二人が店を辞したときには、もう夜九時をまわっていた。
「まさか、あんたと暮らすことになるなんてなあ」
「白々しすぎるだろお前……」
全身から脱力するように、ジュリアが大きく伸びをする。街灯に照らされた髪が、足取りに合わせてふわふわとそよぐ。どこかいたずら心のようなものを刺激されていると、振り向いた彼女はうっすらと微笑んでいた。
「そうでもないよ。半分くらいは賭けだったさ」
「もう半分が確信ならそれは賭けって言わねえよ」
「じゃあ、あんたも同罪だな」
本気で断る気はなかったくせに。ジュリアは言う。「あったさ」と、晶也は口を尖らせた。
折衝の末、晶也はジュリアの頼みを受け入れた。晶也の内憂をもねじ伏せる彼女の真剣な表情。到底無視できるものではなかった。
「……だけど、気をつけて生活しないといけないね」
それも、そうだ。と目を閉じる。
彼女の立場になって考えるとこれほど危険なことはない。ジュリアはアイドルになったのだ。出会った頃のようなただの少女ではなく、芸能人になる彼女はこれからスキャンダルと日々隣り合わせの生活を送ることとなる。
着飾っていなくても、雰囲気の美しさというのは存在する。芸能人のそれなのか、俗にいう『オーラ』というやつだ。すぐに彼女にもそれは現れるように思う。変装とて見破られない保証はない。
街中でプライベートらしき芸能人を見かけたら――特にアクションは起こさず、後日知人との話の種にするに留めておく。どこかの雑誌のアンケートで一番多かった回答らしい。その中には偽善者ぶった回答者もいるかもしれないが、図々しく握手や撮影を求めに行く人が多いとも到底思えない。プライベートくらい、自由にさせてあげたいと思うのも人間だ。
ただし、それはあくまで対象が一人でいるか、家族といた場合に限るだろう。
「問題なのは俺みたいな、
ジュリアは「ああ」と短く頷いた。
たちまち遠慮はその姿を好奇心へと変化させる。765プロから直接明言されていない異性との交際についても、アイドル業界においては暗黙の了解――絶対的なタブーだ。
いくら否定をしようにも一度実った噂は胡乱に膨らみ、時に取り返しのつかないものとなる。それはジュリアの夢を妨げになること――彼女の支えになりたいとここに決めた晶也が、一番犯してはならないことを意味していた。
「考えれば考えるほどリスクしかない気がするけど、本当にいいのか? ジュリアは」
「あんたが本当に迷惑だって言えば、素直に引くさ」
「……俺が断れないの知りながら言ってるだろ」
――
晶也はこっそりと微笑した。先ほど彼女が言っていたこと。居心地の悪くない関係というのが、感覚でわかる。
「これがあんたとの、最初で最後の外食かあ」
なんだか一仕事終えたような気分になっていると、ジュリアは身体の後ろで両手を組んだ。
「でもまあ……押しかけといて言うのもヘンだけど、随分スムーズに進んだな」
「そうだな。実際さ、伯父さんが二つ返事するとは俺も思わなかった。母さんにも話をつけてくれたらしいし」
ファミレスを出て、そのことをまず部屋を提供してくれた秀峰に電話で伝えた。
引っ越しの様子を見に来た際、手伝いをするジュリアの姿を見て少し驚いた表情をしていた彼のことだから、余計な言葉でも飛んでくるかと身構えていた晶也だが、秀峰の返事は意外にも「わかった。浩海にはおれから上手く伝えておくよ」のみだったので、つい拍子抜けしてしまったのだ。
――それより、あの子は一体?
――じいちゃんの知り合いだったらしいです。あいつ、ギターやってて。
――ギターを。ああ、いや。……そうだったのか。
告別式で見かけたあの髪色を思い出していたのか、彼はしばらく無言になっていた。妙な沈黙が若干気がかりではあったが、いずれにしても秀峰はジュリアのことを「しっかり者」だと母に伝えてくれたらしい。
すぐさま母からのメッセージが届き、スマートフォンが二度震えた。
「母さんは……
「ふうん。じゃあ一石二鳥ってことか」
「都合のいい奴め」
「ううん。嬉しいよ」
その言葉には素直な響きがあった。訳もなくどきりとするし、身体が軽くなった心地もする。
「ありがとう、晶也」
彼女の笑顔には、まるで太陽の光を浴びているかのような彩りがあるのだ。
☆☆ ☆☆
2LDKの一室。洋室はそれぞれ六帖で、キッチンから続いたリビング兼ダイニングには仕切りはなく合わせて十三帖相当の広間。浴室や脱衣所、トイレなども申し分のない広さの新居である。
――伯父さんも太っ腹だよなあ。
シミ一つない真っ白な天井を見て、非日常的状況に陶酔しているかのような気分になった。
リビング側の洋室に机から小物まで晶也の物を全て運び込んでいたため、ダイニング側の洋室がジュリアの部屋だ。そちらの部屋に入って電気を点ける。閑散としている。というか、何もない。
「しばらくは俺のベッドでいい? 俺はソファで寝られるから」
「いや? あたしがソファでいいよ」
「身体痛めたら大変だろ。……母さんの敷布団、捨てなきゃよかったな」
空っぽの部屋でスーツケースを広げる彼女を見て、ふと思ったことがある。
「それよりお前……荷物、少ないんだな」
彼女の荷物は三泊四日程度の旅行向けスーツケースにベルトポーチ、それからギター.
