『あたしがジュリアでいるうちは』   作:撫音

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     夢を照らす愛(3)

 

 

 もっとも、そんな彼女らの新曲を披露するという一見せずとも無謀な試みに、やはりブレーキをかけた人物はいたようだ。

 ジュリアが箸を動かしながら難しい顔をしたので、晶也はどこかほっとした心持ちになる。

「ホントはシアターに泊まって完成させるつもりだったんだよ」

「ですが、プロデューサーに反対されてしまいました」

「そこで、私がジュリアーノのおうちに行きたいなって♪」

「あとはあんたの知っての通りさ」

 彼女たちが語ってくれたいきさつに、晶也はなるほどと唸った。あれ……? すると仮に曲を完成させられたとしても明日の舞台で披露できる保証はないんじゃないか。その疑念を口にすると、ジュリアは「それは大丈夫」と即座に首を振った。

「却下されたのは、あくまでシアターで徹夜することだからな」

 断定的な口ぶりに、「それ、屁理屈じゃない?」とやや拍子抜けしかけたが、すぐにそれを言うのは野暮だと思い直した。だって、やると決めた彼女は誰にも止められない。

 ――プロデューサーも大変だろうなあ。

 こぼれる苦笑を見られないように、窓の外を見るふりをした。ジュリアが曲を持ってくるとは予想だにしていないだろう彼は、一体明日の朝どんな顔をするのだろうか。知りえないのが残念だ。頑張りましょう、と瑞希が言った。

 

 

 加湿器の煙が不意に止んだ。「後でいいのに」というジュリアをよそに晶也が給水から戻ると、徹夜という言葉で思い当たったのだろう。翼が「だけど」と小さなため息をついているところだった。

「お泊りするならパジャマ持ってきたかったなぁ」

 少し残念そうな顔である。時間通りにやってきた彼女たちはそれぞれの家に寄る

「伊吹さん、今度からシアターのロッカーに置いておくのも手かもしれませんね」と瑞希が相槌を打つ。

 そこにジュリアが「いやいや。レッスン用のジャージは持ってきたんだから、それで十分だろ?」と、言葉を重ねた。

「それじゃあお泊りっぽくないじゃないですかぁ」

 すると即座に不服が申し立てられる。ジュリアーノは分かってないんだから、なんて頬を膨らませている彼女はきっと修学旅行気分でいるのかもしれない。泊りといったらパジャマ。パジャマといったらガールズトーク――か。

「晶也さん、その通り♪」

 翼がにかっと笑う。きれいな歯並びだ。晶也は微笑んだが、ジュリアは肩をそびやかした。

「……オマエ、これから何するか分かってるんだよな?」

「わかってますよぉ」

「ふぅん」

 ジュリアはまだ納得していない様子で鼻息を洩らしたものの、続く口元には笑みが浮かんでいた。ジュリアは笑うとえくぼができる。晶也が好きな、彼女の笑顔だ。

「着れば気持ちがノるんだもんな……翼は。あたしのでよければ貸してやるよ」

「ほんと! ジュリアーノ、ありがとう!」

「可愛いのじゃないからな」と、自分の部屋の方を見ながらジュリアは言った。「今日は我慢して、そんでまた遊びに来ればいいさ。今度は自分のやつ持って」

 表情は見えなかった。けれど晶也にはその声が、やはりどこか、さりげなく楽しげに聞こえたのだ。不思議な感じだった。自然と頬が緩み、そこで、初めに瑞希が見せていた穏やかな瞳の意味を理解した。

「いいの! 嬉しい! わたし、頑張ります」

「そうこなくっちゃ」

 ジュリアは満足そうに首を上下に動かした。嬉しそうな顔が咲いていた。

「ジュリアーノのパジャマ、カンガルーのだったりして♪」

「……ねえよ」

 もちろん晶也はジュリアの「…………でも、それもアリかもな……」という小さな呟きを無視してあげるのだ。聞こえなかったふりをしておけば、きっと来週あたりに彼女の部屋のタンスにはひっそりとそれが佇んでいるだろうから。

 

 

「飯食ったら風呂だな。順番にパパっとな」

「お借りしていいんですか?」

「もちろん。リフレッシュしたら、いよいよ気合を入れるぜ」

 ジュリアは軽くうなずきながら、脱衣所の方に首を向ける。その表情には一瞬の疲れが滲み、晶也にはそれが長い夜の始まりに備えているように見えた。

「晶也、バスタオルって余ってたっけ?」

「ああ。上のほうにあるからあとで出しとくよ」

「サンキュ。……たしか、下着も新しいのがあるはずだからさ、あげるよ。二人はそれ使ってくれるか?」

「ありがとうございます」

「でもわたし、ジュリアーノのだと、()()()()かもしれないで~す」

「「ぶはっ」」

 

