日本の闇祓いの話【完結済】   作:No37304

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日本の闇祓いが壊滅する話

「どうぞ、ハリー。入って頂戴」

 

 執務室の中から、入室の許可が飛んだ。途端、来訪者がノブに触れるまでもなく、重いマホガニー製のドアは開かれる。場所は、ロンドン某所の地下。ある一定の手続きを経たものだけがたどり着ける、英国魔法省の大臣執務室にほかならない。

 

 ドアの向こうに広がるのは、書類と書籍の嵐とも言うべき光景だった。六角形の部屋の壁のうち、五つの壁を占拠する本棚に収められた各種の資料が、中央の空間に置かれた執務机の上に飛んできては任意のページの任意の文章をワードプロセッサ上で作成中の文書へと適切な引用元の表示とともにコピーして、元の居場所へと戻っているのだ。

 

 ハニカム構造の広大な執務室が部屋の主の知識量に合わせていくらでも上下左右に拡大可能な〝有限なバベルの図書館”とも言うべきものであり、その中を飛び交う資料たちは主の脳髄に走る電気信号に連動して動いていることを、ハリー・ポッター闇祓局長はよく知悉していた。なにしろ、部屋の主が編み出した複雑な魔法を実行する際には、呪文の行使に優れる彼が半分以上を手伝ったのだから。

 

「例の国際魔法使い連盟の件か? どうせ拒否権を発動して終わりだろう、あんなもの国際魔法協力部に任せればいいのに、ハーマイオニー」

 

「違うわ、ハリー。それはもうパーシーに返答だけ預けてあとは任せてる。これは非魔法族へ向けた声明の叩き台」

 

 ハーマイオニー・グレンジャー・ウィーズリー魔法大臣は、キーボードを叩く指を止めることなく返答した。なるほど、新旧約聖書からフランス革命期の公教育論からミシュレの『魔女』、ハイネの『流刑の神々』その他諸々、マグルの古典作品があちらこちらを飛び交っていると思ったら、すでに話は決まっているというわけか。

 

 トレードマークとも言うべき丸眼鏡の奥で、ハリーは緑色の目を僅かに細めた。

 

「やはり僕たちも、地下から出るしかないか」

 

「そうしなければ、傷は広がるだけだもの。私達はまだ幸運よ、きちんと事態を説明することができるのだもの」

 

 手は止めないままに、ハーマイオニーはちらりとドアの横、唯一本棚に覆われていない壁に設置された液晶テレビに視線をやった。BBCテレビのニュースでは、ちょうど昨年末から持ち切りの国際ニュース──日本における、魔法省墜落事件に端を発する一連の騒乱が取り沙汰されているところだった。

 

 日本での魔法暴露事件は、その日の内に全世界における魔法の暴露を引き起こした。世界中で巻き起こったあらゆる種類の混乱を思えば、ハーマイオニーが言ったとおり、少なくとも英国魔法界は幸運だったと言えるだろう。英国、ひいては欧州の魔法族は歴史上かなり早い段階でマグル社会から身を隠し、各国の魔法族統括組織も政府から完全に独立していた。故に、東方よりもたらされた知らせによって魔法族・マグルともに混乱は起きていても、少なくとも大規模な騒乱には至っていない。

 

 これが、他の地域になると話はやや変わってくる。アメリカ合衆国大統領が以前にTwitterに投稿していた「WITCH HUNT!」というツイートが再拡散した上に曲解され、当局による魔法使いの弾圧が始まるものとのパニックが魔法族・マグル双方に広がった例は、まだ混乱の程度としては可愛いものだ。ウガンダでは魔法を使った、呪いをかけたとの流言でマグルによる魔法族、あるいはマグル同士の殺人事件すらも複数発生し、暴動へ至っている。同様の例は同国だけではなくアフリカ大陸や、あるいは魔法族の情報封鎖が完全ではないあらゆる国や地域で発生しており、日々魔法族、マグルを問わずメディアを飾ることとなっていた。

 

「国魔連の提案もあれで、馬鹿げているようだけれどそれなりの切実さはあったと思うわよ。この状況ではね」

 

 マグルのテレビ放送から流れる魔法関連ニュースを聞きながら、ハーマイオニーが呟いた。国際魔法使い連盟でなされた提案とは、〈プロジェクト・アセンション〉という大規模な魔法族の再隠蔽工作だった。「混乱を鎮めるために魔法族全員が地球を離れ、新天地たる居住可能な惑星へと向かう」というカバーストーリーを流布し、相応の天体現象を起こした上で魔法族はまた以前通り社会の影に隠れる。オカルティックな名前の作戦を簡単に説明すれば、そのような内容だった。国魔連職員によって練り上げられた、気宇壮大な計画だ。しかし、前情報によれば決議は常任理事国全てが拒否権を発動して終わりそうだった。つまりは、英国魔法省もまた拒否権を発動するということだ。

 

「今後も生まれてくるマグル生まれの魔法族をどうするかほんの少しも考えてなかったものな、あの計画」

 

「一応、『必要があれば子供を迎えに来る』ってカバーストーリー部分に書いてたわよ。だとしても、嘘を積み重ね続けてついに何もかもが破綻した状態でもう一度大規模な嘘を上塗りするなんて、下策に過ぎるけれど」

 

 本のページが開いては閉じる紙の喧騒の中、ハーマイオニーの指がひときわ強くエンターキーを叩く音が響いた。それを号令として、縦横無尽に飛び交っていた本は全て、壁の本棚へと戻ってゆく。どうやら声明の草稿に一段落がついたらしい。

 

「それで魔法大臣閣下、呼び出しの要件は」

 

 ハリーがこの部屋に入ってから初めて、ハーマイオニー・G・ウィーズリー魔法大臣はパソコンのモニターから顔を上げた。目の下には深い隈が刻まれ、顔色も酷いものだ。全世界的な魔法の暴露以来、どこの国の魔法族統括組織の長も同じような顔になっているだろう。

 

「全ての火元……つまりは日本で起きている騒乱、あるいは内戦への介入について」

 

 予想していたものと少しも違わない返答に、ハリー・ポッター闇祓局長はしばし目を瞑った。日本での混乱は、いったいあの冷たく停滞しきった国のどこにそれだけの火種があったのかと言うほどに燃え上がり、どのように収集が付くのかも想像できないほどになっている。二つの魔法族組織が魔法族の統括権を巡って人目もはばからず争いあっている上に、いったいどういった次第か、本来は人の生存圏に現れることなど無いはずの魔法生物まで凶暴化して人を襲うに至っているのだ。

 

 すでに、日本から武力を含む支援要請がなされている旨も個人的なルートで耳に入ってはいた。魔法大臣から闇祓局長へ直々に、となれば、それは日本への闇祓派遣の打診に他ならないだろう。

 

「あの烏頭の……日本魔法省の側に肩入れをしろというのか」

 

 ハリーは、気乗りしないことを暗に示すような言い回しを使い、返答に代えた。

 

 日本魔法省といっても、その組織はいまや在りし日とは変質している。空に浮かせていた庁舎がまるごと落下するという悲劇を乗り越えた組織は、ほぼ無傷だった闇祓部と魔法事故惨事部を中核とし、土着の魔法族集団を多数雇い入れて再編されている──との説明では、あまりにも表面的に過ぎるだろう。

 

 現在の日本魔法省を一言で言うならば、日本魔法族の自治権を武力で獲得しようとする過激派武装組織だ。少なくとも、日々伝えられる日本の状況を見る限り、そう表現するほかにはなかった。ハリーは、烏を思わせる独特の装備を身につけた日本の闇祓いたちを映したある映像を見たときの、血の気の引く感覚を未だに覚えている。ニュースで流れた映像で、彼らは、魔法族の保護という名目で自らに敵対的な魔法族や魔法族()()()()()()()()ものたちを石に変え、意識的に砕いていたのだ。石化を解けば破片が直ちに肉片に変わることは魔法使いはもちろん、マグルでさえも少し想像をめぐらせれば解ることだ。まるで意図して反感を引き出そうとしているかのような蛮行を成す集団と手を取り合うことが出来るとは、ハリーには到底思えなかった。

 

 さりとて、それならば日本魔法省に敵対している勢力に加勢してやればいいのか、といえば、話はそう簡単でもない。

 

 ハーマイオニーは眉根を潜め、首を左右に振った。

 

「いいえ、決して英国魔法省は、日本魔法省を正当な日本の魔法族統括組織と認めるものではない。ただ、日本魔法族評議会は日本国政府の、非魔法族政府の意向のもとで動いて自らの首を絞めてもいる。現状ではどちらへの肩入れもするべきではないわ」

 

 そう、日本魔法省と敵対的な魔法族もまた、一つの組織を作って魔法族統括組織としての地位を主張している。〈日本魔法族評議会〉というのが、彼らの組織の名だ。かつて米国占領下で統括組織名として提案されたものがその名の由来となっているというが、それは今はどうでもいいことだ。

 

 現状における〈評議会〉の問題はただ一つ、彼らが明らかに日本国政府の下部組織かのように振る舞い、魔法族を自ら窮地に追いやっているという点だった。

 

 ハリーは壁の液晶テレビへと視線をやった。

 

 丁度、ニュースでは〈日本魔法族評議会〉の会議場が資料映像として流れている。〈評議会〉が各国メディアに対して送った宣伝映像だ。魔法で作り上げられたと思しき古代ローマ風の議場には、様々な種族が集まっている。日本人は半分ほどで、残りは日本に住む様々な知性ある魔法生物たちの代表者が列席する議場は、その絵面だけ見ればまるで、ある時代に考えられた世界平和を象徴的にあらわしたものであるかのようですらある。

 

 けれど、それはあくまで見た目だけの話だ。

 

 資料映像に続いて、液晶画面には怪我人を瓦礫の中から救出する迷彩服の一団が映し出された。映像にかぶさって流れる音声では、〈評議会〉の活動に自衛隊が同行すること、しかしこれは治安出動には当たらず、未知の力や未知の害獣によって起きうる「災害」から市民を守るための「災害派遣」であると日本政府が説明したことなどが述べられている。英国人、それも魔法界の住人であるハリーやハーマイオニーには今ひとつ理解しがたいが、日本では自衛隊が治安維持のために出動することがタブーとされているゆえの措置だろう、とニュースでは説明を行っていた。

 

「要は、魔法族への監視だな」

 

 日本政府と〈評議会〉がかぶせたオブラートを、いとも簡単にハリーは破りさってみせた。活動に際して軍事組織が同行するというのは、どう考えても協力関係とは言い難い。マグルの軍隊による監視を受け入れたということは、〈評議会〉はそれを跳ね返しうる立場にはないことも容易に想像がつく。資料映像に映る多種多様な種族で構成される議会も、なんの決定権も持たないということだ。

 

 ニュースは、そもそもの混迷の原因である〈評議会〉が軍隊を伴って活動することへの市民の反応が気になるところだ、という問題提起で終わった。

 

 つまるところ、現状を端的に表現すれば、

 

「日本魔法省に付けば非魔法族との対立とみなされ、かといって〈評議会〉と意見を同じくして、非魔法族の意向に完全に従うことも、魔法族にしてみれば受け入れがたい。日本魔法族はさぞかし困難な選択を迫られているでしょうね」

 

 と、ハーマイオニーが述べた通りの状況だった。

 

「もちろん、そこに行く他国の魔法使いにとっても非常に困難な状態よ。米国魔法議会(MACUSA)は、在日米魔法族に渡航禁止命令を出すことを検討しているとさえ言うわ。その上で、ポッター闇祓局長。わが大英帝国の闇祓いには、日本にいる英国籍魔法族護衛のため、極東へ向かってもらう必要がある」

 

 机上に一枚の命令書が音もなく舞い降りた。執務机に軽く腰を掛けてニュースを見やっていた闇祓局長は魔法大臣に向き直り、居住まいを正す。英国籍魔法族の護衛とは言うが、そんなものは米国魔法議会と同様渡航禁止命令を出せば話は済む。ハーマイオニーは、なにか別の理由で現地に闇祓いを送り込む必要があると考えているのだ。

 

 羊皮紙は無言の呼び寄せ呪文(アクシオ)に引かれてハリーの手元で静止した。ハリーの手の中には、魔法の燐光を放つインクをたっぷり吸った羽ペンもどこからか出現している。

 

「闇祓いは杖で、握っているのはきみの手だ。命令を受ければ、然るべき方向へといかなる呪文でも放ってみせよう」

 

 

 闇祓局長の署名が羊皮紙に記されるのを見て、魔法大臣は、静かにうなずいた。

 

 ハリーが述べたのは、闇祓いという職業について英国魔法界に古くから伝わる格言を少しばかりアレンジしたものだ。すなわち、闇祓いは杖で、使うのは魔法大臣だ、と。その原則に則り、ハーマイオニーがどのような根拠に基づきいかなる決断を下したものであれ、ハリーはそれに従う、と言っているのだ。

 

「すでに、交渉役としてクリービーを先遣しているわ。準備は、派遣されるものが家族に事情を説明しなければならないこともあるでしょう、必要な日数取ってもらって構わない」

 

「クリービー、デニス・クリービーか、非魔法製品管理局の。下手な外交畑の出よりよほど適役だ」

 

 ハリーはハーマイオニーの判断を歓迎しつつ、まだ立ち去ることはなく、その場にとどまっていた。

 

「それで、きみはなぜ僕らを極東まで行かせる気になったんだ?」

 

 杖がある程度意思のようなものを持つのと同様、闇祓いも職務上許される範囲の意思は持つ。命令の裏の意図を、ハリーは問いただした。そこに、質問以上のいかなる意図もない。ハーマイオニーの成すところ、一見その時は不自然に見えても必ず正当な理由がある。そう信じるに足るだけの信頼が、旧友たちの間には存在している。

 

 実際、ハーマイオニーはややためらいながらも、真剣な表情で口を開いた。

 

「少し迂遠な話になるけれど、聞いてくれるかしら。……というのもね、元々、ずっと思っていたのよ。魔法族の歴史には、おかしなところがあるって」

 

 † † †

 

 日本の政変は雪の日に起きる、とは誰が言ったものか。

 

 元号が変わって初めて訪れた冬は、雪のない冬だった。もしも本当に日本の冬が政情を反映すると言うならば、毎日のように吹雪が襲ってきていてもおかしくないというのにだ。

 

 春のように穏やかな陽光の下、背後から聞こえる悲鳴を聞きながら、穂村カツミは眼前に迫る魑魅魍魎の群れに向けて呪符を放った。もとより避難者たちの集合場所である小学校には魔除けの結界を張ってはいるが、見るからにおどろおどろしい妖怪の群れが迫っているとなれば悲鳴の一つ二つが上がるのも仕方のないことではあるだろう。

 

 幸いにして、というべきか、否か。集まった妖怪たちはごく低級の、自ら魔力を補給することもできないものばかりだ。それゆえに魔力を持つ人間、すなわち魔法族のもとに集まってきているわけだが──

 

「何してるんだ、はやくどうにかしろよ、迷惑なんだよ」

 

 近隣の民家から、そんなヤジが飛んだ。

 

 集まっているのはごく低級の物の怪、本来ならば殺処分の必要すらない無害な妖ばかりだ。だが、およそ一般的な人間にはそんな知識も存在はしない。唐突に目の前に奇怪な化け物が群をなして現れたならばだれもが恐れ、駆除を願うものだろう。

 

 穂村は右腕を伸ばし、空中に並べた焔の呪符に魔力を通す。結界の向こうで呪符が正しく発動すれば、魔力に飢えた低級妖怪たちは炎に取り巻かれ、断末魔とともに灰へと変わってゆく。

 

「これで、しばらくは大丈夫だ」

 

 妖の殺処分を終えた穂村は、脇に控える自衛官たちに短く告げた。彼らが「害獣駆除」の名目で携行している小銃をなるべく使いたくないと考えていることは理解している。事実、雑多な妖怪たちが陰陽師によって一挙に消し炭に変わっていくのを見た迷彩服の一団は、あからさまにホッとした様子を見せたものだった。

 

 とはいえ、外部からの魔力補給源を絶たれた妖たちは一様に飢えている状態だ。いつまでも魔法族の集団をとどめおけばまた同じことの繰り返しになるはずだ。

 

 穂村は振り返り、

 

「春日井、避難者に手順の説明を」

 

 と、部下に指示を出した。部下と言っても、春日井はつい先日までは陰陽寮の学生だった「学徒出陣組」だ。陰陽寮が壊滅してからこちら、急遽予定を繰り上げて登用された急造陰陽師は百名ほどに登るが、何しろ急造であるだけに実力が伴っているとは言い難い。春日井も多分に漏れず穂村の後ろで呪符を握りしめるばかりだったが、すぐに指示を実行し始めたあたり、現状においては居るだけマシな部類の人材と言えるだろう。

 

 小学校の校庭に集まっているのは、老若男女、合わせて五十人ほどの人々だ。一枚のピンク色の布を身につけている、あるいは手にしている他に、集まった人々には共通項は見受けられない。それもそのはずだ、魔力の有無を外見で判別することなどは不可能なのだから。

 

「今から使うのはポートキーというものです。簡単に言えば、場所を移動するための魔法の道具です。みなさんには、今からこれを使って避難所まで移動していただくことになります。重要なのは──」

 

 マグルの中で生活をし、その殆どが魔法族の自覚すら持たない人々に向けて、学生上がりの陰陽師はポートキーの説明を叫んでいる。春日井は拡声器を通して話していると言うのに、その声は時折風にかすれ、遠く、校庭のフェンス越しに投げかけられる声に覆い隠される。妖が発生したことで魔法族がここに集められていると知ったのだろう。近隣の人々が校庭の外から罵声を浴びせ始めているのだ。曰く、ピンクは早く出て行け、ここに集まられちゃ迷惑だ、他所でやれ、お前らが居るとバケモノが出るんだよ、税金泥棒云々。

 

 投げかけられる言葉はどれも独創性のないもので、自衛隊員は元々、陰陽師もこの一月ほどですっかり慣れきったものだ。けれど、集まった避難民にとってはそうではない。早い所この場を離れてしまったほうが良いのは明白だ。明白だが──

 

「楠木隊、合流に遅れがあるが問題ないか」

 

 穂村と同様の焦燥を感じたものだろう。罵倒の嵐に背を向けたまま、穂村の隣に立つ「災害派遣部隊」の隊長が無線に向けて呼びかけた。しかし、無線からは応答がない。

 

「遅れてるのは、毛見の方の避難者を迎えに行った隊だな」

 

 土の上に地図を広げ、穂村は未だ帰ってこない部隊の向かった地区へと視線を落とした。地図の該当地区には二件の赤丸がついている。「有害鳥獣」からの避難を希望する者がそこに居住していることを示す印だ。

 

「妖怪が出たか?」

 

「いや、それくらいならば陰陽師で対処できるはずだ」

 

 隊長の問いに、穂村は首を左右に振った。妖からの避難希望者を移送する陸自部隊には、「学徒出陣組」ではない陰陽師を一人は必ずつけている。魔法使いが相手ならばともかく、自覚のない魔法族を襲いにかからねばならないような妖ならばまず苦戦することはないはずだ。

 

「この場所、奇門遁甲の陣の周縁部に近い。もし烏共が気づいたら、初めに会敵する可能性が高い」

 

 と、穂村が地図の市境と重なる青い線を指差した、その時のことだった。

 

 があがあという烏の声と嵐の音にも似た羽音が前方より飛来し、辺りを包み込んだ。使い魔烏の群れだ。糞と鳥の羽が校庭に降り注ぎ、その場に集った人々を混乱に陥れる。

 

 穂村は、黒い鳥の合間、遠い空に数条の閃光と白い蛇が踊るのを見た。式神だ。

 

「春日井、ポートキーを使え! 脱出しろ!」

 

 学生あがりの陰陽師に向けて叫びながら、穂村は駆け出していた。上空に向けて放たれる白い蛇は、事前に取り決めていた符丁の一つ──合流不能、脱出せよを示すものに他ならない。穂村は地面に向けて二連の呪符を投げ、その上を踏んだ。飛翔の呪符だ。呪符は穂村の体を持ち上げ、上空へと押し上げる。

 

 いくら暖かな冬と言えど、上空数十メートルの空気は肌を切るように冷たい。けれど、穂村はそれを物ともせず、風をびょうびょうと切りながら空中を跳躍し、家々の上を飛び跳ねて、烏頭の闇祓いの飛ぶ空へと駆けていく。

 

 その、駆けていく先ではいま、何が起きているか。

 

 魔法や陰陽道その他、魔力によって起こされる現象には、マグルが知覚できないものがある。例えば呪文の閃光や魔法によって作られた防壁といった純粋に魔力によって作られたものは、マグルたちには全く感知しえないものだ。

 

 故に、住宅街の真ん中で、迷彩服の一団は自らの体を縛る捕縛呪文(インカーセラス)を認識することすら出来ないまま、目の前に闇祓いが降り立ち、近づいてくるのを待つほかなかったのだった。

 

 楠木正典(マサノリ)一尉とその部下たちの前には、一人の闇祓いが立っている。防護面を外した顔は、意外にも女のものだ。愛嬌のある顔には笑顔が浮かんでおり、不気味な鳥の面との落差も相まって親しみさえ感じさせる様子だ。その足元に、陰陽師であった肉片が飛び散っていなければ、の話だが。

 

「ごめんね、待たせちゃったね」

 

 闇祓い、日向ナツキはことさらに親しげな口調で話しかけた。けれど、その話しかける先は目の前にいる陸自隊員たちではない(・・・・)

 

「なるべく〈評議会〉の動きにはすぐ対応するようにしてるんだけど、なにしろ全国一斉に起きてることだからさ、どうしても後手後手になっちゃって。でも、そっちから連絡してくれて助かったよ」

 

 呪文は伴わないまま、闇祓いの握る杖が振られた。マグルたちには知覚できない力によって民家の前に停まった輸送車の幌が捲れ上がれば、五名ほどの民間人が顕になる。彼らのうち、数名の腕には小学校に集まった人々と同じくピンク色の布が見て取れた。

 

 外と内を隔てるカーキ色の布が取り除かれた途端、簡素な木の座席に座った民間人のうち、スマートフォンを握ったセーラー服姿の女の子が弾かれたように輸送車の荷台から飛び下りた。着地の際にバランスを崩して転びかけたが、緩衝呪文(モリアーレ)呼び寄せ呪文(アクシオ)が使われたものだろう、その体はやんわりと受け止められつつ、闇祓いのところにまで引き寄せられていった。

 

「あなたが連絡をくれた平手マキさんだね、よく連絡先を見つけられたね」

 

「はい、あの、あたし、前から変わった検索サイトがあるって気づいてて、東京タワーが潰れてから、そのサイトで検索したら全然、ニュースで言ってることと違う話が出てくるようになって、〈評議会〉に従ってたら魔法族っていうんですか、その人達がひどい目に合うってみんなツイッターみたいなところで話してて、そうしたらあの案内と布が届いて、あたしも魔法族に該当するって分かって、放っておこうと思ったのにお化けみたいなのがいっぱい家に出るようになっちゃって、それでお父さんとお母さんが役所に連絡したら自衛隊が家に来て怖くなって、それで」

 

「それで連絡をくれたってわけか。うん、避難所にまで連れてかれてたらこっちも対応が難しくなってたからね、いい判断だよ」

 

 「隠れ魔法族」であった少女が矢継ぎ早に話すのを、闇祓いは優しげな声色で聞き、その背を撫でてなだめている。平手マキが言う検索サイトというのが魔力を持つものだけがアクセス可能な「GoogOWLe」という検索サイトで、ツイッターのようなSNSも同じく魔法族専用のSNS「Tuwhitter」であることは、魔法学校出身者であれば話を聞くだけで容易に理解できることだ。少女は偶然にGoogOWLeにアクセスして、魔法使いのコミュニティで話される情報を得る事になったのだろう。

 

「この子をお願い」

 

 日向は少女がある程度落ち着いたところで、誰も居ない背後にむけてそう声をかけた。途端、ブロック塀に挟まれた住宅地の道路の上には、黒衣の集団が現れていた。黒ずくめで、現代的なプロテクターを身に着けた集団は、一見するに通常の特殊部隊とも、日本の闇祓いとも取れる。だが、めいめいが短い刀を背負い、腰に何本かの小型の刃物──苦無(クナイ)と呼ばれる手裏剣の一種をつけたその姿は、明らかに一般的な特殊部隊とも異なるものであれば、闇祓いともまた違う存在であることが分かる。透破、落破、草、夜走──あるいは忍者。いま、闇祓いのもとに参上したものたちこそ、様々な名で呼ばれてきた諜報と謀略を生業とする魔法族の職能集団の末裔にほかならない。

 

 平手マキは、忍びの末裔の一人に手を引かれ、黒衣の集団の影へと姿を消していった。その背に向けて、駄目だ、と乾いた声が飛ぶのも聞く耳など持たない様子だ。

 

 声を上げたのは、自衛隊の輸送車に残った民間人の男性だった。同年輩の女性の体を支えて荷台を折降り、マキの名を呼んでその後を追おうとするも、あっさりとその体は呪文によって縛り上げられる。

 

「えーと、あなた方がマキさんのご両親かな。ああ、ふたりともマグルか。じゃ、こうしちゃおう」

 

 闇祓いの杖が振られた。かすかな燐光が降りかかると、平手夫妻は急にそれまで行っていた動作を取りやめ、がくりと全身から力を失ったようだった。けれど、それも僅かな間のことだ。二人はぼんやりとした表情に変わり、何かに操られたような足取りで娘と同じく忍びのものたちの保護下に入っていく。服従呪文(インペリオ)によって自由意志が奪われたのは明白だった。

 

「さて、あとはそっちの人たちだ」

 

 続いて、日向は荷台に残る二人の魔法族に向き直った。魔法族、と明言できるのは、二人の手にピンク色の布が握られているためだ。

 

 二枚の布が、魔力に引かれて闇祓いの手元へと飛んでいった。空中で布は一瞬黒色へと変化した後、日向の手の中でさらに色を変えてゆく。魔法所のローブに使われるのと同種の魔法が掛けられた布だ。もっとも、色の階調は制服の布地ほどに細かくはなく、魔力を感知しなければ黒、魔力を感知すればピンク色、そしてある種の魔法を使ったことがあれば白、という三色が存在するだけのようだが。

 

「ふたりとも、そこに残ってるってことは〈評議会〉の……っていうか日本政府の用意した避難所に行くつもりなんだよね? やめといたほうがいいよ。普通に考えてさあ、家に突然布が届いて、色が変わったら軍隊がお迎えに上がります──ってやばいやつじゃん」

 

 手の中で白へと変化していく布をひらひらと振りながら、日向はわざとらしく肩をすくめてみせた。誰も、闇祓いに異論を唱えるものはない。先刻、いとも簡単に一人の人間を石に変えて砕き去った所を目の当たりにしている以上、誰も異論など挟みはしないだろう。

 

「あくまでも魔法生物からの自主避難って名目ではあるみたいだけどさ。避難せず家に残ってたら魔法生物が寄ってくるから丸わかりで、さっさと出ていけって言われるんだから実質強制連行みたいな……」

 

 余裕たっぷりに続けられようとした言葉が、途中で途切れた。日向の頭上に影が落ち、直後、膨大な量の呪符と護符が降り注いだのだ。

 

 呪符の一枚二枚程度ならば、無論、闇祓いの装備に傷一つつけることも出来はしない。だが、降り注いだ呪符はそれこそ日向の体を包み込むほどの数がある。さらに呪符の周囲を護符で囲むことにより、プロテクターにかかった盾の呪文(プロテゴ)が弾いた呪文すらも数倍の魔力を乗せて打ち返し続ける「魔力の檻」が作り上げられているとなれば、いかに闇祓いといえど用意には脱出できるものではない。──そんな穂村の目論見は、少なくとも彼女が輸送車の荷台に着地した瞬間には完全に当たっていた。

 

「すぐに車を出せ!」

 

 ようやく体の自由を取り戻した自衛官たちの姿を確認すると、穂村は叫んだ。ブロック塀に挟まれた道路には、洪水のように紙片が溢れかえっている。紙くずの洪水に半ば埋もれかけながらも、迷彩服の一団は荷台に飛び乗り、運転席に転がり込む。すでにエンジンはかかっている。方向さえ変えれば、すぐにでも走り出せる状態だ。

 

「結界の外に出さえすれば隠形が使える、国道へ向かってくれ!」

 

