『あたしがジュリアでいるうちは』   作:撫音

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 本当は随分前に色々片付いていたのですが、あまりにも遅筆でごめんなさい。
 もし一人でも待っていてくださった方がいらっしゃいましたら光栄です。

 また、誤字脱字等のご指摘ありがとうございます。早いうちに修正させていただきます。



第十二話 こどもみたいに(1)

 

 

 志吹晶也は、自分と同じく音楽の世界に居た。

 かつての彼の拠り所でもあった音楽。彼は疑っていたようだが、その傷痕を知りながら気付いていないふりができるほどジュリアは器用ではなかった。

 おじいちゃんがあれほど気にかけ、あたしに頼むほどだ。何かあるとは睨んでいたけど――。

「まさか、楽器だったとはね……」

 こんなに大事なことを秘密にしていたなんて、二人して人が悪いぜ……。

 というのも、晶也が楽器を奏いている可能性を心に期待したことは一度や二度に留まらないからだ。電車に揺られながら、湯船に浸かりながら、ヘッドホンを被りながら。そのたびに都合の良すぎる想像だと苦笑し続けたジュリア。当然その期待は日を重ねるごとに萎んでゆき、最近は思い浮かべることも少なくなっていた。

 だから、少し複雑な心境なのだ。

 しかしながらその判断こそが奏功したと言わざるを得ないのだろう。

 

 自分の頭を整理するつもりで晶也の方に向かって寝返りをうった。

 彼は言っていた。変化を恐れたと。

 それは彼にとって、今の関係を尊んでいるからこそ伝えられないことだったという。その均衡が簡単に崩れてしまう確証はない。崩れたところで支障のないものかもしれない。でも、不安だから。その心理はジュリアも十分理解できる。

 寧ろ相手を欺き、お互いにとって大切な何かを秘密にしている。それはまるで――。

「――あたしも同じだな」

 ふと頭を掠めただけの考えがそのまま口を衝いて出た。表情に自責が滲んだが、照明の落ちた室内で彼にバレることはなく「どうかした?」と眠たげな声が返ってくるだけだった。小さく欠伸をしてみせるジュリア。カーテンの隙間から射す月明りを頼りに彼の顔を見つめた。

 

 ――おじいちゃんは、晶也が楽器を辞めてしまっても良かったんだろうな。

 

 仮にギターを辞めても、それに代わる何かを……生涯をかけて向き合いたいと願える何かを見つけることができれば、それでいい。彼の祖父はそう願っていたのではないだろうか。一晩かけて導いた結論だった。

 すると、奇しくも同居を持ち掛けた際に自分が口にした言葉はあながち外れていなかったのだろう。……彼は憶えているだろうか。

『あんたが何かを見つけられるまで、あたしが側に居てあげる』

 当時、楽器のことなど知る由もなかったのにあたしの心はそう告げた。根拠など何一つなかった。どうしてこんなことを……。自分でも驚いたほどだ。

 でも、今ならはっきりと分かる。

 ジュリアは晶也の顔が好きだった。別に何も、異性としての好みの話ではない。 

 だからこそ、そこに翳りを生じさせている何かをもどかしく感じてしまったのだ。とてもシンプルな願い。

 

 ふ、と笑みが漏れた。

『お前がああやって歌や音楽の話をするときの表情(かお)が好きだったんだよ』

 彼が先ほどこう言ってくれたとき、ジュリアはひどく嬉しかったのだ。これまで音楽を、ロックをどれだけ熱っぽく語っても、ずっとひたむきだった瞳は本物だったように見えたからだ。いくら彼が心の防備に長けていたとしても。

 なんか……似てるんだよなぁ。

 彼の額に触れ、頬に触れ、涙の跡に触れる。「泣き虫だな、あんたは」

「……知らないくせに」

 晶也もふわりと笑う。なんて無防備な表情をするのだろう。

「でも、自分でもまた随分と表情豊かになってきたなって思うよ」

「ふふん、また泣くか?」

「もう十分。ジュリアのおかげだ。……ありがとな、ジュリア」

 正直すぎる物言いを前に、すぐには言葉が見つからなかった。あたしという人間は、どうしてこうも不器用にできているのだろう。「あ、うん」それでも淡い成就感のようなものが胸を満たす。良かった、本当に。

