「ねえ晶也。あんたは後悔してる?」
「後悔?」
俺たちが『後悔』と呼んでいる感情、その正体はなんなのか。
「うん。ギターを辞めちゃったこと。おじいちゃんの死に囚われていたこと。そして、あたしに秘密にしていたことも」
俺たちは目を背けていた。何よりも尊ぶべき『愛』を持っていた自分から。なぜって、失ってしまったそれがあまりにも眩しいもだからであり、その延長線上にあったであろう『IF』の世界を見てしまうのを恐れていたからだ。
晶也は祖父を失った自分が鳴らす音が、美しい思い出さえも破壊し尽くしてしまうほど醜悪なものになることを恐れ、ジュリアは、アイドルじゃない道に進んでいた自分を想像してしまう夜を幾度も繰り返した。
一度、悪い方向で想像を始めると、より深く沈んでいくようで余計に逃避の衝動が増していく。痛く、苦しかった時間。だが、果たして後悔とは本当にただの不愉快な感情に過ぎないのだろうか。
「でも今は……思ったよりも悪い気分じゃないよ」
「それはどうして? 教えて、晶也」
晶也は目を伏せ、小さく頷いた。手すりに摑まる手に力を込める。
「……そうした過去にも、意味があるんだって、気が付いたから」
知らなかった。後悔にも、二つの種類があるんだってこと。一つはトラウマの要領で、恒久的に精神を激しく痛めつけるもの。だが、もう一方は一時的なもので――人の能力を高められるもの。
「バネにできる後悔があるってことを、知ったんだ」
後悔は、なりたい自分を教えてくれる。
後悔の念は、自分が何に価値を置き、良き人生を送るにはどうすればいいのかを教えてくれる。
ジュリアの目が晶也を見上げた。そして、
「そう……! そうなんだよ晶也!」
「ああして悩んだからこそ、今のあたしがいる。悩んだことも材料、そして武器なんだ。あたしにはアイドルらしさに固執していた過去がある。その時の感情を媒介にして、行動を……未来を決める。今のあたしにはそれができる」
悔しさをバネに、って。
「あたしの言葉でいうなら、後悔はチャンスだ……ってな♪」
悩んだことがある。壁にぶち当たったことがある。何度もぶつかって、転んで。たとえ道を間違えたとしても、その過程には誰にも侵されない価値が宿っている。
今の自分は、そうした積み重ねの上に立っている。だから何回だって迷ったってかまわない。
時の流れは移りゆけども、過去となって
「自分のすべてに……初心になって向き合うことで、あたしはやっと大人になれた。そんな気がするよ」
「大人?」と思わず晶也は訊き返した。なぜだか含んだところのある言葉に感じたからだ。冬の空気に吐きだす息が白い。ジュリアはこくんと頷いた。
「――ああ。おじいちゃんの言葉で言う、『愛』だけを持っているのが子供。今の翼がそうだし、料理中のあたしもそうだったな。そして何より、音楽に出会った頃のあたし。難しいことなんて何にも考えてなくて、ただ目の前のことに夢中になれる最高の瞬間。……だけど」
そんな無敵な状態もいつかは必ず終わってしまうんだ。あんたなら分かるだろ? 吐息交じりの言葉が晶也の胸をざらりと撫でる。
視野は広くなり、よく見えてくる虚構に満ちた世界。知識や経験というものが、助けになるばかりではなく時に邪魔をする。心は常識やルールという名の固定観念に支配され、どんどん丸く、つまらない人間へと成ってゆく。
「……それが『愛』を失った状態。この前までのあたしだ」
「色んなことを知る……」
晶也は少し考えこむように首を傾げた。実際に人は年齢の他にも、ジュリアが言うような知識や経験を身に着けることを大人になったと言ったりする。だが、彼女の口ぶりからすると、そうではないのだろう。尋ねると、彼女は「ちょっと違うな」と確かに首を振っていた。
「純粋さを失ったことや、色んなものを取り込んでしまったこと……もう戻れないことを自覚する。それでも抗うのが大人だ。目的と意味を見つけて、それを『光』として、また努力することができる。子供みたいに……まだ信じる力がある、って前を向けるのが大人なんだよ!」
ジュリアは途中から笑顔いっぱいになっていた。
彼女から夢を聞かされたときと同じような感動があった。
それから力強く、まるで宣言をするような声で彼女は、
「今までプロだのなんだの言ってたけど、あたしは本当の意味で、大人の世界を理解したよ。夢は――……」
「夢は?」
ごくり、と唾を飲み込む音が鼓膜の奥に響く。
「夢は、目を開いてみるものなんだよ。――だって」
色んな束縛に塗れた現実。それをぶち破ることができたなら、それは最っ高に素晴らしい「アート」になるんじゃないか?
