……これは私、空門藍が十年ぶりに目覚めた年。その冬のお話です。
蒼ちゃんの慈愛に満ちた睡眠学習のおかげで、長い間寝ていた私も年相応の知識や常識を学ぶことができていました。
でも、認めたくないですが、蒼ちゃんからの睡眠学習は一つだけ欠点がありました。
「漢字が……読めない……」
もちろん、蒼ちゃんが献身的に色々と教えてくれたことには心から感謝しています。いくら感謝してもしきれません。でも、漢字だけは実際に字を見て、書いてみないと覚えられません。話す分には問題ないんですけど、文字になるとどうしても。耳で聞いても、それだけでは駄目なんです。
「……はぁ。どうしましょう」
誰にも言えない秘密を抱えたまま、私は半分読めない本をぱらぱらとめくっていました。
この本は病室で暇を持て余している私のために、おかーさんが用意してくれたもの。けれど、それこそ普通の文学小説なんです。年相応の知識があると思っているのですから、おかーさんは悪くないです。でも、読めないんです。
なんとかして漢字の勉強をしたいところですけど、今更島の皆に教えてもらうのも恥ずかしい気がしますし。何かいい方法がないものでしょうか。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
……気がつけば、病室の壁に貼られたカレンダーは十二月になっていました。
先週もらった電話によると、羽依里さんは年末年始を島で過ごす費用を稼ぐため、今月の前半は島に来られないみたいです。クリスマスプレゼントとかもあるんでしょうし、蒼ちゃんのため、アルバイトを頑張ってもらいたいものです。
「……それにしても、暇ですね」
壁の時計を見ると、まだ朝の九時半。リハビリは午後からですし、本当に一日が長いです。
休日になると、みきちゃんやしろはちゃん……後、天善ちゃんたちも顔を見せに来てくれますけど、平日は皆学校があります。
「蒼ちゃん、暇ですよー」
暇つぶしに、隣のベッドで寝ている蒼ちゃんの柔らかいほっぺをぐりぐりしてみます。
「はいりぃ~、どこにいれてるのぉ~……」
……何のプレイでしょうかこれは。
蒼ちゃんで遊ぶのは楽しいんですが、そんな蒼ちゃんの口から返ってくるのは羽依里さんのことばかり。これはいかがなものでしょう。
これはこれでストレスが溜まります。主に羽依里さんに対して。
「はぁ。暇です」
私は病室の天井を見上げながら、本日何度目になるかわからない言葉を口にします。
「……もう我慢できません」
考えた結果、私は看護師さんに許可をもらって、久しぶりに一人で外に出てみることにしました。まだ杖は必要ですけど、外を少し歩くくらいの体力はあるつもりです。
耳当てに手袋、そして毛糸の帽子。しっかりと防寒着を着込んで、いざ出発です。何か面白いことが起こるといいんですけど。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ゆっくりと歩いて、私は港にやってきました。予想はしていましたが、さすが冬の港は寒いです。時折強い風が吹くと顔が痛くなります。
でも、私がわざわざ港に足を運ぶのは理由があります。港の端にある、海を一望できるベンチ。ここがお気に入りの場所なんです。
「あ、今日もいますね」
そんなベンチの周りには、この時間帯になると僅かばかりの日溜まりができます。それを目当てに何匹もの猫が集まってくるんです。
私がベンチに座ると、その中の一匹が待ってましたとばかりに膝に乗ってきました。
「ほーら。ぐーりぐーり。お腹を撫でてあげますよ」
この子たちはもちろん野良猫ですけど、中にはこうやって人懐っこい子もいるわけです。
セーターが猫の毛だらけになってしまいますが、これもアニマルテラピーと言って立派な治療方法らしいですし、お医者さんにも文句は言わせません。癒されますし、あったかいですし、一石二鳥です。
「……いくぜじーさん! 今日も勝負だ!」
「甘いわ! 見た目だけ立派な小童が!」
ふにゃふにゃと気持ち良さそうな声を出す猫と戯れていると、少し離れた場所から大きな声が聞こえました。
「あ……」
その声に驚いたのか、猫は私の膝から飛びのいて、そのまま逃げていってしまいました。
「……むぅ。なんでしょうか。騒がしいですね」
