その夜、急遽開かれた『お泊り会』が、こんなにも価値のある時間になるとは思いもよらなかった。
「狭いけど、勘弁してな」
我が物顔でジュリアが振舞うこの部屋は元来、来客を意識して家具を揃えていない。共通の友人などいないがために、自分たち以外の誰かがここに足を踏み入れるなんて考えてみたこともなかった。いや、考えたことはあったかもしれないが、それは遠い未来のことだと思っていた。
膝下くらいの高さのローテーブルを囲んだ食卓。ソファの側に来客の彼女たちを座らせて、ジュリアと並んでテレビの前に腰を下ろす。あちらがいわゆる女の子座りをしているのに対し、こちらは二人して胡坐をかいている。こういうところ、ジュリアだよなあ。妙なところで個性というものを想う。洗濯のできるラグのごわごわとした毛並みをなぞりながら、笑った。
ジュリアが夏に持ち帰ってきたレシピ本は今でも現役であり、晶也にとっても格別な指南書だ。調理の細かい手順から盛り付けなどの工夫まで教授してくれている。テーブルに並べられた料理は彩り豊かで、手前味噌だが、食欲をそそるような出来栄えだった。
翼が瞳を食卓の上いっぱいに並んだ手作りの総菜の上を泳がせて、
「わあ! 美味しそう! ジュリアーノとは大違い!」
歓声を上げてくれた。その言葉にジュリアは麦茶の入った水出しポットに伸ばしていた手を止めて、目を吊り上げる。
「オイ。一言余計だっつの」
瑞希がくすりと小さく笑ってから、
「おなかペコペコです」
「すみません、遅くなって」
「瑞希ちゃんはクレープ食べてないもんね。今度一緒に行きましょ♪」
「はい。ジュリアさんも、是非」
「あ、あたしはちょっと体重が」
ここ数か月は寝る前の筋トレに勤しんでいるジュリア。気を取り直したように唇を引き結ぶと、
「だけどあんた、ホントに張り切ったな」
あたし、簡単なのでいいって言わなかったか……と目を眇め、不審そうな顔を向けてくるのだ。「なんか洒落た葉っぱも乗っかってるし……」と、パセリを指先でつつく彼女を晶也はどこか愛しく思う。
白状すると、考え事をしながら商店街を通り抜けたため、ついつい普段なら買わないようなものを値段も気にせず買い物かごに放り込んでしまったからではある。レジで若干顔が青ざめたのは言うまでもないが、その後、せっかくの機会だから気合を入れたのも本当のことだった。晶也は頭の後ろで手を組むと、
「流石に天下の765プロアイドルに変なもの食わせるのもどうかと思って」
「なっ……。あ、あたしだって同じだろ!」
翼が「あははっ」と楽しそうに笑うと、晶也は無意識に彼女の反応の良さに心地のよさを覚えていた。楽しいや面白いに対する嗅覚が優れているんだろうな、と思った。彼女の頭の中は、きっと常に新鮮なもので溢れているに違いない。
ジュリアを悩ませるアレンジは、その自然な発想力ゆえにかもしれない。そんなことを密かに思った。
「あと、ジュリアーノじゃないからな」
「えへへ。それじゃあ、ジュリアーノのお家にかんぱーい!」
ジュリアの睨みもお構いなしに翼のネイルアートが入った指がグラスに掛かる。家に乾杯だと、なんだか住宅が完成したかのような響きだ。口元の笑みはそのままに、晶也も軽く掲げた。瑞希が同様にすると、ジュリアもやれやれとそれに倣っていた。
急遽購入した安っぽいグラスだが透き通るは心地の良い音色。急に食卓が華やかになった気分になる。気が付けば身体の緊張もすっかり解けていた。
「そうだっ♪ ブログ用に写真撮ってもいいですか~? ジュリアーノのお家でお泊り会、なんて!」
