そんなジュリアがふらふらと部屋から顔を出したのは、それから更に一時間が経ってのことだった。表情を見るに、まだ完成には及んでない様子。長時間の作業だから集中力もいったん途切れたのだろう。
「マスター。あたしにもミズキのと同じのを」
そう言って、ぐったりとソファに身体を投げ出す彼女に向かって、
「お前、真壁さんに俺がコーヒー淹れてくれるって言ったんだってな」
「あんたも、ミズキになんか恥ずかしいこと言ったんだって?」
「ぅえ!?」
真壁さん、ああ見えて口固くないのかよ――っ! 心の中でそう叫んで、キッチンに飛び込んだ。聞かれて困ることは言っていないけどさ……。若干赤らんだ顔のままで繰り返す、先ほど全く変わらない作業。手に馴染んだものだ。豆の量も、やかんに移す水の量も、何もかもが手量りできるようになっていた。時間の積み重ねを、そして継続は力なりという言葉を想う。
湯気を立てるマグカップを両手に持ちジュリアに向き直ると、「晶也、ちょっといいか?」と彼女が立ち上がり、手招いた。反対の手でベランダに続く戸口をからりと開く。真冬の張り詰めた空気が一陣舞い込み、晶也は身震いする。
「気分転換。付き合ってくれよ」
近頃は昔のような照れながらの誘いは減っていた。ベランダに常備してあるサンダルは一組だけ。分け合って片方だけに足を入れ、二人して身体を手摺壁に預けた。マグカップを眺めて吐く息は白く、空気の動きが見える。
「……静かだなぁ」
晶也は呟いた。薄暗い街灯に照らされた住宅街に人の姿はない。リビングに居ても話し声や楽器の音が聞こえていたから、余計に静かに感じるのだろう。時間も時間だしね。ジュリアが珈琲をふーふーと冷ましながら、言った。疲れた身体にはもっと甘いほうがいいかもしれない、と晶也はぼんやり思う。脳内の買い物リストにコンデンスミルクを書き加えると、
「なあジュリア。本当は明日プロデューサーに怒られるの分かってるだろ」
そりゃあな、とジュリアはその整った顔をすっと晶也の方に持ち上げた。「あたしだってバカじゃないさ。スタッフにも迷惑かかることも知ってる」
「でしょうね」
苦笑しながら穏やかに首を振る。ジュリアは言った。
「だけどあの敏腕プロデューサーのことだから、すでに根回ししてくれてるかもしれないけどな」
「信用してる……いや、されてるんだな」
「あたしが簡単に折れる女じゃないってこと、知ってるだけさ」
ごもっともで。それがジュリアだ。
「あたしとしては、明日演れなくってもいいんだ。いや……演りたいに決まってるんだけど、とにかくこの気持ちを忘れないうちに形にしたくってさ。驚かせて悪かったな」
「もう慣れた」晶也は鼻から息を吐く。「だけど完成したとして、もともと練習してた『流星群』は? 新曲と交代になるの?」
これまでとは雰囲気の違う彼女の『流星群』も楽しみであるがために、そうなるのは少し寂しくもある。
「そこは明日相談してからだな。翼の体力のこともあるからさ。時間は問題ないと思うんだけど」
翼の登壇が複数回あることは先ほど聞かされていたので、晶也は黙って珈琲を一口含んだ。時間が押したとしても、融通が利くのは自前のステージがある強みだ。公演を頻度良く行えるのもまた。
「……で、肝心の進捗はいかが?」
目途を訊くと、ジュリアは少しだけ悩むような素振りを見せた。「もうひと踏ん張りってトコ」
そこには行き詰っているわけではなさそうだが、やはりあと一山くらい残していそうな雰囲気があった。
「無理するなよ」
そう言ったところでジュリアが聞く耳を持たないことは重々承知しているが、それと同時に彼女の眼の周りに薄っすらとくまができていることにも気づいていた。無論、それでも美人であることに変わりはないのだが、メイクで隠せないほどになると明日の舞台が心配だ。
対してジュリアは少しも迷惑そうな顔はせず、それどころか楽しそうに口元を緩めると。
「まあ、今日くらいはいいだろ? この公演が終わればどうせしばらく休みだしさ」
今日くらいは――と、先ほど瑞希に夜更かしを指摘された時の晶也と同じ言葉を使った。長く付き合ったカップルは言葉遣いが似てくるというが、そんなところだろうか。彼女にバレぬよう片頬で笑い、「もうそんな時期なんだよなあ」と、晶也は大きく息を吐きだした。
