ゲホゲホと咳き込みながら転がり込んだ場所は、古びた清潔さを持つ、机と椅子がごちゃごちゃとした教室だった。飛び出た時の衝撃で痛む傷口に少し呻く。身体中のそこかしこがヒリヒリする。
朝早いためか、それとも単に授業がないだけかそこには誰もいない。
「けほっ……」
喉に入り込んだ最後の灰を吐き出して素早く立つ。右耳は右手で抑えているものの相変わらず液体の垂れる感触がする。母が追ってこないとは限らないので、誰かに匿って貰いたかった。服に付いた灰を払い落とすのは後回しにして出口を探す。広いが大きすぎるほどではないその教室は、黒板の隣に簡素なもの一つ、教室の1番後ろに両開きの大きなものが一つの計2つ扉がある。
より近くにあった両開きの方の扉に駆け寄る。そのドアノブは彼女の身長からしてみれば少し高いところにあり、エミリアはバリアフリーの偉大さを確かにそこから感じ取った。空いている左手を伸ばし開けようとする。意図せず背伸びする体勢になり、右耳が引き攣って痛む。
ああくそ、なぜ私はこんなに背が低いのか。
思わず悪態をついたとき、エミリアの背後で派手にガラガラとチョークを砕く音がした。エミリアの心臓が飛び跳ね、心做しか耳から溢れ出る血の量が増す。
母が追ってきたにしては奇妙な音だ。まるで元々チョークを砕くことが目的だったように熱心に砕く音。それは大袈裟なほど大きな音を立てている。
振り返ると、そこには小太りのいかにも意地悪そうな顔をした半透明の男……はるか昔ホグワーツに紛れ込んだ混沌、ポルターガイストのピーブズがチョークを砕き撒き散らして遊んでいた。時々粉を黒板に擦り付けてみては、汚すことを楽しんでいる。
最初はまるでエミリアなんて見当たらないとばかりに無視していたのを……それもまた癪だが……エミリアを体のいい遊び道具にしようと思い立ったらしく、突然振り返りその手にあった粉を全て彼女の方に吹き飛ばした。エミリアはたちまちチョークの粉だらけになった。
「おーやおやおやおチビちゃぁーん! どぉぉぉした……あ?」
喜色満面で新たな餌食を貪ろうとしていたピーブスは、予期していなかった事態に出くわしたようにピタリと急に止まる。ニタニタ顔が凍りつく。そしてエミリアをじっと見つめ、
「うわっ、気持ち悪っ……」
そう一言吐き出し、興が冷めたとでも言いたげにすっと何処かへ消えた。
……気持ち悪いとはなんだ人に向かって。性悪野郎め。後で絶対男爵に言いつけてやる。
エミリアは少なからずショックを受けた。痛みと相まって頭がくらくらした。
それを誤魔化すように心の中でひとしきり悪態をついて教室を見回し、その惨状に思わず嘆息する。これを自分のせいにされたりしたらたまったものでは無い。たとえ犯人でなくとも急いで逃げるべきだろう。
痛みをこらえて思い切りドアノブをひねった時……エミリアにとって非常に間の悪いことに……黒板に近い方の扉が勢いよく開いた。部屋を出るのを邪魔されるのはこれで二度目だ。驚いてまた振り返る。
特にこれといった特徴のない若い男が、少し早足で入ってくるのをエミリアは目にした。
「はぁーあ、ピーブズめ……」
黒板付近の有様をまず目にした若い男は「またか」という声色でポルターガイストへの苛立ちを見せると、指をパチンと鳴らした。白いチョークの粉は瞬く間に消え元の清潔な教室へと姿を変える。彼は他に被害がないかと確認するように教室を見回して、
「……」
「…………」
エミリアと目が合った。
自身の粉だらけの姿をもちろん忘れていなかったエミリアは、咄嗟に言い訳を考え出す。言い訳もなにも無実だけれど。
若い男は困惑してエミリアをただじっと見つめている。
「わたしじゃない」
「いや、ああそれは分かっているとも、うん」
杞憂だったようだ。エミリアは暖炉の方をちらりと見て、やはり母がやってくる様子のないことを確認する。まだ時間がありそうなことと、人と出会えたことでエミリアの気は少なからず抜けていた。
「あー、**************?」
「ごめん、もっかいいって」
集中が途切れていたために聞き取ることが出来なかった。復誦を催促された若い男は言われた通りにゆっくりと「出来れば一緒に来てくれるかい?」とエミリアに語りかけた。
エミリアは返事の代わりにこくんと一つ頷く。
その瞬間、世界が白く染まった。
あ、やばい。
力が抜けるように膝から崩れ落ちる。気が付くと床に倒れ伏しており、若い男が傍に駆け寄って来ていた。
この感覚には覚えがあった。貧血だ。
「!? ……*****! ……? *****……」
男はエミリアに杖を向け呪文を何度か唱えたが、それは全く何の効果も示さない。ただ杖を向けられたことにエミリアは嫌な気持ちになる。
