺めたまま倉田が首を左右に振った。
「僅かに残った断片を除き、あの洞窟から記憶が始まっていた。洞窟で出会ったときの状態とも合致する」
洞窟の奥底で、百近い死体と、鉄格子を挟んで抱き合うふたりの少年を発見したとき。マグルの少年のほうはかろうじて息があるかどうか、といった状態で、マカト村における支配者一族の子弟であった少年に至っては言葉すらもろくにしゃべれない、赤子に戻ったかのような状態になっていたのだ。
そこからわずか半年ほどで敷島エイシュウが再び言葉を習得し、ものの食べ方や排泄の仕方を覚えて、魔法の力にも目覚め、魔法学校に入学できるほどに回復したことを、
「そこまで疑っているならば、彼が闇祓いになるとき、反対なさればよかったのでは? 面接、担当したんでしょう」
「俺が志望動機を作った上、校長の推薦を引っさげて、全科目優を持ってきたやつに反対もなにもないだろう。……いまは、反対しておくべきだったと思っているがな」
空中で、桜吹雪の光景を映し出すシャボン玉が弾けた。銀の靄が周囲に散り、遠い日の記憶も千々に飛んでいく。
周防は、はっと顔を上げた。消えてゆく靄を眺める彼の上官が、いつになく苦しげな表情をしていることに気づいたのだ。倉田は長年に渡り敷島エイシュウを疑いつづけてはいたが、同時に闇祓いとしての彼を育て、長年同じ班で
「何ならば、今からでも闇祓いへの命令の撤回は──」
命令の撤回を進言しかけた周防に向けて、倉田がきつい視線を投げかけた。
「いや。その必要はない」
書類が机の上に放り投げられる。その書式は、魔法省のものではない。
「あのテロリストの正体がマカトのもうひとりの生き残りだとなれば、あいつが事件に深く関わっているとしか考えようがない。こればかりは、状況証拠が出揃いすぎている」
警視庁に踏み込むだけ踏み込んでおいて、目の前でドーマと名乗るテロリストを逃した闇祓いだが、全く収穫のないままに終わったというわけではなかった。ドーマの身元調査の結果をどさくさに紛れて複製してきたものがいたのだ。書類は、恐らくドーマがかつてマカト村でのカルト教団による集団自殺の生き残りであろう、と結論づけている。
「マグルの身で、ドーマがあれほどの知識を得られていた理由は、やはり敷島エイシュウから情報が漏れていたためだったと」
「情報漏洩の、方法まではわからないがな。意識的なものか無意識的なものかすら──いや、おそらくは無意識的なものだろうとは思うよ。あいつは、性格はともかくあり方そのものは従順で、その上闇祓いであることに執着していた」
魔法の力を持つものは、物理学からかけ離れた超常的な力を使い、ときに人の心を変容させることすら可能であるために、それ故の脆弱性も有している。トム・リドル事件に際し、学生時代のハリー・ポッターが誤った情報を含む夢を見せられ、行動を誘導されるに至った件は有名だろう。
「だからこそ、あれは危険だ。この局面で、当人の意思に関わらず発動する種類の呪術がその身にかかっていて、どのように変容しうるかもわからない人間など、捕縛することすらリスクが高すぎる。命令は、殺害のままでいい」
周防が瞑目し、うなずいた。立体地図の上には、黒い点が無数に浮かんでいる。マカト村へ姿をあらわした闇祓いたちを示す記号だ。
「では、私も指揮に向かいます。失礼」
昨日闇祓い部の長になったばかりの男が立ち上がると、その身には瞬時にプロテクターが装着され、大鴉のごとき姿が出現する。すでに元陰陽寮は全域で姿くらましが封じられているため、周防が地上へと向かうべく扉に手をかけたときのことだった。
執務室の扉が叩かれたかと思うと、瞬時に戸が勢いよく開いていた。周防が胸部に軽い衝撃を感じたのは、入室を試みた誰かがプロテクターに激突して、そのまま倒れ込んだためだ。
「百地さん。どうなさったんです」
執務室へと入ろうとしていたのは、百地ミヨシ魔法事故惨事部長だった。目の下にくまを作り、土気色になった顔はとうてい健康なもののそれとは見えず、今にも意識を失っておかしくないように見受けられる。だが、その瞳だけはらんらんと光り、何か異様な気迫に満ちていた。
「見つけた。糸口を見つけたんだよ、倉田くん。やはり、ずっと感じていた疑問は間違いじゃなかったんだ、戦乱の時代を経ておいて、大航海時代を経ておいて、魔女狩りの近世すらも乗り越えて、なぜ全世界的に僕らが隠れた存在でありつづけていられたのか、ずっと不思議に思っていたんだ。もちろんそれぞれの時代、うまくやった魔法使いの英雄たちの話はある、だけれどそれはあまりにもできすぎじゃあないかと──」
百地は、助け起こされた礼もそこそこに、執務机へと駆けより身を乗り出して一挙に離しだした。だが、その言葉は自身にだけ意味の通る種類のものであり、要領を得ない。
「百地、落ち着いて話せ。何の糸口を見つけたんだ」
百地のために倉田が魔法で椅子を出し、ついでにコーヒーカップも虚空から出現させた。カップが人の手に渡れば、その中にインスタントコーヒーがひとりでに注がれ始める。百地ミヨシは椅子に座って一旦息をつき、一口コーヒーを飲むと、再度口を開いた。
「歴史を書き換え、世界から魔法を隠蔽し続けてきた魔法へと至る糸口を。魔法の存在が衆目のもとに置かれるたびに時をさかのぼり、全てをなかったことにしてきた力の在り処を見つけたんだ」
執務机を挟んだ向こうで、倉田が目を瞬かせた。話を聞いておいたほうがいいと判断したものか、扉の前に立ったままの周防もまた、怪訝そうに首を傾げる。言っている言葉の意味はわかるが、その話の規模が大きすぎ、今ひとつピンときていないのだ。まして、魔法省墜落からこちら、魔法の隠蔽がもはや不可能であるとわかってからというもの、魔法事故惨事部長が気の触れたようになにか、あるかどうかもわからない可能性を探し続けているということはすでに周知のところとなっている。
「気が狂ったわけじゃあないぞ。証拠があってのことだ」
話を聞く者たちが、自身の正気を疑っている事に気づいたのだろう。百地は手に握っていた古い書物を空中に浮かせ、広げてみせた。古いと言っても、和綴じの書物を開けば縦書き用の罫線が引かれ、決まった書式で筆書きの文字が並んでいる。明治以降、帝国憲法下に発足した魔法省の公文書、と言ったところか。
「この部分だ」
百地部長の杖先が触れると、その部分の文字が拡大され、空中に投影される。明治初期の文で、それも筆書きとあり、そのままでは判読はなかなかに困難だが、その内容は次のような次第だった。
