『あたしがジュリアでいるうちは』   作:撫音

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     『アイル』(3)

 

 高坂海美と舞浜歩。周知だろうが、()()()()()からこの業界へとやってきた少女たちである。()()()()から転じたジュリアにとって、そんな二人にはどこか近いものを感じていた節がある。だから、語り合った。アイドルになった経緯から今の心構えまで。眠気なんて、すっかり吹き飛んでいた。その中身には後々触れたいと思う。

 ここで一つ言えることは、ジュリアの中でアイドルとは、ただ「完成された芸術」ではなく「生きた感情」なのだと感じることが増えてきたということだ。

 そして印象的なのは歩が放ったこの言葉。

「やっぱ……エンターテイナーって、まず自分が楽しむ余裕がないとね!」

 晶也の祖父の信じた『愛』にも通ずる発想だ。飽くことなき表現の世界の中に存在していることを幸福だと感じた。

 

 

 ひと段落ついたそのとき、テーブルの上でスマートフォンが小さく震える。二度、連続して。画面に浮かんだ通知を見て、ジュリアの目つきが、少しだけ鋭くなる。

『お疲れ様です。ジュリアさん』

 他人行儀で丁寧な文面は、まさしく瑞希のものである。年下であろうと、響のペット(かぞく)のハム蔵にも敬意を忘れない。基本的にくだけた話し方をすることがないため、どことなくクールな印象を抱かせるのが瑞希だ。そんな彼女が此度の一件で内なる熱を垣間見せてくれたことはジュリアにとっても胸がいっぱいになる出来事だが、今はその内容が問題だった。

『この後打ち上げがありますが、伊吹さんを見かけませんでしたか?』

 なんと、翼が行方不明だというのだ。「どうしたの?」と、海美が言う。ジュリアは小さく首を振る。この後ミーティングを控えているという二人に余計な心配はさせたくなかった。

「そろそろ打ち上げの時間みたいでさ。その呼び立てが」

「あ、そっか。結構長く話し込んじゃったね」

「いやいや。まだ話したりないくらいだぜ。……よっと」

 はっきりと後ろ髪を引かれる思いがする。立ち上がる二人にもどこか名残惜しそうな空気があるように見えた。だからジュリアは自然に微笑むと、

「二人と話せてホントよかったよ。これも、ご馳走様」

 空き缶を顔のあたりに持ち上げてからからと振る。重ねて感謝を伝え、楽屋を後にした。

 

 

 さて、瑞希の言う公演後の打ち上げは、シアター恒例のイベントだ。

 大規模なものであれば、劇場の屋上でバーベキューをしたり、プロデューサーに近くの店へ連れていってもらったり。その場合やはり焼き肉が人気だが、ジュリアはラーメン屋に行くのも密かに好きだったりする。関東のものも案外()()()のだ。

 一方で小規模のものとは、基本的に自分たちで行くファミレスを指す。その後はカラオケに行くのが定番のルートになりつつあるのでジュリアはこちらも嫌いではない。他には、控え室で楽屋見舞い……いわゆる差し入れとジュースで乾杯することもしばしば。その際は出演者以外の同期や一期生も交えて盛り上がるため、雰囲気はちょっとしたパーティに近い。

 

 ――年内最後だし、今日は外食かなぁ。

 思い出したかのような空腹に襲われながら、ジュリアはスマートフォンを耳にあてた。スリーコールもしないうちに瑞希は出た。

「あ、もしもしミズキ? 翼が見当たらないって? 電話も通じないのか?」

『はい。何度か掛けましたが、まだロッカーの中にあるようです。微かに振動が聞こえたので』

「っつーことは、まだステージ衣装のままなのか。……分かった。探してみるよ」

『お願いします』

 簡潔に応じ、スマートフォンをポケットに滑り込ませた。やれやれ、最後の最後まで奔放なんだから。首筋を揉み、廊下を進む。シアターの外にはまだ公演の余韻を残した客たちがいるのか、騒ぎ、歌うような声がしていた。

 

 見当をつけていた楽屋や仮眠室にも翼の姿がなかった時点で、頭の奥がじんわりと重くなってきた。これで見つからなかったら、まさか屋外……?