そう言って翼がスマートフォンをかざすと、その透明なカバーにステッカーとプリクラが挟まれているのが見えた。古くは若者の間で透明な下敷きに好きなアイドルの切り抜きを入れるのが流行していたように、スマホカバーからは持ち主の世界を垣間見ることができる。
晶也は、翼のそれに一瞬、目を凝らしていた。なぜならそこに。
――見間違いでなければ、あれは美希さんとの……。
並ぶ、二つの金髪の姿があったからだ。
だがすぐに、覗き込むのも良くないと思い直して、自ら首を振った。それから意識をかつての部活仲間に向けた。好きなアーティストのステッカーを貼っていた千波や、ドラムスなのにギターピックで飾っていたメンバーもいた。スマホカバーは好きを表現するにはもってこいのツールである。
内カメラで翼がパシャリ。こういう時のジュリアの表情はカメラ馴れしているのか思ったよりも柔らかい。バンド時代はよく仲間たちと撮っていたのだろうか。地元メディアに取り上げられたこともあるとか言ってたな。でも、ちょっぴり照れた様子でクールに澄ましているような……。
「なーに見てんだよ」
「別にいいだろ」
写真を撮るときの手の形なんて、ピースくらいしか思い当たらない晶也にとって、彼女らのそれは手話のように目まぐるしい。ちゃんとアイドルなんだなあ……などと考えていると、五回ほどシャッター音が鳴ったあとで、
「もう一枚!」と、翼がこちらに顔を向けた。「今度は晶也さんも!」
手招きされる。能天気に口角を持ち上げていただけに、咄嗟のことに「俺も……?」と、声が上ずった。甘んじて受け入れてしまっていいのだろうか、こんな僥倖。言葉に窮しているとジュリアに手首をつかまれ、結局三人の背後に回ってパシャリ。晶也の表情が一番硬い。やがて共有された写真を見てジュリアがけらけら笑った。
「先にブログ更新しちゃおっと♪」
一方的で賑やかな翼に対し、晶也は不思議と好感を持った。むしろ、何事にも積極的で羨ましいとさえ思う。彼女が放出する「好奇心」は、彼女を見ているファンの心をも躍らせる。ついて行ったら何かが起きるような予感を抱かせる。
「伊吹さんのファンは、楽しいだろうね」
「えへへ♪ そうですか?」
晶也が言うと、翼の声には喜色が帯びる。そうだ、彼女はこの自然な笑顔がいい。
素早い手つきでスマートフォンの画面をなぞる彼女をのぞき込むようにして、ジュリアが「アップする写真は絶対に間違えるなよー……」と、眉をひそめた。
「大丈夫ですよぉ。ジュリアーノってば心配性なんだから」
「ホントか? 四人分の食器とか、写り込んでないかちゃんとチェックしてからにしろよ?」
「……俺が言うのもなんだけどお前そういうところは抜かりねえよな」
色濃い苦笑を顔に滲ませながら、そう、晶也は頬杖をついた。こっちはこっちで、ファンが聞いたら卒倒しそうなくらいのことを言ってしまうから、面白い。
「あのなあ、芸能界っつーのは怖いんだぞ。熱愛スキャンダルなんてのは審判の顔面を殴りに行くようなもんで、一発退場のレットカードのお出ましさ。実力が伴っていれば黙らせられるのかもしれないけど、まだうちらは
妙に芝居がかかった台詞回しも、あんまり上手くない例えもジュリアらしくて、晶也はまた笑いたくなった。
そうしたジュリアの忠告はもはや小言めいており、晶也でさえしつこいと感じてしまうものだったが、翼は、ここでは嫌な顔をしなかった。彼女もそれがどれほど危険なことなのか分かっているからなのか素直に従っている様子が見受けられる。
生意気を絵にかいたような少女だと聞いていたが、殊勝なところもしっかりあるじゃないか。「コップも三つだし……」と、順に確認している翼の姿を眺めながら晶也が密かに感心していると、いつの間にか翼は「そんなことより」とジュリアの目を覗き込んでいた。
