そうして夏が巡り来た。
福岡の夏は暑かったが、東京の夏も暑い。じとっとした湿気を含んだ日本の夏だ。
それでも、
「……夏だなあ」
ジュリアは呟いた。生まれ育った地では海など珍しくないのだが、同じ海でも色が違うな、と思った。
それから目的地――大きな建物を見上げる。こっちも夏の太陽をこれでもかと浴びて、ギラギラと光っている。
765プロライブ劇場。通称シアター。それがアイドルになったジュリアのホーム。通い詰めてもうじき一月が経とうとしていた。この景色も見慣れてきたものだ。
シアターはその名の通り、ライブ会場を内設したもので、正面から入るとまずエントランス、その奥にホール。さらに進めばライブステージがあって、さらに後方には楽屋エリアといった構造になっている。
基本的にアイドルたちはシアターに来るとその楽屋エリアで様々に過ごすことになる。ストレッチルームやドレスルームなどもこちらに備わっているのだ。当然、エントランスから楽屋へと直接行ける関係者用の通路がある。
一階には事務員である
「おはよ」
その楽屋のドアを開けると、エントランス以上に効いたエアコンの、涼しい空気が迎えてくれる。
それから同期。新規プロジェクトのもと765プロに参入したジュリア達は、『ミリオンスターズ』と呼ばれていた。シアターが二期生を含んだ新体制となり、アイドル業界のトップを目指す――いわゆる『39プロジェクト』を成功させるうえで建設されたものであることから、『シアター組』とも呼ばれることがある。
本日その楽屋にいたのはそんなシアター組の一人、
食い入るような目でスケジュール帳と睨めっこをしていた彼女は、ジュリアの声を捉えるや顔を上げて笑顔になった。
「あっ、おはようございます。ジュリアさん」
「おはようシズ。今日は一人?」
静香は自分より年上の相手に対しては敬語を使って話す。対してジュリアは、同じ事務所の面々を名前をもじったあだ名で呼ぶことが多かった。
「はい。
「そっか」
訊いておきながら、ジュリアは歪んだ笑い方をしてしまった。学校の話になるとこちら側には引き出しが無いから、どうにもそれを避けるような反応をしてしまう。
ギターケースを肩から外すとスタンドに立て、自身は静香の向かいの椅子に腰を落ち着けた。
今しがた名前の挙がった少女、
――まあ、辞めなきゃ成功できないほどブラックじゃないしな。
それでも学校に行かない生活というものに、すぐに慣れるものでもなく、夜更かしの多いジュリアだが、朝は決まって晶也と変わらぬ時間に家を出るようにしていた。
欠伸を噛み殺す日々。基本的にはそのままシアターへ直行するが、時にはカラオケに寄って喉の調子を整えることもある。
それからジュリアは自然に仕事の話へとシフトさせていた。
「そうだ、聞いたぜ? 新曲の話。シズの元に来たんだってな、おめでとう」
デビューに際してミリオンスターズは、かねてから765プロに楽曲を提供しているレーベルと契約を交わした。そこはアイドルそれぞれのイメージに合う楽曲の作成をしてくれるのだが、初めはそうそうアイドル像が固まっているわけでもない。
よって作成された新曲はプロデューサーの元へ届けられ、彼がそれを歌いこなせそうなアイドルを選ぶことになっていた。
つまり、プロデューサーが最初に選んだのが最上静香――ということだ。
「い、いえそんな……」と静香が顔の前で右手を振るう。こういうところが静香らしいと思いつつ、
「謙遜するなって。ウチらがデビューしてからまだ一か月くらいだ。他のみんなより一歩リードって感じだな」
「ふふっ。そんなこと言うんでしたら、ジュリアさんこそ曲作り順調だって聞きましたよ?」
笑いかけると、言い返された。
「……なんだ。あのバカP、そんなことまで言いふらしてるのか」
一方で、ジュリアただ一人。自ら曲を手掛けるアイドルとして、765プロに所属していた。晶也に語った目標の一つが叶う日はそう遠くないのかもしれない理由の一つだ。
契約のことでレーベルの人とミーティングをした際のこと。自分の歌を歌いたい。ジュリアは真っ先にその想いを告げた。
――なるほど。しかし、我々にもプロとしての責任がある。素人同然の楽曲であれば世に出すわけにはいかないよ。
すなわちテストを行うということだ。真面目な声色で言われたものだった。緊張が走ったことを憶えている。
プロとして。
ジュリア自身にとっても同じことだった。これからはアマチュアではなく、プロとして……765プロの看板を背負う者として歌わなければならない。
楽曲を出すことになった場合に、音源や音量など編曲の大部分、それにCDの製作を担当してくれるのはあくまでレーベル、いずれ契約するレコード会社である。だからここで認められなければ、始まらないのだ。
自分の作曲センスが未熟だとは百も承知だが、将来歌手になるためにも大事な一歩だ。まだ見えぬ星に向かって、深呼吸。
――見定めさせてもらおう、君の実力を。
――ああ!