 幸い、呪符と護符の作る牢獄は凄まじい勢いで削り取られてはいるが、輸送車が走り出すまでは十分に保つだろうと思われた。

 

 となれば、当面の問題はただ一つ。いままさに、左右に並ぶ民家の屋根やブロック塀の上を走り、苦無を投げかけようとしている忍びたちだ。

 

 穂村は四方から飛び来る黒い刃を、指に挟んだまま起動させた護符で弾き返した。一般的な使い方とは到底呼べない荒業だが、闇祓いを無力化するために護符と呪符をほとんど使い切っているいま、広い面積をカバーするために全てを一挙に展開してしまえばあとが続かなくなる。一言で言えば、苦肉の策だった。

 

 だが、相手は忍びだ。魔力の行使そのものについては闇祓いに劣るとはいえ、魔力を織り交ぜた様々な攻撃については、陰陽師よりよほどバリエーションに富んでいる。

 

 輸送車が一挙に加速するとともに、穂村は脇腹に熱い物が触れるのを感じた。少なくとも、その時はそう感じた。無数の苦無が飛来するのを弾き返し、呪符で敵の足を止めながらのことゆえ、自らの身体に何が起きたかなど確認していられる状態ではなかったのだ。

 

 続き、苦無を弾いて返すたびに同様の熱が足を焼き、腕を焼きはじめたところで、

 

「下がれ、あんたに倒れられたら脱出が不可能になる!」

 

 耳元でそんな声がするとともに、穂村は肩を掴まれ、背後に引き倒された。楠木一尉が穂村を強制的に戦線離脱させたのだ。護符の防御が空白になる代わりに、荷台には木製の長椅子が並べて立てられ、簡易的なバリケードが作り上げられる。たしかに現在行われている小規模な物理攻撃ならば、バリケード程度でも防ぐことが可能だろう。だが、相手はその気になれば何もない場所で爆発を起こし、車を横転させる程度の突風を吹かせることもできる者たちだ。これでは力不足にすぎる。

 

 そう主張すべく口を開いた瞬間、穂村の喉から血が溢れ出した。

 

「あ」

 

 毒か呪いか、あるいはその両方か。だが、苦無はすべて弾き返したはずだ、と右手を持ち上げた穂村は、目を見開いた。右腕の袖が溶け落ち、その下の皮膚が青黒く変色して無数の火膨れを生み出している。火膨れの表面に目を凝らせば、小さな光るものも見出すことが出来た。針だ。細かく、小さな針が無数に穂村の肌に刺さって、体に異変を生じさせている。一体いつついたものか、など考えるまでもない、苦無の攻撃とともに、忍びたちは含み針の攻撃も行っていたのだ。護符を正しく展開していたならば防げただろうが、苦無だけを弾き落としていた穂村はまともに毒針を受ける事となったというわけだ。

 

 穂村は懐のなかの護符を引き出し、頼りないバリケードに向けて放った。護符は椅子の裏側に張り付き、燐光を放つ。少なくともこれで、魔力を主体とした攻撃にも多少の耐性はついたはずだ。あとは、残る攻撃用の呪符で足止めを、と考えたところで、

 

「穂村さん、牽制は我々が」

 

 との声が、金属の音とともに穂村の耳に届いた。顔を横に向ければ、バリケードの真裏で楠木一尉の部下が小銃に新たな弾倉を装填しているところだった。「有害鳥獣駆除」名目で携行している89式小銃を、ついに使おうというのだ。

 

 追うものと追われるものの距離は、およそ200メートルほどにまで縮んでいる。だが、すでに輸送車は国道に出て、前方にはトンネルが見えてもいる。市境、つまりは広域に掛けた移動呪文封じの結界の外に近づいているということだ。

 

 穂村は左手を懐に突っ込み、隠形の呪符を引っ張り出した。利き手ではないので勝手が違うが、少なくとも呪符の起動に必要なほどの魔力は通すことができる。

 

 ばきり、と木板の割れる音が響いた。バリケードを作る椅子の一脚にヒビが入り、護符が剥がれ落ちたのだ。けたたましい銃声が響き、一瞬の後に爆発音が()()()()鳴り響いたのはそれとほぼ同時だった。

 

 すぐ真後ろにまで迫っていた黒い影が、いとも簡単になぎ倒され、その四肢を四散させるのを穂村は見た。同時に、小銃を握っていた隊員が、マジかよ、と小さくつぶやく。小銃から放たれた銃弾が、いまの出来事を引き起こしたのだ。明らかに、銃弾が起こしうる規模の爆発ではない。予め、爆発呪文かそれに類する何らかの術が銃弾に掛けられていたのだ。警視庁が独自に魔法族を集めていたのと同様に、自衛隊でも魔法族を独自に活用していたものか。

 

 魔力を帯びた銃弾は、それ以上発射されることはなかった。けれど、忍びの影がそれ以上追いすがってくることもないままに、やがて車は市境のトンネルに入った。穂村が隠形の呪符を放つとともに、白い霞が見る間に前方に現れ、輸送車を包み込み──

 

 † † †

 

「また怪我人か、何でいちいち戦ってくるんだ貴様らは、また面倒くさい呪いと毒を掛けられてきやがって」

 

 そして、穂村は心底不機嫌な癒師(いし)の小言を聞く羽目になっていた。

 

 嗅ぎ慣れない魔法薬の匂いが充満した空間に横たわるのは、穂村一人ではない。白いテントを見回せば、百を超える簡易病床が並び、その合間を様々な国籍の癒師──魔法による病気や怪我の治療の専門家たちが行き交っている。そこは、〈日本魔法族評議会〉の設置した「避難所」に国際癒師協会が設置した救護所なのだった。

 

 救護所のテントの外に目をやれば、同じく無数のテントが並んでいるのが目に入る。だが、 それ以上に目を引くのは、テントが並んでいる場所だろう。テントが並んでいるのは、真新しいサッカーコートの周囲を陸上のトラックが取り巻く広大なフィールドだ。フィールドの上に立って空を見上げれば、半開放型のドームから東京の空を見ることも出来る。そう、そこは競技場だった。一ヶ月ほど最新のニュースを見なかったものがこの光景を目の当たりにしたならば、本来とは全く異なる用途のために使用されている競技場の様子に心底驚くこととなるだろう。

 

 なにしろ、「避難所」というのは、つい数ヶ月前に出来たばかりの新国立競技場に他ならないのだ。

 

「毒は遅効性だな、呪いで動けなくして毒への対処を遅らせるつもりだったんだろう。呪いはたぶん火膨れの呪いの類縁種だ。先に呪いを解こう。だが、生き物の体内に防水防火呪文(インパービアス)をかけたらそれこそとんでもないことになるだからな、汎用性の高い呪文終了(フィニート)で対応する。理解してもらえたか」

 

 長い銀髪を一つに編み込んだ外国人癒師は、不機嫌にではあるがしっかりと針についた毒を分析し、施す治療の説明を行った。その言葉は翻訳の魔法によってリアルタイムで吹き替えられているような具合に聞こえている。

 

 穂村は癒師の言葉に、全く理解できないながらこくこくとうなずいた。どうせ西洋の魔法の言葉で説明されても理解出来ない以上、インフォームドコンセントなどどうでもいいから今は全身を駆け巡る苦痛を一刻も早く取り除いてもらいたいだけだ。

 

 患者の同意を得た瞬間、癒師の杖が振られ、呪文が唱えられた。魔力の燐光が体を包み、体を焼く感覚は嘘のように消え去っていく。──が、今度は血管という血管を通して針が全身を駆け巡るかのような痛みが前面に浮き上がり、全身を苛みはじめる。

 

「私がここに来てから、避難所内でオブスキュラスを発症したものが三人いた」

 

 マルフォイ癒師は穂村の口に解毒剤を押し込みながらそんな言葉を切り出した。穂村が陰陽師、すなわち〈日本魔法族評議会〉に名を連ねる一人であることは、避難所の癒療スタッフにはすでに知られている。どうやら、元々〈評議会〉のものに話したいことがあったようだ。

 

「オブスキュラスなど少なくとも先進国においては過去の遺物、一般的な病気や健康不良で言うなら栄養失調だの脚気だのと同じような古い病だと思っていたのに、ごく短期間で三人、それも子供だけでなく大人までも発症する始末だ」

 

 穂村は、答えなかった。先程に引き続き使われている言葉が分からなかったというのが二割、まだ全身を毒の痛みが駆け巡っていてものを考えるどころではなかったのが三割、残る五割は、解毒薬がベゾアールという茶色みがかった石のようなもので、それを飲み込む真っ最中であったため答えようがなかったことによるものだ。

 

「魔法族は誰もが潜在的にオブスキュリアルであり、発症は一〇〇パーセント環境因子によるものだというのはご存知だろう。他所の国から来たいち癒療ボランティアが言うのもなんだがな、明らかにあなた方〈評議会〉の不手際が──」

 

「いや、ちょっと待ってくれ、俺は西洋の魔法も魔法医療もわからないんだ、オブスキュリアルだとかオブスキュラスってのはいったい──」

 

 ようやく石を飲み込むことに成功し、痛みを抑えつつも反論しはじめた穂村の言葉は、マルフォイの言葉と合わせて途中で遮られることとなった。

 

「ふざけるなよ、一体いつまでこんなところに閉じ込めるつもりなんだ」

 

 との怒声が聞こえてきたためだ。

 

 テントのすぐ外で叫んでいるのは、避難民の青年だった。食って掛かっている相手は避難所に入ってきた自衛官たちで、自衛官の一団は意識的に無反応を取り繕っている。

 

「なんだかよくわからない化け物が身の回りに現れるようになったと思ったら、布の色が変わったら魔法族に該当するとか言う郵便が届いて、どうすりゃいいかわからないから連絡したらいきなりこんな場所に連れてこられて、こんな腕章までつけろって何なんだよ」

 

 青年は、自身の左腕に巻き付いた腕章を掴んだ。ピンク色のその布は、魔法族の判別のために全戸へ送付しているのと同じものだ。

 

 葛の葉狐の協力の下作り上げられた〈評議会〉が最優先で取り組んだのは、魔法族がけして魔法族以外の人間と対立するものではない、害意を持つものではないと知ってもらうことだった。とはいえ、穂村や陰陽寮の残存メンバーとしては、そのための方法についてはそう入り組んだことを考えていたわけではない。日本魔法省以外の魔法族組織の樹立、即ち〈評議会〉の結成自体が、全ての魔法族が日本魔法省と意見を同じくするものではないと伝えることになる、と考えていたのだ。

 

 だが、そうことは簡単には進まなかった。外部より魔力を取り込む習性を持つ魔法生物たちが魔力源を失って魔法族を襲い始め、その巻き添えを食った人間に被害が出るに及んで

 

 ──化け物を呼び寄せる力の持ち主が、どこにどれだけいるのかわからない状態には耐えられない。

 

 そんな意見が、〈評議会〉に寄せられることになったのだ。

 

 故に、〈評議会〉は魔力の有無によって色の変化する布を作って、魔法族を峻別できるようにした。元々、人に危害を加えうる魔法族とそうでないものを峻別する必要があると考えていた矢先のことでもある。禁呪の使用歴によって色の変わる(まじない)もかけ、これで当面はごく普通に生活を送っている魔法族への風当たりは弱まるものと考えた上での施策だった。だが──

 

「こんなの、誰がどう見たって隔離政策じゃないか、このせいで家に帰るわけにもいかないし、どうしてくれんだよほんとに」

 

 その結果生まれたのは、青年が叫んだ通りの有様だった。

 

 マグルにも分かる方法での魔力の検査は、〈評議会〉が望んだような結果はもたらさなかった。魔法族ではない人間にとっては、日本魔法省と意見を同じくしているかどうか、あるいは布の色がピンクか白かなどは問題ではなかったからだ。大多数の人間にとって重要なのは、「黒以外の布を持った人間には化け物が寄ってくる」「布の色が変わった人は我々とは違う種類の人間である」という点だけだったのだ。

 

 魔力を持つ人々が「みんなと違うもの」として扱われ、時に直接的に住んでいる家を出ていってほしいと告げられることになるのには、判別布が配られ始めて数日もかかりはしなかった。自治体によってはあらたに条例をつくって魔法族の隔離をすすめる地域もあったほどだ。〈評議会〉は魔法族たちのためにひとまずの居場所を作るべく〝避難所”を設置することを決めたが、これもまた、正しい対応であったかどうかは判断が難しい。半ば公的な避難所が設置されたために、魔法族は地域にとどまるべからず、との風潮がまたたく間に広まり、かくして国立競技場が難民キャンプに似た様相を示すこととなったのだから。

 

「落ち着いてください、あくまで全て任意でのことですし、皆さんの保護のためで──痛っ」

 

 と、青年をなだめにかかる自衛官の一人が声を上げた。その頬には、真新しい傷がついている。感情の起伏に伴う魔力の暴発──だが、やや様子がおかしい。魔力がそのまま黒い渦となり、青年の周囲に渦巻いているようなのだ。

 

 マルフォイ癒師が、パイプ椅子が倒れるのにも構わず立ち上がった。同じタイミングで、他の癒療スタッフも作業の手を止められるものは止め、テントの外に向けて駆け出しはじめる。

 

「──知らないよそんなの、そりゃユーレイぐらいは見たことあるけどさあ、別にそれで得したこともないのに──」

 

 下がれ、との声がテントの中から飛んだ。癒師の一人が自衛官に向けて叫んだ言葉だ。青年の周囲には、見る間に黒い魔力がうずまき、靄となって取り巻き始めている。けれど、マグルである自衛隊員たちはその靄すらも見て取れていない。

 

 魔法使いの反応に困惑するマグルたちの目の前で、青年が叫んだ。

 

「──だったらそんな力、無いほうが良かった!」

 

 叫び声とともに、青年の体の周囲に渦巻いていた黒い魔力は一挙に奔流となり、撒き散らされる。迷彩服が黒い靄に呑まれて吹き飛ばされ、テントにもなにか巨大な獣の爪痕のような裂け目が無数にできる。その程度の被害で済んだのは、数名の癒療スタッフがすでに盾の呪文(プロテゴ)を発動していたことによるものだろう。

 

 穂村も、この段になってようやくベッドから飛び降り、テントの外に向けて駆け出していた。すぐには判断がつかなかったが、この現象は、穂村も見たことがある。

 

祟り神(・・・)だ! 祟り神(・・・)が出た!」

 

 半開放型の屋根の上から、遠吠えに混じりそんな声が口々に降り注ぐ。避難所の警備にあたっている妖狐たちが異変に気づき、警告を発しているのだ。

 

 降り注ぐものは警告ばかりではない。屋根の上からは狐火を纏った妖狐たちが次々に飛び降り、黒い靄の周囲に青い炎の結界を作り上げる。矢という矢が降り注ぐのは、武者の姿に変化した狐が射掛けているものだ。祟り神となったものとは対話は出来ず、その力が尽きるまで荒れ狂い、破壊と呪いを撒き散らす。故に、生者が取りうる対処はただ一つ。

 

「荒御霊よ、何故に荒ぶるかも存ぜぬが、ここにおわすことは互いにとっての不幸。根の国底の国にお還し申し上げる!」

 

 穂村は狐火の合間をくぐり、呪符代わりの文様を空中に描いた。文様は白蛇に代わり、逃げようとする黒い靄に巻き付いてその身を戒める。およそ、日本古来の異能に通ずるものならば、祟り神を前にしてやるべきことは一つしか無いと知っている。周囲に及ぼす被害を少しでも減らしつつ、一刻も早くその身を滅ぼすことだ。

 

 白蛇に戒められた黒い靄へと加えられた攻撃はそれだけではない。地面を変形させて作った槍衾が靄を貫いたかと思えば、その次には風の刃が黒い靄を散らす。同様の判断を下したものだろう、少しでも腕に自身のある者たちが狐火の結界を抜け、祟り神への攻撃に加わっているのだ。

 

 続き、穂村の指が炎の呪符と同じ効果を持つ文様を宙に描き、その最後の一角が書き込まれようとしたところで──

 

「なにやってんだ馬鹿オブスキュラスに攻撃してどうする余計悪化させるだけだろうが全員下がれどこの未開の習俗だよとにかく攻撃をやめろあれは精神の不安に端を発する魔法疾患の典型例だぞ攻撃したら悪化させて共倒れになりかねんぞ」

 

 翻訳の魔法の限界に挑んだかのような早口の罵倒とともに、銀の髪を靡かせながら癒者が駆け抜けた。同時に、呪文の閃光が蛇を消し、矢を花びらに変え、槍衾を土に戻し、風の刃を堰き止めてゆく。穂村が放とうとした攻撃も、発動する前にその場で魔法の燐光に還っていった。

 

 黒い靄に駆け寄ったのは、マルフォイ癒師だけではない。手の空いている癒療スタッフはもちろん、魔法教育ボランティアの教師陣や有志の魔法使いの協力者も靄を囲み、可能な限りの盾の呪文(プロテゴ)を展開し始めている。

 

「そもそも、患者は安静にしていろ!」

 

 ある程度盾の呪文が効果を発揮したところで、銀髪の癒師は決然と振り返り、穂村に向けて杖を振った。穂村の知る限り、魔法使いの杖が自分に向けられて良いことがあった例は殆ど存在しない。

 

 予想に違わず、穂村の体は救護所のテントに向けて吹き飛ばされ、強制的に先程収まっていたベッドの上に横たわる羽目になった。

 

 外では、魔法教育終了者たちが総出でなにやら対処をしているようだった。先程の癒師の言葉や反応を紐解くに、つまりは、穂村や他の日本魔法族たちが「祟り神」と認識しているあの存在がマルフォイ癒師の言っていた「オブスキュラス」であり、その対処法が魔法使いたちからしてみれば全くもって不合理極まりないものであった、ということのようだ。ならば、正しい対処法を教えろ、と言いたいところだが、残念なことに穂村はシーツによってやんわりと、しかししっかりベッドに拘束されており、外での出来事を伺うことすら出来そうにない。

 

「いやあ、すみませんね。魔法使いはどうにも、魔法使いの常識が世界の常識だと思って行動しがちで」

 

 裂けたテントから見える空を眺めて時間を潰す覚悟を決めたところで、穂村の頭上からそんな声が降ってきた。

 

「とはいえ、オブスキュラスというのは魔法族が魔力を抑え込もうとした結果、魔力を暴発させて生まれるものです。それに近寄って攻撃をするというのは魔法界の感覚で言えば、そうだな、エボラ出血熱で死んだ患者に接吻や抱擁をする葬儀を目の当たりにしたような感覚でしてね。少々暴力的な対処もやむないところがあるかと思いますよ」

 

 爪痕の形をした青空の前に、西洋人の顔が割って入った。茶色がかったねずみ色の毛を丁寧に撫で付けて仕立ての良いスーツを身に纏った、役人か官僚と言った雰囲気の男だ。年齢は、マルフォイ癒師に近いだろうか。魔法による同時通訳の背後に聞こえる言葉が英語であるところからするに、国籍も案外同じであるかもしれない。

 

 案の定、男はデニス・クリービーと名乗り、英国海外派遣闇祓部隊の交渉担当官だと自己紹介した。あとから来る部隊の活動のために〈日本魔法族評議会〉との折衝と情報収集を行いに来たところであったのだという。

 

「わざわざここに足を運んでいただけたのか、それはありがたい。海外の闇祓いが警護についてくれるなら心強い」

 

 どうせ英語に翻訳されるのを良いことに、普段どおりの口調で穂村はクリービー氏に返答をした。

 

 現状、〈評議会〉に対して支援を表明している魔法族統括組織は存在しない。日本における魔法族統括組織は歴史的に日本魔法省であり、どの外国魔法界も日本魔法省以外の組織を統括組織として承認するには至っていないためだ。故に、〈評議会〉は海外に向けて現在の日本魔法省が行っている非人道的な行為を伝え、現職の魔法大臣の選任の手続きにも瑕疵があり、とうてい一国の魔法界を代表する存在としてふさわしいものではない旨を発信し続けている。公的な支援の申し出ではないにせよ、英国魔法官僚が接触を図ってきたことはその活動の成果が早くも現れたものか。

 

 穂村がそんな淡い期待を抱いたことを悟ったものか、クリービー氏は曖昧な笑みを返してみせた。

 

「今回の海外派遣はあくまで、英国民保護のためのものですので」

 

 表情と同じく、曖昧な表現で英国魔法官僚は〈評議会〉の期待するところには添えない旨を告げた。単に、自国民が活動している場所を確認に来たと言うだけの話だったようだ。それでもなんとかこの避難所にも英国人魔法使いが居ることを口実に警備に当たってくれないものか頼み込もうと考えている矢先、

 

「生命の樹」

 

 と、全く想定していない言葉がクリービー氏の口から発せられた。

 

「空に生命の樹を作り上げた人物と、その直前まであなたが一緒にいた可能性が高い、と聞きました。それについてなにかご存知の情報があれば、お教え願えませんか」

 

 生命の樹。東北の廃村で、敷島エイシュウが神木を元に空へと描き出した魔術的な文様の名が英国人の口から飛び出たことに、穂村はしばし沈黙した。

 

 カバラの生命の樹そのものの文様は、あの日いっとき九つの太陽をその上に輝かせたものの、術者がその姿を消すとともに空から消え去っていった。山奥でのことゆえ目撃者もそう多くはなく、まして穂村があの場に居たことを知るものなど限られているはずだ。

 

 穂村は眉間に皺を寄せて、柔らかに微笑む魔法官僚をみやった。

 

「烏どもと接触したのか」

 

 あの場に居合わせたもののうち、最も数が多いのは日本魔法省の闇祓いたちだ。日本魔法省が公的にはいまも公的には魔法族の代表組織である以上、英国魔法省の役人が接触を持つことには何らの問題もないどころかまっとうなことでさえある。とはいえ、紛争を繰り広げる相手勢力と接触を図っていると示唆されれば、警戒心を抱くのもまっとうな反応だろう。

 

「ええ、まあ、それは否定しませんよ。ですが、だからといってあちらに与するわけでもありません、ただ挨拶に伺っただけです。どちらとも対等に付き合いつつ、もし必要と判断すれば手をお貸しすることもある。我々は、あくまでそのような立場です」

 

 おそらく、この男はこの後にまた日本魔法省に向かって〈評議会〉との接触を咎められたとしても、挨拶に伺っただけとしらを切るのだろう。そう思わせる様子で、クリービー氏は堂々とふたつの組織を両天秤にかけていることを公言した。実に英国的と言えば英国的な態度ではあるが、もし今が鎌倉や室町の時代ならば即刻首が胴体から離れても文句は言えないぞ──などと物騒なことを考えるが、残念ながらどれほど政情が不安定になろうとここは令和の日本で、さらに言えば穂村はシーツによって動きを戒められている状態だ。

 

「悪いが、あんたの役に立つような情報は──」

 

 デニス・クリービーに対する反感のままに穂村は情報の提供を断ろうとして、ふと口をつぐんだ。目の前にいるのが英国魔法官僚ということで、一つ、思い出したことがあったのだ。

 

「……いや。俺はあの場で起きたことしか知らないが、あの場にもうひとり、闇祓いから離反した秋津・ミズホ・ローレンスって女の子がいたんだ。敷島エイシュウは、その子に自分の記憶を詰め込んだ瓶を渡していた」

 

 英国人の藍色の目が、きらりと光った。魔法界では、記憶の霞は証拠として重宝される。それが存在するならば、生命の樹に関する情報を求める者にとっては何にも代えがたいものに違いない。

 

「その方は、今どちらに」

 

「分からない。その場で記憶を見て、そのまま姿を消してしまったんだ」

 

 官僚らしいポーカーフェイスにはわかりやすい落胆の色こそ浮かばなかった。けれど、手繰り寄せた糸にさらなる続きが存在したことを残念がっていることは明白だった。

 

 とはいえ、そこで簡単に手を引くような人材が他国での交渉役に選ばれるはずもない。

 

「ときに、穂村さん。私は後続の部隊のために、物資を取り寄せることも可能です」

 

 ほんの十秒足らずで落胆を振り払うと、クリービー氏は何食わぬ顔で話を変えた。いや、話を変えたわけではない。同じ目的のために別のルートを辿ろうとしているのだ、ということくらいは、穂村にもすぐに想像がついた。

 

「ゴブリンの水、防衛呪文のかかった装備一式、それらの物品を手に入れるための交易ルートそのもの。そういったものを、我々はあなた方〈評議会〉に提供することができるということです」

 

 英國闇祓部の露払い役は、〈評議会〉に不足している物を的確に挙げ、提供を申し出た。つまりは、

 

「その代わりに、秋津さんを探せ、と?」

 

「話が早くて助かりますよ。何分、異国の地でやることは山積みで、その上に人を探すなど、とても考えられる状況ではありません」

 

「そう言われてもな、俺は別に陰陽寮の暫定トップってだけで、〈評議会〉の意思決定に関わっているわけじゃあないんだが」

 

 受けるべき話ということは分かっている。〈評議会〉の魔法に関する技術力は、この避難所の中と同じと言っていい。西洋の魔法が積み上げてきた知識や技術、道具やインフラを一切持たないために、他国の支援に頼るしか無いということだ。

 

 それでもあえて穂村は気乗りがしないかのようなふりをした。より良い条件を引き出すための交渉技術、というよりは、先に抱いた反感が未だに尾を引いていることによるものだ。

 

「だいたい、逃げているのはホグワーツ出の闇祓いだ、陰陽師が血眼になって探して探しきれるとは──」

 

 更に文句を言い募ろうとしたところで、喧騒と慌ただしい足音がテントに入り込んできた。「祟り神」ならぬオブスキュラスの対応に当たっていた癒療スタッフが帰還するとともに、空いているベッドに新たな患者が次々と放り込まれていったのだ。オブスキュラスを発生させた青年とともに、魔力の奔流に巻き込まれた自衛官たちも患者として収容されたようだ。

 

「さっきのやつ。助かったのか、どうして──」

 

 先程穂村が「祟り神」として亡き者にしようとした青年が空いている病床に移されるのを見て、穂村はつぶやいた。意識は失っているものの、魔力の暴走は収まり、顔にも血色が戻っている。

 

 患者の中にも「祟り神」を知るものが少なからず居たようだ。国際癒師連盟の救護所へ運び込まれた怪我人には、魔法生物に自ら対処しようとしたものが多い。つまりは多少なりとも腕に自身があり、自ら(あやかし)を祓えると判断する程度には限定的な知識も有するものたちだ。そんな「半端者」たちにしてみれば、一度呪いを撒き散らす段階に至った生物が死ぬことなく回復しているというのは、自らの知識を根底から覆されるようなものと言って過言ではない。彼らの驚きは、ざわめきとして病床から病床へとさざなみのように広がっていった。

 

「──そうだ、支援の内容としてもう一つ、重要なものがありました」

 

 ざわめきの上に、魔法によって翻訳された言葉が覆いかぶさった。デニス・クリービーがいつのまにかベッドの合間に作られた広い通路にたち、途切れていた話を再開させたのだ。その声はどういうわけか穂村一人に話すものにしては随分と大きく響き、テントの中の患者たちの注目を集めることにもなる。

 

 英国魔法官僚の杖が、頭上に掲げられた。途端、テントの中にはいくつもの四角くて平べったいものが舞いはじめる。スーツの内から次々に飛び出してゆくトランプのカードが空中で手紙へと変わり、患者の居るベッドというベッドへと正確に舞い降りていったのだ。

 

 手紙は、分厚くて重い、黄色みがかった羊皮紙の封筒に入っていた。今の一瞬で何をどう変身させたものか、紫色の蝋で封がされてすらいる。いったい、この英国人はこの場で不特定多数のけが人に手紙を送って何をしようというのか?

