「第一の体操! 耳介筋の鍛錬!」
……夏真っ盛りの8月上旬。朝から蝉時雨が響く中、俺は神社でラジオ体操をしていた。
「どーせ休みで暇なんだし、たまには一緒にラジオ体操行きましょー?」
起床と同時に蒼からそう言われ、島の変わったラジオ体操というのが気になっていたのもあって、参加を決意したのだけど……。
「第二の体操! 横隔膜の振動だ! うるああああぁぁぁー!」
「「うるああああぁぁぁーーーー!」」
「う、うるぁぁぁー……?」
子供たちに合わせて俺も一応声を出すけど、すごい違和感だ。俺の知ってるラジオ体操じゃない。というか、ラジオ使ってない。
「……なぁ藍、一つ聞きたいんだけどさ」
「なんですか?」
「藍が小さい時から、ラジオ体操ってこんなのだったのか?」
どうしても気になったので、隣で大きな声を出していた藍にこっそりと聞いてみた。
「こんなのって、どういう意味です?」
「ほらその……ジカイキン? とか、変わってるからさ」
「ああ……そうですよ。ラジオ体操大好きさんは先代の人でしたけど、ずっと同じです」
「え、あの人って二代目なの!?」
「はい。先代さんは100歳まで現役だったと聞きました。やっぱり、島のラジオ体操はすごいんですよ」
すごいかもしれないけど、どこがどう鍛えられているのかさっぱりだった。今も真剣に目の運動してるしさ。
「ほらそこ! 私語は慎め! ラジオ体操舐めんなよ!?」
「す、すみません」
怒られてしまった。ラジオ体操大好きさん怖い。
……というか、お喋りしてたのは藍も一緒のはずなのに。なんで俺だけ……。
「真面目にやるんだぞ? では第四の体操! 三半規管の鍛錬! ぐるぐるぐる~~!」
「「ぐるぐるぐる~!」」
それからは集中してラジオ体操をした。よく見れば俺や空門姉妹の他にも、良一やのみきの姿も見える。子供たちばかりかと思えば、皆も結構参加してるんだな。
「よーし、今日のラジオ体操はここまで―――!」
「ありがとうございましたーーー!」
やがて本日のラジオ体操が終わったらしく、子供たちはお馴染みのスタンプを押してもらい、シイタケを受け取っていた。
「え、シイタケ?」
「今日は高橋さんちの原木シイタケみたいねー」
「蒼ちゃん、さっそく今日のお味噌汁に使いますか?」
不思議に思っていると、姉妹がそんな会話をしていた。なんだろう。おまけみたいなものなんだろうか。
「このスタンプカードを持っていると、ハンコと一緒に色々な品物がもらえるんだ。昨日はトウモロコシだったぜ」
その時、手に持ったスタンプカードを俺に見せながら、のみきと良一が歩いてきた。なるほど、スタンプカードを持ってないともらえないわけか。
「ところで、のみきと良一も参加してるんだな。てっきり子供たちだけかと思ってたよ」
「ああ。この体操は健康に良からな。良一は時々しか参加できないが、私は毎日参加しているぞ。えっへん」
のみきはそう言って胸を張る。身長は子供たちとさほど変わらないけど、その胸はますます大きくなっている気がする。確かに、健康には良さそうだ。
「そういえば鷹原、今年の夏鳥の儀がいつか知っているか?」
「えっ、夏鳥の……何?」
そんなことを考えていたら、のみきからそう聞かれた。なんだっけそれ。
「夏鳥の儀だ。この島で毎年夏に行われる祭りでな。先日の寄合でその詳細が取り決められたんだ。今年は8月21日に行われることになった」
21日か。まだだいぶ先だけど、祭りって言うくらいだし、島を挙げて準備とかするんだろうか。
「ちなみに、どんな祭事かと言うとだな……」
……続けてのみきが話してくれた内容によると、夏鳥の儀というのはお盆に似た行事らしい。
夏鳥の役に選ばれた女性を先頭に神輿が島を練り歩き、最後は港から海に灯篭を流す。これには、お盆に帰ってきていたご先祖様を送る意味があるらしい。
「そして今年の夏鳥の役は堀田ちゃんに決まったんだ。初めてだが、頑張ると言っていたぞ」
そうなのか。堀田ちゃん……何度か駄菓子屋で見たことがあるけど、黒髪のロングヘア―が印象的だった気がする。
「名誉なことだと、堀田ちゃんのおとーさんも喜んでいたしな。奉納する舞もしろはが指導するらしいし、大丈夫だろう」
俺にはよくわからないけど、話を聞く限り夏鳥の役に選ばれるのは島民にとって名誉なことらしい。
「それとな。これは俺と羽依里にとっては重要なことなんだが、祭りの当日とその翌日は釣りをしてはいけない決まりなんだ。つまり俺たちは仕事が休みってことだ」
のみきに続いて、良一が嬉しさを隠さずに言う。
「その点については、日が近づいたらまた鳴瀬翁からも説明があると思う。仕事だけでなく、遊びでの釣りも禁止だから注意してほしい」
「わかった」
いわゆる、島独特の風習みたいなものなんだろう。郷に入っては郷に従えというし、島の一員として、俺も決められたルールは守らないと。
「そこさえ気を付けてくれれば、気兼ねする必要はないぞ。当日は観光客もたくさん来るし、屋台も出る。多少は準備を手伝ってもらうが、頃合いを見て蒼と楽しめばいい」
どことなく、俺の表情が硬くなっていたのを感じたんだろうか。のみきがそう言って安心させてくれた。
