――あたしさ、あんたの家で生活しちゃダメかな?
二日前のことだ。
招かれたジュリアは第一に、割には物が少ない、そんな印象を受けたらしい。
「そういえば、あんた、引っ越しでもしたのか?」
それもそのはずだ。部屋に通された彼女の瞳には、さぞかし不自然な数の段ボールが映ったことだろう。印字された業者名から推測されるは引っ越しをしたか、近日中に控えているかの二択であるが、残念、彼女はハズレを引き当てたらしい。
「ああ、違う違う。これから引っ越すんだ」
晶也が答えると、
「えっ……。そんな大変な時期にお邪魔してよかったのか?」
と目を丸くした。
「冷蔵庫の中身、まだ残ってるんだ」
多すぎた合い挽き肉も、二人分にすれば消費できる。余ればそぼろにして持ち越す予定ではいたが、それで彼女の罪悪感が晴れるというなら安いもの。「全然」と晶也は苦笑してみせる。
すると彼女は興味をそそられたらしい。
「引っ越し先は?」
「そんなに遠くないよ。……ってか、親戚のマンションに移るだけ」
「親戚…………の?」
ジュリアが繰り返したため、晶也は「母さんの兄貴……つまりは伯父さんだな」と頷いた。答えてから、それまで彼女の話を聞くばかりでこちらの情報はあまり与えていないことに気が付いたのだ。
「実は、婆ちゃんも歳で年々弱ってきててさ。母さんは、その面倒を見るために福岡に戻ることになったんだよ。そう珍しい話でもないよな。……あ、俺が母子家庭だって話したっけ?」
「あ……。一人ってそういうことか」
昨年のお盆休みから進められていた話だった。
この春に中古マンションを購入した伯父、本名・志吹
何かと慌ただしい一周忌法要を終えてからを希望したのは晶也だ。
「俺が卒業するまでは家賃も要らないって言ってくれてさ。まあ……裏で母さんが金払ってくれてる気がするけど」
それでも恐らく、今現在の部屋よりは安価なのだろう。
介護において妹ばかりに負担をかけるのは忍びないという伯父なりの配慮。引っ越し業者の手配までも彼が済ませてくれていた。
「おばあちゃんの具合、大丈夫なのか?」
「今はまだ、そんなに悪いって訳じゃないよ。ただ何かと不便だからって。……まあ、いずれ福岡に戻るつもりで住んでいたらしいからな。それが早まったに過ぎないと思う」
「……あんたは、行かないんだな」
「悩んだけど、高校卒業まではこっちにいるつもり」
淡々と、正直に質問に答える晶也。しかし、「どうして残ることを選んだのか」という質問には、
「……色々あるんだよ」
声にほんの少しだけ、震えを含ませていた。
小学校に上がる直前まで福岡で、祖父母と母と四人で暮らしていた晶也。
祖母のことは非常に心配だ。ただ、それよりも今はまだ、自分が楽器と出会ったあの街で、あの家で暮らすことはできないと思った。
「引っ越し、あたしも手伝うよ。何時から? それと、一応住所も教えてよ」
一昨日のジュリアは「色々」の中身を尋ねてくることはなかったが、代わりにそんなことを言った。文字通り一宿一飯の恩義だと言わんばかりに勢い込む彼女の情の厚さを再認識したのはその時だ。
「だけど……本当に手伝ってくれなくてもよかったのに」
脚と板を取り外せるリビングテーブルを解体しながら、晶也はそっとため息をつく。
大丈夫だと遠慮も説得もするだけの無駄。ジュリアが強引な少女であることは先刻承知のことだった。
「相変わらず素直じゃないな、あんたは。テーブルもベッドも、一人で崩して、また組み立て直すの大変だろ……っと」
「まあ、な。……あ、ネジはそこの袋にお願い」
いつから俺はツンデレになったんだろうね。べたついた息を吐きだしてみる。というか、相変わらずってなんだ。
「なんだよ。あたしに会えて嬉しくないのか? あたしは嬉しいんだけど」
「……からかってんな」
「ほらあたし、こっちに知り合いとかいないからさあ?」
歌うようにジュリアが言う。ああ、と彼女の言葉を見定めた。嫌な気はしないのは確かだ。それに、人手があるに越したことはない。
しかし晶也はわざと諫めるような視線を彼女へと送ることになる。
「だったら尚更こんなとこで俺に構ってる場合じゃないだろ。昨日入寮手続きだとか、諸々済ませて来たっていうならさ」
指摘したのは今しがたジュリアが口にした知り合いがいないことについて。今の彼女は同期と仲良くなることを優先すべきだと思った。
が、天板の向こう側で渋い顔をされたのが分かった。彼女にしては歯切れの悪い声が飛んでくる。
