最近、妙に平凡な日々が続いる。いや、別に退屈とか言うつもりはない。何もなければ、それに過ぎたことはないのだ。誰が広めたか知らないが、まったくもって有り難くないことに、『入院王』だの『大怪我の達人』だの言われているらしい俺が、こうして何事もなしに、緊急の仕事も入院沙汰もなく、予定通りにシフト休が回ってきたことは、まさに感謝の極みというものだ。
で、今日もまた、リオを連れて、休日恒例のバザール巡りに出かけることになった。今回、参加人数がいつもより多い。ちょうど休みが重なったハナヱさんと行き会って、彼女も誘うことに成功したんだが、そこに通りかかったのが、当番明けのディオーネとアストラの姉弟で、リオから話を聞きだしたディオーネは、半ば強引に参加。アストラは、さすがに疲労の色を浮かべてはいたものの、姉の暴走、もといお目付け役として来てくれることになった。
さすがに、これだけの大所帯で歩き回るのは久しぶりだが、リオにとっては、それもまた楽しいらしく、はしゃぎっぷりもいつもより気合が入っていた。まあ、子供らしくていいさな。でもって、小休止もかねて、露店横丁で食事と相成った。
もちろん、ディオーネの提案なのだが、ひとつ問題がある。たぶん知っているとは思うが、戦士階級と言うのは、通貨を使う必要がないと言う特権を持っている。と言えば聞こえはいいが、早い話、ただの一文無しだ。良識と配慮が標準装備されているアストラはともかく、その姉の方は、少しでも気を抜くとどんな行動に出るかわからない。
それに、ディオーネは正味な話、アサルト級の大喰らいだ。リオはともかくとして、当然、この姉弟の食事代は、俺が持たなければならないことになる。まあ、戦士階級のふたりが、必要だから提供するように。と店側に申し出れば、それで話は片付いてしまうのだが、心情的なものと、なによりも、リオの前でそんな真似はして欲しくない。というのが、正直な所だ。
こういう言い方をすると、戦士たる者の存在を歪めている。などと言われそうだが、昔のように氏族人だけの世界に閉じこもっていた時ならともかく、曲がりなりにも中心領域の一角に居を構え、あまつさえ、その中の一大勢力のひとつである、ドラコ連合と同盟を結んでいるという事実がある以上、ある程度中心領域の常識に即した考え方を、リオにも持ってもらいたいと思っている。これだって、ある意味立派な『協調の精神』だろう。
え?いや、別におごるのが嫌だって言ってる訳じゃない。ただ、そうなると、また次の給料日までカツカツになる。それが、ちょいとばかりしんどいだけさ。って、まあ、同じことだわな。
『大丈夫ですよ、クルツさん。私も、幾らか余裕がありますから。お金の心配は無用です』
俺の心を読み取ったかのように、ハナヱさんが、素早くささやきかけてくる。いやぁ、本当にいい人だ。ボンズマンなんて言う、しち面倒臭い身分でなければ、速攻で行動に出たいくらいなんだが。まあ、そのことについては、今は置いておこう。言うだけ寂しくなる。
それはともかく、俺達は場所を確保すると、めいめい注文を済ませて、あれやこれや、たわいのない雑談に花を咲かせながら時間を潰す。けど、こうしていると、昔、気の合った同期の仲間と一緒に、休日の外出で安レストランや喫茶店に陣取り、教官や規則の不平不満を言い合いながら、部隊食堂では口に出来ない娑婆の料理をかっ込んでいた時のことを思い出すよ。
あの頃の連中は、今どうしているだろう。もう、何人も生きちゃいないだろうが、それでも、できることなら、もう一度会って、こうやって馬鹿話をしてみたい。
「よっしゃ、そいじゃ、さっそくいただくでよ」
それからほどなく、給仕の少年が運んできた料理が並べられ、我らがディオーネ姐さんは、野獣のように目を輝かせると、さっそくフォークを握り締める。
しかしこのお姉さん、本当によく食う。軽く見積もっても、俺達ひとり頭の注文の2倍の品を頼んでいる。リオは子供だから列外としても、ハナヱさんの分と比べると、缶詰と野戦炊事車両ほどの差がある。
それにしても、ハナヱさんがいてくれて、本当によかった。とてもじゃないが、このお姉さんのメシ代まで俺が出すとなったら、俺の財布は間違いなく空になる。まったく、御嬢様々だ。
