陽が沈みかけている、駅前の広間のベンチ。仰ぐと、半笑いのような月がうっすらと滲んでいた。お尻がスキニー越しにみるみる冷えてゆく。小さく身震いしてから、ジュリアはまさか、と大きく息を吐きだした。
「行きたい場所……とは言ったけど、こんな何か所も回るとは思わなかったぜ」
シアターを出てから三時間が経過していた。脚をぶらぶらとさせる。お尻は冷たいが、しばらくは腰を上げる力がなかった。日々のレッスンで体力アップを実感していただけに、ちょっぴり悔しい。隣では、翼がしゅんとした声を出す。
「えっ、ダメでしたか?」
「いやいや。あたしも楽しかったからいいさ」
もちろん、はじめはどこかで切り上げるつもりでいた。瑞希の助言に従い翼と対話をした後は、一緒に『流星群』の仕上げに臨もうと。しかし翼とのデートは想像以上に良質な、意味のある時間になっていた。
「こっちに来てから、友達と遊ぶなんてこともほとんどなかったからなあ」
「ねえねえ、ジュリアーノの昔の話、聞きたいです」
「昔? 別に大したことはないぜ? でも……んー、そうだな」
ジュリアと翼はたくさんの言葉を交わした。翼は、ジュリアのことをより知ることができただろう。――あたしもそうだ。
「それにしても、翼は、本当にミキが好きなんだな」
「うんっ! 分かります?」
ジュリアの言葉に、翼は嬉しそうに笑った。
「分かるってそりゃあ」
ジュリアは苦笑いにも近い顔を作ってみせる。「あれだけミキの名前が出てくるんだから」
美希先輩は凄いんだよ、そう力説する翼が選んだ目的地はブティックだった。シアターから数駅離れた商業施設に位置する、ガーリーな店構え。なにやら今月発売した雑誌で表紙を飾った美希が履いていたスカートが、このブランドの商品だというのだ。
同じの買うのか? と、ジュリアは訊いた。翼の手にはそれと色違いのものがあった。彼女は二つ返事で頷いた。「これを履いたら美希先輩に一歩近づけるかな♪」とご機嫌な足取りで試着室へと消えると、ジュリアは一人取り残された気分になった。
このような可愛らしい店に入り慣れていないせいで、どうにも肩身が狭かった。きょろきょろと店内を眺めるものの一つも手に取らぬまま、隅で扱われている雑貨に気を取られる。色とりどりで、まるでおもちゃ箱みたいだという女子高生らしからぬ感想を抱いていると、翼からかなり攻めた丈のスカートを勧められて飛びあがった次第である。……くぅ。
その後も幅広い
でも、とジュリアは思う。楽器屋やレコードショップであればジュリアが一日中見ていられるように、翼にとってはこれらが「楽しい」ことなのだろう。そんなことすら知らなかったんだな、とジュリアは愉しげな翼の横顔を見つめていた。
ひときわ強い風が吹いた。カフェでテイクアウトしたミルクティーの温もりに感じる幸せ。先に飲み終えた翼は、はぁーっと息を吹きかけて手をすり合わせている。
そんな彼女にどうしても尋ねたいことがあった。あたしと同じように、美希から「ダメ」だと首を振られた彼女に。どんなことを言われたのかは聞かずともショックだったのは窺い知れていた。それほど……彼女のダンスは不出来なものだったのだろうか。
「あのさ……翼」
少し迷ってから、言葉を選らばないことにした。
「ミズキが誉めてたんだよ、翼のダンス。……自分ではどうだったんだ? あの日の」
「あの日の?」
「この前のオーディションのさ」
彼女の膝の上にある紙袋に目を落とす。明日には履いてくるだろうそのスカート。瑞希はああ言っていたが、美希が好きだから頑張ったというのも間違っていないだろう。翼の言葉の節々から美希への好意が伺えたからこそ、ジュリアは思う。
「結果として報われなかったのは知ってる」
「それなら、すっごく良かった! 今までで一番ってくらいに!」
質問に、翼は花が開くように笑った。ジュリアの予想と反する答えだ。
「でもオマエ、かなり落ち込んでただろ?」
と、驚いたような顔で切り返す。
「あたしと喧嘩した時だってダメって言葉に反応して……」
「そうですけどダンスは本当に良かったんだもん。身体も軽くって、やりたいこと全部できた感じ♪」
「……そっか」
その返事にジュリアが覚えたのは安堵。それも心豊かな音楽に触れた時のような、胸の奥が仄かに温かくなるものだった。
「だったら、それでいいと思うんだ。大事なのは
だからジュリアは、優しくそう微笑むことができる。「あたしなりの指針みたいなものかな」