「あー。なんつーかな……」
「……悪い、余計なこと言ったか」
「あっ、違う違う。あたしこそ黙ってて悪かったよ。…………実はまだ契約できてないんだ、
初めて、少しひるんだような口調になってジュリアが応えたのでつい首を傾げた。
「どういうこと?」
「実は……ってほどじゃないんだけどさ。入寮には保護者の同意……署名が必要だとかで」
彼女の言うには、契約に際して作られる書類には保護者の署名及び捺印の欄があったとのこと。その書類を実家宛に速達で郵送をしたというが、当然ながら昨日の今日では返ってくることはない。
考えてみれば、765プロがジュリアの身柄を預かることになるから当然だった。
――道理で。
手伝いのはずが、わざわざスーツケースとギターケースまで担いできた彼女の狙いが
「もう一晩だけ泊めてくれないか。ほら、引っ越しも手伝ってあげてるだろ?」
「……それは前回分のお礼じゃなかったっけ?」
どことなく嬉しそうな気配は届いてしまっただろうか。
「細かい男は嫌われるぜ?」と、ジュリアの顔は明るい。
半日が経った。
一通りの荷解きを終え、家具を組み立て。引っ越し完了を祝すべく入った近場のファミリーレストラン。誘ったのは晶也だった。流石に料理をする気力はなかったのである。
そして、各々で飲みたいものを注ぎ、席に戻ってグラスを鳴らせてからのことだった。
「あたしさ、あんたの家で生活しちゃダメかな?」
……彼女がそんなことを言ったのは。
ずっと、頃合いを窺っていたかのような口ぶりだった。
回想終了。自分の記憶が正しいことを再認識した晶也は躊躇いがちにジュリアを見る。
もう一晩だけ、と言っていた彼女。子供っぽい声が意識して出されたものかどうかは分からなかった。彼女が計算や打算で表情を作り変えられる人物なのかも、付き合いの短い現時点では判断しかねる。
だから素直に疑問を呈することにした。
「意味が分からない」
「だからさ。……あたしもあんたと一緒に住んじゃダメかな? あの家で」
色々含みを持たせた発言なのか。と勘繰ったが、表現を少し変えただけで、やはりそれの意味するところは変わっていないように思う。第一に彼女はそんな回りくどいことをする性格ではない気もする。
そこまで考えて、ようやくそのままの意味がじんわり溶け込んできた。代わりに巡るは様々な可能性。
どうしたんだよ一体――と、晶也は声を尖らせた。「熱でもあんのか」
それとも入寮早々喧嘩したとか。
「ばか。真面目に言ってるんだよ。先に言っとくけど、パラ酔ってもないからな」
「……? ああ、無理して逆さ言葉を使うなっつーの。
――お前こそふざけてるじゃないか。
口にしたら怒られそうなので言わなかったのに、変な視線を向けられた。読心術? ジト目というやつだ。
呼吸を整え、改めて冗談なのかを尋ねたところ、ジュリアはやはりかぶりを振った。「本気だよ」
だったら尚更おかしい。晶也は腕組みをして小さく息をついた。分からないな。
「だってお前、実家から書類の返送が
「い、言えるわけないだろ!?」
その続きは、ここが公共の場だということを忘れたかのようなジュリアの大声に遮られることになる。
「はあ!?」
反射の要領で晶也からも大きい声が出た。
されども日曜の夜は賑やかである。弾ける笑いの溝に埋もれ、晶也から見て手前の席の子供が、僅かにこちらを一瞥するに留まった。
「つまり?」と、視線を送る。声を潜めると、それに倣ったのか彼女は恥じるように首を縮めた。つまり、
「書類を送って署名を貰うってことはさ、バレちゃうだろ……? あたしがアイドルになるってことが」
郵送すらしていないらしい。言葉の最後の方はさらに小声になっていた。
それはすなわちジュリアがこの短時間で心変わりをしたのではなく、初めから嘘をついていたということになるが、晶也には彼女がそうせざるを得ない背景に聞き憶えがあった。
――あたし、東京に行く。
そもそも。アーティストになりたい。そのために上京したい。頑な娘の願望を、彼女の父はなかなか受け入れてくれなかったという。これまで通り趣味として熱意を注ぐには構わない。しかしそれを人生の中心に添えるなど……。
なんでも「音楽で飯を食う」は、息子娘に言われたくない言葉ランキングでも上位に数えられる言葉なんだとか、晶也もいつかテレビで目にしたことがある。彼女の父も例に漏れることはなかったのだろう。