 やがて誰もいないエントランスホールに足を踏み入れると空気の匂いが変わった。新鮮なフラワースタンドから立ち上る花の香りが疲労の中にどこか幻想的な感覚を与える。甘く、華やかで、少しだけ現実離れした空間。ふと近づいて濃紺の薔薇に触れた。冷たい花弁が、ささくれだった心を一瞬だけ落ち着かせてくれる。

「ま、元気なのはいいことだよな」

 悪意のない声が漏れていた。全力のライブ後は決まって魂の抜けたようになるジュリアとは対照的だ。翼だって全力を尽くしただろう。だが、まるで別のエネルギー源でもあるかのように走り回れるのも伊吹翼なのかもしれない。

「あたしももっと体力つけないとな」

 ――ってアイツは、ウチらと違って一晩ぐっすり眠ってるじゃないか。

 印象には反して寝相は良かったんだよな、とジュリアは小さく笑い、地下へ繋がる階段に足を踏み出す。普段からあまり人気のない場所だ。物置ばかりで足音すら吸い込むような静けさがある。さすがにこんな所にはいないだろう、とすぐ引き返すつもりでいた。

 

だがそのとき、下の方から話し声がした。それは誰か、若い男性の声。スタッフかなと思った。

 

「――先に伊吹さんが話してたから、邪魔しない方がいいかと思いまして」

 ――え?

 その声がより鮮明に届いた時、ジュリアの足が止まる。

 息が引っ込む。聞き違うものか。だってあたしは何度もこの声に……。

 唾を、飲み込む。救われてきたのだから。

 

 

「…………晶也?」

 

 

 激しく、激しく動揺した。だって……おかしい。

 確かに、晶也は今日の公演に来てくれた。だが、いくら関係者席を宛がわれていたとはいえ所詮は彼も観客の一端。楽屋エリアへの侵入は禁止されているし、すでに退場の案内が出されているこの状況下で未だシアターの内部に居ることの方が不自然なのだ。そして何よりも――――。

 寸でのところで言葉を飲み込んだのは、果たして正解か不正解か。思わず、階段の手すり壁に身を隠していた。

 なぜって、気が付いたからだ。……彼の向かいに揺れる()()()()()に。

 

「みてみて晶也さん。わたし、帽子貰っちゃったぁ♪」

「やっぱり、伊吹さんは何でも似合うんだ」

「えへへ~」

 晶也から見て左手側、翼の声はよく通る。昨晩のお泊り会で彼女なりに晶也のことを気に入ったのか、シアターでよく耳にする人懐こい声色で語り掛けている。そんな翼が身に着けていたのはやはり今回のステージ衣装であるピンク色のミッドリフジャケット。可愛らしいおへそを覗かせるのが彼女の衣装の特徴なのだが、さて晶也は鼻の下を伸ばしてやいないだろうな。いやいや、今はそんなことを気にする場合じゃない。

「偶然……だよな……?」

 声にならない言葉が喉奥で渦を巻く。意外と抜けているところのある彼のことだから、きっと退場口を間違えて迷子になって、運よく顔見知りの翼を見つけたとか……。そうなんだよな? 晶也――。

 だがそんな都合のいい思考とは裏腹に、不穏な気配が胸を覆いつくしていた。滲む汗。思わず隠れてしまったほど、ジュリアが息を止めて様子を窺うに至った理由は、もう一方の金髪だ。ふわり光を反射しそうなほど透き通ったウェーブ。

 こちらもまた見間違うはずがないのだ。あれは…………。

 

「――美希さん、わざとですよね」

 

 ああ…………。その場から動けなくなった。

 戦慄せずにいられるはずがない。なぜなら晶也が星井美希を知っているから。それもただ名前を知っているのではなく、まるで面識があるかのような口ぶりだから。

 まさか。まさかね。そんな馬鹿なことがあるか。胸の奥のざわつきが増してゆく。スピーカーから漏れるノイズみたいに。

「わざと? ……んーっと、何が?」

「美希さんがいつも最低限のことしか言わないことです。……さっきの、伊吹さんとのやり取りで確信しました」

 すると美希が、口元で笑った。「もうっ、()()でいいって言ったのに」

「えっ……ああ、あれってそういう……」

 少しばかり躊躇した晶也の声が、耳を通り抜けてゆく。面識どころか、二人の間にはどことなく親し気な雰囲気が漂っていた。うずくまったジュリアに纏わりつくは取り残されたような感情の浮遊。千々に乱れる心。

 

