『あたしがジュリアでいるうちは』   作:撫音

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第十話 珈琲よりも苦い(1)

 三公演が終わると、いよいよ肌寒さが本格的なものになっていた。

 ジャケットの肩をすぼませ、すっかり葉の落ちた街路樹を眺めながらシアターへの道を行く。どこか寂しい景色だが、今日のジュリアはご機嫌だ。

 レッスンも仕事もない日なので、午前中は楽器屋とレコード店をふらついた。家にレコードプレイヤーが無いため、基本的にはディスクジャケットを眺め、CDを数枚買う程度のジュリア。しかしあまりにも長い時間あれこれ手に取っているせいか、しばしば店員に声を掛けられる。二月前に行った楽器屋の店長なんて、ギターを構えたアイドルのことを知っていてくれたのだから驚いたものだ。

 店員とあれこれ盛り上がると、その日は得した気分になる。いつか楽器の街と云われる御茶ノ水の方にも行ってみたいなあ。イヤホンを耳に、あれこれ考えているとシアターまではあっという間だ。

 

 鼻歌混じりに階段を上る。楽屋エリアの二階。このフロアにある四つの楽屋のうち、一番東側の部屋は会議室として用いられることが多い。ホワイトボードと、六台合わせた白い事務机、新しめの椅子。勢いよく扉を開けると、

「あれっ。ジュリアー♪」

「ん、エレナに琴葉(ことは)に瑞希……」そのうちの四つの席に同期の姿があった。「ああ、恵美も……いたのか」

「ちょっとお! なんでイヤそうなワケ!」

 そこ! と、指を差してくる恵美に笑った。

「いやあ、別にイヤってほどじゃないんだけど、恵美にファミレスに連れていかれたら全然帰れないからさあ」

 誰とでも話が弾む、いうのはまさに彼女の魅力だが、時に困らされるのだ。それに、件のパスケースのこと……前例があるし。冗談めかして顔を顰めたら、わざとらしく恵美も頬を膨らませた。

「今日はそんなんじゃないってば」

「はいはい、疑ってないさ」

「ほら、琴葉も何か言って!」

「もう……恵美ってば」

 恵美の左隣で息をついた黄色いカチューシャの少女。ジュリアよりも深い艶やかな赤を持つ田中琴葉は、気配り上手で委員長タイプの同期である。スタッフの名前を極力覚えるようにしているその姿勢。現在シアター内に貼られている様々な注意書きのほとんどが彼女によるものだとは、もはや言うまでもない。

「でも、本当よ」

「でしょ♪」

 琴葉が言い添えると、恵美は間髪を容れずに誇らしそうで、楽しそうな顔になった。にこにこと覗き込んでくる。

 ジュリアもつられて同じ顔になるが、ところで今日はもう一つ、浮かれている理由があるのだ。

「そんで、プロデューサーは?」ジュリアの問いに、

「ジュリアさんも、プロデューサーにご用ですか?」と瑞希が返した。

 も、ってことはつまり――。

「みんなも?」

「ええ。私たち、新しい企画があるって呼び出されたんだけど、もしかして――」

 琴葉に目を向けられて、ジュリアは打ち返すように素早く頷くことになる。「ああ。あたしもだ」

 

 新企画に向けて話がある。昨日のレッスンの帰りがけ、プロデューサーに伝えられたことだった。冬が来たと言っても差し支えのない気温の中、ジュリアの心が逸っていたのはそのためである。彼がその場で伝えず後日と言った企画は、いずれも大掛かりなものなのだ。

 家に帰って晶也に報告したら、真っ先に「おめでとう、今度は歌の仕事だといいな」と笑ってくれた。そんな彼だが、以前、お披露目公演についての感想を求めた際には長いこと沈黙していた。

 最終的に、初めてのアイドルのステージに圧倒されたと言っていたが、もう少し誉めてくれてもいいじゃないか。ちょっとだけ面白くない顔をしてみせる。すると彼は「ジュリアの歌の上手さは散々目の当たりにしてるからな」と、微笑んだ。

「誰よりも特等席でな」

 なるほど、ジュリアも微笑み返した。

 

 