――学生のうちの、限られた時間は、将来の自分の為に使いなさい。
大反対だったのだそうだ。
そりゃそうだよなあ。ましてやジュリアはまだ十六歳だ。せめて高校くらいはまともに卒業してからでも、決して遅いはずがない。言い分は尤もだった。晶也が彼女の父親であっても、恐らく同様の言葉を振りかざしてしまうだろう。
――ようやく巡ってきたチャンスなんだ。ずっと焦がれてたからさ……遅かったくらいだよ。
だが、しかし。
アマチュアで終わる人が積もるほどに存在するこの世界で、ひたすらに没頭し、それが高じて道が拓けた彼女を応援してやりたいというもう一つの気持ちがあった。胸の奥で確実に燃えている。
上京に反対したのは何も音楽の道に進むことを反対したのではないと、根拠はないけれど思う。彼女の両親だって、彼女の音楽へのひたむきな想いと才能を評価しているはずだ。
だから、大丈夫だと思う、と口を開く。
「ジュリアの親御さんを全く知らない俺が言うのはなんだけど、正直に話せばわかってくれるって」
しかし逡巡しているような沈黙の後で彼女は、「そう簡単にはいかないんだよ」と感情を見せずに告げたのだ。
そういうもんかなあ。思わず眉間に皺を寄せる。
晶也も、一度は彼女が夢を諦めたのかと考えた。でも違った。
アイドルになる。ジュリアがその結論を導いた背景を知れば応援せざるを得ない。だから喫茶店で宣言したように、まっすぐな想いを伝えるだけで十分に事は足りるように思えて仕方がない。それに、
「いずれは歌手になるんだろ?」
「まあ、そうだけど……」
未だ言い淀むような気配。言わずとも分かった。彼女にはまだ隠していることがある。
晶也は言葉を止めた。この流れでは問うべきだが、無理に聞き出したくもない。円を描くようにグラスを揺らしたら、氷がぶつかり合う涼しい音がする。
その間に、注文していた品々が卓に並べられた。店員に会釈をして、視線を皿へと落とす。
――煮え切らないな。
許可を出すためにも、彼女の真意は知らねばならない。
それでも結局問うこともできず、緩く握った拳に変な汗をかいた晶也。その様子を見てしばらく黙っていたジュリアだが、やがて「ごめん、まだ嘘ついてた」と、思案深げに頷いた。
どこか自分に言い聞かせるような口振りだった。
「……何か、考えがあるんだよな」
「ホントちょっと違うんだ。言えないんじゃなくて、まだ言いたくないんだ」
ジュリアはゆっくり、目をまたたく。彼女の緊張が高まる様子を感じた。
「……この前にさ、アイドルにもロックの魅力を感じられたって話……しただろ?」
「憶えてる。それを伝えるのが自分の役目だと思う……って、言ってたよな」
「ああ。だから、言葉で『アイドルになる』って伝えるんじゃなくて、これが『アイドルという選択をした自分だ』って姿をあたしの活動で……結果で示したいんだ」
上手くいくかどうかはわからないけど――なんて不安は、微塵も感じさせない眼差しだった。
――相変わらず、疑わないんだな。
自分の成功を。必ず輝けるという事を。
いや、そのひたむきなまでの積極性。彼女が持っている大切な
「あんたに言いづらかったのは、これがただの
「いや……」
先に理由を言ってくれればこんなに慌てることも無かったんだけどね。と、軽口を叩けるような空気ではない。だから冷静に言葉を選んで、結局。言葉を返すタイミングを逸《いっ》した。
逸したからか、彼女は晶也がそれを快く捉えていないと感じたのだろう。少し早口になって、先を紡いだ。
「だけどさ。……あたしが
「……そういう、ことか」
ジュリアが一緒に住みたいと言った理由。甘い考えを漂わせていた自分が、少し恥ずかしい。
「苦手だけど、家事とかできるだけ手伝う。家賃も当然毎月払う。……必要なら何だろう、色々頑張るからさ。あたし」
「別に要らないけどさ」
彼女と共に生活をする。それは不可能なことではないと思う。
無論、大家である伯父への確認は必要ではあるが、身内である分許可は得やすく契約上の問題も発生しない。生活面にしても同じ広さの洋室が二つあるため、その内の一つを彼女のプライベートルームとしてあてがえば済む。どうせ空き部屋だ。
でもさ。
「――本当にいいのか、それで」
彼女の執拗さにグラついたわけではない。一方で晶也は、先日の喫茶店での感覚を思い出していた。
本当にいいのか。その言葉は、家賃の支払いに向けたものではなかった。おおもとの、一緒に住むということに対してである。