それは、一見ざっくりとした割り切り方だが、そうとも限らないのではないだろうか。
諦めなけばいつか叶うといえども、報われるにも程度はあることをいつの間にか自分は知っていた。望みがそっくりそのまま叶わないこともある……と。だから物事において重要なのは自分が納得できたかどうかだと考えるようになった。自分がやりたいと主体的に決断し取り組んだことは、自ずと身体に馴染む。結果の是非善悪を問わず、経験は自分の糧になる。
「だから……翼にとっても、自分が納得のいくダンスが踊れたのなら、それは何よりも次に繋がる、進歩だと思う」
「……えーっと?」
青春を捧げると決めたバンドの解散を経たあたしだからこそできる、年配者からのアドバイス……と少し格好つけてみたのに、翼ときたら首を傾げているのだ。邪気のない瞳が、笑う。
「ジュリアーノってたまに意味分かんないこと言いますよねー」
えええ……。それはこっちの台詞だ。呆気に取られて、ジュリアはぎゅうっと顔を顰めた。
「あたし今イイこと言ったつもりなんだけど……?」
「だってわたし、美希先輩みたいなアイドルになりたいんだもん……」
だから駄目って言われたら悲しいよ。口に出して余計に落ち込んだらしく、翼は目を伏せた。
そこに、どうしてなのか、ジュリアは晶也の姿を重ねていた。思えば、そんな憂いを含んだ表情を何とかしたいという衝動に駆られたのかもしれない。だけど、この時はまだ理解していなかった。そんな想いが、自分の音楽への意識を高めていることに――――。
身体は、ギターを取り出していた。ソフトケースのジップが気持ちのいい音を立てる。今日一日連れ添った相棒のボディが西日を反射すると、翼が目を細めた。ピックケースから一枚取り出すと、手に馴染んだ曲を奏く。それは、
「……知らない曲」
流行りに敏感な翼の耳でも馴染みのない曲。不思議そうな表情と、声色に滲む好奇心。聴いたことがないのは当然さ。ジュリアは笑って言った。
「これは……あたしが初めて作った曲。いや……
デビューしてからもうじき半年だ。アイドルになれば忘れられるはずのそれを、ジュリアはまだこの手に残している。
「でもいい曲。私、好きだな」
「サンキュ。――なあ、翼」
この曲はどこかあたしと似ている。居ても立っても居られず取り組んだものの、道を見失っているさまが。
「この前、翼のことを中途半端だって言ったよな。その……悪かった。ゴメンな、あたしこそ」
ジュリアは、前を見たまま言った。フェンス越しのホームに電車が停まるたび、会社員やOLの波が駅から押し出されてくる。
「あたしこそ、中途半端だったよな」
微妙な沈黙の後でジュリアは呟くように、言う。
ブティックを出た後に食べたクレープを思い出す。翼が屋台を見つけたのだ。ジュリアも急に甘いものの口になった。歌った後はこういうものが食べたくなる。チョコとバナナの甘くもなく苦くもないクレープをジュリアが、生クリームたっぷりのいちごのクレープを翼が買った。並んで味わっていると、唐突に翼がこんなことを言ったのだ。
――ジュリアーノもたまにはスカート履けばいいのに。
――そーゆーのは似合うヤツが着ればいいの。仕事以外でフリフリするなんてごめんだぜ。
なんてことない雑談だ。ブティックに引き続き拒絶してしまったあたしに、翼は次の問いを投げかける。
「ジュリアーノって、
軽い調子で発せられたそれは、文字通りぽんと浮かび上がった疑問だったのだろう。スカートの話からの連想ゲーム。アイドルを可愛さと直結させた、いかにも翼らしい質問だったと思う。だけど――。
「……まさか、翼にもあれを訊かれるとはね」
翼はジュリアの顔も見ずに核心をついた。なにせ自分自身、何度も同じ問いをぶつけてきたのだ。が、この時もジュリアは答えに窮している。
――今は、よく分からない。
余裕のなさは自信のなさの表れ。自分の言葉の弱さを感じることとなる。
スカート履いてダンスってのもまだ全然苦手だしさぁ。その時ジュリアから我知らずとするため息が出たことに、翼が気づいたのか、はたまた見逃してくれたのかどうかは分からない。けれども、うらぶれた気分になっていた心の前に落とされた声は、とても無邪気なものだった。
「きっと何着てもステージに立てば
「…………」
人差し指を頬に当て、横に引っ張った翼。実のところジュリアはしみじみと驚いていた。