 

 ――ジュリアなら大丈夫だよ。

 呟くなり、晶也はあたしに短いキスをした。

 静かな声が、何のことを言っているのか分からなかった。だが、問い返しても、彼の唇は微笑んだ形のまま答えなかった。

 

 

 晶也を抱きしめ、彼の匂いに包まれる。

 眠るまでの間、ジュリアは体温というものの偉大さを感じながら、彼がギターを弾いている姿を思い浮かべていた。昔の晶也はどんな感じかな。椅子に座ってネックを撫でる彼と、それを凪いだ瞳で見守る影。それはたわいもない夢のようなものに過ぎず、もう二度と叶うこともないのだが、とても、とても、幸せな想像だった。

 

 時が完全に悲しみを癒すものではないことくらい、自分にも分かる。

 祖父と楽器。彼はどれほどその思いに支えられていたのだろう。聞いているだけで胸が締め付けられる思いがした。

 

 ――晶也が今でも、楽器を奏きたいと思っているのかは分からない。

 でも、と穏やかな気持ちでジュリアは考えた。心の奥底で、まだその気持ちが灯っているといいな。そして……。

 ごくささやかなことだけれど、あたしの歌で彼の心の(わだかま)りを溶かすことができたら幸せだな――――

 

 

 祈るほどに強く、心から思う。

 

 

        ☆☆ ☆☆

 

 

 それから五日が経つ。

 その五日を、ジュリアは比較的穏やかな思いで過ごしていた。なかなか布団から抜け出せない朝。顔を洗う水が冷たい。向かい合って食べるトースト。ささやかでありふれた日常は心の糧となっている。

 家を出る前には忘れ物をしていないか確かめ、ラックの上の遺影に手を合わせる。小さなフレームにはめ込まれた、優しい瞳に向けて。変わらない、習慣。

 習慣といえば、レッスン後のジュリアにもちょっとした決まりがあった。決まりといっても趣味、日課のようなものだ。館内の空気が弛緩した夕暮れ時、お決まりの楽屋でギターを携え、ひとり意識を音に沈めるひと時だ。

 

 今日、いつも通り楽屋の扉を開けたジュリアは、おや、と首を傾げていた。一人掛けソファにプロデューサーがいたからだ。

「お疲れ様。珍しいな」声を掛ける。

「お疲れ。そうでもないだろ」

「この時間、いつもあたししか使ってないぜ」

 一人になれる場所でも探していたのだろうか。中身が半分以上減っているコーヒーカップを一瞥してから、テーブルを挟んだ向かいに腰を下ろすジュリア。ギターケースのジッパーを引いた。「ここ、邪魔か?」

「ギターだろ? 全く。BGMとして楽しませてもらうさ」

「そう思うなら、そろそろアンプの持ち込みを許可してほしいところだよ」

「そのうちな」

 プロデューサーが暢気な口調で応える。この調子ではまだまだ先か。ジュリアも曖昧に笑うにとどめた。

 久しぶりにプロデューサーと二人きりになったと感じたが、そもそも常に綿密なスケジュールのもとで走り回っている彼が、こうして一息ついていること自体が珍しいのだ。何してるんだろ。うっすらと疑問が湧いたが、調弦を済ませて弾じ始めるとすっかり気にならなくなっていた。そうだ、この前いいと思ったフレーズがあったな――。

 

 

