零すような声だと思った。
「――――あたし、気が付いたんだ」
冬の夜に放たれた彼女の声は澄んでいた。それはまるで纏わりついていた砂や泥がすべて漱がれたあとに残った、真珠のように繊細で美しく――。
ようやく分かったんだ。もう一度、ジュリアが長い瞬きをしながら口にする。瞼が大きく持ち上げられると、強く、揺らぎのない視線。
「
それは悩んで悩んで、悩みぬいた末に、彼女が見つけた
「明日のライブで……あたしのパフォーマンスで証明するって手もあったんだけど。でも、こればっかりはちゃんと言葉で伝えたくてさ。……いいだろ?」
晶也が頷くと、続けてジュリアは「アイドルらしさへの固執」という言葉を使った。
「肩書ってのは……危険だな。世間一般に渦巻くアイドル像。あたしはそれを求められてると勘違いして、少しでも近づくことを渇仰した。皆が誉めてくれる『カッコいい』って言葉だって、嬉しいのはホントなんだけど、華々しさの象徴……アイドルらしくはないと思ってる自分がいて。歌い方も、同じ。このままアグレッシブなスタイルを強調していいのかなって。次第にロック・アーティストな自分を出しちゃダメだって考えるようになってた。望まれているものが本当の自分とはほど遠いものであることが苦痛だった」
一度固まってしまったものを取り除くのは難しい。そのことを晶也もよく知っていた。彼女の場合、アイドルとアーティストを分けてしまったがために陥った負の連鎖。前には進んでいるのに、心のどこかで戸惑いつつある自分を感じて、葛藤していたのがジュリアだ。
「違ったんだな……。肩書なんて、関係なかった」
寒空にジュリアの声が吸い込まれる。
杭のように胸の深いところに刻まれていた言葉を取り除くのに、どれほどの痛みがあったのだろう……。
晶也はじっと耳を傾け、ジュリアの打ち明ける言葉に全てを捧げていた。
「人それぞれタイプが違う。それが個性となって、他の誰かとの区別になってるんだ。だから、あたしはあたしのままでいいんだなって……そう気づいた」
ジュリアは持ち前の鼻に掛かった声で笑う。
「だからあたしが、翼を理解できないのも当然っちゃ当然でさ」
歌唱に対する考え方や、行動のあり方に齟齬を感じることが多いのも、違う人間だからだ。たとえ
「それでもそんな誰かのことを、尊敬することならできる。だってみんなもあたしと何一つ変わらない人間で、同じように悩んで、努力していて。それから勇気を出して自分の足であの舞台に立ち続けているから」
ジュリアは、息を継いだ。
「……あたしは今日さ、二人に教えてもらったんだ。『見る』ことを」
「『見る』……こと?」
彼女の目が覚めた訳をリハーサルが大成功を収めたのだとばかり思っていたが、ジュリアが体験したものはそれをはるかに上回るほど壮絶なものだった。浸るような瞳でジュリアは語ってくれた。翼の遅刻から始まる濃密な一日を通して、その眼で見たものを。瑞希の芯の通った優しさや、翼がいかにして「楽しい」と笑えているのかを。
「二人が、あたしを見てくれていたように……あたしも向き合ってみたんだ」
「そうだね。俺も――」
――安心しました。シアターに、ちゃんとあいつを見てくれている人がいることに。
これは、あの日の765プロで、自分が美希に伝えた言葉。晶也はゆっくりと、自分自身の思考を頭の中でまとめる。
「ブログの話のときにも感じたよ。本質を捉えられる、彼女たちの尊さを」
そんなジュリアの言葉どおり、肩書とはなんとも危険なものだろう。
例えばだが、偉大なアーティストや世界で活躍しているアスリートがいるとしよう。それらの優秀な人物に対して人々はどこか自分とは対極にある完全無欠な人間の像を当てはめがちではないだろうか。もちろん才能や向き不向きというものはある。だが、「天才」という
それなのに人々は、彼らも自分と同じ一人の人間であることを忘れ、背景事情は気になってもその過程は見ようとせず、努力などしていないと思い込んでしまう。