せっかくの癒しの時間を邪魔され、私は口をへの字に曲げながら声がした方を見ます。
「甘んじて受けろ! ししんそうおう!」
あれは……小鳩さんでしょうか。ほかにも複数のおじーさんたちが、若い男の人を相手に何かやっているみたいですけど。
「おう! 筋肉! にく! にく!」
……ああ、なんとかいうスクワットですね。男性の間で流行っているとか、良一ちゃんたちが言っていた気がします。時々、羽依里さんも混ざってるみたいですし、男の子は楽しいのかも……。
「う、うわぁぁぁぁーーーー!?」
え、ちょっと待ってください。普通にスクワットしていたはずの人がこっちに飛んできたんですけど。これは避けられません。
「ひゃああっ!?」
……次の瞬間、私はその人とまともにぶつかって、ベンチから転がり落ちてしまいました。痛いです。
「うぅ、いててて……」
「……ふん。四天王スクワットを甘く見るからだ」
「その筋肉は立派だが、それだけじゃの」
「まだまだワシらには遠く及ばぬ」
そう言いながら、ベンチの上で仰向けにひっくり返っている男の人の元へ小鳩さんたちが近づいてきます。皆さん、どこかで見たような顔ですね。
「む? そこにいるのは黄龍か。リハビリは進んでいるか」
「え? そ、それなりです」
その時、近くの私に気づいたみたいです。私は地面に倒れたまま、そう言葉を返しました。毎回思うんですけど、黄龍ってなんですか。
「お主が真の力に目覚める時を、我らはずっと待っているぞ。では、さらばだ」
小鳩さんたちはそう言い残すと、いずこへと消えていきました。
……ところで、真の力ってなんでしょう。これまでも何度か言われた気がしますが、私にそんなものはないんですけど。
と言うかあの人たち、倒れた私を見ても助けようとしなかったんですけど。これだから男の人は……。
「ま、また負けちまった……」
そんなことを考えながら、必死に身体を起こそうとしていると、さっきの男の人が額に手を当てながら起き上がりました。
「まったく、どこの誰かは知りませんけど、女の子を突き飛ばすなんて、どういうつもりなんです?」
「お? おお、誰かにぶつかった気はしてたんだがよ。女の子だったのか。悪いな」
彼はそう言うと、おもむろに私の手を掴んで、ベンチに座らせてくれました。まるで熊みたいな大きな手ですね。
「それだけ服着てりゃ、怪我もしてねぇだろ」
そう言って笑います。隣に座ってもつい見上げてしまうくらい、すごく身体も大きな人です。ところでこの寒い中、どうして薄手の学生服なんでしょうか。
良一ちゃんたちが普段着ている制服とは違いますし、旅行者なのは間違いなさそうですけど。寒くないんでしょうかね。
「……そうですね。お気に入りの服は汚れてしまいましたが、怪我はしてないです。それじゃ」
すっかり気分を削がれてしまいましたし、いつまでも見ず知らずの人と一緒のベンチに座っている理由もありません。私はすぐにでもこの場を立ち去ろうと、杖を探します。
「って、あれ?」
そしてようやく見つけた杖は、真ん中辺りから真っ二つに折れていました。きっと、この人がぶつかったせいですね。
「ちょっと、なにしてくれちゃってるんですか。杖、折れちゃったじゃないですか」
私はポッキリと折れてしまった杖を持ち上げて、憤慨します。
「え、俺のせいか?」
「そうですよ。どうしてくれるんです?」
「ってお前、杖持ってるってことは足が悪いのか?」
「え?」
何かを悟ったのか、彼の表情が急に変わりました。なんでしょう。心配してくれてるんでしょうか。
「いえその、これには色々理由があってですね。今はリハビリ中なんです」
「よーし。そういう事なら、俺が病院まで送り届けてやるぜ! よっこらせっと」
「は!?」
……あの、持ち上げられちゃったんですけど。ひょいって。
「ちょっと、下ろしてください!」
「だって、杖がねぇんなら歩けねぇだろ? こっちのほうが早いし、病院の場所だけ教えてくれよな!」
その人は私の言葉には耳も貸さず、そのまま住宅地に向けて駆け出しました。
「下ろしてください! 恥ずかしいです!」
「気にすんなって。杖ついてきたんなら、病院もそう遠くじゃねぇんだろ? どこだ?」
「し、診療所はそっちですが……別に車イスを持って来てくれれば、あの、わぷ」