初めの3つの呪文は不発に終わったが、4つ目に唱えられた呪文は白いチョークの粉は完全に落とし、彼女を身綺麗にした。ついでに服に付いていた血も消える。
若い男は白いハンカチをエミリアの右耳と右手の間に挟み込み、もう手を離しても大丈夫だと告げた。恐る恐る右手を離せば、浮遊するハンカチが絶妙な力加減で傷口を押さえていた。
「失礼」
「う……ん!?」
断りを入れられ使われた最後の呪文によってエミリアの体は宙に浮く。世の中の多くの人がそうであるように、エミリアも出来れば地に足を付けて生きていたいと願う人間なので、慌てて若い男のローブを引っ掴む。勢いよく動いたことで、また視界にまた白がチラつく。
仕方がなく力を抜いて魔法に身を任せてみれば、意外とそれは安定感があった。
宙に浮きながら緩く若い男に捕まって移動する。出来れば抱っこして貰えた方がよほど安心できたのだけれど、見知らぬ人にそれを頼むのは流石に気が引けた。
宙に浮く体に不安を抱きつつも気分がマシになってきたエミリアは、ここがホグワーツであるという確信を持ちつつあった。
こんな奇天烈な建物がホグワーツ以外にあってはたまらない。「あってたまるか」という意味の方で。
丁寧にお願いしないと開いてくれない扉を抜け、扉に見せかけたただの壁……に見せかけた扉をスルーし、ゲームにでも出てきそうな回転する階段に差し掛かったところでグリフィンドールの生徒の群れと鉢合わせる。
「あれっ? **……****!? 」
陽キャっぽい男子生徒が声を上げると、話を振られた先の若い男は少し引き攣った笑顔で「*****……*****?」と神経質な、すこし慌てた声色で何か言う。
それに男子生徒の一人が「わかった!」と勢いよく返事をして走っていく。
万事どうにかなりそうな予感に不安が消えた。エミリアは視界を覆い尽くす白に抗うことをやめ、気を失うことにした。
▽
ふっと浮上した意識が初めに認識したのは目の前に差し出されたガラスのコップだった。清潔なシーツの上、上半身が45度程度の角度で起き上がっていて、エミリアはおずおずとコップを受け取る。同時に指示を仰ぐようにコップを差し出した女性……マダムポンフリーを眺める。マダムは比較的優しげな「飲む以外に何があるんですか」と言い出しそうな顔で、「少しずつ飲みなさい」と言った。
それもそうだと納得して口をつけると、身体が芯からぽかぽかとして、暖かくなった。……血の巡りが良くなった、ような。
全部飲みきるとコップはエミリアの手元から離れて流れるような動作で机の上に乗る。上半身を完全に起き上がらせようとして、右耳が痛んだ。
……あれ、まだ治っていない? 保健室にいるのに?
魔法界では基本的に普通の傷は残らない、はずだ。致死のダメージを即座に受けない限り滅多なことで死にやしないし、欠損くらいなら二日とせずに治ってしまう。ちょうどハリーがロックハートに文字通り骨抜きにされた時のように。
もちろん、何事にも例外は存在するものだ。
なんだ。とエミリアはどこか現実味のない感想を抱いた。弾き出した答えは直線的で的確にエミリアの心を撃ち抜いたけれど、エミリアは頑張ってそれから目を逸らそうとした。
その努力は全て無駄になった。
ああ。私の耳を傷つけたのは、闇の魔術だったのか。
親が子に、闇の魔術を撃つのか。
ぼんやりとそんなことを思った。仮にも何年もの間共に暮らしてきた。母は確かに危ういところも沢山あったけれど、それでもそこには僅かなりとも信頼関係があった。
エミリアの体がぶるぶると震え出した。それは長いこと共に居た人から強い悪意と殺意を向けられたことに対してであり、それをした母への不信感からでもあり、それをさせた自分への恐怖でもあった。
こわい。
何が怖いのかと問われても明確な答えは出せないが、きっと、エミリアは自身を取り巻く世界そのものが怖かった。
けれど何より、自分のしてしまったことが怖かった。
母は壁に打ち付けられて、怪我をしていたりしないだろうか。なぜ追ってこないのだろうか。もしかして、もしかして母も……父と同じように。
そもそも私があの時父の遺体を傷つけなければ、私たちは今頃仲良くダイアゴン横町で買い物をしていただろうに。……そもそもあの時父親を殺さなければ、母はきっと正気でいられただろうに。そもそも、そもそも私がエミリアという人間にならなければ、そもそも、私が、
私───
私 ?
元を辿れば全ては自分のせいだった。
どうして私はここにいるのだろう。
ふと頭に浮かんだ問は何年もの間考えないようにしてきた事だ。わけも分からずエミリアとして生きているけれど、それは果たして正しかったのか。もしかして、とエミリアは自問する。
私は本当はあの場で死ぬべきだったんじゃないか? あの父に杖を向けられた時に、抵抗をするべきではなかったのでは?