――俺が美希さんに対してトップアイドルに限りなく近い天才――という自分とは違う枠組みで見てしまっていたように。
「それぞれタイプは違っても、何一つ変わらない人間……か」
「ああ……。自分のことで精一杯になりすぎて、色んなものを見失いかけてたよ」
ジュリアのような、何かを生み出す側の人間でさえそうなんだから尚のこと――。
「アイドルだから余計にそうなっちゃったのかもね」
晶也は少し悩んでからジュリアの顔を見た。
恣意的に努力や苦悩を隠す彼女たち。常に輝かしい側面だけを体現させなければならない職業だったからこそ陥ってしまったものでもあるように思えた。
「いや、違うさ。アイドルだからそうあるべき――。そう思い込んでいたからこその苦悩だよ」
「ああ、そっか。……難しいな」
「難しいよね」ジュリアの頬が微かに上気する。
ジュリアが、ふいに遠くを見つめる目つきをする。視線の先が、クリスマスのイルミネーションを飾っている家を見ていた。ピカピカと点滅するネオン。晶也の脳裡にはふと、ライブハウスが浮かびあがった。
「でも、こう考えたらどうだ?」
ジュリアも同じ光景を思い浮かべたのだろうか、上着のポケットからギターピックを取り出すと、親指の爪で器用にトスをした。
「ウチらが憧れてきたアーティストたち……ミュージシャンは、需要に合ったものを提供し続けるような存在じゃない。自分の考える『ロックンロールな音』を常に提示し続ける生き物だもんな。だから……」
――だからあたしも、自分らしさを表す音を。
短い沈黙のあと、ジュリアの声が鼓膜の奥に静かに響いた。言葉に、もう迷いはなかった。
晶也はただジュリアを見つめていた。毅然として前を向く、彼女を見守るように。それだけで十分だった。
「ねえ、晶也。このピック、あんたにあげるよ」
「ピック……?」
差し出された手のひらに、特別な意味はないのかもしれない。だが、脳内には、もし弾きたくなったときに死んでたら嫌だからな――と強引に弦を買ってよこした千波の声が再生されていた。
あたしの目が覚めた記念。ジュリアはそう言った。「あとで日付も書いてやるよ」まるでサインボール感覚だ。
「受け取っといて損はしないと思うぜ」
ジュリア、お前は――。
「……どうして?」
――お前も、俺に……。
観念したようにジュリアの手のひらから受け取ると、彼女は嬉しそうに、
「なんたっていつか幾千万の価値を誇るようになるだろうからな♪」
「俺に売れっていうのか」
「じゃあ使う?」
「……う」
満足そうに頷いていてからジュリアは、思い出したかのように指を一本立てると、すでに次の話題に移っていた。
「高いピックといえば、知ってるか? 隕石から作られたギターピックがあるんだってさ」
「え、マジで? 隕石から?」
彼女の本気を確かめるよりも、興味をそそられる話だったのが悔しくもある。いったいどこまでが彼女の手の内なのか。
「昔調べたことがあってね。ええと、どこだっけな。確かオーストラリアの会社が制作したとかで、買えばちゃんと隕石の証明書も付いてくるんだと」
「さすが、詳しいね」
しかし隕石のピックか。星を冠した曲まで持ってるジュリアにはぴったりだ。いつかそれを携えた彼女も見てみたい。言われなければ気づかないくらい小さな物だけど、きっと、すごく似合うんだろうな……。
今のだってお気に入りなんだぜ? 彼女はにっこりと笑いながら、流れるような口調で続ける。
「昔はほら、あたしもバンドマンだからさ? ピックをステージから客席に投げたりしてたもんさ。ふふっ、それだって安くないのにな」
「上手な人はまるでブーメランみたいに飛ばすよな」
「そうそう。んで、人気ない人のは誰にも拾われなくって、終演まで床に落ちてて靴の跡が付いちゃってるとかな」
良くも悪くも正直な世界だったぜ。やれやれと首を左右にひねる彼女の声の中にはやはり、どこか懐旧の情があるように感じられる。
「しっかり、地下の住人だったんだな」
「今思えば中学生が入れるんだから、危なっかしいよな」