「ジュリアーノもちゃんとブログやらなきゃダメですよ?」
のらりくらりとした声のまま放たれた鋭い切り返しは、正直意外なものだった。急に底が見えなくなるような、その感覚は、まるであの人を――美希を彷彿とさせる。やっぱり……ただのお転婆じゃない。
「げっ」
「私も、そう思います」
そんな返事があるなんて予想していなかった、という声を出したジュリアに向かって、落ち着いた声音で瑞希が言葉を重ねる。
「ジュリアさんは新しい衣装が完成したときと、公演のお知らせ時にしか更新しませんから」
「……ミズキまで」
そうした二人の言葉に、晶也はほとんど反射的に頷いていた。
なぜなら以前に同じことを指摘したことがあったからだ。当時は雑談の一環で提起したものだったが、そのときジュリアから返ってきたのは、「だって、特に書くコトないだろ」というものだった。断定的な口調だったことで、それ以上何か続ける言葉を見つけることができなかったことは今でもふとした瞬間に蘇る。
「なんかソレ、少し前に晶也にも言われた気がするよ」
まず小さく嘆息して、
「……でもさあ、他に書くことあるかぁ? 日常なんて誰も興味ないんだし」
今日もジュリアはあの時と同じように薄っぺらい笑みを浮かべた。その声を聞き、晶也の胸の奥には小さな痛みがよぎる。それは、「興味がある」とはっきり言い切れる根拠を見つけられていない自分の不甲斐なさからくるものかもしれない。
晶也はわずかに視線を落とした。だけど、正解が分からない。一度止めていた息を解いて、再び止める。
そんなうらぶれた心にとって、二人からもたらされた言葉は一筋の光だった。
「日常でも、良いと思います」
「そうですよ~。ファンの皆は
普段通りの――――。
ああ……それは共に生活をしている自分からは絶対に出ることのないもの――。
翼が明確に微笑むと、晶也は息を吞んだ。無意識に求めていた言葉がそこにあったのだ。出口の見えなかった水底に光が差していく。
――そうか……アイドルが見せるのは、夢だけじゃない……。
いつもと変わらない姿を見せること。それは、ひょっとしたらとても大切なことなのかもしれない。
翼が新作コスメをはじめとする休日のショッピング風景を、瑞希が趣味の手品の練習成果を綴っているのだとしたら。
「まずはジュリアさんが好きなアーティストの紹介なんてどうでしょう」
ジュリアは目をしばたたいた。左手をテーブルの天面に添え、ぐるぐると指先で軽く撫でながら、
「……そうかもな。見てくれる人たちが、いるんだもんな」
そのしおらしさも晶也には新鮮だった。見たことのない表情を引き出せる二人がこの場にいる。なんてそう思っているうちに、晶也はなんだか身体の奥のほうが暖かくなるのを感じた。
「私もジュリアさんの私生活、気になります」
「だよね! だって、みんなジュリアーノのこと、好きだもん!」
二人の屈託のない明るい声を、ジュリアと並んで受け止める。
そんなわけで、楽しかった。実りのある時間はまだまだ続く。そんな確信があった。
☆☆
さて。ジュリアがこの二人を連れてきた理由は、やはり明日の公演に関係があるのだという。
されども、それは晶也が思い描いていたような、交流会などという生ぬるいものでもなかった。
「実は、新曲を披露しようと思うんだ」
箸が半分ほど進んだ後、ジュリアはそう切り出した。ややじれったそうに、
「あんたがずっと気になるって顔してるから」
ため息交じりの一瞥をくれて。
――新曲だって?