「扶桑樹の件。知悉するものは全てObliviateの上、禁足地に放逐のこと。なんのことだ、これだけではわからんぞ」
空中の文字を読み上げて、倉田が眉間にシワを寄せる。扶桑樹といえば、古代中国の神話や伝説に現れる神木のことだ。その枝に十の太陽、あるいは太陽の象徴たる烏を乗せていたが、太陽が一度に空に上がったために干魃が起こり、
「こちらは、かつて起きたことに言及する形だからね。魔法省は何分、日本では新参者だ。ということで、魔法省発足以前に僕たちを統括していた機関──陰陽寮の記録の出番だ」
と、再び百地の杖が振られた。途端、その懐から一巻の巻物が飛び出し、空中に長い紙が解けてゆく。
先ほどと同じように空中へと投影された該当部は、魔法省の記録よりもやや長めで、それもくずし字で書かれているためほとんど読みくだせはしない。
「いやあ、厄介だったよ、これ。なにしろ陰陽寮の最重要資料扱いでね、巻物に触るだけで呪いがかかるレベルで──いや、まあそれはいいや。重要なのはこの内容だ」
曰く、そこに書かれているのは、安政元年に扶桑樹が現れ、十陽が蘇った際の記録であるという。
十陽が扶桑樹の枝へと帰るや、
「いや、分からん。言葉遣いは占い学じみているし、再び黒船が現れる、というのはどういうことだ。それではまるで、一度は黒船を完全に沈めたかのようじゃないか」
倉田が、怪訝そうに歴史と記録の齟齬を指摘した。浦賀、黒船と来れば、嘉永六年、1853年にペリー率いる四隻の米国艦船が江戸湾沖へと来航した、いわゆる黒船来航のことにほかなるまい。たしかに嘉永七年/安政元年には一度浦賀を去った黒船が再度江戸湾に来航してはいるが、記録ではまるで、完全に追い払ったはずの黒船が再び現れた、それも追い払ったものが現れたという程度のことではなく、沈めたものが復活でもしたかのような言い草だ。
これ以上は時間の無駄と判断したものだろう。周防が踵を返し、執務室の戸に手をかけた。
「──だから、歴史がやり直されている、と言っているんだ。烏兎というのは金烏と玉兎、つまりは太陽と月のことで、比喩的に時間のことだ」
が、その足が再び止まったのは、他でもない、金鳥と玉兎、という言葉が耳に入ったためだった。金鳥も玉兎も、どちらもドーマが口にした言葉だ。
にわかに真剣味を帯びた空気の中、百地部長は何かに憑かれたかのように自らの考えを述べ続ける。
「それがさかしまに走り、射落とされたはずの十の太陽が枝に戻ると言っているんだ、つまりは時間遡行のことに決まっているだろう。分からないか、大規模なタイムターナーだ、歴史改変だよ、この記録は陰陽師による記録だから御上──時の天皇への影響を基軸に書いているが、要はこれは、黒船を打ち払い、攘夷を果たした歴史が存在したが、結局それがなかったことになった、ということだろう」
そこで百地は言葉を区切り、手の中のコーヒーを一口飲み込んだ。周防と倉田の二人は夢物語を聞くような態度とは打って変わり、ごく真剣に、続く言葉を待っている。
「元々、おかしいと思っていたんだ。魔法族が完全にマグルから隠れるというのは大規模な迫害を経験した魔法族の発想で、すべての地域では必ずしもそうではなかったはずだ。僕ら忍びの一族だってそうだ、一応隠れているが、その力で外貨を得て、時に権力者のもとで動く職能集団として、けしてマグルから完全に隠れることはなく存在していた。なのになぜ、世界には堂々と魔法を使う文明が存在しない? ピサロやコルテスら
大仰な身振りを交えて長い推論を話すうちにすっかり喉が渇いたのだろう。結論に達したところで、百地はマグカップに口をつけ、一気に傾けた。が、その表情は不思議そうなものへと変化する。マグカップを持ったまま立ち上がり、身振り手振りを加えて離したために、その中身はすっかり辺りに飛び散ってしまっていたのだ。
「百地部長。禁足地の、場所は」
すっかり一仕事を終えた様子の百地に対し、周防が尋ねた。飛び散ったコーヒーの飛沫を空中へと留めていたものを一箇所に集め、マグカップに返しながらのことだ。
「ああ、場所。場所はたしかこっちに……旧会津領のどこかで……あった、でも、なんて読むんだこれは」
マグカップの中に戻ってきたコーヒーを、冷めていることにも構わず飲み干しつつ、百地が魔法省の古い記録をめくり、該当部を探し当てた。杖先を当てると例によって、該当部の文字列が空中に浮かび上がり、拡大される。
「マクワト? 東北ならマクワヘか? たぶん読みは
見つけはしたものの、その読みがわからずに首をひねる百地の後ろで、扉が勢いよく開き、編み上げ靴の靴音が慌ただしく遠ざかっていく。周防が扉を蹴破りかねない勢いで執務室から駆け出て行ったのだ。その後に黒い羽が舞い散っているのは、倉田が大鴉に変化して同じく廊下に飛び出ていったためだ。
「何なんだ、あいつら」
空中に浮かぶ文字を見ながら、百地ミヨシは首をひねった。
そこには、「真桑戸」という文字が、魔法の燐光を放ちながらふわふわと浮いていた。
† † †
洞窟に、どこかからかすかに、甲高い鐘の音が響き渡っている。
鍾乳石の合間には無数の幽鬼が漂い、暗い洞窟の中にいる生者たちを取り囲んでいる。それが、人の幸福な感情を吸い取り、魂を餌とする種類の幽鬼であることを穂村カツミは知っていた。魔法使いは吸魂鬼と呼ぶ種類の、人の成れの果ての一種だ。
だが、いま彼らは、生者たちにとって大した驚異となっていない。吸魂鬼たちは、どういうわけかその場にいる生者から一定の距離を保ったまま光る鍾乳石の落とす影の中にとどまり、頭を垂れているのだ。まるで、なにかに傅いているかのように。
当面の問題はむしろ、鐘の音と、たったいま目を開いた敷島エイシュウだった。
「敷島さん、大丈夫ですか。気を失ってる間すごくうなされてて、自分に向けて即死呪文を使おうとまでして」
秋津・ミズホ・ローレンスがエイシュウに話しかけながらその手を戒める呪文を解除している。祭文が述べ終えられるとともに気絶したエイシュウは、気絶したままたびたび自分自身に向けて
戒めを解かれたエイシュウはあたりを見回し、やがて黒い鉄格子の向こうに転がる死体に目を留めたようだった。ミズホの声が耳に入っているのかどうか、エイシュウは無言で手を振り、鉄格子の中からその体を引き寄せた。ドーマと名乗るテロリストが、自殺を図ったものだろう。その喉元には深々と穿たれた刃傷があり、目の前に居たエイシュウの体も自身の体も、真っ赤な鮮血に染め上げている。