私は必死に別の案を提示しますが、最後まで言わせてくれません。上下に揺さぶられて、舌を噛まないようにするのが精一杯です。
「人の話を聞いてください。まったく業腹ですね!」
「ゴーハラってなんだ? 豚バラみたいなもんか?」
「違います! なんで食べ物になるんですか!」
……そんなやり取りをしているうちに、診療所が見えてきました。
「看板があるな。ここがそうだよな?」
「そ、そうです。ここですよ」
結構な距離を走ってきたはずですが、彼は息一つ乱していません。その体力に感心していると、彼は診療所の入口で私を下ろす……ことはなく、私を抱いたまま中に飛び込みました。
「おーい! 誰かいねぇのか!」
受付の前まで来て、大きな声で人を呼びますが、誰も出てきません。先生たち、ちょうど往診にでも出掛けてしまったんでしょうか。
「……この格好を誰かに見られるのも恥ずかしいので、さっさと病室に運んでもらえませんか? あの部屋です」
「よし、まかせな」
見慣れた診療所に戻ってきて少し冷静になった私は、自室を指差しながらそう提案します。よく考えたら、誰にも見つからないならそれに越したことはありません。
「お? 相部屋なのか。寝てるところ悪りぃな」
そのまま自分のベッドまで運んでもらったところで、彼は隣のベッドに眠る蒼ちゃんに気がつきました。
「こっちは妹の蒼ちゃんです。その、訳あって眠っているんです」
「そうなのか。起こしても悪いし、退散するとするかな。それじゃあな」
彼は特に気に止める様子もなく、どこに持っていたのか折れた杖をベッドの脇に置いて、そのまま私に背を向けます。
「あ、待ってください」
「ん、どうした?」
「その、運んでもらってありがとうございます」
「ぶつかったのは俺だしよ。気にすんな」
そう言って右手をあげた後、彼の動きが止まりました。
「……ところであんた、黄龍って呼ばれてたよな。もしかして、あんたもあのじーさんたちみたいに謎の力があるのか?」
「そ、そんなものありませんよ! 何を言ってるんですか!」
……なんだか、盛大に勘違いをされているような気がします。というか、小鳩さんたちには謎の力があるんでしょうか。
「私は空門藍といいます。決して、黄龍なんて名前じゃないです」
「藍か。俺は井ノ原真人。最強の筋肉を求めて、旅の途中だ」
「は? 最強のなんです?」
私を軽々と運んでましたし、確かに立派な筋肉してますけど……って、何を考えているんでしょうか私は。
「また黄龍の藍の話を聞きに来てもいいか?」
「だから、黄龍じゃないんですってば!」
出せる限り大きな声を出して、彼を追い払いました。まったく、変わった人でしたね。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「うっす」
「……あなた、また来たんですか」
そんなことがあった翌日。朝ごはんを食べ終わってしばらくすると、当たり前のように井ノ原さんがやってきました。
「黄龍の話を聞かせてもらおうと思ってな」
「だから、黄龍じゃないんですってば!」
私がそう言っても全く気にする様子もなく、病室の隅に置いてあった椅子をベッドの近くに引きずってきました。
「話してくれるまで、帰らねぇからな」
そしてどっかりと腰を下ろします。まさか、このまま居座るつもりでしょうか。
「……まぁ、いいですけど。本当に何も話すことはありませんから」
そのうち退屈になって帰るだろうと、私は読めもしない本を開いて、無視を決め込みます。本当、変わった人ですね。
「……ふっ、ふっ、筋肉、筋肉」
「……ふっ、ふっ、筋肉、筋肉」
……一時間ほどすると、変な声が聞こえてきました。不思議に思って顔を上げてみると、井ノ原さんはどこに持っていたのか、大きな鉄アレイで筋トレをしていました。
「ちょっと、なにしてるんです?」
「何って、筋トレだぜ?」
「外でやればいいでしょう。なんでここでするんですか」
「だってここ、温かいからよ」
それはもちろん、小さいながらも診療所ですし。空調はしっかり効いていますけど。
「……はぁ」
私はため息を一つして、本を閉じます。
今日も暇なことにかわりはないですし、読めない本をただ開いているよりは、お話をするほうが時間もつぶれるかもしれません。
「……ところであなた、学校はどうしたんです? 12月ですけど、まだ冬休みには早いですよね?」