「それにしても、本当に良く食べますね。ふだんあれだけ食べていて、まだ足りないんですか?」
「それとこれとは別だがや。あ、そうそう、この間、おみゃーからもらった黒ブラな。ありゃー、うちには小さ過ぎて、ちーともはまらんかったでよ。持っててもしょーがねーだで、後で返しとくだぎゃ」
「ぬぁっ!?」
だからそう、おごってもらっといて、どうしてそういう言い方するかな。それに、ありゃ、もらったんじゃなくて、賭け将棋で巻き上げたんだろうに。
「れだけ食べるんですからね、それは太りますよねぇ」
「むはは、どーいうわけか、乳だけよー育ってしょーがねーだぎゃ」
「ああ、だから脳や神経まで栄養が回らないんですね」
「育たねーよりかは、百万倍マシだがね」
「う……………」
また始まったよ。こういっちゃなんだが、本当にどうしようもないな。野郎共には、どうにも対応できない。と言うか口を挟みにくい会話に辟易して、隣のリオを見ると、せっかくの料理にまだ手をつける様子もない。
「リオ。ふたりのことは気にしなくていいから、遠慮しないで食えよ。まあ、いつものことだしな」
「う、うん」
「どうした?」
リオの見つめる先には、まあ、どこにでもいそうな親子連れがいた。人のよさそうな父親と、気立ての良さを表情に漂わせている母親。そんなふたりの間に囲まれて、買ってもらったばかりであろう、ポーリーのぬいぐるみを笑顔で抱きかかえている、たぶんリオと同じくらいの女の子。
楽しそうに談笑している、温かくも家庭円満を絵に描いたような光景。家族そろって、休日のお出かけってやつだろう。リオはフォークを手にすることも忘れ、その若草色の瞳は、そんな一家の光景をじっと見つめ続けていた。
でも、まさかな。子供とは言え、リオはトゥルーボーンだ。フリーボーンの家族に関心を持ったりするとは思えないが。
「の、のう、クルツ」
「どうした、リオ」
「そ、その………クルツやアストラ兄ちゃん達にも、父ちゃんや母ちゃんがおったんじゃろ?」
リオの問いかけに、まだ何やらちくちくとやり合っているご婦人方を脇において、俺は意外な質問の意味を吟味する。そして、先にリオの言葉に答えたのは、アストラだった。彼は、静かな、しかし暖かい声をリオに向けた。
「その通りだ」
「その、父ちゃんや母ちゃんって、どんな感じだったんじゃ?」
ん?
「それは、どういう人達だったか。と、いうことか?リオ」
「う、うん」
おいおいおい、こりゃいったいどう言うことだ?まさか、リオがそういうことに興味を持つなんて。
「父も母も、腕のいい菓子職人だ。同時に、商才に篤い商人でもある」
「そうなんか………ほいじゃ、アストラ兄ちゃんやディオーネ姉ちゃんも、子供の時とかは、あんな感じじゃったんか?」
「む………?ああ、そうだな。両親は義務婚であったとはいえ、お互い強い絆があった。俺達姉弟は、そういった両親の元で育てられた。まあ、短い時間ではあったがな」
「え………?」
「俺達は、ふたりとも戦士としての適性があると審査された。だから、姉さんは六歳の時、俺はその3年後、養成所に入所した。だから、俺達姉弟が両親に育てられたのは、せいぜい5、6年といったところだ」
「そうなんか………」
アストラの言葉にうなずきながらも、リオは、なにかしら思うような瞳で、向こうの親子達と、アストラやディオーネを見比べている。そんなリオを、アストラはいつもと変わらない、穏やかな表情で見守っていた。その時、目一杯口に中にものを頬張ったディオーネが、ハムスターみたいな顔で器用に話しかけてきた。
「まー、あれだぎゃ。うちの母ちゃんは、いわゆるシブコのドロップアウターだったでよ。それでも、そこいらの女に比べりゃ、半端じゃーなかっただでね。ふはは、今にして考えりゃ、うちの父ちゃんは、母ちゃんに完璧尻に敷かれとっただぎゃ」
ってことは、あなたはまんまお母さん似。ってことか。
「痛でっ!!」
そう思っていたら、いきなりドリンクの氷を一粒ぶつけられた。
「おみゃー、まーたロクでもねーこと考えとっただぎゃ?」
ホントにこいつの勘の良さときたら、それとも、本当に人の頭ん中が読めるのか?