 それは唐突にスパっときた。まるでかまいたちのような切れ味に、晶也とジュリアは同時に吹き出した。無邪気な顔でジュリアを見ているその瞳を凝視する。文字通り、そこに邪気はなかった。もし今の発言がわざとだとしたら無神経で嫌味に過ぎる。ジュリアが言っていた素直って、こういうことか……。

 晶也はジュリアと翼を交互に見た。身長差はないし、入らないといったら――胸だよなぁ……。いや、デカいもんね、ええ。一瞬でも顔を彼女の衣服に向け、それを意識してしまった晶也は視線を泳がせるほかない。逃げた先で、瑞希のポーカーフェイスを羨ましく思うなどして。

 

 なんとかわざとらしい咳ばらいをし、話題の対象を彼女へと転じてみる。

「その、パジャマだったら真壁さんの方が必要なんじゃない? シアターでもいつもその格好(かっこ)?」

「はい。制服は私を、落ち着かせてくれるものですから」

「ちょっと分かるな。てかその制服、どこのだっけ。見覚えがある気がするんだけど――」

「シアターからは少し遠いのですが……」

 なんて話していたらジュリアが肘で小突いてきた。ローカルな話題はつまらないのか、見ると、唇を尖らせている。

「……なんであんたが融け込んでるんだよ」

「スミマセン」

「まったく、そんなに楽しそうに笑っちゃって」

「え? 俺、笑ってる?」

 晶也は頬をぱちぱちと叩いた。

「ええ。それはもう」と、瑞希に言われると、面映ゆいような心地が全身を駆け抜けた。

 

 今を時めくアイドルが三人。言いようのない居心地の悪さを感じるかと思いきや、輪をかけて賑やかな会はなかなかどうしてよく馴染むのだ。やがてそれが恋やアイドルや連ドラの話で活気づく教室の空気と似ているからだと気づく。

『そういう肩書気にしてんの?』

 頭の中で千波の声が閃く。そうだよな、芸能人という肩書があれども、彼女らは自分と幾ばくも年差のない少女たちなんだ。

 こんな当たり前の事実を、気づかされたばかりだというのに。

 ――バカだな、俺も。

 アイドルに会うからと緊張したりして。ただ、姉の友人に会うだけだったというのに。……いや、それはそれで緊張するのかもしれないけれど。

 でもな、ジュリア。楽しいのは本当だけど、それ以上に俺は嬉しいんだよ。

「やれやれ、これだから晶也は」

 嘆くジュリアをどこか微笑ましい気持ちで見つめながら、晶也は痛感する。

 ジュリアが楽しそうにしているというのは自分にとって夢のようなできごとなのだと。

 いつかパジャマを着られる仕事が欲しいというテーマに興じてごく自然に笑い合う三人の姿を、そのさき一生忘れられないであろう光景を、晶也は浮足立つような気持で眺めていた。

 

「だけど、なるほどね」

 そして晶也は緩く組んだ腕を揺らす。涼しい声で言う。

「昔お前がツッコミ役に回りがちだって言ってたのがよく分かるよ」

「だろ?」

 苦笑交じりに二人で目尻を垂らす。その様子を見てか、瑞希が「お二人は、仲が良いんですね」と微笑むように言った。晶也はまたもや照れくさくなった。コップに少し残っていた麦茶を飲み干すと、「どうだろうな」と目を細め、返すのだ。

 

 

 聞いたところ翼には兄と姉がいるようで、大変可愛がられているという。想像できるよ、と笑うジュリアの傍らで、仲の良いきょうだいか……と晶也はとりとめのない思考を巡らせる。ジュリアの設けた『設定』を再現するうえで、一人っ子の晶也にとって普通の姉弟像とは、想像に依るものが多い。

 だが、自分がジュリアに向けている情はあまりにも複雑に絡んでいる上に、通常弟が姉に向けるようなそれではない。

 ――上手く立ち回れてる気がしないんだよな……。

 出会って間もないのだが、瑞希からはどこか抜け目のない雰囲気を感じている。ジュリアも瑞希のことをこう言い表していた。鋭い洞察力を発揮し、周囲の人々の本音や秘密を見抜くことがある――と。

 怪しまれてやいないだろうか。ふと心配になったのだ。

 