 ふとジュリアの集中が途切れたのは、プロデューサーがジュリアの分のインスタントコーヒーを淹れてくれたからではなく、

「――上の階、随分と騒がしいな」

 つい先ほどから天井から伝わる、足音のような、小気味いい振動のためだった。

「何かやってるんだっけ?」

 何気なく訊くと、彼は手にしていた資料をテーブルの上に載せて差し出し、「オーディションだよ」と言った。

 ジュリアはそれに目を向けた。『765プロ New Project』とあった。ああ、と声が洩れる。「……バックダンサーのやつ。どうりで」

「そう。例の全国ツアーだ」

 三人の一期生によるツアーライブ。それに伴うダンサーをミリオンスターズの中から選抜するというものだ。

「今日だったのか」

 用紙を返しながらジュリアは言った。

「知らなかったんだな」

「まあ、申し込んでないからね」

 数拍、目を伏せてから答える。どうしても思い出してしまうからだ。蘇る光景。その企画説明と並行して進められた一期生の曲のカバーと、自分を見据える美希の瞳の冷たさを。

 

 ジュリアはそれらを頭の中から追い出すように、気前よく言葉を繋いだ。「それで、あんたは見なくていのか?」

 彼は頷いた。「あの三人が良いと思ったメンバーなら俺も文句はないからな」

「そういや、三人が直接審査するって言ってたっけ」

「ああ。せっかくの機会だからあいつらに任せてみようと思うんだ」

「ふうん。……大丈夫かぁ?」

 共にステージに立つ先輩らが直に判断をするのは理に適っているように思えるけど……。しかし企画の根底にある一期生との繋がりを深めるにはもってこいの試みだ。ジュリアは短く息を吐くと、嫌味にならぬよう「さすが」とだけ感想を述べた。

 いずれにしても、プロデューサーが彼女らを信頼しているという一点については、疑う余地がなかったからである。

 

 

 さて。再び書類に目を落としたプロデューサーは、改めて思い出したというような顔でこんなことを言った。

「俺としてはジュリアにも参加してほしかったんだけどな」

「馬鹿言え」

 そんなわけでジュリアは無愛想にプロデューサーの顔を見返すことになる。まったくこの男はいつも妙なことを口走る。「あたしのダンスはからきしなの、知ってるだろーが」

「そう言うなって」

「言いたくもなるさ。散々見てきたくせに……」

 毒づいたものの、彼のことだから戯れ言の類ではないのだろう。「見てきたからこそ言ったんだけどな」となおも冗談のような台詞が続いたが、そこで一拍おくと表情をわずかに引き締めて、

()()()()()()()()()()()()だぞ?」

 彼はそう口にした。

 宥めるようでもあるし、諭すようでもあるその口調。ジュリアの胸に、ちくりと何かが刺さる感覚があった。アイドルなら。ダンスも。響きはワンテンポ遅れて、身体の底へと落ちてくる。このとき引っ掛かったのは――。

「アイドルなら…………ね」

 ()()()だ。

 口の中で呟きながら、ジュリアは窓の外へと視線を移す。反射する寒々としたオレンジ色の光。窓いっぱいに広がる海はちかちかと色を変える。目を細めた。

 言われていることの意味は理解できる。……というか、その指摘は全く正しい。

 分かっているはずなのに、どこか納得できないような気持ちがあるのはどうしてだろう。

 

 その言葉に引っ掛かったことがジュリアの顔には出ていたのだろう。意図してなのか、言葉を選んでいたのかは分からないが、たっぷりと十秒近い沈黙があり、

「――まだ、アイドルには抵抗があるか?」

 抵抗……。そっと向き直ると、眼鏡の奥の黒い瞳がじっとこちらを見つめていた。そこに潜んだ反応を窺うような色。頬が自然と引き締まる。彼にはそう見えているのだろうか。……いや、それよりも。

 ジュリアにはこう聞こえた。アイドルになったことを後悔してはいないか、と。

 難題だ。そう思った。

 だからというわけではないが、はじめ、ジュリアはほんの少しだけ質問の意味を取り違えた返事をしている。抵抗といえばフリフリと可愛らしいステージ衣装だろう。バンド時代に好んで集めていた服装とはまるで正反対。スカートなんてここ数年、制服以外で履いたことがなかったのだから。

