包み隠さず話すことなんだと思う。
その世界に、居たことを。
鞄を開けてキーケースを探したときに手の甲に触れたつるりと肌触りの良い感触。楽器屋のショッパーだ。中身はギターの弦。ため息ともつかない声が零れる。本当に押し付けられるとは思わなかったな。断り切れなかったと表現するべきかもしれないが、今日のところは責任を押し付けさせてもらうとしよう。
――明け透けなんだよなあ、千波のやつ。
弾きたくなったら、と彼は言った。だから晶也は少し憂鬱な気分になる。そんな時が本当に訪れるのだろうか。
少なくとも、今はその時じゃない。
ギターを再び手に取ることにより、ジュリアの赦しを得たいとは思わなかった。ここで楽器に解決を委ねるなどしたら、もっと悪い結末になりそうな気がするから。
「……いずれにせよ一筋縄ではいかないとは思うけど」
もう嘘は吐かずに心を開こう。
それが俺の責任だ。
自らが被った傷のために、彼女を悲しませてしまった俺の――。
扉の前で深呼吸。ほぞを固めた晶也が扉を開けると、肉の焼ける香ばしい匂いがした。
――ん?
玄関と直列になったダイニングキッチンだ。温白色のダウンライトの下にジュリアの姿があって、扉の音に反応してこちらを向いたその瞳と、ばっちり目が合ったのである。そのまま寸分の間が空くことなく、聞き馴染んだ声がした。
「ん、おかえり」
「…………た、ただいま?」
何してんの?
いや、見れば分かるけど。
さすがに不機嫌かと思った。あるいはまた怒られるかと思った。罵詈雑言の雨あられさえ覚悟していた。第一に部屋に籠りっぱなしだと思っていたし、よもや
目前に広がる驚くべき光景。あっさりと否定された懸念。薄っすら漂ってくるのはコンソメの匂い。
外から電気が点いているかどうかの確認すらできないほど自分が俯いていたことを思い知る。
「……なんで?」
「レッスン休みで、一日中暇だったからな」
いやいや、そっちじゃなくて。昨晩の言いようのない威圧感は一体どこへ。
「そろそろ出来上がるよ。色々手間取ってたんだけどタイミングよかったな」
どこか寄ってきたのか? 続けざまに投げられるフラットな声。平然としているが、素っ気なくはない。自分を戸惑いが支配していく感覚がある。何か言わなくては、と思って口を動かした時に出た言葉は、
「俺の分も、あるの?」
だったので笑いたくなってしまう。もうちょっとマシな台詞出てこなかったのかなあ、俺。
「……あたし、そこまで薄情な奴に見られてたのか」
ジュリアは唇を尖らせてから、晶也を見た。「ネクタイ引っ張ってやろうか」
「ごめん」それは止めて、首が絞まる。
すっかり混乱した晶也は、朝と同じように洗面台の鏡の前に立ち、水を無駄遣いしていた。自分に笑いかける。頬が相当引き攣っている。でも、どういうことだろう。
帰宅後の第一声をどうしたものかと電車の中で思案し、千波と過ごしても度々上の空になり、歩みもゆったりに、エレベーターを使わずに階段を昇り……。入る前に深呼吸もしたっけ。
しかし実際の言葉は「ただいま」なのだ。かなり上擦ったにしても。
彼女がまさか昨日の出来事を忘れたわけではあるまい。はっきりさせなければいけない諍いだ。着替えを済ませ、微妙な不安を感じたままキッチンの様子を窺い見る晶也。覗きをするつもりはなく、タイミングを見計らうように。
「あ、晶也。上の棚からお皿取ってくれない? 大きめのやつ。あたし、肩痛めてるんだった」
やはり、そこにはいつもと変わらないジュリアがいた。
「
「……そんなに身構えるなよ」
ようやく複雑な笑みを浮かべたが、それは晶也の緊張を悟ったせいだろう。「調子狂うなあ」
「それは俺の台詞」
返事をしてから、伺っていても埒が明かないことを認めた。
「……なんで怒ってないの?」
「怒ってはいるさ」
「……じゃあ」皿を渡す手がうずうずする。「