 しばらく取り留めのない会話を続けていると、ドアノブが捻られる音が聞こえた。変わらぬスーツ姿のプロデューサーが現れ、「よし、皆揃ってるな」と満足そうに笑う。その後に春香と美希の姿があった。琴葉がたちまち驚いた表情になって、

「春香ちゃんに美希ちゃんまで、どうしたんですか?」

 と尋ねた。

「私たちは新しい企画のアドバイスに来たの」

「ハルカたちにも関係があること?」

 エレナが再び訊くと、「間接的に、だけどね」と、春香が頬を緩ませた。

 

 席に着いたプロデューサーはすぐに口を開いた。

「ミリオンスターズの皆も、だいぶアイドルとしての自覚が出てきたと思う。もうすっかり765プロの名に恥じないアイドルになった」

 765プロは絶えず仕事や企画を用意してくれる。所属して、一番に思うことだった。一時も退屈させることなく、確実に上へ上へと進むことのできる仕事を提案してくれるのだ。成長させようとしてくれる。成果を実感させてくれる。

 時間の経過を感じないことも、まさしく。皆が高いモチベーションを保てているのは、紛れもなく765プロのプロデュースの賜物だと言える。

「プロデューサーは、またヘビーな仕事をくれるのかナ?」

「今回は、ある意味タイプ別公演の続きだな。次なるステップとして、一期生の曲のカバーをやってみようと思うんだ」

 歌の企画だ。密かに机の下で拳を握る。それと同時に、聞き憶えのある単語にジュリアの意識は反応していた。

 次なるステップ。それは以前のチーム別公演について説明する際にも彼が口にしていた言葉だ。

「チームごとにレッスンをし、公演を組み立てる。どうだったか? シアター組の中で、歌を通じて絆は高まったことだと思う」

「うん! 楽しかったヨ~!」

「アタシも! やっぱり、みんなでって感じがしてさ」

 レッスンをはじめ、ステージ構成や立ち位置、トーク内容。タイプ別公演ではその全てを自分たちで相談しながら創り上げた。与えられたステージばかりを再現していたミリオンスターズにとって、新しい試みだったことは自明だ。

 たまには衝突することもあった。それもまたいい思い出になっている。なぜなら確実に、互いに高め合うということができたはずで。

 ――なるほどな。

 と、そこまで考えて思い当たった。彼は今()()()()()()()()と言った。そう言ったからにはつまり、次は765プロ全体――すなわち一期生とも繋ぐことか。向かいで瑞希も小さく頷いているのを見て、確信する。

 これもまた彼が言っていたことだが、そもそも事務所の面々は当然仲間であり、ライバルでもある。志向するはトップアイドルだ。トップアイドル。その正体や答えは様々で、必ずしも一人だけがなれるものではないと思うが、そのためにはきっと先輩をも越えなければならない。分かりやすい、壁だ。

 

 そこで現在一期生と二期生との間の差たらしめるものは、経験。先輩らの活動に積極的に触れ、そこからたくさんのことを学んでほしい。黒縁眼鏡の奥の瞳が鋭さを増した。

「いくつか、そのための舞台は用意してあるんだ」

「いくつか?」

「一つは今言った、一期生の曲のカバー。これはシアターの定期公演に混ぜていこうと思っている」

 椅子の背もたれに体を預けて、プロデューサーは続ける。「それから……美希と貴音と(ひびき)のユニットの話、知ってるか?」

「あ、はい」いち早く琴葉が応えた。「今朝、駅の広告で見ました」

 星井美希と四条貴音、我那覇(がなは)響の実力派トリオが織り成すユニットの新曲が完成したのだ。完成した、というのは少々語弊があるかもしれない。そのユニットはすでに結成されていた。収録も終わり、プロモーションも何種類も出来上がっている。情報解禁されたのが昨日の晩。すでにお茶の間にはコマーシャルが放映されているはずだ。