 あんたから見ても分かるんじゃないか? ほら、前みたいにあれこれ言わなくなっただろ。愛想のいい挨拶もできるようになったんだ。そんな風に思いのほかスラスラと言葉は出た。全くの嘘ではないから当然ではあるのだが、言ったそばから情けない気持ちが込み上げる。それはただの「慣れ」だろう。

「……別にさ、やるからには手を抜いたりしないから心配すんな。あっ。……だからってそういう系統の仕事ばっかり貰ってくるなよ?」

 笑って、あとは誤魔化した。

 

 いささか強引だったかな……。プロデューサーは本筋を引き離されたことに気が付いている様子だったが、少し考えるように目を伏せるだけだった。

「そうだな……。約束はできないが、善処はしよう」

「つまらないこと言うなよ。そこは約束してくれないと」

 だが、そういうわけにもいかない、と彼は困ったように首を振る。

「俺は先方に持ち掛けられたプロジェクトにジュリアが向いていると思えば、遠慮なく宛がうつもりだぞ?」

 それは聞きようによっては意地悪な発言とも取れなくはないものだったが、続く言葉は固く、彼はふと真顔になっていた。

「所属アイドルの才能や可能性を……いや、未来を潰してしまうのは俺が一番恐れていることだからな」

 未来を――――。

 その刹那、ジュリアは思わずギターのネックを握りしめていた。得体の知れない不安に圧倒されそうになったからだ。なぜ。再び頭を過った「後悔」の二文字。何か、蘇ってくるビジョンがあった。ライブハウス。レンタルスタジオ。警固公園。指の間に汗ばみを感じる。……本当に良くない。だってそれは――――。

 

 

「もちろん」と彼の声が、先ほどの固さが嘘だったのではないかと感じるほど明るい調子のものでなければ、ジュリアはいつまでも牢として感傷にとり憑かれていただろう。

「過度な要求は断るようにしているけどな」

「え、ああ」

「たとえば露出の多いグラビアだったり、アイドルたちに危険が及ぶおそれのあるようなオファーはな。うちの事務所としても、突拍子もない提案はしても無茶をさせるのは本位じゃないんだ」

 そう言われてふと思う。「……サバイバル生活は危険じゃなかったのか?」

「ジュリアの料理の味に比べればな」

「ん……。どういうイミだよ、それ」

 返事がある前にプロデューサーのスマートフォンが着信を告げたので会話はそこで途切れてしまう。「お疲れ様。何かあったのか?」どうやら仕事の電話ではないらしい。むっ、と張り付けた不機嫌は行き場をなくしていた。

 

 ジュリアはもう一度窓の外に目をやった。晩冬の夕暮れは早い。先ほどよりもずっと紺色が強くなっていて、ガラスの向こうには街燈の火が灯る。目を凝らそうとする前に映る自分の顔が見えた。その瞳が、哀し気に曇っているような気がするのは、きっと、彼が放った「向いている」という言葉のせいなのだろう。

 ――向いてると思うよ。

 物憂くジュリアのすぐ耳元では、上京して間もない頃の晶也の声が蘇っていた。懐かしいなと感じる。目を閉じると、瞼の裏には彼の穏やかな表情も浮かんでいた。

 向いてるねえ……。あまりにしっくりこない台詞だ。当初、ジュリアはかなり懐疑的だった。いや、今もなのだろう。自分にあるのは未だアイドルらしさとは程遠いという自覚。ひっそりと息を吐く。一体全体あいつはあたしの何を見て、そう言ってくれたんだろうな。

 今度訊いてみようか。いや……。

 やめとこう。

 小さく口を衝いた自分の声が、どこか遠く聞こえる――。

 

 