早いよねえ。ジュリアも微笑む。出会ったのは梅雨が明けたばかりの宵。猛暑を乗り越え、あっという間に秋が過ぎて、今やすっかりクリスマス気分である。学校帰りには毎日、駅前に並ぶ華やかなで煌びやかな装飾が目に飛び込んでくる。そうした気分まで明るくなるような光の中をサンタクロースが通り過ぎれば、あっという間に年が変わるのだ。
「慌ただしかった今年も、終わっちゃうんだな」
夜空を見上げて、ジュリアは呟く。彼女にとっては激動の一年間。目に見えぬ疲労もあるだろう。
「年越しくらいはゆっくり過ごせるといいね」
「あー……。そう聞くと急にお雑煮が食べたくなってきたぜ」
「明日の夜はお雑煮にしようか?」
「やめろ。正月まで我慢だ」
わかってないな、と言わんばかりのため息があった。記念日には関心のないジュリアも、さすがに迎春への心構えはあるらしい。意外と礼儀正しいのだ。心の内側でくすりと笑って、
「無事に年を越せたらな」
「楽しみにしてるよ。ちゃんと博多雑煮にしてくれるんだろ?」
「あごだしって普通のスーパーに売ってるかな」
「売ってるんじゃない?」
お雑煮の餅は絶対に丸いやつだよな、とジュリアは白い歯を向けてくる。
彼女は765プロが配信するウェブラジオで福岡に関するエピソードを思い出して語ってみたり、福岡の方言や風習を愛おしそうに話す場面が多く、地元愛が強いように感じられる。
新しい街と新しいステージ。
未だ東京とジュリアのあいだには、いかんともしがたい隔たりがある。
穏やかな笑みを浮かべたまま晶也は、だからこそ帰郷の話題へと転じた。
「ジュリア、年末くらいは帰らないの?」
「向こうに?」
しばらく休みなんだろ、と視線で問いかける。ジュリアはわずかに悩む素振りをしてから、
「……あんたはどうするんだ?」
「帰ろうと思ってる。ほら夏には戻れてないしさ。そもそも毎年、年越しはあっちで過ごしてるんだ」
「じゃあお雑煮食えないじゃないか」
「別に元旦だけって決まりはないだろ」
そんなに食べたいのか。晶也は少しだけ真剣な気配を作ると、
「そうじゃなくて、お前だよ」
「ん……そうだな。あたしもそろそろ地元に顔出さないと、みんなに怒られそうだ」
「ご両親にもな」
ジュリアは無言で頷いてから、微かに笑った。
実を言うと彼女の両親はすでに娘がアイドルになったことを知っている。地上波デビューをしたためか、雑誌に取り上げられたためか、すぐに地元の人の目に付いたそうだ。ご近所付き合いの話題さながら、両親の耳にも入った娘のアイドル生活。ジュリアのスマートフォンがひっきりなしに鳴った事件を思い出す。
そもそも765プロダクションの知名度は全国レベル。考えてみれば千波が知っているほどなのだ。ジュリアと交流のあったクラスメイトやバンドを通じたライブハウス周りの連中にだって早々にバレていたに違いない。
――そういう意味では、まだ本名が割れていないのは凄いことなのかもしれないな。
吐く息が白く漂った。それだけ彼女は本気で応援されているのだろう。
そうして福岡を偲ぶと自ずと祖父母、それから母の顔が浮かぶ。母とは不定期ではあるものの、こまめに連絡を取っていた。やり取りが始まるのは決まって母からであり、チャットアプリには健康や金銭をはじめとする生活を案ずる文面が届く。対する晶也の返事は「問題ないよ」という定型文。たまには進路の相談などが頭を掠めたりはしたが、尋ねずにいた。
そんな簡素なやり取りが続くばかりだったあるとき、電話口で母が「その子と会ってみたい」と言った。厳密には「どうせだし、連れてくれば?」と軽い口調で。あれは晶也が誕生日を迎えた十月の上旬のことだ。祖母から祝いの着信があり、その後代わった母が尋ねてきたもの。
「どんな子なの?」と窺うような声を聞いたとき、一抹の疑念が鎌首をもたげていた。ジュリアとの同居を始めるにあたって、母を説得してくれたのは伯父だ。だが伯父は、それが祖父の葬儀に参列したあの赤い髪の少女だとまでは伝えなかったのだろうか?