それが、ジュリアの新しい解釈だった。すうっと心の中に入ってくる。そんなスタイルは紛れもなく彼女が大好きな「ロック」な生き方で、情けないけど、また泣きそうになった。景色がにじみ、光が揺らぐ。そんな晶也を見ながら、ジュリアは「しょうがないなぁ」とでも言いたそうに笑っていた。
人間は失敗をする。挫折も経験する。間違いもあれば、逃げたりもする。でもそれが成長するために、前に進むために不可欠なものだとしたら。後悔が人生の本質的要素であるのだとしたら――。
「俺も、大人になれてるのかな」
なってるさ、とジュリアははにかんだ笑顔になった。「よく言うだろ? 闇を知っている人じゃないと、光は見つけられないって」
光の中にいるときは、光を意識することなんて滅多にないんだ。そう呟く「大人」を、晶也は素直に称賛した。
「確かにね。……ようやく、地に足つけて前向いて生きていくことができるのかもな」
「ここ、ベランダだけどな」
「絶対そのボケ要らないだろ……」
くっくっくっとジュリアが芝居がかった笑みを浮かべると、晶也も思わず笑ってしまった。ずっと大人びた彼女と話していたからか、不意にそんな彼女を懐かしく感じてしまうほどに。
いつの間にか、頬に当たる風はとっくに冷たく感じることがなくなっていた。ジュリアから発せられる空気が、晶也を包んでいた。
人は、未来を知る必要はないし、知りえない。……だから、未来にちょっと夢を見るのだろう。
深更に大きく息を放って、ジュリアは言った。
「極論、人は食べ物と水と、寝床があれば生きていける」
「突然な暴論だな」
「だけど、あたしにはギターと、あたしの歌を聴いてくれる人が必要だ」
照れ隠しだろうか。くすりと笑ってから、彼女は遠くを見た。
「それだけじゃない。昔のバンドメンバーも、シアターの同期も先輩も。それから裏方で舞台を作ってくれる大人たち。今も、福岡でも。あんたのおじいちゃんとお客さん……みんながあたしの周りにいて、だからあたしは――」
「結構挙げたな」
「あはは、欲張りかな」
「いや……それがお前だよ」
「――そういうこと」
ジュリアは、嬉しそうな表情を浮かべて、大きく頷いた。
他とのかかわり。意味深く生きるというのは、そういうものなのだろう。生きてきた時間の結晶が今だ。これまで自分を支えてきたそのすべてが……。
「一つ一つがあたしを作るから……」
意外なほど真面目な、しみじみとした表情で呟く彼女が、とても眩しかった。
クリスマスのイルミネーションなんか比べ物にならないくらい、明るく見えた。
人との出会いほど、人生に大きな影響を与えるものはない。
「で、今挙げた中に俺が出てこなかった理由は?」
「あれ? 聞き逃しただけじゃないのか?」
顔をこっちに向けて大袈裟に笑うジュリアを見ていると、頬のあたりが緩みそうになる。
「まったく素直じゃないな、ジュリアーノは」
「あーっ! そう言うならもう話してやんないからなっ!」
晶也は小さく笑みを零すと、顔を近づけ口づけをした。
「やられた……。恥ずかしいヤツだな……あんた」
手の甲を当てて口元を隠す彼女。隠し切れていない照れと、睨んでくるジトっとした目つき。晶也はこの顔が好きだ。
「先に意地悪したのはジュリアだろ?」
「ふんだ」
ジュリアは少しだけ不満そうに唇を尖らせる顔を作った。が、「感謝してるよ」呟くような声で言うと、深い感謝の意を込めて唇を重ねた。
「――あんたにはとびきり、な」
そこにはもう恥じらいの色はなく、晶也はその甘い触れ心地と共に、ジュリアからの深い感謝の気持ちを感じ取った。
しばらく二人の間からは会話が途絶えた。二人の視線は交わることもなく、前を向いていた。
「あたしは歌うことが好きだ。もう一度、素直な心に従ってみるよ」
静かな決意に満ちた声。しかし力強い言葉だった。
「ああ、早く歌いたいよ」
愉快そうな彼女の言葉が、心の奥にひっそりと置き忘れていた感情を呼び覚ますように、晶也の身体へ染み渡る。聞き入るうちに、自分の中に抑えようのない特別な気持ちが巣くいつつあることを自覚していた。
今はもう澱みの消えた瞳で静かに遥かな高みから降り落ちてくる光を、歌うように言う。
「今日は、星が見えるな」
晶也がつられて空を見上げなかったのは、その横顔に魅了され、どうしても目が離せなかったからだ。
彼女の笑顔を独り占め出来たらどんなにいいだろう。だけど、それは沢山の人の『想い』に支えられていたからこそ存在しているものだ。晶也にできるのは、その笑顔を守るうちの一人でいることだけ。
だけど一連の彼女の言葉は、
――音楽、か。
常に音楽が自分の人生に寄り添って励ましてくれた人生だ。
俺とジュリアは似た者同士だったのだろう。お互い過去から目を背け続けていた。その一方で心の奥底ではいつまでも縋り続けていた。そんな自身が生み出した
心の闇から救ってくれるのは紛れもない心の力。誰か優しい心に触れる時、初めて見える光が――ある。
――誰かを想ってこそ発揮される力って、あると思わないか?