「あの、敷島さん、さっきから多分村のほうで鐘が鳴ってて、なにかを知らせてると思うんですが、何なのかってわかりますか?」
一向に返事が帰ってこないことに不安を覚えたのだろう、ミズホがエイシュウの肩に触れようと手を伸ばした。
だが、その手は空中で止まることとなる。
「えっ、あっ……何、えっ?」
困惑の声をミズホが上げたのも無理はあるまい。エイシュウは、引き寄せたドーマの口に自らの口を重ね、有り体に言えば、口付けをしたのである。状況が状況だけに、それはロマンチックな物よりも、幽鬼が魂を吸う際の動作、吸魂鬼の口付けを思わせるものがあった。
凍りついたような空気の中、ぱちん、と何かの弾けるような音が響き渡った。姿あらわし特有の破裂音だ。エイシュウの背後に、赤い衣に兎耳の童子が現れ、おどけたようにその場で飛び跳ねてみせた。
「やあ、ご機嫌麗しゅう。よーうやくお会いできましたね、御前様」
玉兎の声に、ようやくエイシュウは振り返った。ドーマの口から血がうつり、その顔は生肉でも貪ったかのように血に塗れ、なにか人ならぬ獣と対面しているような気にさえなる。
「村に、烏どもがうじゃうじゃ集まって来てますよぉ。たぶん御前様を追いかけてきたんだと思いますけど、どーします?」
エイシュウは、丁寧にドーマの体を岩の上に横たえると、口を開いた。
「扶桑はもうそこに有る、その上に暁の名を持つ烏が集まるとなれば、今度こそ時が来たということだ。こちらから打って出る」
その声も体も、確かに敷島エイシュウのものだった。けれど、話す内容も口調も、その表情も、何もかもがエイシュウとは異なっている。
あたりの空気が、一挙に氷点下まで下がったかのように感じられた。影の中に控えていた吸魂鬼たちが、エイシュウが手で行った合図に従い、その周囲に集まったのだ。一見するに、人を襲う際の行動とも似通った動作だ。穂村もミズホも、無言で式神を打ち、守護霊を出す。
「ふたりとも、大丈夫だ」
そこに至り、ようやくエイシュウは、彼を追ってきた二人の存在を思い出したように、にこりと笑ってみせた。けれど、その笑顔すらも、元来の敷島エイシュウとは大きく異なっている。
「彼らは、底根へと還したマカトの村人たちだ。死後も敷島の血を引くものに逆らうことはない」
底根、と、小さく穂村は洞窟の名を繰り返した。暗い闇の中でもなければ、その顔が恐怖に染まるのが目に見えて分かったろう。底根の国。根の国底の国、とも。日本神話に現れる異界、あるいは死者の国だ。黄泉比良坂を抜けた先にあるとされ、ときに黄泉の国と重ね合わせられるその場所は、神道においては、祓い清めた罪や穢れの押し流される場所ともされている。神道と陰陽道に通じる穂村にしてみれば、その名を冠した場所というだけで忌まわしさを感じて余りあるに違いない。
エイシュウの言葉に違うことなく、吸魂鬼たちは村の支配者一族の末裔に傅き、その指示を待っている。
「底根へと還した村人、って、吸魂鬼になるのは吸魂鬼に魂を吸われた人間だけですよね? あの、それってつまり……」
異変に気づきながらも、ミズホはエイシュウに詰め寄り、疑問を口にする。けれど、その問いは最後まで口にされることはなかった。
「秋津・ミズホ・ローレンス」
と、その名を呼びながら、エイシュウがミズホの体を掻き抱いていたからだ。
「敷島エイシュウは、お前の生まれや育ち、性格や思考、お前を構成するほとんどすべての要素を嫌悪していたが、ただ一つ、白い衣の娘へかけた言葉のために、それ以上の敬意を抱いていたよ」
目をまんまるに見開き、吸魂鬼のもたらす冷気に耐えながら、ミズホはその言葉を聞いていた。まるで、自分が敷島エイシュウではないかのような、その言葉を。
ミズホが、どうしようもない暴力に打ちのめされたかのようによろめいた。エイシュウがミズホを突き放し、暗闇の中を指差したのだ。
「底根より出る道を、光で示す。おまえたちはその光をたどって地上を目指せ」
洞窟の暗がりに、鍾乳石の石灯籠が一挙に灯り、ゆくべき道を示す。
「待ってください! お前たちは、って、敷島さんはどうするんです」
答えはなかった。その代わりに、ミズホの手には小さな瓶があらわれ、その中にエイシュウのこめかみから引き出された銀の靄が収まっていく。魔法界で広く知られる、記憶の媒体だ。
「見たければ、見ると良い。楽しいものではないがな」
ミズホが記憶の入った小瓶に気を取られた隙に、エイシュウは暗がりへと歩を進めた。光から顔を背け、死体を抱えた兎耳の童子と幽鬼の群れを従えてゆくエイシュウを追うべく、ミズホは振り向こうとする。だが、彼女の肩を強く掴み、押し留めたものがいた。穂村だ。
穂村はミズホの両肩に手をかけ、光の示す道へとその体を無理矢理に向けつづけた。
「何なんです穂村さん、おかしいですよ、敷島さんがあんなこと──」
「振り向くな。絶対に、振り向くべきじゃあない。その瓶の中身も、見るべきじゃない」
穂村が声を発するに至り、ミズホは抵抗の力を弱めた。穂村の声が恐怖に揺れるのを聞き取るとともに、自身の肩を掴む手もまた、小刻みに震えていることに気がついたのだ。
「底根の国、根の国底の国とは、黄泉の国と同種の死の国だ。秋津さん、あんたにならオルフェウスの下った冥府と同じと言ったほうが伝わるか」
ふたりの背後では破裂音が鳴り響き、続いて強烈な冷気が辺りを吹き抜ける。敷島エイシュウか玉兎が姿をくらまし、吸魂鬼たちが移動を始めたのだろう。けれど、穂村はけして振り向こうとはせず、ミズホの両肩を掴み続ける。
「そこでは振り向くべきではないし、見るべきでないものを見てもいけない。言われたことに従い、光の導く方向へと進むべきだ。神の領域で、人のできることなど限られている」
穂村は、自身の手が掴まれるのを感じた。ミズホが穂村の手を掴み、もう片方の手で杖を握っている。周囲に燐光が散ったところを見るに、どうやら姿くらましを試みたようだ。けれど、穂村が移動呪文に巻き込まれることはない。移動呪文が封印されているのだ。──つい先程、背後では姿くらましが使われたはずだというのに。
あはははは、と子供の笑う声があたりに響いたようだった。
「……あの、兎耳の子供。あれは、人間と同等の知性を持つ魔法生物との混血です。魔法生物の魔力は、往々にして人間より遥かに強い。移動呪文の封印下でも姿をあらわした
ミズホは、それでも起きた出来事を理性的に説明し、自身の知る知識、西洋魔術の理論体系の限りで説明しようとする。神話の世界の出来事などではないことを証明しようとしているのだ。
