遂にQの尻尾を掴んだかに見えたが、因縁の敵に繋がるいとぐちには違いなかったが少々事情は複雑を極めていた。
昭和43年東京都内某所
よれよれのトレンチコートを纏い、ベージュの中折れ帽を被った初老の男が歩道を行く。
彫りの深い顔をサングラスで隠し、方々に気を配って足早に歩いている。
何を思ったか、彼は車道に飛び出し、縦列に並ぶ車沿いを、黄色いタクシーに向かってまっすぐ進んだ。
彼は銜えタバコを投げ捨てると、黄色い車体を2度ノックして声を掛けた。
乗り出した運転手が、助手席のシートに手を突き、ウィンドウを下げて応答する。
「何か御用ですか」
三つ揃いを清潔に着こなした好青年は、笑顔を繕いながらも訝し気に尋ねた。
サングラスにその運転手の顔を映しながら、男が眉を寄せる。
「駐車を取り締まっているように見えるかね。急いでいる、君の仕事をしてくれ」
「あいにく……」
断りの文句を切り出そうとする運転手を、彼は遮る。
「先約があるというわけじゃなさそうだな」
「は?」
「車のナンバーを会社に問い合わせた。この上乗車拒否を報告されたくなかったら出してもらおうか」
渋々という表情で従い、運転手が後部座席のドアを開ける。
男は長身を折り畳んでタクシーに乗り込んだ。
運転手がルームミラーで彼を見る。
「行き先はどちらへ」
間髪を入れずに彼は答えた。
「地獄さ」
乗客となった男は、コートの懐に手を入れて銃を出し、シート越しにそれを突き付けた。
険しい表情で運転手が問い返す。
「お客さん、ご冗談を」
「これは本物だ。甚だしい殺傷力がある。君の返答如何によっては、それを試してみよう」
「よしてください、お金なら差し上げます」
「何も要らない。いくつか質問に答えるだけでいい。では聞くお前はQか」
「Q?」
「とぼけるな。では質問を変えよう。お前はいつ結婚した。子供は何人いる」
「え? い、いきなり何ですか、それを聞いてどうするんですか」
「さっき会社に問い合わせたと言ったろう。そのときお前の家族構成も聞いておいた。お前がこのタクシーの本当の乗務員なら、質問に答えられるはずだ」
「何のことだかかさっぱり」
銃を手にした彼は、ふと窓の外を見る。そこには屹立する摩天楼にあって一際高いビルが建っていた。
「なぜここにいた。張っていたんだろ、第1GYビルを」
「あれがそのビルだとは知っていますが、ここにいたのは偶々です」
「狙いは何だ。矢吹郷之助か」
「ちょっと待ってください。その前に聞かせてください。あなたは……」
男は銃を構えながら、運転手の様子にただならぬ緊張を認めた。 果たして運転手はこう切り出した。
「あなたは村上譲さんですね」
然して村上が問い質した運転手の正体は外れ運転手が問い返した男の正体は的を射ていた。
そのとき矢吹郷之助は、まだ暮れぬ日に苛立ちを募らせていた。
矢吹コンツェルン総帥である彼は、自らが所有する第1GYビル34階のオフィスで、鳴りを潜める電話を見詰めている。
昨日、桂めぐみが電話を掛けて来た。
普段、彼女は銀座のクラブ “J” のママをしているが、かつては矢吹の下で諜報員として働いていた。
電話の向こうでホステスが接客する声と、グラスをぶつけ合う音が聞こえる中、近況を話し合い、昔話に花が咲いたが、彼は期した。
彼女の目的がただの懇話であるなら、オフィスを訪ねてくる。
だから、電話を使わなければならない理由があるに違いない。
矢吹は、それとなく桂に問うてみた。
「ところでご隠居は元気にしておられるかね」
「はい。おかげさまで意気軒高ですわ。相変わらず耳が遠いので困っておりますが」
彼女の言葉に、彼は驚愕した。
意気軒高。それは、矢吹が桂との間で決めていた符丁であった。
「Qが動き出した……」
彼は、衝撃に眩暈を覚えながらも、熱いものが込み上げてくる。
Q。世界を混乱に陥れるために暗躍する、謎の巨大組織。
かつて矢吹は、この脅威をいち早く察知し、世界各国の同士の協力によりマイティジャックを創設。これに対抗した。
世界中で起きる凶悪な事件、様々な紛争に彼らの影がちらつく。
Qは大国の複雑な思惑が絡む代理戦争にことごとく関わり、裏で糸を引いた。
人類を滅びの道へ導き、その愚かさを嘲笑うように。
その陰謀はマイティジャック、通称MJによって阻止され、世界の平和と安定は保たれた。