 

 この上なく怪訝な表情を浮かべながらも、穂村は封筒から手紙を取り出した。

 

「みなさん、もしよければ魔法の授業、受けてみませんか」

 

 翻訳呪文を通した声を聞きながら、穂村は目を瞬かせ、首を傾げた。同じような反応は、救護所の至るところで発生している。

 

 エメラルド色のインクで羊皮紙に書かれた文言は、次のようなものだったのだ。

 

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ホグワーツ魔法魔術学校OBによる特別授業

 教材・参加費は一切不要。経験のない方でも大丈夫! 魔法の基本、魔法界の基礎知識からお教えします。

 

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 † † †

 

 烏の声が、天窓からがあがあと響いている。

 

 陰陽寮をそのまま接収した建物は地中にあり、窓など作っても飾りにしかならないはずだ。だというのに、現魔法省の会議室に作られた窓は東京上空の景色を映しており、天窓には入れ代わり立ち代わり何匹もの烏が飛来しては彼らの主に対して報告を行っている。魔法で本物の空と窓が繋がれているのだ。

 

「英国人が何か、妙な遊びを始めたようだ」

 

 倉田テンゴウ魔法大臣が、使い魔の一匹を腕にとまらせながら言った。もう片方の腕は大鴉の羽根に変わり、彼が烏の声を解する状態であることを示している。

 

「あちらの用意した避難所に出入りして、なにが目的か……半端者たちに今更魔法を教えるつもりらしいな。随分と派手な真似を」

 

 天窓より降り注ぐ陽光と烏の羽の中、円卓にはローブを纏った魔法使いたちが座っている。日本魔法省の立法機関、魔法議会の成員たちだ。「不幸な事故により」いっときは二十名以下に減っていた議員も、いまは過去の議員経験者や魔法省OBを動員して立法に最低限必要な人数にまで回復している。

 

 もっとも、円卓を囲む議員たちの目はうつろで、倉田の言葉にも何の反応も示さない。わかりやすく、服従呪文の支配下に置かれている状況だ。

 

 魔法大臣の言葉に対して意見を示すべき議員たちに代わり、発言をしたのは壁際に並んで立つ大鴉のごとき異形の一人だった。

 

「使い魔に見張られているのを承知の上での行動です。我々に対する牽制でしょう。そもそもグレンジャー・ウィーズリー大臣殿の政治的立場からすれば、初めからあちらに肩入れしていてもおかしくはない」

 

 周防ウコンの進言に、倉田は数度頷いた。現英国魔法大臣が史上初のマグル出身者であり、マグル製品使用条件の緩和など、かなりマグルに融和的な政策を打ち出していたことは周知の事実だ。時間を掛けて、という形にはなるだろうが、魔法の暴露を受けてマグルとの共存路線を選ぶつもりであるとも伝え聞く。

 

「在日米闇祓部隊も議会の回答待ちといって基地に缶詰を決め込んでいるし、米国(MACUSA)がその有り様とくれば他の国など応答すらよこさない始末だ」

 

「どこもかしこも大勢が決するまで、あるいはせめてどちらかが大義名分を手に入れるまでは傍観者でありたいのでしょう。二枚舌を駆使してでも能動的に動いているだけ、英国が良心的に見えるほどです」

 

「大義名分。大義名分か。……英国についてはどうも、そこは怪しいがな」

 

 使い魔烏が、倉田の腕から贋造の天窓の向こうへと飛び去っていった。天窓の縁に集っていたカラスたちも後を追うように飛び去っていき、あとには羽音と舞い散る黒い羽が残される。

 

「あの交渉人に聞かれたよ。なにかこの状況を打破する切り札についてご存知なのではないか、と」

 

 烏たちの去った天窓に向け、倉田の杖が振られた。天窓の景色が切り替わり、直下にある円卓の上に円筒状の光を落とす。光は像を結び、半透明の景色を映し出していく。SF映画などに現れるホログラフ映像のような外観だ。

 

 映し出されたのは、あの日真桑戸に昇った九つの太陽とも思しき光の文様、カバラ魔術の生命の樹だ。

 

「どうせ、敷島以外には例の呪術を使うことは出来ないんだ。英国人が勝手に監視下を動き回って情報を集めてくれるならばそれでいいと思ってそれなりの情報はくれてやったが」

 

 あの日空に生命の樹が浮かんでからこちら、日本魔法省では中断された呪術を再開する方法を模索してきた。しかし、未だあの場に存在した桑の木の正体からして不明であり、消えた生命の樹を再び呼び出すどころか、同じ現象を再現することすらも出来ない、というのが現状だった。

 

「敷島くんをおびき出して、件の呪術の成果を横からかすめ取る。結局のところ、僕たちの今後はそこにかかっているわけだな」

 

 烏姿の合間から、一人の魔法使いがくたびれた声を上げた。百地ミヨシだ。大規模な歴史改変の可能性を突き止めた魔法事故惨事部長は、今度は呪術そのものの研究のために休む暇もなく働き続けているのだった。

 

 魔法学校時代からの旧友の言葉に、倉田テンゴウは重々しく頷いた。敷島エイシュウも、生命の樹を再び起動させようとしているはずだ。ならば、時間を掛けてその影を捉えればいい──と言いたいところだが、日本魔法省にはそこまでの余裕がないのも事実だった。現状では情勢はただ停滞しているだけと言えるが、長引かせてマグルの技術と魔法が融合していけば、日本魔法界が不利になるのは明白だからだ。すでに、魔法をかけた銃弾についての報告も上がっている。

 

「そろそろ、動くべきか。兎を待ち続けて蛇に襲われては本末転倒に過ぎる」

 

 倉田の提案に、否やの声はなかった。この場に臨席して、自由意志を保有しているものたちは全員、日本魔法族が今後取るべき指針についてかわされてきた議論と、その結論を知悉している。即ち──

 

「議論の席に着き、彼らの望む通り投票を受け入れる。ただし、方法については魔法族のやり方で、日本国外の第三勢力立ち会いのもとで行うものとする」

 

 彼らの長の言葉に対し、烏姿の彫像たちが一斉に踵を合わせた。彼らの長たる倉田の言葉に同意を示したものだ。

 

 時を同じくして、円卓を囲む傀儡たちもまた服従呪文の影響により一斉に動作を開始している。目の前に置かれた馬蹄形の錫を杖先で溶かし、円卓の中央に置かれた水盆に流し込んでいるのだ。魔法議会における議案の非可決をめぐる投票だ。否決か可決かを念じながら魔法で溶かした錫は、全員の投票が終わった時点で水面に浮き上がり、法案の非可決の結果を伝えることとなっている。

 

 ただし、この場合初めから水面に浮かぶ錫の文字は決まっている。可決だ。

 

「天岩戸だね」

 

 闇祓いたちが()()()()に備えるべく三々五々に部屋を出ていくのを横目に見ながら、百地部長が誰に言うともなく呟いた。

 

「どこかへ隠れた太陽を戻すために騒ぎたて、出てきてくれることをひたすらに祈る。日食を前にした古代人のようなことしか、もう僕たちには出来ないわけだ」

 

 天照大神が素戔嗚尊の蛮行に怒り岩戸の中へと隠れた有名な神話と、その神話のモデルと言われる天体現象を引いて、百地は現状を評してみせた。

 

 倉田は口の端にわずか、皮肉げな笑みを浮かべはした。けれど、古い友人の言葉に正面から答えることはなく、

 

「事故惨事部も、太陽を引き出す折には手を貸してくれよ」

 

 と、百地の例え話に基づいて希望を伝えるだけだった。

 

 日本魔法省側からの大幅な譲歩とも見える提案は、使い魔によって書簡が届けられたその翌日には受け入れられることとなった。さらに一週間ほどの調整期間を経て物々しい警戒のもと両勢力の代表団による協議が開かれることとなったのも、日本で起きる出来事にしてはあまりにも迅速とも言える対応だ。いくつかの海外系メディアは、日本政府が事態の収束に強い焦燥を抱いていることを示すものだと評したものだった。〈評議会〉が、公にはあくまで魔法族を歴史上関知したことはないとの立場を貫く日本政府の傀儡であることは、この頃には半ば公然の事実と受け止められていたのだ。

 

 穂村カツミが、行方を眩ませていた秋津・ミズホ・ローレンスと邂逅することになったのは、まさに協議の最終日のことだった。

 

 † † †

 

 渋谷のスクランブル交差点では、マスク姿の人々が人との避けて足早に歩く傍ら、何割かの人々は歩道に立ち止まって大型ビジョンを見上げている。ショッピングビルの外壁に設置された大型ビジョンには、

 

「日本国内に住む全ての魔法族を対象とした意見投票の実施が決定」

 

「投票では、魔法族の自治の可否を決する模様」

 

「投票の方法、投票日は追っての発表となる」

 

 との速報が次々に映し出されていたのだ。

 

『ご覧ください、倉田魔法大臣と佐伯評議長が握手を交わしています、これで当面の混乱に一区切り、となるのでしょうか──』

 

 画面に映る会見場では、魔法族、マグル双方のアナウンサーたちがこぞって目の前の光景を中継している。元来ならば、穂村もその映像のどこかに映り込んでいて然るべき立場だ。にもかかわらず彼女が雑踏の中、歩道の上に立っているのは──

 

「どちらが先に撃った?」

 

 と、雑踏のざわめきに混じり、聞き覚えのある声が穂村の耳に届いた。その言葉は、事前に取り決めていた符丁に他ならない。

 

「ハンが先に撃った、グリードではなく、もちろんベケットでもなく」

 

 穂村も決められた通りの符丁を口にして、振り向いた先には、黒いコートに身を包んだ小柄な姿があった。服装の違いを除けば、短く切りそろえた栗色の髪も、蜂蜜色の瞳も、チョコレート色の肌もつい一月ほど前に見かけた姿のままで、穂村は言われた言葉の内容は横に置き、にわかに安堵感を覚える。

 

 そう、穂村が今日という日に渋谷のスクランブル交差点の只中に居るのは、秋津・ミズホ・ローレンスとの接触を果たすためだったのだ。

 

 もっとも、この邂逅に至った理由は陰陽師たちの捜索によるものではない。先日の夜、獅子の姿をした守護霊が穂村の前に現れて、符丁と待ち合わせ場所を指定してきたのだ。

 

「良かったよ、本当に来てくれて。一体、どこで何をしてたんだ。……いや、まずは安全な場所へ移動するのが先だな、事前にポートキーを設置してもらっているんだ」

 

 ちょうど信号が青に変わり、周囲の人々が交差点を渡り始める折のことだ。穂村は自然な調子でミズホの腕をとり、信号の支柱に手を伸ばした。支柱には、テニエルの描く時計ウサギのステッカーが貼られている。穂村がステッカーに触れた途端、移動魔法特有の感覚が体を包み、周囲の景色が一転する。

 

 一瞬の後に穂村とミズホが居たのは、ヴィクトリアン様式の落ち着いた調度品に囲まれた部屋だった。部屋には紅茶の匂いが充満している。窓と扉が存在しないことを除けば、ロンドンのアパートの一室と言われても通じそうな部屋だ。

 

 中央のテーブルには、すでに部屋の主が着いている。ブリティッシュスタイルのスーツを着こなしたその姿は、デニス・クリービー氏にほかならない。急遽接触を打診されたはいいが、安全理に──つまりは日本魔法省に感づかれずに事をすすめる方法を実現し得なかった穂村は、英国魔法官僚に協力を仰ぐことにしたのだった。

 

「はじめまして秋津さん、わたくし英国魔法省のデニス・クリービーと申します。それに穂村さん、また会えて嬉しいですよ。さあ、どうぞお掛けください」

 

 クリービー氏は二人の客人に空いている椅子を勧めつつ、杖を振った。燐光がテーブルの上にふわりと舞うやティーセットが降って現れて、せわしなく飛び回るポットからカップに紅茶が注がれはじめる。目的が一致した上でのこととは言え、唐突に巻き込まれた側とは思えないような主人(ホスト)ぶりだ、と言えよう。ひとりでに動く外套掛けがコートを預かり、椅子が自ら客人を迎えに来る様子に至っては、部屋に満ちる乾いた緊張感とは裏腹に、ディズニーのメルヘン映画の中にでも迷い込んだのかと思うような有り様だ。

 

「それで、秋津さん。なんだって連絡を?」

 

 席につくなり、穂村は単刀直入にミズホに質問を投げかけた。

 

「あの意見投票。あれが、敷島エイシュウをおびき寄せるための罠で、おそらく当日大規模な騒乱が予想されると伝えておこうと思って」

 

「罠。そりゃあなにか仕掛けてくるだろうとは思っていたが、その対象が敷島さんだっていうのは一体、どういうことだ」

 

 答えに変わり、テーブルの上にガラスの小瓶が浮かび上がった。あの、敷島エイシュウの記憶の霞が入った小瓶だ。よどみなく動いていたティーセットが一瞬、わずかに静止したのは、それらを動かすクリービー氏の注意が小瓶へと向いた事によるものだろう。

 

「それは──」

 

 ミズホが口にしようとした答えは、途中で途切れ、沈黙に取って代わられることとなった。同じテーブルを囲む二人に、ひいては日本魔法族評議会と英国魔法省に対して自身の知識を伝えていいものかどうか迷いが生じたのは明白だ。

 

 けれど、その迷いもいっときのことだった。

 

「それは、敷島エイシュウが行おうとしている魔法が大規模な時間の遡行と歴史の書き換えを可能にするものだからよ」

 

 意を決して告げられた言葉に対する、二人の同席者の反応は、まるきり真逆のものだった。つまりは、穂村は言われた言葉の意味がすぐに理解できずにぽかんと口を開いて、対するデニス・クリービーは痛みに耐えるかのような表情を浮かべ、天を仰いだということだ。

 

 かしゃん、と、陶磁器の触れ合う小さな音が響いた。飛び回る茶器が、ついにテーブルの上に落ち着いたのだ。

 

「秋津さん。こちら、確認してもよろしいですか」

 

 茶器に回していた魔力を全て止めた代わりに、テーブルの上では記憶の小瓶がクリービー氏の手元に引き寄せられ、その手に収まった。呼び寄せ呪文(アクシオ)が使われたようだ。ミズホが短く許可を出すと、瓶の中身はすぐさま杖先に絡め取られ、クリービー氏のこめかみへと吸い込まれていった。霞を頭に取り入れた者は他者の記憶の中に意識を預け、うなだれる。けれど、その時間はそう長いものでもなかった。

 

「──ああ、畜生、当たり(・・・)かあ。それにしても、これは──」

 

 部屋の柱時計の長針が五度ほど時を刻んだ後、デニス・クリービーはそう言って再び意識を覚醒させた。記憶のすべてを見たわけではなく重要な部分だけを映像を早送りにするように飛ばし飛ばしに見たようだ。そして、どうやらその内容は、ある種類の俗語表現でなければあらわし得ないような種類のものであったと見える。

 

「ミスタークリービー、その様子からするに、英国魔法省はこの事態を予期していたのかしら」

 

 翻訳魔法の持つ語彙を超えた言葉を吐き捨てていた英国魔法官僚は、ミズホに声をかけられてはっと口をつぐみ、降参するように両手を肩口で開いてみせた。同じ学寮のはるかな後輩の指摘は、完全に的を得たものだったと見える。

 

「魔法省が組織として大規模時間遡行魔法の存在を感知したわけではありませんよ。大臣の個人的な見解でした。……とはいえ、一人の人間が達しうる結論に、他の魔法族統括機関が達し得ないと考えるのはあまりにも楽観的な考えでしょうが」

 

 ミズホは深く頷き、茶器の乗ったティーテーブルに身を乗り出した。

 

「ミスタークリービー、ここに同席して、そこまで手の内を明かしてくださっているということは、英国は少なくとも自らの利益のためだけに()()()()()()()ことはない、と判断していいのね」

 

「ええ、それはもちろんですよ。英国は、大規模な時間遡行魔法に関する条約を批准しています。今回行われる可能性のある魔法についても、条約の定める禁止事項を遵守する所存です。グレンジャー先輩もポッター先輩も、その種の魔法には少しばかり苦い思い出があるようですし」

 

「あら、それは初耳だわ、もしよければ聞かせてもらいたいけれど、今は後にしましょう。だとしたら当面、真っ先に優先するべきは敵味方の判別と、投票当日の警戒をどのように行うか、具体的には──」

 

 同じ記憶を共有するや、二人のホグワーツOBはテーブルを挟んで凄まじい速さで情報を交換しはじめた。同席する陰陽師にとっては畑違いの話だ。それでも、穂村は頑張ってその話に食いつこうとした。

 

 だが、それにも限界はある。ついにミズホが話す言葉を英語に切り替えるに至ったところで、

 

「……あのお」

 

 と、穂村はおそるおそる、手を上げた。まるで、授業についていけない生徒が決死の覚悟で質問をするように。

 

「大変申し訳無いんだが、全く、話がわからない」

 

 テーブルの向こうで、魔法使いたちが一瞬虚を突かれたように押し黙り、穂村を見た。陰陽師が話に置いていかれていることに、声を上げるまで気づかれていなかったようだ。

 

「ごめんなさい、穂村さんには説明が必要だったわね」

 

 ミズホはすぐに、順を追って説明を始めた。けれど、その内容を聞いてもなお、穂村にはどうにも起きようとしている事態は飲み込めそうにはなかった。ミズホの説明が下手だったわけではない。むしろ、ミズホの説明は分かりやすく、たとえ聞いているのがホグワーツに入ったばかりの一年生であったとしても、今後日本で何が起きようとしているのかを理解することは出来ただろう。

 

 穂村がそれを容易に飲み込めなかったのは単純に、説明される内容が、

 

「……ええと、つまり、歴史の改変ができるような呪術が存在して、それを他国の魔法族統括組織も感知していて、それを巡って意見投票当日に騒乱が予想されると。そういう話なのか」

 

 という、想像を絶するものであったからだった。時間を遡って過去にあった出来事をやり直す。SF映画でもアニメでもゲームでも、手垢の付くほどに使われ続けた()()だ。だが、そんな事がたとえ魔力を使ったところで現実に可能であると、穂村には到底信じることはできなかった。これについては、西洋魔術への無知だけを原因とするのは酷だろう。時間遡行の魔法はどこの国の魔法界でも情報統制の対象であり、一般の魔法使いには存在すら知らされていないのだ。

 

 ティーテーブルの上に、シャボン玉が浮かんだ。ミズホが自分の記憶を引き出して閉じ込めたものだ。

 

「あの日真桑戸を離れてから、日本中の龍脈を回ったの。どこもかしこも封印されていて、そのうえ闇祓いや忍者たちが厳重に警戒をしていた」

 

 シャボン玉の表面には、禍々しい光を放つ封印の痕跡が次々に浮かんでは消えていく。ミズホが見た、龍脈の封印の様子だろう。

 

「それだけじゃないわ、使い魔烏には一定以上の魔力消費を検知する魔法も掛けられていて、都市部の電力を魔力へと変換したらすぐさま通報される仕組みも作られていた。あれは、敷島エイシュウをあぶり出すための措置よ」

 

 確かにあの日真桑戸で行われた呪術の完成には、龍脈を一時枯渇させるほどに大規模な魔力が必要であるようだった。日本各地の龍脈に一時的な封印をかけて、電力の魔力への転換も検知するシステムを作れば、件の呪術を使おうとすればすぐに分かる、というわけだ。

 

「だけど、敷島さんは今もまだ現れない、となれば、能動的に得物をおびき寄せる一手を打つのは当然のことだわ。少なくとも、わたしの知っている日本の闇祓いならば、そうするはず」

 

 半年ほどのキャリアを持つ元闇祓いは、かつての友烏たちの動向を断言した。その一手こそが日本魔法省の持ちかけた意見投票である、と言いたいことは明白だった。穂村もこのころには、時間遡行の魔法それそのものへの懐疑はまだ拭えないにせよ、日本の闇祓いたちが敷島エイシュウの呪術を横からかっさらおうとしていることは確信しつつある。

 

 その上で、穂村は首をひねった。

 

「んん、でも、待てよ。そうだとしたら、なんだってそもそも……」

 

 時間遡行魔法の真偽を除く大筋の話を一旦飲み込んだ上で、穂村には一つの根本的な疑問が浮かんでいた。それを問おうとした、その時のことだった。

 

 茶器類がカタカタと音を立てたかと思うと、部屋全体が大きく揺れ動き、部屋中の調度という調度が宙を飛び始めた。地震にしても、揺れがあまりにも大きすぎる。まるで、部屋全体が巨人の手の中で大きくシェイクされているような具合だ。

 

「穂村さん、つけられましたね」

 

 盾の呪文(プロテゴ)と護符の安全地帯の中で、デニス・クリービーが声を荒げた。直後、クリービー氏の杖が向けられるとともに、穂村の黒いスーツの背から一枚の黒い羽根が剥がれ落ちた。羽根は見る間に大きく膨らみ、一匹の烏へと姿を変え、杖先から伸びた閃光によってその頸を折られた。使い魔烏だ。どこかで使い魔烏に姿を見られ、そのまま文字通りに()()()()()いたのだ。

 

 穂村には、それを悔やんでいる暇などはなかった。これまでにない衝撃とともに一方の壁が大きく裂け、黒衣の集団が姿を現したからだ。日本魔法省と手を組んだ忍びの者たちだ。

 

「ミスター・クリービー、手を!」

 

 穂村の手を掴んだミズホが、クリービー氏に向けて声を上げた。移動呪文で脱出を図ろうというのだ。

 

 けれど、クリービー氏はミズホの求めに応じることはない。それどころか、二人の客人と招かれざる闖入者との間に立ちはだかってさえみせた。まさか、自ら盾にでもなるつもりなのか。

 

 そんな危惧が穂村の胸中に去来したのは、ほんのいっときのことだった。具体的には、目の前に立つ英国魔法官僚の手に無骨な鉄の塊が────トンプソン短機関銃(トミーガン)が有ることに気付くまでのことだった。

 

 今まさに室内に突入しようとしていた侵入者たちも、同時に魔法使いらしからぬその凶器の存在に気づいたようだった。だが、気付くのが遅すぎた。魔法や(まじない)は、熟練者であれば思考と同じ速度で繰り出すことができる。では、自動小銃は?

 

 答えは簡単だ、自動小銃の弾丸は、思考より遥かに早い。

 

 壁の裂け目から侵入を図った忍びたちは、消音呪文(クワエイタス)で抑えられてなおけたたましい銃声が鳴り響くたびにその体を硬直させ、その場に倒れ伏していく。奇妙なことに、銃弾は確実に当たっているはずなのに倒れた忍びには怪我らしい怪我はない。ただ気を失い、その体を拘束されているだけなのだ。てっきり、自衛隊が携行していた「有害鳥獣駆除用」の小銃と同様の悲惨な結果が繰り広げられることを覚悟していた穂村は、実際に起きた出来事に目を瞬かせる。

 

「魔法使いにも、なかなか悪人は多いものでしてね。非魔法製品の凶器……つまりは、銃火器に魔法をかけ、通常以上の殺傷力をもたせようと試みる不届き者もいるほどです」

 

 穂村のみならず、ミズホも眼前の光景に驚いているのを知ってか、英国魔法官僚はドラムマガジンの中身を盛大にぶちまけながら、自身の手にした武器についての解説を始めた。

 

「もしそんなものをマグルが手にすることがあれば、それはもう大変なことになる。ということで英国魔法省では厳重に取り締まっているわけです。とはいえまあ、便利なことは間違いありませんからね。非魔法製品使用許可局では、取締官用の装備として非殺傷系呪文を組み合わせて活用しているわけです」

 

 解説の終わりとともに、銃声が鳴り止んだ。弾切れのようだ。すかさず壁の裂け目に呪文の燐光が散ったのは、ミズホが盾の呪文(プロテゴ)を張ったことによるものだ。

 

「穂村さん、先に脱出を」

 

 と、クリービー氏が言った途端、穂村の目の前には紙箱に入ったトランプのセットが浮かび上がってきた。状況と合わせて鑑みるに、脱出用のポートキーなのだろう。

 

「あんたは──」

 

 あんたはどうするんだ、と聞こうとしたその瞬間、部屋の中が帯電したように閃光が走った 。途端、半壊していた部屋が左右から何かに挟まれたように潰れはじめ、穂村の体はポートキーとともに吹き飛ばされていた。吹き飛ばされた先は、奇妙なことに雑居ビルの合間の路地だった。外から見たならば、狭い路地の中にいきなりその面積を遥かに超える部屋が現れてひとりでに挟まっていったかのような具合だ。西洋の魔法の知識を持つものならば、検知不能拡大呪文で作られた空間の外装が強度の限界を迎え、内装が本来の大きさへと戻ろうとしたところで左右の壁に行き当たってひとりでに押しつぶされた状態だ、と理解できたはずだ。

 

「穂村さん! あなたは陰陽師を動かしうる存在だ、現状最も死なれては困る!」

 

 目の前に積み上がった残骸の向こうで、再び鳴り響いた銃声とともにそんな声が上がった。デニス・クリービーの声だ。どうやら、無事だったようだ。ミズホの無事な姿もすぐ目の前にある。というより、穂村が無事だったのはミズホが咄嗟に穂村とともに部屋の外に飛び出たことによるもののようだった。

 

 穂村は礼を言おうとした。だがそれよりも、ミズホが小刻みな姿あらわしで瓦礫の上に移動し、更にその向こうへ姿をくらますほうが早かった。

 

「投票当日、英国は時間遡行魔法を日本魔法省から死守します! 無論、敷島エイシュウ本人からも! あなたがたも、そのことを念頭に置いて行動することを望みます!」

 

 銃声と無数の破砕音に混じって聞こえた声は、それが最後だった。その直後、目の前にあった木や布の切れ端とともに穂村は吹き飛ばされ、何がなんだかわからないうちにポートキーに接触していたからだ。

 

 移動の魔法特有の感覚を抜けるとともに地面に叩きつけられた穂村は、巨大な楕円に切り取られた空を見た。辺りには、無秩序なざわめきが満ちている。ポートキーの出口は、新国立競技場の只中に指定されていたのだ。

 

「穂村ちゃん? どうしたの、今日、協議会場のほうに居るんじゃなかったの」

 

 半開放型の屋根から除く空の前に、よく見知った顔が現れた。猿曳レイヤだ。いや、見知った顔は猿曳一人ではない。周囲には陰陽師たちが集まり、上司の姿を遠巻きに見やっていた。

 

「ちょっと、色々とあってな。……待て。むしろお前らこそ何やってんだここで」

 

 ばらばらになったトランプのカードを撒き散らしながら同僚に助け起こされたところで、穂村はふと、居並ぶ陰陽師を再び眺めわたした。気まずげな表情を浮かべる顔という顔は、本来この避難所の警護に当たっているはずのものや本来非番のはずのもので構成されている。顔を背け、人の後ろに隠れようとするその反応は、完全に後ろ暗いところのあるもののそれだ。

 

 それもそのはずだ。穂村が現れた場所は避難所の一角を天幕で区切って作られた空間で、陰陽師たちの前では、アフリカ系の魔法使いがホワイトボードの前で眉間に皺を寄せている。その魔法使いが、魔法教育NGO団体の呪文学の教師であることは穂村も把握していた。つまり、いまは呪文学の授業の真っ只中で、陰陽師たちは雁首揃えてこっそりと授業に出席していたということだ。

 

「いや、あのね、魔法、超便利なのよ」

 

 責めてもいないのに、猿曳は慌てふためいて自身を含む陰陽師たちの弁明を始めた。穂村が陰陽道への「背信行為」に怒っているとでも思ったのだろう。

 

「特にあれ、水を出すの(アグアメンティ)汚れを取るの(スコージファイ)がもうホント便利で、食洗機と洗濯機両方売ろうかと思ってるぐらいよ。あと、前線に出る子たちは、詠唱破棄するやつ? あれが出来たらかなり心強いみたい」

 

 猿曳による弁明に、残る有象無象の陰陽師たちも大きく首を縦に振り、無言の援護射撃を始める。とはいえことさらに説明されなくとも、避難所での魔法教室の盛況ぶりを見れば魔法の便利さは自ずと分かるというものだ。はじめはデニス・クリービーによって救護所にいた患者と子供を相手に行われていた初歩的な魔法のレッスンは開かれるごとに参加者が増え、ほんの半月も経たない内にいつの間にか魔法教育NGO団体まで招致され、毎日複数の教室が開かれるに至っているのだった。成功の理由は、教えられる魔法の多くがまさに避難生活の不自由さを補うものであったことによるものだ。いま、競技場に並ぶテントを覗き込めば、そのどれもが魔法によってテントの大きさを遥かに超える空間を内包していることがよく分かったはずだ。

 

 穂村は、息を吐いた。タイムトラベルだの因果律の書き換えだのといった壮大な話を聞かされた上に、忍者に襲撃を受けたその場所から今しがた強制的に離脱させられてきたところなのだ。正直な所、他人を怒るために感情を動かせるような状態ではなかった。そもそも本当に怒っていたとしても、NGOの教師が横にいる状態ではこんなものを習うなと言えるはずもない。