「……どうでした? 今日は」

 一呼吸おいて。そんな言葉と共に、晶也はじっと美希の顔を見つめる。ジュリアの位置からは、彼の横顔が微かに見えるだけ。けれど、その目の奥に浮かぶ色は想像できた。どこまでも真摯で、どこか不器用なその眼差し。彼は何かを本気で求めていた。まるで評価されるのを待つ子どものように。

「どうしてミキに?」

 やわらかく問い返す美希。晶也の頷きは、ごく自然だったように思う。

「物事が正解かどうかなんて、本人にしか分からない。でも、良し悪しを判断できるのは、時に第三者――たとえば、貴女のような人じゃないかと思ったんです」

「いいね。うん、合格点だと思うな」

「……良かった」

 心底安堵したような息遣いが彼の唇から漏れていた。

 今日の? 合格点? ジュリアには何も分からなかった。自分の知らない言葉、自分の知らない関係。神経ばかりが擦り減っていくような心地がする。

 

 その時である。

「美希先輩、晶也さんのこと、知ってるんですか?」

 それまで行儀よく黙っていた翼が美希の顔を覗き込むようにして訊いた。光明が差したかのように思えた。ナイス、翼。思わず心の中でそう叫んだジュリアだったが――。

「うん。ジュリアの弟さんなの♪」

 ……なんだそれは。

 確かに事実だが、そうじゃない。翼の問いはもっと違う意味だったはずだ。しかし美希がそれに気づかないはずもない。あまりにも、表面的。わざとらしい返事の意味は「教える気がありません」といったところか。

「美希せんぱぁい……」

「また貴女って人は……」

 呆れたように翼と晶也が口を尖らせている。また、ねえ……。ジュリアのモヤモヤも募るばかり。

 ややあって晶也が翼に向けて「前に少しね」と短く笑いかける声がした。まだ気になる様子の翼だったが、「そうなんですね~」と頷いて素直に引いた。ジュリアが「もうちょっと掘り下げてくれ」と陰ながら念を送ってみるも、届くはずがなく。

 

 

 やがて美希が軽く首を傾げ、微笑んだ。

「それで、晶也クンはどうしてここに?」

 やはり、まるで軽い世間話の延長線上にあるような穏やかな口調だった。少なくとも美希は自然に晶也の存在を受け入れている。だが何よりも、その問いかけに対する晶也の答えが、ジュリアの胸を打つこととなる。

「美希さんにお礼を言いに来たんです」

 さらりと放たれた言葉は、ジュリアにとって、とてつもなく重たいハンマーだった。

「……ミキに?」

「ええ。貴女なら、必ずシアターのどこかに居ると思って」

「あはっ。なかなかチャレンジャーなの」

 美希はどこか嬉しそうに微笑んだようだったが、ジュリアは笑えなかった。なぜなら証明されてしまったからだ。眼前の光景が偶然なんかではないのだと。偶然だと信じていたかったのに。

 ――あいつ、本当に……ミキに会うためにここに来たんだ。

 そう思うと、視界の端が揺れたような気がした。動悸が早まる。冷静になろうとする理性が、焦りに押し流されていく。だってあたしは何も知らない。今日のライブを観たいって言ったのも、まさかこのため……?

 

 そうしたジュリアの戸惑いとは裏腹に、晶也は真っ直ぐな声で、美希へと視線を向け続けている。

「……あの日、貴女も見舞いに来てくれていたんですよね」

「知らないの♪」

「改めてお礼、言わせてください」

「だからぁ、ミキ、知らないって言ってるのに」

 やけに慇懃に礼を述べる晶也と、とぼけた様子の美希。翼が首を傾げているのはもっともだ。ジュリアでさえ全貌を掴めないのだから。

 ――さっきから、ところどころ嚙み合ってないような気がするんだよな……。

 だが、話の主導権を握られてくれない。それが星井美希のスタイルでもあることをジュリアもよく知っていた。だから二人はきっと根底では繋がっているのだろう。その空気感がジュリアには苦しかった。まるで会話の裏側にある文脈だけが自分を締め出しているみたいで。

 ようやくというべきか、次の瞬間には身体が動いていた。

 

「『ありがとうございます』……じゃ、なーいっ!」

 その声は、怒りというより、焦燥だった。

「晶也っ! こんなところで何やってんだよ!」

 喉が熱かった。ちょっとした嫉妬心もあった。普段自分にばかり向けられている顔が、別の人に向けられていることに対してのものだった。

 