「あたしも考えたんだ。……言えない
「いいの? そんな簡単に信用して」
「当然だろ?」
換気扇の音が止む。沈黙の隙間を埋めるような、少し躊躇いを含んだ声が晶也に触れた。「これでも、ずっと見てきたからな」
どうして、こういう時の言葉選びが似ているんだろうな、と晶也は内心で呟いた。それほど互いに影響されてきたからなのだろうか。
でも彼女の言う通りなのかもしれない。晶也が今までに沢山ジュリアを知ろうと努めたように、ジュリアもまた晶也を理解しようと近づいてくれていたのだ。
考えてみれば今この対応だって彼女の気配りのうちかもしれないのに。そんな彼女に対し、俺は――。
「ごめんな」
つかえた言葉をなんとか吐き出す。心に余裕がないのは彼女も同じはずなのに。
そんな晶也の困ったような哀しいような表情に反して、
「いいから、そんなジメジメした話は後にしよう?」
炊き立てのご飯を盛りながら、ジュリアはにっこりと笑った。
「食べようぜ、晶也。今までよりも自信があるんだ」
なんだか、懐かしさを覚える穏やかさを
☆☆ ☆☆
「――俺さ、ギター弾いてたんだ」
招かれるは彼女の部屋。
大事なことを話すときは、互いに向き合いたいがためにソファの出番はない。
ベッドの上で膝を抱えるジュリアの瞳に、ようやく打ち明けていた。
彼女と過ごすうちに自分もだいぶ肝が据わった気がしていたが、それでもやはり勇気が要った。何から話せばいいか。ひどく勿体を付けたような態度になってしまったにも関わらず、ジュリアは静かに待ってくれた。
「今まで隠してたのはさ、それが過去のことだから。……俺がもう弾いてないからなんだ」
「やっぱりか――」
繋ぐ言葉は溜息に代わった。ジュリアの表情が幾分か険しくなったように見える。「昨日の反応見て、そんな気がしてたよ」
その声には残念がるような色があった。
「そもそも、この半年間一度も見たことないし」
晶也は微苦笑した。それはご尤もで。
ジュリアは一呼吸おいてから「ど」と声を上げたが、自ら首を振ってそれをかき消していた。「どうして止めたの」か、あるいは「どうして始めたの」か。続く言葉は分からなかったが、躊躇いで口を結んだことは伝わった。瞳に浮かぶは複雑な色。好奇と遠慮がない交ぜになったような……。
だから彼女の声に幾ばくか混じったそれを拭うように苦笑してみせた。もう隠さないよ。自分は昨日より、今朝よりは上手に笑えただろうか。さらに続ける。
「……知っての通り、俺は本当におじいちゃんっ子だったからな」
しつこいようだけど、祖父は音楽が好きだった。
それで名を残すような仕事をしている人ではなかったが、多岐にわたるジャンルへの造詣が深く、音楽を架け橋としたコミュニティを多方面に持っていた。近所の楽器店やレコード店主。多目的ホールの演奏会の常連。祖父の珈琲好きも、名曲喫茶の店員と親しくなったために始まった趣味だったと幼い頃に聞いた。晶也も連れて行ってもらったことがある。
「ジュリアの言った通りなんだ」
いきさつを考えれば、不思議なことは何も無いだろう。「そんなじいちゃんを大好きだった俺が、楽器に興味を持つのは当然だよな」
「もしかして、あたしよりも早かった?」
歴を尋ねているのだと分かったが、「どうだろう」と答える。「触れる機会自体は沢山あったからさ」
何を以って「はじまり」とするのか、非常に曖昧だ。そもそも音楽という世界の中にあった。日中レコードの盤面に針が落ちていることも珍しいことではなかった。
物理的な接触なら、リビングにあったアップライトピアノ。ちょうどいい高さだったためか、手をかけてつかまり立ちをしていたらしい。鳴らしたのはいつだろう。いや、習うというほど鍵盤を叩いていない。
晶也が興味を抱いたのは祖父の書斎にあった弦楽器なのだから。
