魔法のような不思議現象、謎の木の棒、動く写真。そして、ハリーポッターと大きく書かれた新聞紙。
まるで点と点で結ばれた線がひとつの物語を紡ぎあげるように、少女の脳はひとつの結論に達していた。
これ、もしかして、ハリーポッターだ!! 魔法界だ!?
夢かと一瞬思ったが、そんなはずはない。頬っぺを抓ったら痛い。紛うことなき現実の世界。そこにハリーポッターという非現実が、目の前に広がっている。
それは幾許かのわくわくを少女にもたらした。
「……Accio」
それに水を差すように発せられた言葉で、ひゅん、と風を切る音とともに新聞紙が少女の方へと飛んでくる。驚いてその原因たる自身を抱き抱えていた女性を見上げれば、慈愛の滲んだぎらぎらとした顔がにっこりと笑った。
どうやら、新聞紙を眺めていたことから読みたいと思っていると勘違いしたらしい。
「……あー……」
いらないお世話だ。
少女の目の前に読めもしない英字がずらりと並ぶ。
……苦手なものが目の前に並ぶって、なんの嫌がらせだろうか。教科書よりもはるかに行間は狭く、習ってもいない単語だらけ。目がチカチカとして居心地悪くもぞもぞとしてしまう。
がたり。
おもむろに、なんの前触れもなく女性が立ち上がり、少女と新聞紙を抱えて移動し始めた。何処へ行くのかとひやひやしながら少女は女性にしがみつく。彼女はごく自然な動作で仰向けに寝ている男の横に腰掛けた。
男の生気を感じさせない蒼白な肌と、それとは対照的に生き生きとした女が奇妙だと思った。よく見ると男の背中の方は顔とは逆に真っ赤に染まり、いっそどす黒くすら見える。血が溜まっているのだろうか。その姿は確かに"肉"を感じさせて、吐き気が込み上げた。
女性は楽しそうに笑う。
……ふわりと香った異臭がまるで私のこれからの人生を示唆しているようで、嫌だ。
少女はずしりとした重荷に軋む心から目をそらす。最低で最悪な気分で、歓喜にうち震える新聞の文面に目を走らせた。
同年代の赤ん坊の多くがそうであるように、少女は何も考えないことにした。
▽
▽
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月日が経つのは存外早いもので、少女がその体になってからゆうに7回目か8回目の冬を、そして誕生日を迎えようとしていた。6歳の頃に貰った1人用ベッドの中、毛布にくるまって窓の外を眺める。しんしんと降り積もる雪が、少女の家の家庭菜園に降りかかる瞬間だけその目的を達成出来ずどこかに消えてしまう光景を暇つぶしに見る。これほど降り積もっているというのに、菜園場だけは春のように緑色の地面が見えていた。
なんの魔法なのだろう。これを見てるだけでもなかなか面白い。
ぼんやりと、貴重な遊び相手の庭小人がこんな豪雪の中ちゃんと生きているだろうかと心配したが、毎年毎年同じような心配をした割には大して応えた様子もなく春にはひょっこりと現れて元気に庭を荒らしているので、今年もきっといらない心配になるに違いない。
少女の部屋は2階にある。一回から漏れて聞こえてくる音からそろそろ朝ごはんの準備が終わり、母……少女がこの体になってから初めて目にした女性が、少女の名を呼ぶだろうと当たりをつけた。もともと魔法使いの朝ごはんの準備なんて大した時間はかからない。つまりは、母が起きた時間イコール朝ごはんの時間だ。
部屋は暖かいので、マグルだった頃のように寒さと戦いながら冷たさに曝される覚悟を持って起きる必要は無い。けれども、起きるのは億劫だ。
億劫なのは夏でも変わらない。
「エミリア、ご飯よ」
階段の方から声が聞こえた。エミリアとはここ8年来の少女の名前であり、長いこと同じ名前で呼ばれていればそれが自分を指し示すことはとっくに了解している。
「……いまいく」
エミリアはパジャマを脱いで、部屋着のローブに袖を通しながら返事をした。ベッドから降りて家用の靴を履く。服は着替えたものの、髪を整えるほどの気力はない。というより、今はあまり鏡を見たい気分ではない。朝ごはんを食べるまでボサボサでもいいだろう。母はエミリアの身だしなみはあまり気にしない。マナーに関しては厳しく言う割には。
母の瞳は、あまりエミリアを映さない。
