少し長いかもしれませんが、何卒よろしくお願いいたします。
「でも、まさかなあ……」
晶也は気恥ずかしさを紛らわせるように椅子に背中を反らし、天井に視線を投げた。
殺風景で単調な晶也の部屋とは対照的に、ジュリアの部屋の壁は、入るたびにアーティストのポスターの数が増している。前はあったっけ、あのバンドのやつ。そんなことを思いながら。
「ジュリアが本当に知らなかったなんてな。驚いたよ」
「……ギターのことだよな」
「ああ」
ジュリアは少し俯くと、
「……ごめん、本当に知らなかった」
思いのほかしょんぼりした表情を見せた。晶也は慌てて声を重ねる。
「まさか、責めてるわけじゃないって」当然、咎めてもいない。「ただ、悪いけど俺さ、疑ってたんだ。じいちゃんから聞いていたんじゃないかってな」
率直なところ、最も意外なのはそれだった。時折何かを知っているかのような振舞いを見せることがあったものだから、てっきり。
彼女が祖父に出会ったという昨年の春。高校入学を目前に控えた春のこと。当然晶也は楽器を構え音を紡ぎ、新たな出会いにも心を躍らせていた。伝えられていたと考える方がずっと自然だ。
「俺のこと、色々聞いたって言ってたよな。じゃあ……その時何を?」
ちょっとだけ裏を読むような視線を向けてみる。「これ、まだ聞いたことなかったよな」
もしもギターのことに言及されてしまったら。と、それを尋ねないことは一種の自戒でもあった。
ジュリアは苦笑を浮かべて、
「晶也がどんな子だったのかっつー思い出話みたいなもんさ。あんた、小さい頃は人見知りで泣き虫だったんだってな。でもその癖にやることは大胆で、うん、どちらにせよしょっちゅう困らされたとか言ってたっけ。……他に? ん、素性みたいなことも聞いた。家族構成みたいなことを少しな。ええとそれから……」
指を折りながら答えてくれた。晶也がとっくに忘れていたエピソードまでもが語られると、むずかゆい心地がした。
でも、とジュリアは続けた。
「そうなんだよ……。たくさん聞いたのに、あの人、楽器のことには一切触れなかった。結びつくようなことすら言わなかったんだ。……まあ、わざと黙っていたってことだな」
「わざと、ねえ」
ジュリアは唇を引き結んで頷いた。
今一つピンとこない。返事はなんとなく読めるけれど、外堀を埋めるような質問をもう一度。
「単に言うタイミングがなかっただけじゃなくて? 何を話したかは知らないけど、話題の方向ってのもあるだろうし」
「それはありえないって、あんたが一番分かってるんじゃないか?」
予想に違わず、ジュリアは間髪を容れずに否定した。思い付きなんかじゃない、確信ありげな強い口調で。
「おじいちゃんは誰よりもあんたのことを心にかけてた。そんな人が、無意識的に避けるもんか」
「その通り……だよな」
思い出すような振りをしながら答えたが、反論する気は一切なかった。
ジュリアに伝えたという「色々」の中に一度も登場しなかったなんて不自然すぎる。
――どんな子供だったのか。それを語る上で、楽器は外せないだろ。
それが、晶也の正直な感想だったのだから。
「ジュリアはさ、汲んでるんだよな」
そのことを伏せた真意。浮かした腰を再び椅子に下ろし、促す。
一晩考えたからな。含みのある視線でジュリアは答えた。
「といっても、憶測だけどいいか?」
「構わないよ」
どうせ、確認する術もないのだ。
真剣な眼差しになってジュリアは頷いた。晶也の背筋も知らぬ間に伸びる。
考えうるに、と仰々しい前置きをして、彼女は言った。
「おじいちゃんは気がついていたんだと思う。自分が死んだら晶也がギターを止めちゃうことに」
「えっ」
予期せぬ答えに、晶也はの頭の中は一瞬、真っ白になった。
「だからこそおじいちゃんは――」
「ちょ、ちょっと待てよ」
気がつけば声を尖らせて言い返していた。
そんなこと、考えたこともなかった。いや、そこまで見抜いていたのだとすればそれは祖父にとって深刻な問題だったはずだ。
――だけど、そっちじゃない。
「それが事実だとして……俺が止める予感があったとして、何を憂慮してお前に隠す? いや、隠されたと考えたんだ? 俺の過去にジュリアと何の関係があるんだよ」
