気まぐれかもしれませんが、ここまでお付き合いくださり、本当に、本当にありがとうございます。
もはや自己満足の域ではありますが、時間をいただきますが、必ず完走いたしますので、どうかお付き合いください。
気が付くと濃紺だった外が白んできていた。朝の到来だ。大きく伸びをしたジュリアは、傍らで雑魚寝をしている二人と、堂々とベッドを占領している翼の顔を順々に見て、微笑を浮かべていた。
「……びっくりしたなあ、ホントに」
ギターを担いで部屋に突入してくる弟の姿に、どれだけ驚いたことか。深夜だということも忘れて仰天した。後ずさってコップを倒してしまったり、瑞希に頬をつねってもらったら思いのほか痛かったりと、散々な驚き方をしてしまったが、とにかくそれは現実だった。果てることなく想像していた彼がギターを弾いている姿が、瞼の奥に思い出され、目の前の光景と緩やかに重なった。涙が溢れそうだった。
床には書きかけの歌詞や楽譜が散らばり、机の上には空になったコーヒーサーバーと、三つのマグカップ。
そしてジュリアの傍らには概ね完成した歌があった。
寄れば文殊の知恵も出ようもの。瑞希と晶也の助言のおかげで、曲がどんどん形を成していくのが楽しかった。二人の言葉はジュリアにたくさんのインスピレーションをもたらし、ひたすらに没頭することができた。少しでも良いものにするために何度も議論を重ねた。探して、試しては、過ぎていく時間。広く深い音と詞の海を力を合わせて漕ぎ続ける。時には意見がぶつかり合うこともあったが、それすら楽しかった。自分一人じゃできなかった。
――音楽って。
ジュリアの胸が嘆息する。貧困な語彙しか持たないあたしだが、懸命に言葉を探して、結局出てきたものは一番最初に思いついたものだった。
「歌ってのは、どういういきものなんだろうな――」
気が付かないうちに身体や心、空間や社会性に侵入していて、人と人とを結び合わせてくれる。
穏やかな気持ちで紙を拾い上げ、机の上でトントンとまとめる。まだ少し細かい調整は必要だが、ここから先は翼の力も必要だ。スタジオで実際に彼女の声に合わせながら仕上げることになるだろう。
「そうか、名前も決めてあげないとね」
いつまでも『未完成の曲』じゃ、締まらないもんな。
仕事が済んだことを自覚した瞬間、とろりと眠気が襲ってきた。
さすがに眠いなあ。瞼をこする。
時計を見ると、六時前だった。二人とも三十分くらい前までは起きていたんだけどな。「お疲れさま」そっと晶也の髪を撫でた。悩みも、葛藤もしただろう。だけど彼はそれを受け止めて、手に取ることに決めたのだ。もう一度。
「おかえり……の方がいいかな」
愛がいっぱいに詰め込まれていて、魅力あふれる世界へ。
シアターが開くまではまだ時間がある。少しだけでも休んでおこう。とりあえずシャワー浴びようかな。なんか汗臭い気がするし。立ち上がると、固まっていた背骨がみしみしと鳴った。集中しすぎたな、こりゃあ……。
リビングに行って、彼らを起こさぬよう静かに後ろ手で戸を閉める。サイドボードの上にあるコンパクトサイズの遺影。黒々とした縁取りは洋風のこの部屋には馴染まないけれど、おかげで日々その存在を意識出来ていた。毎朝の晶也に倣ってジュリアも手を合わせ、ひとりごとのように語りかける。
「……おじいちゃんのおかげで、あたしはここまで来れたよ」
昨晩、晶也に教えてもらった『め』の本当の意味。彼の祖父が伝えてくれたものを、ジュリアは正しく捉えられていなかった。
「教えてくれたもう一度の勇気。それは……もう一度、こどもみたいな素直な自分を信じてみることだったんだね」
――でも。
あたしが詠んだ『芽』も、間違っていなかったと思う。若い芽。それはつまり、出てきたばかりで、まだ何色にも染まっていない澄み切った心。かの純粋な想いに通ずるところがある。