――翼のヤツ、あたしのそんなところ見てたのか。
はじめは自分を肯定されたような嬉しさがあった。それは生クリームの甘さと混ざり、とろける。そのあと気が付くのだ。その奥からぽつぽつと漏れ出る黒いものに。
「そうだな。……多分、オマエの言う通りなんだよ」
靄のような不安が胸の裡を覆うのを感じていた。
ジュリアは目を閉じた。それから深く、呼吸をする。
「――ミキみたいになりたいって言ったよな」
翼の願い。彼女にとっても残酷なことだ。何を着てもいつものジュリアーノ。それは、翼にも言い当てはまる。
「……アイドルだって、同じなんだろうな。たとえお揃いの服着たところで、そいつにはなれないって」
だから……だからこそ、オマエも苦しいんだよな……?
見ると――彼女はあっけらかんと笑っていた。そしてその表情を崩さずに、
「ジュリアーノってば、そんなの当たり前じゃないですか~」
何言ってるんですか、もう、と言わんばかりに、そんなことを言った。
――へ?
耳を疑った。
「ちょ、ちょっと待て。だっておまえ、ミキみたいになりたいって……」
「もちろん美希先輩はお手本ですけど、本人にはなれないですよぉ。だって……」
――
心臓を掴まれたように、ドキリとした。
翼のその台詞。ジュリアの苦悩を知っての言葉ではないはずだ。だがいつか、自分の人生を振り返ることがあればこの瞬間を転機と呼ぶだろう。それは身体の中心を透き通った水が流れ落ちたような、衝撃。
「別に私、美希先輩になりたいわけじゃないんです」
「じゃあ、なんで、真似を……」
「私の目指すトップアイドルが、美希先輩だから」
言い切る翼。にかっと笑って、「きっとそこにあるのは最高の人生だって思うんです」と、夢を語った。楽しそうで嬉しそうな声だった。そこに苦しさなんて、微塵も見当たらない。
「だから頑張ってダンスとか真似して、それでいつか私もトップアイドルになりたいなって」
震える声で、真似、と復唱した。
彼女が本当にバックダンサーを務めたかった理由は、美希を一番近くで見るため――?
なんて透明度の高い意志なんだろう……。彼女にとって「見る」ことは、この上ない勉強なのだ。瑞希の言葉が脳を揺らす。あの日翼が見ていたのは、
――ジュリアーノの歌好きだし!
――いつものジュリアーノだよ。
あたしのことも、見ていてくれた彼女の心構え。プライドに邪魔されることなく、良いものを無限大に吸収しようとするその姿勢。なんだっけ。なんだっけ?
翼はとん、と軽やかに立ちあがると、跳ねるように一歩、二歩。前に出た。
ジュリアの視線も上がる。マジックアワーだ。しかしジュリアの視線を奪ったのは、沈みゆく夕陽を見つめる彼女の――――瞳。それは過酷なことだって写しているはずなのに、素敵なことのほうがもっと鮮やかに写っているようだった。
待ち受けているだろう最高の人生、か。とりとめのない思いを巡らせていたジュリア。翼だってきっと分かっている。芸能界を、プロというものを。自分にとって都合の良いことばかりで構成されている道ではないということが。だけど――――。
「綺麗な
ジュリアの唇からは、言葉が漏れる。
その瞬間はっとした。自分と翼の周りだけ静止画のように、音も動きも消えた世界が広がってゆく。
――――あの瞳だ。
その輝きは、知っている。夢でジュリアが向かい合った少女が宿していたもの。
あの正体はこれだったのか。……なるほど、知っているわけだよ。口元にふっと笑みが浮かんだ。
これは、ただ未来に夢のみを見る――
童心。子供の心そのまま。一切の言い訳も、計算や打算のようなよこしまな気持ちも何も入っていない。ただそこに存在するのは好きなものに対する純粋無垢な想いだけ。時に眩しすぎるほどの光彩を放つその瞳を――
「……あたしにも、あんな時期があったな」
かつては、ジュリアも持っていた。だから、知っている。
わたしはわたしだもん。そんな世界の中で、ただ翼の言葉だけがループする。
すとんとジュリアの中に入り込んだそれは、どこかを照らした。ジュリアの中の、深く深くにある何かを。
呪文のように繰り返された――ジュリアはアイドルじゃない。
「あっ……」
一瞬、まばたきの仕方を忘れた。あたしは――――。
間違いに気づく。
そうか。そうか、そうか。馬鹿だ、あたし。あたしは……どうしてこんなに愚かだったのだろう。
アイドルらしくなる……? それは、本当に、あたしの目標だったのか?