扉を開けるがそこには誰もおらず、相変わらず下の階から準備をする音だけが聞こえる。
いつもより準備の時間が長いのは、今日がエミリアの誕生日だからだろう。
「おはよう」
「ええおはよう。パパにはもう挨拶した?」
「まだ」
「じゃあ言ってらっしゃい。ソファにいるわ。……まったくもう、起きてるなら手伝ってくれればいいのに……」
愚痴愚痴と父の不満を言う母は、そう言いつつもなんだか楽しそうだ。朝食を作りながらクッキーか何かも焼いているようで、キッチンの空中には無数の生地かなにかが飛んでいる。香ばしいバターの匂いが一階には充満していて、エミリアは少し幸せな気分になる。
その幸福感を背にしてソファに向かう。そこに腰掛ける"父"をできるだけ見ないように自分の足元を凝視する。後ろからは視線を感じた。
エミリアが始終思うことによると……母に逆らうのは面倒くさい。これに尽きる。
「ぱぱ、おはよう」
"父"の目の前に立った。
馬鹿らしいけれど、これは毎日の決まりきった仕事のようにいつも繰り返されている。もはや手馴れたもので、その痩せこけて白すぎる頬に唇を寄せる。ざらざらとした触感が伝わったが、無心。
以前はぶよぶよした肉の感触がしていたことを鑑みれば、カルシウムの塊は気持ち悪いの部類には入らないというのがココ最近のエミリアの見解だ。
物言わぬ骸に親愛の形を模したキスをする。それに満足したらしい、見ていた母はキッチンに戻り皿が空を踊り始めた。
エミリアは手の甲で荒々しく唇を拭った。
エミリアはリビングのいつも食事を食べるテーブルの前に座る。食べる時間にはまだ早いかもしれないが、少なくともソファに座る選択肢はない。……何年も前の話だけれど、あのソファに染み込んでいた"父"の全身から染み出していた液体を思えばそもそも近寄りたいとも思えない。たとえそれが既にスコージファイで清められているとしても。
母が席に着くのにそれほど時間はかからなかった。
母が席につけば、もはや骨と化した"父"も席にやってくる。母の魔法は流暢だけれど、関節で骨の摺れる音が妙に部屋に響いた。
二人と一体が揃えば、「それじゃあ食べましょうか」と母が号令をかけ、エミリアは黙々と食べ始める。彼女たちの間に会話はあまりない。
母はよく喋るが、その会話の矛先はエミリアではないのだ。
食べているのは野菜とソーセージを煮込んだハーブのスープとふかふかのパン。それから焼いた肉に塩と胡椒がかけられた程度の素朴な料理で、まったく苦痛ではない。むしろ美味しいと言っていいくらいだ。イギリス料理はまずいまずいと色んな所で言われるが、魔法界では別にそういうことは無い。
……つまり、ブリテンマグルの酷評される食文化は魔法族とマグルの隔絶の後に起こった、ということだろうか。なんにせよ食事が口に合うのはいい事だ。
中立で優しく説明を書いてくれる辞書ですら、褒めるところが見当たらないのか「素材の味を活かした味付け」「フランス料理とは真逆」と称される料理に、戦々恐々としたのは懐かしい思い出である。
ソーセージの最後のひと切れを口に入れれば、皿は空になった。咀嚼しながら、ごちそうさまでした、と心の中でひと心地つき、フォークを下ろす。間もなくそれは皿と共にキッチンの方へと飛んでいき、カチャカチャと洗われる音がした。
母は独り言を終始"父"に向かって喋っていたものの、エミリアとそれほど食べるスピードは変わらない。口の大きさが違うもの。しょうがない。少女が食べ終わって幾許もなくして彼女も食べ終わる。
エミリアは昨日の読みかけの本でも読もうと席を立った。部屋に戻ろうとして階段の手すりに手をかける。
「エミリア」
母が、珍しく少女を呼び止めた。すぐに振り返る。
「……」
「今日この後、プレゼントを買いに行きましょう」
「うん、まま」
微笑みを浮かべた彼女にエミリアは一二もなく頷く。母の提案は逆らわない方がいいと、少女はその身をもってよく知っていた。
3年前はページの減らない日記帳を買ってもらった。一昨年はペットの鼠を。去年は食べきれないほどの大量のお菓子だった。今年はどうしようか。一昨年買ってもらった鼠が死んでから間もない手前、生き物を所望するのはしのびない。
「じゃあ準備してらっしゃい。ダイアゴン横丁でいいかしら」