自分でも早口になっていることは分かっていたが、止められなかった。
だって、こうならない可能性の方がずっと高い。上京しなければ――アイドルにならなければ、ここまで親密に二人が関わることはなかったはずだ。それでも隠蔽の必要があっただなんて、あの時点ですでに、彼女がそれを知ることで何らかの不都合が生じると認めているようなものじゃないか。
「あー……それはな」
大人げない程の質問攻めに、ジュリアは一瞬何かを言いかけたが口を閉じ、膝に抱いていた枕を引き寄せた。少し顰めた顔つき。傍らに佇むぬいぐるみ。昨日は一晩中そうしていたのだろうか。物音一つ立てなさそうなその姿勢が晶也にそんなことを思わせる。
見るともなしにカーテンに向けられている複雑な表情。家具を一緒に買いに行ったのはもう五か月も前のことだ。目に優しいサンドグレーを選ぶ彼女を一歩後ろから眺めていたら、ちゃんと手伝えって怒られたっけ。
「……言いづらそうだな」
「言いづらいっつーか、ホントは……言うつもりがなかったことだからな」
自分の胸を押さえ、しんみりとした表情を見せた。懐かしさと同時に、寂しさを思い出したかのような瞳。彼女がそんな表情を見せるのは珍しかった。どきりとするほど
やがてジュリアはふっと息を吐いて、「ま、ここまできたら隠さないよ」という言葉と共に厳かに頷いた。
「あんたのことを、頼まれてたんだ。――託されたんだろうな。あたしは」
それは、隙間風が通るような、静かで透き通った声。
急に背中が冷えゆくのを感じた。――託した? じいちゃんが何を。
俺が楽器を止めることを想定していたのだとしたら、その後の監視。あるいは再び向き合うための、いわばリハビリのサポート? そっからなのか……? まさか、このやり取りそのものが仕組まれていたとでも――?
そんなバカな。
一瞬のうちに膨らんだその想像は晶也を動揺させた。知らぬ間に握りしめていた両手に力を込め、その言葉――託されたと心の中で繰り返す。冷静になれ、とも。
それから目の前の朱い髪の少女を凝視した。彼女が情に厚いことは言うまでもないし、ずっと昔からそうだったのだとは思う。
ただ……。
「その頃お前、俺のこと知らないだろ?」
首の後ろがざわざわと騒いでいる。いくら祖父のことを恩人だと仰いでいたとしても、その孫の始末にまでそう簡単におさまる
「ん、写真はいくつか見せてもらったけどな」
「……あ、そ」そんなもの持ち歩かないでほしい、じいちゃん。
とはいえ、容姿が承諾の決め手となることはなかっただろうから今は構わない。
落ち着いた口調を意識して晶也はもう一度訊いた。
「……でも、知らなかったんだろ?」だが声の震えが自分で分かる。
「そうだな。あんたの存在を知ったのは教えてもらったときで間違いないよ」
「存在って、随分と大袈裟に言うんだな」
しらっとストレートに肯定してくれたはずなのに、なんだか不安をじりじり煽られているようで嫌だ。心が急かれる。
「いや……近所だったらしいからな。あんた、幼稚園まではあの辺りなんだろ?」
「ああ、そういうこと」
ジュリアは含みのあるような視線で頷いた。「どこかですれ違ったりくらいはしてそうだ」
世間は広いようで狭かったりするもの。お互いが憶えていないだけで、同じ幼稚園だった可能性までも否定はできないわけだ。そんな無粋な質問はしなかったが、脳裡には祖父母と歩いた住宅街の景色が蘇る。
そうして様々な「かもしれない出会い」を模索したとき、込み上げてきたのは、初めてジュリアに会った日の感覚だった。身体のどこかを強くぎゅっと握られたような、自分の全く知らない感覚。
「――でも、一度もなかったな」
独り言のつもりだった。
心の隅に芽生えた予感は、すぐに確信へと変わる。――うん、やっぱり考えられない。
じめじめとした梅雨の中休み。彼女とのファーストコンタクトは告別式《あのとき》だ。
その大前提は疑うまでもない。疑いようがない。この見慣れない朱に、碧く澄み渡った瞳に、それ以前に相まみえた記憶はなかった。自分が忘れているわけじゃなくて、本当になかったと思う。
「ヘンなの」釈然としない様子で、彼女は晶也をじろじろと見つめてきた。「否定しなくたっていいのに」