翼が美希を追いかけ、真似をすること。人真似だけでトップに立てはしない世界であることは、彼女も承知の上だろう。だけど、目指すべき像があるのは悪いことではない。形から入ったことだって、心がこもればまことになる。進んだ道は、その人だけのものだ。自分自身の色を添えれば、自分色の花が咲く。
――そんな中、あたしがやっていたのは真似ることですらなかった。
ジュリアがやっていたのは、いわゆる
――今日の出来? まっ、悪くなかったよ。
翼を諭した自分が、いつしか吐いた言葉に鳥肌が立ちそうになる。アイドルになってから、自分は彼女のように「すごく良かった!」と笑顔で振り返ることができていただろうか。
無難に目指したものは、絶対に無難以上にはならないことは知っていたはずなのに。上手くいかないことに悩むのではなく、また他者よりも輝くことを追い求めるのではなく、どうすれば並みのアイドルになれるかを探していたジュリア。
そりゃあ、アイドルじゃないよな、あたし。
『未完成』だから出せない。
『不完全』だから見せたくない。
これらも中途半端な志しの成れの果てだ。態度に、現れてしまった。
晶也が言っていた。楽器は心を映し出す鏡だと。
アイドルであり、アーティストである。肩書に固執するあまり、ふたつのジュリア
――無理に一つに絞ろうとするからダメだったんだ。
翼の言う通りだ。わたしはわたし。どっちもあたしじゃないか。
きっと、この曲も同じなのだろう。技術もセンスも足りない。自分の思い描く音と現実に奏でる音には隔たりがある。それでもその音は、あたしにしか出せないように。あたしの曲はあたしにしか作れないように。
「あたしは――」
続く言葉がすっと浮かんだ。
あたしらしく在ればよかった。
それが、
そうだよな、星は空を
だから、思い出していた。思い出さずにはいられなかった。昔の自分が、口癖のように言っていた言葉を。
「…………何が
中学時代に教師にメイクを叱られた時だった。
中学生らしい格好をしろ。女の子らしい恰好をしろ。不良ではなかったが、学校側の指示を無抵抗に受け入れるタイプでもなかったジュリア。べーっと舌を出して、お決まりの台詞で逃走する。
たった、二年前のことなのに、どうして忘れていたのだろう。らしさなんてもの、毛嫌いして蹴っ飛ばしてたじゃないか。
覚悟して東京に来たつもりだった。日常を捨て、歌を、理想の表現だけを求めるつもりでいた。捨てきれないのは当然だ。捨てられないのだから。現在
そうだ。今ここに居るのはパンクロッカーのジュリアを経た、アイドルのジュリアだ。
――今までの全部をひっくるめて、あたしだ。
あたしが十七歳になるまで、今この瞬間まで積み上げてきたすべてが。
そのヒトツヒトツがあたしをつくっているから、あたしがいる。
――ジュリアーノは、なんでアイドルやってるの?
翼の言葉が頭の奥からこぼれ出た。
理想。目的。
何がしたい。有名になる、人を笑顔にする、モテモテになる。きっと、正解はない。
だけど、そうだ。あの日掲げたあたしの夢は。
――ロックを伝えること。
「……世界中に自分の歌を届けることだ」
あたしにしか出来ない、あたしの夢だ。