「敷島さんは、あれは──あの祭文が、どのような種類のものかはわかりませんが、何らかの精神に作用する魔法だったのだと思います。だから、たぶん服従呪文にかかったような状態で──」
「いいや、違う」
断固たる口調で、穂村は断言した。
「あれは、降ろした神に帰っていただくための祈りだった。それも、
分御霊、あるいは、分霊。神道において、すでに本社が存在する祭神を別の場所で祀るため、御神体に宿る祭神の神霊を分けて、別の御神体に宿した神霊を指す言葉だ。分けると言っても、元となる祭神の神霊をいくつにも切り分けるわけではなく、あくまで元の祭神と同じ権能、同じ力を持つ神霊を別のものに移す、デジタルデータのコピーに近いイメージをしてもらえればわかりやすいかもしれない。
「多分だが、神をやっていたころの敷島エイシュウ……というか御神馬御前の御霊を分けたものを、死んだテロリストがどういうわけかずっと持ってたんだろう。さっきの祭文は、それをあるべき場所に帰すためのものだったんだ」
「生きた人間の魂を分ける。それって、西洋式の魔法だとものすごく危ない呪文です。しかも、それだって魂に切れ目を入れて分ける、って形になりますし。日本では、そんなに簡単にできるものなんですか」
なおも食い下がろうとするミズホに向けて、穂村は首を振った。
「まさか。言ったろう、御神体に宿った神霊を分ける、と。神霊ってのは基本的には天照大神だとか大国主神なんかの神話由来の神々のことだ。うちだって蛇神の社だが生きた蛇が祭神ってわけじゃない。分けることのできる御霊は、あくまで神になったものだけだよ」
「でも、それじゃあ敷島さんはどうして」
穂村は、言い聞かせるようにゆっくりと言葉を発した。
「だから、ここは神の領域だと……その領域を統べるあれは神だと言っている。人が神の振る舞いを真似ることなど出来ないが、神が人のように振る舞った例はいくらでもある。そして、万に一つ、人の身でそんな芸当をやってのけたのならば、それはもう神と言ってもいい」
† † †
赤い夕日を背に、無数の影が谷の上空を飛び交っている。
影は、本物の烏もあれば、烏に似た姿の異形──闇祓いたちのものでもある。英語では
見つかればその場で消し飛ばされて然るべき状況だと言うのに、猿曳は、木陰に身を潜めているとはいえ、それ以上の偽装工作を行うこともなく夕映えを背に黒点と化した明け烏たちの姿を眺めていた。黄昏へと向かう空の下、空を旋回し、いまにも獲物に襲いかかろうとするかのような闇祓いの群れを。
「猿曳どの」
背後で、猿曳の名が呼ばれた。振り向いた先には、白い毛並みに覆われた美しい狐が枯れ葉を散らし、駆けつけたところだった。
「鳥頭に囲まれとるお人は、たしかに敷島エイシュウや。ただ……一緒におるのは穂村はんでも、もうひとりの闇祓いの嬢ちゃんでもあらへん。兎みたいな
「その姿、あのテロリストの侍童だわ。一緒に、平安装束を着たロン毛の男は居なかった?」
魔法省墜落事件からのわずか一日あまりの間に、事態は凄まじい速度で変転している。テロリストと逃亡中の闇祓いが共闘することも、同じ敵を相手取るという点でありえるかもしれないと猿曳は考えたのだった。
「居た、言うたら居った。でも、死んどった。あの、小高い丘の上に立っとる桑の木ぃ。あれの、上の方を見てみぃ」
猿曳は、遠目の術を使い桑の木の先端部を見た。なにか、桑の木に大きな実のようなものが生っている。いや。よく見れば、それは果実ではなく、何かが白い布で包まれているもののようだ。おそらくは、人の背丈ほどの何かを──
「死体を、布で包んでいる……?」
そう、それこそがドーマの死体であり、いったいどのような呪術のためか、桑の木の先端に布でぐるぐる巻きにされ、括り付けられているのだ。
そこではじめて、猿曳はその構図に気がついた。空中に展開した闇祓いたちは、およそその繭のごとき死体を中心に布陣している。
それもそのはず、死体のやや下方には、赤い衣がなびいている。赤い衣はそれだけで宙に浮いているわけではない。血に濡れたローブを纏ったまま空中に立っているのは、他でもない敷島エイシュウだった。その後方、桑の木の枝には、たしかにちょこんと座ったギョクトの姿もある。魔法学校で一度顔を合わせたときの印象では傲慢で鼻持ちならない、日本における魔法使いらしさを凝縮したような男だったが、周囲をいまや敵となった同朋たちに囲まれてもなお超然とした態度を取り続けていることには多少の尊敬を抱かないでもなかった。
だが、その態度もどれほど保ちうるものか。なにしろ、彼は見たことのないほどの数の闇祓いと、その使い魔たる烏たちに囲まれている。闇祓いであるからには敷島エイシュウも当然に平均以上の魔法の腕があるのだろうが、闇祓いは誰もかれも、それと同等の力を持つものであるはずだ。彼と兎耳の童子だけで、何十人もの闇祓いを相手どれるとは思い難い。
ざざ、と枯れ葉を踏む音が響いた。あらたに白狐が現れ、飯綱狐の横に並んだのだ。一見するに見分けはつきにくいが、猿曳には僅かな顔立ちの違いで、それが飯綱狐と同じく周辺の捜索に赴いていた狐の一匹、
「洞窟を見つけた。穂村はんと闇祓いの嬢ちゃんがおるならその中や、いま
荼吉尼狐はその場で宙返りをし、姿を変えた。現れたのは、虚無が黒い布を羽織ったかのような姿だ。
「こういう連中が、中からわんさか出てきよった。人が長いこと中に居るべき場所とちゃうで、あれは」
狐の化けた幽鬼を眺めながら、猿曳は眉間に皺を寄せた。地上に敷島エイシュウとギョクトとテロリストの死体があり、穂村と秋津・ミズホ・ローレンスが幽鬼の住む地下に居る状況、というのが一体どのような状況であるのか、にわかに判断が付き難かったためだ。先刻まではてっきり敷島エイシュウがテロリストから引き出した情報を取引材料に、のこる二人を逃がす時間でも稼ごうとしたものかと思っていたのだが。──
不意にびょう、と風が吹いた、と猿曳には思われた。それはエイシュウに向けて闇祓いたちの箒が一挙に降下を始めたために空気が動き、風を切る音が響いたためであった、と程なく知れる。急降下による呪文攻撃は、闇祓いたちの
「猿曳はん。加勢は、やめたほうがええ。連中は強い、うちらかて先に賀茂殿から騒乱の可能性を聞いとらんかったら、信太の森から逃げ切れたかどうかや。その賀茂殿とも、一昨日から連絡がつかん」
自分では動いたつもりはなかったが、自然、身を乗り出していたものらしい。枯れ木の影から大きく姿を表そうとした猿曳の服の裾を、狐の姿に戻った荼吉尼狐が咥えて引き戻そうとしている。