若い芽。若い愛。それじゃあ。
――あたしは、『こどもみたいに、
「……いいよね?」
遺影の彼はもちろん何も答えてくれるはずもない。
だけども写真の瞳は、どこか穏やかに凪いでゆくようにも見えた。
☆☆
「ジュリアーノっ! 瑞希ちゃん! 早く早く~!」
二時間後。軽い足取りで我先にと玄関を出てゆく翼。
ジュリアは瑞希と並んで、開いた扉から射し込む光に目を細める。冬の朝の陽ざしはまるで彼女を歓迎しているようだった。きらきらと反射する艶のある金髪は、楽しげに揺らぐ。ライブに向けてのコンデションが抜群であることを物語っていた。
「あのなあ翼、ウチらはほぼ徹夜なんだぜ……?」
まさか自分がこうして翼にシアターへの足取りを急かされる日が来るとは思わなかった。
「しかもこれからお前が歌を覚えるまで、練習しなくちゃならないし……」
「大丈夫! わたし、すぐに覚えちゃいますからっ!」
翼の、張りのある頬がにいっと横に伸びる。「たくさん休憩時間作っちゃいますね」と、踵を支点にくるりとその場で一回転。ふっと挑戦的に笑む彼女を前に、こういう時だけは無性に頼もしいんだから、ジュリアと瑞希はそう微笑み合った。
「期待しています、伊吹さん」
あたしも信じてるぜ。ジュリアは声に出さず、同意した。
疲れている。だけど妙に他人事のように感じる。自分たちを包むこれは、満ち足りた疲労感。
「あんたも眠そうだな」
遅れてやってきた晶也に悪戯っぽく笑いかける。「しばらく夜更かしは勘弁」と、サンダルに足を通しながら、彼は大きなあくびをした。目元にはくまができている。
「身体も痛いし」
「あたしも。帰ってきたら腰揉んでよ。腰が一番痛い」
「今日は交代だからな?」
「つーか、あんたは寝るなら床じゃなくて自分の部屋に戻ればよかったのにな」
「寝落ちたんだよ。……ほら、ギター」
晶也は低い声で言った。それからジュリアにギターケースを背負わせてくれる。毎朝の習慣だった。
「サンキュ。……知ってるさ。よくやってくれたよ、晶也も」
功績は作曲にとどまらず。睡眠不足ながら、しっかり全員分の朝食を用意してくれた晶也。いつの間に買っていたのやら、大粒のいちごまで食卓に並んでいたのだから、まったくよくできた弟なのだ。甘酸っぱい香りが染み渡ったおかげで幾分か元気になったのは、ジュリアだけではないだろう。
誇らしい気持ちのまま視線を前に戻すと、翼がちょっぴり意外そうな表情をしていて。
「どうしたんだ? 翼」
「晶也さんって、ジュリアーノのギター、触らせてもらえるんですね」
「ああ、そういえばね。なんでだろ」
「姉弟なんだから、当然だろ?」
呆れたように受けた。ジュリアはストラトキャスターに限らず、レス・ポールも基本誰かに触らせることはないが、自分の楽器に触れられたくない演奏者は少なくないだろう。特に見知らぬ他人、それも素人に触られて傷がついたらと考えると少し背中のあたりが冷たくなる。また、ジュリア自身も己の技術の未熟さ(ここでは楽器の調整・取り扱いに於いて)を理解しているために、滅多なことがない限り人の楽器には指一本と触れぬよう心がけている。
だが考え直してみると、仮に心を開いている相手――例えば昔のバンドメンバーにも安易に貸したりしてこなかったのだ。
そんな自分が晶也に、しかも彼の過去を知らなかった上で心臓とも呼べるそれに易々と触れることを許していたのは。ジュリアはふと、晶也の顔を覗き見る。
――思えばあたしは最初からずっと、晶也にギターを……音楽を好きになってほしかったんだろうな。
詞として理解したつもりだったことが、実感に変わる。他人に楽器を預けるだなんて、まるでプロポーズともいえる行為ではないか。薔薇を差し出したり、指輪をカパッてするみたいに……。
もちろんこれは、大袈裟な表現だけれど。