二階にあるその部屋は、ちょっとした宝物庫だった。書棚で覆われていた壁。大半が音楽にまつわるもので、CD、レコード、カセットなどの音楽媒体も。雑然と積み上げられているわけでもなく、整頓されていて埃っぽさはない。しかし何者かが棲みついていそうな物々しさがあって、幼い頃は恐る恐る足を踏み入れていた記憶がある。
そして、その部屋で一際存在感を放っていたのが――。
「おじいちゃんのギターだったわけか」
晶也はゆっくりと頷いた。
「だから結局、本格的に習おうと思ったのはギターだったな。初めて買ってもらったのはミニギターだったんだ」
その名の通り、一回りコンパクトなギターのことだ。決して玩具などではない。
ミニギターが初心者に向いているか、という論には賛否あるが、子供に扱いやすいサイズであることには間違いない。加えて祖父がそれを提案したのには、いずれ自身のフォークギターを譲る目的もあったのだと思う。
「初っ端からえらく奮発されちゃってさ。幼稚園児の俺にリトルマーチンだぜ?」
「うわっ、贅沢だな」ジュリアはわっと驚いた顔をした。「アコギのトップブランドじゃないか」
「そりゃスタンダードに比べりゃかなり安いけど、初めはお試しセットとかでも良かった気がしなくもないような」
「あはは……おじいちゃん、それほど嬉しかったんだろうな。やりたいって言いだしたのは晶也から?」
「ああ」
「それならいいと思う。実際、妥協しなくて正解だったんだろ?」
敢えてなのか軽い口調で言う。確かに、と晶也も応えた。好きでもないことを強制され始まったものなら長続きしないかもしれないけれど、自発的に始めた趣味だ。祖父としても金額に譲歩する謂れはなかったのだろう。
「もちろん、趣味の純度は値段じゃないけどさ」
「まあな」返事をしながら、値段、という言葉でふと千波の声が蘇ったので尋ねてみる。
「というか、それを言ったらお互い様だろ。そのストラトだって、相当な値ぇ張ったんじゃないか?」
ギタースタンドを一瞥して、言う。まさか当時の彼女がそれを自腹で買ったということはないはずだ。リスペクトするロックンローラーといえば、おおよその検討はついている。
望まぬ反応を示してしまったのだろうか、ジュリアは目をぱちぱちとさせていた。
「……なに変な顔してるんだよ」
「あ、いや、驚いたというか……晶也がこんなふうにギターの話をしているの、夢みたいだなって」
どうしてそんなに嬉しそうな顔をするんだろう。眩しそうに見つめてくるんだろう。
大袈裟だなあ、と晶也は笑うことになった。
「でもそう考えると、あたしよりもずっと先輩なんだな」
「よせよ、俺はジュリアみたいに上手じゃないさ」
「それで?」
ジュリアは晶也の謙遜には触れず、断言するように強い口調で続きを促した。いつの間にか遠慮の解かれた瞳が、打ち明ける晶也をじっと見つめている。そうだ、まだ何も話していない。
楽器を鳴らすこと。無論それは祖父に強制されて始めた趣味ではない。そして、技術の良し悪しを気にしたこともなかった。
「そりゃ上手くなるに越したことはなかったけど、それが目的じゃなかった。……俺が奏いていたのは、じいちゃんが喜ぶ顔を見せてくれるからだった。じいちゃんが死んで、あっさり辞めたことで初めて気が付いたよ」
「――それは」ジュリアの顔が曇る。
「分かってる。でも俺には……俺にとっては、それが音楽の世界の全てだったんだ」
そう言いながら、自分の頬が強張るのを感じた。別に認めてほしかったわけでもないと思う。誉めてもらうことが前提というよりは、ただ、喜んでほしかっただけ。
美しく、大好きだった日々の記憶だ。
記憶の中での少年は、笑っている。
母がパートの日、幼稚園に迎えに来てくれるのは祖父母だった。
両手に二人の温もりを感じながらの帰路。途中まではその日の出来事を語っていたはずなのに、いつも家に着くころには音楽の話になっていて、家に着くや弾き鳴らす。