やがてQは沈黙し、活動は休眠状態に入った。
そこへ来て、この一報である。
日々、喉を通らぬ酒を無理に呷り、胃を焼いていた矢吹の酔いは醒めた。
それに加え、桂の使った符丁には、敵に会話が聞かれているという暗示が含まれていた。
電話か、このオフィスか、はたまた彼女の店か。
あるいはそのすべてに、盗聴器が仕掛けられているかも知れない。
矢吹には、彼女の口から聞き出せていないことがもうひとつあった。
それは、Qが行動を開始した情報をどうやって仕入れたかということだ。
符丁もそこまでは想定しておらず、会話の中に示すべくもなかった。
彼が受話器を置いたとき、矢吹のオフィスを誰かがノックした。
「入りたまえ」
彼は入室して来た訪問者の姿を見て驚いた。
加速する黄色いタクシー。
いつの間にか、外の風景を見ていた村上の視界から忽然と街が消え、また現れる。
ハンドルを握る男は、忙しなくコラムシフトを操作し、サイドブレーキを引いた。
「少しここで停まらせてもらいます」
有無を言わさぬ運転手の態度に、特に動じず、彼は静観した。
少し外は明るくなっている。まるで昼間に戻ったかのようだ。
通りの向こうには同じ黄色のタクシーが駐車している。
運転手が降車し、自動販売機の前に立って硬貨を投入した。
三つ揃いを着た運転手がボタンを押し、取り出し口に缶コーヒーが出て来る。
そこへ、後ろから近付いた男がわざと小銭を落とし、運転手がふり向いて路上を探す隙に、近付いて来た男が缶コーヒーをすり替える。
「あれは」
「そうです、私です。ただし2時間前の」
「何をふざけたことを」
「ここは自販機と公衆トイレが一緒に利用できることで、タクシーの運転手がよく訪れる場所となっています」
「じゃあ、あそこに映っている風景は2時間前のもので、我々の乗った車は時間を遡ったとでもいうのか」
「信じていただけるなら、その通りです」
「缶コーヒーをすり替えたな」
「眠り薬が入っています。彼には申し訳ないですが、トイレで寝てもらっています」
「
「私は自分のことをよく知っている。ベッドで安らかに死ぬよりも、もっと高い確率で落命することも」
「危険に身を置く立場なのはよく承知しています。村上さん、いいえ博士」
「それを覚悟と言い換えてもいい。君は何ものだ」
「
「確かに、Qの流儀とはいささか違うようだな。
「奴らは正義の名の下に行動する者を愚かとし、それに敗北した仲間に嘲りの目を向ける。もちろん、消される」
矢吹のオフィスのドアをノックした訪問者、それは桂めぐみだった。
「桂君、まさか」
今電話で話していたばかりの彼女が目の前にいる。
もちろん、受付が彼女を通したのには何の落ち度もない。
「矢吹さん、このような非礼をお許しください。私は本物です」
「うむ。どういうことか聞こうじゃないか。説明してくれたまえ」
「私は、ある者の手により時を越えることができました。それを説明するには、こうするよりほかなかったのです」
「その、ある者とは一体何だ。我々の敵か、味方か」
「未来のMJですわ。歴史では、我々のマイティジャックは、今後100年Qと戦い続けます」
彼はデスクの引き出しからタバコを取り出し、1本火を付けて銜え、煙を吐いた。
「では、その未来のMJはこの時代に来てQの根を絶やしに来たのかね」
「いいえ、歴史そのものを変えることはできません。時を越えることさえ、人ひとりの命を奪う犠牲を払うものだそうです」
タバコを燻らせる矢吹の、眼鏡越しの視線が鋭くなる。
「では、クラブJには」
「はい、未来からMJと、それを追ってきたQもおりました」
「それでどうなった」
「明日、このオフィスに電話を掛けてくる手筈になっています。生きていれば」
「時を遡るのに人命の犠牲を払うと言ったね。それともQに消されるということか」
「そのいずれも、可能性としてあります。時を越えると、もう元の世界には戻ることができないそうです。往復はできません」
「いつ掛けてくる」
「エージェントは、その未来から来たMJの工作員は、約束に時を明確にすること躊躇っておりました」
「わかった。待とう。その彼によってもたらされる情報を聞き、今MJが何をすべきか、決めなければならない」
矢吹は待った。
嵐の前の静けさの、その静寂を守るような電話を。