 

「いいよ。どうせ、今日この日にここが直接襲撃されるようなこともない。持ち場を離れた連中にはあとで授業内容の報告書を提出してもらうとして……」

 

 と、そこまで口にしたところで、穂村は口をつぐんだ。上着の内ポケットに、なにか覚えのない違和感があることに気がついたのだ。あの、記憶の瓶が気づかぬうちに上着に入り込んでいる。──いや。勝手に瓶が動くことはない。十中八九、ミズホかクリービー氏が放り込んだのだろう。おそらくは、見ろ、という意味を込めて。見るべき時が来た、ということなのか。だが、どうにもやはりエイシュウの変貌ぶりには尻込みしてしまうし、なにより、具体的にどのようにすれば記憶の霞を垣間見る事ができるのかもわかりはしないのだ。はたして、見るべきか、見ざるべきか。──

 

 穂村の内心で沸き起こった葛藤は、

 

「あー、ホムラオンミョーノスケさん? ここに居座るということは、私の授業を受けるということでよろしいんですね? はい、よろしいということですね」

 

 という、いらだちを隠しもしない声で遮られた。正確には、声とともに無言で発せられた呪文によって、だ。

 

 強制的に着席させられた穂村の前には、瞬く間に教科書とノートが現れていた。魔法使いというものは、全くもって他人に魔力を行使することをためらわない。どうやらそれは国籍や人種、職業を問うものではないようだ。隣に座る春日井陰陽師を見れば、ご愁傷さま、といいたげな表情が帰ってくるばかりだった。

 

 「生徒」がきっちりと着席したのを確認すると、呪文学の講師は高らかに授業の再開を宣言した。

 

「さーあみなさん。邪魔が入ってしまいましたが、今回の授業では確実に、木を動かす呪文を習得してもらいますよ」

 

 いや、俺は別に習得する必要はない。そう言おうとした穂村に、前後左右の席から一斉に口の前に指を立てた顔が向けられた。一体、何をそこまで必死になっているのか、と思ったのもつかの間。穂村の座る椅子の左右から棘のついた壁が生え、ついでに机の左右も茨で埋め尽くされたのは、その直後のことだった。

 

「これができれば、応用で動かす(モビリ)系統の呪文が一気に習得可能になりますからね、肝心要の呪文です。むしろ、これができなきゃ何のために豊富な魔力を持ってるのか、って話ですよ。大丈夫、私の授業では西洋式の魔法のように邪魔な棒っ切れを振り回す必要はありません、いつでもどこでも身一つさえあればすぐに魔力を使い、世界に干渉することが出来る。それこそが魔法使いというものですからね」

 

 授業から生徒が離脱する可能性を物理的に防止した教師は、なお一層機嫌よく話を続けている。どうやら、自分は迷い込んではいけない種類の授業に迷い込んでしまったらしい。今更ながらに置かれた状況を理解して、穂村は向こう数十分間、何年ぶりかの座学に費やす覚悟を決めたのだった。

 

 † † †

 

 事態は混沌の渦に巻かれながらも、急速に進んでいった。

 

 魔法生物の凶暴化は相変わらずであるものの、日本魔法族の二つの陣営による戦闘は投票の行われる日までは鳴りを潜め、表面上は小康状態が訪れた。一方で、日本全体でより顕になり始めたのは、市民同士の対立感情、もっとあけすけに言えば、差別感情だった。

 

 折しも、アジアを起点とした新種の疫病が流行しはじめた頃のことでもある。病魔は未知の力を持つ他者と簡単に紐付けられて憶測を生み、憶測は無知と恐怖とで歪められ、流言へと変化してゆく。専門家の指導のもと魔法生物への対処がなされるようになっても、新国立競技場には連日のように避難者が流れ込み続けていた。魔力を検知する布ではじめて自らの力を知った者たちが避難を希望した理由は、下位の妖の襲撃だけを理由としたものではなかったろう。

 

 ネット上には罵詈雑言の濁流に混じり、魔法族と目された投稿者の家に石が投げ込まれる映像や、魔法族に対する「自警」を行うさまを映した映像が投稿されていた。ニュース番組内で自身が魔法族であることを告白したアナウンサーには、その勇気を称えて連帯を示そうとする声と、その何十倍にも上る罵倒と憎悪の言葉が寄せられることとなった。避難者の逃げ込んだ国立競技場の外では魔法族への連帯と解放を掲げるデモ隊がシュプレヒコールを上げ、デモの参加者がプラカードを使いまわしていたことからのちに主催団体がANTIFAと呼ばれる極左団体であったことが判明してネット上で場外乱闘までも呼んだ。その他、ごく小さな事件も含め、起きた出来事を列挙していけばここに書ききれないほどになる。それまでに存在した対立の上に新たな対立が現れ、更に細かな対立軸を作りあげて社会に亀裂を作っていったのだ。まるで、ヒビが入りながらもどうにか形を保っていたガラス玉を床に叩きつけ、粉々に割り砕いたように。

 

 対立と分断の吹き荒れるマグル社会に対し、不気味なほどの沈黙を保っていたのは日本魔法界だ。彼らは、能動的な行動は何一つ取りはしなかった。マグルの前に姿を表す魔法使いの数の少なさからして魔法教育終了者に向けて何らかの規制が行われていることが伺えたほかには、日本魔法省が組織として人心に訴えかける策を取る動きは一切なかったのだ。日本国政府が行う宣伝にすらも対抗しようとしないその姿はより一層マグルの間に不安を呼び、人の心を操る魔法(インペリオ)の存在を根拠として大規模な工作活動が裏で行われているのではないかとの憶測が吹き荒れたのもしかたのないことだったろう。

 

 故に、来る四月の一日、意見投票の実施される日には、

 

「今日、必ず何かが起きるに違いない」

 

 と、誰もが口を揃えるに至っていたのだった。

 

 † † †

 

 空には、巨大な砂時計が浮かんでいる。

 

 通常の砂時計と違うのはその巨大さだけではない。中空の砂時計は、通常の砂時計の下半分を二股に分けたような形、あるいは大きな漏斗に二つの雫型の管を並べて溶接したような形、とも言える形をしている。

 

 魔法によって構築されたその構造物は、投票装置だ。つい数ヶ月前までならばマグルの目からひた隠しにされるべきだったはずの投票装置はいまや新国立競技場の外縁という東京の中心部に浮かびあがり、銀色に光る魔力の塊が次々に飛び込んでくる投票の様子さえも衆目のもとに置かれている。なんとなれば、日本魔法省と〈日本魔法族評議会〉双方の立ち会いのもと、欧州魔法社会開発援助機構のスタッフによって装置が作り上げていくさまも、余すことなくテレビで中継され続けていたほどだ。

 

『現在、投票が行われている最中です。投票は本日二十一時まで、日本国内のどんな場所からでも、右手を頭上に掲げて投票先を心のなかで考えるだけで可能です。投票権のある皆さんは、たかが一票などと思わず是非とも投票をお願いします』

 

 マグル向けの特別報道番組では、司会者が投票を何度も呼びかけている。司会を務めているのは先日自身が魔法族であると告白し、数時間前には自らカメラの前で右腕を掲げて魔力の塊を宙に飛ばしてみせたアナウンサーだ。その右腕にはピンク色の布が巻き付いている。カメラがもう少し引けば、同じ番組の出演者たちが色味は違うものの何かしらピンクの布を身につけていることが分かるはずだ。ピンクの布には短期間のうちに社会的な意味が付与されて、魔法族との連帯を示すために身につけるマグルが現れ始めているのだった。

 

『──ああ、つまり元気玉と一緒ですね──』

 

 番組のゲストが、投票方法を有名な漫画になぞらえるコメントを述べている。胸のポケットにピンクのハンカチを押し込んだその人物が果たして魔法族であるのかただの魔法族との連帯を示すマグルなのか、視聴者には知るすべがない。

 

「みんな、いい子ぶっちゃって気持ち悪いなぁ」

 

 十畳ほどの座敷に置かれた液晶テレビを見ながら、舌足らずな声がそんな感想を述べた。口々に模範的なことばかり述べ立てるタレントや作家への嫌悪感を隠しもしないのは、赤い狩衣の半妖の少年、ギョクトだ。

 

「まあ、あいつらどうせ、もうじきみんなまとめて虫けらみたいなるんだ。ね、そうでしょう、御前様」

 

 と、ギョクトは振り返った。真新しい畳の上には、ちょうどギョクトに背を向ける形で一人の男が立っている。敷島エイシュウだ。

 

 否、彼自身の自己の認識からすれば、彼は御神馬御前との名で呼ばれるべき存在であったろう。彼は、敷島エイシュウであった記憶は保っているものの、そのあり方は幼い日に分かたれた魂の欠片によって根本的に変化している。纏っている服が白い直垂であることを除けば姿かたちは闇祓いであったころとそう変わりはしないというのに、表情や立ち居振る舞いはもちろん、口にする言葉までもが、到底同じ人間とは思えないほどに様変わりしているのだ。

 

「ああ。誰も彼もが始めから居なかったことになって、ほんの僅かな人間たちも虫のように生き、虫のように死んでいくことになる」

 

 御前はそう述べつつ、駆け寄ってきた兎耳の童子を抱きとめた。返ってきた答えが、よほど嬉しかったのだろう。ギョクトは御前の腕の中でけたけたと、けたたましい笑い声を上げる。

 

「ああ、よかった。御前様も、ちゃんとドーマ様と同じことを言ってくれるんですねぇ」

 

「彼の魂の半分は私だったのだからな、当たり前だ。私は彼のことを全て覚えているし、彼も敷島エイシュウの何もかもを知っていた。私達は、そのような存在だ」

 

 そう。分かたれていた魂の欠片、分霊がもたらしたのは、かつての失われた記憶だけではなかった。マカト村の地下、底根の国で作り上げられた敷島エイシュウの分霊は、あの時たしかに津波倉ライトの命をつないぎ、長きに渡りその体の中にあり続けていた。その年月の間、分かたれた魂には津波倉ライトの記憶も刻まれていた、ということだ。

 

 そして、二十年以上に渡って刻まれた記憶と思考の蓄積があるべき場所に戻ったとき、魂の持ち主に対して何を成したか。──その答えは、今ここに居る敷島エイシュウの姿がすべてを物語っているだろう。

 

「聞いてます、ずっとドーマ様の中に居て、敷島エイシュウの見たことや聞いたことをみぃんな夢の中でドーマ様に教えてたんでしょう。僕もその御蔭で助けられたんだって、ドーマ様が言ってましたよぉ」

 

 直垂に擦り付けられるギョクトの頭を、御前の手がくしゃくしゃと撫でた。兎を思わせる特徴を持つ子供を見やるその顔には、ほんの少しだけ苦しげな色が浮かんでいる。腕の中にいる半妖の子供がいかなる次第でこの世に生まれて今この場に居るものかを、彼は覚えているのだ。

 

 それは、闇祓いが珍しく陰陽寮を通すことなく出動した事件だった。つまりは、マグルの一切関わらない事件で、かつ、取るに足らないような事件だった、ということだ。

 

「あのときの兎児爺(トゥルイエ)に子供が居たなど、敷島エイシュウも倉田テンゴウも気づかなかったよ」

 

 御前は、自らのことであるはずの記憶を、やはり他人のことのように口にした。

 

 事件は、いわゆる異種婚姻事件だった。相手が兎児爺という中国原産の外来魔法生物であった点が珍しいだけで、高度な知性を有する魔法生物と人間が〝不適切な関係”を持つ事例そのものは日本ではままある事件だ。F県の山奥に作られた隠れ家へと踏み込んだ敷島エイシュウと倉田テンゴウは難なく犯人を検挙し、件の魔法生物は中国へと送還され、事件は終わりを告げた。犯人は逮捕時に自らの責任を逃れるためか自身に向けて強度の忘却呪文(オブリビエイト)を掛けたものの、物証が数多く残されていたために在宅で起訴され執行猶予付きの判決を下された──というのが、闇祓いであった敷島エイシュウの持つ記憶の全てだ。

 

 ここからが、御神馬御前の持つ入り組んだ記憶の出番となる。

 

「当たり前ですよぉ、僕、あの時お父さんとお母さんに言われたとおりすぐに逃げて、草むらに飛び込んだんですもん。それで、逃げて逃げて、橋のたもとに出たところで──」

 

「津波倉ライトが……いや、ドーマが、お前を見つけた。とてつもない幸運だ、奇跡的と言ってもいい」

 

 ギョクトの赤い瞳が細められ、細く柔らかな手が白い着物をぎゅっと握りしめた。自身を抱き上げる男が、間違いなくドーマと記憶を共有していることが分かって嬉しいのだ。

 

 奇跡的、と御前は言ったが、ギョクトがドーマのもとにたどり着いたのは、ある程度の必然を伴っていたと言えよう。闇祓いは、基本的に夜間に動くことが多い。昼間に動くよりも何事につけ偽装が楽だからだ。故に、手早いガサ入れが終わったのも夜のことで、山奥にはどこもかしこも真闇が横たわっている時刻だった。なので、ドーマは真っ暗な山の中、鉄橋の脇に止めた車の前照灯を背に、手には小型の懐中電灯を握っていたのだ。闇の中ではこれ以上無いほどに目立つ姿だ。

 

「そう、奇跡ですよぉ。僕、あのときは神様かなにかが現れたって思いましたもん」

 

 光を求めてひたすらに闇の中を駆けつづけた子供は、そのときの様子を半ば恍惚としながらそう述べた。その認識が実情とやや異なっていることを知りながら、エイシュウは認識の相違をあえて正しはしない。ドーマがそうしたのと同じように、彼もまた、魔法生物の血を引く童子を欺瞞で包み込むことを選んでいる。

 

 では、実情とはいったい、どのようなものであったのか。

 

 ドーマ、否、その時は津波倉ライトという名前しか持っていなかった男は、目の前に現れた人の幼児とも兎の子ともつかない生き物へと手を伸ばして確かにそれがこの世に存在することを確かめた。そして、

 

 ──嘘だろう、僕の、妄想じゃあなかったのか。

 

 と、夢で見た景色が現実に存在していることに、すなわち自らの信じていた世界が崩れ落ちてゆくことに、心からの絶望を抱いていたのだ。

 

 分霊は、敷島エイシュウの見たもの、聞いたものを夜毎の夢、あるいはときに白昼夢という形すらも取って伝え続けた。エイシュウ当人が意識して行ったわけではない。半ば無理矢理に自らの魂を二つに引きちぎり、他人に分け与えたために起きた不具合のようなものだったのだろう。

 

 そんな不具合が、津波倉ライトに一体、何をもたらしたか。

 

 マグルの警察が調べ上げた津波倉ライトの経歴には、精神科や心療内科への通院歴がびっしりと残されている。幼少期から児童精神科医によって「心的外傷による妄想、幻覚」が指摘されており、児童養護施設を出たあとも通院を続けていたところからすると、分霊のもたらす異界の夢は彼にとって喜ばしいものではなかったようだ。当たり前といえば当たり前だろう。彼は一度命を失った時点で村での記憶を半ば以上失い、残っていた僅かな記憶もマグルの社会で生きていく中で自身の妄想の一つと思い込むに至っている。その上で、津波倉ライトの体を流れる血はあくまでマグルのそれであり、魔法を使うことは叶わない。いうなれば、マグルの少年が、魔法使いになっていく少年の姿を遠くから見せられている状態だ。人の身ではけして渡ることのかなわない石橋の向こうに極楽浄土のあることだけを知らされ、打ち捨てられたようなものだ。

 

 実を言えば、このとき山の中に居たのも他でもない、夢で見た景色が自身の妄想であることを証明するためだったのだ。けれど、渓谷にかかった橋のたもとで彼が直面したのは、その真逆の現実だ。

 

 暗い山道で、白い半妖の子供を抱きかかえたまま、男は立ち尽くしていた。凍てつくような風の中にとどまり続ければ、いずれ瑞兆が現れるとでも言うかのように。

 

 いや。事実、瑞兆は現れたと言えるかもしれない。明けの烏が空に飛び、夜が白み始めるころ。彼の頭の中では壊れた世界に異界の夢が組み合わさって新たな世界が組み上がるとともに、一つの巨大な視座が生み出されていたのだ。

 

 折しも、彼の手の中で眠っていた小さな生き物は目を覚まし、あたりをきょろきょろと見回し始めていた。

 

  ──おじさん、かみさまなの?

 

 両手の中に収まるほどの、人であれば赤ん坊としか思えないような生き物は、はっきりとそう問いかけた。人と魔法生物の混血種は、魔法生物側に準ずる成長速度である事が多い。兎児爺の成長速度が通常の兎とそう変わらないことを考えると、生まれて半年も経っていないような半妖の子供がすでに言葉を解するほどに成長していたのもそう不思議ではないだろう。

 

 ──いいや。

 

 男は、首を左右に振った。

 

 ──私は……そうだな、私はドーマ。神様の言葉を聞くだけの、ただの人間だよ。神様は、他にいるんだ。御前様という名前の神様がね──

 

 そして、彼は手の中に収まった生き物に向けて、欺瞞を伝えはじめた。彼だけが持つ知識を元に自ら考え出した瑞兆を、現実のものとするために。

 

「ね、そろそろあれ、使えるんじゃないですかぁ」

 

 舌足らずな声が、はじまりの時の記憶から御前の意識をいまこの時へと呼び戻した。御前に抱き上げられたまま、ギョクトは背後でつきっぱなしのテレビを指差している。

 

 テレビに映るのは、投票装置の中継映像だ。二股に別れた砂時計の上部には、票が半ば以上溜まっている。全国各地、最大で日本の人口の一割の人間から少しずつ集めた魔力が、投票装置の中には詰め込まれているということだ。

 

 はじまりの朝、白暁のなかでドーマが組み立てた計画は、ついに成就しようとしている。

 

 御前は鷹揚に頷き、右手を振った。

 

 燐光が散るや、十畳ほどの座敷の周囲を囲んでいた極彩色の襖が自然に開きはじめた。襖の周囲にはまた同じように畳が広がっており、御前と童子がいたのは広大な座敷の一角であったことが判明する。

 

 新たに出現した座敷は、千畳ほどはあろうか。広大な空間へと御前が足を踏み出した、その途端のことだ。無限とも思われる畳の上には、それまでは見ることのできなかった人影が無数に現れていた。敷島の血に服従する吸魂鬼(ディメンター)も無論控えているが、それだけではない。見渡す限りの畳の上には、数百を超えるであろう人の群れが整然と並んでいたのだ。集められた人々には、「天人」との文字が書かれた布を顔に付けているという他に年齢、性別ともに共通点はない。

 

 小さな世界の神がゆるりと歩きだすと、天人らは幽鬼とともに順序だって動き出した。単調な動作は、彼らが操られていることを示している。ただし、彼らを操るのは御前ではない。

 

「さぁ、せいぜい頑張ってくれよ、残りの蟲をぜぇんぶ使ったんだからな」

 

 御前の腕の中で印を結びながら、ギョクトが歌うように言った。そう、天人たちとは、腹中蟲をその身に宿した人々、依代の群れであったのだ。

 

 蟲に操られ、しかし不思議と幸せそうな人々の群れの前で、座敷を取り囲む襖がひとりで開き出す。地獄絵の描かれた襖が左右に開かれた途端、魔法で彩られた座敷には、びょう、と風が吹き込んだ。襖の向こうには、夜が広がっている。ただの夜ではない。銀に光る魔力の塊が夜空を飛び交う夜だ。

 

「さあ。今こそ十の太陽を空へともたらす時」

 

 襖が開くにつれ、座敷と夜空を隔てるものはなくなってゆく。地獄絵の描かれた襖の最後の一枚が開くとともに、ついに魔法で作られた座敷はまるごと消え去っていた。

 

 その光景は、地上に立つ魔法族にとっては、魔法の燐光を纏った異装の集団が宙空に現れた、と見えるものだった。数十、百を超える人間が、空中に輪をなし、ゆっくりと周回しながら魔力をたたえた砂時計の周囲へとゆっくりと降りてくるのだ。遠目に見る分には、天人らが地上に降り立つようですらある。

 

 ただしそれは、あくまで今から起きうる事態に利害の絡むことのない余人の発想だ。半開放型の屋根の上に立ち、来たるべき事態を今かと待ち受けていた者にとっては、それはときの声にも等しい有様だ。

 

 競技場の屋根の上から、暗い夜空の只中から、あるいは遠く離れたビルの上から、考えうるあらゆる攻撃が天人たちに放たれる。予め周辺一帯に待機していた、〈評議会〉を構成する集団から選抜した護衛たちによる攻撃だ。

 

「──陰陽師(ヘビ)に坊主どもに神官どもに、狐に狸に鼬、猫、まあよくもまあ有象無象をこれほど集めたもんだ!」

 

 飛来する無数の矢や炎、雷撃、閃光をすべて眺めおろす高みから、嘲笑の声とともに燐光が放たれる。御前の腕の中から飛び上がりながら、ギョクトが印を結んだのだ。

 

 童子が結んだ印に合わせ、天人たちをねらったあらゆる攻撃は宙空にて阻まれることとなった。面布の集団から一斉に魔力が溢れて力場を形作り、彼らへの──否、彼らの主への攻撃を防いだのだ。

 

 いや、攻撃はただ防がれただけではない。

 

「あはは、この程度なら楽勝だ! 烏どもでもなけりゃあ相手にもなりやしないよ!」

 

 再度ギョクトが叫び、小さな両手が別の印を結んだ。空中にふわりと浮かび上がった童子が新たな命令を行使した途端、力場で留まっていたすべての攻撃は弾き返され、もと来た方角へと戻ってゆく。遠い夜景の中で無数の爆炎と、破壊の音と土煙が上がった。

 

 地上で非常事態に伴う喧騒が飛び交うのも他所に、天人の作る円陣の只中から、びょう、と風が吹き上がったように思われた。

 

 否。吹き上がったものは風だけではない。

 

「ああ。これだけあれば十分だ。礼を言うぞ、魔法省の諸君、評議会の諸君」

 

 巨大な砂時計の真上に静止して、御神馬御前が朗々とよく通る声で言った。その体が銀の光に包まれているようなのは、はるか天上に向けて立ち上る銀糸という銀糸のはなつ光によるものだ。投票装置に集まった膨大な魔力が、そのまま生命の樹を形作るための魔力へと転換されているのだ。

 

「日を隠せし罪とは天津罪。すなわち畦放、溝埋、樋放、頻蒔、串刺、屎戸、とりわけ生剥逆剥」

 

 祝詞とも祭文ともつかぬ呪文の響くなか、夜空にはたちまちのうちに生命の樹が描かれ、十の太陽が紡ぎ出されてゆく。あの日真桑戸で行われた呪術と、全く同じ光景だ。

 

 違うのは、生命樹が描き出された、その先がついに展開されようとしているという点だ。

 

「ゆえに天斑駒の裔が命ずる、扶桑の上に十の烏よ還れ、十の烏還らば時を解き紡ぎ十の日よ戻れ」

 

 夜空は今や、真昼の太陽よりなお輝きを放つ十の太陽によって、白く輝いている。地上でも空中でも咲いては散る呪文の閃光、魔力の爆炎ですらも霞むほどの輝きは、その場に居合わせた者の行動をしばし不能にするほどのものだ。

 

「十の日戻らば、罪贖うべくこの身に時読みの光を落とせ」

 

 天を覆う光が、にわかに変化を始めた。まるで雲という雲が渦を巻き、撚り合わさり、一点に凝縮されていくように、十の太陽が放つ光は魔術の文様とともに撹拌された後、凝縮していく。それはあたかも、壮大な魔術の使い手が唱えた言葉に従っているかのようにも見受けられる光景だった。

 

 下方に天人の面布を付けた依代たちを、上方に黒衣の幽鬼らを付き従えた白衣の男のもとへと、凝縮された光はゆっくりと下っていく。下るにつれて光はより小さく固められ、手のひらに収まるほどの大きさとなり、まさに御神馬御前の手へと落ち、握られようとした。

 

 神馬の末裔を名乗り、神を名乗る男が光を手にしようとした、その、瞬間のことだ。

 

「──そんなことは、させないわ」

 

 そんな声とともに、一つの影が御前の眼前に落ち──

 

 そして、あらゆる事が同時に起きていた。

 

 † † †

 

 その瞬間に穂村カツミが見たのは、砂時計の周囲に現れた無数の魔法使いだった。いや、正確に言うならばそれは、

 

MACUSA(米国)に欧州魔法族連合の皆様にロシア中国インドイスラエルその他諸々、高みの見物を決め込んでいた連中が、よくもまあ今更!」

 

 と、穂村を含む陰陽師たちと対峙していた魔法使い、百地ミヨシが口調を荒げたとおりのお歴々だったらしい。その言葉の真偽は分からないが、たしかに移動呪文の禁止区域に指定してあるはずの空間に所狭しと現れた魔法使いたちの装備はばらばらで、互いに共闘する様子も無いところから見るに、複数の組織がてんでばらばらに現れたというのは正しいようだ。投票装置の設置に際しては、珍しく様々な国の魔法使いがオブザーバーとして出入りしていた。怪しいとは思っていたが、おそらくは装置付近をポートキーの出口にでも指定していたのだろう。

 

「すまないが陰陽師のお嬢ちゃん、きみらの相手はここで終わりだよ」

 

 杖先から燐光が放たれた、と思う間もないうちに百地の姿は煙に包まれ、夜空には巨大な蝦蟇蛙(がまがえる)が出現していた。

 

 蝦蟇蛙はなにもない虚空を蹴り、乱戦を繰り広げる魔法使いらの只中へと大口を開けて飛び込んでゆく。少なからぬ魔法使いが箒から叩き落されることとなったのは、蛙の長大な舌が彼らを薙ぎ払ったことによるものだ。

 

「ああ畜生、いままではただの時間稼ぎだったというわけか!」

 

 穂村は悪態を吐き捨てた。今宵、敷島エイシュウがこの場に現れることは十分予想できていた。ゆえに、〈日本魔法族評議会〉の構成員から募った戦闘員たちに下方より揺動のための攻撃を任せ、そちらに防御を集中させたところで陰陽師の本隊が上空から奇襲をかける。──というのが事前に立てていた計画だったのだが、見てのとおりそうはならなかった。大蝦蟇の動物もどき(アニメーガス)が目の前に現れ、あの手この手で陰陽師が敷島エイシュウに近づくことを阻止したためだった。

 

 無論、空中へと取り残された陰陽師たちもその場に留まっているわけではない。穂村は悪態を吐き捨て、大蝦蟇のあとに続くべく配下の陰陽師たちに指示を出し、虚空を蹴った。色とりどりの水干を纏った陰陽道の使い手たちは雁金の隊列をなし、白い大蛇を露払いに乱戦へと躍り込む。いや、この場合、狙いはほぼ定まっている。大砂時計の上に立つ男、敷島エイシュウ──否、御神馬御前だ。

 

 大蛇は獲物を飲み込むべく虚空で身を捩り、大蝦蟇の後を追う。進行を妨げようとするものが現れるやたちどころに炎が起こり、魔法使い自身が炎に包まれるのは、予め大蛇に付与した(まじない)によるものだ。白蛇の赤い瞳には、その視線を向けただけで炎を起こす力が備わっているのだ。

 

「大白蛇よ、その行く手を阻む者すべて灰燼に帰し、毒牙にかけ、御身でもって怨敵締め砕きたまえ!」

 

 穂村の命が放たれるや、白蛇の式神は、蛇の言葉で発せられた下命を忠実に実行に移した。飛翔の(まじない)を組み込んだ式神は、視界に映る者すべてを燃やし、逃げ遅れたものを牙に仕込まれた毒で犯しながら、今宵の混乱の中心たる男を長大な体で覆い尽くさんとする。絡みつこうとするあまたの魔法、あまたの呪術は蛇の鱗にかかった呪い返しの(まじない)で跳ね飛ばされて術者自身を襲うのは言うまでもなく、万一その鱗を貫く攻撃が成されたならばたちどころにその身の内から呪いの炎が立ち上って敵に逆襲を果たすのだ。この局面において、陰陽師と彼らの使役する式神には向かうところ敵はないかと思われた。が。──

 

 大蝦蟇がひときわ高く跳躍し、反射的に大蛇の頭がその後を追った。体は砂時計に巻き付き、魔法で作られた装置ごと御前を絞め殺さんとしているときのことだ。閉じかけていた大蛇の蜷局(とぐろ)がわずかに緩み、長い胴が伸び上がろうとした刹那。