細目になった笑顔を思い出す。祖父母は二人して、その様子を飽きることなくずっと見守ってくれていた。
「あまりにも結び付けすぎちゃったんだよな」
自分を愛してくれた人との別れ。今生の別れは晶也の裡に赤々と灯っていた炎を吹き消すこととなったが、その前、一度目の別れは奇しくもその結び付きを強固なものにした。
ジュリアは斜め上を見て思案顔をしたが、やがて、ああ、と頷く。「引っ越しのことか」
母と二人で東京に移り住むことが決まった際はひどく反発した晶也。しかし新生活に慣れるや意識が変わり、それをチャンスだと思うようになっていた。次に会える時までにもっと巧くなって二人を驚かせてやろう。そう目論む日々が続く。年に合うのは長期休暇の三回。エレキギターを買ったのは中学に上がってからのことだ。
「そりゃたまに電話で近況報告することはあったけど、会えない時間が育むものがある、って言うだろ」
「ああ。……本当にその通りだと思うよ」
ジュリアは、やけにしみじみとした声で返事をしてくれた。
いつかも言ったと思う。祖父は自分で奏くよりも、誰かの音色に触れることが好きな人だった。晶也の音楽の先生である祖父は、たくさんのことを教えてくれた。その世界との付き合い方。祖父の教えてくれる言葉が、技術が、曲が晶也にとっての道標であった。
晶也を育んだのは、音楽の
――晶也の音からは絶え間なく『楽しい』という思いが伝わってきて、どこまでも気持ちが良い。
未練はないと思っていた。
ジュリアと出会うまでの一年間、楽器を閉じ込めた生活に不都合はなかった。だけど心に穴が開いたような感覚に陥ることがあったことは事実だ。
自分の時間が止まったことを、その正体を祖父だと思い続けていた晶也。でも恐らく――。
「音楽そのものも、ちゃんと好きだったんだろうな。……俺」
「そっか。嬉しいよ」
出来なかったことや、知らなかったピース。それらがまたヒトツと埋まってゆく感覚なら未だに憶えている。ジュリアの話が気持ちいいのも、驚嘆ではなく共感だったから。そんな気がする。
――音楽に触れることまでが嫌になったワケじゃないんだろ?
「……言い逃れはできねえな、千波」
窓の外に目を向け、ぽつりと呟く。鏡に見立てて、映った自分の顔。戸惑いの消え去ったような瞳をしているように見えた。
「ゆきは?」聞き慣れない単語に反応してジュリアが顔を上げる。
「俺の友達。……バンド仲間って言えばいいのかな。高校入って最初の友達なんだ。今日ちょっと一緒に出掛けてさ」
「えっ……。バンド、ってことは」
「高校では部活、軽音に入ったんだ。……もちろん、すぐに辞めちゃったけど」
「ホントか!?」
ジュリアの目が輝く。「そんな大事なこと隠してたなんて悪いヤツだな、もう。どうだった?」
矢も楯もたまらない様子で詰め寄ってくる。ちょっとどころか、とても嬉しそうに。晶也は愛想笑いを返して手を横に振った。自らをロックンローラーと呼ぶなんておこがましい。
「いやいや。マジで二か月だけだぜ。ライブ経験なんて一度もない」
「いいから。値段じゃなければ時間でもないだろ」
「どうだった、か」
考えようとして、考えるまでもないことに気づいた。
「――楽しかったよ」
自分でも驚くほど柔らかい声が出た。気圧されたわけでもなく、滑らかに。それ以外に見つからなかったのだ。
「時計見ることなく、仲間と遅くまで奏いて……。たまにふざけるのも、帰りに一緒に飯食うのも。『軽音楽部なら絶対に聴くべき300』とかも聴いたりしてさ」
「女のコいた?」
「いや。全員男だったから、寧ろすげえ自由だったよ」
先輩がいるから練習場所には困ったっけ。遅刻魔はいたけどサボり魔はいなかったな。最後疲れてくるとメンバーでカラオケみたいに合唱したり。成り行き任せの気分次第。でも、そういう空気がやけにしっくりくる……そんな環境だった。