猿曳は、懐に入れたままの短い木の棒を、スーツの上から撫でた。魔法所を脱出するために姿を借りた女生徒、かつ杖職人である一ッ目ナギサから預かった杖だ。
「加勢なんてしても、足手まといになるだけよ。ただ、これを渡しそこねたせいで死なれた、となっちゃあ寝覚めが悪いってもんで──」
状況はわからないまでも、なんとかして杖を渡す方策について猿曳が頭を悩ませようとした、矢先のことだ。
それは、遠景の中にあってはほとんど音もなく、ただそのような自然現象が起きただけ、というようにも見受けられた。だが、それが自然現象などであるはずがない。なぜならば、桑の木がひとりでに枝を動かし、あまつさえその尖った枝先で近づいた烏を──烏に似た装束を纏った闇祓いを串刺しにする、などありえないからだ。
一列縦隊で急降下をする闇祓いたちが、制動をかけながら箒の先を上空へと向けて上昇に転じる。急な機動を受けて警邏箒はメキメキと音を立てるが、同僚が串刺しにされる所を目の当たりにした以上箒への負荷などにかまっている場合ではないだろう。
「何が起きた」
「あれは妖木の類なのか」
「いや、変化術じゃないのか」
「あの半妖の子供が木を操ってるんだ」
「わからない、ともかく木から離れろ」
「あんな物があるとは聞いていない」
「第二波、攻撃を一旦中止しろ、近づくな」
ガーガーという烏の
桑の木には、はじめに突っ込んでいった闇祓いが一人と、それを助けようとしたものも含め、四人が串刺しにされている。プロテクターには
敷島エイシュウは、その様子を特に何の感慨もない様子で眺めつつ、手にした神像から数枚の布を剥ぎ取り、頭上に投げ上げた。白い布は空中で面積を増し、早贄と化した闇祓いの体を包みこむ。巨木には、ドーマの死体に続き、三つの繭があらわれたこととなる。
「あと、五つ」
何かを数え上げるかのような言葉は、あくまでエイシュウ自身に向けた確認の言葉で、そう大きな声で言われたわけでもなかったはずだ。だというのに、その言葉は奇妙なほどに大きく、空中にいる闇祓いたちはおろか、はるか遠くからその様子を見ている猿曳の耳にも届いたほどだった。
「あと五つ、あの繭を作ろうっていうわけ? なんの呪術よあれ、あんなの聞いたこともない」
状況から判断するに、あと五つというのは布に包まれた死体をあと五つ作ろうというのだろう。だが、それがなんのためのものなのか、猿曳の知る限りの知識では何も判断がつかない。
遠目の術を多重に掛け、戦況を眺めようとした猿曳のスーツの裾が、再び引かれた。信太の狐たちがまた自分を止めようとしたものか。大丈夫だ、と答えようとした猿曳は、振り向いた先で意外なものを目にすることとなった。耳をぺたりと伏せ、体も低く地面に寄せてなにかに怯える白狐たちの姿だ。
「あの兄さん。あれは、あかん」
荼吉尼狐は、狐の唸り声に混じり、震える声で猿曳にそう伝えた。
「龍脈の霊力をそのまま使える人間なんて、見たことない。その上にあの行動──」
烏の声と羽音に、無数の破裂音が混じりこんだ。戦況に、動きがあったのだ。
エイシュウのごく近くに、四つの姿が現れていた。二つの班が敷島エイシュウの周囲に姿あらわしを試みたものだ。相手よりも多数で一挙に距離さえ詰めてしまえば、多少の犠牲を顧みなければ必ずや攻撃はあたる。そう判断したものだろう。それ以上の多数ではなかったのは、あと五人、という言葉を鑑みた上で最悪の場合でも条件を達成しない数に抑えたためか。
実際、その判断は間違っていなかった。最悪の場合でも条件を達成しないために、四人に人数を抑えるという判断は。
遠目には、それは、小さな点が崩れた、と見えた。近くにいるものにとっては、それどころではない惨劇だ。つまりは、敷島エイシュウの周囲に姿をあらわした途端、四人の闇祓いの体は
姿あらわし・姿くらましの習得者ならば知っての通り、この呪文には一つ、多大なリスクが存在している。それは、失敗すると体が「バラける」可能性がある、ということだ。「バラける」というのは移動先での体の再構築の失敗で、基本的には自分自身の身体イメージ不足によって起きる。
では、目標地点に無数の異物が存在し、それを避けることが出来なかった場合はどうなるか?
答えは、今しがた見たとおりだ。
「──糸! 糸だ、空中に異物がある、姿をくらますな、あらわすな!」
烏の声の雑音とともに、誰かの叫び声が無線の電波上を駆け巡る。その言葉に違わず、細切れにされ、重力に引かれて落ちていく人間だったものが先刻まで占有していた空間に目を凝らせば、そこにはかすかに赤く染まった無数の糸が縦横無尽に行き交っている。エイシュウの握った神像を起点に、目に見えぬほどに細い絹糸が空中を縦横無尽に走っているのだ。
「バラけ」は身体イメージと実際の身体の齟齬によって引き起こされる。ならば、姿あらわしの目標地点に、術者の認識していない異物を無数に配置しておけば、再構築時に身体が元来存在しない異物を取り込み、身体イメージとの齟齬を起こさせることも可能、ということになる。
もっとも、この種の事故は意外にもそうめったに起きるものではない。大抵の場合、そこまで厳密に座標を決めて姿をあらわすものはおらず、目標地点に多少の予期せぬ物体が存在しても無意識に異物の存在しない空間へと移動するものだからだ。闇祓いほどに呪文の行使に長じた術者がピンポイントで座標を決めて移動を行い、防御する側もそれを見越していたからこそ引き起こされ得た姿あらわしの「失敗」であった、と言えよう。
「これで、あと一人」
エイシュウが、不思議なほどに通る声で再び、何かを成すために必要な残る死体の数を数えた。赤く染まった絹糸は空中で撚り合わさり、布を成し、粉々に砕けた人体を包み込んで桑の枝に四つの繭を形作っていく。
はじめに浮かんでいた場所からほんの少しも動かないままに次々とかつての同僚たちを屠ってゆくエイシュウの姿を、猿曳は何か、悪鬼羅刹の類と向き合っているかのような気分で見やっていた。闇祓いは、恐ろしく強い。スカイツリー上空で、陰陽師側が一つの班全員で攻撃しているというのにたった一人の闇祓いに攻撃を全てあしらわれたことも、一つの建物をまるで紙細工でも解体するように跡形もなく消し去っていったことも、猿曳はよく覚えている。
では、それほどに強い闇祓いを複数同時に相手して、自らは少しも動くことなく次々に血祭りに上げていく敷島エイシュウは、一体何であるのか?