何故生きているのだろう。
それが心底不思議でならなかった。
エミリアはぱちぱちと激しく瞬きを繰り返した。そうしないとその両眼から、止まらない涙が流れるに違いなかった。
「ほーれ、暖かいココアはどうかね?」
いつの間にか隣にいた人がエミリアに差し出したのは、言葉に相違なく湯気の出ている暖かいココアだ。思いもよらず、差し出されるままにそれを手に取る。驚いた拍子に大粒の雫が堰を切って溢れ出した。
ココアの中に涙が入らないように慌てて左の袖で目元を拭う。
マグカップを持つと冷えていた指先が暖かさを取り戻し、カチコチに固まっていた体が少し氷解した。
差し出した人物をちらりと盗み見る。
白い豊かな髭を持ち、けれどその老体からは未だ生き生きとした生命力を感じる老年の男性。
半月の眼鏡の奥できらりと輝く深い色をした瞳に見下ろされれば、全てを見透かすような視線にさらされ居心地が悪い。エミリアはどうするべきか分からずぎこちなく首を傾げた。
ホグワーツ校長、アルバス・ダンブルドアがそこにいた。
息を飲む。
「まずは名前を教えてくれるかね? ん? わしかね? わしはアルバスじゃよ。君をここに案内したのはクィリナスという。さぁて、君の名は?」
「……え、えみり、あ」
しゃくりあげ無いように必死に声を出せば、意外にも落ち着いた声が出た。
ダンブルドアはニコニコと笑って居て、その笑顔は一時の安心感をもたらした。
しかし稲妻が走るように、突如エミリアは恐ろしい考えに取り憑かれた。それは「もし自分が悪者に思われたらどうしよう」という酷く浅はかな思いだったが、混乱しているエミリアにとってはこの上なく重大なことに思われた。
私が煙突を使ってやって来たことを知っているのならば、母のことも知っているに違いない。母が家でどんな惨事の中に居るかを見れば、その仕業が私が引き起こしたものである事に行き着くはずだ。
もちろん、先に襲いかかってきたのはエミリアの母の方だ。けれど彼女の拙い英語では自身の無実を表現する力はなく……
「さて、君はここに逃げてきたのだね?」
断定系だった。
エミリアは「校長先生ってすごいなー」と思った。
▽
そうしたことがあった数時間後。そこには何故かチェスに興じる幼女と言って差し支えない少女と、マグル学教授である若い男の2人の人影があった。
どうしてこうなったのか、と聞かれてもエミリアには「流れるままに」と答える他ない。自身の理解の及ばないところで勝手に進められた話によると、どうやら大人たちがそれ以降の処理についてどうにかしてくれるらしい。
精神面はともかく、子供で無知たる自身ではどうしようもないことに大人が主動で行ってくれるというのはエミリアにとってこの上なくありがたいことだ。
素直にその恩恵を享受していたところ、少女の監視に駆り出されたのがそのクィリナスという若い男であった。
「私、*******と言いましたよね?」
「でも、ひま」
「でもも*****もありません!」
マダムポンフリーは元気を取り戻した少女に手を焼いていた。少女は初めこそ大人しくしていたが、二時間も経てばエネルギーが有り余った体は大人しくすることなんて出来ない。図書館から借りてきた子供向けの童話なんてとっくに読み終わり(というより吟遊詩人ビードルの物語なんて読み飽きた)、いよいよエミリアは脱出の手段を考え出した。
勿論子供の浅はかな脱出劇などマダムの敵ではなかったが、数が重なればそれはひとつの問題となる。
そこで選ばれたのが、比較的一日の授業数が少なく手の空いていたマグル学の教授なのだった。なおエミリアを初めに保護したのが彼だったからだという理由も付け足すことが出来る。彼の名がクィリナスだということを、先程のアルバスとの会話で覚えていたエミリアは彼になつき、適当な机の上で出来る遊びをすることを提案した。
まるばつゲーム、おはじきを模した何か、五目並べを模した何か、はさみ将棋を模した何か……と続き、クィリナスが「私の部屋からマグルのゲームを持ってこよう」と決めたのは実に賢明だった。トランプのゲームは2人ではワンプレイに一分もかからないこともあり、早々に仕舞われた。リバーシはなかなか良い線をいったものの、八回もプレイすれば流石に飽きが来る。
それは暇だからと保健室から度々抜け出そうとするエミリアを安静にしておくための一時的な解決策だったけれど、思いのほか熱中した挙句の果てにチェスにまで手を伸ばしたのだった。
通算2回目のチェックメイトを経験し、クィリナスが如何に手加減というものを知らない大人かを理解したエミリアは、その持ち前の負けず嫌いで「もーいっかいやろ」と発言した。
次回更新は5/8 20:00です。
本作中明らかに作者が間違えている解釈(原作、ポタモア、女史の発言等で明言されているものに限る)があれば教えて頂けると涙を流して感謝します。
(例1: 空間拡張魔法を魔法省の許可なく使用するのは違法であるにも関わらず、多くの人に見せびらかしてお咎めがない)
(例2: ルーピンは自身の守護霊を人に見せることを厭うにも関わらず、何故か作中よく出てくる)
ただ、それが作者が意図的に見ている幻覚だった場合、作品に反映しない可能性があります。
大変申し訳ありませんが、wiki、pixiv百科事典、ニコニコ大百科における解釈は御遠慮ください。
呪いの子情報は少し考えさせてください。