短い期間のくせに、随分と濃密な記憶が次から次へと蘇る。千波と話したせいもあってか、すらすらと言葉が飛び出した。「その千波ってやつがまた変わった奴でさ」
ジュリアはまたしても柔らかい笑みを浮かべていた。
それもそうだよな。彼女もかつてはバンドマンだ。その楽しさを身をもって知っている。以前話してくれたことがあった。バンド時代はライブカフェで一人一杯の飲み物で粘り、長いこと駄弁っていたという思い出話だ。
すると彼女は今、晶也とよく似た光景を思い浮かべているのかもしれない。そんなことを思った。
仲間と音を重ねる歓びを。そしてその力が、どれだけ日々を豊かにしてくれるものかを知る者。そのうえ察しの良い彼女だ。すでにそれに考え至っているだろう。穏やかな瞳は、やがて寂し気な色に変わっていった。
「……それでも、辞めちゃったんだな」
「正解」と、答えて晶也は天井の照明を仰ぎ、目を瞑る。確かに部活は楽しかった。しかしそれだけ自分の中で祖父の存在は大きかった。大きすぎたのだ。
幼い頃の思い出というものは……どうしてだろう。美しいものには更に磨きがかかり、一方で厭なものは一層醜悪なものに成り下がるような気がするのは。
音。祖父との記憶に伴うのは、音だ。晶也は音を刻んでいる。
「俺にとって、楽器を奏くことはまさにかけがえのないものでさ。じいちゃんが喜んでくれることも、そう。だからその反動っていうか……今はもう、絶対にあの時のような気持にはなれないって思ったら、奏けなくなった」
そう言った途端、胸が詰まった。痛みに耐えるように強く瞼を閉じる。
そんな風に考えてしまった時点で自分は楽器に触れる資格はない。そう思った。楽器は『鏡』だ。演奏者の心を映し出す。素直な気持ちで演奏すれば、それは素直な音で返事をしてくれる。逆に乱れた心で触れようものなら――。
「俺はさ……それが怖かったんだろうな」
――あるいは、今も恐れている。
今の自分が鳴らす音が、過去の美しい思い出を破壊し尽くしてしまいそうで。
そして「どこまでも気持ちの良い音」だと言ってくれた祖父の声さえも掻き消してしまいそうで。
しかし、ギターを捨てることもまた、過去を否定することと同義に思える。だから捨てずに閉じ込め、不変を望んだ。そこにあったものが、「ない」に転じたことを認めたくなかった。
「……最初、ジュリアと暮らすことを渋ったことがあっただろ? その理由がこれさ。俺は、楽器を……音楽を自分から遠ざけたかったんだ」
奏かなければ、それを知ることはないから。触れなければ、思い出すこともないから。いつか向き合えるようになる日が来るはずだと解決を時間に委ね、自らは目を逸らし続ける。
こんなものはプライドでも何でもない。単なる心の弱さ。そういうふうに自分の心を欺いていたに過ぎない。
時間があればどうにかなるというものではないことは、自分でもよく分かっていた。
立派な現状維持バイアスの完成だ。
「話して一瞬で感じたよ。こいつは心から、本当に歌が好きなんだって。じいちゃんと知り合ったのも音楽を介してなんだろ? だからジュリアと過ごすことは、その両方と対峙するってことを意味してる。さすがに……耐えられないと思った」
ジュリアの瞳が困惑したように揺れた。それから一瞬目を伏せ、「なるほどな」と呟いた。
「あたしにも話せなかったのは……だからか」
納得がいったようだ。しかし話すと決めたからには、それ以外も伝えるのが道理だと思う。
彼女は覚えているだろうか。蘇るのはジュリアの言葉。
縛るってなんだよ――。
音楽を言い訳に使い、自分自身を嘲り、後ろを向いたままの俺だ。
「そんな俺が隣に居たら、邪魔にもなるだろ? そういう意味での枷だったんだよ」
「……妙なところで気を遣われたな。これ、喜ぶところか?」