「え、あ、いや、別に」動揺の弾みで露骨なほどに声が上ずってしまう。
独り言だ。聞かせる気はなかった。言うのも、恥ずかしかった。でもきっと、会ったことはないんだ。
――あったとしたら、きっと、その時点で俺は目を奪われているだろうから。
「とりあえず先に進もう」
半ば強引に晶也は切り出した。咳払いをし、椅子に座り直す。「まだどうもピンとこないことがあるんだ」
「まあ、いいけど」嘆息一つで彼女も気持ちを切り替えてくれた。「何か訊きたいことが?」
「ああ。どうしてジュリアがそれを引き受けたのかをな」
「引き受けたぁ?」
晶也が言い切ろうとする直前、彼女は少し身を乗り出して、意外な問いかけだと言わんばかりに声を重ねた。
そしてその直後、五秒も経たないうちに、何かを了承した顔になる。「――ああ。託されたなんてオーバーなこと言ったからだな」
すると、今度は晶也が首を傾げる番だ。え、違ったんですか。
ジュリアもちょっとだけ首を捻る。
「違うっつーか……さてはあんた、『晶也が立ち直るまで側に居てやってほしい』――なんて考えてた?」
「げ」
「何の顔だよ、ソレ」
図星の顔に決まってんだろ。ただの自意識過剰がさらされ、一周回って恥ずかしさが込み上げてる人のそれだ。
黙りこくった晶也の表情から返事を読み取ったらしいジュリアの頬は緩む。どうりで深刻な顔してたワケだ、とケラケラ笑いながら言い、胡坐をかいて左右に揺れた。
「あたし、ギターのこと知らなかったんだから、それだと矛盾しちゃうだろ」
仰る通り、ぐうの音も出ない。
「ごめんごめん。一度に説明しなかったあたしも悪い」
彼女は続けた。
「あたしが実際に頼まれたのはさ……。自分が死んだあとの晶也のことを、少しだけ気にかけてやってほしいってことだけなんだ」
「気にかけて……」その程度なのか。
ジュリアはこくんと頷いた。
「……恐らくだけど、そこに、長期的な意図はなかったと思うよ」その頃を思い出すように目を伏せて。「あたしも同じ。機会があれば話し相手にでも、って言われただけだったからな」
また、是非ともよろしく、などと念を押されたわけでもないらしい。
それでも、どんなに些細なお願いだろうと反故にしないのがジュリアだった……ということでいいのだろう。
「憶えてるだろ?
「あ、やっぱり目ぇ合ったよな、一番最初」
ひそひそと毛色を蔑まれていた彼女。声を掛ける前だ。当然晶也に対しても警戒を滲ませていると思っていた。それなのにあの日の彼女の瞳を過った光は――記憶の隅に追いやられていた、思慮深そうな色の正体に、迫った心地がした。
「そーゆーこと」
ジュリアは小さく肩を竦めた。
口調はどこか素っ気ないが、その一年を億劫だとは感じていなかったらしいことが分かる。
でも、なるほど。ようやく全貌が現実味を帯びてきた。半年前公園で交わした一時間弱の会話。あれでジュリアが請け負ったという約束は果たされたと、彼女も認めているということだ。
「とはいえ……その割には、随分と気にかけてもらってるよな。この半年間ずっと」
「……んなっ。それ言うかぁ?」
思えば日常の中で随分と元気づけてもらった気がする。今日だってまさか「暇だったから」という理由だけで料理を作って待っていてくれたわけではあるまい。
そもそもここ数日間、自分が倒れるくらいのことを抱えて思い悩んでいるくせに、晶也のために惜しげもなく自分を差し出してくれる。向き合って話を聴いてくれて、苦しみを共有しようとしてくれる。
今までの色んなことの理由が頼まれたからでも、恩返しでもないということは……。
ぷい、っと顔を逸らされる。
意地悪だ、と彼女は言った。
「わ、分かってんだろ」
「何が?」
「……お、お節介焼きで悪かったなっ。そうしたいって思ったのは仕方ないだろ!? っつーか、そもそもなあ……!」
「あ、言ってくれるんだ」
「~~~~っ」
物凄い勢いで晶也二号が飛んできた。「あぶっ……」今度こそキャッチ。いい加減、コイツの本名を知りたいところだ。――
愉しげなまなざしを、ジュリアに向けた。案の定どこか懐かしいジト目が返ってくる。晶也は、ごめんごめん、と笑いながら言った。