「それじゃあ、晶也さん! お邪魔しました~!」
「お世話になりました、志吹さん。突然お邪魔してしまって」
二人が背筋を伸ばしてお辞儀をする。晶也も、何度も丁寧に頭を下げる。いいのいいの、本当に気にしないでと。
「俺も楽しかったからさ。また是非、遊びに来てください」
「はい。それから、珈琲も、ご馳走様でした」
えっ、と翼が口を挟む。「私、飲んでないです」
「伊吹さんが眠ってからのことです」
「そもそもオマエ、珈琲なんて飲めたのか?」
ジュリアが眉根を寄せると、
「飲めませんけど、仲間はずれはイヤなんだもん」
そんな答えがあったので、三人で声を合わせて笑った。これこそが伊吹翼だった。
双眸を細めて笑う晶也は昨晩、本当に楽しそうだった。そういえば瑞希とも何やら二人で親密そうに話していたが、実のところ部屋に戻ってきた瑞希から言われたのは、ただ一言「らぶ、ですね」との言葉だった。
らぶ……。ラブねえ……。こいつ、一体どんなことを言ったんだか。と、改めて怪訝な表情を向けた矢先、
「今後ともうちの姉をよろしくお願いします」
そんな言葉と共に再度しっかり頭を下げる晶也。最後までジュリアの弟としての立場を貫いてくれた彼の口調には、本物の弟さながらの情感が込められているようで、ジュリアは内心でひゃあと飛び上がった。これか――っ!
ましてや散々彼を弟と呼んできたことを棚に上げるが、姉と呼ばれるのだってなんだか、こう、むずかゆい。
照れくささに首を前後に揺らしていると、晶也が今度はこちらを見た。ジュリアも応えるように視線を返す。せいぜい三秒程度の沈黙だったと思う。だが信頼と感謝とが綯交ぜになったまなざしの交差はまるで、自分たちにしか理解のできない言語だった。
――ねえ晶也。みんなが、って言ったけど、一番は……あんたが見ていてくれるからあたしは頑張れるんだよ。
そんな想いも、きっと見透かされているのだ。ああ、恥ずかしい。
ジュリアが感極まるように、ゆっくりと瞬きしていると。
「じゃあな、頑張ってこいよジュリア。応援してる」
口調を緩やかに、晶也は言った。
――ん?
「…………なんだよ、あんたは観に来てくれないのか?」
砂を噛むように言った。ジュリアは不機嫌がしっかり伝わるように、目を細める。昨日は楽しみだって言ってくれてたくせに……。
薄情なヤツめ。胸のうちで呟いてみる。せっかく一皮むけたというのに、そんなあたしを見に来ないだって? あ、ため息! なんだそれは!
「だってお前、今回チケットくれてないだろ」
「…………なんだ、それならミサに話つけとくから来てくれよ。関係者受付みたいなところでチケット貰えるはずだからさ」
「先に言えよ。観に行きたいに決まってんだろ」
ふ、と晶也の顔から力が抜かれた。安堵の息を吐き出す彼のその表情がなぜかひどく懐かしいものに感じられた。
――似てるんだ。
今度はまともに見られなかった。だって多分あたしも今、全く同じ顔をしている。照れくさいじゃないか。鏡の中の、自分の顔を見るみたいで。
エレベーターに乗り込む直前のこと。
「ジュリア、チケットって二枚用意してもらえたりする? ……友達を一人連れていきたいんだけど」
友達…? 彼の口から放たれた単語に、ジュリアは弾かれたように顔を上げた。それって……。
「それって……ひょっとしてあんたが一緒にバンド組んでた?」
彼が頷いた途端、ジュリアは嬉しい気持ちでいっぱいになった。
とても、とても満ち足りた気分だった。
「もちろん! 志吹晶也の復活を、真っ先に伝えてやりなっ♪」
風は少し冷たかったが、心は暖かく。喉には熱いものが込み上げてくる。
世界が、昨日よりずっと鮮やかに見える。
マンションから出ると、空の高いところで鳥の鳴く声がした。
――ありがとう。
それじゃあ、行ってきます!