「自主休学。昨日も言ったけどよ、最強の筋肉を求めて旅の途中なんだ」
筋トレする手を止めることなく、そう言います。私からすれば、既に立派な筋肉を持ってるような気もするんですけど。
「で、今日は散歩に行かねぇのか」
「あなたのせいで杖が折れてしまったので、新しい杖が来るまではお預けです。島ではあの杖もなかなか手に入らないんですよ?」
「そ、そうだったのか。知らなかったとはいえ、悪ぃことをしたな」
「別にいいですよ。あれは不可抗力ってものでしょうし」
昨日は感情に任せて怒りましたけど、杖が折れてしまったのは半分事故みたいなものですし。むしろ、わざわざ診療所まで運んでくれた井ノ原さんには感謝するべきかもしれません。
「そうだ。筋肉にものを言わせて、俺が藍を抱きかかえて散歩するって手もあるが……」
「そんなのやめてください! 恥ずかしすぎるじゃないですか! 第一、抱きかかえられていたら全くリハビリになりませんよ!」
「なら、二人三脚みてぇにしてよ。俺の筋肉を杖代わりに……」
「結構です!」
「藍ちゃーん、お友達が来て嬉しいの分かるけど、少し静かにねー」
「す、すみません」
……思わず声が大きくなってしまって、受付の方から看護師さんに注意されてしまいました。
「ほら、あなたのせいで怒られちゃったじゃないですか。まったく、筋肉馬鹿ですね」
「じゃあ、その筋肉馬鹿がこの場でできる筋トレを教えてやろう」
「え、そんなのあるんですか?」
突拍子もない提案でしたけど、暇つぶしとリハビリが一緒にできるかもしれません。ちょっと興味があります。
「せっかくですし、少し教えてもらえますか」
「まずはスクワット1000回だな」
「は? あなたじゃないんですから、できるわけないじゃないですか」
「その『は?』っての、口癖なのか? よく使うよな」
「う、うるさいですね」
……その後は流れに任せて、色々な筋トレを教えてもらいました。
そればかりでは会話が続かないので、おのずと私自身のこと、蒼ちゃんのこと、島の皆のこと……たくさんお話をしてしまいました。
出会ったばかりのはずなのに。島の人じゃないのに。男の人なのに。不思議と会話が弾んでしまいました。変です。私、どれだけ人との会話に飢えていたんでしょうか。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「蒼ちゃん、清拭の時間ですよ」
今日は数日に一度、私が蒼ちゃんの身体を拭いてあげる日です。
私が眠っている間はずっと蒼ちゃんがしてくれていたらしいので、今は私がお返しする番です。
病院着を脱がせて、熱すぎない程度に温めたタオルで蒼ちゃんの身体を優しく拭いてあげます。事前に人払いは済ませてありますし、誰にも邪魔されない、私と蒼ちゃんだけの至福の一時……。
「うっす」
……そこへ、何の躊躇もなく井ノ原さんが入ってきました。
「ちょ、ちょっと! 何入ってきてるんですか! ドアのところの注意書きが見えなかったんです!?」
私は自分の身体を使って全力で蒼ちゃんを隠しながら、そう叫びます。
「お? なんか書いてあったか?」
それを聞いて、井ノ原さんがドアの表を見ます。そこには確かに『男子禁制』と書いてあるはずですけど。看護師さんに書いてもらいましたし、漢字もあっているはずです。
「悪い悪い、気づかなかったぜ」
ばつが悪そうな顔をしながら、井ノ原さんの大きな体がドアの向こうへ消えました。
……まさかとは思いますが、単語の意味が解らなかったんでしょうか。筋肉馬鹿の井ノ原さんですし、あり得そうで怖いんですけど。
次からは『筋肉立入禁止』とでも書いておくべきでしょうか。
「……井ノ原さん、いいですよ」
「終わったか? それじゃ、お邪魔するぜ」
蒼ちゃんの清拭が終わり、私が合図をすると、井ノ原さんは何食わぬ顔で戻ってきました。そしていつもの場所に椅子を運んできます。
「はぁ……次から部屋に入る時は、ちゃんとノックしてください。いいですね」
「おう。わかったぜ」
……本当に分かったんでしょうか。
「ところで井ノ原さん、あなた、最強の筋肉を探す旅はどうしたんです?」
「今日は朝から朱雀とかいうやつと勝負したぜ。ギリギリのところで負けたけどよ」
朱雀……確か、堀田さんでしたっけ。お孫さんもけっこう大きくなってるって話を聞きましたが、あの人も頑張りますね。