「――ほんとに、感謝してる」
「くぅ」
控えめにうなるぬいぐるみのご主人は、さぞかし心の中で毒づいていることだろう。
これ以上からかうと次は小型のギターシンセでも飛んできそうなので、晶也は気を取り直すように息をついた。
彼女が言ったことには全て信憑性がある。というか、嘘ではないと思う。
なぜならこの生活の発端――おおもとの、上京の動因となったスカウト。その出会いは偶然なのだ。プロデューサーが福岡を訪れた理由は美希の地方公演の付き添いだった。晶也にとっては命日供養だった。それぞれの都合によって居合わせた場所が、ジュリアが贔屓にしていた路上ライブの会場だったのであり――その日、彼女は歌っていた。
今にして思えば、とんでもない偶然があったものだと言いたくもなる。
それでも晶也は知っている。三人が一堂に会したことは、運命的なまでの巡り合わせだったのだと。
そのうえで――。
「あと一つ」晶也は椅子に深くもたれた。「解らないことがあるな」
ジュリアは上目遣いになった。「解らないこと?」
何かを考えているときの顔だ。一緒になって悩んでくれているというより、晶也が何を解っていないのかを探るような瞳。
そうだ。そんな折り重なった偶然に唯一介入したものがある。晶也とジュリアの邂逅に因果はなくとも、結びつけたのは――。
「……俺が解らないのは、じいちゃんの動機なんだよな」
「動機?」
「考えてもみろよ、その日初めて出会った女の子に……頼むか? そんなこと」
なんでジュリアなんだろう。晶也が勘違いしたほどの頼みではなかったが、祖父がこの少女を選んだことに変わりはない。彼女の頭に志吹晶也という存在を植え付けた。その理由については見当がつかなかった。
それについて彼女の意見を聞いておきたい。何か知らない? と回答を求めようとしたら、
「ふうん?」
彼女の唇の端が吊り上がっていた。「やれやれ、そんなことか」とでも言いたげなこの顔には。降ってきたのは相変わらずの軽口で、笑いを含んでいた。
「いやあ、たかだか数回会っただけで同居まで許したヤツを知ってるからおかしくって」
「……へえ、それはまた」
「三回だっけ? 四回だっけ? なんでかなぁ、あんたならそいつのことに詳しい気がするんだけど」
うわあ。なんつー明け透けな。「…………お前なあ」
「ひゃあ怖い」
これでイーブンな。芝居っぽい口調で肩を小さく揺らしながら微笑む彼女。
その後、ちょっとだけ沈黙してから、言った。「ああ……。そういう時の表情、似てるよなあ。目の細め方とか」
「何だそれ」
肩から力が抜ける。
こんな時の仕草が似ているだなんて、じいちゃんにもそんな感じで接したのかよ、お前……。
強張った頬をほぐすように長く息を吐いて、晶也はすっかり和んだ表情のジュリアを見つめた。
――たかだか数回会っただけで、か。
彼女のことを知らなければ、それを茶化されたとして釈然としない顔で頷いていただろう。
「……そういう奴だったな、お前は」
完全に謎が解けたというわけでもないけれど、合点してしまった。
実際、この少女は不思議な磁力の持ち主だ。……さっき、答え合わせをしたばかりじゃないか。この真っ直ぐな瞳には一瞬でやられてしまうんだって。
こんなことで祖父への疑念が晴れてしまうなんて、心底おかしな話と思う。でも、分かるよ、じいちゃん。
――現状維持しか望まなかった俺が、コイツと過ごしたら……って未来を想ってしまったんだ。
たった一度のやり取りだけで十分なのだ。祖父も一瞬でジュリアのことを認めたに違いない。それで、晶也に引き合わせたかったのかもしれない。ここから先は理論とは別次元の話。考えたところで正解も発展性もない。敢えて結論付けるとしたら……。
運命の悪戯だ、と晶也は思った。何が起こるか分からないくせに、上手く出来すぎている。こうなって良かった、って心から思う。
「運命……か」
一瞬複雑そうな笑みを浮かべたジュリアも、最後にはその答えに納得したのか、ふふんと満足そうに鼻を鳴らした。出会った頃から変わらない、彼女の癖だ。
「だったら……それに抗ってみる気はないか?」
「ロックだな。一体?」
「うつったか?」
「さあ」