 なあ、ジュリア。

 電話は短かった。呼ばれて振り向いたが、プロデューサーは考え深そうに俯いている。表情には気遣わしげな気配があった。

 言い淀むような息継ぎ。実はそのことだけをずっと考えていた、というような。

 長い静寂の末、彼は切り出した。

「――やっぱり。この前美希に言われたこと、気にしてるよな」

 今度こそ誤魔化すことを許さない口調を聞いたとき、直感的にここからが本題なのだと悟った。

 ああ、そうか。あたしの習慣は知っている様子だった。だから時間を割いてこの楽屋に――。色のない笑みが漏れる。

「さっき茶化したのは、あたしの口を滑らかにするためってか?」

「それもあるが、俺も、少し気まずくてな」とプロデューサーは答えた。こちらも声には一定のトーンが保たれている。慎重に言葉を選んでいるのが分かった。

 ほんの一瞬、二人は無言で探り合うように互いを見合ったが、ジュリア自らそれを打ち破るように笑いかける。不思議と彼に嘘をつきたくないという気持ちが勝っていた。「随分と頼りない、だけど優しいことを言うんだな」

 悄然と肩をすぼめると、息をひとつ。愚かな見栄を張る必要もないからこそ。

「……正直言えば、な」

 あの日付けられた爪痕は未だに深く、まるでできたばかりの傷のように疼く。日々の忙しさに紛れることはあるが、胸の裡で上手く処理できているかと訊かれるとそうでもない。こう思い出していても背中にじっとり冷たい汗を感じるほどに……。無様に震えた喉元を思い出すと唇が歪んだ。でも――。

「でも……ホントはさ。ちょっとその通りだな、って」

 一方的に決めつけるあの涼しげな物言いに覚えたのは屈辱だっただろうか。ささくれ立った気持ちのまま美希の言葉を反芻し長いこと潜考していたが、日に日に悔しさ内側にある自覚は膨らみ、やがて一つの疑いに辿り着いている。

 

「…………なんつーか、あたしにとってアイドルって何なんだろうなと思ってね」

 

 戸惑い。それははっきりとした不安だった。

 

 音楽が好き。歌うことが好き。ちっとも衰えることのない情熱と、ステージへの強い憧れがあった。ロックンロールによって音楽に目覚めた魂だ。根ざした思いは深く、プロデューサーの誘いに応じて地元を飛び出す決意が固まるのに時間はかからなかった。

 その日のことはよく覚えている。空の色が違う、と思ったことも。

『もしよかったら、うちのアイドルたちの練習風景でも見て行かないか?』

 すべてはこの言葉から始まった気がする。手ぶらで帰るのも悔しいと足を運んだスタジオで、がっかりしたは一瞬で霧散した。

 表現に迫るアイドルの姿は、燦然として見えた。自分の求める音楽に通じる深い思想性をはらんだそれに激しい感動を、胸の高鳴りを覚えた。不思議な兆しの訪れを感じた。

 それを選ぶことに一点の曇りもなかったと思う。やると決まれば話は早かった。

 眩しい照明の下で歌うことができる。大勢の観客が自分の歌を聴いてくれる。この上ない幸せがそこにはあった。時間に追われていることもなく、自分のしたいことを貫くことができる、現実が。

 バンド時代はもちろん、解散後、ひとりで歌っていた時も歓びがあった。だが、あの頃とは格段に違う何かが自分を駆り立てていた。『流星群』に込めたもの。何か、濃厚なときめきがそこにはあって、ドキドキする――。そう、光だ。目に映る何もかもが淡い光を帯びていく感覚。導かれるままに降り立った新しい街で――――。

 熱に浮かされたように追い求めることができたのは、初めのうちだけだったのではないだろうか。

 がむしゃらに、わき目もふらずに走り続けてきた。

 そこに虚勢のようなものが含まれていなかったと、言い切れるだろうか。熱中することで蓋をしてやいなかったか。

 

 テーブルの上のコーヒーカップを意味もなく見つめた。波ひとつ立たぬ表面に、天井灯の光が鈍く映っている。

 ――余計なことを考えたくなかった。

 心に隙間を作りたくなかった。

 普通を捨ててしまったあたしが、もう戻ることのできない過去を――。

 もし、アイドルにならずにあのままロックバンドの道を進んでいたら……なんて、ちょぴり考えてしまう夜はもう懲り懲りだ。

 無数に散らばる「もし」の先に、呆然と気づかされる。それは考えたって仕方のないことなのだと。なぜなら過去は過去だ。遡ることのできない。すべては「たられば」の話。そんなもの――前世の記憶のように遠くていい。

 

 過去は、あらゆる意味で重かった。

 

 この正体は、いわゆる「未練」なのだろうか。自分で望み、選び抜いたものなのに?