「にしても、身体拭いてやってたのか。やっぱり、双子は仲が良いんだな」
「当たり前じゃないですか。蒼ちゃんは自慢の妹ですよ」
私はそう言いながら、隣のベッドで静かに眠る蒼ちゃんを見やります。身体を拭いたせいか、少し顔に赤みがある気がします。今日も可愛い。
「俺の知り合いにも双子がいるけどよ、そいつらも仲良いしな」
「あ、そうなんですね」
双子は珍しいと聞きますけど、井ノ原さんのお友達にもいるんですね。どんな人たちなんでしょうか。
気になったので、少し聞いてみることにします。
「おう、姉の方は風紀委員長をやっていてな。お堅いんだぜ」
風紀委員。みきちゃんみたいなものでしょうか。
彼女曰く、違反者は水鉄砲で滅多撃ちにするらしいですが、都会の学校だともっと激しいのかもしれません。廊下とか、水浸しになりそうです。
「逆に妹の方は悪戯好きでよ。朝の教室にバケツと黒板消しのダブルトラップを仕掛けたりするんだぜ」
「は? なんですかそれ」
「教室の扉の上に仕掛けられた黒板消しトラップに気づいて、余裕綽々で教室に入ると、水が貯められたバケツに足を突っ込んじまう、悪魔のトラップだ」
私は想像力を働かせてみます。バケツに足を突っ込んで、絶望的な顔をした良一ちゃんが思い浮かびました。
「黒板消しの代わりに、扉の上に水の入ったバケツを置く極悪非道のトラップもあるけどな」
「……それ、扉を開けたら全身ずぶ濡れになるやつじゃないです?」
「ああ。実際に俺のダチがずぶ濡れになってよ。制服に着替える羽目になった」
制服に着替える? じゃあ、それまでその人は何を着ていたんでしょう。少しだけ気になりましたが、ここは聞かないほうがいい気がします。
「それで、ものは相談なんだがよ。ここで宿題していいか?」
「いいですけど、急にどうしたんですか?」
「ここ、温かいしな。よっこいせ」
私が了承すると、持っていたボロボロの鞄から勉強道具を取り出して、食事用のベッドテーブルに並べていきます。筋トレ道具に勉強道具、いろいろ入ってますね。
「……気になってはいましたけど、普段はどこで寝泊まりしてるんです?」
「港のベンチだぜ」
「は?」
ということはあれですか。私のお気に入りの場所で、井ノ原さんは毎晩寝泊まりしているわけですか。なんか嫌なんですけど。
「さて、漢字の書き取りでもするかな」
私がそう思う最中、彼が取り出したのは漢字ドリルでした。全部で三冊ありましたが、その全てが小学生用でした。なぜ彼が持ってるんでしょう。見た感じ、高校生ですよね?
「え、これで勉強するんです?」
「おう。真人は馬鹿だから、これで勉強しろって幼馴染に言われてよ。まだ全然手をつけてねぇんだけどな」
言われてみれば、年季の入った鞄と違って漢字ドリルは真新しい感じです。なんにしても、胸張って言うことじゃないと思いますけど。
……あ、そうです。
その時、私の頭の中に一つのアイデアが浮かびました。この漢字ドリルを使って一緒に勉強したらどうでしょうか。井ノ原さんは島の外の人間ですし、変な噂が島に広がることもなさそうですし。
「あの、私も一緒に勉強しても良いですか。漢字は苦手なんですよ」
「いいぜ。なら、この漢字ドリルはまとめて藍にシンテーするぜ!」
「ありがとうございます。これさえあればラクショーですよ」
……後から思い返せば、思わず紬ちゃんっぽく言ってしまうほど、その時の私は舞い上がっていたと思います。フカクです。
「……ふう。それなりに進みましたね」
それからしばらく、井ノ原さんと一緒に勉強をしました。久しぶりに集中したせいか、それなりに目が疲れてしまいました。
「えーと、極めるに寒いで、なんて読むんだ?」
「え?」
思わず目頭を押さえていると、別の宿題をやっていた井ノ原さんから唐突にそう聞かれました。
……ど、どうしましょう。わかりません。
「ゴ、ゴッサムでいいんじゃないですか」
「へぇ。今年の冬はゴッサムだねぇ、とか言うのか?」
「そ、そうですそうです」
「ゴッサム……と」
井ノ原さんは私の答えをそのまま書き記していました。なんとか誤魔化せた気がします。
「おかげで助かったぜ。さすが相棒だ」
……驚きました。いきなり相棒呼ばわりです。でも、何故か悪い気はしません。むしろ、心地いいような。