「あれは、よくない。よくないものになっとる」
飯綱狐が恐怖に震える声で述べた結論を、猿曳は否定することができなかった。
谷底の景色には、いつしか大小の烏たちと桑の木の前に浮かぶ赤い衣の二人のほかに、灰色の影たちの姿が加わっていた。幽鬼、吸魂鬼たちが大挙して村を取り囲み、そこに集う闇祓いを包囲していたのだ。まるで、エイシュウに加勢するかのように。
「──吸魂鬼を使役するとは、闇に落ちやがったな、敷島センパイ!」
と、一人の闇祓いが、自身の前方に使い魔烏を次々に引き寄せながら、真正面からエイシュウへと向かっていった。美作アキラだ。大半の闇祓いが守護霊を出し、ひとまず吸魂鬼に対処を始めた中でのことゆえ、一人突出している形となる。
「けどなあ、こっちは闇祓いだ、あんなもので足止めができると思ったか?」
美作は自身の周囲に石や岩を出現させ、旋回させる。使い魔烏を材料に、無数の石を変化術で出現させたのだ。張り巡らされていた糸は岩に絡め取られ、断ち切られ、それ自体も石へと変わりながらエイシュウを囲む物理障壁となってゆく。
「これで、終いだ」
すっかり石がエイシュウの姿を隠し切ったところで、美作は杖で空中に円を描いた。その効果は、膨大な量の石がひとかたまりとなり、さらに圧縮され、ほんの一メートル四方ほどの石の塊へと変わる、というものだった。ごく簡単な、変身術と
この場合に美作が選んだ攻撃方法も、攻撃はなるべく単純かつ簡易な呪文で、という闇祓いの基本原則に従ったものだった。それは、少し魔法の技術に長じただけの犯罪者や反社会的組織を相手にしていたならば、正しい判断であっただろう。
ただし、この場合は、そうではない。美作アキラが相手にしていたのは、根本的にそのあり方が変わっているとは言え、数日前まで闇祓いとして職務を遂行し、そのセオリーも熟知した敷島エイシュウであったのだ。
「ああ。お前がな、美作」
ぱちん、と背後で音がするとともに、美作の耳には、そんな言葉も届いていた。それが、最後に美作が聞いた言葉であり、音だった。美作くん、と誰かが叫んだ声はもはや当人の耳にはとどいてはいない。そのときにはすでに美作アキラの体は白い糸に絡め取られ、千々に切断されていたためだ。
美作に背を向けたまま、エイシュウは背中越しに神像を無造作に動かした。途端、白い糸は空中で布を織りなし、死体をくるんだ繭玉がまたひとつ作り上げられる。
美作の死体を核として作り上げられた繭玉は、誰の妨害も受けることなく桑の木の枝へと迎え入れられた。これで、桑の枝には十の繭玉が実ったことになる。エイシュウが成そうとしている何事かに必要な数が揃ったということだ。
エイシュウが、神像を掲げた。
「案ずるな、これで全ては巻き戻る、死もいま一時のことにすぎない」
ギョクトを乗せたまま、桑の木がその幹、その枝はおろか、枝の先についた九つの繭玉に至るまで、何もかもから光を放ち始めたのは、直後のことだった。いや。光を放つ、というより、その姿そのものが光の塊、エネルギー体へとまたたく間に姿を変えた、というべきか。
数条の呪文が、桑の形をした光に向けて放たれた。呪文終了、炎凍結呪文、石化呪文といった呪文のラインナップは、始まった魔法の効果を終わらせるかそれに類する効果を期待したことが伺われる。けれど、その効果が現れることはない。
「あの木、実態じゃない! 守護霊と同種のエネルギー体だ!」
誰かがその事実に気づき、声を上げたが、だからといってどう対処できるというものでもない。
木の形をした光の塊は、編み物がほどけるように、細い光の糸を空へと上げていく。それと呼応するように、地が鳴り響き、山の合間にこだまするのを、戦況を見守る陰陽師は聞き取っていた。
いや。響くのは地響きばかりではない。あたりにはいつしか何かのきしむような声、あるいは生き物が苦しむような音が満ち満ちて、猿曳と妖狐を取り囲んでいたのだ。
猿曳は、地面に呪を描いて魔力を通した。簡単な結界の呪だ。妖使いである猿曳は、当たりに満ちる苦悶が妖のものであることをすぐに理解していた。大規模な呪術のために土地の魔力が吸い上げられて、魔力を外部から取り込まねばならないような下級の妖が苦痛にあえいでいるのだ。魔力に飢えた妖は、龍脈に変わる魔力の源を求めて狂うことになる。つまり、この場合はこの場所にいる魔力を持った人や妖へと襲いかかる可能性が高い、ということだ。
案の定、木々の間には餓鬼だの鬼火だの山童が次々に現れ、結界の周囲をうろつきはじめた。結界の中に魔力の塊を見つけ、どうにかして中に入る方法を探しているのだ。
「祓わんのですか」
飯綱狐が、猿曳に問いかけた。数は多いが、集まったものはあくまで下級の妖ばかりだ。祓おうと思えば、呪符のない陰陽師でもいくらでも祓うことはできる。だが、猿曳はそうする気には到底なれなかった。
「酸素のない状態で苦しんでるようなものでしょ。ちょっと、祓おうって気にはなれないわね」
妖狐たちは、陰陽師の答えで納得したようだった。二匹の狐がぐうるる、と威嚇の声を上げて結界の周囲を睨むと、妖たちははるかに強い力を持つ敵の存在に気づいたと見え、一目散に姿を消していった。
空の上では、暮れゆく空に一つの文様が描き出されようとしている。陰陽師にとっては畑違いながら、空に描かれる文様はその知名度の高さ故に、猿曳にも見覚えがあるものだった。「セフィラ」と呼ばれる十の円を幾何学的に配置し、それぞれを決まった様式の経路でつないだ文様──カバラ秘術で言うところの生命の樹、セフィロトの樹だ。エヴァンゲリオンTVシリーズのOPに現れるあの文様だ、と言ったほうが通りは良いかもしれない。
十のセフィラは、次々に光に満ちていく。そのさまはまるきり、沈んだはずの太陽が天に戻り、のみならずその数が増えていくかのようなものだ。マルクト、イェソド、ホド、ネツァク、ティファレト、ゲブラー、ケセド、ビナー、コクマー、ケテルと、下方より十のセフィラが光を放ち、十の太陽が空へと昇りきるかと思われた、その時のことだ。
唐突に、文様が輝きを失った。一体何が起きたか、すぐに分かったのは闇祓いの無線を耳にしたものだけだったろう。
「凍結呪文を! 龍脈を凍らせなさい!」
闇祓いの持つ無線からは、そんな声が響いていた。それとともに、吸魂鬼に取り巻かれた空間には、あらたに一つの烏姿が現れていた。遅れ、マカト村に姿をあらわした周防闇祓部長だ。
「龍脈を凍結させ次第、総員、ただちに本部へ帰還せよ! 敷島エイシュウへは一切攻撃を加えるな!」
闇祓いたちは、出されていた命令と新たに下された命令の齟齬に困惑しながらも、幽鬼や玉兎との交戦をとりやめてすぐさま降下をはじめる。
龍脈の封印をはじめた部下を見守りつつ、周防は自身の周囲に盾の呪文を展開した。少なくともエイシュウとの距離は十分にあるが、念には念を入れたものと見える。
「敷島エイシュウ。その呪術は、時を巻き戻すためのものですね」
エイシュウは顔を上げ、小柄な新闇祓部長の姿をみやった。周防の声は、