 

「──なんだ!?」

 

 穂村は、伸び上がろうとした白い鱗の上に、黒い粘液を放つの物体が無数に張り付くのを見た。それは、無数の蛞蝓(なめくじ)だ。蛞蝓と言ってもその大きさは一匹だけでおよそ五十センチにはなろうか。大蛞蝓は次々と降り注ぎ、白蛇の鱗を見る間に覆っていく。ただ覆うだけではない。その粘液には何らかの毒性があるものと見え、蛞蝓の這う端から白い鱗は溶け落ち、のみならず、その身から放たれるはずの炎さえも粘液のために立ち消えしてゆくのだ。

 

「毒蛞蝓だよ、蛙には蛇、蛇には蛞蝓、蛞蝓には蛙。基本だろう」

 

 苦悶に身を捩る白蛇を足下に見下ろしながら、百地ミヨシが言った。いつの間にか人に戻り箒の上に立つ魔法使いの周囲では、いつ現れたものか、黒装束に身を包んだ忍びたちが空中に浮かび上がり、蛞蝓を次々にその口から吐き出している。忍法には、毒虫を口から吐き出して攻撃に使うものもあるという。然るに、いま彼らの使う業がそれであるのだろう。

 

 再び百地の体が大蝦蟇へと変わり、跳躍した。その後に続いて忍びたちも空中を駆け、大蛇から離れだす。その理由は程なくわかった。毒蛞蝓に覆われた蛇は痛みに狂い、のたうち回り、その果に自らに向けて牙を向いたのだ。

 

 牙は蛞蝓の柔らかな身を貫き、溶け落ちた白い鱗を貫き、体内に蓄えられた炎へと到達し──

 

「──全員離れろ!」

 

 穂村が弾かれたように飛び退り、水の呪符や風の呪符で蛞蝓を追い払おうとしていた陰陽師たちも、遅れて距離を取った。その後を追うように、呪いの炎が白蛇の体を破り、周囲へと四散する。それは、さながら蛇の形の炎が暗闇を駆け巡るようであった。

 

 炎から逃れるべく砂時計から離れた者たちと入れ替わるように、炎の舌を物ともせず、混乱の中心に向けて飛翔するものたちがいた。烏の如き禍々しい装備に身を包み、大型の箒で一挙に急降下するその姿は、日本魔法省の闇祓部隊にほかならない。時の呪法を目当てに現れた魔法使いらの勢力はすでに大蝦蟇と大蛇と呪いの炎によって千々に分かたれている。編隊を組み、盾の呪文(プロテゴ)を前方に幾重にも展開した急降下突撃の前にあっては、組織的防御など望むべくもない。盾の呪文、あるいは衝撃呪文(フリペンド)で跳ね飛ばされた魔法使いやその箒が周囲を巻き込み、更なる墜落者を生み出してゆく。

 

 大烏姿の魔法使いの群れは他国の同業者たちを叩き落とし、一直線に炎の中心へと向かう。炎の蛇が作り出したとぐろの中心に有るはずの、時の呪法を成しうる光の玉をその手にするために。混乱の中でのことだ。命令はろくに届くことはなく、単独で元来の命令を果たそうとするものも現れ、かくして炎の駆け巡る夜空では、魔法使いたちが火に入る虫のごとく炎の渦へと突貫してゆくこととなる。

 

「単独で動くな、編隊を組み直せ、一人で突出するな死にたいのか馬鹿!」

 

 穂村もまた、この夜空にあって指揮官が味わう苦悩を存分に味わっているものの一人だった。なにぶん、本隊と言えどもその半数は「学徒出陣組」だ。練度など期待することすらできはしない。苦悩の量は、今宵東京の空を焦がすものたちの中でも特に多い方だったろう。

 

「水の呪符と護符を前方へ展開して炎の中心へ飛ぶ、目標はあの光の玉の奪取────あ?」

 

 明らかに出遅れながらも隊伍を組み直した陰陽師の群に向けて、穂村が下そうとした新たな命令は、途中で不自然に途切れることとなった。

 

 奇しくも、果敢にも燃え盛る炎に飛び込んでいった者たちの間では次のような声が飛び交っている。

 

「おい、誰も居ないし何もないぞ!」

 

「さっきのどさくさで逃げたんじゃないのか!?」

 

「これ流石に装備が保たないよ、一旦脱出しよう」

 

「だが敷島が呪術を完成させているなら、異変が起きているはずだ」

 

「敷島を探せ、魔力の塊はやつの近くにあるはずだ」

 

 つまりは、すでに御前は彼の成した呪術の成果とともにとっくの昔に炎の渦の中心からは脱出しており、魔法使いたちは全員一緒になにもない炎の中へと突入を果たしたというわけだった。さらに言えば、見渡す限りの夜空には、あれほど大量に居たはずの吸魂鬼の群れと天人らの姿も見当たらない。

 

 ならば、彼らはすでに主君とともに時を遡る呪法を完成させるべくどこかに消え去ったのかと言えば──そういうわけではないことは、いままさに、穂村が目の当たりにしていた。

 

「え? いや、えっ何それどういう状況? どういう状況よ」

 

 思わず穂村がそんな疑問を口にしたのも無理はあるまい。穂村と陰陽師たちの眼前では、強烈な光を放つ小さな球体が特に何の前触れもなく高速で横切って行ったかと思えば、兎耳の童子の指揮のもと、天人らが群れをなしてその後に追いすがっているのだ。追いかけられている光の玉が、先程敷島エイシュウが手にしようとしていた凝縮された呪術の塊であることに疑いはない。

 

「ちょっと、穂村ちゃん、あれ追いかけないと」

 

 なかなかに理解し難い光景に唖然としていた穂村に、横から猿曳の助言が飛んだ。そうだ。なぜ逃げ回っているのかはよくわからないが、あの光の玉が時間遡行の魔法の要であるならば、それを奪取するのが今宵、陰陽師たちに課せられた──そして、この夜空に集ったすべての魔法族の悲願に違いない。

 

「目標はあの光の玉だ、余人は叩き落として奪い取れ!」

 

 穂村がそのような命令を下すのと時を同じくして、消えぬ炎の合間を飛び交う魔法使いたちも時の呪法の鍵が空中を高速で飛び回っていることに気づき始めている。同様の命令があちらこちらで下され、箒が風を切り、無数の呪文が宙を舞う。手のひらに収まるほどの球体を追いかけて、世界各国から勝手に集まった魔法界の精鋭たちが空を翔けるのだ。

 

「クィディッチだ!」

 

 と、あちらこちらで魔法界を代表する競技の名前が口に出されたのも当然の光景が、新国立競技場の上空では繰り広げられていた。

 

 炎の駆け巡る空で始まったのは、まさに剣呑なクィディッチとも言うべき競技だった。時の呪法を手に入れるべく集まったものたちが、考えうるかぎりの攻撃を互いに投げつけあっているのだ。夜空には閃光が散り、三つ首の巨龍が咆哮を上げ、毒の雨が降る。毒の雨は、気づかぬうちに空を覆い尽くしていた使い魔烏が烏天狗へと姿を変え、手当たりしだいに日本の闇祓以外のものを攻撃し始めたことへの対策だったと見える。だが、その場に集っている魔法使いはもちろん、使い魔烏も烏天狗も薬物への防護は十分に行っていたために、結果から言えば、最も被害を受けたのは直下にある競技場にほかならなかった。

 

「屋根だ、屋根を作れ! 風は駄目だ、毒を余計に拡散することになる!」

 

 競技場の中では、屋根から思う存分に降り注ぐ緑がかった雨を防ぐべく、魔法教育のNPOの教師や癒者、その他ボランティアで避難所に入っていた魔法使いたちが頭上に杖を掲げている最中だった。芝や競技トラックの上では、避難民たちが咳き込み、次々に倒れていく。初期に強風呪文(ヴェンタス)で雨を退けようとしたものが現れた結果、逆に競技場内で風が吹き荒れてテントを吹き飛ばした上に毒を軒下までも拡散させて、被害を増やすこととなってしまったのだった。

 

「患者を天幕の中へ! 動けるものは倒れているものを連れてきてくれ!」

 

 競技場の屋根を塞ぎながら患者を収容する癒療従事者の一人がそんな声を上げた。銀髪の癒師、ドラコ・マルフォイ癒師だ。癒師は避難所の中において、西洋式の魔法が使える数少ない魔法族であるため、今宵は凄まじい激務を強いられている。

 

「クソ、きりがない!」

 

 目の前に落下してきた岩をにらみながら、マルフォイは吐き捨てた。どこかの魔法使いが、他人を攻撃するために岩を投げつけたのだろう。当然、急づくりの屋根には完成しないうちに大きな穴が空いている。何人かの魔法使いが機転を利かせて観客席やスクリーンなど、内装の中で使えそうなものを片端から引き剥がして補強材に変化させ始めたが、それも面積の大きさからすればそう効果は期待できそうにない。

 

 マルフォイ癒師は、頭上へと視線を向けた。未だ塞がれていない屋根の開放部からは、思う存分に呪文の閃光を散らして交戦し、強烈な光を放ちながら飛び回る球体を追う魔法使いの群れが見渡せる。箒から見る間に何人もの魔法使いが叩き落され、時折緑の閃光すらも光るその有様は、クィディッチの試合だとすればとてつもなく汚いプレイの応酬だ。

 

「こんな試合──」

 

 こんな試合早く終わらせろ、と、魔法使いの多分に漏れず上空の光景をクィディッチになぞらえて、マルフォイ癒師はつぶやこうとした。その言葉が途中で途切れたのは、ピッチ(・・・)へと現れた新たな乱入者によるものだ。いや、正しくは、新たな乱入者がもたらした結果によるもの、というべきだろう。炎の尾を引きながらマッハ2・5で飛来したその物体──AIM‐7スパロー、いわゆる空対空ミサイルを、三つ首の竜へと命中する以前に認識できたものなど一人もいなかったのだから。

 

 東京の空に、聞いたこともないような咆哮が響き渡った。上空を過ぎゆくF‐4〈ファントムⅡ〉の放ったミサイルは、弾頭に相応の魔術的処置を施されていたものだろう。音速を超えて飛翔する雀の嘴は、間違いなく竜の鱗を貫くに至っていたのだ。その場に魔法生物学者が居たならば、苦痛に身を捩る生物がアジ・ダハーカと呼ばれる中東の毒竜であったことがわかったはずだ。そして、ミサイルで脇腹を穿たれた毒龍の傷口から、周囲に満ちる毒雨を遥かに超える毒をはらんだ血がほとばしることも。

 

 紫がかった液体がぼとぼとと作られかけていた屋根の上に降り注ぎ、じゅうじゅうとその表面を溶かしてゆく。いや。それだけではない。上空では更に数発のAIM‐7スパローが飛来し、爆炎と無数の呪術の効果とを撒き散らしている。撒き散らされるものは、西洋式の魔法で言うところの裂傷呪文(ディファンド)だの落下呪文(ディセンド)だの錯乱呪文(コンファンド)だのにあたるものだ。爆炎をかろうじて逃れたはずの空掛けるものたちの装備に裂傷が生まれ、箒ごと落下し、あるいはその場で敵味方関係なしに互いに攻撃しはじめる。

 

 もちろん、その効果は毒龍にも及んでいる。巨体は重力に引かれ、新たに裂かれた鱗から毒の血を撒き散らしながら落下を始める。落ちる先は、言うまでもない。降り注ぐ毒の原液から逃げ惑う避難民が集まる競技場の只中だ。

 

 競技場のあちこちで箒を求める声や盾の呪文(プロテゴ)を唱える声、その他諸々の現状に有効とめいめいが判断した呪文が唱えられる。その中にあって、誰が適切と言える行動をとったかは判断し難い。判断は下し難いが、ただ一つ、明らかなことがある。

 

「──これしか無い、これしか無いだろうが!」

 

 上空に飛んで、毒龍の体が落下する前にどうにかする、と判断したもののなかでも、すぐさまそれを実行できたのはただ一人、ドラコ・マルフォイ癒師だけだったということだ。なぜならば、いかなる道具も使うことなくその身ひとつで飛行する技を身につけているものは、他には居なかったのだから。

 

 かつて闇の陣営にあったころ身につけた技で、マルフォイは夜空を駆け上がった。毒龍はすでに、数発の空対空ミサイルの直撃によって息絶えている。ドラゴンの力をいかに無力化するかを考える必要はなく、いかにその巨体を落下させないかに専念すればいいだけだ。──だが、その「だけ」がどれほど難しいことか。

 

 衝撃呪文(フリペンド)を横から当て、盾の呪文(プロテゴ)緩衝呪文(モリアーレ)の力場を斜めに当てても、体長五十メートルを超す巨龍の体が落下する速度も軌道もほとんど変わりはしない。上方からも下方からも加勢は次々に現れている。けれど、そのどれもがそう役に立ちはしない。個々人の判断で加勢したものの集まりでは互いに言葉も通じないため、統制の取れた呪文の運用──例えば先に全員で浮遊呪文をかけ、その後然るべき処置をするとか──もできていなかった上に、誰も彼も乗っている箒が軍用だの警邏用だの、日用品よりも重く鈍重な箒ばかりで機動性すらろくに無いのだ。

 

「──ああクソ、誰でもいい、早く──」

 

 微塵も効果を現さない浮遊呪文を無言で行使しながら、マルフォイが助けを求めて叫ぼうとした、その時のことだ。

 

 びょう、と風が吹いた。その風は、

 

切り裂け(セクタムセンプラ)

 

 の呪文を運んでいた。ドラコ・マルフォイの目の前で毒龍の体が細切れにされ、黒い血が撒き散らされる、と思ったのもつかの間のことだ。次の瞬間には、

 

燃えろ(インセンディオ)

 

 との声が無数に飛び交い、龍の体を毒の血ごと燃やし尽くしていた。

 

 風が、ドラコの白衣を靡かせ、銀の髪を乱している。けれど、彼はそんなことには構うことなく、眼前に現れた闇祓いの背を見上げていた。聞き覚えのある、しかし魔法学校で習うわけではない強力な切断呪文を使いうる魔法使いを、彼は一人しか知らない。

 

 英王室近衛騎兵連隊(ライフガーズ)にも似た黒い制服姿が、くるりと振り向いた。丸眼鏡をかけ、癖のある黒髪の下、額に稲妻型の古傷をたくわえたその闇祓いが誰であるか、魔法学校で一度でも教育を受けたものならば答えられないものは一人も居ないだろう。

 

「──ポッター、ハリー・ポッター」

 

 ハリー・ポッター英国闇祓局長は、自らの名を呼んだドラコに向けて小さく頷くと、再度杖を振った。黒い炎を上げて空中に留まっていた毒龍の死骸が端から金の砂に変わり、風に流されてゆく。

 

 お前、ドラゴンを切断するような呪いをトイレで僕にかけたのか、とか、来るのが遅い、とか、ドラコの喉元には、言いたい言葉が無数に渦巻いていた。けれど、そのどれもが言葉として発せられるに至ることはなかった。代わりに彼の口から漏れ出したのは、

 

スニッチ(・・・・)は上だ、こっちに構うな!」

 

 との言葉だった。龍が光球を飲み込んでいたものか。ドラコの目は、金の砂の只中から飛び出てゆく光球を確かに捉えていたのだ。

 

 毒龍の血に汚れた顔で、ドラコは叫んだ。

 

「こんな試合早く終わらせろ、シーカー!」

 

 ハリーの目元に薄く笑みが浮かんだ、と思ったのもつかの間のこと。黒い制服を纏った背は、瞬く間に上空へと駆け上っていった。細身の箒から魔力の燐光が尾を引き、数多の魔法使いの合間を縫い、放たれる呪文を避け、夜空に軌跡を描く。超高速度と細やかな反応を兼ね揃えたその機動は、競技用の箒だけが成し得るものだ。

 

 空へ、空へと登ってゆく箒を眺めながら、ドラコ・マルフォイは汚れた顔を拭取呪文(テルジオ)で拭った。医療支援に当たる癒師は予め、耐毒、対呪術、耐感染症の癒療用魔法を厳重にかけている。毒龍の血程度ならば十分に打ち消して余りあるものだ。

 

 汚れた白衣を空中で焼き捨てながら、マルフォイは下方を見た。まだ屋根は閉じきっておらず、急づくりの屋根の合間からは毒に当てられた患者たちが救護テントへと運び込まれていくのが見える。マルフォイ癒師は自らの身体に満ちる魔力を操作し、迷うことなく彼の力が求められる現場へと降りていった。

 

 自らの領域へと降りていった癒師とは逆に、飛び交う有象無象の魔法使いたちの合間を縫い、炎の蛇をすり抜けながら駆け上る箒は、夜空にまさに雷鳴のような衝撃を轟かせている。それはなにも、ハリー・ポッターがこの場にいる、ということだけによるものではない。

 

「当空域にて大規模な時間遡行魔法が許可なく行われる可能性がある! 英国闇祓局は、時間遡行魔法に関する国際条約に基づいてこれを未然に防ぐべく出動している!」

 

 ポッター闇祓局長は、通訳魔法と拡声呪文ごしにそんな布告をあたりに響き渡らせているのだ。布告の内容そのものは、この場にいる誰もが知っていることに過ぎない。その布告の意味は、魔法界のテレビ局や新聞の放った使い魔、あるいは彼らと上手く提携することに成功したマグルのメディアにも聞こえる形で宣言されたことにある。

 

「私ハリー・ポッター英国闇祓局長は、当空域にて自国民保護に当たっている各組織にも、魔法族の良識に従った判断を期待するものである! そうではない者は、排除すべき敵と見做す!」

 

 言葉が響くに従い、焦げ付いた夜空に動揺が広がっていくのを穂村は目の当たりにしていた。ハリー・ポッターの名は、彼女も知っている。外国の魔法族統括機関との折衝のために急遽詰め込んだ魔法界の知識のなかで、燦然たる英雄として伝え聞いた名だ。

 

 高らかに英雄が告げる言葉は、夜空で繰り広げられる乱戦に一つの区切りを付けるに足るものだった。光球が時を操りうるものであることが宣言された以上は、その成果をかすめ取れば国際条約に違反するものとみなされる。自国民の保護を名目に争奪戦に加わった大半の魔法使いは、比類なき英雄とその部下たちの動向を伺うことを余儀なくされたのだ。

 

 残るは、条約にはじめから縛られていないものか、あるいは条約などもう気にしていないものばかりだ。前者の最たるものである天人と幽鬼の群れは、英国闇祓局の使う競技用箒の速度には到底追いつけはしない。陰陽寮の所属する〈日本魔法族評議会〉も条約を受け入れてはいないが、乱戦に加わるには構成員の力量が低すぎて、いまや戦火の届かないほどの高度でひとかたまりになって自らの身を守るのが精一杯の状況に追い込まれている。ゆえに、その行く手を阻むものはただ一つ、

 

「英雄殿、ハリー・ポッター局長! ここは日本魔法省の管轄だ、お帰り願おう!」

 

 そう叫んだ大烏の群れ、日本の闇祓いたちばかりだった。彼らはもはや、条約を守ろうという素振りすら見せるつもりはないらしい。

 

 烏姿の闇祓いたちは、英国の同業者たちにむけて一斉に銀のエネルギー体を放った。銀のエネルギー体は、守護霊のそれだ。けれど、放たれた銀光は、通常の守護霊のように個々人に割り振られた動物の姿を取ったわけではない。銀の光はひとかたまりとなって牡丹の枝となり花を咲かせ、英国闇祓局員の陣形をまるごと取り囲もうとする。

 

 まさにその時のことだ。

 

 遠い空で、無数の光点が瞬いた。それは、先程巨龍への攻撃が行われたときにも見られたものだった。ファントムが、再びAIM‐7スパローを発射したのだ。誘導弾は見る間に呪いの閃光を幾千万と咲かせ、烏姿を飲み込んでいく。牡丹の姿を取ったエネルギー体が偶然にも防壁の役回りを演じていなければ、英国人たちも同様の運命を辿っていたことは想像に難くなかった。

 

「あはは、こりゃあいい! お前たち、さっきの龍とおんなじ、怪獣みたいなものだと思われてるんだ!」

 

 無数の誘導弾が撒き散らす爆炎と呪いの合間に、甲高い子供の声が響き渡った。期せずして防衛のための時間を得る事となった英国闇祓局の箒が編隊を組み直し、日本闇祓部が炎を逃れようと逃げ惑うこの瞬間、高く、高く登ろうとしてゆく光の球を追っているのはギョクトと依代たちばかりとなっている。

 

「違う、予め要請していたんだ、周辺への被害が想定される事態となったら独自判断で航空支援を行うようにと!」

 

 遥か高みへと登ってゆく童子の姿に向けて、穂村は反論の声を張り上げた。けれどその声は、爆発音はおろか、穂村の後ろでかろうじて空中に留まる新米陰陽師たちの悲鳴にすらかき消されるほどのものでしかない。国は私達を見捨てたんだ、俺たちごと全員殺すつもりだ、もう帰りたい、志願しなきゃよかった──そんな悲痛な声が、呪符の作る僅かな安全地帯の中には幾重にも反響している。「学徒出陣組」の上げる悲鳴に心の底からの反論を行うことは、実のところ穂村ですらも出来はしなかった。

 

「あはは、認めろよ、人間たちはお前たち全員殺すつもりだぞ! だけど安心しな、ドーマ様、御前様がぜぇんぶ巻き戻して、クソみたいな人間どもはみぃんな消してくれるんだ!」

 

「黙れ、黙れ! そんなこと聞きたくもない──」

 

 陰陽師たちの悲鳴の中に、穂村の名を呼ぶ声が混じった。だが、それすらも置き去りにして、穂村は炎と呪いの中へと飛び出していた。穂村カツミは幾重にも貼られた呪符の結界を抜けて、ギョクトの後を追い始めたのだ。

 

 呪符の作る安全地帯の外へと出た瞬間、熱風と異臭が穂村を包み込む。誘導弾の推進剤だの燃焼剤だの毒龍の血だのが混じり合った空気は、吸い込むだけで喉が焼け付きそうなものだ。風の呪符で自身の周囲に風を起こしながら、穂村はあちこちの魔法使いが作る盾の呪文で爆風を避け、天人と幽鬼の群れを追う。

 

 混沌を呈していた戦況は、英国闇祓部の登場と誘導弾によって大勢が決まりつつあった。仲間と寸断されて組織的な行動が取れないものたち、あるいは十分な力量を持たないままにこの空に紛れ込んだもの自らを守るだけで手一杯となり、動くこともままならなくなっている。遥か天空へと登ってゆく光球を追いうるのは、穂村のように自らの身を顧みずに単独で天を目指す者を除けば、蟲に操られて損害などには目もくれない依代とそもそも物理的な攻撃を受け付けない幽鬼の群れと、防御の陣形で足を大幅に緩めながらも上昇を続ける英国闇祓局の一団、そして炎を逃れることに成功した日本闇祓部ばかりとなっている。

 

 その中で、穂村は依代の群れに次いで光球に近い場所に居た。これはごく単純に、陰陽師たちが早々に戦闘不能に陥ったために戦闘空域の最上部に陣取っていたことと、格段に早い速度を出せるはずの日英の闇祓いたちが互いに互いを攻撃しあい、元来箒が持つ速度を出せずに未だ穂村の足下にとどまっていたことによるものだ。

 

 けれど、穂村が先頭集団を追い抜くこともまた不可能かに思われた。頭上に陣取った幽鬼の群れは式神を何体放っても次から次に現れて、その向こうからは緑の閃光が降り注ぐのだ。これ以上上昇するのはおろか、呪符と護符が切れれば生き延びることすらもままなりそうにないのではないか。今更に、そんな恐怖が心中に湧き上がった時──

 

「穂村さん! 道を作る、走り抜けて!」

 

 そんな声とともに、銀の風が下方より吹き上がった。巨大な雄鹿を先頭に、獅子、鷹、鮫、一角獣と言った様々な姿の守護霊たちが天空に向けて群れをなして駆け抜けたのだ。吸魂鬼の群れに穴が空き、依代たちが跳ね飛ばされる。声の主が誰か、何を期待されているかなど、穂村には考える暇はなかった。靴裏に貼り付けた飛翔の呪符に魔力を通す、と意識すらしない内に、青い水干姿の陰陽師は燐光を放ちながら幽鬼らを飛び越し、赤い狩衣の童子すらも追い越していた。

 

 頭上には満天の星空が広がり、足下には焦げついた空の下、月よりまだ光を放つ東京の夜景がある。けれど、この夜空にある他の何よりも輝くのは、時の呪法を成しうる魔力の凝縮体、この空に集った全ての魔法族が追い求める光だ。

 

 その光を、穂村の手が握りとった。

 

 そいつをよこせ陰陽師、半端者がそんなものを持っていて意味があるか、穂村さんそのままこっちへ、英国が何の権限でこの空域で活動する──。そんな声が足元で渦巻き、体の周りに張り巡らせた護符が呪文の閃光に剥がされて落ちる。これはクィディッチではないのだ、たとえ誰かがスニッチを手にしたところで試合終了のホイッスルは鳴りはしない。穂村カツミがするべきことは、英国闇祓局に合流して手にした呪術の秘宝を引き渡すことだ。

 

「穂村さん早く! 敷島さんを見失ってるの、あまり長くここにいると──」

 

 幽鬼と依代と日英の闇祓いが繰り広げる三つ巴の争いの只中から、ミズホが穂村に叫んだ。御前の手から光球をもぎ取って空に放った秋津・ミズホ・ローレンスは、乱戦の中で英国闇祓部と合流していたものらしい。

 

 そうだ、自分の力量では、いまや依代どころか幽鬼が一匹目の前に現れただけでも命を落としかねない。すぐにでも英国の側に向けて飛ぶべきだ。そんなことは、穂村には重々分かっている。先程の宣言を行った以上、英国魔法省が手の中にある呪法を悪用するはずもない事も分かっている。分かっているが、穂村はすぐに動くことができなかった。どうしても、彼女の頭の中にはここにきて、一つの疑問がふたたび頭をもたげていたのだ。つまりは、

 

「──どうして、時間すらも思い通りにする力があるのに、なんだってそもそも世界はこんなありさまなんだ」

 

 という疑問が。

 

 夜空に、光点がいくつも瞬いた。このときばかりは敵も味方も関係なく、周辺に盾の呪文や防御の力場が張り巡らせられる。

 

「ああ。お前の疑問は正しい、穂村カツミ」

 

 防御呪文ごと誘導弾の爆炎に飲み込まれる魔法使いたちを眼下に眺め、太陽の如き光を手中に収めたまま空に立ち尽くす陰陽師の眼前に、音もなく一つの白い影が現れていた。

 

「ありがとう、これを手にしたのがお前でよかったよ」

 

 手の中の光は、知らぬ間に白い着流し姿の男の手に収まっていた。けれど、穂村にはそれを奪い返そうという気は起きず、眼前で穏やかに微笑む御神馬御前が成すところをただ眺め続けていた。

 

「お前の存在はなるべく残るよう、糸を紡ぎ直すことを約束しよう」

 

 止めろ。そいつにだけは使わせるな。そんな声も、強烈すぎる光に飲み込まれるに至っては、もはや穂村には届きはしない。

 

 黒い空が曙光のごとき白光に覆い尽くされ、都市も光に飲まれ、星すらも光に霞み──

 

 † † †

 

 そして、朝の光が、穂村の意識を覚醒させた。

 

 朝と分かったのは、窓の外、庭先に降りた雀たちがち、ち、ち、と鳴いていたためだ。神社の奥庭には鶏小屋があり、朝になると餌を横取りしようと雀がこぞって集まってくるのだった。

 

 しばし、寝起きのぼうっとした頭で雑然とした部屋の中を眺めていた穂村は、一分ほどの時間が経ったところで、飛び起きた。そこは、穂村の生家である神社だった。そこにいるはずのない場所だ、ということだ。

 

 穂村は寝間着の中に手を突っ込んだ。幻術や認識改変系の呪いの可能性を考え、対抗しようとしたのだ。けれど、何しろ寝間着でのことだ。そこには何の呪符も入ってはいない。

 

「はあ? 何だよ、一体何がどうなってんだ」

 

 空中に呪い避けの(まじない)を描いて発動させても、周囲にこれと言った反応は見受けられない。では、現実に穂村はいま、実家の自室で目を覚ましたということだ。

 

 目の前にあるものが現実であると認識するや、穂村は布団から跳ね起きて廊下へと飛び出した。

 

 どのような理由によるものかは分からないが、穂村があの東京の空から遥か遠く離れた実家まで移動しているということは、何らかの外的な要因によりこの場所まで移動させられたということに他ならない。穂村は、魔法界では指名手配されている身だ。神社には、魔法使いに頼んで場所を隠蔽する結界を張ってもらっていた。それにも関わらず、この場に穂村が居るということは。──

 

「親父、タツ兄、それからリュウ兄ミツ兄ちい兄! 生きてるか!」

 

 きしむ廊下を走り抜け、穂村は台所へと駆け込んだ。朝ならば、家のものはそこに集まっているはずだ、という記憶によるものだ。もし、そこに誰の姿もなければ、つまりは──。

 

 最悪の想像を巡らせながら息せき切ってビーズカーテンをくぐった穂村を迎えたのは、

 

「は?」

 

 という怪訝な声と、食卓についた穂村勝彦(カツヒコ)辰海(タツミ)からの冷たい視線だった。つまりは、「親父」と「タツ兄」だ。食卓の向こうでは、「リュウ兄」こと龍也(リュウヤ)、「ミツ兄」こと巳月(ミツキ)、「ちい兄」こと巳弦(ミツル)が慌ただしく動き回っている。──要は、いつもどおりの朝の風景だ。

 

「カッちゃん、その格好はヤバいだろ」

 

 ごく普通の朝の風景を前にしばらく静止していた穂村は、タツ兄のその一言で自身の体を見下ろし、奇声とともに廊下を駆け戻った。寝起きのまま大慌てで走り出したために、寝間着の帯は途中で解け落ち、寝間着そのものも半ば肩からずり落ちて、言ってしまえばほぼ完全に下着姿になっていたのだ。

 

「ちょっと、全くわからないんだけど、何で俺がこの家に居るのか誰か知ってるか?」

 

 可能な限りの速度で白衣(しらぎぬ)緋袴(ひばかま)を着込んで再び台所へ走り、ビーズカーテンから顔を出した穂村には、またもや怪訝な顔が向けられた。今度は父と長兄からのみならず、食事を運んでいる二番目から四番目の兄たちのぶんも追加されているからなかなかダメージは大きい。

 

「そりゃ普段着じゃないのは分かってるけど仕方ないじゃんか、いきなり帰ってきたもんだから他に服もないしさあ」

 

 今度の冷たい視線の理由がてっきり、巫女装束を着込んできたことに対するものと思った穂村は、服装についての弁明をはじめた。けれど、突き刺さる視線はなおもって凍てつき、穂村に突き刺さる。

 

「……カっちゃん、どうしたのほんと」

 

 一番歳の近いちい兄が、錯乱した人間に探りを入れるような口調で穂村に話しかけた。いくらなんでも、一人で大騒ぎしすぎたか。今更に羞恥心が湧き上がってきて、穂村が再びビーズカーテンの影に顔を引っ込めかけたときのことだった。

 

「帰ってきたって、どこから帰ってきたっていうのさ。マカトに通ってる夢でも見た?」

 

「え?」

 

 認識のズレを感じさせる言葉に続いて発せられた地名に、穂村は愕然と、ちい兄を見返した。そのときに、ビーズカーテンを握る手に力がこもったのだろう。バラバラと大粒のビーズが穂村の頭上から落ち、辺りに散らばる。

 

 何やってんだよもう、ホント大丈夫かお前、などなどと、聞き覚えのある口調で、聞き覚えのある声が四方八方から浴びせかけられるのを聞きながら、穂村はようやく、いまこの状況がそもそもおかしいということに気付き始めていた。目の前にはたしかに、穂村の四人の兄がいる。けれど、兄たちは長兄を除いてとっくの昔に家を出て、めいめいに働くなり家庭をもつなりしていたはずではないか。なのに、一体なぜ彼らは、ずっと昔からそうしていたかのように家にいる?