その時ジュリアが披露した曲は二つ。一方はバンド時代に一番の人気を誇っていた楽曲だった。メンバーと時に衝突しなながら練り上げた、自信のある一曲だ。一人で弾き語るには物足りなくても、確かにジュリアに力を貸してくれた。
もう一曲は、解散してから一人で着手したもの。曲と呼んでいいのか定かでないそれに、敢えて名を付けるのならば――『
――こっちは、名前すらない未完成品なんだけど、いいかな。まだ途中までしか出来てないんだけどさ。
自分の将来が掛かっている大事な試験に、どうしてそんな不安定な勝負を仕掛けたんだろうな、あたし。今でもジュリアは不思議に思う。
でも結果的に、奇しくも評価されたのはその曲だったのだ。
粗削りだが、他とは違った可能性がある。それが作曲センスに向けられたものなのか、ジュリアというアーティスト自身に向けられたものなのかは最後までわからなかったが――「曲が完成したら持ってきなさい」と、認めてくれたのだから素直に喜んでよかったのだろう。
ジュリアは脚を組み替えて、静香を見る。彼女がプロデューサーから聞いたという、ジュリアが現在手掛けている歌。しかしそれは『未完成の曲』ではなかった。それとは違う、全く新しい曲なのである。
見られていることに気づいた静香が、ちょっと恥ずかしそうな顔をした。「楽しみにしてますね、ジュリアさん」
「ああ。サンキュ」
テーブルの上の箱からマドレーヌを一つ、自分の口に放り込んだ。上あごに広がる控えめな甘さの中、ジュリアは考えていた。
まだどこにも出していない『未完成の曲』だって、完成次第765プロの看板を背負ったジュリアの名で発表することができる。
――完成すれば、な。
ただ、あたしは恐らくそれを世に出すことはないだろう。窓の外。空に向かって問いかける。ジュリアは複雑だった。
なぜならその曲を、
「さて……もう少し練るかな。スタジオどっか空いてたっけ」
シアターのメイン楽屋には二つホワイトボードがある。
ひとつは落書き用。誰かの誕生日を祝う際にイラストやコメントを寄書きする。ちょっとした会議での、黒板代わりの役割をすることもある。もう一方はスケジュール。複数あるレッスンルームの予約・使用状況を示したものだった。
ジュリアが今確認しようとしたのもこちらなのだが――立ちあがったのと、戸口から慌ただしそうにプロデューサーが入ってきたのと、ほぼ同時だった。
「わっ……」
まだ午前中だというのに、息を切らした様子の彼に苦言を呈す。「びっくりさせるなよ」
「ああ、すまない。……今いるのは静香とジュリア、二人か?」
「はい。他の楽屋はわかりませんが、ここは私たちだけです」
静香が答えると、プロデューサーは手にしていた冊子に目を落とした。それは随分と分厚い。新しい企画書だろうか。
「分かった。……二人とも、前に伝えた日程、ちゃんと空いてるか?」
「八月の第二週に仕事が入るはずだから、丸々空けておいてくれないか。……ってヤツ?」
「そう、それだ」
二週間ほど前に伝えられていたことだ。詳しいことは決まり次第話すという極めて曖昧なものだったが、「もちろん」ジュリアは二つ返事に頷いた。仕事に係わるものだからと、当然予定は入れていない。
静香が「私もです」と倣うと、プロデューサーは深く頷いた。「ようやく、話せるようになった」
次いでプロデューサーがポケットから取り出した手帳は付箋でいっぱいだった。表紙の四隅は縒れているし、ところどころ剥げている。一般的な手帳は一年間の予定しか書き込めないので、彼がそれをそう長く使っていることはないはずだ。
最長でも去年の十月始まり。ジュリアの春始まりの手帳なんて、まだつるつるだというのに。
「実は、企画自体はお前たちミリオンスターズを迎え入れた時点で発足していたんだけどな」
「二週間どころか
「こっちにも事情があってな。キャスティングに時間がかかってたんだ」
「キャスティング?」
反復すると、プロデューサーは目を細めながら頷いた。「先に企画説明をしよう」と。
「『生
覚えているも何も……知らなかった。聞き慣れない単語にジュリアは首を横に振る。サンデーというからには日曜日に関係する何かだろうけど、何だろう。静香を見る。