「だって……音楽の世界から離れて良かった、とまでは言ってほしくないんだよ」
「具体的には?」
「そうだな……。手始めにこれから沢山、あたしと音楽の話をする――なんてのはどうだ?」
ベッドから彼女はすっと寄ってきて、晶也の腕をつかむ。
「その話なら今までも」と言いかけて、晶也は少し反省した。今までの俺の言葉は、嘘ではなかったけれど、本心でもなかった何か。違和感のないように選び続けた言葉だ。それは彼女を気遣ったためのものであり、その一方で自己防衛が帰結したものでもあった。
「……なるほど、悪くないね」
「だろ♪」
これ以上、この笑顔を曇らせる訳にはいかないな。
だから約束する。これからは本気の言葉をぶつけることを。
今なら、それができる気がする。
「けど俺、お前と対等に語れるほど知識ないからな?」
「何言ってるんだか」ジュリアはにっこりと笑った。「晶也と話すことに意味があるんだ」
そういうもんかなあ。「分かった、何から話そうか」
「そりゃああんたの好きなアーティストを教えてもらうところからだな」
「ああ。だったらまず一人目、ジュリアっていうすげえ奴がいるんだけど――」
「言うね」
揃って苦笑した。先に噴き出したのは晶也だった。頬が、仄かに温かい。
☆☆ ☆☆
時間を忘れて語り合った果てに。
「ねえ、晶也」
ふ、とジュリアが視線を逸らしたのはどれくらい経ってからだろうか。
「――今から、歌ってもいいか?」
その先にあるは寄り添う二つのギターケースだった。
ちょっとだけ驚いた。別に、彼女らしからぬ台詞というわけではないものの、思わず晶也はその横顔を見つめてしまう。
「珍しいね」訊くと、ひと呼吸の空白があって、
「なんか、あんたを見てたら歌いたくなった。……ダメか?」
大袈裟に肩を竦めてジュリアは言った。
「まさか」
「よかった」
ケースを開けて調弦に取り掛かるジュリア。
「ああ……こーゆー時にアコギが欲しくなるよ。あんた持ってたりしない?」
「まさか。部活で使ってたのはエレキだし、ミニギターも
「あはは、知ってる」
瑞々しい光を纏ったレス・ポールの黄色い輝きを、晶也は黙って眺める。
「リクエストあるなら」
「なんでもいいの?」
問い返すと、
「もちろん……って言っても、そんなにレパートリーないけど」
気さくに笑ってアルペジオを奏でる。
「ファン一号のための特別ライブだ」
「ああ、あったな。そんなの」
晶也もはにかみ返す。
俺が今聴きたい曲って何だろう……って、考えるまでもないか。
隠していた過去と、黙っていた理由。胸に詰まっていた重苦しさを吐き出した後は、彼女の代名詞ともいうべき前向きな歌を――――。
心臓が、とくんと静かな音を立てる。
ジュリアは声を出さず、瞳だけで微笑んだ。
そこからの記憶はかなり曖昧だ。
長いこと言葉を忘れ、音に身体を沈ませていた。
自分の息遣いさえ、聞こえないほどに。
『流星群』
何度も、何度も聴いた曲だ。一発で耳に残る特徴的で降り注ぐようなメロディラインに、日常の中ですっかり馴染んだ鼻にかかった甘酸っぱい声。断りが入ることこそ珍しかったが、週に幾度なく壁を挟んで聞こえてくるギターサウンド。
それに、六畳の洋室は途轍もなく小さなステージだ。降り注ぐ照明もなければ包み込まれるような音響もない。もちろん、歓声も。――――だけど、何だろう。この感じ。
彼女の周りにきらきらと、光が……これは、歌が舞っている。
何がそう思わせたのかはよく分からない。しかし、それはとても綺麗で玲瓏と――。
そんなまばゆさ溢れる幻視の正体を、上手く説明できる術はない。奇跡。魔法が込められている。それでもいいさ。
――知っている。
あの日あの夜、晶也の心を揺さぶり、掌握したときと同じ声だ。いや、掌握ってレベルじゃない。僅かに泳がせたはずの意識を根こそぎ持っていった……晶也の運命を、人生を変えた歌声。
誰にも曲げられない一途さがあって、音楽の奥深さを惜しみなく教えてくれる。そんな声。
突き刺すように鋭く心の中に侵入してくるくせに、その奥底に穏やかで、優しくて、誠実で、包容力を感じさせる温もりがあって……ああ、何より楽しそうだ。こっちまで嬉しくなるくらい。彼女の心が音色に融けていることを、深く、深く、感じる。
