日が傾く頃になると保健室からの外出許可が出た。傷口は塞がったらしく血の溢れ出る感触は消えていたが、それでも傷は残っている。エミリアはまだ家に帰れていない。エミリア自身もこの現実逃避じみた遊び浸りの学校生活をまだ楽しみたいと思っていたので、まだ帰れないのは願ってもない事だった。
なにしろまともに人と接するのが優に七年ぶりだ。もう少し会話のキャッチボールとか、社会的接触をしたい。
思えば母以外と挨拶以外のコミュニケーションをとったことがない。ダイアゴン横町に行けばもちろん店員と会話することはあるが、せいぜい向こうのセールストークの二言三言に耳を傾けるくらいで踏み込んだことなんて一切話さない。母とは会話が通じないこともあって積極的に話しかけなかったし、ほぼ唯一の友達とでも言うべき庭小人には罵詈雑言を浴びせられた記憶しかない。
もしかして私、ぼっち極めてる?
悲しい思考を振り切って、そういえばおじいちゃんやおばあちゃんに会ったこともなかったな、とエミリアはふと気になったことに思いを馳せた。
疎遠なのだろうか。それとも、もう亡くなっているのだろうか。
……となると、私の処遇は一体どうなるのだろうか?
ぶるりと身体を震わせたが、あまり深く考えないことにした。どうせなるようにしかならないのだ。現状八歳の身で出来ることは極々わずか。ならば大人しく大人に任せ、その大人たちによって出された最終的な選択肢を自分で選ぶというのが現実的だろう。
「チェックメイト」
「……まけたぁ」
考え事をしていたらまた負けてしまった。いや言い訳は良くない。普通にやっていても負けていたことだろう。
クィリナスと名乗るこのマグル学教授の若い男は、通算4度目の勝利を収めて駒を片付け始めた。マグル学を専門とするだけあって使用しているのはマグル用のチェスだ。エミリアの実力では魔法使い用のチェスの駒に命令を聞いて貰えないに違いないので、これは彼女にとって素直に有難い事だった。
まぁ盤上最強の駒クイーンと二番目によく動くルークを落としてもらっても勝てないのだけれど。
「わんもあわんもあ」
悪い線は行ってないと思う。
エミリアとて無駄に魔法界生活七年過ごしていた訳では無いし、日本人だったころの14年の歳月を付け加えればこの若い男と精神的な年齢は同等か、それより少し低いくらいだ。
しかしチェスに精神年齢が必要かと問われれば、それは否という他ない。チェスとは如何に論理的思考が出来るかで決まるゲーム。じゃなければチェスや将棋の名人がコンピュータに負けるはずがない。コンピュータというのはまさに論理的思考の申し子とでも言うべき存在で……詰まるところ、エミリアは論理的思考と単純なチェスの経験という点で圧倒的にクィリナスに劣っているのだった。
「こまそのまま。クィリナス、クイーンとルークなし」
「……そろそろ別のゲームをしないかい?」
「もっかいやったらね」
それが正しくは「私が勝ったらね」という意味だとクィリナスが理解したのは、およそ一時間経ってからだった。
夜。
運ばれてきた夕食をエミリアは何となくクィリナスと一緒に食べ、決してチェスをする手を止めなかった。途中にマダムに怒られるまでは。
あと少し、あと少しでクイーンとルーク落ちのクィリナスになら勝てそうなのだ。そのあと一歩が届かない。
「ビジョップルーク、ナイト……ナイトはまえにだす……クイーンはまもり……ポーンはけんせいで……」
それぞれのコマの動きを確認する。
いつもナイトの動きに翻弄されてやられてる気がする。桂馬と同じ動きかと思えば桂馬の4倍働き者なこの駒は、初期位置の関係もあって将棋より明らかに使いやすい。あくまで初心者なりの所感だけれど。
きっと日本のポニーのような馬ではなく、立派なサラブレッドで馬車馬の如く働いてるんだろう。ご苦労な事だ、とエミリアは思った。
「……つかれた」
スープを流し込んでため息をついた。我に返って、どうしてこんなにチェスにのめり込んでいたのかとぼんやりする。
本当に疲れた。チェスなんて嫌いだ。いやうそチェスは割と好き。
だがしかし、そもそも八歳の少女に手を抜かず(クイーンとルークは落ちていることは置いといて)全勝する20代男性って何だろう?