 しかし、そんな彼女の興味の行方はわずかに逸れたところにあった。視線をジュリアへと流し、穏やかな口調で問いかける。

「ところで、ジュリアさんの苗字は――」

「ああ。……いや、実はウチらはちょっと訳ありでな」

 志吹なんですか、と言い終える前からジュリアはかぶりを振っていた。瑞希は意外そうに、自分の口を片手で覆う。姉弟と説明しているから、そうか。晶也が自己紹介時に苗字まで名乗ったことを思い返していると、ジュリアからの意味ありげな目配せを感じた。 グラスを手にした晶也の指が、微かに強張った。それと分からないようにテーブルに置いて、言い添えるように口を開く。

「俺とコイツは異母姉弟なんだよ。離婚が絡んだ、複雑な家庭の事情ってヤツさ」

 だから苗字は違うよ。潤った喉から、語るほどに滑らかになる言い訳だ。騙すことに気は引けるものの、こう言えば誰も深く詮索するような真似はしない。それは二人にとって都合のいい文句と化したもの。ジュリアの不自然さのない設定に再三舌を巻いていると、翼がつまらなそうに声を上げた。

「なぁんだ。せっかくジュリアーノの苗字ゲットしたと思ったのに」

「あたしの本名はトップシークレットだからな」

「でも、亜美真美ちゃんたちには『ぷぅちゃん』って呼ばれてますよねー♪」

 にっこりと笑いながら続けられた彼女の言葉、ぷうちゃん。それはジュリアーノに引き続き、またも晶也には馴染みのない単語だった。どこから『ぷぅ』が飛び出してきたのやら。これはさすがに本名には掠りもしないあだ名だろう。晶也が呑気に笑おうとすると――。

 ぐっ……とジュリアの喉元から突如、懐に剛速球を投げ込まれたかのような音が鳴っていた。

 ――はて?

 晶也と翼と瑞希。息を合わせたかのように三人の視線がジュリアの顔に集まると、

「なっ、何見てんだよ! 絶っ対ナイショだからなっ!?」

 彼女は絶叫した。

 

 

        ☆☆

 

 

 壁を隔てたギターの音が止むと、安い置き時計が時を刻む音だけが響くリビング。ひとつ、大きく伸びをした。スマートフォンの画面では、作曲における留意点を記したサイトがいくつも閲覧済みを示す薄紫で染まっている。

 晶也は黙って、翼が貸してくれたファッション誌に手を伸ばした。表紙には最新のファッショントレンドを身に着け、大人っぽい表情でカメラを見つめている美希の姿があった。やはり翼のスマホカバーに挟まれていたプリクラは見間違いなどではなく、彼女は美希のことが好きなんだ。の中でそう呟く。

 好き。憧れ。尊敬。ページをめくると広がってゆく洗練された世界。

 コピーは「トレンドを取り入れながら、あなたらしさを引き出してゆく」というもの。

 ポップな文字の並びをじっと見つめていると、ファッション誌はあくまでヒントを与えてくれるものなのだと思い当たった。「あなたのスタイルを広げる」「新しい自分に出会う」「あなたの魅力を引き立てる」。これらはすべて自分らしい美しさを見つける手助けをすることを目的としている。

 自分らしさ……か。

 人知れず呟いた。晶也が気付いた()()()()()が、そこにもあった。服やアクセサリーを選ぶ際に味わう幸福感や自信、そして美しさを追求する姿勢に感銘を。自己表現やスタイルの探求。前を向いて新しいものを生み出そうとしている彼女たちが、とても眩しい。

 

「志吹さん」

 物音立てずに開く扉。背後からの声に振り向くと、黒いジャージに身を包んだ瑞希がいた。

「夜更かしさんですね」

「まあ」と、雑誌を閉じながら微笑みを返した。「土曜日ですから。今日くらいは」

 眠気がないといえば噓になる。だが、横になったところで幾度も寝返りを打つ羽目になるのは目に見えている。壁を隔てて頑張っている人がいることを思うと睡魔に身を委ねようという気にはなれなかった。彼女らへの尊敬と励ましの念なのだ。

 

 一呼吸おいて問いかける。

「あいつらは?」

「ジュリアさんはまだ楽譜と睨めっこしています。伊吹さんは、寝ました」

 期待を裏切らない少女に、さすが、と苦笑い。一方で瑞希からは規則正しい生活を送っていそうだとも、夜にめっぽう強そうだとも見て取れる。

「真壁さんも遅くまでアイツに付き合わされて大変ですね」

 今日は早くからリハーサルもあったのに。そこまで言ってから、そうだ、と思い立った。「珈琲飲めますか? 気分転換になれば。淹れますよ」

 深夜に摂取するカフェインについては賛否両論。しかし瑞希は微笑み、頷いてくれた。

「あ……。是非、お願いします」

「全然。それくらいしか役に立てることないんで」

 立ち上がり食器棚からキャニスターを取る晶也の背中に、「ジュリアさんがお勧めしていたので」という声がかけられた。

「……なんだ、アイツそんなことまで言ってるのか」

「はい。『そうだ、ミズキ。外に出たらきっとアイツがコーヒー淹れてくれるぜ』……と」

「あはは。真壁さん、俺よりも似てないぜ」

 瑞希は小さく肩を竦めた。どうやら彼女には人の心を和ませる力があるみたいだ。言葉遣いはどこか独特で、口数こそ少ないかと思いきやそうでもない。皆と比較すればポーカーフェイス気味なのかもしれないが、ふとした時に感情が零れる。