何だろうね、この温かさ。胸の奥が痺れるような熱をもつ。
ふと彼女が見せる柔らかな視線とよく似たものが、晶也の身体を駆け巡っていた。
晶也はずっと前を向いていた。ジュリアから目を逸らさなかった。
半分空っぽになった頭で、言葉の泉をまさぐる。
その間ずっと考えていた。どうして今のジュリアは眩しいのだろう。
脳裡に真っ先に蘇ったのは千波の声だった。エンターテイナー。昼下がりの彼の言葉だ。
エンターテイナー。その定義は様々だろう。質を測るための基準もまちまちで、正解もないと思う。彼だって別に、注意深く考えて口にしたわけではなかったと思う。昨日あたり偶然テレビで耳にしただけだったのかもしれない。
ただ晶也は、あの時、人々の心に感動を与えることをエンターテインメントだと思った。だから、それができる存在がエンターテイナーだ。感動とはなにも喜びや楽しさだけではない。喜怒哀楽愛憎。時には悲しませることも、怒らせることだって、あってもいい。
まことにぴったりな言葉だ。ジュリアはそれができる人だ。純然たるエンターテイナーであるということ。今この場で改めて、はっきりと認めることができた。信じることができた。
すると、か細い糸が結びつくような感覚がある。
ある仮説が頭の中で形を成した。
そりゃあ、歌うためにも様々な条件が求められる。そいつなりの努力から始まるスキルやセンス、後ろ盾となる環境や資金の援助、もちろんそれを披露するための舞台も。そこに苦労や挫折が伴わないなんて保証はない。
彼女が上京してきた日、だから俺は考えた。『好き』だけで、一体どこまでやっていけるのか――と。
――だけど……もしかしたら、やっぱりそれが一番大切なことだったのかもしれないな……。
そんなまどろっこしさ以前の、極めて初歩的なこと。飾りっ気のない想い。天衣無縫。祖父の言葉通りだ。
自然に生まれた単純かつ強力な衝動に支えられているから、今のジュリアの歌声はこんなにも耀かしく、魅力的なんじゃないか。
そこから展開しよう。
だからこそ、すなわち、その反対も存在するというわけだ。
心理としての、歌いたくない。違和感の正体に迫るものはそこにあるのではないだろうか。晶也は考える。
が、しかし、胸の奥がざらりとした。そう考えると疑問が残る。自分で挙げておきながら、その仮説には一部納得がいかなかった。なぜなら――。
――こんな顔して歌えるやつだもんな。
言葉だけでなく態度で歌が好きだと示すことのできる少女だ。今目の前で歌っているジュリアはとっても幸せそうで。
こんなにも歌を愛している彼女にとって、果たしてそんな時が存在するのだろうか……。
これまで一度も歌うことを強制されたとして、嫌々マイクを握ることはなかったはずだ。前のめりになるくらい望んで臨んで立つ舞台。ステージの広さがやる気に直結することはあれど、ギャラリーの規模で手を抜いたりするなんてことも考えられない。外部からの干渉ではないんだろうな。
そうだ。たぶん、「歌う」という行為そのものに貴賤は付けていない。
もっとも、あれが晶也の勘違いでなかったことも事実だ。美希とも共有したし、何より記憶には焼き付いている。無理をしているようで、苦しそうで。そんな彼女を晶也は歪に感じた。
だから、そこから導き出されるのは、あれは彼女が負っているもっと深い部分を示唆しているものだと思う。
歌いたくない、というよりも、思うように歌えない――。
一貫して「歌う」ことへの拘りは保たれている。
――難しいんだろうな、ジュリアの場合は。
考えをさらに深める。昼間に触れたことの延長だ。
キーワードは『アーティスト』と『アイドル』。乖離という言葉がすっと浮かび上がって消えた。
実際のところ、肩書としてのそれらの間には境界が存在する。彼女の立場になって置き換えれば「過去」と「現在」だ。そして「未来」に職業音楽家としての道を志している。これほど明らかなことはない。だからどうしても、別物として意識してしまう。
しかし、この境界は語れるほどに明瞭ではないはずだ。