「そりゃーそーと、ボカチン。おみゃーの母ちゃんは、どんなんだったんかみゃあ?」
「へっ!?わ、私のっ・・・・・・ですか?」
「おー」
「わ、私…………私の母は………」
なんか急に顔色が悪くなってきたぞ。まさか、聞いちゃいけないことだったんじゃないのか?もしかして、既に鬼籍に入ってしまっている、とか。
「うあ…………………」
ハナヱさんは、急にフォークを取り落とすと、そのまま頭を抱えてガタガタと小刻みに震え始めた。お、おいおいおい、なんだか、ヤバい感じだぞ・・・・・・?
『ご、ごめんなさい………もう寝坊したりしません………もう朝稽古に遅れたりしませんから………!』
ハナヱさんは、焦点の定まらない目を見開かせながら、なにやらうわごとのようにブツブツと言葉を漏らし始める。そして、透き通るように真っ青になると、変な汗を顔中にびっしりとにじませながらガタガタと震え始めた。
『お許しください、お母様………!』
むぅ、なんだかよくわからないが、ハナヱさんの御母堂は、すこぶる厳しい御方だったようですな。これは、はからずしも、彼女の古傷をえぐってしまったらしい。いやはや、人間、色々あるもんだな。
ちょいとしたアクシデント気味なこともあったが、一堂はおおむね気分転換を満喫したようだった。リオといえば、バザールで買ってやったばかりの、携帯工具セットの中身をあれこれと吟味している最中だ。別に、俺が押し付けた訳じゃなくて、こいつが買ってくれといってきたんだが。
しかし、こいつも一応子供なんだから、もっと他に欲しがるものがありそうなもんだが。まあ、この間買ってやった、あのバカでかい黒豹のぬいぐるみは、今でも随分大事にしてくれているようだから、それはそれでいいのかもしれない。まあ、新しいものをホイホイねだったりしないのが、こいつの偉い所でもあり、いじましい所でもある。
「の、のぅ、クルツ………」
「ん、どうした?」
「そ、その………今日の話なんじゃけど………」
「今日の?ああ、親父やお袋がどうとかいったアレか?」
「う、うん………」
「その、クルツの母ちゃんの話、うち、聞いてもええかのぅ………?」
「俺の?」
ああ、そう言えば、あの時はハナヱさんのトラウマを呼び覚ましちまったんで、そこでその話題は打ち切りってことになった。だから、俺に対しては聞きそびれたんだろう。それは別にかまわないんだが、一体どんな風の吹き回しやら。今回、このお姫様は、俺が子供の頃の話を聞かせてくれといってきた。
どうやら、今までの生活環境の影響かどうか知らないが、こいつはこいつなりに、フリーボーン。いわゆる、人っ腹生まれが、どういう世界で育つのか興味を持ったらしい。そもそもの話、トゥルーボーンのリオにとっては、遺伝子的な親はあっても、言葉の意味での両親や兄弟というのは存在しない。
まあ、自分に無いものや、常識の範囲外のものに興味を示すのは、人間として別段不思議ではないとは言え、トゥルーボーンからしてみれば、まったく傾注にも値しない事に敢えて興味を持った。と言うことが、逆に俺の興味も引いた。
「あまり、面白い話じゃないかもしれないぞ?」
「あ、そ、その、駄目ならいいんじゃ」
「いや、別にかまわないけど?それじゃ、聞くか?」
「う、うん!」
なるほどね、けどまあ、いったいどういった風の吹き回しやら。まあ、ご希望通り、お題の話をしてみましょうかね。
彼女は、SPに取り押さえられて、自分の前に引きずり出された少年を、磨き上げられた眼鏡のレンズ越しに、興味深そうな視線を投げつけた。