 ――不思議だよなあ。

 

 いつの間にか砕けている自分の敬語を考えながらやかんを火にかける。ちちちと散るスパーク。振り返ると瑞希が借りてきた猫のように佇んだままだったのでソファへと促した。「それでは……」と、姿勢を正して腰を下ろした瑞希。「……ふかふか」と微笑んでから、その柔らかな声色そのままに、

「付き合わされて大変、だなんて思っていません」

 とはっきり言い切った。

「え……?」

「私も、ワクワクしているのです。ジュリアさんには、たった一音で空気を変える力がありますから。そんな彼女と一緒に歌うことができる……。それを楽しみにしている私はどこか、ジュリアさんのファンなのかもしれません」

「…………分かるよ」

 何のてらいもなくそんなことを言える彼女にあてられて、素直な言葉が口を衝いていた。ジュリアの声には不思議な力がある。背中を押してくれるような、手を引っ張ってくれるような、何とかなる――そう励ましてくれるのように感じるのは、

「俺も、あいつもファンだからかな」

「絶対に、そうだと思います」

 優しい笑顔が彼女の唇を彩っていた。心のこもった言い方に、ますます気持ちが発酵する。

 

 世話になってばかりで恐縮なので、と食事の後に食器洗いを申し出てくれたのも彼女だった。

 彼女のように素直に考えや気持ちをさらけ出せる人がジュリアを支えてくれていることが、晶也には何よりも嬉しいのだ。

 ピーッ、とやかんが蒸気を噴き出す音がした。

 

 

 珈琲の味は温度で変わるということを、聞いたことがあるだろうか。ドリップで淹れる際の適温は93℃前後。そんな祖父の教えを守り、晶也はお湯の温度には細心の注意を払っている。

 温度――ときに体温は、感情と密接な関係にある。体温は感情により変化する……心理生理学や神経科学の研究によってそう示唆されているのをテレビで目にしたことがあった。体温と感情の関係。例えば、愛や恋を感じているときは特に胸部や腹部が暖かくなり、落ち込んだときは手足の先まで全身が冷たくなるように。

「あのさ……真壁さん」

「はい、なんでしょう?」

 そして、怒り。それを感じているときは、頭部に熱が届きやすい。

「……あいつと伊吹さんが揉めた時に、仲裁に入ってくれたのは真壁さんだって聞いたんだ」

 我々はそれぞれ、違う温度で沸騰する――と、米国のある思想家は残している。ジュリアが話してくれたレッスン事情。我ながら熱くなりやすくて恥ずかしいと彼女は肩をすくめていたが、もしも同じ立場だったらどうかと考えていた。自分は熱くならない、なんて言い切れそうにない。

「感謝してたよ。今日までレッスンを続けられたのは真壁さんが上手に立ち回ってくれたおがけだってさ。……どうして、って訊き方が正しいのか分からないけど、教えてほしいんだ」

 瑞希と言葉を交わすうちに晶也の胸は興味で一杯になっていた。最善を選び続けられるその理由を。マジックという大胆な手段をとった彼女の心の内を。

 

 瑞希の目が晶也を見上げた。

「私は、自分にできることをしただけです。ただ……しいて言えば、必要だと思ったからです。公演の成功はもちろんですが、私の成長のためにも」

「成長の……ため…………」

 もう、しきりと感心していた。再度言い切った瑞希の顔を改めて正面から見やる。惹き込まれるって、こういう時をいうんだろうな。多分、彼女は誰に問われてもそう答えるのだろう。謙遜するでもなく、本心をそのまま伝える、そういう調子。

 この人は……。晶也の周りには、あまりいないタイプの少女だ。分析力にも長けており、いざという時の度胸もある。

 そんな彼女も内側にジュリアと比べて遜色のない信念を秘めているはずで。

 ――彼女だって熱い。だけど、その熱を秘めることができる。

 如何にして、そう冷静に振舞うことができるのか。尋ねると、これが理由だと言いきれはしないですが、と前置きをしつつ、彼女は自分の父が法曹なのだと教えてくれた。すなわち論理のプロフェッショナルなのだ。晶也は、瑞希の諄々とした思考の根底に触れた気がして、思わず「へえ!」と声を上げた。