「何が……?」
「俺のこと」
更に指摘したのは、男女であることでもなかった。そりゃ年頃の男女が親の監視下になく一つ屋根の下になることだって、問題といえば問題だ。大問題かもしれない。だけど、それ以上に思うこと。
「違うんだよ。逆だ。俺がジュリアの負担になりかねない」
「……どういうことさ」
ジュリアは次の言葉を待つように、曖昧に首を傾げた。
言葉を交わせば分かる。ジュリアは憧れの世界に向かって躊躇いなく窓を開けられる人だ。先の見えない真っ暗なトンネルに直面しても、立ち止まることなく走りだせる人だ。
彼女の歌声に初めて触れたときの、足元から寒気が突き上げてきたようなあの感じを思い出す。今でもぞっとするあれだ。上手く言い表せる気がしない、彼女の持つ
なにも彼女を天才という言葉だけで片付けるつもりはない。それが生まれながらに持ったものなのか、成長過程で備わったもの……努力の賜物なのは分からないが、でも確実に彼女に
「そして何より、ジュリアには『夢』がある」
――夢や目標がある。それはきっと、幸せなことだと思う。
それらを持っていない人は、暗闇の中をただ闇雲に走るしかない。ゴールが見えないからって、走るのを止めてしまうかもしれないし、ここがゴールでいいと妥協することもあるだろう。
でも、どこへ進めばいいか分かっている人は多少道を間違えても、修正しながら、その時々の最善を選びながら、確実に前に進むことができる。
世界中に自分の歌を届けるという到達点。アイドルをそのプロセスに選び、途方もなく遠いそれを夢だと言い切った彼女。
きっと、彼女は上手くいくだろう。
「そんなジュリアのことを一番近くで応援できるのはすごく楽しみっていうか……。嬉しいとさえ思った」
楽しみだなあ、って上機嫌なはしゃぎっぷりを前に。あんたはファン1号だ、って満面の笑みを前に。胸が熱くなったのは嘘じゃない。
「だけど、そんな俺自身がジュリアの成長の妨げになる。縛る時が来るんじゃないかって……同時に思う」
平たく言えば、自分の持っていないものを彼女は持っている。だから、彼女が輝いて見える。
晶也の中で燻る想いは三つある。
一つは先ほど伝えた、ジュリアの側に居られることを嬉しく思う気持ち。
二つ目。彼女の成長に、自分は邪魔になるということ。これだって、本当に思っていることだった。
「縛る、ってなんだよ。あたしがそうしたいって言ってるんだぜ? おかしいだろ」
ジュリアは不服そうだった。「……んなことはねえよ」
ギターを弾いていた過去と、そんな内心を悟られぬよう晶也は渋々、唇を舐めてから話し始める。
「考えてもみろよ。そもそも『応援する』って、言っといてなんだけどすげえ自分本位だろ?」
晶也は笑った。嘲るような種類のものだと自分でも思った。
自分では成し得ないことを勝手に他人に委ねる。たとえ上手くいかなくたって、自分は傷つかない。なんせ努力をする当事者ではないのだから。ただ自分と似た境遇の対象に自分を重ねて、
――違う。
他人の成功では、完全に心が癒えることはない。
「すごい!」だとか「おめでとう!」だとかに留まればいいものを。秀でたものがない者なりの葛藤。抱く感情は羨望だ。
羨望は、他人が持っている宝物を失ってしまえばいいと願うもの。羨ましいが狡《ずる》いに変わる。自分が、彼女に対して今後もそれを抱かないとは限らない。
彼女に対する素直な称賛が、醜い疑心暗鬼に姿を変えるときが、いつかやってくる。その時の葛藤をもって……俺は彼女に向き合えるだろうか。
「自分本位なもんか。あたしは、あんたが応援するって言ってくれて……嬉しかった」
ジュリアの困惑と苦しさが混ざったような声に、晶也はひとつ押し黙った。
彼女の言葉はきっと本当だ。本来相手が嬉しいと思ってくれているのなら、この話はそれで完結する。
「そうかもな」
流れがどんどん悪い方向へ、言いたくないことまで出てきてしまいそうな気配がする。
それでも止められなかった。向けられた顔に、弱弱しい目を返すことしかできなかった。
「……俺はジュリアを応援してるさ。ジュリアを知った今、尚更応援するなって方が無理だ。……だけど」
――そうだな。俺も何か夢に向かって頑張っていて、彼女がそれを応援してくれて。目指すものは違えどお互いがお互いを支え合うことができる関係なら……良かったな。
別にさ。