「あたしもさっき、CDショップで広告見かけたよ。仕事が早いね」

「アタシも知ってる! さっき、下で未来や亜利沙たちもその話してたよね?」

「お、やっぱりみんな知ってるか。そう、その話だ」

 新アルバムの発売。それに伴い彼女らの全国ツアー公演も決定したというのだ。当然、シアター内でもその話題で持ちきりである。プロモーションの感想を言い合い、上京組はステージの観覧も兼ねて地元に顔を出そうやら、大盛り上がり。

「で、それがどんな関係があるのさ、プロデューサー?」

「実はな、そのステージのバックダンサーをミリオンスターズの中から輩出することになったんだ」

「ワォ! ミキたちのステージで踊れるってことだよネっ!?」

「ほ、本当ですか?」

「全国ツアー。どきどきするぞ……」

「……もちろん全員が出られるわけじゃない。オーディション形式で、美希たちが直々に審査をして決めることになるが――」

 興味があればそっちもエントリーしてみるといい、まさに勉強になるだろう……とのことだった。確かに、同じステージに立つことほど、刺激を受けることはない。

 ――とはいえダンスオーディションかあ。歩たちと争うとなると、あんまり自信ないなあ。

 ジュリアは腕を組んで、ちょっぴり渋い顔をした。

 

「とりあえずは歌の話だな」

「そうですね」

 小さく咳払いをして、プロデューサーは手元のクリアファイルに視線を落とす。活字のコピーが挟まっていた。

「企画説明といっても、一言で終わるものだけどな。今回、五人に歌ってもらうのが、この曲だ」

 彼の合図で、春香がノートパソコンをジュリア達に向けて回転させる。それと同時に聴き覚えのあるイントロが流れた。画面に表示される曲名は――『MUSIC♪』

「ゆくゆくはミリオンスターズ全員に色々と一期生の曲を歌ってもらうつもりだが、こういう試みに於いてトップバッターは非常に重要になる。後続のしるべになってくれそうな人選をしたんだ」

 プロデューサーはそう言って、ジュリア達をゆくりと見回した。「つまり、視野が広く、かつバランスの取れたメンバー」

「視野?」

「ああ、優劣を付ける訳じゃないが、だから第一陣は高校生組だけで組ませてもらったんだ」

 通りで、企画説明にしてはスムーズに進むと思った。

 

 

「それでこれを――」と、続けようとしたプロデューサーを遮るように、

「あふぅ。……説明終わった?」

 ウソかホントか白黒弁ぜずの欠伸をした美希が、頭の上で伸びをした。

 そういえば彼女、てっきりツアーのことについて何かを言いに来たと踏んでいたが、初めから一度も口を開いていない。春香が音源を止め、静寂が訪れた楽屋。ヘンだな……と思ったのもつかの間、

「――ミキ」と美希の口が動いた。

()()()()()()()()()()()()()

 ただ一声、千切って投げるように。

 

 ――――は?

 ジュリアは思いがけず驚愕。次いで、動揺した。「どういうことだ」と声を上げようとした躊躇の合間を縫って、

「なっ……お、おい美希……!?」「み、美希っ!?」

 プロデューサーと春香がほとんど同時に口を開く。「お前、それを言うためだけにこの場に同行したのか……?」

「うーん。そうかも」

 のらりくらりとした口調で美希は答えた。

 ――あたしだけを名指し……?

「ミリオンスターズにはまだ早い」ではなく、「ジュリアには無理」という彼女の言葉。苦い違和感があった。

 やり取りから推測するに、来てくれるのは春香だけの予定だったのだろう。彼女のアドバイスというのは恐らく楽曲のことについて。ところが美希は何らかの拍子に『MUSIC♪』を歌うメンバーに選抜された中にジュリアの名前があることを知り、この場に赴くことにした。一体なぜ。

「……どういうことだよ。あたしじゃ力不足だって言いたいのか?」

 努めて冷静に言葉を発したつもりだった。が、声は明らかな敵意を孕んでいた。「諦めろ」とでも言われているのか。そんな考えが脳を掠めたからだ。お腹の底のあたりがじわじわと熱い。

 

 かつて星井美希というアイドルを一番長い定規だと喩えたスタッフがいたという。

 曰く、人間は皆定規である。ある人間の持ちうる器量や考えうる戦略は、その人間よりも長い定規の人間からすれば容易に測り知るところであり、つまり最も長い者からすれば他人の戦略は全て計測できる範囲内にある。