「ごめん。あたしは馴染みが無いや。……シズは知ってるのか?」
「先輩方の番組ですよね。……確か、『赤坂・ブーブーエスTV』さんで放送されていた」
「流石は静香だな」
「いえ、アイドルにかかわる番組は色々チェックしていましたから……」
制作会社まで言い当てた静香は、またも謙遜の表情を浮かべていた。ジュリアはつまり、と口を開く。
「765プロの番組……ってことか?」
「ああ」とプロデューサーが頷いた。
興味をそそられると同時に、765プロに所属していながらそれを知らなかったことが、少しばかり申し訳なくなる。
「毎週日曜日にやっていた生放送番組なんだ。春香と
そんな番組だった。プロデューサーが不自然に言葉を止めたので、思わずジュリアは「だった?」と尋ね返していた。
「仕事が増えてスケジュールの都合上続けることが困難になって、事実上の打ち切りになったのが今年の最初のことだ」
そうか――と返事をする最中、高校の話をした際に小鳥の言っていたことが脳を掠めていた。
仕事が入るということ。それはとても喜ばしいことで、芸能人として成功している何よりの証になる。しかし、同時に本当にやりたいことができなくなることもある――。
レギュラー番組か。無念だろうなあ。
そんなジュリアの心情を汲んだのか、「今からするのは悪い話じゃないぞ?」とプロデューサーは言葉を改めた。
「なんだよ、紛らわしいな」
「今回の仕事の話に繋がるって言っただろ」
鋭い切り返しだった。ジュリアは小さく舌を出す。どうやら、早とちりをする癖は未だ健在らしい。
すると隣では、すかさず静香が反応していた。気もそぞろにといった様子である。
「も、もしかして私たち『生っすか!?』に出演できるんですか!?」
「
「ほ、ほんとですか!?」
「ああ。元々視聴率の低下が打ち切りの原因でもないから双方にメリットありということで」
「すごい……ことなんだよな、それって」
見るからに静香は感激している。気を持ち直して尋ねると、「凄いことですよ! ジュリアさん!」と彼女は声を弾ませたままだった。
「ちょっと待ってな……」
返事をしながら、ジュリアはスマートフォンの検索画面を開き『生っすか』と入力してみる。番組の存在すら知ったばかりなので、このままだと話についていけなくなりそうだ。
ふうん、公式サイトは残ってるのか。検索結果の一番上に表示された番組名に指を添える。「765プロダクションのアイドル達がお送りする、毎週日曜午後の新発見タイム!」――そんなコピーが飛び込んできた。新発見と謳うからには、純粋なトーク番組ではないっぽい……。
下にスクロールしてゆくと、『響チャレンジ』『四条貴音のラーメン探訪』といった様々なコーナーの紹介があった。プロデューサーの説明に則れば、ミリオンスターズが何らかの新企画を担当といったところか。
――なるほどな。
また二秒ほど考えてから、ジュリアは訊いた。「……だけど、今あんたの言った半分正解ってどういうことだ?」
「それはな。……いくらミリオンスターズの紹介番組になるとはいえ、全員で一斉に生放送に出る訳にはいかないだろ?」
プロデューサーがやや首を傾げて、言った。
「……そうですね。四〇人近い私たちに、均等に持ち時間が与えられるとも限りませんし」
「というか、あれだけ個性的な連中が生放送に集結したらパニックになりかねないだろ……」
静香が頷きジュリアが言い添えると、彼は「その通り」と苦笑いをしてみせた。
「だからといって、出演できるアイドルとできないアイドルが出てしまうのは不公平だからな」
彼の言うことは尤もだ。それは、事務所がアイドルに優劣を付けることと変わらない。それではどうするのか。ジュリアが視線を送ると、「そこで、考えたんだ」とプロデューサーは手癖のように眼鏡の角度を整えた。
「ミリオンスターズは、
「出演……しない?」
「早とちりするなよ?」くぎを刺される。「あくまで生放送に、だ」
「と、言うと?」
「ミリオンスターズにはあらかじめ別途ロケに行ってもらうことになる。それが例の日程、八月第二週の仕事の内容だ。本番ではそれをドキュメンタリー番組風に編集したもの流して、それに春香たちがコメントをしながら進行する――そんなスタイルでやっていく」