 また小さな違和感がジュリアの胸に広がる。後悔、だなんてあたしが勝手に言葉を変えただけだ……。

『本当は、分かっているんでしょ?』

 ふいに、誰かが頭の中に話しかけてきたような気がしてドキッとした。なんでそんな言葉が浮かぶんだろうか。

 ――何も分かってないよ、とジュリアは胸の裡で繰り返す。繰り返したはずなのに、心の声は全く反対の言葉を放っていた。

 本当はちょっと分かってる。奇妙にざわつくこの心の正体に。

 さして思案してみたことがなかった? 見ぬふりをしてきただけだ。

 ……いい加減認めねばならない。

 

 ()()()()()()()()()――――()()()()()()()()()()()()ということを。

 

 ――そこなんだよなあ……。

 気が付けば、吐息を漏らすような声で呟いていた。そこなんだ。やりたいことと、やるべきことの溝。

 アイドルの仕事は、はっきりと楽しい。芸能界の中でも活動の幅が広い職業だ。晶也にもたくさん話したと思う。握手会でのこと、雑誌取材でのこと、ラジオ番組でのこと。新鮮な刺激が多く、それぞれに意義深く貴重な思い出がある。人間関係にも満足しているし、シアターは居心地の悪い空間でもない。万事が順風満帆だったとは思わないが、もとよりそれを不幸だと感じたことはなかった。

 けれども――。

 のめり込んでいく感覚が、ない。

 そうした色とりどりの活動の中で、身体の芯から突き上げるような高揚感を覚えるのは唯一……ギターを構えステージの上で光を浴びる、あの時間だけだった。舞台の光が濃くなるように、あたしの気持ちも昂ってゆく。

 第一線であたしを支えてくれているはずの想いこそが、逆に枷になっているように思えるのだった。濃いからこそ、深く。光を増すほどに、翳るようで。

 

 それは素朴な疑問へと結びつく。

 ――このままアイドルを続けてもいいのかな。

 暗闇に灯った一筋の光。今ではその輝きさえ輪郭を失いかけているような思いがする。それとも、はなから幻だったのだろうか。……まさかね。染みのようなその疑いをそれ以上広げないようにジュリアは頭を強く振っていた。

 ましてや辞めたいという積極的な理由などあるはずがないのだ。しかし、そんなはずがないと思うかたわらで、波紋のように広がる不安がある。

 アイドルでなければいけないという……唯一性のようなものを持ち合わせていないこと。

 

 ――そう。他のメンバーのような。

 

 此度のオーディションを一つ取り上げてみてもわかる。同期の会話は幾度となく耳に挟んでいたし、居残って練習に励む姿も見かけていた。同じ目的に燃え、理想を抱く。ライバルであり仲間でもある彼女たちの等しく共有された舞台への憧れが伺えて――あたしは……思想の違いを改めて思い知らされる。

 ダンスには本当に自信がない。身体は硬いし、ボキャブラリーを増やすのも一苦労。休み明けのストレッチでさえ悲鳴が上がってしまう自分にはバックダンサーなど務まらないだろう。

 選考の四人という極めて少ない合格枠をみても、エレナや歩をはじめとする踊りの専門家たちがいる中で奪い合ったところで、恐らく結果に変わりはなかったように思える。……そう、恐らく。限りなくゼロに近くても、ゼロパーセントではなかったはず。

