――信用か。
すでに晶也は『こたえ』の全貌を捉えていた。
好きな人。
晶也にとって、すでにジュリアはそれに限りなく近い存在である。
まどろっこしい表現をしたのは、ひとえにはぐらかしているだけではない。しばらく前までは、この感情をはかりあぐねていたのである。これが恋心なのか、あるいは同居生活の果てに芽生えた家族愛のようなものなのかの識別。
特別な存在には違いないから、限りなく近いとの供述。
でも、彼女に構いたくなる気持ちは庇護意識ともまた異なるものな気もする。……なんだか嫌だな、この言い方。本心を隠しているだけのような。
――違うな。わざと隠しているんだ。
「妙にセンチメンタルだな。なんか考え事?」
目の前にジュリアの顔があった。ぎ、と一人用のベッドは軋む。
この質問は探りか。躊躇いに躊躇った末、「そうでもないよ」と首を振る。
「ただ、珍しいと思ってさ」
「なにが?」
「こういう空気になること」
この言葉を口にしたときのジュリアの反応は、大きく分けて二通りあるはずだ。晶也は密かに予想していた。一つ目は「そうだっけ?」と、さして気にしていなかった素振りを見せること。二つ目は――――やっぱりか。
悩ましげにジュリアの喉が波打ったのを認めて、晶也は安堵とも落胆ともつかない息を吐くことになる。
前者であればよかった……のだろうか。
リビングでの定位置が決まるように、お互いの部屋にはみだりに侵入しないことのように。二人の間には取り決めを経ないで了解したルールが、もう一つあった。
生活の中で慎むべきもの。
それは、
簡単な話だ。
――俺も、ジュリアも。
互いが互いに異性としての感情を抱きつつあることを、自覚しているから。
ここではどっちが先か、なんて安い議論をするつもりはない。軽重も問わない。自分の胸裡を自覚し、また相手から寄せられている同様の念を認識している。その事実だけで十分なのである。
――ジュリアは俺のことをどう思っているのだろう。
それは今に生まれた疑問ではない。……が、かつてこれほど真っ向から見つめたことがないものだった。これまでは、今この瞬間までは自分の勘違い。ただの自惚れで済ませることができていたからだ。己の頭を過る「好き」という言葉も、瞬きのようなものだった。
自分と彼女しかいないこの場所では、本来何の制限もない。学校のように周囲から囃し立てられることもなければ、現代にはロミオとジュリエットよろしく許されざる身分階級もない。
そんな二人の関係を変えるのはいとも容易いことだ。「好きです」「私も」なんて簡単なことだろう。
それを思いとどまらせるのが、彼女の立場だった。
仮に。
――もし仮に告白をしたところで俺たちがそういう関係になることは、在り得ない。
なぜならジュリアはアイドルだから。
あるはずがない。彼女はアイドルとして売っている自分が特定の相手と結ばれることによる各方面への影響を、晶也以上に理解している。
だから二人は相手にバレていようとも、その均衡を崩そうとはしない。互いに探りを入れるような真似もしない。静かに燃えるその光を、徹底して幾重にも覆いかぶせている。
そんな暗黙の了解が……やはり、勘違いなどではなかった。
灰色だった心証が黒に染まる。見ている景色に差異はなかった。
長いこと俯いていたジュリア。酷薄な笑みを刻んだ唇が「……あんたも意地が悪いな」と息を吐き出した。
「悪かったよ。……少し気が緩んでた。忘れてくれ」
彼女がその禁忌に触れたとしても晶也が指摘さえしなければ済んだことだ。後ろめたさの裏返しのような苦笑い。
同居人としてとかファンとしてとか、そんな風に自分の想いをはぐらかすのをやめたいと思うことはある。はっきりさせたいという思いがどこかにあった。だからきっと、言い及んでしまったのはそんな心の弱さ。些細な決壊だ。
ジュリアは、そんな晶也の気持ちが揺れていることを読み取ろうとするかのように静かな瞳で見つめてくる。が、それは自らの動揺を隠そうとするためのまなざしでもあったように思う。
――俺としては、それだけで十分だよ。
嬉しくもあり情けなくもある真実の末、ここでも晶也は現状維持を望むことになる。当たり障りのない呼吸をする。それが、互いの……彼女のためだから。
三か月。それはジュリアがデビューしてからの時間。
僅か三か月。これからなのだ。これからどんどん、彼女は活躍をする。彼女の言葉を借りるなら、アイドルという輝く星がどこまでも果て無い未来に連れて行ってくれるはずで。
支えたいと願えるほど好きな人が羽ばたこうとしているのに、俺がそれを邪魔するなんて……できないよな。
何より、したくない。だから、俺たちがやっていることは間違っていない。
俺は誤魔化し生き延びている。これも全く、簡単至極だ。
二人の
「分かってるだろ」
「分かってるだろうな」
「本当に」
「ホントにさ」
木霊か。再び苦笑してから顔を上げると、目が合った。先の油断のない視線とはうってかわって、心なしかまろみを帯びているようにも見える。「なんて顔してんだよ」
僅か数十センチ先にある、ジュリアの顔。普段の彼女は大人びて見えるけれど、こうして見ると、年相応の可愛い女の子だ。お風呂を出て化粧っ気もないのに、ね。
自分が詰めたか彼女が詰めたか、いつの間に。
お互いの吐息がかかるほどに密着した彼我の距離。刹那、次のアクションを意識した。
もしかすると、彼女も同じことを考えているのかもしれない。
――自惚れ。
むしろ自惚れだと思えればどれほどよかったか。あんたなんか眼中にないと、一蹴してほしい。そうすればこんなに悩むことはないのに。ジュリアを好きになることが、自分の首を絞めることだということくらい分かっていた。
でも無理だよな。
三か月。好きになるには十分すぎる期間だ。晶也は首を振る。時間じゃないか。今だから思う。自分は二度目にジュリアに出会ったときから、もうすでに心のどこかを強く掴まれていたのだと。
全く、不自由な世界だ。
あの頃は本当に、ただの女の子だったのにな。いつの間にか、遠い。
――でも、近い。近すぎる。
目の前にある彼女の顔に、つい引き込まれそうになる自分がいる。
そんな一瞬の躊躇が、時間を割った。いや……この場合は割ってしまったと言い表すべきなのだろう。
――――……は?