 努力を要さず他人を解する美希を、端的に評価した者の言葉だった。

 二つ年下の美希。もちろん歳の差で見る上下関係などないし、どちらかというとアイドル歴の長さで語るべき場面だ。ただ、全く隙の無い瞳を向けてきている彼女はとてもじゃないが年下だとは思えない。得体の知れないものが、ひたひたと音もなく込み上げてきていた。

「そんなことは言ってないの。ジュリアの歌への姿勢は凄いなって思うよ?」

 ハニーがジュリアを選んだのも分かるくらい。

 さりとて美希からは、本物の落ち着いた声色。ジュリアはぐっと詰まった。釈然としない態度に、一番長い定規……その話を思い出すと、苛立ちを隠しきれない声が出た。

「……言いたいことがあるなら言えよ。美希」

「いいの?」

「ああ。言い出したのはそっちだろ?」

 鋭く返したジュリアを、美希はじっと見つめた。「じゃあ、言うね」

 

 ――あたしはそれを訊かなければよかったと、後悔するのだろうか。

 いや、尋ねずにはいられなかったし、何より美希はそれを言うつもりでここに来たはずだ。

 ただ最大の誤算だったのが、そんなことを言われるなんて、これっぽっちも考えていなかったってことだ――。

 

「だって、()()()()()()()()()()()()()から――――」

 

 心臓を素手で摑まれたような鋭い痛みが身体を襲った。

 今、美希は何て……? 

 頭の奥がじんと痺れ、思わず逸らしてしまった視線の先で、春香が、恵美が、琴葉が、エレナが、瑞希が、息を呑んだような表情をしていた。……あたし、いまどんな顔してるんだろう。

「ジュリアみたい中途半端な気持ちの人が、この歌を歌えるわけがないの」

「中途……半端……? って、なんだよ」

 辛うじて出すことのできる乾いた声で食い下がる。やるせない思いがジュリアを苛んだ。

 あたしがいつ、そんな想いでステージに立ったっていうんだ。その都度全力を尽くして、苦手なことからも目を背けないで、アイドルらしく在れるよう本気で振舞って。……その結果がはっきりと出ていたとは言えないかもしれない。だけど、真剣さの如何を問われたら間違いなく頷くことができる。

 そんなあたしが積み上げてきたものが「アイドルじゃない」ものだって……?

 しかし、そう言い返さなければいけないのに、まったくもって声にならない。先ほどまでの強気な姿勢はすでに失われていた。

「だって、ジュリアは何も分かってないの」

 一方で美希はなおも声色を変えることなく、さらりとした態度のままだった。瞳に軽蔑の色は無いが、しかし冷ややかな視線。言いすぎだと止めようとするプロデューサーを「ハニーは黙ってて」と一蹴する。これじゃどっちが上だか分からない。

「あたしが……?」

「歌う曲は『MUSIC♪』……今聴いたよね? ジュリアはこの曲の歌詞、知ってる?」

 邪気のない彼女の声には敵にも味方にもなり得る強制力があるのだと、この時初めて知った。

 ジュリアの心は追いつめられていた。何よりの証拠に、答えることができなかったのだ。ただの質問なのに。当然、歌詞を知らないはずがないのに。

 

「『音楽に壁なんてない』――。そんな歌詞があるよね」

 一秒ごとにジュリアの中でひりつく闇は広がってゆく。

「一番壁を作っているのは、ジュリア…………あなたなの」

 ついには、自分がばらばらと欠片になり散っていくような気がした。

 あれ? もともとヒビが入ってたんだっけ――。

 

 

「――――ジュリアさんに無理なら、私も降ります」

 再び立ち込めた静寂。重たい沈黙が続き、先にも後にも動かないように思われたその場は、瑞希の一言で片が付いた。美希でもなく、プロデューサーでもなく真壁瑞希。鞭打って顔を上げると、神妙な面持ちのまま控えめに右手を上げていた彼女と目が合った。