 

「ああもう、退けよ」

 

 呆然と立ち尽くす穂村を押しのけたミツ兄が、散らばった木のビーズに向けて、手にした棒を振った。棒の先から流れ出た魔力は、ビーズを元あった場所へと戻し、千切れた糸をも修復していく。魔法の杖と、西洋式の魔法だ。穂村の記憶する限り、彼女の兄たちの中には魔法学校に通ったものは誰ひとりいないし、そもそもこうも簡単に日常の中で魔力を使うことはない。

 

 見知った光景であるだけに、僅かな認識との齟齬が穂村にはとてつもない恐怖となって眼前に現れていた。恐怖は、元通りに修復されたビーズカーテンが誰かの魔力によってひとりでに開かれたときに頂点に達した。

 

「どうしたのかはわからないけど、とりあえず御飯を食べなさいな」

 

 台所から出てきて食卓に座りながら、母が穂村にそう呼びかけた。母、と分かったのは、その人物がごく当たり前のように父の隣に座り、穂村に声をかけたためだった。そうでなければ、たとえば庭先で偶然にその人を見かけただけならば、穂村はけしてそれが自身の母だなどとは思わなかっただろう。何故ならば──

 

「あ、やだ、──」

 

 指先に魔力を通し、空中に隠形の(まじない)を描いたのは、半ば反射的な行動だった。魔力の霧に身を投じたときに思い浮かべていたことと言えばただこの場を逃れたいという思いばかりであり、故に、一瞬の後に霧を抜けたときには、そこがどこであるのか穂村には瞬時には判断できなかった。だが、果たして明確に場所を思い描いていたとして、その場所が思い描いた場所であると分かったものかどうか。

 

 それは、夢幻のごとき光景だった。深い谷のはるか上空に巨大な石造りの楼閣が浮かび上がり、周囲を膨大な数の建造物が衛星のごとくにめぐっている。白い帯が楼閣の周囲を幾重にも取り巻いているように見えるものは、宙に配置された建物をつなぐ大理石の回廊だ。人の科学で作りうるものではない。魔力を、体系だった高度なやり方で行使したときにだけ可能な、人智を超えた業だ。

 

 対する谷の底には、穏やかな田園の風景が広がっている。その景色にはどこか見覚えのある気がしたが、すぐには脳裏に思い浮かびはしない。

 

「ここは──一体、ここは」

 

 壮大な異景を見上げていた穂村が、疑問の言葉を口にした途端のことだった。

 

「ここは、マカトだ」

 

 小さな破裂音とともに、目の前に前触れなく人影が現れていた。魔法使いの移動呪文だ。

 

「穂村カツミ。ふむ、妙なことだ、まさかお前も()()()()()とはな」

 

 真白い着流しを着て、腰に一振りの刀を差したその姿は、見間違えようもない。

 

「敷島さん……いや、御前、か?」

 

「どうとでも。あまり下に長く居ると魔力が乱れる、話は上に行ってからだ」

 

 短く言い捨てると、御前の姿は黒馬に変わっていた。乗れ、というのだろう。

 

 いつしか、畦道には天から続く白い大理石の道の一本が羽衣の舞い落ちるようにその端を降ろしている。黒馬は穂村を乗せると高らかに嘶き、天へと続く白い道を駆け上っていった。

 

 天空より谷を見下ろす巨大な空中楼閣は、魔法魔術学校なのだという。確かに、中空に浮かぶ石造りの建物は、あのはるか南洋の島に所在していた魔法学校に似ているようにも見受けられた。

 

「元々は、京都にあったんだがな。何かとこちらのほうが便利だということで移転したのが、元の歴史でいうと平安の末期頃になるのか」

 

 魔法学校を見下ろす位置に、その屋敷はあった。大都市たるマカトにあっても、魔法学校よりも上空を回遊しているのは各種公的機関を除けば敷島の屋敷くらいなのだ。──と屋敷の主人は説明したが、空中に浮かぶ家々の高度が果たしてどのような意味を持つのか知らない穂村には、曖昧に微笑む他には反応のしようもない。

 

 それでも解る情報だけを拾い集めて、穂村はうっすらと感じていた無数の違和感を一つの確信に変えていた。たしかにあの谷底の景色はマカト村のそれとおおよその地形は一致していた。けれど、それ以外の何もかもが様変わりした有様を説明しうる理由は一つしか無い。

 

「つまり、御前。お前は、歴史を書き換えたのか。ほんとうに、望むがままの世界にしたと」

 

 御前は、穂村の問いに対し、静かに頷いてみせた。

 

「それを問うということは、本当にお前にはこちらの記憶はない……というよりも、未だ、元の世界の記憶しか持っていないのだな」

 

 空中都市を見下ろす大きな飾り窓に腰掛けたまま、御前は穂村に問いかけた。いや、問いかけたと言うよりは、ただ自分自身に確認した、と言うべきだろう。その問いが発せられるとともに御前の手は燐光をまとって振られ、穂村の眼前には現実のものならぬ景色が目まぐるしく現れていたからだ。

 

 それは、穂村の古い記憶だ。魔力の使えないほどに小さな頃、神事を穂村カツミは眺めている。長い髪を持つ巫女がその身を蛇に変え、父や兄たちが大蛇に対して祝詞を捧げるのを見つめる穂村には、それがどうにも恐ろしいことに思われていた──。それより下ること数年、魔力が発現した穂村のもとには魔法学校からの入学案内が届く。けれど、案内状は巫女姿の女の手に取られる。あいつら、蛇が嫌いなくせして案内だけは送ってくるんだから。そんな言葉とともに案内状の表面に「入学拒否」との文字が焼き入れられるのを、穂村は眺めていた。炎を操る女の手には、銀の鱗が浮かんでいる。蛇の鱗だ。──銀の鱗に覆われた女の肌と、それを見る時の言いようのない恐怖は一つの記憶を連想させ、思い起こさせようとする。だめだ。それは思い出すべきではない。意識を逸らそうとするが、記憶はまるで無理矢理に暴かれているかのように、傷のごとき秘部を詳らかにしてゆく。

 

 炎の元、兄たちの唱える祝詞に囲まれて、銀の鱗を持つ半人半蛇の異形が嘆いている。否、それを嘆きと解るのは、穂村が蛇の舌と耳を持つゆえのこと。余人にはただ、しゅうしゅうと蛇が息を吐いているとしか思われなかっただろう。畏れるな、畏れは祟りを呼ぶ。父のかすれた声が祝詞に混じって社殿に響くが、その言葉はもはや蛇の耳には届いてはいない。嫌だ、見たくない、見るな。閉ざそうとする心を拓かれ、押し入られる感覚に、穂村は絶叫する。記憶の主に呼応するように、篝火の前では蛇がのたうち回っている。腰から上だけ残る女の半身の回りには黒い靄が渦巻き、焔が乱れ、社殿の壁や床板に獣の爪痕の如き傷が次々に穿たれながら穂村の眼前へと迫り──

 

「成人後、血の呪い(マレディクタス)を苦にしての、オブスキュラスの発症か」

 

 気づけば、穂村の目の前には巨大な飾り窓と、燦々と差し込む陽光が戻ってきていた。けれど、巫女装束姿も渦巻く長い髪も、畳の上に仰向けに投げ出されたような格好のまま動きはしない。

 

「魔法の未発達な地域ではあり得る症例と聞くが。二〇世紀の日本でもあったとはな……まあ、時代錯誤さについては人のことは言えないが」

 

 虚ろな目の前に、御前の手がかざされた。暴かれた傷の痛みに動くこともままならなくなっていた穂村は、ようやく身を起こし始める。ただし、その動作はぎこちなく、何かに操られているかのようなものだ。──服従呪文(インペリオ)がかけられている。

 

 御前は穂村を眼前に跪かせると、赤い髪に指を掻き入れて両手でその頭を抑え込んだ。

 

「安心しろ、お前の恐怖、お前の苦痛は今日終わる。何もかもすべて、忘れさせてやろう」

 

 繋がったままの魔力が穂村の体内で弾け、脳を焼く。無理矢理に拓かれ、穿たれた傷が深いだけに、服従の魔法に伴う至福の感覚はことさらに強くその身を震わせているはずだ。注がれた魔力が穂村の脳に走る電気信号を操作し、脳に積み重なった記憶を消し、新たな記憶へと書き換えんとする、その刹那。──

 

 穂村の頭を掴んでいた両手が下方より弾かれ、次の瞬間には跪いていた姿は下方へと飛び退っていた。

 

「読心術かよ、本当に魔法使いってのはなんでもありだな」

 

 飛び退った穂村の指先が宙に(まじない)を描き、防御の力場が周囲に生み出された。穂村も本気でやりあうこととなれば目の前の男に敵うはずもない事はわかっている。だが少なくとももう一度同じように心を暴かれるのは御免蒙りたかったのだ。

 

「読むのではない、開かせているんだ。お前の心には隙がありすぎる」

 

「出来るとも思わないことに対策のしようがあるかってんだよ、クソ」

 

 本気でやりあえばほんの数秒もかからずに穂村をねじ伏せられることは、御神馬御前の側でもよく分かっていると見える。御前はおよそ二メートルほどの穂村との間をあえて詰めることもなく、あくまで余裕ぶった様子で語りかけた。

 

「お前の母は、この世界では生きている。血の呪いも十分に魔法薬でコントロールしている以上、ただの動物もどき(アニメーガス)の一人にすぎない」

 

 言葉ばかりは、防御の(まじない)でも防ぎようはない。覗き見た記憶に沿って放たれる言葉は、それだけで開かれたばかりの古い傷を抉るようだ。──否。間違いなく、その言葉は穂村を動揺させ、自ら服従を受け入れさせるために放たれていた。

 

「自らの身が母のように蛇へと変わることを恐れる必要も、そも、無知ゆえに家族皆で母を殺した記憶に苛まれることすらもなくなるというのに、何故それを拒むのだ、穂村カツミ」

 

「それ、は──だって、あれは」

 

 そして、御前の思惑は、悲しいほどに効果を発揮していた。ただ、投げかけられた言葉だけによって穂村の脳裏にはその時の光景が蘇り、呼吸さえも乱れさせる。

 

 「祟り神」となった母、穂村辰乃(タツノ)が炎を散らし、暴走した魔力を纏って社殿の中を荒らして回り、そして、その場に居た穂村の元へと迫った、その次に眼前に広がったものは、一面の赤だった。

 

 ──祟り神となったものは、もはや元へと戻すことは不可能。底の国根の国へお還しする他ない。

 

 父がそう言って、鱗に覆われつつある母の喉元へと懐刀を突き立てているのを、穂村は見た。父は常人の両親のもとに生まれた異能者、魔法界で言うところの「マグル生まれ」かつ魔法教育も受けていない「半端者」だ。使いうる異能の数はごく限られており、娘を巻き込んで暴走する「祟り神」を確実に止める方法は物理的な攻撃の他にはなかったのだ。

 

 のたうち回る大蛇の胴に次々と炎が巻き付き、鱗を灼き、肉を灼き、寸断していくさまを穂村は余す処なく眺めていた。穂村の一族は、およそ炎の呪術を得意とする。兄たちが絶叫とともに魔力を火に変え、母の体を切り刻んでいくさまを、穂村は眺めていた。ただ眺めていたのだ。──

 

「お前は言ったな、どうして世界はあんな有様だったのか、と」

 

 御前が額に指を当てて銀の靄を引き出し、窓に向けて放った。飾り窓が一度白く曇り、再び晴れたときには、窓の向こうにはここではない場所の景色が映し出されていた。

 

「そうだ、あの世界は間違っていた。だから、私は因果の糸を一つずつ解きほぐし、全てを紡ぎ直したぞ。歪められた歴史を直しきったのだ」

 

 御前が大仰な身振りとともに熱弁を振るう、その背に映し出されるものは、異界のさまざまな景色だ。

 

 繊細な飾り窓から眺める景色は、美しかった。空中都市の建物という建物は碧玉やサファイア、瑪瑙、緑玉、縞瑪瑙、赤瑪瑙、橄欖石、緑柱石、黄玉石、翡翠、青玉、紫水晶とも思しき色に輝き、それぞれをつなぐ立体的な通りは透明でありながら黄金の光を放っている。水晶柱のごとき建造物の合間を緩やかに行き交うのは、天馬や見たことのない飛行具に乗った人々だ。

 

「もはや力を隠すために苦しみが生まれることなどはなく、人々は労役からすらも開放され、数百年数千年を超える生を思うままに過ごすことができる。我々が、正しく力を使ったのがこの世界だ」

 

 窓には、劇場で披露される天体の演劇や、本を開くだけで映像として再生される冒険物語、美しい妖たちの奏でる天上のもののごとき音楽が次々に映し出されていく。それはまるで、

 

「神の国を、この世に現出させたのか」

 

 と、穂村が呟いたとおりの有様だ。異界の記憶を持つものの感想に、白い着流し姿の男は柔らかに微笑んだ。

 

「そのとおり。いまや、この惑星は我らの楽土だ。お前も魔法の力を持つものだ、神州に生きる資格を持つ」

 

 燐光を纏った手が、穂村に向けて伸ばされた。その手を取れば、たちまち穂村の記憶は組み替えられて、この世の楽園とも思しき世界に順応した人格に書き換えられるのだろう。

 

 ──……──

 

 穂村の肩は一瞬、何かに驚いたようにビクリと震えた。けれど、それ以上に腕が動くことはなく、穂村と御前の間には、相変わらず空間が横たわったままだ。

 

「……御神馬御前。歪められた歴史を直したと言ったが──では、歪められた歴史で栄華を誇っていた人々、お前たちの言うマグルはどうなった」

 

「なんだ。そんな事を気にしているのか。彼らは、彼らなりに幸せに過ごしているよ」

 

 御前がちらりと横へと目をやった途端、音もなく襖が開いて使用人たちが入ってきた。いや、使用人、と言うにはその風体は、明らかに異様だった。単衣(ひとえ)姿の人々はどうやら茶を運んできたものようだが、一様にその顔には「天人」と書かれた布面をつけており、動作も機械的な、ぎこちないものだ。その様子は、穂村の主観ではそう遠いわけではないあの夜、御前が引き連れていた依代と思しきものたちの群れと酷似している。──あるいは、敷島エイシュウの記憶の中で見た、小さな世界の幸福を享受する村人たちの姿にも。

 

「常人を、依代にしているのか」

 

「依代。ああ、陰陽道だの修験道だのではそう呼んでいたのだったかな。彼らは天人だよ」

 

 茶を運んできたものの一人はその場に残り、御前の前に跪いた。いつ行使したのかは分からないが、魔力を使ってそのように命じたものだろう。

 

 物静かに指示を待っていた天人の様子が変わったのは、御前の手がその頬に触れたときのことだった。悲痛な声とともに天人はその場にうずくまり、その足元にはなにかがべちゃりと産み落とされた。──腹中蟲だ。

 

「申し訳ありませんっ、なにか、粗相があったのならば謝ります──」

 

「いや、何かあったわけではない。質問をしたいだけだ。天人よ、お前は蟲を孕むことに嫌悪はあるか?」

 

 腹中蟲を腹から取り除かれた天人の娘は、半狂乱で首を左右に振った。

 

「いいえ、そんな訳ありません、天蟲がないなど耐えられません、どうか天蟲を戻してください」

 

 御前が穂村を見た。その顔には、どうだ、と言いたげな表情が浮かんでいる。

 

「こういうことだ。我々は大昔からこのようにして彼らと共存してきている。考えてみろ、あちらの世界でマグルたちの誰もが一様に幸福であった時代など存在したことがあったか? なかったろう。この世界では、違う。天人たちは我らの庇護のもとにある限り、労働すらも幸福のままに遂行することが出来る。一体それの何が悪い?」

 

 蟲を取り除かれることは、耐え難い苦痛であるのだろう。あるいは、文化的な禁忌として刷り込まれているのかもしれない。美しい風景を背に熱弁を振るう御前の足下では、娘が白い着物の裾へと縋り付いている。顔を覆う布がはらりと落ちたのは、なにかの拍子に飾り紐が緩んだものか。

 

 落ちた布の下から現れた顔は、穂村を戦慄させるに足るものだった。

 

「お前、その子は」

 

 衝撃に顔色を無くし、言うべき言葉すらも見つけられずに居る穂村を横目に、飾り窓の前には黒い馬の姿が現出していた。幾度か見たはずの動物もどき(アニメーガス)の姿でさえも禍々しいものに見え、穂村が後ずさったのは、開かれた黒馬の口から新たな腹中蟲が顔をのぞかせていたためだ。

 

 異界の記憶を持つ来訪者の抱いた嫌悪とは裏腹に、蟲を口に含んだ精悍な黒馬は、天人にとっては救い主にも等しい存在であるものか。蹄が自らの腹を踏んで畳の上へと押し付け、鼻先が単衣の裾を割り開くに至っても、娘の顔に浮かぶものは恍惚ばかりだった。駻馬が娘の胎へと新たな蟲を植え付けるさまを眼前に、穂村が頭を抱えたのも無理はあるまい。何しろ、法悦に身を捩らせる女は、

 

「その子は、秋津さんじゃあないのか」

 

 と、穂村が思わず問いかけるほどに秋津・ミズホ・ローレンスに似ていたのだ。

 

 もちろん、日英ハーフのマグル生まれの魔法使いであるミズホが、マグルが魔法族によって蚕のごとく無力な家畜とされたこの世界に同じく存在しているはずもない。ただ、一体どのような出自であるのか、肌の色までもミズホに酷似した天人を御神馬御前がこの場に留まらせているのは、どう考えても意図的なものとしか思い難かった。

 

 黒馬は蟲を与え終えると、更にその口に深くくちづけを落として天人の娘を悦ばせはじめた。この世界を受け入れれば、自らの手でかくも幸せを与えてやれるのだ、と言わんばかりに。

 

 ──…………──

 

 穂村は、神の国を映す窓の前で行われる馬と娘の交合とも思しき光景を前に、再びぴくりと肩を震わせた。かすかな声が、彼女の耳へと届いたのだ。実を言えばその声を聞いたのはそれが初めてではない。つい先程にも一度、穂村はかすかな声を聞き取っていたのだ。

 

 ──我ハここニ──早ク実体ヲ────

 

 風の音にも似た声へと意識を集中させれば、それが確かに意味を持った言葉であることが分かった。その声に、どうやら御前も初めて気づいたものらしい。何かを言ったか、といいたげに黒馬が穂村の方へと首を向ける。穂村が聞くことができ、動物もどき(アニメーガス)もまた聞き止めることの出来る声。その条件を満たすのは、蛇の声しかあるまい。だが、一体この場のどこに蛇が居るというのか。──

 

 ──魂ガ我ヲ巻キ込ンデ──今ナラバ───

 

 続き、蛇の声が新たな言葉を伝えた。それが、きっかけだった。

 

「──ああ。そうか。あのときか」

 

 穂村は、声の伝えんとすること全てを理解していた。

 

 あのとき。すなわち、底根で何を成すかわからない祭文を兎耳の童子が唱えたとき、穂村もまた祝詞を唱えていた。蛇神を降ろして、鎮守の神が居なくなるのを防ぐための祝詞だ。祭文の解釈を間違えていたために、その祝詞は結局なんの役にも立たなかったかと思われていたが、けれど、どうやら今の言葉を聞く限り、けしてそうではなかったらしい。

 

 御前もまた、同じ事に気づいたものだろう。黒い毛皮が退色し、馬の首が人のそれへと変わり、元の姿へと戻ろうとする。それは、ごく一瞬のことだ。そしてそれは、西洋の魔法ならば、一つの呪文を使うに足る時間でもある。

 

 その一瞬を、穂村は逃しはしなかった。

 

「──蛇よ、出よ(サーペンソーティア)!」

 

 蛇を出現させる呪文を、穂村は高らかに唱えていた。呪文は正しく魔力を具現化させ、人の姿となった御前の胸元から、白い蛇が皮膚を食い破るように出現する。

 

「穂村カツミ、貴様、なぜ──」

 

 無論、蛇は直接に御前の体から現れたわけではなく、胸元には何らの傷も存在してはいない。だと言うのに、御前は両膝を着いて苦しげな息を上げている。

 

 蛇よ出よ(サーペンソーティア)とは、自らの魔力を具現化させる種類の魔法だ。魔法教育NGOの教師が説明した言葉を、穂村は思い出していた。魔力を使って世界に影響を与える方法は、文化圏によって多種多様な様式が存在する。陰陽道や修験道、神道ももちろん、その様式の一つであるのは言うまでもない。けれど、同じ結果になるならば最も短いものが便利で、往々にしてそれは魔法の呪文が該当するものだ。──そんな説明には随分と気分を害しつつも、たしかに祝詞で蛇神を降ろしたときと同種の結果が齎されることは認めざるを得なかったものだった。

 

 してみると、マカトの地下空間で穂村が降ろそうとした蛇神もまた、穂村の魔力そのものだった。ただし、魔法の呪文と違い、祝詞での魔力の具現化には相応の時間がかかる。なので、具現化させようとしている内に穂村の魔力は、より強い呪術の効果に巻き込まれてしまっていたのだ。つまりは、二つに分かたれていた魂を一つに戻す呪術に。そして、蛇になりかけていた穂村の魔力は言うなれば魂の割れ目に挟み込まれたままとなり、はるばる歴史の改変された異界でようやく具現化されたというわけだ。

 

 いま、蛇の口には白く輝くエネルギー体がある。敷島エイシュウの、二つに分かたれた魂のうちの片方だ。その光に向けて、御前の手が伸びる。分霊を引き剥がしても未だ、御前としての意識は保たれたままであるのか。──否、そうではない。

 

 ──穂村、窓を割る、俺に乗れ!

 

 大蛇が魂を飲んだ次の刹那、穂村の耳にはそんな声が聞こえていた。それは蛇の声であるとともに、聞き覚えのある口調でもある。

 

「敷島さんか!?」

 

 二つに分かたれた魂のうち、穂村が現出させた蛇が引き剥がしたものは、元来「敷島エイシュウ」だった側の欠片であったと見える。蛇の喉を借りてしゃべるその口調は、間違いなく敷島エイシュウのそれだった。

 

 穂村は白い鱗の上へと飛び乗りつつ、畳の上へと倒れたままの天人の娘へと視線をやった。それが、ミズホでないことは分かっている。分かっているが、知人にあまりにも似たものが家畜のように扱われているのを前に、放っておくのもあまりに気が引けたのだ。

 

 エイシュウも同様に考えたものか、蛇の尾が娘の体へと伸ばされる。赤い単衣の上に蛇の尾が巻き付き、その体が持ち上げられ──

 

「──マグルの小娘に構うなど、つくづく甘いな、敷島エイシュウ!」

 

 そして、憎悪に満ちた声とともに、大蛇の尾が両断された。いや、両断されたのは大蛇だけではない。蛇の尾が包み込んでいた娘の体が、まるごと両断されていた。蛇の絶叫とともに清らかな座敷には血が吹き上がり、畳を赤く染める。

 

 ──ああ、畜生──

 

 尾を断たれ、掴み取ろうとした命を無残にも殺された痛みに絶叫を上げながらも、分霊を呑んだ大蛇は真っ直ぐに飾り窓へと這い寄った。蛇の頭がガラスに叩き付けられ、天の国のごとき景色にはヒビが入り、断片となり、砕け落ちる。白い陽光を受けてきらめくガラス片とともに、大蛇は空中都市の只中へと飛び出していた。

 

 ──この体では魔法が使えない、下に向けて緩衝呪文(モリアーレ)を!

 

「モリアーレ? ええと、それは……」

 

 ──クッション呪文だ、魔法所でお前らを秋津が受け止めてたろう!