ふと、自嘲気味になる。
「――俺じゃなくたっていいだろ」
三つ目。言葉にしてから初めて自覚した。
彼女を自分から遠ざけようとしていることに。
理由は簡単だ。ぐちぐち言ったが、ここからが一番の本音。
彼女と関わることは音楽から目を背けることができなくなることを意味しているからだ。自分でもよく分かっていた。
あの日であったジュリアと名乗る少女は、音楽や歌という絶対的な価値を宿したような少女だ。そんな彼女を前にすると、心の奥底に閉じ込めていた何かが、こじ開けられてしまうような不安に陥る。
ジュリアの瞳を見る。見据える。怪訝な表情をしているのにかかわらず、綺麗だった。
そう。そんな彼女に引き換え俺には何もない。晶也は張り付いた唇に力を込めた。
彼女が愛してやまない世界を、かつては晶也も持っていた。祖父に教わった音楽を、楽器を抱きしめてその広大さに胸を震えさせていた時期があった。あった、というには長すぎる期間だ。それは確実に晶也の軸であり幹だった。
――あの日までの。
あの日、祖父が亡くなった時から晶也の時間は止まっている。
「……俺に、こだわる理由があるのかよ」
「あるよ」
「どこに」
「興味があるんだ、晶也に」
その大きな瞳が責めるように晶也を見る。
そして
「さっきあんたは、あたしには夢があるから……って言ってくれただろ? でも……夢なんて、曖昧なものだよ」
そんな彼女の長い睫毛の作る影が、初めて物憂げに見えた。
自分に言い聞かせるように漏らした言葉のように思えた。
「夢ってさ、所詮は夢なんだよ。眠っているときに見るもの。……目を開けたら、そこにあるのは現実だ。夢を見ているだけじゃ、叶わないんだよ」
晶也は言葉の意味を吟味するかのように目を閉じた。そしてバンド解散のことだと、察した。
「結局は自分で動かなきゃ始まらないんだよな」
「でも、その一歩が凄く重い」
――その一歩目を踏み出せるかどうかが俺と、彼女の差だ。
「ううん。あたしとあんたに、何も違いはないよ」
ジュリアはそんな晶也の心の内側を見透かすかのように、軽く微笑んだ。
「強いて言えば、あたしには『歌』があっただけ。早々に出会っただけの、環境の違いさ。……だからきっと、あんたにもそういう何かがあったら、迷わず飛び込んでいたんじゃないか?」
ジュリアの言葉は、まあ正しいだろう。いや、正しかった。
人は暇があると過去を振り返る。
――後ろを向いた俺だ。……彼女が気づくのも時間の問題かもしれない。
口を噤んだまま視線を下に落とす。
「動けないなら、あたしがあんたの手を引いてあげる」
やがて、そんな声がした。
「……は?」
「あんたが何かを見つけられるまで、あたしが側に居てあげる。……そのためにあたしがいるんだ」
そのために、って何だよ。
突拍子もない考え。それなのに彼女の声には真実の響きがあった。どうして。
「なに変なこと言ってんだよ」
やっぱり熱あるんじゃねえの。
精一杯冗談めかして笑ってみせる晶也。ジュリアはつられ笑いをしない。
「いいじゃん。一人で見上げる寂しい夜空も、二人で見れば楽しいぜ?」
もしかしたら彼女も寂しいのかな。そんなことを思った。
「あたしはさ、別に流されやすい性格でもないし、自分なりのポリシーを持ってる。だからきっと、あんたが悪影響を及ぼすなんてことないよ。……あ、でも。もしかしたら影響されちゃうかもな。あんたの言葉は、あたしによく響くんだ」
「だから、ほんとにお前……」
「……たぶん、こういうのを波長が合うって言うんだろうな」
どうしてだと思う? 優しく問いかけてくるジュリアに晶也は答えが出せなかった。
「料理、もうすっかり冷めちゃったな。食べよっか、
ちょっと都合がいいような気もしますね。でも、大事な設定なんです。
晶也が音楽をやっていたという設定自体は、もともとそのような観点からもジュリアを解きたいがためのものでした。
なので別に彼が再び前を向き成功するまでを描く、なんてことはありません。ある一点においてのみ重要な役割を果たしますが、そこでも本質はぶれません。ジュリアの成長のためです。
とか言いながら、それに辿り着くまでに触れなければいけない過去やら葛藤のシーンやら、そこそこ出るかも……。
設定を全て事細かにしないと済まない悪い癖です。すみません、お付き合いいただけたら幸いです。
2020/4/24 撫音
/27 傍点・ルビのミスの修正を行いました。