「そのとおり。よく短時間で気づいたものだ。分かっているならば周防さん、先を続けさせてもらえないか。あなたがたにとっても悪い話じゃないはずだ」
「ええ、構いませんよ。呪術を我々に委ねていただけるのならば」
周防の、プロテクターに包まれた手が真っ直ぐにエイシュウを指差した。ああ、と、エイシュウは場違いに微笑する。
「なるほど、わたしの呪術を横から掠め取り、あなた方が気に入る世界へと因果を組み替えるというわけか」
眼鏡の奥で、周防の目が細められた。エイシュウの話し方はおろか、一人称すらも変わっていることに気づいたのだろう。
「どうやら、しばらく見ない内にすっかり別のものになったようですね、敷島エイシュウ。今の人格はテロリストのそれですか、それとも──」
「いいや。刃がわたしの魂を避け、彼の命だけを消し去ってくれたからな。わたしは敷島エイシュウだよ。昔、ここで御神馬御前と呼ばれていたことを思い出したいま、仲間はずれを怖がる子供であった敷島エイシュウとは異なる存在となった、というだけのことだ」
ああ、と、周防が嘆息ともつかない声を上げた。どうやら、彼にはそのやり取りで、おおよそ何が起きたかの見当がついたようだ。
いっときあたりに満ちていた破裂音は、すっかり鳴りを潜めつつある。命令に忠実な烏の群れは姿をくらまし、残るは使い魔烏の群れと幽鬼の群ればかりだ。
人ならぬ魔性の生物に囲まれて、烏の頭目と神馬の末裔とは空中で一定の距離を保ち、旋回し続けている。僅かに残っている闇祓いが闇祓部長にも退避するよう告げているが、周防は構うことはない。
「我々は、トム・リドルを仲間に引き入れていたということですね、敷島エイシュウ、あるいは、御前。お前の呪術は、お前の望む世界を作るために使われるべきではない」
と、周防の細くしなやかな杖が、素早く振られた。エイシュウも即座に神像に魔力を通して前方に
周防の掲げた光を目印に、黒いものが怒涛のごとくに舞い降りる。使い魔烏の群れだ。烏の群れは黒い羽を撒きながらエイシュウと周防を飲み込み──
「オ前ハ、呪文同士ノ読み合イハ誰ヨリ強イガ、そレ以外ノもノヘの対処が今ひとツ弱い」
無理矢理に鳥の声帯に人の言葉を喋らせたような声が、無数の羽音に混じりこんだ。
「度々言ったはずだがな、敷島。ま、その御蔭で助かったわけだが」
使い魔烏の群れがすっかり過ぎ去ったあと、空中にはもう一つ、人の姿が現れていた。黒い羽の舞い散る中に現れたのは、倉田テンゴウだ。箒にまたがった周防や闇祓いたちとは違い、倉田もエイシュウと同じく空中にその身一つで浮いている。いつ現れたものか、大鴉の
倉田はそれ以上、エイシュウに声をかけることはなかった。神像をその口に銜えて衣を剥がすと、先刻までエイシュウがやっていたようにその衣を糸に変え、エイシュウの体を包み込もうとしたのだ。
妖気をまとう刃が白い糸を断ち切り、その勢いで打ち込んだ単純な斬撃が倉田の放った紅蓮の炎に防がれる。倉田の手にあり、炎を放ったものは烏の羽を束ねた羽団扇、俗に天狗扇と呼ばれるものだ。使っている得物も杖でなければ、行使する術ももはや魔法ではない。西洋魔術同士の戦闘は高位の魔法使い同士になればなるほど、最終的に
では、そのような状況では、どのような手を使うのがふさわしいか。
身体能力や反射能力など、同じ人間同士である以上どれほど研鑽したところで大差は出ない。魔力量に至っては、生まれついてのものだ。──と、なれば、対策は一つ。教育課程で習わない種類の魔法を使えばいい。西洋で、大抵の魔法族犯罪者が闇の魔術と呼ばれる加害性の高い呪文を身につけるのと同じような理由だ。
ゆえにいま、倉田は自身のルーツである鞍馬の大天狗の、その伝える秘術を余すことなく使ってエイシュウを追い詰めている。先祖伝来の魔力行使法が戦闘に向いた性格のものである魔法族だけの特権とも言える技だ。
「──ギョクト、下がれ!」
虚空からなんの予兆もなく生み出されて降り注ぐ石の礫を避け、水の通じぬ紅蓮の炎をかろうじて逃れ、使い魔烏が?化した無数の烏天狗を直接に妖刀で叩き切りながら、エイシュウは叫んだ。玉兎は彼よりも前方で、倉田の攻撃の合間を縫って仕掛ける間隙を見出そうと躍起になっている。
「太陽の数は足りている、あとは魔力さえ確保すればいい! 一旦ここは引く!」
それは、つまりは撤退の宣言だ。
いまや、失われていた記憶や、
倉田テンゴウとこれ以上戦闘を続けることは得策ではない。彼はそう判断したのだ。
空に光っていたはずの生命の樹は、いつしかすっかり消えていた。
異形の日暮れから一転、ごく普通の夜空の下、猿曳はもはや杖を渡すという使命など忘れ、目の前で起きた出来事をどうにか理解しようと務めていた。
「ええと、つまり、桑の木が生命の樹に化けて、死体の繭玉があの光に変わってるって、そういうわけ? あー……桑の木に太陽って、あれよね、中国の昔の伝説の……」
「扶桑。山海経に現れる、太古の時代の神樹だ」
背後から人の声が聞こえ、猿曳は振り返った。
「その枝には十の太陽、あるいは十の三足烏がとまり、朝が来るごとに天に昇っていたが、干魃が起きたため一つを残して
そこに居たものは、赤く染めた長い髪を一つに結んだ女だった。言うまでもない、穂村カツミだ。
「良かったわ、穂村ちゃん、生きてたのね」
「ああ、猿曳さんこそ無事で何よりだ、少しでも生き残りは多いほうが良い」
陰陽寮の生き残りたちは、互いの無事を確認して手を取り合ったが、手放しで喜びあうには至らない。喜びの感情を抱くには、状況があまりにも逼迫しすぎている。
「もうひとり、闇祓いの女の子は?」
手配書に記載されてた最後の一人、秋津・ミズホ・ローレンスの姿が見えないことに気づき、猿曳は周囲を見回した。穂村が無言でその場を退き、背後を示す。穂村の後ろには、やや遅れてひとりでに動く駕籠が到着したところだった。駕籠は、
変化が解けるとともに、駕籠のあった場所には昏睡状態のミズホの体が現れていた。
「底根……洞窟の中で、敷島エイシュウから渡された記憶を取り込んで、今現在再生中、ということらしい」
銀の靄として記憶を引き出し、保存するのも西洋の魔法だけが有する技術だ。ミズホから言われた説明をそのまま口にした穂村も、それを聞いた猿曳も、具体的にどのような事が起きているのかのイメージは一切湧いていない。
穂村は信太の森の妖狐たちに神式の礼を述べたあと、眼下に広がる廃村を見て、わずかに動揺を見せた。
「この村、いま、戦闘でこうなったのか」
「え? いや、はじめからああだったけど? っていうか何、ここ、村なの?」
猿曳の答えを聞いた穂村は、忌まわしいものを目の当たりにしたかのように村から顔を背け、黒い空を仰いだ。
古くから魔の山とも子捨ての山とも伝えられる禁山の奥に、その地は存在していた。奥山の更に奥、獣とて寄り付かぬかと思われるような谷底を、人の業とは思えぬ方法で切り開き、開墾して作られた、小さな世界だ。