……完璧主義者、に似ている。
この男は相手が子供であろうが、いや寧ろ相手が子供であるが故に、負けることが許せないと思っている節がある、ような気がする。
じとりとエミリアはクィリナスを
助けてもらった恩を忘れた訳では無いが。これくらいの嫌がらせなら許されるだろう。
エミリアはクィリナスににんまりと笑いかけて、「もっかいやろ!」と元気に発言した。
▽
「クィリナス、クィリナス」
「……なんだい」
「きみってさ、すごいかんぺきしゅぎで、まけずぎらいだよね」
「はは」
「きみってスリザリン?」
「くっ、いいやレイブンクローだけどっ……ふっ、ふふ……」
エミリアは思った。何わろてんねん。
エミリアがホグワーツに逃げ込んでからちょうど一日が経った。
通算何度目かの敗北かも分からない敗北を経験して、生まれた感情は憤怒よりも、呆れというか、自身のあまりの弱さへの悲しみというか、よく分からない方向へシフトしていた。
机の上に顎を乗せてぶーたれていれば、何が面白いのかクィリナスはツボにハマってしきりに笑う。
「んー……君はルークを動かす時、もう少し周りを見た方が良い」
「つまり、わたしはかんがえなしだと?」
「うーん、はは」
「あいまいにわらうな」
なんて大人気ないやつなんだと思いながらも露骨に子供扱いされるよりはマシかと自らを納得させる。
しかしこうも連続で負けると流石にエミリアの忍耐力と精神力と自尊心が限界だ。
あと少しなのに。
「ぜったいかつ。もっかいやろ」
「すまない次授業が入ってるんだ」
「あ"あ"あ"〜こんにゃろマーリンのひげ! ひげ!!」
「はは」
「なにわろてんねん」
「はは……ふふふ、んっふふふふ……」
顔を真っ赤にしながら大爆笑するクィリナスに、エミリアは不貞腐れてクィリナスの方の駒のポーンでクィリナスのキングを小突き倒した。
「何してるんだい?」
「げこくじょう」
「ふっ、ふっふっふっふふ……」
本格的に笑いのツボに入ったクィリナスだったけれど、次の授業には何とか間に合ったらしい。そういう所はきちっとしている。おそらく遅刻なんて真似を許せないタチなのだ。
あんまり急ぎ過ぎてグリフィンドールの生徒にからかわれたと授業から帰ってきた彼は言う。
そんな話を聞いて、少し悪いことをしたかな、とエミリアは思った。
▽
▽
ホグワーツへの滞在は大体三日ほどで終わった。
母の安否は確認され、色々な手続きがあって家に帰れることになった。エミリアはそんなに嬉しくはなかったけれど、とりあえず笑っておくことにした。
その間関わった人はクィリナスを筆頭に多岐に渡り、とくにハッフルパフ生とは仲良くなれたので別れるのが非常に惜しい。何をしでかすか分からないグリフィンドール生やレイブンクロー生と違い、ハッフルパフ生の傍の安心感は凄まじいものだった。
特に……
「ドーラ!!」
「はいはい、なあにリア?」
ニンファドーラ・トンクスとこの時点で接触できたのは、実に喜ばしい成果だ。どこから見ても目立つピンク色の髪にピンと来て、話しかけた2日前の自身に拍手を贈りたい。エミリアは自身の勇気を褒めたたえた。背後から放たれる髪を染めた不良っぽい雰囲気に気圧されなくて本当に良かった。
「きょーでかえる。だからごあいさつにきた」
「え、えええええ!? いきなり!?」
「すごいおどろきかたするね。あとかみがショッキング」
「そりゃショックだからね」
「ちがいない」
七変化は今日も絶好調で、いきなり髪が目に痛い黄色になったかと思えば赤になったりする。
「ばいばい! ドーラげんきでねー!」
「うわー意外とあっさりだねびっくりだよ」
「みんなにごあいさつにいくからねー!」
「行ってらっしゃーい」
くるりと踵を返してだっと駆け出したエミリアに、トンクスは声をかけてから口元に笑みを浮かべた。物音がして、遅れて遠くから「いってきまーす」という返事がやってくる。