 ――それなのに。

 挑戦すらしないのが……今のあたしだとはね。

 この期に及んで躊躇している。歌わない舞台というレッテルを張り、言い訳を並べて……。

 壁を作ってるのはあなたなの。美希の言葉が頭の中で反響した。そのときジュリアの何がが震えた。隔てる見えない壁。ぼんやりと自分を囲んでいた輪郭が、濃くなった感覚があった。ああ……そうか。もとから殊勝な志を抱いていたのではない。どんな言い方をしても同じだ。頬をはられたように気づく。

 

 あたしは、歌が、たまらなく好きなんだ。

 あたしは、ただ、()()()()()()だったんだ……。

 

 それは今までだって知っていたこと。けれども新しく悟った、冷たい事実だった。

 時が止まる。いや、とっくに止まっていたのかも。ずん……と、足元の床板が急に沈む感覚。だからあたしは……。

 ――あたしにとって、アイドルって?

 からっぽの視線を天井に逃せば、上ではまだオーディションが続いている様子だった。中にはきっとダンスが苦手なメンバーもいるだろう。でも、それを撥ね退けられるほどの強い憧れがある。不協和音。致命的なもの、焦がれている舞台が違う……。

「そりゃあアイドルじゃないって言われちゃうのも、当然だよな――――」

 吐き出す息と一緒に、自嘲的な笑みが漏れた。

 喉がぎゅっと締まるような気がした。すっかり温くなったコーヒーは苦く、いつもよりも口の中に張り付いた。

 こんな気分になるのは、あたしは何かを得たからこそなのだろうか。

 それとも、何かを失ってしまったからなのだろうか。

 

 

 ――と。

 このところ神経質になっている自分を感じて、

「さて……あたしはそろそろ帰るよ」

 気持ちの切り替えを図るように弾みをつけて椅子から立ちあがった。「また明日な、プロデューサー」

 が、しかし。

「ああ、ちょっと待て」

「な、なんだよ。まだ何かあるのか?」

 最後に一つだけ、と彼は優しく、そして静かな声でジュリアを呼び止めた。

「……もれなく、甘くはない世界だよな」

 主語はアイドルだろうか、それとも。どう返していいか分からずにジュリアが黙っていると、

「立場は違うけど、俺も、この職業に就く前には沢山悩んだよ。それこそ自分に向いている仕事なのかどうかも分からなかったからな。邪な気持ちがあるんじゃないかって友人にからかわれたこともあったさ」

「へえ、あんたの就活時代か」

「その話はまたいつかな」彼が苦笑する。「俺が伝えたいのは、やりたいという気持ちに、進もうとする意志に嘘をつかなくて正解だったと思ってるってことさ」

「ん……」

「進むことが必ず実を結ぶなんて、誰にも言い切ることはできない。だけど、諦めず、ほんの一ミリでも変わるかもしれないと思い込むことが大切なんじゃないかな」

「…………」

「はは、ちょっと詩人過ぎたな。……それに、わざわざ俺が言わなくてもジュリアなら解ってるか」

 解ってる? そう言われて、彼の言葉を片っ端から反芻した。進もうとする意志。諦めなければいつか……。「それって」ジュリアは言いかけ、しかし言葉が見当たらず、目の前のコーヒーカップに視線を落としていた。すると再び芯のある声がする。

「ああそうだ。それは、ジュリアがうちに来る前から持っていたものだ」

「プロデューサー……」ジュリアはカップを見つめたまま、言った。

「あたしは、それをとても大切な人に教わったんだ……」

 呟くように。「もう一度の勇気を、失わないことの尊さを」

 幾度となしに蘇らせることになるその記憶。ラジオや取材では何度か触れたことがあったが、こうして打ち明けるのは初めてのことだった。

「若い『め』か……」彼にとっても興味を惹かれる言葉だったのかもしれない。「ジュリアの、大切な思い出なんだな」

 プロデューサーは眼鏡の奥の瞳を細め、大袈裟に、しかし穏やかに微笑んだ。「ああ」ジュリアも笑った。

 