今度は静香の方を向いて、「スタジオには『響チャレンジ』とかを映したような、大きいモニターがあっただろ」と同意を求めた。静香は一言頷いた。
「そうですね」
「形式的にはまあ、そうだな。よくある『VTRをご覧ください』と似た感じのを想像してくれればいい」
その中でシアター組の紹介を行ってゆく、ということらしい。
メディア慣れしていないミリオンスターズにとって地上波生放送は荷が重すぎる。そんなプロデューサーの判断は適切だと思う。番組への生出演ではないから、そういう意味での半分正解か。ジュリアは納得して鼻から息を吐いた。
「それで、ロケの内容はどうなんだ?」
「ここからが本題だ。シアター組の折角の地上波デビューの機会に、普段のシアターの風景を撮ってもらうだけじゃ味気ないからな。ロケのテーマを四種類用意して、そこにみんなを割り当てさせてもらった」
再びなるほど、と呟いた。先のキャスティングが指すのはそれか。一週間近くを使うなんて、随分と長丁場な気もするけど……。相槌を打ちながら、思い当たる。
「まあシアターでの撮影なら、ウチらでテキトーにカメラ回した動画をファンクラブ会員向けに公開……とかでもいいしな」
「オフショットムービーで、あんな光景をお届けするのもどうかと思いますが……」
静香はちょっぴり呆れ声だった。
「そうした最大の理由としては、今回みんなにはテレビ局も介入する
「……確かに、ウチらの活動拠点はほとんどシアターだもんな」
雑誌取材だって、記者側がシアターまで足を運んでくれている。
仕事らしい仕事といえば、ある日はCDショップのイベント。ある日は地方ラジオのゲスト及び地域PR。様々なオファーから始まる今までの仕事が大したことのないものだった……と言うつもりはない。
しかし四種類のロケを同時進行で行うこと。それはつまり赤坂・ブーブーエスTVがこの番組にそれだけ人員を割いているということだ。かつてなく大掛かりなものに間違いはない。
「そう言われると緊張しますね……」
「……だな」
静香の声色に、素直に同じものを混ぜる。正直、ちょっぴりぞくりとしたから。
「まあ、それぞれのチームには二人ずつ一期生も同行させるからそこまで気負う必要はないさ」
身震いする二人を前に、プロデューサーの声は優しかった。そののち「さすがにシアター組だけで収録に臨ませるには懸念材料が多い」と頭を掻くのを見て、そちらが彼の本音ではないかと感じたのは静かも同じだったのだろう。
「よし。……そしたらキャスティングだな」
一通りの説明を終えて、いよいよ。プロデューサーが喉の調子を整えるように咳払いをした。
「一覧にしたものを後でそこに掲示するつもりだが、先に知りたいだろ?」
「は、はい!」
「そう言うと思った。まず……番組の趣旨はあくまで『ミリオンスターズを世間に知ってもらう』ことだからな。なるべくみんなの個性が光るような配役をしたつもりだ」
「……ん! ってことはあたしは歌の仕事ができるってワケだな! いいね、腕が鳴るぜ!」
ジュリアは半分もたれかかっていた身体を起こした。目の前のテーブルまで身を乗り出す。
――個性が光るような配役。
あたしの歌に惹きつけられた、ってくらいだからな。
しかしプロデューサーが告げたのは、全く予想外のものだったのである。
「いや……ジュリアが行くロケは……そう、『極限!サバイバルアイランド』の収録だ」
以前もご説明しました通り、今作でも拾います。が、それ自体は原作で完成しておりますので後半で具体的になぞることはございません。
詳しいことは後半の後書きに記しますので、よろしければお読みください。
いやでも本当に好きなんですよね、『極限!サバイバルアイランド』
本来のイベントでは、50名のアイドルが全員向かう、というものですが今回はキャスティングをさせていただきました。
もし今後、他のアイドルで一筆とることになった場合、別ルートの話もできたらなあ、なんて考えています。
2020/4/24 撫音
/26 傍点・ルビのミスの修正を行いました。