四肢の均整が取れた北欧系の体格だが、やや黄色味のかかった、東洋系特有のきめ細かい肌。そして、夜空のように真っ黒な髪と、深みのある琥珀色の瞳。レイザルハーグでは大して珍しくもない、北欧系住民と東洋系住民の混血児。か、なにかだろう。と彼女は見当をつける。
それにしても
彼女は、SPふたりがかりで押さえつけられながらも、野生の狼のような静かな凶暴さを秘めた瞳で、まっすぐ自分を睨みつけている少年に、心の中で、深いため息をつく。
なにをどのようにすれば、こんな荒んだなりになるものなのか
少年の頬は泥と埃にまみれ、彼自身の怒りも手伝ってか、青白くひきつっている。その黒髪も土埃で艶を失い、伸び放題に伸びてばさばさに振り乱れ、まるで、たてがみのように背中や肩を覆っている。顔には、いくつかの痣が浮かび上がり、ところどころ裂傷の痕も見える。
そして、過去の殴打の痕の残るその左目は白く濁りかけ、このままでは失明するのも時間の問題だろう。
「ずいぶん手荒に扱ったようね?貴方達にも子供はいるでしょうに」
「猊下、確かに抵抗された時、多少制圧行動はとりましたが、可能な限り配慮は致しました」
彼女の揶揄に、SPは若干うろたえたように答える。しかし、少年を取り押さえた手は、決して緩めない。
「冗談です、わかっていますよ」
彼女は、かすかに苦笑じみた表情を口元ににじませる。SP達も、この少年を取り押さえるのに相当苦労したらしい。この背の高い男達にどう当てたか知らないが、ふたりの顔にはそれぞれ殴打の痕が残り、スーツの上には、つま先の跡がスタンプされている。そして、そのどれもが、みぞおちや金的周辺の下腹部に集まっている。
子供のくせに、やけに実戦的、というより、荒事慣れしているのだろう。それはそれで問題だ、と、彼女は小さくため息をつく。
事の起こりは30分ほど前。非公式だが、浪人戦役の復興下にあるレイザルハーグの町並みを視察するため、必要最低限の護衛だけを連れて訪れた時のことだ。同行した人間は反対したが、東洋系住民が集中しているスラム街の実態を見ておくため、周囲の反対を押し切るようにして足を運んだ。
そして、この地区の報告以上の荒みように、思わず眉をしかめつつ、その惨めな生活ぶりに忸怩たるものを感じ、直にそれらの空気を見て取りたいと思い、難色を示す警護を説き伏せて車から降り、その周囲を歩いていた時だった。
物陰に巧みに潜んでいたひとりの少年が、突然疾風のように飛び出してくると、自分が手にしていたサイドバッグをあっという間に奪い取り、SP達の体勢が整う前に、彼らの間をすり抜けるように逃走を開始した。
実際、その瞬間まで、自分も、そしてSP達も、その少年の存在にまったく気づいていなかった。とはいえ、彼らが油断すると言うことはありえない。しかし、少年は、複数の人間の間同士に生じるほんのわずかな死角に、音も気配もすべて殺しながら巧妙に滑り込み、周囲に自分の気配を解け込ませるように、完全に場の空気と同化して接近してきた。
訓練を積んだエージェントでも、そうそう出来るものではない、子供とは思えない動きに、一瞬何が起こったのかも理解できなかった。SPの数名が少年を追って走り出した所で、ようやく事態を飲み込むことが出来たほどだった。
しかし、精鋭揃いSPの追跡から逃れられる道理もなく、しばらくたった後、猟師に生け捕りにされた猛獣のように、彼らに取り押さえられた少年が引き出されてきた。
彼女は、SP達を制するように進み出ると、少年の目の高さまで体をかがめる。
「お名前は?」
彼女の問いに、少年は相変わらず威嚇するような目つきで睨んだまま、何も応えない。
「お年はいくつ?」
これも、然り
「おうちはどこかしら」
やっぱり、何も答えてくれない
「お母さんは?」