これが千波に気づかせてもらったことだった。エンターテインメント。いや、思い出させてもらったと言うべきなのかもしれない。彼の言葉で驚嘆が胸に蘇ったのだ。……晶也も、一度はこれに触れていた。ジュリア自身の口から。それは、彼女がアイドルになると決意した日。
――アイドルも、
どうして忘れていたのだろう。それを聞いた時の衝撃を。
ジュリアも分かっていたはずなんだ。だけど、今それが出来ないのは……きっと、余裕がないから。
美希がジュリアを「アイドルじゃない」と評したのは、「見ている人を笑顔にするために」という表現者たる根本が抜け落ちているからなのだと思う。
でもきっと、ジュリアはそれを、『アイドル』である自分そのものへの否定と受け取ったんだろうな。そしてその言葉は、奇しくも朧げな境界で揺れていた彼女を追い詰めた。
半年共に過ごしていて感じる。彼女のアイドルへのアプローチは非常にポジティブなものだ。慣れないと言いながらも、それらしく在ろうと試行錯誤している。そのバイタリティには目を見張るものがある。
夏を経てからは「アイドルがかなり板についてきた」と嬉しそうに語ってくれることもあった。きっと彼女の頭の中には『理想』の像が出来上がっていて、それがしるべとなっているのだろう。現状とのギャップが原動力となる。それ自体は良いことだと思う。
――理想、か。
ただ、そこにあるのが……『理想の自分』の像だったらの話だな。
率直なところ彼女の口から飛び出す『アイドルらしさ』という響きには、時折ひやりとさせられることがあった。
引っ越しの日、彼女から突き付けられた言葉が唐突に脳裏に浮かび上がる。
――夢ってさ、所詮は夢なんだよ。眠っているときに見るもの。……目を開けたら、そこにあるのは現実だ。
あの時は深く考えなかった。バンドの解散は、もう終わったことなんだって。
これが分からない。ここでいう夢とはなんだ。
眠る時に見るもの。対になる言葉が現実ならば、それは理想の外見をした幻想といったところか。それを追い続け、その果てに、
でも、だったら矛盾している。
『夢を語ろう、夢を実現するために』
その先にあるものが現実だと認めているのなら、この言葉は何だ。
――いや、違う。
ジュリアはまだ、夢を追いたいんじゃないか――?
頭では理解していても、一年間ずっと諦めきれなかったんだ。
そんな時に、自分を見つけてくれる人がいた。道を示してくれる人がいた。だから、もう一度信じてみようと思った。だけど、心のどこかでまたその夢が醒めてしまうのではないかと、気弱になっている。一本筋の通った生き方なのに生まれた矛盾の正体は――これかもしれない。
『理想の自分』『こうなりたい自分』
善か悪かで判断できることでもない。というか、善悪の軸なんてない。本物も偽物も、唯一の正解もないし、寧ろ全部正しいと言った方が近い。
何者なんだよ――って俺は馬鹿か。千波の言葉が脳を揺らす。アーティストだろうと、アイドルだろうと、変わらねえ。
そして何より。
ジュリアはジュリアだ。
相反する立場? 片方しか選べない? 両立は難しい? 本当に馬鹿だ、俺。共奏は可能に決まってる。
ジュリアも、さっき言ってたじゃないか。
晶也と話せることに意味があるんだ……って。
俺だってそうだよ。お前がアイドルだろうがアーティストだろうが、同居人だろうがどんな身分だって関係ない。今ここで歌ってくれている人が、ジュリアであること。それ自体の意味があるんだ。
色んなものに囚われなくていい。いや、囚われていたっていい。
ジュリアはここにいる。
自分の価値は他人に委ねることはできない。
きっと、理屈としてなら彼女も分かってる。
誰かに言うことはできる。人には言えるくせに、自分のことになると分からない。
そんな彼女を不器用だと嗤えるだろうか。
――無理だ。たぶん、それって滅茶苦茶難しい。俺だってそうだ。
頭では分かってるんだ。自分は自分で、他の誰にも代わりは効かないってこと。
だけど「お前は誰だ」って訊かれたときに、「俺は俺だ」って答えられる自信がない。これが自分だって、伝えられる気がしない。
そこで、誰か自分以外の人が必要なんだと思う。
今まさに、晶也自身を必要だって認めてくれたみたいに、存在を尊重してくれる誰かが。別に、正しいと評価してくれなくても構わない。ただ、少しだけでも意識を預けてくれさえすれば。