 

 穂村は、指示通りの魔法を下方へと向けて唱え、魔力を放った。宙に重力や運動エネルギーを緩和する力場が生まれ、白い大蛇はゆるやかに宙を舞い降りていく。穂村の唱えた呪文は、完全に正しく発動していたのだ。

 

「ウッソだろ、一発で成功した!?」

 

 成功させた当人すらも驚きの声を上げる傍ら、それが当然のことかのように大蛇はしゅうしゅうと息を吐いた。

 

 ──当たり前だ。呪文なんて、結局はどう力を使うかの問題だ。見知らぬ誰かが作った効果も知らない呪文でもない限り、失敗するほうがどうかしている。

 

 魔法は、違う方法でも同じ効果を生むことができる。それは今しがた祝詞で編まれかけた魔力を魔法の呪文で具現化させたことで解るとおりだ。さらには、ときに詠唱を破棄し、道具を介さずとも使えることもよく知られている。極論を言えば、魔法を使うにあたって必要なものは、複雑な呪文や不思議な力を秘めた道具などではない(・・・・)のだ。

 

 ──魔力と、魔力を正しく現実世界に反映させるためのイメージ。その二つさえあれば大抵のことはできる。呪文だの杖だのは、イメージを動作や音声に関連付けして、増幅するための補助具にすぎない。

 

 大蛇の体が揺れ、穂村にも軽い衝撃が走った。緩やかに降下していた大蛇がついに地の上に降り立ったのだ。

 

 谷底には、無数の人影があった。現代人とは思い難い服装であるのは魔法使いと同じだが、明らかに違うのは、彼らのまとう装束があまりにも粗末な着物であり、顔に「天人」と書かれた布面を付けている点だ。

 

 ──馬鹿げた歴史を作り上げやがったもんだ。世界中をマカト村にして、魔法使いだけの楽園を作りあげたんだ。技術の発展もなにもない、ただ生まれ持った力の恩恵だけによって数百年数千年を神々のように暮らすものたちのための、穏やかな衰退を約束された世界だ。

 

 天から巫女を載せた大蛇が降ってきたにもかかわらず、天人たちは各々の命じられたであろう作業をただ黙々と続けている。季節は初春だと言うのに真夏のように青々とした水田では刻々と稲が育ち、見る間に稲穂が黄金色に染まって行く。魔法で成長速度を早められているのだ。けれど、その一方で育ちきった稲穂を刈る作業もその稲穂を脱穀する作業も、手作業だの千歯扱きだので行われるのだから確かに技術の発展もなにもない、と言わざるを得まい。

 

 ──上に向けて防壁を! 連続で張り続けろ!

 

 蛇の吐息が警告を発するが早いか、見かけばかりは明るく牧歌的な田園に、神の雷とも思しき閃光が一挙に降り注いだ。頭上に手を突き出して張った防御の力場は、作る端から壊れて落ちる。だが、幸いと言うべきか、物理攻撃が含まれていないだけに魔力を防御に転換させ続けてさえいれば防ぎきれない攻撃ではない。防御ならば、元々まじないという形でも呪符という形でも幾度となく行使している。動作を省略するのは容易だった。

 

 ただし、それは穂村と大蛇だけに限った話だ。辺りではうめき声も上げずに人が次々と倒れ伏していく。呪文の攻撃は、水田で農作業をしていた天人たちを直撃しているのだ。

 

 頭上を飛び交う箒の群れに向けて、穂村は防壁を出しているのとは逆の側の手を向け、振り下ろした。風の魔法だ。これも、呪符に同様の効果があるだけに想像は容易い。谷の合間にびょう、と俄に風が吹き始め、風は瞬く間に暴風に変わり、箒同士がぶつかりあい、魔法使いが吹き飛ばされ、谷の断崖へと激突する。

 

 家畜化された人を飼うための蚕棚ならぬ天人棚には、ここに来て初めて喧騒が満ち始めていた。周辺で大量の魔力が使われれば、蟲経由で常に掛け続けられている呪文の効きが悪くなる。まず普段は味わうことのない不安に天人たちが混乱しているのだ。

 

 混乱の中を、大蛇はひたすらに谷の奥へ、奥へと駆け抜けてゆく。谷の最奥部、左右の断崖が合わさる場所に魔力の燐光が光るのを見て、穂村は目を細めた。

 

「あれは、一体──?」

 

 断崖の最奥には、燐光を放つ鳥居があった。その向こうにあるものは、本来ならば断崖に開いた地下への入り口ばかりであるはずだ。けれど穂村の目には、鳥居の向こうに広がる遥かな荒野と、広大な空間が映っていた。

 

 ──時を超えた場所だ。時の呪法の要たる場所、すべての生命の行き着くべき場所。

 

「それは、つまり」

 

 白銀の大蛇は、鎌首をこくりと縦に振った。

 

 ──死の国。冥府、彼岸、常世、あるいは、底根の国、とでも言うべきか。

 

 元々の歴史において、底根と呼ばれた地下の「姥捨て山」へ続いていていたはずの鳥居が、今や本当に死者の国と現世を繋いでいる。説明されても言葉以上の意味は理解できないながら、穂村はたしかにゆくべき先がこの世ならぬ異界であることだけは感じ取っていた。けれど、不思議と恐怖はない。むしろ、三角の不思議な文様の刻まれた異界への門をくぐり抜けた瞬間、言いしれぬ歓喜が穂村の心中に湧き上がったほどだった。

 

 光る荒野の中、天空よりさかしまに生える大樹がある。

 

 いや。大樹と見えたのは、遠目であったがゆえのことだ。どこまでも暗く、真っ黒な地平を踏破してよく近づけば、それが木ではないことがじきにわかってくる。

 

 それは、糸だった。何千何万もの糸がより合わさった、糸の塊だ。純白の天から糸が垂れ下がり、互いに撚り合わさり、ときにときに一つの巨大な幹を成し、ときに枝分かれしてゆくことで木のように見えるのだった。

 

 大蛇は大樹の下でとぐろを巻き、ほのかに色づいた糸の端緒を鼻先で指し示した。

 

 ──穂村。ものを動かす呪文は使えるか。使えるなら、この糸を解くことをイメージして、魔力を──

 

 と、説明どころか次の指示も半ばに、蛇の胴が大きく波打った。跳ね飛ばされた穂村が着地のために緩衝呪文を展開する間に、それは起きていた。

 

 魔力で編まれた大蛇の長大な体が幾重にも分かたれ、ただの魔力へと還元されてゆく。一筋の流れをせき止めたものは、何処に有るか。──などと、探すまでもない。

 

「敷島エイシュウ。我が半身ながらつくづく馬鹿な男だ」

 

 魔力の粒に照らされて、大樹のたもとにその男は立っていた。敷島エイシュウの体をついに自らだけのものとした、御神馬御前だ。

 

「折角幾億の運命、幾兆の生命の連続を紡ぎ直して完璧な世界を作り上げたというのに、それを壊そうとするなど」

 

 御前は慈しむように大樹の先に手を伸ばし、僅かにその先を解いてはまた撚り合わせてみせた。途端、糸の先からは黒い砂や白い光が生じて漆黒の地平や純白の天堂へと還ってゆく。まるで、生命がこぼれ落ちるように。

 

「生命の樹。あるいは、世界樹」

 

 運命の糸、生命の連続を表す糸を指先で弄びながら、御前はもう片方の手を無造作に振った。途端、荒野をなす黒い砂が凝縮され、礫となり、穂村の背を撃つ。

 

「分かるか、穂村カツミ。この大樹すべてが人類、いや、森羅万象の因果の積み重ねなのだ。宇宙の歴史、宇宙のすべての可能性がこの場所にある。いまや、人類はそれを恣に操作しうる。これこそが時の呪法の真価、魔法族の悲願なのだぞ」

 

 続き、手足の付け根で何かが破断するような感覚に襲われ、手足の自由が効かなくなるのを穂村は感じた。拘束のための呪文の類ではない。手足の骨が根本で破砕されている。遅れて全身に駆け巡る鈍い痛みに、穂村は絶叫した。

 

 痛みのなか、ざあ、と砂の擦れ合う音を穂村は聞いた。あるいはそれは、烏の鳴き声であったのかもしれない。があ、があ、と烏の声が死の世界に渦巻いている。砂が集まって烏の姿をとり、御前の周囲を飛び回っているのだ。幽鬼を侍らせていた男は、死の世界にあっては死を運ぶ|禽を侍らせているのか。

 

 否。

 

 大地を(とよ)ませる声はいつしか、

 

「然り、然り」

 

 と唱和する百千の声へと変化していた。砂礫の軋みは、砂の禽がぶつかりあい、新たな形を成してゆく音だ。黒い荒野には、あらたに千万の人影が現れていた。土でかたどられた人の似姿たちだ。

 

「我らは、人間との関わりを悪しきことと考え、人の世から隠れ、存在を気取られぬことがあるべき形と、人の世にとって最も善き形と信じていた。ゆえに楔として、番人としてこの地にありつづけてきた」

 

 人形の姿は、死者の姿を模しているのだろう。トーガを纏った古代ローマの軍人やミノアの巫女、エジプトの神官、中国の官吏にカトリックの聖職者、その他見たこともないような装束をまとった死人たちだ。よく見れば、その中には烏に似た装備を身に着けた一団も混じっていることに気づいただろう。

 

「だが、ここにそうではない可能性があることを知ったのだ。世のはじめから我らが世界を管理し、死すらも超越し、現世とこの場所を繋いだまますべてを善き状態に保つ可能性を。我らが作り上げ、愛すべき世界を守り続けてきた呪法でもって、より大きな善をなしうる可能性を知ったのだ」

 

 古代より現代まで、ありとあらゆる文明の中で発生した魔法族とマグルの軋轢。その果に顕現した時の呪法のために死したものたちが一堂に会し、一斉に声を発するのだ。喧騒が死の空間に充ち、黒い砂すらも擦れ合ってあるべき静寂を打ち壊す。

 

 黒い砂の上で痛みに呻きをあげながら、穂村は鈍い光を見た。瘴気をまとった刃が、喉元に突きつけられている。逃げようにも、もはや手足は動かすこともままならず、逃げるとすればそれこそ蛇のように這い回るしかないだろう。

 

 そうだ。それしかない。

 

 穂村はひとつの可能性に気づき、妖刀を握る男を睨めつけた。御前は、悠然たる様子を崩すことなく穂村を見下ろしている。

 

「さあ。選べ、穂村カツミ。今すぐにその身を砂礫へと変えるか、それとも大人しくこの世界の理に身を任せるか」

 

 悶え苦しみながらも、穂村は息を整え、口を開いた。

 

「まさか。むしろ、どうして歴史を変えうる魔法がひた隠しにされていたかよく理解できたよ、お前のようなクソ野郎が好き勝手するのを防ぐためだったとな。それに、何より──」

 

 御前の目が月のように細められ、刃がひょう、と持ち上がる。()()()()()()

 

 白天より燦々と降る光を照り返しながら、妖刀が振り下ろされる。白い弧を引く刃を眺めながら、穂村は自らの身に起きる変容を受け入れ、叫んでいた。

 

「──何より、この世界には、ポケモンもゲーフリも任天堂もないだろうが!」

 

 きいん、と、金属音を立てて刀が折れ飛んだ。一体何故か。疑問の答えは明白だ。一ッ目虎動は振り降ろされた先で、硬い牙に噛み砕かれている。大蛇の牙に、だ。

 

「あ──はは、そうか、血の呪い(マレディクタス)

 

 忽然と現れ、妖刀を噛み砕いた大蛇。それは、血の呪い(マレディクタス)によって穂村が母から受け継いだ形質が解き放たれた姿に他ならない。

 

 白銀の大蛇は、もはや折れた刀を握る御前のことは微塵もかまってはいなかった。大蛇はさかしまの世界樹、あるいは生命の樹に向けて鎌首をもたげ、その幹へと絡みつこうとしている。

 

「そんなことで! そんなことで邪魔をさせるか、ようやく作り上げたんだ、ライトが見つけ出した道筋をたどって、ようやくすべての罪をなかったことにしたのに!」

 

 御前からは、いまや余裕は失われていた。それどころか、その口調や表情はまるで子供に戻ったかのように変化している。

 

 いや、事実、御神馬御前たる分霊は、二十年のあいだ宿主や遠く離れた自分自身の体験を垣間見てはいても、人としての経験はかつて二つに分かたれたときの年齢の分しか有してはいない。言うなれば、彼は二十年分の知識を詰め込んだだけの、万能感に満ちた子供のままなのだ。

 

「邪魔などさせないぞ、ここまでやり遂げたんだ、何もかも台無しにされてたまるものか! あんな世界に戻させやしない! 私は──」

 

 大蛇はすでにさかしまの大樹に取り付いて、全身を使って運命の糸を解きほぐし始めている。けれど御前もまた空を跳躍し、大蛇の頭に追いつこうとしていた。その手には、半ばより折れた妖刀が握られたままだ。

 

「私は、ただ、あの時の幸福を永遠のものに──」

 

 悲痛な願いのような言葉とともに、折れた刃からは斬撃を伴う呪文が放たれていた。呪文は即死呪文だ。正しく魔力が行使されていれば、たちまちのうちに穂村が身を変えた大蛇はその場で命を落としていたはずだ。

 

 呪文を介した道具が、まっとうな魔法の杖、あるいは素手であったならば。

 

「馬鹿な────よりによって、こんな局面で」

 

 本来ならば大蛇に死をもたらしたはずの魔力は、今このとき、一体いかなる意志が介在したものか、自らの身を撃っていた。いや、意志が存在すると言うならば、まさに彼の手にする妖刀の意志によるものであったろう。白い衣を裂いた魔力の奔流は、まさに、折れ飛んで何処かに消えたはずの一ッ目虎動の、何処からか現れた折れた刀身によって弾かれ、術者へと返されていたのだから。

 

 ──一ッ目虎動。意に沿わぬ使い手を取り殺そうとする性質ゆえ妖刀と呼ばれるたぐいのものだが、敷島エイシュウの性質とは相殺しあって丁度良くなる。

 

 魔法界の横丁で杖職人の少女から聞いた言葉を、穂村は誰に告げるともなく口にしていた。蛇の声でのことだ、そもそも御前の耳になどは届いてはいなかっただろう。

 

 ──つまりは御前、お前は、刀の意に沿わなかったようだな。

 

 妖刀一ッ目虎動は、いま、その本来の性質を存分に発揮していた。刀を不当に所有していた男は、魔力を失いゆっくりと宙を落ちていく。

 

 代わりに、その体からはまるで繭を割って蚕蛾があらわれるように、光が溢れていた。光は、白く光る馬の形をしている。西洋の魔法使いが守護霊と呼び、陰陽師や神主、修験者などは式神と呼ぶ、生命だけが生みうるエネルギー体。それと、同じものだ。

 

 エイシュウの生命の塊は天馬のごとくに宙を駆け上がり、大樹の枝を蹄で打った。魔力の燐光が放たれた途端、大樹をなす運命の糸は見る間に解け、そして再び編み上げられてゆく。周囲で砂が軋み、駄目だ、やめろ、と叫ぶ声が響き渡るのは、世界樹の番人たる死人たちが因果律の再編を止めようとしているものだ。

 

 砂は再び烏の姿となり、生命の樹に鉤爪を食い込ませ、糸の解けるのを防ごうとしている。砂の烏を蹴散らすべく鎌首をもたげた大蛇を、エイシュウが止めた。馬の目は、烏たちの遥か下方にただ一つ、人の姿のままの土人形を見やっている。直垂を着込み、髪を伸ばしたままにしているその姿には、見覚えがあった。

 

 ──ライト。悪いが、お前の望んだ世界は、到底あるべき世界とは思い難い。

 

 ドーマと名乗ったテロリスト、津波倉ライトの姿をした土人形は、黒い砂をこぼしながら光の馬を見上げた。考えればうなずける話だ。番人たちが時の呪法のために捧げられた者たちだというなら、確かに彼もその列に入っていておかしくはない。

 

 ──魔法の力があるだけの人間が、神のように君臨するなどあるべきではない。誰かがはじめにそんなことをしていなければ、きみもこんな有様になることもなかったんだ。

 

 砂でかたどられた人の顔に浮かぶ表情がいかなる種類のものか、大蛇の目では見て取ることができそうにない。ただ一つ、確かなのは、

 

「ならば、敷島エイシュウ。お前の望む世界の末路を僕に見せろ」

 

 と、津波倉ライトの声が響くや、あたりに砂を撒き散らしていた烏たちが一斉に嗄声を上げ、空中でなにかに引き寄せられるようにひとかたまりになりはじめたことだ。

 

 番人たる死者の群れは見る間に凝縮され、小さな土塊に成り果ててゆく。同朋らの操作を行ったであろう一人の死者の身もまた砂へと変わり、土塊の一部をなすのにそう時間はかからなかった。

 

 土塊はどうやら何か、まだ声を立てているようだった。一人の同法が起こした意に沿わぬ行動に抗議の声でも上げていたのかもしれない。けれど、彼らの抗議が実るよりも早く、土塊は馬の形をした光の元へと飛びゆき、そして、体の内へと飛び込んでいた。

 

 死者たちが飲み込まれ、時の理を超えた世界はいまや、静寂のままに崩壊をはじめつつあった。白い天堂と黒い大地はいよいよ遠く分かたれ、編み直される世界樹より放たれる白と黒の粒子ばかりが天と地を繋いでいる。

 

 穂村はここに至り、はじめて白い光の還りゆく天を見上げた。どこまでも白い天には、一見するに霞が満ちているようだ。けれど、よく目を凝らすうちに、その光景に穂村は引きつけられていた。そこには、慈しみ、哀れみ、喜び、中庸、そういった大いなる善性そのものが渦巻いているようだった。あるいはそれは神への賛美の満ち満ちる三千大世界、あるいは諸惑星の果てなき舞踏が繰り広げられる十万億土の彼方かのようだった。だが。──

 

 遥かな浄土は、黒い闇に沈む世界のことになど見向きもせず、美しくあり続けている。天上の音楽のごときさざめきにまじり、かすかな声音すらも黒い砂の上には漏れ聞こえていた。黒い荒野へこぼれ落ちた者たちに偶然目を止めた、純白の至聖所へと上り得たものたちの声だ。

 

 ──あれは何だ。

 

 声は、鈴の音のように美しい。けれど、こちらに微塵も関心を持っていないことも十分に伝わってくるものだった。

 

 ──外法の業が使われたのだ。

 

 ──だが、もう見えなくなりつつある。

 

 ──愛著(あいじゃく)にとりつかれた哀れなものたち。

 

 ──我々には救い得ぬものたちだ──……

 

 穂村はかすかに聞こえる天界の音楽のごとき会話の断片を聞いていた。黒い砂の降り注ぐ中、至りようのない高みへと昇る光に焦がれるように、大蛇の首をもたげたまま。 

 

 ──じきに、もとの世界が組み上がる。

 

 遠ざかる天を見つめ続ける穂村に、エイシュウが世界樹の再生を告げた。純白の天の下、大樹の枝という枝は流麗に広がり、その先端という先端に生命のごとき七色の虹を灯している。終わりかけの線香花火のように灯る七色の光を見るうちに、不意に不安に突き動かされ、穂村は口を開いた。

 

 ──敷島さん。猿曳が、あんたの杖を預かってる。

 

 エイシュウが、怪訝そうに振り向いた。

 

 ──色々あって、あの杖職人の女の子がうちのスタッフに渡したんだ。約束したからと本人が気にしている。受け取ってもらえるか。

 

 さかしまの大樹を背に、エイシュウはしばし押し黙っていた。穂村の真意を瞬時には図りかねた、あるいは真意は汲み取れても答えを探しあぐねたのだろう。

 

 やがて、エイシュウは微笑んだ。──少なくとも、穂村にはそのように思われた。そして、予告なく、七色の光へと蹄の先を触れさせていた。

 

 目を見開く穂村の目の前で、白色と黒色がはるか遠くへと遠ざかり、枝先の光が辺りを覆い尽くしていく。浄も穢も、生も死も何もかもが七色の光の中に溶け混ざる中、エイシュウの言葉だけが存外にはっきりと穂村の耳に届いていた。

 

 ──安心しろ、この状態で()()()()()ほど、俺は恥知らずじゃあない。

 

 † † †

 

 ハリー・ポッターがそのとき知覚したものは、まず第一に強烈な光。そして、それが過ぎた瞬間の、言いようのない違和感だった。

 

 違和感に苛まれたのはハリー一人ではない。つい今しがたまで交戦していたはずのすべての者たちが我を忘れたようにその場に留まり、あたりを見回したのだ。すでに放たれた呪文や誘導弾以外のすべてのものが静止し、沈黙するさまはそれ自体が強烈な違和感をはらんだ光景だった。

 

「──戦闘をやめろ!」

 

 戦闘空域に満ちたしばらくの静寂は、そのような宣告でついに破られるに至った。

 

「陰陽寮従六位陰陽助、穂村カツミがたしかに見届けた! 時の呪法にもはや力はない! すべての戦闘は無意味だ──」

 

 奇妙な冷たさをはらむ宣告は、しかし、夜空に集うものたちの間には今ひとつ伝わっていないようだ。ハリーは、箒を並べる部下の困惑した表情を見て、そのことを悟った。

 

「局長、この音は一体なんでしょう」

 

 部下たちが辺りを警戒し、頭上に銀の鱗を見つけて呪文を展開しようとするに至り、ハリーは事態を把握していた。

 

「あれは人だ、陰陽寮のものと名乗っている」

 

 動物もどき(アニメーガス)血の呪い(マレディクタス)か。重要なことを告げるにあたって人に戻っていないことからすると後者だろう。ハリーは数人の部下を伴って箒を上昇させた。意外にも幽鬼と依代は、華奢な競技用箒を駆る魔法使いに手出しをしようとはしなかった。未だ守護霊によって突破された陣形を立て直しきれていないという以上に、彼らへの命令権を持つ半妖の童子が茫然自失に陥っていたことが大きいだろう。

 

「英国闇祓局のポッターだ。あなたは、うちの交渉人と取引をしたという穂村さんで間違いないか」

 

 銀に光る鱗を持つ大蛇の頭に向かってハリーが問いかけると、大蛇は数度赤い瞳を瞬かせた後、やっと自らの姿に思い至ったようだった。

 

「そうだ、クリービー氏には世話になった」

 

 かなり簡略化した形ではあるが現地協力者の言葉であると確認できたところで、ハリーは穂村の通告を人の言葉で再度告げ始めた。

 

 重い落胆が、じわじわと夜空を焦がす者たちに広がっていくようだった。事実、太陽のように夜空を照らしていた光球はいまや無数の銀光へと還り、夜空に浮かぶ巨大な砂時計へと戻ってゆくのだ。ハリーの言葉そのものを疑うものが居たとしても、目の前で起きていることを否定することは出来なかったろう。

 

 時の呪法に使われてもまだ、魔力は多少なりとも残っていたようだ。銀の魔力は、巨大な砂時計へと吸い込まれるや左右に分かたれた下部へと落ちて行きはじめた。投票装置は、時間になれば自然と上部に溜まった票を集計しだすよう呪文がかけられている。投票の期限までにはまだ時間があったはずだが。──

 

 ハリーは左手首に付けたオメガのシーマスターへと視線を落とした。針が指し示す時刻は、0時過ぎ。戦闘が始まってから経過した時間はせいぜい二時間程度、期限の二十一時まではまだ十分に時間はあったはずだ。

 

 同様の事態に気付いたものはハリーだけではない。あちらこちらで時計を確認するものが現れ、突風呪文(ヴェンタス)が放たれる。突風呪文は、煙を吹き飛ばすためのものだったようだ。

 

 局所的な晴れ間が現れた途端、辺りには驚愕の声が満ち始めた。煙の晴れた夜空では、星々や月が見て解るほどの速度で運行していたのだ。さながらタイムラプス動画のような具合だ。もちろん、自然のままの夜空の運行ではありえない。大規模な時間遡行魔法の影響で、時間の流れが大幅に乱れている。

 

「穂村陰陽助。時間遡行はいちど、行われたのか」

 

 宙に浮かぶ銀の大蛇は、ハリーへと真紅の瞳を向けた。

 

「時間遡行というより、歴史の流れを因果で分割し、直接操作する魔法と見えたが……別の世界がいっとき出現し、そこからいま、戻ってきた。その説明で伝わるか」

 

 ハリーは、深く頷いた。過去が書き換わり、全く別の世界が出現する。他でもない、彼の息子とその親友がごく小規模ながら逆転時計(タイムターナー)による歴史の改変をやらかした(・・・・・)のは、あまりにも記憶に新しいところだ。

 

 ここに至り、「スニッチ」が完全に失われたことは周知のものとなったらしい。あちらこちらで魔法使いたちが移動呪文封印区画から離れ、姿をくらまし始める。

 

 移動せず空域に留まり続けるのは、このような結果(・・・・・・・)を受け入れがたい者たちと、彼らの動向を見届けようとする者たち、そして、呆然とその場に留まる他にどうしようもない者たちだ。

 

 帰る場所のない者の代表は、もちろん

 

「──ふざけるな、こんな結果、認められるか!」

 

 と叫ぶギョクトだ。童子は上空へと宙を跳躍し、赤い弧を引いていく。下方が俄に騒がしくなったのは、魔力を断たれた依代たちが宙から落下しかけ、残存する各国の闇祓いやその類似組織が救出にあたりはじめたことによるものだ。

 

 赤い直垂姿の童子が穂村の銀の鱗を踏んでさらにその上空へと飛ぼうとしたとき、ハリーの脇から黒い箒が飛び出した。やめろ、と命じかけたところで、ハリーはそれが彼の部下()()()()事に気がついた。

 

 飛び出した魔法使いは空中で箒から両手を離し、跳躍する童子の体を見事にキャッチした。ギョクトは両手から呪文を放って抵抗するが、幾重にも盾の呪文を重ねがけした装備には微塵も効果を発揮することはない。

 

 拘束呪文も駆使してギョクトの体を抑え込みながら、秋津・ミズホ・ローレンスはその上方で空中に佇む男に向けて、声を上げた。

 

「確保しました敷島さん──じゃあなかった! あー、えー、あっこの状況であたしが確保してもどうしようもない!?」

 

 ミズホにしては実に珍しく、と言うべきか、それとも実に彼女らしい、というべきか。思わず口にした言葉も反射的な行動も、双方ともに全く適切ではなかった。

 

 目を白黒させるミズホの上空には、一人の男が立っている。白い着物姿の男だ。それは、時の呪法を成立させようとしていた男と同一人物であるはずだ。けれどハリーは、いまそこに立つ男が時の呪法が使われる前とはまるで異なる雰囲気、異なる魔力を有していることを感じ取っていた。時の呪法を使ったものと完全に同一の存在がそこにいるならば、世界が元通りに戻っているはずはない。事前に「御神馬御前を名乗る男」がどのような存在であるかは聞き及んでいる。ならば、今そこに立つ男は御前ではないのだろう。

 

 ハリーの推論を裏付けるように、ミズホの腕の中で童子は叫んだ。

 

「敷島エイシュウ! お前、何をした! 何をしてくれた! 御前さまは理想の世界を作ってくれるはずだったんだ、何故それを台無しにした!?」

 

 エイシュウは着物の裾を翻し、ギョクトの前へ──つまりはミズホの前へと降り立った。

 

「御前は──俺の魂の片割れは、お前に何もしてやる気などなかったよ」

 

 存外に穏やかな声でかけられた言葉は、瞬時には飲み込み難いものであったらしい。ギョクトが一瞬言葉の意味を考えた合間に、間髪をいれずにエイシュウは言葉を続けた。

 

「時間を超える魔法は、移動魔法と同種の原則を持つ。体の一部、あるいは場合によっては魔力のつながりさえ有していれば別のものを巻き込んで連れて行く事ができるということだ。だが、お前は時の呪法には巻き込まれなかった」

 

「あ──でも、あれは、あのときは、遠くにいたから──」

 

 童子は目に見えて動揺し、赤い瞳を揺らしながらも、反論を試みた。けれど、その糸口すら見つけられずに居るうちに、さらなる追撃がギョクトを襲うこととなる。

 

「そもそも、ドーマ……津波倉ライトからして、お前をただ自分の代わりに呪術や魔法を使わせるための道具としか見ていなかった。だから、世界が憎むに足る場所だと思わせて、それを壊す他に道はないと思わせた」

 

「それは、だって、それは烏共が」

 

「そうだ、俺と倉田さんがお前の両親を摘発して、逃げたお前に気づかなかった。あんなもの、くだらない事件だと思っていたからな。悪かったのは、それだ。適当に仕事をこなして、周辺の捜索もかけなかった俺たちだ。あるいは、人と高位の妖の婚姻を認めない制度あたりまでは憎むべきかもしれないが」

 

 ギョクトは、いつしかおとなしくミズホの腕に抱かれていた。エイシュウの言うことを、自身が三年間に得た僅かな知識と照らし合わせて必死に噛み砕こうとしているのだ。

 

「ライトは、俺の知識をすべて垣間見ていた。お前の父と母が前のようではないにせよ生きていることも知っていた。なのに教えていなかった。教えれば、計画の邪魔になるかもしれないからだ。それだけで十分に、悪意ある行動だよ」