一人暮らしを始める予定だった彼女には少なすぎる。
――というか、着替えさえ満足に持ってこられなかったんじゃないか?
というのも。
「準備しているときにさ、何を持ってこようか迷ったんだけど……結局楽器以外、大したものは思い浮かばなかったんだ。せいぜいお気に入りのマグとかでさ」
「……へーえ。そしたら、コイツもお気に入りなわけか」
ずっと気になっていた。スーツケースの左半分、彼女が応援しているらしいバンドグループのロゴがプリントされたタオルのその下。そこから覗く茶色い布素材のような物体は……カンガルーのぬいぐるみだった。
近づいた晶也が抱き上げるとその刹那、ジュリアの喉のあたりで「くぅ」と音が鳴った。あ、やっぱり隠してるつもりだったんだ。晶也は、弛んだ口元を隠し切れずに「可愛いじゃん、コイツ」と、返す。
「アイコンのヤツだろ? 持ってきたんだ」
「ただ、ケースに空きがあったから連れてきただけだよ」
どう考えても逆だろ。晶也は含み笑った。
先日連絡先を交換したメッセージアプリ。彼女のプロフィール画像に設定されているそのぬいぐるみは、首元には赤いバンダナが巻かれていて、お腹の中にはちゃんと子供もいるしっかりとしたものだ。結構デカい。
余程気に入っているのだろう。あれか。晶也はジュリアの顔をまじまじと見つめた。自分の枕じゃないと眠れない人さながら――ぬいぐるみを抱っこしながらでないと眠れない、とか。
「……なんか、失礼なこと考えてないか?」
「別にぃ、可愛い趣味してるじゃん。名前とか付けてんの?」
「…………さあ」
「肯定しているようなもんじゃないか」
晶也はもう一度笑って、抱きかかえたままのぬいぐるみを前に顔を向き合わせた。目元がくりっとしていて可愛らしい顔だちをしている。しかしながら数多存在する動物の中から、どうして彼女はカンガルーを選んだのだろうか。
「そうだな……お前は晶也二号! お腹にいるのは三号だな!」
「そんなダサい名前じゃないっつの……」
「あ、お前ダサいって言ったな」
そんな彼女が小さな笑いを忍ばせているのを見逃す晶也ではない。彼女との生活はきっと穏やかかつ刺激のある日々になるだろう予感。あるいは確信のようなものが過る。
「ところで晶也、明日は暇? このあたり散策しないか?」
「明日はさすがに学校行くから放課後な。火曜日だったら五時間目で終わるし、家具とか買いに行くならそっちの方がいいけど、どうする?」
来週には期末考査を控えているために、必要なことは今週中に済ませておきたいところがある。
散策についてはファミレスまで道のりでコンビニとスーパーマーケットの位置は確認できたし、あとはドラッグストアと郵便局くらいかな。火曜日を提案するとジュリアはやんわりとした声で頷いた。
「オーケー、明後日にしよう。そしたら……そうだ。洗濯機の使い方、教えて欲しいんだけど」
「お前、寮行ったらどうやって生活するつもりだったんだよ……」
「うるさいな。新品には
腕時計に視線を落とす。針が示すはどうにか九時台。引っ越し早々ごめんなさい。
晶也は頷くと、「洗濯物入れて蓋したら呼んで」とジュリアを脱衣室へ促した。
「上の棚のさ、籠の中に洗濯ネットもあるから。必要なら使って」
「助かるよ」
床が汚れないように気を遣ってからか、スーツケースを抱えて脱衣所に向かうジュリア。
先週からにかけて、その態度や雰囲気から抱いた彼女の印象は、「傍若無人」や「大雑把」といったものだった。だからそういう気が利くところが、ギャップというか、晶也は好きだ。
扉の向こう側からがさごそとビニール袋やらの音が聞こえ、やがて「晶也ぁ」と呼ぶ声がした。
「まず電源を入れて、スタートボタンを押すだろ? そしたら自動で量を検出して、必要な洗剤量を教えてくれるんだ」
「ピー」と洗濯の開始を知らせる音が鳴り、洗濯機特有の振動が脱衣室一帯に伝わる。昔はどこかの部品が痛んでるんじゃないか、と怪しんだものだ。「便利だな」と、ジュリアの感心した声。
「検出が終わったらここのランプが光るから、一時停止ボタンを押して」
そう。それは日課に等しい、当たり前の動作だったから。
「洗剤を入れるために一度蓋を開ける――――」
何の気なしに、そうしてしまった。迂闊だった。
「あ」
思わず硬直する。たぶん晶也も弾けるくらい。
端的に説明すると、ジュリアに
至って健全な、年頃の男子高校生にとってそれらは目に毒だ。が、見ないように努力しようにも、それらはついつい晶也の視線を呼び戻す。淡い色彩。パステルカラー。