喉元まで上ってきた疑問を飲み込み「正月には帰ると思うから、訊いてみるよ」と答えた晶也に、母は「そう」とだけ応え、それ以上何も言わなかった。
「もし帰るならさ」
晶也はちらと、ジュリアを見る。
「ついでにこっちの
「あんたの家かぁ」
「ああ。雑煮も食ってけばいいさ。うちのやつは美味いぜ?」
「……ん、おばあちゃんは元気?」
「電話した限りだけど、元気そうだよ」晶也は頷いた。一拍おいて、「それにさ、母さんがジュリアに会いたがってるんだ」
「あ、あたしに?」
ジュリアがこちらをやや驚きながら見た。
よく母は言っていた。いい人を見つけなさい、と。その文頭に「早く」という単語が
なにも今すぐ……高校生のうちにという訳ではない。
晶也に物心がついた時すでに父親はいなかった。かつてジュリアにも話したことだ。祖父母がいてくれるため、そのことを寂しいとか、つまらないなどと思う隙間はなかったが、東京に越してからは母と二人きり。働きに出て帰りの遅い母の姿に、寂しさを感じたことは幾度とある。
そんな息子に対して母もまた、どこか罪悪感のようなものを感じていたのだろう。そして、
――俺がじいちゃんを亡くして愕然としていたことが、母さんのそんな想いに拍車をかけた。
あくまで推測だ。しかしいくら伯父の推薦と説得があったとはいえ、素性の知れない異性との同居に対して許可をすんなりと出せるものだろうか。晶也は確信めいている。
晶也は小さく息をつくと、付け加えるように言った。
「ま、余裕があればでいいさ。家のこと、大変だろ?」
半ば飛び出してきたかのような彼女の実家と、晶也の出身はそこまで遠くないだろう。彼女が足を延ばしていた可能性はあるが路上ライブの場に警固公園を選んでいたことからしても、チャンスは幾度とあるはずだ。
ジュリアとは長い付き合いになるだろうし、ことを急ぐ必要もない。珈琲を一口啜ってからジュリアを見ると、彼女は少しバツが悪そうな笑いを浮かべていた。ちらと視線が動く。タイミングの遅れた返事があった。
「考えとくよ」
居候の立場からすれば気まずいこともあるだろう。
まずは明日の公演を無事終えてからだね。そう結んで、晶也も視線を彼女から外し、外に向けた。遠くに明かりが灯った夜の工場群。なんとなく見つめてしまう。
見つめてしまい、考える。
――人は、どうして明るいところを求めてしまうのだろう。
星は光。光は夢。何かあったんだろ? 本当は早く訊きたかった。ジュリアの表情の変化の理由を。
あまさず知りたかった。彼女が今日何を見つけ、何を考え、あの曲に命を吹き込もうと決めたのか。そのすべてを。
紆余曲折しているコーラス練習について頭を抱えていたジュリアの姿は記憶に新しい。今朝だってそう。「もう前日だぜ?」と、憂いた背中を見送ったばかりなのだ。それなのに――。
晶也は横目でジュリアを見る。リハーサルを終えた彼女はどうか。まるで憑き物が落ちたかのようにすっきりしている。それどころか、散々手を焼いた悩みの種を引き連れての帰宅ときたもんだ。何かあったのだろうと勘繰らない方が失礼まである。
――だけど、ジュリアの悩みはコーラスのことだけじゃなかったはずだ。
自分自身についてもずっとぐちゃぐちゃと色々胸の中で渦巻いてたはずなのに。まるで嵐のようだっただろ、身体の中。お前あれ、いつの間に捨られたんだよ。半年前と変わらずマグカップは両手で包み込むように持つ彼女。整えられた爪先。なあジュリア……お前さ。
「――――なんで『ぷぅちゃん』なんだよ」
長い沈黙ののちに発された言葉がそれだったから、ジュリアの口からは濁点のついた「え」が出た。目が、見たことないくらい真ん丸になっている。なんだその顔。