最初と打って変わって明るくなったエミリアにほっとしていないハッフルパフ生は存在しない。
「うんうん、本当に良かった」
彼女がハッフルパフ生であり、人から信頼され、そしてリーマス・ルーピンと結婚したのもこの優しさに所以する部分があるのだろう。まぁ、トンクスの素晴らしさは「優しさ」なんて陳腐な言葉には収まらないけれど。もちのロンで。
……と、角を曲がったところですっ転んで案外近くにいたために、トンクスの呟きを聞き漏らさなかったエミリアは思ったのだった。
まぁ推しの結婚相手に愛称で呼ばれて別れを惜しまれたら、嬉しさのあまり自分の足に足を引っ掛けて何も無いところで転ぶことくらいあるよね。
エミリアは立ち上がって今度はゆっくりと歩き出した。
▽
ゴースト達に手を振りながら歩く。彼らには道案内だとか、お喋りの相手として随分とお世話になった。
逆にピーブズとは初めに「気持ち悪い」発言されて以来一度も遭遇してない。エミリアもあんまり会いたく無かったのでそれはそれで有難い。
男爵に手を振ってからしばらく大広間に向かって歩いていると、目的としていた人物が見えてきたので駆け寄った。
「クィリナスー!」
大きな声の小さな影に振り返ったクィリナスという男性は、その少女の薄い唇から次に漏れるだろう言葉を予想して頬を引き攣らせた。
「……なにかな?」
「もーそんなかおして。また、チェスやろうね」
けれど予想に反してそれは勝負の誘いではなく、淡い願望のような、いつになく大人しいものだった。たった三日の付き合いではあるけれど、クィリナスがこれ程しおらしい少女を見たのは最初の一日だけだ。昨日と今日でドラゴンのようにはしゃぎ回っていた様子はどこへ言ってしまったのか。
エミリアは見かけは兎も角中身はそれなりに分別のある大人である。いくらか精神が落ち着けば、自身の躁状態が多くの人にどれだけ迷惑をかけたか自覚的になることが出来た。
だから口をついて出たのは遠慮して周りを遠ざけるような、世辞に近い言葉だ。クィリナスは別段少女に深い思い入れがある訳ではないけれど、その大人びた姿はあまりに寂しいと思った。
「もちろん、構わないとも」
だからクィリナスは力強く返事をした。
エミリアは作ったような笑顔で「うん!」と返事をし、名残惜しそうに踵を返す。けれどトンクスの時とは違って、またクィリナスを見た。
小首を傾げて何事かを考えていたエミリアは、今度は綻ぶように笑って、
「またあそぼうね」
「ああ」
そう言って、玄関の方へと走っていった。
クィリナスは手を振って見送った。
玄関に立っていたのは副校長のミネルバ・マクゴナガルだ。エミリアは彼女が送ってくれるのだと察し、ゆっくりとその足元に歩いていく。
エミリアの姿を目にしたマクゴナガル女史は、その手を引こうと手を差し伸べ、エミリアはそれを取った。しばらく無言で歩いていた時女史は何か言いたそうに咳払いした。
エミリアはそれに気が付いていたけれど、敢えて何も言わずに待った。
「エミリア、あなたは……」
「うん」
「貴女は猫を飼ったことがありますか?」
「……うん? ないよ? なんで?」
「いえ、ないなら良いんです。私の勘違いだったみたいで」
予想外の質問に虚をつかれ、一瞬エミリアはぽかんとする。返事を聞き、失敗を恥じるようにはにかんだ女史は手を引く。そのままホグワーツの敷地から出るまで二人の間に特に会話は無かった。
エミリアは立ち止まらないで後ろを振り返った。
勇壮な城が相変わらずそびえ立っていて、記憶にあるそれよりも随分大きく見えた。
……こうしてみると、こうも大きいのか。
こうして、短いエミリアのホグワーツ生活は幕を閉じた。
次回更新は5/15 20:00です。
報告: 話の関係上、第1話を少々変更しました。その時点で不必要な文を削除した以外に大した変化は無いので、そのまま読み進めても問題はありません。