「好きなものを追いかけていたい。それはこの世で最もシンプルな、ごく自然な欲求だよ」

 おじいちゃんの言葉を疑う気はない。意味するところはよく分かる。進まなければ何も始まらないのだ。

 でも、もしも気づかぬうちに道を踏み間違えていたのだとしたら……。

「確かに、ジュリアの場合は本来に夢とは異なるからな。ジュリアの歌に対する姿勢を、ある意味で俺は利用した。それだけジュリアが輝けることを信じていたからなんだけどな」

 ジュリアの逡巡を見透かしたようにプロデューサーが言葉を継いだ。やはりそれについては考慮していたらしい。

「気にするなって。あんたには感謝してるよ。こういうあたしも悪くないって思えるんだ」

「そうか……。ああ、そしたらジュリアも一度、何も気にしないでみたらどうだ? 余計なことをひとまず忘れて楽しむこと。それもまたロックなんじゃないか? そういう価値意識もあるんだろ?」

「む……。とりあえず『ロック』だって言っとけばいいみたいに考えてるだろ」

 なんかうまく丸め込もうとしてないか。

「……どちらかというと、普段のジュリアの方がその気がないか?」

「んな……っ! 本当にそう感じるんだから仕方ないだろ!? いいか? ロックってのはハートだ。でも、こうして誰かに説明されたものより、自分で感じたものこそがロックだ。あたしにはあたしの信じるロックがある。うん、そうだな。あんたの言うことも一理あるよ。行動する姿勢ってのはミュージシャンの美しさだ。そうそう、ロックな生き様について語ってる暇があるなら、一刻も早く音を掻き鳴らせって話があってさ――」

 

 ふいに熱くなったジュリアを、プロデューサーは優しい瞳で見つめて、最後まで黙って聞き届け、 ただ一言「それでいいんだ」と笑った。

「はあ?」

「好きなものについて熱く語るジュリアが俺は好きだぞ」

 胸に、一陣の風が吹き込んだ。それと、ちょっと照れた。

「それでいいんだよ。自分の好きな気持ちを、信じるだけで」

 実際の出来事より、考えの方がずっと怖い。現実に直面しなければ分からないことに溢れている。だから思うんだ、とプロデューサーは言った。

「答えはステージの上にある……ってな」

 その瞳はいつになく若者らしい自信をたたえていた。

「一年前、あいつらも……一期生達も、それぞれ様々な壁にぶつかった。俺が未熟だったばかりに、心のどこかにモヤモヤを抱えたままライブに臨ませてしまったこともある」

 それなのに、ステージに立つ彼女たちの背中はいつも、頼もしかったんだという。

 不思議だよ。プロデューサーは呟いた。「あの場所から、なにが見えているんだろうなぁ」

 心底焦がれているような表情が、ジュリアには少し意外だった。

「おれには分からない。……いや、その人自身にしか分からない。だから俺は信じてるんだ。アイドルのステージにある無限の可能性を。俺が好きなアイドルと、アイドルのステージを」

 実に子供らしいのかもしれない。そんなふうにも思った。

「あの場所には、ジュリアだけの答えがあると思うよ」

「……全く」

「どうだ、次の定期公演会。まだ空きがある。――出演してみないか?」

 

 夜明け前の星のように、ジュリアの瞳は仄かに光る。

「やるよ。やらせてほしい」

 次の瞬間、自分の張りのある声を聞いた。

 

 御見それしたよ。相変わらず、話のもっていき方が巧いんだから。

 ちょっとため息をついて、ジュリアは言った。

「さっき向いてるかどうか、って言ったよな。あんたには天職だと思うぜ。あたしが保障する」

 

 





 本年も何卒宜しくお願い致します。
 緩慢ではありますが、ちゃんとお届けいたします。


 ここ数か月、ミリシタにしっかり取り組んでいるのですが、『餞の鳥』にて無事百傑入りを果たせました。幸せ。余談です。
 その時期に今回の章を執筆していたはずなのに投稿までに二か月も……。

 精進しますね。今年も張り切っていこう♪
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