☆☆
ライブ前の空気が好きだ。
慌ただしい喧騒と、ステージ裏に漂い続ける緊張感と、張り裂けそうな興奮と。
膨張したような温かい熱気に満ちた空間のすべてが。
――時間だな。
「緊張してるか? ミズキ」
瑞希が深呼吸の動作をしたのを見て、彼女の肩に軽く手を置いた。
「ジュリアさん。……いえ。むしろ、ワクワクしています」
振り向いた彼女の表情は、にっこりと晴れやかだった。ミズキがこんな顔をして見せるだなんて……。不意打ちを食らったかのようにドキリとしてしまう。
「燃えてるな。あたしもだ」
こんなにも胸が高鳴るのは久々だよ。ニッと笑った。
目が開いたあたしのアイドル人生第二幕。メイクもばっちり。ロックを出さないようにと封印していた星もいよいよ解禁だ。目のまわりをダークブルーに縁取ったのは、パンクなだけでなく、寝不足のクマを隠すためだったりもするけど。
セットリスト二曲目、『Legend Girls!!』は幕を開けた、彼女たちの『伝説』への第一歩を紡いだ曲だ。希望に満ちたパフォーマンスを瑞希と共にモニター画面で観ていると、水の入ったペットボトルを両手に、翼がやってきて言った。
「ジュリアーノ、瑞希ちゃん! お水飲みました?」
「ん、気が利くじゃないか。サンキューな」
舞台袖に用意されている水は癖がなくて飲みやすい。ストローを通じてゆっくりと喉を潤していく。
「ありがとうございます。伊吹さんも、喉の調子はいかがですか?」
「ばっちり!」
嬉しそうに頬を紅潮させながら翼が続ける。「ステージ、盛り上がっていますね♪」
「チケットも完売したと聞いています」
「ああ。この寒い中、わざわざお客さんたちが来てくれてる。心を熱くして帰ってもらおうぜ」
瑞希が双眸を細め、翼が大きく口を開けて笑った。
「本当にジュリアーノって歌が絡むと強引ですよね~」
「今朝のプロデューサーの顔、傑作だったぞ」
「ホントになぁ」
ジュリアは二人から視線を少し逸らし、ふっと息をつく。それから思い出し笑いをするように、目を細める。
「……だけど、太鼓判を押してもらった」
シアターのシャッターが開くと同時に飛び込んだ三人の姿を目の当たりにした、プロデューサーの顔ったらなかった。「お前たち……まさか」と呻きのような声を上げる口端はわなわなと震えており、眼鏡越しに覗いた目は、睡眠不足も相まって痙攣しているように見えた。
「おっはよーございまーす♪ さぁ、今日も一日頑張るぜ」
ジュリアが芝居がかった挨拶を向けるまで、頬をやるせなさそうに歪めていた彼だったが、ようやく動揺を潜めてみるみる鬼の形相へと変貌してゆく。ジュリアは鋭い眼光にさらされながらも、大人の顔を、ひるまず正面からしっかりと見つめて頼み込んだ。
タイムリミットは……十二時!
「正午にスタジオに来て、そこで人前に出せるどうか判断して欲しい。もし納得できたなら、今日のライブで演らせてほしい」
こちらからは、挑むような視線を向けた。それは本来、約束を守らなかった自分から持ち掛けてよい話ではないことくらい、承知の上での提案だった。彼がそれを呑んでくれるかは正直五分五分。
予想通りジュリアの言葉にプロデューサーはしばらく黙り込んでいたが、やがて顔を上げて眼鏡の角度を直すと、一瞬ジュリアの右隣――翼の顔を見た。今思えば、彼の心はそこで決まっていたのかもしれない。
――分かった。十二時だな。
――いいのか!?
――ただし、容赦はしないからな。
――ダメでも文句は言わないよ。ウチらのエゴが興業に結びつかなさそうなら、遠慮なく言ってくれ。ここまで好き勝手やらせてもらったんだ。その時はちゃんと切り替えて、メイクの時間になるまでしっかり身体を休める。
一番はファンのみんなだからな。言い切ったジュリアの顔を意外そうに見つめて彼は「成長したな」と嬉しそうに目の端を指先で拭った。……欠伸を誤魔化しただけなの、分かってるんだからな?