晶也は微笑を浮かべながら、頷いた。
地下と呼ばれるライブハウスは、一般的に数十人が入場できる程度の、比較的小規模な舞台だ。
ジュリアの言葉通り、独特のアンダーグラウンドな雰囲気が漂う場所だが、若手アーティストや地方の音楽シーンを支えるという重要な役割を果たしており、ライブミュージックの文化を育む場として多くのファンに愛されている。
「……でも、ああいう場所はいつまでも必要だと思う」
「そうだな。近頃は小さい箱がどんどん潰れていってるっていうから、ちょっぴり寂しいよ」
「ジュリアが地下労働してた箱はまだあるの?」
「おいおい、別に昔のあたしもそこまで地下暮らしじゃないっつーの」
並びのいい白い歯を覗かせながら、背中を軽くはたいてくるジュリア。昔のジュリアか……。
昔の彼女を想像しながら渡された黒色のギターピックを裏返してみると、無地のそこには白いペンで彼女のサインが書かれていた。一筆書きの星。この『ジュリア』という名は、いつから彼女を支えてくれていたのだろう。
「……それに、仲間と一緒に地上を目指していたからな」
地上でなければ、星を見ることはできない。
急に表情を改めたジュリアに、晶也ははっと我に返った。
「あの頃のあたしは、ただ歌えれば良くて……ただ楽しいから自分のために歌ってた。それで誰かが喜んでくれたら一石二鳥な感覚で。別にそれが悪いってことはない。むしろそんな素直な歌い方は、ロックな生きざまだなって思う。……でもさ」
不思議なんだ。長いまつ毛を伏せて、彼女は囁くように言った。
「でも、今のあたしはどうやら、それじゃダメらしい。――一人きりじゃ……聴いてくれる誰かがいなきゃ、ダメなんだ」
その言葉には素直な響きがあった。お湯の中に手を突っ込んだ時のような暖かさが、じんわりと全身を包み込んでいた。ジュリアが心の内側を覗かせてくれるのは初めてのことではなかったが、今度ばかりは色も深みも桁違いなほどに感じ、晶也は思わず彼女を見つめた。
「この前さ……あんたが楽器を止めた理由、打ち明けてくれただろ?」
その穏やかな色は、晶也の心の水面にもそっと触れる。「おじいちゃんのために奏いてた、ってやつ」と彼女が付け加えると、晶也の脳裏に祖父のことが鮮やかに滲んだ。穏やかで真剣な顔つき。丁寧に楽器の手入れをする背中。レコードに針を落とす仕草。
「あたしはそれを間違ったことだと思ってた」
それからとある言葉が蘇って、弾ける。
「でもねえ、晶也。あたし思うんだけど」
ジュリアが顔を上げ、美しくも挑戦的な目が自分を見つめる。
その声を、ほとんど無意識に、晶也は遮っていた。
「――君のような若い『め』がこれからの音楽を支えていくのだろう」
口を衝いて出た言葉。
それは実直で、清らかで優しい、祖父がジュリアに伝えたというもの。
「翼も晶也も、なんで今日はあたしの言葉を遮るんだよぉ……」
彼女は一瞬大きくうなだれたが、晶也の放つ真剣な気配を察知したのか、すぐに表情を変えた。長いまつ毛の下に滲ませた、疑問の色。背筋をしゃんと伸ばして。
「それ……おじいちゃんの言葉だよな。どうして今……」
「遮ってごめん。俺さ……一つだけ、ジュリアに伝えそびれたことがあったんだ」
「伝えそびれた?」
空中に指で『め』という文字を書く。晶也は一度大きく息を吸い、目に力を込めて彼女を見つめた。自分をずるいやつだと思う。誠実ではないと。伝えそびれた理由はただ、半年前の自分がそれを信じ切れていなかったからだ。
「教えてほしい。ジュリア、これ……なんて変換した?」
「『め』……って、『芽』じゃないのか……? ほら、芽生えたとかの」
不審そうな顔をしながらも、彼女はそれがどうしたといった様子で答えてくれた。だから――。
「よかった」
自分でも驚くほど潤んだ声が出ていた。
「……よかった?」
神妙に繰り返すジュリア。晶也は自分の体温が上昇していることに気づく。小さく頷くと、もう一度よかったと口にしてから彼女の手をそっと握った。