衝撃的なキスは感覚が研ぎ澄まされ数十秒にも感じると聞いたことがある。が、少なくとも晶也にとってそれは一瞬の出来事だった。
一瞬だったか――?
否。ジュリアはそれが冗談でもからかいでもないことを証明するかのように、その行為にたっぷり七秒を費やした。
でも、どこかぎこちなさを感じさせるキスだった。
唇に柔らかい感触と熱が伝わった途端、晶也の視界の奥の、奥の方で眩しい閃光が弾ける。弾けたと思ったら、また彼女の顔が目の前にあって。
待てよ。
かあっと顔が熱くなるのを感じる。
まさか。まさかまさか。一体どういう――。
全く予想もしていなかった展開に、晶也は素直に喜ぶことができなかった。
耳に届くのは微かな息遣いだけ。
お互い押し黙ったままの無言が続いたが、やがてジュリアは「……思ったより緊張するもんだな」と、小さな声で微笑んだ。声と共に熱を持った吐息が耳をくすぐる。彼女も、初めてだった。
彼女の熱を残した唇が、金縛りにでもあったかのように重い。耳の奥まで鼓動が伝わる。
「――ヘンだな」
「え?」
「ここまで寄れば、あんたからしてくれると踏んでたんだけどなあ」
できるわけ……。
子供みたいなジュリアの口調は、話が深刻なほうに転がっていかないようにと予防線を張っているようにも思えた。まるで晶也の理性を働かせまいとするように。
勘違いだった? 上目づかいで晶也を見る。
色々と飛び出そうとする言葉を無理矢理抑えて、晶也は表情を険しくした。
「勘違いって何」
初め、その質問の真意がまったく測れなかった。裏を読もうとしたからだ。どこまでを指している。
しかしそれは、あまりにも真っ直ぐすぎる問いかけだった。
常になく張り詰めた声に「分かってるだろ」と、遜色ない声色が重ねられる。「だから――」
そう言いながらジュリアは一瞬躊躇したようだ。またしても沈黙。今日は静かなことが分かる。窓を叩く風の音一つない。
釈然としないその態度の真意を見出そうとしていた晶也は、しばらくかかって、彼女の言いたいことに気づいて愕然とした。
――はっきりさせようとしている。
ぞっ、とするほどの興奮が込み上げた。
本当は気づいていた。距離を詰めたのはジュリアだ。俺じゃない。
ジュリアの立場を理解し、晶也が適切な間合いを保とうとしているのに、彼女はぐいぐい近づいてくる。
今だけじゃない。今日一緒に出掛けたことだって、あれだけ晶也が反対したにも関わらずの外出だ。そして映画の後に恋愛の話を優先したこともその予兆だったのだろう。
感情の制御ができていないのではなく、彼女は明確な意思をもって関係の進展を望んでいる。
黙考の末、晶也は顔を歪めた。投げやりのように語気は強まる。
「もう分かってんだろ」
ジュリアは聞こえないふりをした。はっきり言ってというふうに。晶也は音だけで笑った。これ以上罪を重ねる気はない。
「あたしはあんたのこと好きだけどな」
今度は晶也が黙る番だった。
「晶也は違った?」
いつもは晶也をあんたと呼ぶ彼女が、気まぐれなのか名前で呼ぶときの声が好きだ。
ジュリアの手が伸びる。人差し指と中指で晶也の手の甲をゆっくり撫でた。
もういっかい。
催促されたように感じた。
罪悪感があって後ろめたいだけに、その行為はより甘美なものに思えて仕方がない。晶也は自分が高揚していくのが分かった。
理性とか色んなものが、迫る四肢と、汗の匂いと吐息に流される。
唾を飲み込む。
そして、恐る恐る唇をかぶせた。
「…………んっ」
顔を離すとすぐさま再び彼女の顔が近づいきて、これであんたも共犯だな。耳元で囁かれる。
鼻を掠めた彼女の髪の匂いは、やっぱり別物だ。背筋にむずかゆい刺激が走った。
「共犯もなにも……いいのかよ」
声を絞り出す。
「さあ、どうだろうな」
「アイドルは恋人を作っちゃいけないんじゃなかったのか」
「どうせあたしとあんたの世界はこの狭い空間だけなんだ。ここにいるのはアイドルと一般の高校生じゃない。ただ互いに想いを寄せ合う、女と男さ。あたしとあんた。愛する者同士がすることといったら、ヒトツしかないだろ?」