「あ、あ、あんたが訊きたいこと…………そっち?」
「も、ちろん」
一瞬ぷっと吹き出しそうになったけど、なんとか堪えて晶也は言った。
ジュリアは小さくため息をついてから、「……絶対に言わない」とぶっきらぼうに告げる。そんな思惑通りの反応に、晶也はわざとらしく肩を竦めることとなる。こうして軽口を叩いた後のほうが彼女の口は滑らかになるのもそうだが、作曲に取り掛かってからずっと弦のように張りつめていた身体には必要な息抜きだ。
「その顔……わざとだな」
魂胆に気づき、胸の奥から吐き出すようにジュリアは諦めに近いため息をついた。
「あんたといいプロデューサーといい、やたらと回りくどい手が好きだよな」
「それは知らないけど」
晶也はあくまでも意地悪く、
「知りたいのは本当だぜ?」
だって、たまにはこちらが長い物差しだっていいじゃないか。大きく笑うと、歯に外気が当たって冷たい。ジュリアは警戒するような凛々しい顔で口をとがらせ、軽くこちらを睨んでくる。
それでいい。そう思った。
だからこそ、その形のいい唇が綻び、「でも」と、続くのは全くの想定外だった。
「でも……そうだな。『ジュリア』の由来なら、教えるよ」
「……え?」
思わず、彼女とそっくり同じ声をあげてしまった。虚を衝かれた一拍のあと、ジュリアを見た。なかなか言葉が出てこない。そんな様子の晶也の瞳を見つめ返して、「なんだよ」と彼女の頬は緩む。
「あんたが知りたいって言ったんじゃないか」
「……言ったけど」
まさか教えてくれるとは思っていなかった。ジュリアが『ジュリア』である理由を教えてくれるって、つまり、ジュリアの……。しどろもどろになった晶也に向かって、
「混乱しすぎ、ワケわかんないって。つーかあたし、『いつか教える』って言わなかったか?」
「それはてっきりはぐらかされたとばかり。ほら、行けたら行くみたいな……」
「あたしを何だと思ってるんだ」
食わせ者。声色を変えずに言うと、ひどっ、とジュリアは顔をしかめた。顎先に手をやって、あたしそんな感じで言ったっけな、と小さく首をかしげるが、やがて「……一つ、思い出したことがあるよ」と、彼女は垂れてきた前髪を払いあげた。
「あんたが『爺ちゃんの葬式の時の芳名帳でも見てみる』って反則技使ってきたんだったな」
彼女の声真似が若干似ていたものだから、晶也は正解、と笑いながら言った。
「ズルいヤツだったな、あんた」
晶也は悪戯を見抜かれた少年みたいに肩を盛り上げると、
「それはお互い様だろ。忘れてないからな、この生活を持ち掛けてきた日のこと」
ジュリアもくすっと小さく笑いを立てた。
「返す言葉もないよ」
やはり思い返してみると、出会った頃の彼女はどこか油断ならない相手だった。自分勝手で、強引で、まるで成功を疑っていないかのように勝気な表情をしていた――そんな彼女に、当時晶也はこう問いかけている。
――芸名でデビューするつもりなのか、と。
そのときのことで鮮明に覚えているのは、彼女の返事に一切の迷いがなかったこと。本名以上にしっくりくる――彼女にそう言わしめた名前には。
「……特別な思い入れがあるって、言ってたよな」
「うん。あの時話さなかったのは、別にあんたのこと、信用してなかったワケじゃないからな」
ただ、タイミングが違っただけ。長い溜息のような深呼吸の後、ジュリアの目が懐かしむように細められた。その瞳は、パンクな柄の赤いマグカップに向けられている。上京に伴って彼女が持ってきた持ってきたものだった。細い指先でいとおしむように撫でながら、一言。
「