 驚きようは三者三葉。美希は「ひゃん」と肩を跳ねさせて可愛らしい悲鳴を上げるし、翼は大きな声で「わっ」と目を真ん丸に。

「ジュリア……?」

 晶也の声はとても静かだった。空気の洩れるような声で、名前を呼んだだけ。だがきっと誰よりも驚いている。「いつから居たのか」と言いたかったのだろう。彼にしては、やや長い間が空いたから。そこには物問いたげという表現がよく似合う。

 やがてジュリアから目を逸らすように美希のほうを見た。

「美希……さんに用事というか、少し確認したいことがあってさ」

「だからぁ、どうしてあんたがミキと知り合いなんだよ」

 そんな晶也に鋭く浴びせると、彼の身体が少し揺れた。

 

 今度は短い沈黙。観念したような気配がした。お前が、と口を開いた。

「……お前が倒れたときに、一度会ってるんだよ」

「あ」

 思わず声が漏れた。あたしが倒れ、医務室に運ばれた日。迎えに来てくれた晶也と……美希が、そこで?

 その時、ようやく言葉の意味が繋がった。見舞いの意味も、彼が頭を下げた理由も。ジュリアは……少しだけ、自分が恥ずかしくなった。目の前の会話にすら気づけないほどに、あたしは揺れていたんだ。

 

 自己嫌悪が胸を打ち、それを誤魔化すように鼻で笑った。

「随分と親し気だな」

「別に、そうでもないさ」

「ミキに会ったこと、隠してただろ」

「タイミングがなかったんだ」

 緊張を解くように薄い笑みを浮かべた晶也を見て、ジュリアは眉に少しの皺を寄せる。だったら堂々としていればいいものを。どうも彼は含みを持たせる言い方をするくせに、こちらからその中身に触れることを許さないような空気を醸している。

「結構話したもんね。ミキ、晶也クンと仲良くなっちゃった」

 かたや美希はわざと誤解を持たせるような言い方をする。無意識のうちに顔が引き攣っていた。居心地が悪く、どこか気詰まりがする。結局自分がいたとしてもこの空気は覆らないのか。

 

 むっとした感情がたしかに胸の中で膨らんでいて、

「あたしを差し置いて隠し事かぁ?」

 唇が勝手に動いていた。心が追いつくより早く。

「あのなあ。晶也はあたしの……」

 と、そこで気づいたが、遅い。

 美希の目が微かな困惑を浮かべたようになる。

「あたしの……?」

 あたしの…………。

「…………弟なんだ」

 

 

 春まだ浅い福岡の風景がよみがえるのは、何度目だろう。肌寒い風が街を撫でる黄昏どき、路上でギターを奏でていたあたしの前に、ひとりの老人が立っていた。名を志吹天辰(あまたつ)という。晶也の祖父だ。

 白髪混じりの髪、よく磨かれた革靴。目尻に刻まれた皺は長い時間を穏やかに生きてきた証のようで、その眼差しが不思議とあたしの胸を解かしてくれた。

 しばらく話をした。名前のこと。音楽のこと。進路――若い『愛』のこと。

 それから晶也のこと。その名を聞いたとき、あたしはただ黙って耳を傾けていた。まだ、その名前が自分とどう関わるのか分からなかったからだ。

 

 ふと、会話が途切れる。ここから先に語られた真実を、きっと晶也は知らない。

 短い沈黙のあと、彼は独り言のように呟いた。

 ――おじいさんは、元気かな。

 思わず顔を上げる。

 ――えっ? じいちゃんのお知り合いですか?

 驚いて目を見開いたあたしに、天辰は少しだけ視線を遠くへやった。空を見上げるような、その仕草が妙に印象に残っている。

 

「知っているとも。わしと、やつは……()()()()()やからな」

 

 その瞬間風が吹き抜け、ギターの弦がかすかに鳴った。黄昏の空気に溶ける短い余韻。懐かしい記憶だがあの音を今もはっきり覚えている。

 ここで語ったことはなかったが、ジュリアの祖父も音楽を愛した人物だった。ジュリアに初めてギターを買ってくれたのは祖父であり、何よりロックを教えてくれたのも祖父だ。

 あのときジュリアの前に現れた謎の老人。風貌こそ違うのに、どこか似た匂いがあった。彼の言葉の端々から滲む音楽への真摯さに、祖父と同じ精神性(ロック)をみた。あたしの中で自然と二人が重なった。