「ミズ……キ……?」

 震える唇を僅かに開き彼女の名前を呼ぶ。ちょっと待てよ。立ち上がろうとしてよろけ、机の上に手をつく。まともに働いている感覚がないみたいに。

 普段の恵美やエレナであれば、「え~」「瑞希も一緒に歌おうよ~」などと声を上げただろうに、彼女らも今度ばかりは口を噤み、ただプロデューサーの決断を待っていた。

「解った。二人は近いうちに、俺を訪ねてきてくれ。……時間は任せる」

 

 結果、一期生の曲のカバー一曲目である『MUSIC♪』は恵美と琴葉とエレナの三人で歌うことになった。引き続き会議を行うという楽屋を後にして、ジュリアは瑞希よりも早く、ようやく自分に戻ってきたような口を開くことになる。

「なあミズキ……。別に、あたしに気ぃ遣ってくれなくてよかったんだぜ?」

「……いえ。ジュリアさんは勘違いしています。私にとってジュリアさんは、ライバルでもありますから」

「そうか……」

 瑞希がそれを慰めで口にしたのかは分からない。感情を表《おもて》に出すことの少ない彼女から、それを読み解くほどの集中力は今のジュリアには残っていなかった。でも、心配そうな顔をしていてくれたと思う。いずれにしても、

「美希は、どうしてあたしにあんなことを……」

「……私にもわかりません。ですが、星井さんにも考えがあってのことだと思います」

 瑞希は、独り言にも等しいジュリアの言葉にも反応してくれた。どこか慎重な口調だった。深遠な謎を解こうとしているようにも見える。ジュリアはそんな彼女の横顔をしばし眺め、そうだよな、と呟いた。

 美希が私情で口を挟んだとは、あまり考えられない。もとい無神経でもない、あのトップアイドルに限りなく近い美希だ。恐らく言葉の中にヒントはあるのだろう。

「――だけど、さすがにこたえるぜ……」

 まだ早いじゃなくて、無理だもんな……。

 

 ジュリアは胸の中で自問する。お披露目公演の選抜メンバーにもなって、今回も先輩たちのカバーソングの第一陣にも選んでもらって。

 自身に驕るつもりはないけど、それでもプロデューサーは何かしらを認めてくれている。デビュー時よりも着実にファンが増えて、ジュリア自身、前に進んでいるという感覚を何度も覚えている。今のあたしはアイドルだ。

 だからこそ、それを否定されてしまうと自分には……何が残るんだろう――。

「あの、ジュリアさん」

「ん、どうした?」

「あんまり、思いつめないでください。それだと――」

「ああ、大丈夫。ありがとうな」

 瑞希と別れて、一人、かなり長いこと誰も居ない楽屋で呆けていた。

 美希の発言を、ただの戯言だと聞き流すことができればよかったのに、自分の脳はそれを許さなかった。彼女の声はいつまでもジュリアの中でこだましている。

 胸の奥がちくちく痛む。その痛みの源が美希の言葉だけでなく、どこかもう一つの場所にもあるような気がしたが、その正体までは分からなかった。

 ――帰るか。

 外に出て、俯けている顔を上げる。

 東京の夜は薄明るい色をしている。潔さのかけらもない。地上の明かりに負けて、見上げた夜空に星は見えないからだ。

 

 

 それでも、マンションの部屋からの景色は、心なしか眩いて見える。

 平凡に流れる晶也との日常。それが、何よりも尊いものだとジュリアはこのところ一際思うようになっていた。格別麗しいものでもないのに満ち足りている。扉を開けると、今日も変わらず彼はキッチンでフライパンの様子を見ているから、「ただいま」を言うことができる。

 シアターを出た時にメッセージを送ると、帰宅を見計らって彼は調理に取り掛かってくれるのだ。ギターを部屋に置いて、手洗いうがいを済ませると、食卓には支度が整っている。ジュリアはいつも通り「いただきます」と手を合わせる。