「うん、まま」
軽い返事。エミリアはできるだけ急ぎ足で階段を登った。
外出用のトレンチコートのようなローブを上からかぶり、口元まで襟を縦に伸ばす。襟が伸びる服なのだ。なんで伸びるのかはよく分からないけれど、風を通さないし、顔が隠れるしでエミリアはこの服を気に入っている。
加えて年中来ていても温度による不快感を感じることは一切なく、脇のポケットには無尽蔵に物が入るので数年前からエミリアの一張羅と化した。
魔法のちからってすごい。
着るものの準備が出来てしまえばあとは髪型を整えるだけ。部屋に備え付けられたドレッサーに向かう。
近付けば、櫛やら蒸したタオルやらがふわふわと飛んできた。ドレッサーの前の椅子に座ると櫛が勝手にエミリアの髪を梳かし始める。
鏡は嫌いだ。嫌なものが目に映る。
櫛が前髪を梳かしたとき、引っかかった房のせいで額が一瞬顕になった。そこには真一文字の額を横断する醜い傷がある。
七年前からずっとあるこれを、エミリアとしての記憶の最初、あの痛みの中でつけられた傷だろうとエミリアは当たりをつけていて、たぶんほぼ間違っていないだろう。何度か治せないかと試して見たりもしたが、一度としてその傷が薄くなったことはない。
それを隠すために、エミリアは常に髪型を制限されてしまう。右手で長く伸ばした前髪の位置を整えて、傷を見えないようにする。
最終確認は物任せにせず自分でやる方が確実だ。このドレッサーと櫛達はことある事に流行りのスタイルにしてこようとする。
そんな野暮ったい髪型なんてナンセンス、とでも言わんばかりに飛び出してくる櫛の猛攻を躱してエミリア一階へ駆け降りた。荷物は特に持たない。持っていくものも無い。そもそも服のポケットに何でも入ってしまう。
母は既に着替え終わって暖炉の前で待っていた。その手にはハンドバッグと、煙突飛行粉の入った袋がある。
「まま、じゅんび、できたよ」
「じゃあ行ってくるわね貴方」
母は自然な動作で父の骸に近寄ると、その頬に親愛のキスをした。元々少し不安定な状態だった首が、少し左に傾いた。
さぁ、と母がエミリアに促して"父"の前に立たせる。さっきは目を逸らしたのでよく見えなかった男の顔が、真っ暗な眼窩が、じっとエミリアを見ている。
お前が殺した。
そう言っている気がした。直視するのはやはり苦しかった。それを振り払うためには早く終わらせなければ。
母に倣い骸の頬に唇を寄せる。急いて少し勢いづいてしまう。
落ち着いて、落ち着いて。
念は虚しくも唇を離す時、ぐらり、と決定的に骸の首が曲がった。
しまったと思う頃には、ソファのそばの床にごろごろと髑髏が転がっている。
ひゅっ、と。後ろで女性が小さく悲鳴を上げて座り込む音がした。
ガンガンと煩いほどなる頭の中の警鐘に、逃げなくてはいけないと思った。エミリアが振り向き体を動かそうとしたとき、母が顔を上げて杖を少女に向ける。その動作に少女はどきりとする。杖を向けられたのは、父の、最初のあの日以来だ。あれは痛くて、痛くて、怖い。
エミリアは恐怖に身を強ばらせると、母はそれ幸いと呪文を吐き出した。杖の先に光が集まり、それを見たエミリアは咄嗟に左に倒れ込む。掠った閃光が少女の右耳を引きちぎり、鮮血が撒き散った。
ぽたぽたと滴り落ちる血を無理やり止めるように右手で耳を押さえつけ、エミリアは真正面から母を睨む。
突如、母が何かに吹っ飛ばされるように壁に打ち付けられる。少女はそれを好機にほとんど同時に暖炉に向かって走り出した。
家から出て逃げたい一心だった。
母が取り落とした煙突飛行粉を拾い上げ、炎の燃え盛る暖炉に投げ入れ、炎がまだ緑色に変わりきっていないうちにそこに身を乗り出す。
一瞬炎が体を這い回り痛みで包まれたが、それを気にするほどの余裕はない。
どこかの場所の名を言わなければ。煙突飛行ネットワークに登録されていて、かつ安全で母から逃げられる場所。考える時間がなければ口に出せるのは自ずと慣れ親しみ、信頼のできる場所の名となる。
あの場所の名を、舌の上で転がした。
「ほぐ、わーつ!」
ぐるぐると入れ替わる視界。
最後に見た母はまだ壁に埋まって呻いていた。
その事実に、少なからずホッとしている自身がいた。
次回更新は5/1 20:00です。