「明日休みなんだよね」と、変わらない調子で発せられた言葉に晶也はご飯茶碗を落としそうになるほど驚いた。だって、彼女がそんなものを作っている素振りなど一度も目撃していないのだ。レッスンの合間や通勤中のことは分からない。だが、ジュリアにそのような余裕があったようにも思えない。ただでさえ彼女の頭の中は自身への苦悩と、間近に控えるライブのことで一杯だったはずで。
「いつの間に……作ってたんだ」
まばたきを繰り返し眉を寄せる。曲が一朝一夕で成るものでないことくらい知っている。何週間、はたまた何か月秘匿とされていたのだろう。晶也が自分の中に寂しさの欠片を見出しながらジュリアを見ると、彼女は平然としていた。表情一つ変えぬまま、さらりとこう答える。
「それがまだ完成してないんだよ」
「ちょ、ちょっと待てよジュリア」
今度は息が詰まりそうになった。自然と声が大きくなる。「言ってる意味が……」無茶苦茶だ。冗談じゃないだろうな……。
だがしかし、その時点で浮かんでくるものがあった。いや、浮かんでしまったのだ。冗談であった方がましだとさえ思えるような予感が。
まさかね。晶也は口角が引きつるのを感じた。でもきっと、そのまさかだ。
――つくづく、思考が似てきたと感じるよ。
目の前の『姉』を見据える。ジュリアという直情的な少女を前にしていると自然とちらついてしまう、ある一つの可能性。それは――。
「……まさかとは思うけど、一晩で練り上げるとか言うんじゃないだろうな」
「ふふん、さすがはあたしの弟だな。大正解♪」
「晶也さんすごっ!」
翼が大きな瞳をこちらに向ける。冷や汗が頬を伝った。
眩暈もした。一夜で曲を創り上げ披露する……って。仮にそれが編曲を任されたものであっても荒唐無稽な話だと、思うだけで、気を失いそうになる。
次の言葉を待ちかねて急かす晶也に、ジュリアはまあまあとなだめるような仕草をした。そして、意味ありげに微笑んだのだ。
「落ち着って。あんたが考えてるほど無謀な話じゃないんだ。
「ベース…………? あ――――――」
押されたように、鼓動が強く鳴った。声に出して、気づいた。
ジュリアは、あの『未完成の曲』を完成させるつもりなんだ…………。
それはかつて一度だけ聴かせてくれた、名前のない歌。彼女が故郷から連れてきた、
無意識に、声が、震えた。
「お前もしかして――」
「そういうこと。……翼のおかげで、ようやくな」
ジュリアは笑っていた。翼に向けたその視線は柔らかく、それを見て晶也はようやく彼女の本気を感じ取る。そうだ、ジュリアがこんな冗談を言うはずがない。あの旋律に魂が宿る。その事実にざわっと鳥肌が立った。
「マジかよ……! めっちゃすげえ!」
ふつふつと湧いてくる興奮を隠し切れなかった。正直、自分のことのように喜び顔を綻ばしている自覚がある。高揚する気分のまま「おめでとう」と伝えると、気が早いよ、と彼女は目を細めてみせた。
「あんたが言う通り、時間がないのはホントだし、完成するっつー保証も勝算もあるワケじゃないんだ」
だが今のジュリアからは制限時間をものともしない気迫さえ感じる。凄味というのか、熱というのか。絶対に完成させるぞという揺るがぬ強い意志。そう、瞳に確信があった。その顔つきはなんだか、初めてまみえたときを想起させるようで。
何かあったんだな、と心で呟きながら晶也はともにテーブルを囲む三人を順に観察した。
きょろきょろと、自由奔放たる翼。
落ち着き払った空気を放つ瑞希。
そして愚直で一途なジュリア。
――まあ、見事に性格はバラバラだなぁ。
「二人ともよく、コイツのそんな
正面に視線を戻し問いかけると、口に合ってくれたのか、先ほどから黙々と皿の料理を口に運んでいた瑞希が深く頷いた。
「もぐ……、いけると思ったので」
「私も! だって、ジュリアーノってば凄いんですよ~? わたしのソロ曲も軽々奏いちゃって」
「ああそれ、すげーわかる。家でも知らない曲鳴らしてると思って訊いたら、『適当に弾いただけのブルースさ?』って」
「志吹さん、似てないです」
翼が「ですねー」とはにかんだ。
「容赦ねえのな……」
でもきっと、三人とも同じような熱量を持っている。
――うまくいくといいな。
「えっ。今のあたしの真似か?」
「ジュリアさんはもっと、調子に乗った感じがします」
「んなっ……」
きっと賭けじゃないんだ。ふざけ調子に話す彼女らの姿を見ながら、小さく、噛みしめるように呟いた。