 あの人は、懐かしむような目であたしを見ていた。

「昔、会ったことがあるんや」

 静かな声だった。

「まだ小さかった頃や。やつの家に遊びに行ったとき、赤い髪の子がおってな」

 赤い髪――いや、夕焼けのような朱色。

 あたしは思わず自分の髪に触れた。子供のときから、よく目立つと言われてきた色。

「覚えておらんかもしれんな」

 天辰は苦笑する。「まあ、無理もない。ずいぶん昔のことや」

 

 助言を貰った恩もあるが、無視できるはずがなかった。

「……あたしにお願いって?」

 絞り出すように問うと、天辰は小さく笑った。今思えば、あれは自分の終わりを知っている人の笑みだったのかもしれない。

「あの子には、もう身内がほとんどおらん。君が……姉のように、そばにいてやれんか」

「あ、あたしが……?」

 その出会いは偶然だった。歌声に足を止められ、引き寄せられるように歩いてきたら、記憶の中にある朱色に辿り着いた――そう語った。

 天辰は、最初から晶也を託すために現れたわけではなかったのだ。

 けれど、あたしを見た瞬間に、願ってしまったのだと。不思議と、その言葉は重くなかった。

 

 押しつけがましくもなく、悲壮でもなく。ただ静かに、当然のことを頼むような調子だった。

 ジュリアは考えた。祖父同士がきょうだいだというなら、自分と晶也は()()()にあたる関係なのだろう。はとこなんて、普通は深く関わることなんてないし、はっきり言って他人だ。

 つまりジュリアにとっても天辰の願いは言葉以上のものではなかった。まあ、気にかけてはみるさ、ってくらい。

 けれど。志吹天辰の告別式の日。祖父を失い、茫然自失と立ち尽くしていた晶也の瞳を見た瞬間――あたしの中で、何かが決まってしまった。放っておけない。その感情は理屈よりも早かった。「姉であること」が胸の奥に根を張った瞬間だった。

 姉という強い詞を使ってでも、守れるくらいの存在になる。それが正しいのかどうかを考える前に、本能なのか、血なのか――胸の奥がそうしろと命じていた。

 あまりにも――優しすぎる出会いだった。その意味を疑う余地なんて、あのときのあたしには少しもなかったのだ。

 

「……それが?」

 

 星井美希の声が、現実を引き戻す。

 ジュリアははっとして瞬きをする。刹那、視界の奥で、福岡の夕暮れがゆっくりと剥がれ落ちていった。今、目の前にいるのは志吹天辰ではない。その孫――晶也だ。

 耳の奥がじわりと熱くなる。だって美希の台詞は正しい。

 ――弟だから。だから何なんだ。

 血縁の説明を求めているんじゃない。彼女が知りたいのは、あたしがなぜそんな顔をしているのか。

 晶也が美希と親しく話しているだけで、こんなにもざわつく心。二人の言葉に混ざれない疎外感。美希に向けられた微笑みを見て、思わず飛び出してしまった自分。そんなの、「家族愛」なんかじゃ済まされない。

 晶也に、美希に、自分がどんな顔を見せたか。それはきっと、姉の顔じゃなかった。

 

 ――あたしにとって、晶也は何だろう。

 

 それを言葉にすることは、できない。

 シアターでも、ここでも。あたしは――「姉」でいなきゃいけない。天辰の願いから生まれたはずの言葉が、今はジュリアの鎧になっている。

「弟に変な虫が付かないようにするのも務めだろ。……あくまで、姉として」

 言葉にしても、それが誰に向けたものなのか分からなくなる。たぶん――あたしは、自分に言い聞かせていた。

 だが、美希はそれ以上を求めなかった。

「……ふうん。あはっ、意地悪しすぎたかな」

「意地悪ね……」

 どこまで見透かされているんだろう。全部じゃない。でも、感情の輪郭くらいは、きっと触れられている。

 

「でもね。ミキが晶也クンのことを気に入ってるのはホントだよ? 呼び捨てでいいって言ったのも♪」

「やっぱりあれ、本気だったんですね」

 恐れ多いです、なんて普通に応じている晶也を、ジュリアはじっと見つめる。同じ血の流れている顔。そして、大袈裟なくらい息を吐いた。

「……まったく、並びもせずにミキと話せるなんて、あり得ないんだからな?」

「はいはい。姉がアイドルであることに、重ねてお礼申し上げます」

 芝居がかった口調がおかしかったのか、翼が「あははは」と声を上げ笑っていた。

 

 