彼女が、最後の切り札とでも言うべき一言を発した瞬間、少年は、彼女の目論見どおりの反応を示し始めた。
初めは、やはり反抗的な表情を浮かべていたが、彼女の言葉がじわじわと浸透していくにしたがって、両方の目がぶるぶると潤み始め、泥と埃で汚れた頬にぼろぼろと大粒の涙がこぼれ始めると、たちまち汚れた縞模様を作り始めた。
大人顔負けの殺気と敵意を放つ、人間性が完全に凍りついた表情から一変して、幼い子供本来の顔に戻り、壊れた蛇口のように涙を流して泣き続ける少年を前に、彼女の周りに張り詰めていた空気が少しづつ緩んでいく。
「ごめんなさいね、おばさんが悪かったわ」
意図して言ったこととはいえ、そのあまりにも過剰な反応に、胸の奥で微かに罪悪感じみたものを感じつつも、彼女は、静かに少年の前に近付くと、ポケットから取り出した絹のハンカチで、当然のことのように、その汚れた頬を拭ってやる。
決して安物などではない純白のハンカチが、一瞬で雑巾同然に変わるその光景を見て、その場にいたSP達は、予想すらしなかった光景に息を呑む。
「猊下、この少年はどういたしますか?」
「この少年には、罰を与えなければなりませんね」
つい先ほどまでの慈悲深い行動とそぐわない、またしても予想だにしなかった言葉に、SP達は面食らった様子で互いの顔を見合わせる。
「この少年の自由と将来は私が預かります。もう、この少年に一切の選択肢はありません。犯罪者になる自由も、ひとりで野垂れ死ぬ自由も認めません。この少年を教養課幼年部に送致する手続きをとりなさい。その間、私の権限で保護観察処分とします。それまで、決して取り逃がしてはなりませんよ」
彼女はそう宣言すると、安堵するかのように、微かに表情を和らげたSP達に、心の中で柔らかい笑みを浮かべる。
ROMエージェントも、人の子ですか
「もう、これ以上見るべきものはありませんね、帰りますよ」
彼女はそういうと、この荒みきった町を一瞥し、なにやら思う所のあるような表情を一瞬だけ浮かべたあと、SPと、彼らに取り押さえられた少年を従えて踵を返した。
「そうそう、言い忘れました」
彼女は車に戻る途中、振り返ることはせず、ただ何かを思い出しただけ。と言った口調で、SP達に指示を与えた。
「一名、靴を調達してきなさい。裸足では、フロントが渋るでしょうから」
「あきれた話です」
彼女は、部下の提出した報告書を、その場で一気に目を通してから、心底面白くなさそうな表情で、簡潔な感想を述べる。
「ドラコ連合軍近衛連隊中佐であった父は、浪人戦役で戦死。レイザルハーグ王立軍少尉であった母も、戦後、軍の人員整理対象となり、強制除隊。ブラッディ・クリスマス事件における、強姦殺人の被害者として死亡。その際、兄も消息は不明。ありがちといえば、ありがち。このご時世、ありふれていて、特に見るべきものはありませんね」
そう言いつつも、彼女のほっそりとした白い指先は、苛立たしげにテーブルを叩き続けている。
「ご苦労様、下がってよろしい」
彼女のねぎらいの言葉に、調査報告書を提出したエージェントは、一礼すると無駄のない動作で速やかに退室して行った。
「さて」
彼女は、一仕事を終えた表情で立ち上がると、スイートの応接間を後にして、あの少年の様子を見に行くことにした。
「トマスン」
果たして、少年はリビングルームの隅で、警戒心を剥き出しにしてうずくまっている。その荒れ果てた姿も手伝って、狼の子供が座り込んでいるようにも見える。それはそうとして、外にいた時はそれほどでもなかったが、室内にいると、さすがに臭いがきつい。