本来、長い間彼女がその言葉を正しく捉えられていなかったのは残念なことなのかもしれない。だけど――答えを見つけられた今日だからこそ、祖父の真意を知る意味があるように思えて仕方がなかった。
「じいちゃんはさ、あの言葉を『愛』って漢字で使ってたんだ。…………意味は、『純粋な好きだという気持ち』」
ジュリアの瞳が驚いたように揺れた。
もう、これ以上の説明は要らないはずだ。なぜって、彼女は……ジュリアは自力でそれに辿り着いたのだから。
歌うことが好きで、音楽が好き。そう言ってのけた彼女の笑顔はずっと晶也の脳裡で咲き続けている。
何度目になるだろう。
今のジュリアが志向するアイドルは、彼女自身が商売道具となる道だ。上手くいかないこと、思った通りに物事が進まないことばかりだろう。だからといって卑屈になる必要はないが、たとえ押し入れの奥底に隠したとしても、いずれは自らその扉を開けて、そこに追いやったものと向き合わなくてはならない日が来る。
悩みとは受け入れなければならないものなのだ。そして最終的に越える必要がある。
なぜなら、人々はそれを『成長』と呼ぶのだから。
――だけど、それって難しいんだよな。ジュリアほど真っ直ぐな人でさえ、目を背けたくなるほどに。
悩みを受容するためにはそれと向き合い、
人は何のために生きるか、と学校の掲示板のコラムに目を止めたのは、いつだったか。
手段の目的化。自分を通じてロックを届けることが目的だったはずの彼女は、その手段であったアイドルになる――いや、アイドルらしくなることに拘泥した。だから本来の自分らしさを取り戻すに必要だったのが
大袈裟かもしれないが、ジュリアが――人間が本当に欲しているものは意味深く生きることなんだと思う。それは実在した時間ではなく、充実の度合い。そして、有意味で在るのはきっと……それが何かのため、誰かのために苦悩し行動するときなんだろうな。何かとのかかわりが見えて初めて、『意味』が了解できる。
正しいとか正しくないとか、はっきりした答えのある問題ではないことはわかっている。正しいと思えばすべてが正しいし、間違っているというのなら、初めてから全てが間違っている。それでも共に同じ答えにたどり着けた。そう思うと、しみじみ嬉しかった。そのことが晶也の心を震わせた。
やがて「そっか」と弾んだ声がして、ジュリアの顔に笑みが広がっていった。「め……。『愛』か、なるほど。ああ、そっか……」
二度も三度も噛みしめるように、口にする。数秒瞑目したあと、
「夏の、料理の時に一度は思い出せたはずなのになぁ」
「あの収録で?」と晶也。
「まさに無我夢中だったんだよ」
夜空を見上げて、ジュリアは淡く笑った。
「……人が喜んでくれるのを見られるのは、気分がいいよなって。もっと喜んでほしくなって、また頑張って、そしたら期待以上に喜んでくれて――」
そういう、無限ループ。
――誰かがいるから。
「あんたも、そうだったんだな」
そう言って、納得したように、軽く目を閉じる。
彼女の熱い気持ちと、一直線に向かう強い衝動はどこから来ているんだろうって思っていた。だけど別に、珍しくもなんともなかったんだ。それを自分も持っていたのだから。少し遅れて、本当にそうだ、と実感した。
「俺のは、もっと
「ふふっ。純粋な想いだけでいいんだろ?」
ジュリアの目が再び晶也の顔を捉えた。
こういうときのジュリアはまともに見返せないほど優しい顔をしている。
「おじいちゃんに向けた、あんたの音は綺麗だったんだろうな」
彼女の柔らかな髪が夜風に揺れるのを見つめながら、晶也は長く、息を吐きだした。静かに体の奥からせりあがってくる感情に気が付いていた。それが、ジュリアが今しがた口にした種類のものだということも。
でも、ここに祖父はいない。今ここにいるのは、情熱的な美しさを持ったジュリアという名の少女だ。俺が大好きな、星を
彼女に向けた音ならば、俺は、あの頃のような音が出せるのだろうか。祖父が褒めてくれた、絶え間ない『楽しい』の気持ちを伝えられる音を――。