……それから更に小一時間ほど勉強をしたところで、井ノ原さんはお昼ごはんを調達すると言って帰っていきました。
私も午後からはリハビリがありましたから、ちょうどいいと言えばちょうどいいですけど。
「それじゃ藍、また明日な!」
……昨日もそうでしたが、彼は帰る時、必ず窓の向こうに姿を現して手を振ってくれます。島の皆に見られまくっていますが、恥ずかしくないんでしょうか。
一応、私も小さく手を振り返した後、気を取り直して漢字ドリルに向かいます。お昼までまだ時間がありますし、ラストスパートです。
「藍ちゃん、お昼ご飯の時間よー?」
「ありがとうございます。すぐに片付けますので」
……それから三十分ほどして、看護師さんがお昼ご飯を運んできてくれました。小さい診療所ですし、入院患者は私しかいないはずですが、この食事、どこで作っているんでしょう。謎です。
「ところで看護師さん、余っているノートがあったら一冊もらえませんか」
「いいわよー。家庭教師さんから宿題でも出たの?」
「は? べ、別に井ノ原さんはそういうのじゃないですよ。それに筋肉馬鹿ですから、一切教えてもらってはないです。むしろ、私が教えてあげているくらいですよ」
「はいはい。そういう事にしておくわねー」
……私の前に食事をセッティングしてくれながら、看護師さんは笑っています。この人、絶対信じてませんね。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「よう。また一緒に勉強しよーぜー」
……その翌日。朝食を済ませてしばらくすると、井ノ原さんがやってきました。
「今日も来たんですね。いつもの席が空いてますよ」
私が目くばせすると、井ノ原さんは手慣れた様子で椅子を私の横に引っ張ってきて、食事用のテーブルを机代わりにして教科書を開きました。
どうやら、今日はことわざの勉強をするみたいです。
「もしわからない問題があったら、藍が教えてくれよな」
「……私、ずっと眠っていたって言いましたよね? 教えるとか無理だと思うんですけど」
「でも、頭良いだろ? いわゆる、スイミンガクシューってやつだな!」
「そ、それは否定しませんけど……」
私は漢字ドリルを用意しながら、数年分の知識を授けてくれた蒼ちゃんへ、より一層の感謝をするのでした。
「……そういえば、私に黄龍について聞かなくていいんです?」
三十分も勉強したでしょうか。急にそんな疑問が浮かんできました。確か、井ノ原さんの当初の目的はそんなのだった気がしますが。
「それなんだけどよ。昨日の夕方に戦った青龍って奴から、今の藍はまだ黄龍としての力に目覚めてないって話を聞いたんだ」
「あ、そうなんですね」
正直、目覚めたくなんてないんですけど。そんな設定になってるんですね。
「……あれ? それじゃあ、どうして今日も私の所に来てるんです? もう、黄龍関係ないんですよね?」
「まぁ、いいじゃねーか。なんだかんだで藍は物知りだし、俺の勉強も進むしよ。お前も暇って言ってたよな?」
「確かに言いましたけど……って、そこのことわざ、違いますよ。なんですか。目からゴボウって。めちゃくちゃ痛そうじゃないですか」
その時、たまたま井ノ原さんの解答が目に入りました。思いっきり間違っています。
「ありゃ? 目からハチだっけか?」
「余計に痛そうになったじゃないですか! それは目からウロコです。それくらい、私でもわかりますよ」
「目からウロコ……と」
私が思わず答えると、彼は自分の答えを消しゴムで乱雑に消して、新たな答えを書きこんでいました。
いつかは忘れましたが、眠っている私に蒼ちゃんがことわざの本を読んでくれたことがありました。そのおかげで、ことわざに関してはそれなりの知識があります。
「ちょっと、見せてもらっていいですか」
もしかして、井ノ原さんの答えは全部こんな感じなんでしょうか。
まさかと思いながら、私は井ノ原さんのノートをひったくります。……なんですかこれ、すごく字が汚いんですけど。
「……かもめの川流れ、猫も歩けば棒に当たる、能あるキツネは爪を隠す、鷹の威を借るタヌキ……なんですかこれ。めちゃくちゃなんですけど」
「え、マジか?」
「大マジです。あなた、本当に高校生なんですか? ここの問題はですね……」