その身なりを見れば言うまでもないが、この年齢の子供に対するものとしては、どうあっても許容できないほど、劣悪な環境にかなりの間晒されていたのが見て取れる。部下との面談に入る前、風呂に入って着替えておくように。と言いつけておいたはずなのだが、どうやらその気配もない。ルームサービスでわざわざ注文したサンドイッチやホットミルクも、まったく手付かずのままだ。
「こっちに来なさい、トマスン」
『トマスン』と言うのは、彼女がとりあえずつけた名前だ。何しろ、何度聞いても答えようとしないから仕方ない。一応、名前の方の調べはついてはいるが、その名を呼ぶのは、彼自身が名乗る意思を示した後にしたい。あんな経歴を知ってしまった後ではなおさらだ。何もかもを見透かしたような言動を、この少年に対してしていいとは思えない。
「トマスン、貴方のことですよ、トマスン」
彼女は、辛抱強くその名で呼びかける。
「トマスンじゃない」
「名前がないと困るでしょう?」
「のらいぬみたいにいうな」
そう言うと、少年は激しい敵愾心を浮かべた目で彼女を睨みつける。人を信じようとしない、頑なに他者を拒絶する目。しかし、彼女は少しも臆することもなく、余裕を見せた表情で切り返した。
「野良犬じゃないなら、お風呂に入って、きちんと着替えるべきじゃないかしら?」
「うるさい、ぼくのかってだ」
「大人の言う事をきかない悪い子には、おしおきをしなきゃいけないわね」
「やってみろ、ぼくをばかにするな」
「わかったわ、泣いて謝っても許さないわよ」
彼女は、つかつかと少年のそばに歩み寄ると、埃と垢で汚れた手首を掴み、そのまま有無を言わさずバスルームに引っ張っていく。だが、硬い骨の感触が直に伝わってくる、あまりにも痩せさらばえた少年の腕に、再び胸を突く痛みと共に内心嘆息をつきつつも、彼女は、服なのか雑巾なのかわからないほどボロボロになった少年の着衣を剥ぎ取ると、自分も服を脱いでバスルームに入る。
「大人しくしてなさい、泥が目に入るわよ」
少年を座らせると、彼女は頭からシャワーを降り注がせる。そして、少年を包んで流れる湯は、彼女も思わず驚くほどの泥水と化して流れていった。
「きれいにしたら、散髪もしないとね」
シャンプーを手に取ると、伸び放題となった髪の毛に手を置き、その強張りきった髪を優しく揉みほぐすように泡立てる。最初は真っ白だった泡も、しばらくすると、土色に変色し始めた。
「これじゃ、もう一回洗わないと駄目ね」
彼女は、この洗い甲斐のある少年を前に、苦笑混じりにシャンプーのボトルを手に取った。
「どうしたの?寒いのかしら?」
気づくと、その背中が小刻みに震えている。髪を洗うのに気を取られ過ぎて、体を冷やしてしまったかと思い、そう問いかけてみたが、少年は小さく頭を横に振る。
背骨と肋骨が掘り込んだように浮かび上がる、がりがりに痩せこけた小さな背中が、何かを耐えるように、かすかに漏れ聞こえる嗚咽に合わせて小さく波打っている。そんな少年に、彼女はあえて言葉をかけることはせず、できうる限り優しく、温かな湯気の昇るシャワーを降りかけた。
やっとのことで、少年の全身から泥と垢を駆逐した彼女は、さっきまでの、警戒心の塊のような表情から一転して、戸惑った表情を浮かべる少年を促して、湯を満たしたバスタブに入った。
「お風呂のあとは、きちんと着替えて、ご飯にしましょうか」
彼女は、少年と差し向かいでバスタブの湯につかりながら、黙りこくったままの少年に笑いかける。どうやら、少しは恩義を感じてくれたのか、目の粗いヤスリのような敵意は消えている。もっとも、不愛想な表情は相変わらずだったが。
「それから、明日は病院にいかないとね。目、痛いでしょう?」