――パンクロックが好きな女の子って、もっと
なんでこんなところだけ妙に女の子らしいんだよ。清楚なんだよ。なんというか、より一層見てはいけないものを見てしまった気分になって、顔が熱くなる。
ごくり、と生唾をのんだ。
ほんの一瞬にも数十秒にも感じた沈黙。あまつさえジュリアが着ている姿を思い浮かべそうになったところで、彼女が声を張り上げていた。
「いっ、いつまで見てんだこのバカ!」
「あっ……わ、悪い!」
踵を返した晶也めがけて、そこそこ重たいものが飛んでくる。痛っ……くはねえな。大きい割には背中に当たった感触は柔らかく、痛みは残らないのは素材の所為だ。
晶也の背中から跳ね返り、無慈悲にも床に転がってしまった茶色の
「……よう、晶也二号」
お前も災難だな――――
☆☆ ☆☆
訪れた最初の夜。
疲れているはずなのに、目は冴えて少しも眠くならなかった。
寝返りをうとうにも狭いソファの上ではそれは叶わず、もぞもぞと手やら足やらを組み替え目を閉じ、またしばらくして姿勢を変えてはため息をつく。
バスタオルを丸めた枕に顔をうずめた格好で、自分の置かれた状況を言葉にしてみた。
「……眠れねえ」
声に出したって、瞼が重くなるはずがないことは分かっている。何となく落ち着かなかったからだ。先の光景が目に焼き付いたままで興奮が収まらない、とかではない。……本当に。それについては「絶対忘れろ」と何度も釘を刺されてしまった。忘れるさ。忘れますとも。
まさか、一緒に暮らすことになるとはね……。
晶也は冴え冴えと覚醒したままの脳内で、一つ一つ、今日の出来事をなぞっている。何度も何度も。やがて行き着くのはやはり。
「…………音楽か」
クローゼットの下の段。積み重なった収納ボックスの、更に後ろ。純正のハードケースに身を包まれた、晶也のギターの居場所。ジュリアの目を盗んで運び込み、運よく彼女が席を外したタイミングで仕舞ったものだ。
人にとって快適な環境はギターにもいい環境とは、よく言ったものだとぼんやりと思う。仰向けに寝かされているその体勢は一番望ましいものではないが、それでも弦を緩め、調湿剤を入れ、できる限りの処置はしているつもりだ。
今でも拘る理由。もう弾かないのであれば、大切に扱う必要はないのではないか。売る予定すらないのなら、その価値を留める必要だってないじゃないか。
――違うんだよな。
捨てたら、本当になくなってしまう。
俺が手放すことができないのは、過去だ。今でも縋っている。「好き」と「楽しい」を信じていた過去に。
志吹晶也は極めて
――分かってる。
分かっているんだ。不変を望むは逃げの姿勢。それは約束された沈殿。決して進むことはないのだと。
未だ傷は乾かない。今はまだ過去と日常のはざまに
「動けないなら、手を引いてあげる……か」
まだ新しい記憶を呼び起こし、彼女の言葉を反芻する。
――あんたの言葉は、あたしによく響くんだ。
自分は、どうだろう。
ファミレスでは柄にもなく吐露してしまった心情。あの生意気な、けれど透き通った瞳を前にすると敵わない。
「変なヤツだな、ほんと」
晶也がジュリアの全てを知らないように、ジュリアと出会う前の晶也のことも、彼女は一割も知らない。そんな二人が生活を共にしようとするのは、なんと慨嘆的に無鉄砲なことなのだろう。
それでも悪くないと思える自分がいる。不思議な予感に心を弾ませる自分がいる。
心の奥底に一粒の種が蒔かれた。そんな気がした。ひとたび芽が出れば、すぐに実ってしまいそうな、何かの種が。
これからどんな話をするのだろう。二人で並んでソファに座る姿を思い浮かべてみる。
きっと、楽しいんだろうな。
自分が微塵も煩わしさを感じていないことにひっそりとした恐怖さえ覚えたところで、ようやく晶也は眠りにつくことができた。
――――――――
――――
あの時、咄嗟に口を衝いたのは誤魔化しだった。
やっぱり言えるはずがない。それがきっと、彼の祖父の意志だから。
「ごめん晶也。あんたを縛ることになるのは、あたしだ――――」
ここまでお付き合いくださった皆様、ありがとうございます。
この十五分おきっぽい投稿は、推敲しながらが故です。お待たせしてすみません。
しかし改めて読んでみると長ったらしくしかも淡々と……面目ありません。
ようやく序盤、この物語の基盤・設定の部分が今回で終了いたします。
次回以降はジュリアがデビューしてからの物語、ようやく本作の本筋になります。
どうかお付き合いくださいませ。
2020/4/24 撫音
/26 傍点・ルビのミスの修正を行いました。