……結局、その日は自分の勉強はそっちのけにして、ほとんど井ノ原さんの勉強を見ていたのでした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「うっす」
「ああ、また来たんですね。いつもの席が空いてますよ」
このやりとりも、すっかり慣れてしまいました。彼が病室にやってくるようになって、そろそろ一週間が経とうとしています。
「そういや、足の調子はどうだ?」
「まぁ、ぼちぼちですね。まだ杖がないので、つかまり立ちしながら、ベッドの周りを歩いたりしてますよ」
「足の筋肉を鍛えるには、それこそスクワットが一番だぜ。最初は何かに掴まりながらでもいいからよ」
「そうですね。井ノ原さんみたいに1000回はできませんが、疲れない程度にやってみますよ」
井ノ原さんは勉強はからっきしでしたが、何故か筋肉の知識はすごいものがあって、色々と教えてもらえました。
「自力で立てるようになれば足の筋肉は自然につくぜ。頑張れよ」
「あ、ありがとうございます。じゃあ、さっそく少し歩いてみますね」
今日は英語の勉強をしている彼の隣で、私はベッドの周りを歩いたりしてみます。私、漢字と同じく、英語もさっぱりなので。
「ゆっくりとでも歩きゃ、大腿四頭筋の他に半膜様筋や半腱様筋も鍛えられるからな」
私がリハビリをしている間にも、彼の口からは筋肉の名前がスラスラ出てきます。感心しますが、それより英語の単語を覚えた方がいいと思います。なんですか。ハイヤーザンって。
「……頑張ってるわねー。はい、藍ちゃんはお昼ごはんよー」
リハビリに夢中になっていると、いつの間にかお昼になっていたみたいです。看護師さんがお昼ごはんを持ってきてくれました。
今日の主菜は豆腐ハンバーグみたいです。たくさん運動したせいか、お腹ぺこぺこです。
「せっかくだし、俺もここで飯食わせてもらっていいか」
昼食を配膳してくれた看護師さんが部屋を出て行ったあと、井ノ原さんは懐から大きなおにぎりを取り出しました。まるでボーリング玉みたいな、大きなおにぎりです。
「今日はお昼ごはん、どこかで買ってきたんです?」
「いや、浜辺の方にかまどをこしらえててよ。そこで炊いてきた」
「は?」
「他にも海に飛び込んで、モリで魚を突いたりもしてるぜ。灯台近くの海なら、けっこう大物が獲れるんだ」
「この寒い時期に何やってるんですか。風邪ひきますよ?」
「防寒用の筋肉があるから平気だぜ」
そう笑顔で言い放ちます。というかあの浜辺、流れが不規則なので遊泳禁止と聞いた記憶があるんですが。
私は上半身裸で荒波に立ち向かっていく井ノ原さんを想像し、今度紬ちゃんに注意してもらおうと思いながら、苦手なピーマンを口に放り込みました。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「井ノ原さん、見てください。全部終わらせましたよ!」
それからさらに二日後。私は三冊あった漢字ドリルを全て終わらせました。
「おお、すげーじゃねぇか。俺なんて英語の問題集、最初の数ページで根をあげて筋トレしてたぜ?」
「そ、それはそれでどうかと思いますが」
昼前に井ノ原さんがやってくるなり、私は全てのページが埋まったそれを意気揚々と掲示しました。
彼のおかげで、たくさんの漢字を勉強することができました。本当、彼には感謝です。
「やっぱり、藍は頭が良いんだな」
「そ、そういうわけじゃないです。ただ単に時間があるだけです」
思わずそう答えましたが、誉められて嬉しいような、恥ずかしいような。不思議な感じです。
「それで、この漢字ドリルですけど、お返しします」
「お? もういいのか」
「はい。ありがとうございました」
この漢字ドリル、何かの拍子に良一ちゃんたちに見つかっても説明が面倒ですし。ここは持って帰ってもらいましょう。
「……?」
……そんなことを考えていたのですが、井ノ原さんは漢字ドリルを受け取った後も、私の手をじっと見ていました。なんでしょうか。
「あー。問題は腕の筋肉だよな」
「え。唐突に何です?」
どうやら急に筋肉スイッチが入ったみたいです。
「確かに私の腕は細いですけど……まさか、腕立て伏せとかしろって言うんです?」
先日、腕立て伏せをする彼を見ましたが、あんな動き、今の私にはとても無理です。