彼女の言葉に、少年の顔に一瞬、ビクリと恐怖の表情が浮かぶ。
「ちゅうしゃ、するの?」
少年にとって久方ぶりであろう、包み込むような湯船の暖かさが、彼の心を解きほぐしたのか、今までの立ち居振る舞いとは一変して、幼い子供そのままの無邪気な不安に、彼女は、こみ上げてくる笑みを抑えきれずに表情をほころばせた。
「未来のプリセンター・マーシャルが、何を情けないことを言っているの。しっかりしなさい、男の子でしょう?」
彼女は、そう言いいながらしなやかな手を伸ばすと、少年の小さな額を人差し指で優しくつついていた。
「猊下!お久しぶりでございます!」
久しぶりの再会に、子供のように惜しみのない歓喜の笑みをあふれさせて、私邸を訪れた彼女を出迎える青年を前に、彼女は、つい苦笑交じりの笑みで答える。
「貴方も健勝そうでなによりです、デミ・プリセンター『ティンダロス』」
もはや、本名より本名となってしまった二つ名で呼ばれてしまった青年は、困ったような表情でかしこまる。もっとも、その本名とされる名前さえ、本当の名前と言う訳ではない。彼自身、最近知ったことだが、自分の名前の由来は、母が昔飼っていた二匹のジャーマンシェパードの名前を、それぞれ姓と名に使ったもの。と聞いた時には、さすがに笑うしかなかった。
「そ、それは勘弁してくださいませんか?猊下」
「では、貴方も猊下はおよしなさい。ここで、そんな他人行儀もないでしょう」
「はい、ごめんなさい、母さん」
丁寧に刈り揃えたばかりの、瑞々しい香りを漂わせる芝生の上を歩きながら、青年は、照れ隠しの笑顔を浮かべつつも、広い庭園の中央に用意されたテーブルに案内すると、ガーデンチェアを引き、彼女に席を勧める。
「クズウから取り寄せた新茶です。シミズ産もいいものですが、さすが、香りが違います」
メイドを下がらせ、自らティーポットを手に取り、かいがいしく茶の用意をする青年に、彼女は柔らかい微笑を浮かべる。
あれから15年、ガリガリに痩せこけたみすぼらしい少年は、今では、第一系列に迫らんばかりの気鋭たる青年に成長した。
15年と言う年月を、彼女は最初の思惑どおり、自分の手駒を作り上げることにのみ使った。そして、少年も、彼女の為だけに牙を研ぎ、そして彼女の為だけにその技を磨いた。手駒となれば上々と思っていた子供が、今や手駒どころか、二つとない懐刀となった。
彼女が拾ったのは、ただの野良犬ではなかった。あの時、レイザルハーグのスラムで見せた、百戦錬磨のエージェントの目さえも欺き抜いた技量。東洋系の人間に対して、有無を言わさず与えられる、理不尽な暴力と憎悪が横行する地獄の中で、幼い子供がたった独りで生き抜くために、望むと望まざるとに係わらず身に着けた能力。
それは、彼女の最初の目論見どおり、しかるべき場所で、しかるべき師に就き、適切に、そして無駄なく磨き上げられた時、少年は、野良犬どころか、獰猛な牙と狡猾な知略を備えた、恐るべき猟犬へと成長した。
そして、完成されたその力は、彼女に仇為す者だけでなく、やがてそうなるであろう者にも、その牙はひとかけらの慈悲もためらいもなく、例外のない死を与えていった。しかし、それは、あくまでも彼女の為だけに振るわれる、忠誠と敬愛の証でもあった。
「サンドハーストは変わりありませんか?相変わらずフォヒト猊下は気難しいですか?ああ、それと、セネカ猊下はご健勝ですか?私もまだ未熟者ゆえ、またお会いして、いろいろ教えを頂きたいものです」
心の底から嬉しそうに、うきうきとした様子で若草色の茶をカップに注ぎながら、あふれだした言葉が止められない。と言った様子の青年に、彼女は眼鏡の奥の目を細める。