「新しい企画なんだけどさあ、ダメだったよ」

「え?」と、向かいで晶也が声を漏らした。

「全く、あのバカP、自分で呼び出しておいて困っちゃうよな」

 曖昧に笑う。あまり笑いたいような気分ではないが、彼との間に余計なものを持ち込みたくもなかった。

「……残念だったな、昨日喜んでただけにも」

「そう悲観したものでもないよ。今回は縁がなかったけど、仕事じゃなくて内部の企画だったから、またすぐ次があるってさ」

 真実のほんの一部を抜粋して語った。

 出会った頃から何度も、人の心を見透かすような視線を向けてきたことのある晶也。どうだ、アイドルに慣れ、演技指導も受けたことのあるあたしから、それを見抜くことは至難の業だろう。昔なら、笑おうとしたって頬の皮膚が引き攣るだけだったが、慣れたものだ。

 彼の前でさえ、ジュリアは完全には普通の女の子に戻らない。もっとも、アイドルでいることを強いられているわけでもないけれど。どちらかといえば、この生活とアイドルが同時に始まったからか、その二つが第二の人生として密接に結びついているような気もする。

 まあいいさ、笑顔は基本中の「き」だもんな。

 

 晶也の顔に複雑な表情が浮かび上がっているのに気付いたジュリアは口調を改め、「あんたは今日、何かあった?」と訊いた。

「……俺? 特に変わらないけど、そろそろ十二月だからさ、期末試験が近くて嫌になるかな」

「なるほどね。あたしが勉強教えてあげよっか」

「へえ……。それじゃ、どの科目をお願いしようかな」

「……意地悪だな。音楽以外無理だって知ってるくせに」

「いやいや、言い出しっぺはお前だろ。つーか俺、今年は音楽選択してねえよ……」

 この日のジュリアのもう一つの失敗。

 やはり脳裡から拭いきれていなかったのだろう。それは、手掛かりの際たるそれを聞き流してしまったことだ。

 

 やれやれ――と、肩を竦める晶也を眺めるジュリア。

 あたしは普通に女の子には戻らない。だけど、少しだけなら、甘えたっていいはずだと思った。

 

 

 その日の夜、それもだいぶ深けている時間だったと思う。ジュリアはうなされ目が醒めた。夢を見て悲鳴をあげるなんて、十七年の人生の中で初めてのことだった。ホントに叫び声が出るもんなんだな……。

 妙に落ち着き払って感心しているジュリアを、晶也が見ていた。「驚かせた……?」わけではないらしい。瞳は穏やかだが、唇は結ばれている。眠っていなかったのだろうか。ジュリアの方がちょっとびっくりした。

 なんで起きてるんだよ。

 苦しそうだったから。

 ひょっとして煩かった? それとも蹴った?

 違うよ、心配だったから起きてただけ。彼はそう口にすると、ゆっくりジュリアの額に手を当てた。「熱はないか」

 当然、風邪じゃないもの。ジュリアは拒絶と受け取られない程度に彼の手を外すと、もぞもぞと布団の中に沈んだ。パジャマの袖で汗を拭い、自分がすっぽり収まった空間から声を出す。

「悪いな、心配かけて。あたしは大丈夫」

 大丈夫というか、気にしていない……と心で呟きながら意地のようにぎゅっと目を瞑る。

 美希に言われたことなんか、気にしていない。

 

 

 しかし結局、それから二日、ジュリアの精神(こころ)は限界を迎えることとなる。

 レッスン中の出来事だった。便宜上『アナザーアピール』と名付けられた、『FairyTaleじゃいられない』の新たな振り付け。その確認をみんなでやって、あたしは…………。

 糸がふっつりと切れてしまったように、記憶はそこで止まっている。

 

 




 初めは「恋の歌」を歌えない云々で、恋が解らないジュリアが美希とバチるラブコメを――とプロットを組んでいたのに、いつのまにかここまでの否定になってしまった。
 
 綯交ぜという程ではございませんが、ゲッサン『ミリオンライブ!』さまの設定をそのままお借りしております。

 美希のジュリアへ発言は、翼へ向けたものと似通うところがあってすみません。今後『アイル』と絡めていくうえで、彼女にしか成し得ない役割でした。
 私個人としては星井美希を芯が強く非常に気の強い少女だと思っている節が強いですが、一応アニマス以降の感じを紡いでいるつもりです。箱も好きだし全部美希だよ。

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