人は誰しも一人では生きられないのだから。
……ごく最近、他所のアイドル事務所のテレビコマーシャルを観た。新曲の宣伝だ。その歌詞が、ずっと頭の片隅にこびりついていた。
鏡を覗いても
だけど君が走る背中は、
滅茶苦茶いい詞だと思う。だから、これらの言葉も借りて――。
周りの人がいるからこそ、自分が形成される。お互いに助け合うことを学び、成長する。
それぞれの世界を尊重したり尊敬しながら接点を見つけていく。きっと、それが一番シンプルで、人間らしくて。
別の言い方をすると――――あっ。
『みんなの先にもちゃんとひとりを見てる』
美希の台詞が頭の奥で響いた。昨日は謎めいて聞こえ、彼女のミステリアスな雰囲気に拍車をかけただけの言葉も、今の晶也には痛いほどよく分かった。確信となって降ってくる。
見ているからこそ、見られていることも分かる、か。晶也は心の中で笑った。
――なんだよ。
やっぱり、
様々な記憶と言葉が、一つに結びつく。
だから、それはつまり――――。
――――――と。
色々考えていたのに、消えてしまった。短い夢を幾つも見たような気分だ。
きっと、頭が歌声に集中しろって言ったんだろうな。
……だから、今はいいか。
「ファン一号のため」なんて恥ずかしがって言っていたけど、
凪いだ海のように青い瞳で歌うジュリア。
目を逸らさなかったのではなく、逸らせなかった。
いつからだっただろう。
彼女の顔がぼんやりと曇って、うまく見えなくなったのは。
前触れもなく砕けた視界の正体に……自分が泣いていることに、気がついたのは。
彼女の聞いた通り、昔はよく泣く子どもだった。
そんな昔よりも、ずっと最近の話。
祖父の容体が悪化した日、亡くなる直前になるまで、祖父が数年前から病に蝕まれていることを晶也は知らなかった。別に珍しい病ではなかったけれど祖父はずっとそれを隠し続けていた。晶也にだけ。母も祖母も、伯父も知っていた。血の気が引くとはこのことかと思った。自分が気がつかなかったことを恥じ、悔いた。
しかし、理由は分かっている。余計な心配をさせたくない。晶也が音楽に触れる時間を奪いたくなかったからだ。思えば、晶也がジュリアにしたこともその本質は変わらない。
とはいえ、祖父の場合は当然、それができるだけ気丈な人だったというわけだ。
だから晶也は、泣かなかった。
息を引き取った時だって泣かなかった。いや、泣けなかった。喪服に身を包んで、斎場へ行って、とうとう実感が湧いてくる瞬間が訪れても、胸が痛み、鼻の奥がつんとして、立ち竦んで動けなくても、涙だけは……。
――っつーのに、なんで今なんだ。
いくら身体に鞭打っても、止まることを知らない。止め方が分からない。おかしいだろ、これ。意味わかんない。
唇を噛みしめ、両手を身体の横で強く握りしめたまま、滑稽なくらい泣けた。
歌声の残滓をなぞるように、目を閉じる。
瞼の裏に、祖父の姿が蘇った。
こちらに向かって優しく微笑んでいる、そんなまぼろし。
この涙は過去を乗り越えた証なのかもしれない。そんな思いが心をよぎると、また新たな涙が溢れてきた。
章を踏むごとに文量が多くなってしまうこと、お詫び申し上げます。
オリ主についてここまで掘るのは、アイマスの二次創作としていかがなものかと少しだけ不安です。ご意見をお聞かせくださると幸いです。
まだしばらく事情が立て込み、更新できない日が続くと思いますが
次回からはようやく章が変わりまして、ジュリア視点の物語をお届けできると思います。どうぞよろしくお願いいたします。
作中にて触れさせていただきました、283プロダクション・シャイニーカラーズの『シャイノグラフィ』。純粋にメロディとしてもかなり好みなのですが、言っていることはシンプルなはずなのに、とっても響く歌詞が大好きです。
スプパ、2nd、アニサマ等々残念ですがいつか現地ができる日を楽しみにしています。
そして、何より『ミリオンライブ』アニメ化、おめでとうございます。
ミリシタ三周年も経まして、これからますますコンテンツが広く知れ渡っていくと一プロデューサーとして幸せです。
これからもロックにいきましょう。
7/18 撫音