「そんなことより、自分のことですよ。もういい大人なのですから、誰か良い人はいないのですか?」
彼女の一言に、ポットを持つ青年の手が一瞬止まったあと、ばつの悪そうな笑いを浮かべ、微かに赤面する。
「あ、いえ、どうも仕事が楽しくて。つい、そこまで気が回りませんでした」
「仕事が楽しいというのは、私の肩書きとしては心強い限りですけど、私個人としては、それでまっとうに人とお付き合いができるものか、心もとない限りですよ」
「相変わらず、お厳しい」
彼女の言葉に、困ったように赤くなった耳を揉み解しながら、彼も差し向かいの椅子に腰を下ろす。そして、しばらくの間、二人は軽く談笑を交えつつ、ふくいくたる香りをたたえる緑茶の味を愉しんでいた。
「私の方から、ああいった話をしておいてどうかとは思いますが」
「どうなさったんです、母さん?」
不意に色味が変わった彼女の言葉に、青年は表情を正し、カップをソーサーの上に戻す。
「蠍を、放つ時が来たと思うのですよ」
「もちろん、私もお手伝いをさせていただけるのですよね?」
短い、しかし、確固とした意思が秘められた言葉を向けた彼女に、青年もまたデミ・プリセンターとしての表情で応える。
「貴方には、ノヴァキャットに行って欲しいのです。そのためにどんな手段を使ってもかまいません、貴方が最善とした判断に一任します」
「承知しました、猊下。全ては、叡智の光のために」
青年は、畏敬のこもった表情で、静かに一礼する。そして、それを見届けた彼女は、再びカップを手に取ると、残り少なくなった緑茶で唇を湿らせた。
さて、案の定、このお姫様、あっけにとられた顔をしているよ。
「と、まあ、これが俺の母さんの話だよ。どうだ、面白かったか?」
「う、うん。じゃけん、その話はホンマなんか?う、うち、クルツはずっとテックじゃったとばかり思うとったけん」
果たして、リオは俺が話している間中、冷蔵庫から出したジュースのパックに口をつけることも忘れ、実に真剣な表情で聞き入っていた。
「ははは、どう思う?」
俺は、わざととぼけた笑いを返してみせる。すると、とたんにリオの目が釣り上がった。
「な、なんじゃい!ひょっとして、うちをからかっとったんか!?」
「そんなことないさ。さっきの話も、本当と取るか、作り話と取るかはお前に任せるよ」
……………」
おやおや、このお姫様、ずいぶん困った顔をしているよ。まあ、さっきも言ったけど、これをどう受け止めるかはお前さんの自由だよ、リオ。
「でも、クルツの母ちゃんがおったから、クルツがいて。じゃけん、うちもこうしていられるんじゃ」
「ん?」
「じゃけん、ホントでもうそっぱちでも、どっちでもええけん」
「ははは、そう来たか」
リオは、随分生意気なことを言ってくれながら、ようやくのように、パックのストローをくわえ、こくこくとジュースを飲み始めている。けど、考え込む時のいつもの癖で、飾り物じゃない本物の方の耳がピコピコ動いている。まったく、いい加減可愛い奴だね、こいつも。
「リオ、冷蔵庫にあるチョコバーな、一本取って食っていいぞ」
「えっ?じゃ、じゃけん、夜はお菓子食うたらいけんって………」
「いいさ、今日だけ特別だ。母さんも、お前の言葉を聞いたら、喜んでくれる」
「そ、そうかのぅ」
「ああ、そうとも」
俺の言葉に、リオは心底戸惑ったように、若草色の目を動かしながらも、嬉しそうに冷蔵庫からチョコバーを取り出している。
そうだな、まあ、お前がさっきの話をどう取ったとしても、それはお前の自由さ。それに、その言葉だけで、お釣りが出るくらいだよ。
それに、お前だから話したんだ。ま、ゆっくり悩んでみな。