「いや、さすがにまだ無理だろ。そういうのは順序立ててやらねーとな」
……で、ですよねですよね。安心しました。
「そこでだ。今日は藍に渡したいもんがあるんだ」
「え、私にですか?」
何だろうと思っていると、彼は鞄からおもむろに二つの品物を取り出しました。
「ダンベルと鉄アレイ、どっちがいい?」
「……どっちもいらないんですけど」
「ダンベル! 俺はここまでだ。ここに置いて行ってくれ!」
「ふざけんな、鉄アレイ! ここまで一緒に頑張ってきた仲じゃねぇか」
「ぷっ。いきなりなんです?」
その二つでいきなり人形劇とか始めないでください。ものすごくシュールなんですけど。
「というわけでよ、ダンベルを置いていくぜ」
「だから、いりませんよ」
私は思わず冷めた目で彼を見てしまいます。というかこれ、井ノ原さんがよく使ってるやつじゃないですか。
「このダンベルで鍛えりゃ、すぐだぜ。俺だと思って置いといてくれよ。俺、昼の船で帰るんだ」
「えっ、今日のですか?」
「ああ。だからよ、今日でお別れだ」
「そ、そうですか。寂しくなりますね」
……ここのところ毎日通い詰めてきていたのもあって、すっかり忘れていましたけど、彼も渡りの人でした。
どうやら、最後に挨拶に来てくれたみたいです。
「それじゃあな。リハビリ、頑張れよ」
「も、もちろんです」
「まだ筋肉少ないんだから、風邪ひかないように、あったかい格好しろよな!」
そう言って、がっしり握手してくれました。相変わらず、本当に大きな手ですね。
「……あの、ここ数日、楽しかったですよ」
私はありきたりな言葉を口にします。寂しいのは間違いないんですけど、なんでしょうこの気持ちは。それとは別の感情が湧きあがってくるような。
「おう、俺もだぜ! じゃあな!」
そんな考えがまとまらないうちに手が離れ、彼は振り返ることなく、部屋を出て行ってしまいました。
やがて視線を泳がせるように窓の方に目をやると、井ノ原さんがいつものようにこちらに手を振って、島民に注目されているのが見えました。
「あ、あのっ!」
その姿を見た私は思わずその窓を開け放ちます。冬の冷たい風が病室に流れ込みますが、お構いなしです。
「来年の夏には、自分の足で歩けるようになっていますから。もし暇だったら、また会いに来てください!」
「おう。それじゃまたな。藍!」
無邪気な笑顔で手を振ってくれる彼に、私も身を乗り出すようにしながら手を振り返します。
どうしてそんな行動に出たのか、今でもわかりません。
現にその直後、私はとても恥ずかしい気持ちになり、素早く窓とカーテンを閉めたんですから。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
……井ノ原さんが帰ってから数週間後、冬休みが始まりました。
島の皆が病室に顔を出してくれる機会も増え、羽依里さんも島にやってきました。
「あれ、そのダンベルなに?」
「腕の筋肉トレーニングに使っているんです。良いでしょう?」
「トレーニングとか、天善みたいなこと言うんだな」
「ふふっ、相棒に貰いましたので」
「え、相棒?」
「秘密ですよ。さあ、クリスマスの飾りつけをしちゃいましょう」
困惑する羽依里さんを尻目に、私は入口に置かれていたクリスマスツリーを引きずって病室の真ん中に移動させます。ここの方が飾りつけしやすいでしょうに。まったく気が利きませんね。
「本当、筋力ついてるな。リハビリ、頑張ったんだな」
「羽依里さんに褒められても嬉しくないですよ。ほら、ぼーっとしてないで、壁の飾りつけをお願いします」
……元々、蒼ちゃんが目覚めた時、私の元気な姿を見てもらうために頑張っていたリハビリですが。
……今は頑張る目的がもう一つ、できた気がしました。
あとがき
皆さん、おはこんばんちわ。トミー@サマポケです。
藍と真人……サマポケとリトバスのクロスオーバーSS、楽しんでいただけましたでしょうか。
実はこの作品、鍵島5にて頒布させていただいた作品の再掲載になります。
これには理由がありまして、元々は蒼アフターの外伝的な話として考えていたこの作品を鍵島用に転用したという経緯があります。
今回、SS集4の発行からそれなりに時間が経ったということで、再掲載の許可をいただきました。
最後までお読みくださり、ありがとうございました!