かつてそこで何十人かの人間が生活をしていたはずの小さな世界は、いま、陰陽師たちの目の前に、草が生え、水の流れるただの谷の底として存在していた。遠い昔に焼け落ちた家々はもはやその痕跡すら見出すのが困難で、人が住んでいたなどとは言われてみなければわかりはしない。一度はその谷底にあったはずの村を目にした者にしてみれば、立派な屋敷で美しい女と一晩を過ごしたと思いきや、目が覚めてみるとそこは廃墟で、ともに寝ていたのは骸骨であった──との怪談話を地で行く風景だ。穂村がその口の中で、自らの氏神の加護を祈ったのも無理はあるまい。
「あんたはどうするの、穂村ちゃん」
現状について、互いの持つ情報を交換しあったところで、猿曳は穂村に問いかけた。すでに、陰陽寮が事実上消滅していることも、賀茂ヤスナ陰陽頭の安否が現状では絶望的であることも把握している。つまり、穂村カツミが陰陽師の残存勢力の中では最上位者となっている、ということだ。
「家帰って風呂入って十二時間ぐらい寝てポケモンの新作をひたすらやりたい。……けど、まあ、そうも言ってられる状況じゃあないな」
白狐たちも穂村の足元に伏せ、その言葉を待っている。穂村はしばし瞑目した後、再び目を開いた。
「ひとまず身の安全なんかは一旦外において、政治的な状況だけ見ても、魔法省に与しない異能者の代表が存在せず、魔法省が俺たちの総意を喋っているかのように見られる状況はとてつもなくまずい。異能者集団や人に親和的な
穂村が今後の展望を口にしつつ、その達成のために立ちふさがる障壁にも言及したところで、暗い山中に、ぱっと炎が散った。妖狐の作る狐火の類だ。
冷たい炎が枯れ木の合間に広まった、と思った次の瞬間、辺りには何十何百という狐の姿が現れていた。いや、狐だけではない、中には狸や山猫、鼬といった獣の姿もある。どれも、知性を持ち、ときに人に化けることのできるものばかりだ。
狐のなかから、一匹のひときわ大きな狐が歩み出るとともに、残る狐や、他の種の獣たちも頭を下げた。輝く金の毛並みに覆われ、九つに分かれた尾を持つ狐は明らかに他の狐よりも強い妖力を持ち、高い位にあるようだ。
「稲荷大明神の使いたる我ら信太の森の狐、
童子丸の名が出たところで、陰陽師たちは他の獣たち同様、その場に膝を付き、頭を下げた。童子丸とは、最も高名な陰陽師たる安倍晴明の幼名だ。安倍晴明を彩る数多くの伝承、伝説の中の一つとして、その母が信太の森の葛の葉という名の狐であった、というものがある。
つまり、安倍晴明を子と呼ぶ以上、目の前にいる九尾の狐こそが、伝説に現れる葛の葉狐であるのだ。
「すでに知恵持つ獣らに使いを送り、狸は松山の隠神刑部配下八百八狸、佐渡の団三郎郎党、屋島の太三郎一門、猫は佐賀の龍造寺一党、鼬は諏訪の入道坊主らが協力を申し出てくれております。もしご必要ならば、わたくしの知るかぎりの人の子らとの縁もとりもちましょう、何分、
葛の葉狐の紹介に合わせ、あちこちから遠吠えが山中に響く。
「ご心配なく、辺りにはすでに隠形の霞が」
あまりの
「恐れ入ります、何から何まで。この御恩は必ずや形を持ってお返しさせていただきます」
一千年以上を生き続ける伝説上の妖狐、否、おそらくはその力や年齢から察するに天狐と呼ばれるほどの霊力を身につけているであろう存在に対し、穂村は深々と頭を下げた。知性を持つ人ならぬ存在との関係性は、何をするにしても最上の礼を尽くすところから始めねばとてつもない禍根を残すことを、陰陽師たちはよく知悉している。
「いいえ。──そも、これはあの無礼者共への報復、恨み返しでもあるのですよ」
葛の葉狐の答える声はあくまで優しく、慈悲深い語調は崩さぬままである。あくまで声ばかりは優しいが、無礼者共、との言葉が出たところで、辺りに青い火が散るのを穂村は見た。魔力を持ち、感情を有する以上、その感情に合わせて魔力が迸るのも人と同じだ。──あるいは、人の中で魔力を有するものが、妖と同じ特性を持つ、と言うべきであるのかもしれない。
「あの烏ども。烏の装束を纏った無礼な人間どもは、我らの住まう森に立ち入り、従わぬならば駆除する、などと戯けたことを抜かし、森を焼き払いおった! あまつさえ、信太にて別れし我が愛子の、その係累たる賀茂の娘を石に変え、手足を砕き落としたなど! 赦せるものか、三千世界の烏を一羽残らず焼き落とし、噛み殺してなお恨みは果てるものではない、末代まで祟り、根絶やしにしてくれようぞ!」
青い狐火が九つの尾から幾度となく放たれ、周辺の木々を焼き、枯れ葉を焦がす。獣も人も葛の葉狐の怒りを前に、ただただ平伏し、その怒りのおさまるところを待つほかない。
係累と言ったが、賀茂氏は別段、葛の葉狐の末裔──すなわち土御門の直系の子孫というわけではない。ただ、歴史上多少なりとも交流があり、血縁がはるか昔に存在する、という程度の関係だ。その程度の関係でも身内と判断し、害をなされたならば自らの係累として烈火の如くに怒り、敵手をその一族郎党に至るまで呪い祟る。妖たちに度々見られる、祟られた側には時として降って湧いた理不尽としか思い難い行動様式だ。
陰陽師たちは、長い歴史の上でそのような妖との付き合いで何をすべきか、何をすべきでないかを知っている。あるいは、西洋の魔法使いもまた、各々の地域に棲まう人ならぬものたちといかに付き合うべきか、経験的に理解しているだろう。だが、遥か洋上の孤島に十二年間詰め込まれ、外来の学問を修めた日本の魔法使いたちは、どうやらそうではなかったらしい。
「──失礼、歳を取るとどうにも、感情が抑え難くなるものです。ですので、白蛇の
九尾の狐は、ひとしきり周囲の木々を焼き、下草を灰へと変えきったところで落ち着いたと見え、穂村の前に進み出た。あくまで丁重に助力を願い出る言葉を喋ってはいるが、外観としては穂村が葛の葉狐に跪いて頭を下げている形であり、力の関係も事実上は見た目のとおりだ。
「ご厚意、痛み入ります」
ざあ、と風が走ったように思われた。焼け残った枯れ葉の上から、獣たちが再び四方八方へと散っていく音だ。葛の葉狐の求めに従い、めいめいに更なる勢力と話をつけに向かったのだ。
「では、よしなに」
千年以上の齢を経た妖狐は、自身も最後にそう述べると、狐火とともに姿を消していった。
霞はいつしか何処かへと流れ、獣たちが姿を消すとともに暗い山中にはくたびれ果てた人間たちだけが取り残されることとなる。
「……ああ、そうだ、秋津さん。あんたは──」
昏睡したミズホを放置していたことを思い出し、穂村は振り返った。
穂村の知る限り、新卒の闇祓いというのは学校を出て半年の訓練を経て着任した、未成年者であるはずだ。年下とはいえ闇祓いになるだけの力を持った魔法使い相手にどのようなことをしてやれるとも言い難いが、この状況下で放り出していいとも思えなかった。造反した闇祓いという非常に危うい立場でもある以上、敷島エイシュウの言ったとおり、日本を出て英国魔法省に保護を求めるのが最も適切な身の振り方である、とも思う。
けれど、振り向いた先にはあったのは、風に吹かれて音を立てる枯れ葉ばかりだった。