勝算などなかった。有り余る興奮が、溢れ出るアドレナリンが、寝不足の脳みそが、良い出来栄えだと錯覚させているだけだったのかもしれないこの曲だ。
あたしにあったのはただ……得体の知れない自信だけ。
それでも、ジュリアたちは見事勝ち取ったのである。
大舞台へと羽ばたく
「宣言通り、一瞬で覚えちゃうんだからなぁ」
独り言のように呟いたジュリアに、翼はえっへんと胸を張った。
オマエにかかってるぞ、と託した背中ははるかに頼もしく、約束までの時間を目一杯ブラッシュアップに費やすことができた。ジュリアの注文を忠実にこなし、難しめのフレーズは重点的かつ入念に確認したいと自ら頼み込んできた翼の姿勢は、ジュリアと瑞希が仕上げてくれたことに対する礼儀を、そしてこの曲をスポットライトの下まで連れていくという責任感さえ感じさせた。
そこに
「ありがとな、翼」
無意識に、実際に出たのはお礼の言葉だ。
そうだ……あたしにはもう一つあった。あたしの歌に対する、異常なまでのこだわりを理解して、信じてくれた仲間が――。
彼女とぶつかったあの日、理解してほしいと懇願したあたしに寄り添ってくれて――。
「そんなオマエに、さっきの練習では敢えて言わなかったことがあるんだ」
「敢えて?」
「通しで歌えるようになるまで、余計なこと言って混乱させたくなかったからさ」
そして、つくづくと眼前の無垢な少女を眺めた。透き通った心。瞳は、この上なく美しかった。
「――翼、オマエは自分の好きに歌え。あたしに合わせようなんて絶対考えるな」
好きに……。
翼は呟くように繰り返すと、我に返ったような表情になって、
「だってこの前はジュリアーノに合わせろって」
「あん時とは状況が違うだろ? この曲の主役はオマエなんだよ、翼」
――あたしがそうなるように作った。
昨晩、ジュリアは春のように暖かく幸せな気持ちで詩を書いた。自分と同じ、冀求する者に相応しい詞はすらすらと浮かんだ。
そのさなか、ふいに晶也が「また削ったのか」とつぶやくような声で尋ねてきた。見ると、彼の手にはジュリアの試行錯誤の成果があり、視線はジュリアが引いた黒い二重線に向けられている。ジュリアは意味もなく言葉を削いだりはしないだろ? その心意を問うような口調だった。
「また」とは『流星群』を指しているのだろう。彼の言葉の通り、今回もジュリアは曲を仕上げるにあたって、筆をおく直前、あるフレーズを削ることにしたのだ。
――
きらめくは、『愛』。
本来存在していたその一節は、ジュリアが胸の裡に宿している『好き』の気持ち。しかし翼にとってのそれは、まだ一番前で彼女を突き動かしている。「だから……必要ないのさ」ジュリアは笑った。
――まだ分からないかもしれないけど、いいんだ。今は、まだ。
頭で理解しないで、望むままに。強く願う。
暖かな気持ちと同時に、昨日食べたクレープの味が、蘇る気がした。
冀むままに――。ジュリアは長く瞼を閉じた。長らく忘れていた種類の感情を呼び戻すように。
練習時間は圧倒的に足りていない。だけど大丈夫。ふつふつと込み上げてくる、良い意味での野心のような熱さが、ジュリアから瑞希へ、翼へと伝播する。あたしたちなら大丈夫。この自信の正体こそが『愛』だった。誰にも侵されない、尊ぶべき衝動だ。
「もう一度言うぞ? 自分の思うままに歌うんだ」
「本当にいいの?」と、翼は心底不思議そうに問う。「わたし、きっと……」
「いいんだよ。なんなら、良いものにしようなんて欲すらなくたっていい」
ジュリアは微笑み、安心させるように、彼女の頭を優しく撫でた。固定した前髪が崩れぬよう、そっと。
心の奥底で熱く感じていた。何度迷ったってかまわないと。このステージにも正解はないのだから――。
「オマエだけの、道を作りな」
その先にあるのはきっと、誰も見たことのない景色。