いつかのジュリアの言葉が、耳のすぐそばで蘇る。たまらなく熱いものが胸に込み上げた。
「さて……そろそろ戻ろうか。あんまりミズキを待たせるのも悪いしな。……って、なぁに見てんだよ」
唇には甘い笑み。ジュリアがにんまりと口角を上げる。ふつふつと沸き上がる気泡のような力。今や、この一刻一刻が、たまらなく愛おしい。それらをひとつひとつ、抱きしめて。
「…………なあ、ジュリア」
ジュリアが言っていた。光があるから頑張れると。そうだ――俺に本当に必要だったのは手を差し伸べてくれる舟なんかじゃなくて、正しく導いてくれる
胸に、瞼の奥に暖かい光が差すのを感じる。
本当はたくさんの感謝の気持ちを伝えたかったのに、ジュリアにはほとんど何も伝えられなかった気がする。だから……。
「作曲、俺にも手伝わせてくれないか――――」
☆☆
「先に戻ってて。すぐに行くから」
自室に戻るなりクローゼットを開ける。ギターケースを引き出すと、部屋の中央で
緩めてあった弦を、ニッパーで一つずつ切断してゆく。小気味いいプツンという音を黙って六回聴いた。次いで新しい弦。千波に貰ったそれは本棚の一番端に袋のまま放り込んでいた。
「……
開封しながら独りごち、苦笑を漏らした。ほらな、と誇らしげな悪友の表情が容易に浮かんでしまう。だが、言い逃れが出来ないほどの特別な高揚感が晶也を包んでいた。まるで自分がずっとこの時を待っていたかのような――。
クロスで丁寧に拭いて、弦を張る。ストリングワインダーも、ストリングストレッチャも手放すことができなかったのが答えなのだと、今では思う。ペグを回して徐々に音程を調整してゆく。どれも祖父から教わったものだ。
準備の整ったギターを前に、一度目を閉じる。
もう会うことは叶わない。だけど、晶也の心の中に祖父がいた。この瞬間も、あの変わらぬ穏やかな表情で見守ってくれているような祖父を想った。
今までずっと囚われていた。泥のように重たい後悔に。だけど……傷つかないように、必要以上にかかわらないようにしていると、いざぶつかった時、その痛みに耐えられないのだ。今ならわかる。半年の間、それをジュリアが少しずつ洗い流してくれていたことが。
晶也は吐息を落とす。決別を込めて。
大丈夫。痛くない。
音楽は夢を通じて『正しい道』を教えてくれる。でもやっぱり、俺が音楽という価値を好きになれたのは、それが大切な誰かに属していたからなんだろうな。
一度傷つくと、みんな殻に閉じこもりたくなる。でも、いつかは出なくちゃいけないんだ。人は何があったって今、今日、明日を、新しく作っていかなくちゃいけない。死せる人々のことを偲ぶだけでなく、今生きている人のためにできることが、俺にだってある。
彼女が教えてくれたことだ。過去に振り回されるよりも、かけがえのないこと。
――誰かを想ってこそ発揮される力って……あると思うんだ。
今は俺も、そう思えるよ。今度は声に出していた。
幸せってのは、必ずしも自分のためだけにあるのではないのかもしれない。むしろ、自分ではなく、大切な誰かの幸せを追求するための方が、頑張れる気がするし、得た時の喜びも大きいのかもしれない。――俺にとっては、その
目を開くと、清々しい気持ちになっていた。
この偶然を、この奇跡を信じてみたくなった。
彼女と同じ時代に、同じ世界で生きている歓びを。そして自分も持っているかもしれない可能性
「驚くだろうな……あいつ」
ジュリアの出した答え。ヒトツヒトツが自分を創るということ。
成功も。失敗も。過去も。未来も。目標も。反省も。意欲も。努力も。好奇心も。継続も。逃避も。仲間も。ライバルも。嫉妬も。それから、感謝も。
無駄なことなんて何一つない。月並みな言葉だ。だけど、その通りなんだよ。
「夢は、目を開いてみるもの……だったな」
だから俺も前に進む。進むことができる。きっと、進んでいる。
これは自分の音を見つけに行く旅なのだから。