「……マジで言ってんの?」
――愛する……って。
自ずと唸り、それから無茶苦茶な彼女の言葉を嬉しいと思っている自分を見つけ、微かな恐怖を感じた。
恐怖じゃない。覆い難い程の昂りだ。
再び彼女の唇を覆う。今度は少しだけ、舌を入れてみる。肩に添えた手から、彼女の身体に走った緊張が伝わった。
「ちょっと待って晶也。……電気」
「……ん」
どこ、とも訊かずに立ちあがったジュリアが机の上のリモコンを手に取る。写真の時に同時に見つけていたらしい、スムーズな足取りだった。
音もなく電気が消える。
僅かに開いたままのドアから差し込むリビングの明かりと、窓の外の月と外灯だけが彼女を照らす。晶也の視線は彼女の身体を彷徨った。こんなにじっくりと彼女を見るのは初めてのことだった。
「……目つきがやらしい」
「……悪かったな」
笑みを浮かべた彼女の手が晶也の身体をとんと押すと、晶也の背中はベッドの感触を捉えた。
「なあジュリア。……ここで引き返すことは」
ジュリアの顔を仰ぎ見て、一言。さりげなく、しかし最終通告のように低く。
「そしたら、明日からあんたのこと無視する。何を言われても返事しないから」
「……お前に、俺のことが無視できるのかよ」
「ふうん。じゃああんたも引き返せるのか?
――う。
反論しようとした言葉を、唇でまた遮られた。
大丈夫だよ。笑った形のままのジュリアの唇が首筋に触れる。毛先が触れて、擽ったい。
「少なくともあたしとあんたは、気まずくなったりしないだろ?」
「それは、俺も思う」
お互いが感じている居心地の良さ。これは決して嘘じゃない。
波長が合う。
もう一度、声に出さずに言ってみる。
「ほら、覚悟決めた決めた。しゃきっとせんね」
身を委ねるとは、こういうことを言うのだろうか。
傾斜の上を転がるビー玉のように、積もっていた不安が解き放たれるのを感じた。
手の先で、ジュリアの心音が鳴るのが聞こえた。
☆☆ ☆☆
九月の夜はまだまだ蒸すらしい。それとも室内に籠りに籠った熱気なのだろうか。
シングルベッドのその上で仰向けに。触れ合う肩のべたつきに、不思議と不快感はなかった。華奢な身体だ。晶也の首筋に控え目に乗せられた、ジュリアの小さな顔。
その形のいい唇が、不思議なことを訊いた。
「ねえ、あんたはあたしのこと軽蔑するか?」
細い指先で二の腕をなぞられる。ぞわりと、これもまた言い表しがたい感覚に襲われる。
軽蔑。軽蔑か。
遅かれ早かれ、こうなっていたと思う。
「そもそも俺のせいだよ。……きっかけは俺だからさ」
ジュリアの顔を見た。無論、仄かに顔立ちが分かる程度だ。表情は読めない。
「いや。共犯だよ」
いつか俺は、この日の判断を後悔するのだろうか。その時には、二人の関係はどうなっているのだろうか。
この道の果てに、彼女と俺は、どこにいる。
「……そうだ、過ぎちゃったけど忘れてたな」
「ん?」
「誕生日おめでとう。ジュリア」
「――ああ」
ひとまず俺が、この日新しく知ったこと。
ジュリアはとにかく甘えんぼで――。
「ところで…………晶也は、もう眠い?」
――――性欲が強い方だ。
「関係の進展を望んだ」という、タイトルのもう一つの回収です。
ジュリアは恐らく、誘うだけさそっておいて実際に手を出されると滅茶苦茶受け身になって真っ赤になると思う。「うひゃあ」って言うし、滅茶苦茶声を抑えようとして逆に吐息交じりの声になってえっちだし、照れ隠しに色々喋りたがって、見抜かれてまた赤くなると思う。在り方。
色々とピロートークも考えていたのですが、野暮なので。
更新まで少し日が開いてしまいすみません。前半8,000文字くらい削って進路変更したので粗が目立つかもしれません。
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