 

 白い髪の中から、兎の耳が立ち上がった。顔には、驚きの表情が張り付いている。

 

「お父さんとお母さん、生きてるの」

 

 エイシュウは、深く頷いた。途端、ギョクトの体から力が抜けて落下しかけ、慌ててミズホが身体運搬呪文(モビリコーパス)を掛けることとなる。ギョクトが、体を浮かせるための魔法を維持できなくなったのだ。

 

「わからない、ドーマさまが僕にそれを黙ってたのはすごくイヤだけど、でも、ドーマさま、僕にすごく優しかったよ、たくさん呪文を教えてくれて、出来たら褒めてくれて、美味しいものもたくさんくれて、優しかったのに」

 

 混乱し、泣きじゃくりはじめた童子を抱きかかえたミズホは、もちろん困惑している。困惑しながらも、ミズホはやがて何かを決意して、口を開いた。

 

「世界には、たくさんのものがある。いいことも、悪いことも。あなたが想像もできないくらい、本当にたくさん。子供にそれを教えずに小さな世界に囲い込んで何かをさせようとするのは、あなたを愛しているように見えたって、本当に愛していたとしても、悪いことだわ」

 

 しゃくりあげる声は、やがて年相応の泣き声へと変わっていた。

 

 空は、いまや黎明へと近づきつつある。朝日の近づく空に銀の光が飛ぶのは、意思表示のための魔力が砂時計へと吸い込まれているためだ。時の流れは乱れていても人の意識は連続しており、投票も打ち切られてはいないのだ。投票が可能である限りは投票が行われるに決まっている。

 

 大蛇の首が穂村の横をすり抜け、下方を覗き込んだ。投票の結果を見るためだろう。再び首を持ち上げて天を仰いだとき、蛇は吐息のような声を吐き出した。吐息には、果たしていかなる感情が含まれていたものか。蛇の言葉を解するハリーの耳でさえも聞き取ることは不可能だった。

 

「──反対多数」

 

 大蛇の吐いたもの同じ言葉は、ぽつぽつと、空のあちこちからも聞こえ始めている。投票装置の下部へと落ちた得票は、僅差ながら反対意見が多勢だったのだ。わずかながらに存在する得票差は、後から銀の光がどれだけ降り注いでも大きく変わりはしないようだ。

 

 大砂時計の周囲では選挙管理委員のものたちが慌てふためいている。投票のさなかに開票が始まったのだ、慌てないほうがおかしいだろう。投票の何割かは魔力として今行われている投票も、おそらく無効になる可能性が高い。

 

 だが、元々が何らの強制力も持たない意見投票だ。無効であろうがなんだろうが、その結果の持つ意味は変わりはしまい。

 

 ハリーは、烏に似た装備の一団がゆっくりと上昇してくるのを見た。英国闇祓局員たちが杖を構えて警戒する一方で、烏姿の日本の闇祓いたちは杖を逆さに向けて肩の高さに上げてみせた。敵意はないようだ。

 

 烏の群れを率いる男が、烏の防護面を外した。倉田テンゴウだ。魔法大臣の肩書を得ていたはずだが、結局は烏たちを率いる立場に立ち戻ったようだった。

 

「我々の、負けのようだ」

 

 大蛇が赤い目を細め、烏の頭目を見下ろした。

 

「せいぜい、マグルの機嫌を伺って生きていけ。我々には到底考えられない道だがな」

 

 無骨なプロテクターの下で肩がすくめられ、再び烏面が人の顔を覆い尽くした。武装に身を固めたというのに、その姿はどういうわけか無防備なものに見える。もしもここで穂村が怒りを顕にして彼らを食い殺そうとしたならば、その目的は難なく果たされるだろうとすら思われる姿だった。

 

 あるいは、その後に起きたことを思えば、穂村の怒りすらも烏達にとっては望むべき未来であったかもしれない。

 

 喉の奥でしゅうしゅうと声にならぬ呻きを漏らす大蛇の前を、下方から高速で何かが横切った。

 

「穂村はん! 今すぐ退避を!」

 

 大蛇の頭に飛び乗ったのは二匹の白狐、飯綱狐と荼吉尼狐だった。二匹とも息せき切った様子で、一刻も早く言付けを伝えようとしている。

 

「葛の葉の(かた)は烏どもを残らず焼き殺す気ぃや! じきに飽和攻撃が来る!」

 

 なにの飽和攻撃が来るのか。──などと、要領を得ない質問をするものは、誰もいなかった。

 

 遠く風を切る音とともに、暁の空にはすでに無数の機影が現れていた。昇る朝日に照り映えながら、夜明けの空気を割いて飛来するものは、F-15〈イーグル〉の編隊だ。鉄鷲は、90式誘導弾を腹にたっぷりと抱え込んでいる。

 

「もう猿曳はんらは宇賀野と御食が逃しとる! 早よ逃げえ!」

 

 二匹の白狐たちも、もうすでに穂村の頭上からは飛び降りて下方へと逃れる準備をしている。ハリーは部下に向け、退避を命じた。先程の調子ならば、今度も弾頭には炸薬とともに何千という攻撃呪文と呪いが詰め込まれているはずだ。呪文弾頭誘導弾を一発やり過ごすだけで、どれほどの労力が必要だったか。その飽和攻撃が来るとなればもはや、魔法使いであろうと人の力では太刀打ちできるものではない。

 

「ポッター闇祓局長殿」

 

 箒先を下げ、急降下を始めようとしたとき、ハリーに声をかけたものがあった。敷島エイシュウだ。

 

「何か」

 

「秋津の身柄の保護を、お願いします。それと、できれば穂村に血の呪い(マレディクタス)の症例に詳しい癒師を紹介していただけると助かります」

 

 ハリーの問いに、エイシュウは傍らに浮かぶミズホの箒と穂村の鱗を押し出しながら、頭を下げた。ミズホと穂村が同時に目を見開き、振り向こうとする。エイシュウを引き留めようとしたのだろう。

 

 けれど、二人が振り向いたとき、そこにあったものは、白く光る馬の姿だった。守護霊に似た白馬は、上空に集まっていた吸魂鬼たちを銀の粒子へと変えながら遥か天空に向けて駆け上ってゆく。それを止めるすべは、誰にもない。

 

 異常な時の進みは、夜明けとともに収まりつつあった。旭日はようやく昇る速度を緩め、空を白ませながら悠然とビル群を照らし出している。

 

 全速で降下するさなか、朝焼けの中に白い布が翻るのをハリーは見た。鉄鷲の爪が迫るなか、日本の闇祓いたちだけは黎明のなかに留まり続けている。黒い烏の群れはいまマントを白い色へと変化させ、朝の風に吹かれるままにしているのだった。

 

「部長、みんな、何を──」

 

 ミズホがまた、顔を上げた。瞬く間に頭上へと過ぎゆく闇祓いたちへと声をかけようとしたものだろう。つられて箒先があがってひとり箒足が遅れかけるのを、ハリーは呼び寄せ呪文(アクシオ)で引き下ろす。ただでさえ大蛇を連れているのでどうしても足が遅れがちなのだ、編隊を崩されるわけにはいかない。

 

「止める暇はない、巻き込まれるぞ!」

 

 遠く、ぎゃあぎゃあと使い魔烏たちの声が響いている。ミズホはそれでもしばしかつての友烏らへと視線を向けていたが、繋いだ魔力にかかっていた負荷は、やがて消えてなくなった。

 

 白みゆく空にあって、大烏の群れは白いマントを翻して飛び来る鉄鷲に箒先を向けていた。白い衣は、罪人を示すものか、あるいは死装束か。杖を構え、二人一組の編隊を成したその姿は、一見するに敵を迎え撃つ直前と見える。日本において、魔法の戦闘ではまず並ぶもののない集団のことだ。もしも彼らの待つものが闇の魔法使いやそれに類する存在であったならば、必ずや敵を滅ぼし、勝利を収めたことは疑いようがない。そう思わせるほどに日本の闇祓いたちの姿は、白暁の中に雄々しく照り映えていた。その姿のまま理不尽なほどに強大な火力に呑まれていったならば、ある種の悲劇の英雄、滅びの美学の体現者たるには十分すぎるほどのありさまだ。

 

 けれど、彼らはあくまで、最期まで敵手を屠ろうとする禽だった。

 

 このとき中継映像を見ていたものは、烏の頭目の眼前に一体の石像が現れたことに気づいただろう。正しくはそれは石像ではない。空中に現れた裸婦像とも見える石像は、瞬く間に生きた人間──手足を切断された女の姿へと変わっていた。陰陽寮、あるいは陰陽寮に所以あるものならば、それが賀茂ヤスナ陰陽頭であることに気づいたはずだ。いまや、戦闘機群を出動させているものが信太の森の大妖狐、隠然たる権力を駆使することを厭わぬ葛の葉狐であることは彼らにも知れている。烏達は、葛の葉狐の遠い縁戚たる陰陽頭を盾に、延命を図ろうというのか。──否。そうではない。

 

 石像が生きた人間へと変じていた時間は、ごくわずかに過ぎなかった。賀茂陰陽頭が唐突に苦しみ悶え、喉をのけぞらせたかと思った矢先、ぽっかりと開いた口からはごぽりとあふれる赤い血とともに木杭の先が突き出ていた。長い黒髪に彩られた女の裸体は、瞬くほどの間に長大な杭へと串刺しにされていたのだ。即死呪文を使えるはずの者が行ったことと考えれば、見せしめか何らかの生贄としか思い難い処刑方法でさえある。

 

 そう、空中で忽然と行われた陰惨な処刑はまさに、ある種の生贄の儀式に他ならない。

 

 英国闇祓局の箒群は、そのときまさに新国立競技場へと強行着陸しようとしていた。競技場は、急作りの屋根に覆われている。屋根を割るべく杖を振り上げたとき、ハリーは眼前で薄い屋根が割れるのを見た。屋根を破り飛び出していったのは青い炎をまとった巨大な獣──九本の尾を持つ大妖狐だ。

 

 怒り狂う葛の葉狐はごうごうと、暴風のごとき唸りを上げながら天を駆け上っていく。唸り声は、獣の言葉を解するものであっても、深い怨念に満ちていることの他に理解できる言葉はなかったろう。いまや、日本の闇祓いたちは最後に屠るべき敵を得たのだった。

 

 白い衣を纏った烏の群れは、迫りくる敵に向けて襲いかかった。折しも、すでに誘導弾は放たれた後のことだ。鉄鷲の爪もまた、魔力によって屠るべき敵を追う。

 

「──お、の、れ────烏めが───」

 

 呪詛を吐きながら狐火を引いて天を駆け上る九尾の狐と、白い衣を翻して急降下する烏の群れとがついにぶつかったそのとき、誘導弾が弾けた。かくして翻る白い布は爆炎に呑まれ、青い狐火も幾千万の閃光に掠れてゆく。

 

 朝靄のなかに炎の華が咲くころ、ハリーは荒れ切ったオリンピックスタジアムのピッチに立っていた。その上で発生した芝生はすっかり土を顕にし、天井の欠片が散乱する有様となっている。変身術の材料として競技場内の様々な構造物が剥ぎ取られていることも含め、真新しい競技場はさながら満身創痍と言わざるを得まい。

 

 それでも、いま生き残っている者たちは確かに未来を掴み取ったのだ。いまや魔法族がマグルとともにありたいという意志は白日のもとに示され、対立する二つの組織の片方は自ら死を選び取り、大勢には決着がついた。前途は多難であろうと、少なくとも朝日の昇る以前より悪い状況ではない。──そう言える状況であれば、ハリーは大蛇の姿をした陰陽師らの最高位者にむけてそう言ってやっていただろう。

 

 けれど、芝の上に立ったハリーがまずやったことといえば、部下たちとともに杖を構え、必要とあらばすぐにでも戦闘かこの場から離脱できるよう準備をととのえることだった。

 

 何故ならば、数人の部外者とともに新国立競技場に降り立った英国闇祓局員が目にしたものと言えば、小銃を手にした迷彩服の集団と、彼らの前で所在なさげに立ち尽くす陰陽師たちの姿だったからだ。

 

 正確に言えば、陰陽師たちと対峙するのは迷彩服の集団に守られた、一人の役人だ。役人の手には、一枚の羊皮紙がある。

 

「魔法族による意見投票にて、共生の意志は確かに確認されました。魔法に関する特別措置法案は現在審議中ですが、全会一致で可決、成立の見通しが立っています。つきましては、魔法族統括団体である〈日本魔法族評議会〉の皆様方には、模範となるべく先んじて魔法の安全な運用を約束する契約の締結をお願いします」

 

 羊皮紙には、何らかの強い魔法がかかっているのだろう。表面に浮かぶ文字は魔力の燐光を放ち、燃えるように輝いている。役人の言葉と合わせて考えるに、それが強い強制力を持つ魔術的契約を書面化したものであることは疑いようがない。

 

 同様の事実に思い至ったのだろう。箒で着陸するや、すぐさま陰陽師の元に駆け寄っていったものがいた。

 

「それ、警視庁で見たのと同種の書面。破れぬ誓いですね。禁止されている魔法もおよそ一緒だわ。いえ、こちらのほうがずっと使用場面も含めて細かく規定されてる。みんな、だめですよ契約しちゃ、魔法法で明確に禁じられている契約です!」

 

 ミズホは兎の子供を近場に居た英国闇祓局員に託すと、役人と陰陽師たちの間に割入っていった。この場において、秋津・ミズホ・ローレンスは日本魔法法の知識を持つほぼ唯一の存在でもある。その言葉の真偽を確かめるすべはないが、英国や他の国の魔法法と照らし合わせて考えるに、言っていることに間違いはないはずだ。

 

 魔法法を盾に、常用魔法も含む多数の魔法の自由な行使を禁じる契約を断らせようとするミズホを前に、マグルの役人は不思議なことに、にこやかな笑顔を作り上げていた。心からの笑顔はまるで、その言葉を待っていたかのようでさえあった。

 

「魔法法。そんなものは日本国には存在しません」

 

 日本魔法省の数少ない生き残りの一人は、ぽかん、と呆けた表情を浮かべた。明白に存在するものをそこまで堂々と存在しないと言われれば、大抵の人間は同じような反応を返すだろう。だが、その表情はやがて、戦慄へと置き換わっていく。考えてみれば、日本国政府による魔法界への対応は、始めから一貫して変わっていない。一貫して魔法界など始めから関知していないと言い続け、日本国政府と交流があったことすら認めていないのだ。

 

 それに真っ向から反対していたのはほかでもない、日本魔法省だった。その中核であった日本の闇祓いたちは、いま、空自の90式誘導弾によって殲滅されている。政府首脳陣に対しても一定の影響力を有していたらしい葛の葉狐も烏姿の闇祓いが道連れにしていった以上、日本政府が大手を振って魔法族をその傘下に収めようとする試みを止めうるものは、誰もいないということだ。

 

 呆然と立ち尽くすミズホを押しのけて、役人は陰陽師たちへと魔法契約書の束を差し出した。時を同じくして自衛官たちが小銃を構えたのは、押しのけられてよろめいたミズホを受け止めるべく穂村カツミが──全長十メートルを超す大蛇が前へと出たことによるものだ。

 

 大蛇と、大蛇に庇われたミズホに銃口が向くのを前に、英国闇祓局もまた杖を構える。顔をこわばらせた自衛官たちに向けて、ハリーは重々しい口調で言い放った。

 

「諸君が銃口を向けているのは、日本と英国の多重国籍者かつ英国の魔法教育終了者である。英国闇祓部は、これを保護する義務を負う」

 

 万一の際には介入の口実とできる協力者を見つけた、とクリービーから報告を受けてはいたが、まさか本当にやる羽目になるとは。この局面がどのような終局を迎えるにせよ、国際魔法協力部には多大な迷惑を掛けることになるだろう。パーシー・ウィーズリー国際魔法協力局長が泡を吹いて倒れるさまを想像しながらも、ハリーは部下とともに杖先を陸自隊員らの持つ小銃に向けた。端的に、マグルの政府が公然と魔法族を魔法契約で縛る前例を作られるのは、困る。半ば以上英国魔法族保護の目的から逸脱しているのは分かっているが、この場はどうにか有耶無耶のままにして、〈評議会〉にはマグルの政府からの要求を飲まないよう働きかけつづけるしかあるまい。

 

 否応なしに高まる緊張の中、ハリーはふと、視界が白く霞むのを感じた。眼鏡には防水防火呪文(インパービアス)を掛けている。汚れや曇りが生じているわけではあるまい。なにより、銃を構える自衛隊員たちも上方を気にし、人によっては直接真上を見上げ始めてさえいる。物理的に、何かが上から降っているのだ。

 

 銃口が自然と下がり始めるに至り、英国闇祓局の魔法使いたちもようやく空から降り注ぐものが何かを確認しはじめる。ハリーも、内心安堵しながら頭上へと視線をやった。

 

「これは──蝶? いや、蛾か?」

 

 降り注いでいるものは、鱗翅目の虫のように見受けられた。白銀に光るその姿は、魔法使いならば守護霊に類するものと判断するだろう。

 

 何千何万という白銀の蛾は、雪の降るように人々の上へと舞い降りている。不思議なことに、魔力で織りなされた虫という虫は割れた屋根の間から降り注ぐのではなく、屋根そのものを存在しないものかのように通り抜けているようだ。

 

 すり抜けるのは屋根ばかりではない。

 

「何だ、この蛾。触ると魔力が回復するみたいだ」

 

 天より降り来る虫たちに触れた魔法教育NGOの教師が、驚いたように立ち上がった。たしかに、手を差し出してみれば魔力の蛾は手のひらの上で溶け落ち、そのまま柔らかな熱を伴って体に吸い込まれていく。競技場内の消毒だの屋根の構築だので魔力を使い果たしてピッチや陸上トラックに寝そべっていた魔法使いたちが、少しでも多くの蛾を取り込もうと大の字になったり、両手を天に差し伸べ始める。はたして、白銀の虫は今宵の功労者たちに天が遣わした褒美なのだろうか?

 

 いや。天の虫たちがもたらした恵みは、けしてそればかりにとどまるものではない。

 

 天蟲の降り注ぐ光景のなかにあって、ハリーは魔力が暴発するのを見た。暴発と言ってもオブスキュラスのような悪性のものでもなければ、感情の高ぶりに伴うものでもない。はじめて魔法族の子供が魔力を発現させた時のそれに近い、偶然の産物と言うべきものだ。呪文を使い得ないほどの魔力しか持たない魔法族が、通常以上に魔力を得てはじめて魔力を形にしたものか。

 

 もちろん、そのような例もあったろう。けれど、ハリーは見た。自衛官の持つ小銃が突如としてねじ曲がり、あるいは花へと変身していく光景を。そして、彼らを伴っていた役人でさえも手の中の羊皮紙を宙へ浮き上がらせ、ばらまいてゆくのを。もちろん、誰も他人に向けて呪文を使ってなどいない。

 

「これ……成虫なんだ。あの蟲の」

 

 大蛇と寄り添うように立っていたミズホが、出し抜けに天を仰いだ。藍色がかった大きな瞳は、降り注ぐ天蟲のその向こうにあるものを見ようとしているようだった。

 

「天の虫、蚕か。天へ登った馬が蚕をもたらした、とは、まるきり……」

 

 穂村もまた、ミズホと同じく大蛇の首を天へと向けた。穂村が濁したのは、まるきりおしら神の伝承のままだ、という言葉に違いない。おしら神は天へと登った馬、あるいは馬と娘が変化したもので、人に蚕をもたらしたものという。仔細を除けば確かに、いま起きている事態は伝承をなぞっているかのような有様だった。

 

 突如として魔力を発現させたマグルたちはもはや元来の仕事を遂行するどころではなくなっている。自分が魔法を使ったということは、それと知っていれば意外と知覚できるものだ。それもそのはずだ。魔法族に死の罰則を伴う契約を結ばせる端緒を開くはずだった者にしてみれば、自らがその契約を結ぶべき対象に組み込まれてしまったようなものだ。

 

 競技場のモニターに映し出される特別報道番組では、天より虫の降る光景を、まさにマグルが魔法を発現させる様子と合わせてカメラに収めている。同様の現象は、少なくとも東京はもちろん日本国内のありとあらゆる場所で発生しているものらしい。天虫は屋内であろうと降り注ぐものだ。つまりは家の中でも、学校の中でも、地下道だろうがあるいは国会議事堂の中だろうが、全人がいまこの時は魔法の力を得て、少なからず何らかの力を発現しているということになる。ハリーは息を吐いた。奇跡です、まさにこれは魔法の力すらも超えた奇跡が起きているのです、と隠れ魔法族のアナウンサーが涙声で述べ立てたのもあながち言い過ぎではあるまい。英国闇祓局がイリーガルな活動に手を染めずとも、どうやら事態はうまく運びそうな具合だった。

 

「ああそうだ、穂村ちゃん」

 

 同じく安堵とともに陰陽師たちが大蛇となった彼らの最高位者にようやく合流する中、一人の陰陽師が深刻げに眉をひそめ、大げさに声を上げた。

 

「杖職人の女の子から預かった杖、あれがどこか消えちゃったのよ、あなた達と一緒に魔法使いの彼も降りてくると思ってちゃんとポケットの中にあるのを確認したんだけどね、気づいたらなくなってて──」

 

 ドラァグクイーンじみた外見の陰陽師の言葉は、ハリーには全く理解の及ばないことだった。けれど、言われた当人と、それから銀の鱗に腰を下ろしていたミズホにはそれは、なにか重要な意味を持つものだったらしい。

 

 二人は飛び上がるように顔を見合わせ、それから、蛇の言葉と人の言葉で、全く同じことを口にした。

 

「大丈夫。本人が取りに来たんだよ」

 

 ────

 

 ──

 

 白銀の蚕蛾によって全人にあらたな能力がもたらされ、祝祭的な空気の中ですべてが終わっていたならば、一連の事件は人類にいっときの進化(シフトアップ)をもたらしたものと見なすことが出来たかもしれない。

 

 だが、全てはあくまで、有限の知恵しか持たない生き物が織りなす歴史の範疇を超えるものではない。

 

 初めにそれに気づいたのは、誰だったか。

 

 多くの人々はその瞬間を、テレビの第一報で記憶している。天より降る虫の群れがようやく落ち着きを見せはじめたころ、あるテレビ局のカメラが偶然にそれを捉えたのだった。

 

 映像は、中空に留まった砂時計から魔力の粒が溢れている様子を映していた。投票装置は、周辺で起きた様々な出来事など知らず、いまだ全国から送られる票を受け入れ続けていたのだ。だが、考えてみれば奇妙な話だ。砂時計は、日本国籍を持つ魔法族が一〇〇パーセント投票したとしても、十分に余りあるほどの容量に設計されている。だというのに、砂時計の上部は完全に満杯になり、周囲に銀の光をこぼし続けているのだ。

 

 特別報道番組のスタジオでも、しばらくの間はその様子をコメディアン出身の映画監督が日本酒を注ぎすぎたグラスに例え、早く枡で受けにいかないと、などと言ってゲストたちを笑わせていた。そんな和気あいあいとした空気が凍りついたのは、司会のアナウンサーが突如、中継映像をもう一度大きく映すよう求めたときのことだった。

 

『カメラ、これ方向はさきほどと変わっていないですよね? 左手にNHKホール、奥に代々木公園で、変わっていませんね。投票の砂時計も、左側が賛成、右側が反対票のままですね』

 

 砂時計下部、開票結果を示す二つのガラス管の表面には、しっかりと賛成、反対との文字と、各々の得票数が浮かんでいる。開票の結果は、つい一時間ほど前には反対票が常に賛成票と二割程度の差をつけて多数を占めていたはずだ。けれど、このときカメラが捉えた投票装置の様子は、その真逆を示していた。

 

 祝祭的な空気に包まれていた新国立競技場でも、その映像は壊れかけたモニターから流れている。

 

 ハーマイオニーとスマートフォンごしに通話していたハリーは、ピッチの上で狂乱じみた喜びを分かち合う人々が突如、水を打ったように静まり返り始めたことに気がついた。

 

『──ええ、ロンのほうからも、蛾が押し寄せてるって連絡が来て。マリ共和国の魔法族難民キャンプでのことよ、だから、観測地点と時間差からして日本を起点に波のように地球上を──ハリー? ハリー、どうしたの』

 

 ハリーもまた、その光景をモニターで眺めていた。魔力の粒をぎっしりと詰め込んだ独立賛成を示すガラス管の表面で、百万単位で得票の数がどんどん増えていく光景を。隣り合ったガラス管には、未だ隙間がある。反対票を落とすガラス管にもたまに魔力の粒が落ちてはきているが、元来の魔法族による投票時点での票数から大きく増えはしていない。

 

「これは……非魔法族が、投票を行っているということか」

 

 投票装置に詰め込まれ、溢れかえり続ける独立賛成票の数は、明らかに日本の人口から割り出しうる生来の魔法族の数を遥かに超えている。外的な要員で魔力を得た非魔法族が自らの意思を示した結果が、これなのだ。

 

 もちろん、こんな投票はとうてい有効なものではない。有効ではないが、元から何の強制力もない投票だけに、意思の表示にはこれだけでも十分なものだ、というのも開票開始時点から何ら代わりはない。白日の元に示されているものは、マグルから魔法族への、明確な拒絶だった。

 

 烏の鳴き声がぎゃあぎゃあと響いている。燃える夜空で焼き尽くされ、それでもなお残った使い魔烏が鳴いているのか。

 

 否。

 

「はは、は、は──」

 

 烏の声に、嘲笑が混じった。その声は、人とも烏とも、あるいは生者とも死者ともつかない。

 

「伸ばした手を振り払われて、さあ、未練がましくなおも手を伸ばして慣れ親しんだ地獄に縋るか、共存を願う者たちを引き連れ回して誰も知らぬ楽土でも目指してみるか、いずれにせよ行く路は泥沼だ。せいぜい塵を喰らい、地を這いずり回ってみせろ、呪われた獣ども──」

 

 怨霊のそれとも思しき呪詛の声は、やがて唸り声にかき消され、消えていった。ややあって何かの割れるような音とともに悲鳴が上がったのは、芝生の上に何かが落ちてきたことによるものだ。落ちてきたものは翼を失った大鴉と、両目をくり抜かれながらも大鴉の胴に噛み付いた狐の生首だった。絶命の寸前までも死闘を繰り広げた両者は分かち難いほどに固く結びつき、大男に化けた妖狐たちが顎を開こうとしても微塵も動きはしない。ふたつの魂は、死の向こうにあってもなお修羅の争いを繰り広げているのではないかと思われるような有様だ。

 

 スマートフォンからは、ハーマイオニーの声が響き続けている。

 

『ハリー、大丈夫? こちらでも魔法の蛾を確認したわ。魔法の力を持たない人たちが次々に魔法を発現させているみたい』

 

 ハリーは目を細めた。ふたつの死骸の上にはいま白い大蛇が鎌首をもたげ、吐息を漏らしている。ハリーの耳でさえも言葉と聞き取れぬほどの蛇の声は、おそらくは、悲壮な決意を語るものだろうと察せられた。

 

 緑の瞳がしばし瞼に遮られた後、再び世界を見据えた。魔法界ともマグル界とももはや呼びようのない、傷だらけの世界を。けれど、そもそもその二つに、結局のところ差異などあっただろうか? マグルの世界でも魔法の世界でも、同じほどにいい人間と悪い人間が居て、彼は結局のところ苦しみと試練を超えて進むしかなかったのだ。おそらくは、あまねく人類がそうであったのと同じように。

 

「ああ。大丈夫だ、ハーマイオニー」

 

 日本の闇祓い唯一の生き残りや、他にも何人かの魔法使いたちが自身に目を向けていることを知りながら、ハリーは決然と言った。

 

「そうだ、大丈夫だ。僕たちは外に出たんだ。暗い地下から──それとも、階段の下の物置から。だから、そこがどんな世界であっても、僕たちはそこで少しでもマシな方へと向かえるよう生きていく。それだけだ、それ以外には、どうしようもないんだ」

 

 蚕蛾の波は収まりつつある一方、オリンピックスタジアムには砂時計からあふれかえる銀の光が降り注いでいる。この場にいる者たちを拒絶する意志を乗せていると言うのに、燐光はどこまでも美しく、純白に世界を染め上げつづけていた。

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