「いや、怒るところだな。怒ってくれて構わない」
晶也は吐息をつき、「ただその配慮は俺かジュリア。どちらか一方は避けられないものだった」と口にすることになる。
「……俺が辞めたことを知ったら、ジュリアはきっと気を遣ったと思うんだ」
出会った頃の強硬かつ強情な態度。人の話を最後まで聞かないせっかちな性格。初めは、ギターのことを知ったらすぐさま弾いてみてって言いだしそうな気がしていた。――でもきっと彼女はそうはしなかっただろう。なぜなら、
「お前、優しいからな」
自信に満ちたような彼女だが、傲岸さは全くもって似合わない。先ほども自供を強要するどころか、晶也が話し始めるまでずっと待ってくれた。昨日あれほど荒げた声は日を跨ぐと気遣わしげな色に変わっていたのだから。
楽器を奏いていた過去。こんなふうに過去に囚われ、悩み続けていることを彼女に話すわけにはいかなかった。聞けばきっと彼女はあれこれ気を回しただろうし、それどころか音楽の話をすることを控えたかもしれない。
「――そうなってほしくなかったんだ」
その可能性がある以上、隠蔽するべきだ。
晶也が言うと、ジュリアは一瞬困惑の表情を浮かべる。
「でも、遠ざけたかったなら晶也としてはそっちの方が良かったんじゃないのか?」
「うん……。そのはずだったんだけどなあ」
その考えがいつから俺の中に宿ったのか、自分でもよく分からない。「ほんと、おかしな話だよな」
歌が好きだと語る真っ直ぐな瞳から、輝きを失わせてはならない。彼女が音楽と触れる時間を奪いたくない。そう思ってしまったというのだから。自分でも戸惑ったさ。
ジュリアには遠慮をしてほしくなかった。心に余計なことを背負わせたくなかった。その真っ直ぐな心でどこまでも歌の真価を追求してほしかった。だから彼女が音楽の話をすることは、何の苦痛でもなくて。
なぜなら俺は。
――何よりも俺は。
「お前がああやって歌や音楽の話をするときの
「えっ、うわっ、や、やめろって。さすがに、それは照れる……」
思いっきり不意打ちだったのだろう。ぼんっとジュリアの頬には一瞬にして血が昇り、髪よりも朱い薔薇色に染まった。
確かに、とんでもない告白だな。晶也も同じ笑い方をした。「そういう反応やめてくれ、俺も恥ずかしい」
ジュリアは何度か口をぱくぱくさせてから、そっぽを向いて小さく「あ、あたしは悪くないだろ……」と呟いた。ほとんど聞こえないくらいの、「くぅ」という呻きを添えて。
考えてみれば本当に、不思議な少女だ。
歌の魅力、音楽に係わる様々なことについて語るとき、ジュリアはとっても輝いている。
音楽、そして歌に対して並々ならぬ情熱を持っている少女。一瞬でも彼女の熱に触れてしまえば分かる。誰もが感じ取らずにはいられないだろう。彼女が非常に真っ直ぐな人間だということを。
一度やると決めたことや一度信じたものを、如何なる理由があっても投げ出さずに遂行できる者が、どれほどいることか。
かつて彼女はそのことを
ジュリアにとってのそれは、まさしく彼女の業績だった。それができる人間とできない人間がいる以上、特別な能力といっても差し支えないほどに。
だから、ジュリアが夢を見続けていることも、夢を叶えるための努力をし続けていることも、晶也が「羨ましい」の一言なんかで到底片づけられるはずのない、紛れもない彼女の功績。『流星群』にも顕著に表れているそれは、ジュリアの個性。大事な
「……ほんとに、何者なんだよ。お前ってやつは」
晶也の想像の範疇を超えて羽を広げている。
素直に応援してあげたい。力になりたい。支えたい。
ジュリアは自然とそう思わせる少女だった。
改めてお詫びします。
読者の皆様方には大変ご迷惑をお掛けしました、ごめんなさい。
今後も八月頃までは更新頻度がまちまちになるかもしれませんが、完走は必ず致します。これからもお付き合いくださると幸いです。