「なるほど、お父さんが……」

「はい。そして、母はナイスバディです」

「え、えーっと」

 リアクションに迷う。

 ――これは密かに、さっきの下着論争のこと気にしてるな……。

 晶也が女性の発育年齢などという失礼な想像を働かせながらフォローの言葉を探す中、瑞希は、軽く目を閉じながら言った。

「私が日々、後悔をしない選択ができているのかは分かりません。ですが……今日改めて思いました。アイドルになってよかった、と」

 

 ぽたぽたと落ちる焦げ茶色の雫。湧き上がる気泡が反射する、虹色。

 アイドルになってよかった。とても美しい言葉だと、晶也は思った。珈琲の蒸らしという、長いようで短い瞬間を色づけるには十分すぎるほどの――――。

 

 

「……いい香り」

 リビングルーム一杯に漂い始める香りに瑞希が目を細めると、晶也は一層嬉しい気持ちになった。

「祖父が懇意にしていた喫茶店の豆なんです。……今も定期的に母が買い付けては送ってくれていて」

 ジュリアとの関係を偽っている手前、あまり身の上を明かすことは言うべきでないと分かっていたが、応じる。瑞希の人柄に心底惚れ込んでいる証拠だった。

「失礼ですが、志吹さんのおじいさんは……」

 視線が、サイドボードの上に向いていた。そこにあるのはルームフレグランスと、ガラスに入った小さな観葉植物、それから小さな遺影だ。晶也は「そうだよ」と頷く。

「あれが俺のじいちゃん。ジュリアとは関係のない、母方のほうだけどね」

「そうでしたか。志吹さんのそのお手並み、おじいさんから引き継いだものなんですね。……感激です。すごいぞ」

「お手並みってほどじゃないけど、そうですね。道具も、ほとんど祖父に貰ったもので」

 上京してから……いや、ジュリアが来てから新しく買ったものといえば、シュガーポットとミルクピッチャーくらいだ。珈琲に砂糖を入れる習慣がなかったため、それまでは百円ショップで購入したワンタッチポットを使っていたのだが、あるときジュリアから「実は苦いのはてんでダメなんだ」と告白されたその週に新調を決意、思い切って百貨店に出向いて購入したものだった。

 晶也は、鈍い光を反射する蓋に手を添える。特にこのシュガーポット選びは相当頭を悩ませたっけ。ヨーロピアンスタイルな手の込んだ細かい装飾が施された洋白のものと、いわゆる昭和レトロと目されるような赤い蓋をしたもの。どちらにするか決めきれなくて、最終的にジュリアに電話で意見を仰いだっけ。

 

「お待たせしました。お砂糖とミルクはいる?」

「いえ、お構いなく」

 が、瑞希はブラックのままいけるらしい。勝手な思い込みだが、そんな気はしていた。ソーサーに乗せて提供したコーヒーカップを、まるで賞状を受け取るように両手で受け取ってくれる瑞希。これでまだまだ頑張れます、と嬉しい言葉を添えながら。

「では……いただきます…………あつ――っ」

「うわっ! ごめん、まだ熱かった? 公演前に口ん中火傷でもしたら大変だよな。真壁さん……大丈夫?」

 淹れたばかりのものを飲んでもらえるのは嬉しいことだが、配慮が足りなかったと大焦り。慌てて冷蔵庫から天然水のペットボトルを取り出し、氷を入れたグラスになみなみと注ぐ。

 そんな晶也の様子を眺めながら、マグカップの縁を撫でて、「いえ、猫舌なもので」と瑞希。

「志吹さんは、ジュリアさんと似ていますね」

 彼女の一語一語を丁寧に発音する落ち着いた物腰に、

「そうかぁ?」

 妙に照れくさい気持ちがして、視線を逸らした。「そういうところです」と、瑞希が含み笑う。

「ジュリアさんは、照れ屋さんですから」

「まあ」

 それは分かるよ、と晶也は頭の後ろを掻いていた。努力家で自分の頑張りを認められたことを内心しっかり喜ぶくせに、素直じゃなくて。気を遣いがちなくせに、生意気で。

 ――でも、時たまものすごく顔が見たくなることがある不思議な奴。

 

 心の中でそれだけ言い並べて、窓際のサボテンに目を移した。

 そんな晶也を、優しい色を湛えた瞳で、黙したまま、瑞希は珈琲を飲み干してくれた。

 

 

 

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