 ――と、そこでようやく本来の用件を思い出した。

「そーだった! すっかり忘れてたよ。オマエのことを探してたんだ、翼」

「えっ。わたし?」

「ああ。打ち上げ、始まるぞ」

 告げた瞬間、翼の顔がハッとしたものに変わる。

「やばっ! まだ着替えてなかった!」

「ミズキもまた心配してたぜ? 連絡しといてやるから、さっさと行きな」

 

 楽しいことが大好きな翼。

 ジュリアの知る彼女は、打ち上げのことを聞けばすぐに頭が切り替わり、「頑張ったから今日はステーキが食べたい」などとすぐさま駆けだしかねないはずだった。だが今日はその場で少し改まった姿勢を見せた。そして彼女は美希の名を呼ぶ。いつもの甘えた声ではなく、しっかりと芯の通った声で。

「あの……美希先輩、今度ゆっくりお話ししてくれますか?」

 逃げも照れもない真剣なまなざし。それに応じるように、美希もゆっくりと頷いた。

「うん。今の翼となら、いいって思うな」

 その言葉に翼の表情がぱっと綻ぶ。嬉しそうで、どこか誇らしげで、胸を張るような顔。その様子を見て、彼女は本当に美希のことが好きなんだな、とジュリアは思った。やがて腑に落ちた。

 ――あ。そっか、翼が見当たらなかったのって……。

 誰かに呼ばれたわけでもなく、遊んでいたわけでもない。翼は自分の意志で美希を探し会いに行ったのだ。きっと公演中、客席に美希の姿を見つけていたのだろう。だって仲間にとどまらず客席まで「見る」姿勢は、あたしよりずっと上手だ。

 いま、二人が纏う空気がはっきりと変わったのが分かった。美希の瞳が暖かくて、そんな彼女に見つめられる翼はもっと嬉しそうで、ジュリアの肩の力も少しだけ抜けていた。大好きな先輩(ひと)が自分を見てくれていた。それが、どれほど心強かったか。

 

 ――オマエ、ミキに「ダメ」って言われたんだってな。

 美希がどのような理由で翼に「ダメ」と言ったのかは知らないし、翼の心構えがどう変わったのかも正確には分からない。だけど……。

 ――良かったな、翼。

 きっと……近づけたんじゃないか?

 

「じゃあ、わたし行くね。晶也さんもまたね♪」

「うん、また。ライブ、すごく良かったよ」

 駆けていく翼の足取りは羽が生えているかのように軽く。ジュリアが微笑みながらその背を見送った直後だった。

「ジュリアもね」

 美希の、澄んだ声がジュリアの心に飛び込んできたのは。

「え、あたし?」

「今日のジュリアは、前よりちょっぴりアイドルだったの☆」

 振り返ると、美希がウインクをぱちり。星が届いた――そんな比喩が自然に浮かぶほど。かつて向けられた冷酷な声が幻聴だったんじゃないかと思ってしまうくらい、そこにはちゃんと体温があった。

「あ、あたしは……」

 言葉が、うまく続かない。翼と瑞希のおかげで、ジュリアは大切なことを思い出した。けれど自分の心と向き合うきっかけをくれたのは、美希だった。あの日、アイドルであることの意味を問われなければ、ここまで辿り着けなかったかもしれない。

 

 ――ジュリアはアイドルじゃない。

 テープが擦り切れそうになるくらい反芻していた呪いは、いつしか自分の声に書き換わっていた。今日は、今日くらいは認めてあげてもいい気がするんだ。自分のことを。

 だからジュリアは深く頭を下げる。最大限の敬意を込めて。

「ありがとう。ミキ……先輩」

 ――賞賛なんてなくたって、構わない……か。

 褒められたくてやってるわけじゃない。自分が納得できればそれでいい、そういった思いは変わらないはず。だが、彼女の言葉はいついかなる瞬間も心臓に直接触れてくるような、到底無視のできない響きを纏っている。

 

 それはジュリアが冀む「伝える」ことの、ひとつの完成形なのかもしれない。

 気付かされたよ。ミキは、あたしにとっても憧れのアイドル(ひと)だ。

 

 なんだかとても嬉しそうな顔の晶也が目に入ると、ジュリアは改めて大きく息を吐いた。

 ――複雑だよね。心って。

 それは自分でも手に余るほどに。

 だからこそ「ずいぶんな荒療治だったぜ」という言葉は、胸の奥にしまい込んだままにしておいた。

 

 

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