音を出しているだけで楽しいという状態のみが延々と続くから、きっと……今からあたしたちが生み出すものこそが正解で、それに納得できれば成功になるのだろう。
「あたしと瑞希が付いてるからな。……何とかなるじゃなくて、何とかしちゃうぜ」
「はい。伊吹さん、
丁寧な口調の中から飛び出した、「ぶちかます」に苦笑。瑞希も相当、燃えているらしかった。
「そうだぜ。存分に暴れてこい」
「はーい♪ ジュリアーノ! 瑞希ちゃんっ! ありがとう!」
翼の顔全体が、色づくように笑みで埋もれる。よく懐いた猫みたいだ。
この気ままさが、ずっと不思議だった。肯定できなかった。伊吹翼の奔放たるスタイルがシアターの中で許されていることが。
だけど、今はそれでいいと思える。
だって彼女は自由だから。広い空に放すほど、高く高く飛んで行ける。星に届きそうなほどに軽やかに。誰の束縛も、何の制約も受けずに、この曲に込められた想いを更に自身のツバサとして昇華させることができる。彼女の『好き』な気持ちがきっとそれを叶えてくれる。あたしはもう彼女のその性質を嘲ることも貶すこともないだろう。
今はまだ……夢だけを求めて、なりふり構わず走っていてくれないか? あたしと瑞希が両翼となって背中を支えるから、前だけを見つめて――。
背後で一段と大きな歓声が上がる。
未来たちが披露した『PRETTY DREAMER』のアウトロが、会場内に響き渡っていた。
光の海が見える。
「出番ですね」目を細めながら瑞希が言った。
「準備は良いか?」ゆっくり息を吐きながら、ジュリアは問いかける。
そして翼は、口角を上げる。
「とっくに万端です! ……あっ」
静かな決意の腰を折るように、目を輝かせて、ジュリアの間近に顔を寄せてきた。
「ジュリアーノ、わたしがあげた指輪、着けてくれてるんですね♪」
「ははっ。最後までぶれないんだな、ホント」
この子は、喜び方まで猫みたいだ。最後の最後にジュリアは大きく口を開け笑ってしまった。
昨日、ゲームセンターのガチャガチャで翼が当てたおもちゃのそれは、ジュリアの右手で星を受けたように煌々と光る。
人差し指のリングは最後までやり遂げる力。自分の意志を強固にしたい時、集中力とパワーがもらえる位置だそうだ。安物のはずだがなんだか熱さえ帯びている気がして、ふ、と笑みが漏れた。「……今日だけの、特別さ」
今回のことは傍から見れば一貫していないと思われるかもしれない。なんたって、正反対のことを言っているんだから。筋が通っていないと言われればそれまでだ。
それが、どうした。
こんなあたしを罵るなら罵るがいいさ。後ろ指を指せばいいし、去る者は去ればいい。だけどあたしが今手にしているモノは、誰にも奪えない。猛烈な感情がジュリアの中で立ちあがっていた。
もう忘れない。
一つ目。『流星群』は新しい世界への期待。希望と願い事を沢山詰めた曲。
二つ目。この曲は、伊吹翼という少女が思い出させてくれた、過去と未来を繋ぐ道。
普段は別々の想いに沈んでいる三人の、一夜限りのチームワーク。誰も見たことのない
オーケストラの指揮者の如く、深く、息を吸って。……ああ、眩しいな。
――夢……見せてやろうぜ。
「いくぜ、新曲」
――――――――『アイル』
あたしが歩んできた『道』であり、
彼女に捧げる、信託の『翼』だ。
AISLEは英語で「道(主に通路などですが)」を、そしてラテン語で「翼」を意味する言葉です。
ご存じの方も多いとは思いますが、本作に於いて削られたフレーズ「あたしの海の深く深くに水平線のようにきらめく」というのは、ゲッサン『ミリオンライブ!』3巻のオリジナルCD付き特別版の歌詞にて本当に記載されていたものとなっております(初盤のみ)。
いかにして彼女らがそのフレーズを削るに至ったか。それをうまく落とし込むための『愛』というタイトル、『純粋な好き』をテーマにしての執筆をさせていただいておりました。
少しでも楽しんでいただけましたでしょうか。