「それに、同じく夏に行われる花火大会も8月31日に決まったぞ。こっちも、今年は鷹原たちも三人で見れそうだな」
のみきはそう言って笑顔を向けてくれた。去年のその時期、蒼は起きてはいたものの外に出られる状態じゃなかった。
だから病室の窓を開けて花火の音だけを聞いていたんだけど、今年は一緒に花火を見ることができそうだ。蒼の浴衣姿、すごく楽しみだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
……その後、のみきたちと別れて空門家に帰宅する。
リビングに行くと、碧さんはちょうど電話をかけていたらしく、俺たちの方に手だけ振ってくれた。この時間にこの人が家にいるのも珍しい気がする。
「それじゃ、今朝は久しぶりに和食にしてみるわねー」
そんな母親を尻目に、蒼はエプロンをつけてキッチンへと消えていった。藍もシイタケを手にそれについていったし、俺は電話中の碧さんと二人、リビングに残されてしまった。
その場に突っ立っているのも聞き耳を立てているようで悪いと思い、俺はソファーに座って、音を小さくしたテレビで朝のニュースを見ることにした。
「羽依里君、気を使わせちゃってごめんねー。樹さんからの電話だったから、つい」
「あ、樹さんからの電話だったんですね」
しばらくして、電話を終えたらしい碧さんが顔の前で両手を合わせながら謝ってきた。随分楽しそうに話してるとは思ったけど、樹さんからだったんだ。
「それでね。今あの人、大学の関係者と富士の樹海にいるんですって」
「え、樹海ですか?」
あの人、東京に行ったはずなのに。どうしてそんなところにいるんだろう。
「そうなの。なんでも、講師をお願いされた大学の教授から珍しい蝶がいるって話を聞いたらしくて、勢いで探しに行っちゃったらしいのよー。あの人らしいわよねー」
確かにあの人らしいけど、場所が場所だけに怖くなかったんだろうか。南アフリカの時みたいに盗賊が出るわけじゃないけど、樹海だよ?
「夜行性だっていう蝶を探して夜通し歩いてたら、変な呻き声がいっぱい聞こえたとか言って脅かすのよー。冗談きついわよねー」
本当、冗談きついです。いくらオカルト好きでも、樹海で夜を明かすなんて俺には無理だ。
「結局、蝶は見つからなかったって言うし。骨折り損だったみたい」
そう言って、蒼と同じようにからからと笑う。あまり考えたくないけど、樹海って場所柄、その夜行性の蝶って七影蝶のことなんじゃ……?
「それと予定通り、夏鳥の儀までには島に戻って来れるって言ってたわよ。んー、後二週間ってところかしらねー」
碧さんが壁掛けカレンダーを見ながら、待ち遠しそうにしていた。あれだけ多忙な樹さんも戻ってくるくらいだから、やっぱり夏鳥の儀は島民にとって特別な祭りなんだな。
「朝ごはん、できたわよー?」
その後、隣のソファーに座ってきた碧さんに夏鳥の儀について質問をしていると、キッチンの方から蒼の声がした。
「はーい! いい匂いがしてるわね。今日の朝ごはんは何かしら」
そんな蒼の声に、真っ先に碧さんが反応した。そのまま立ち上がると、ぱたぱたとダイニングの方へと駆けていった。
……そういえば、碧さんも一緒の朝ごはんって久しぶりかもしれない。なんだかんだで、碧さんも嬉しいんだろう。
そんな風に考えながら俺もダイニングへ向かうと、そこには炊きたてのごはんにシイタケと豆腐の味噌汁、焼きサケの切り身と漬物が置かれていた。立派な和食だ。この家で暮らし始めて、朝はすっかりパン党になっていたけど、たまにはこんな朝食も良い。
「わぁ、おいしそうね」
「どうしておかーさんが一番喜んでるんですか」
「そりゃ、娘たちがご飯を作ってくれたら嬉しいに決まってるじゃない。それに、普段は一人だけで寂しい朝食だもの」
碧さんは誰よりも早く席に着いて、身体を左右に小さく揺らしながら喜びを全身で表していた。言われてみれば、パート勤めの碧さんはいつも早い時間に家を出るし、喜びもひとしおなのかもしれない。
「いいですけど、あまり期待しないでくださいね。蒼ちゃんが作ってくれたお味噌汁は良いとして、私が焼いた鮭は少し焦げちゃったですから」
確かに鮭の切り身は少し焦げてる気がしないでもないけど、そんな気になるレベルでもないと思う。焦げ目のおかげで、むしろ美味しそうに見えるし。
「いいのいいの。二人が一緒に料理してるのを見るだけで、おかーさん幸せなんだから」
お世辞でもなんでもなく、碧さんの本心から出た言葉なんだろう。意図を悟ったのか、姉妹が同じ顔をして笑う。
「ほら、食べましょ。せっかく作ってくれたのに、冷めちゃ勿体無いし。いただきまーす」
そして碧さんは手を合わせると、いの一番に朝食を食べ始めた。俺たちもそれに続くように挨拶をして、朝食を楽しむことにした。
……一瞬微妙な空気になりかけた気がしたけど、それを瞬時に軌道修正する辺り、さすが碧さんだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
……朝食を済ませた後、再び鳴った電話を取った碧さんは小林さんの家にお呼ばれされたと言って出かけていった。どうやら今日は久々の休日らしいし、羽を伸ばすんだろう。
藍も自室に籠ったみたいだし、俺はリビングで宿題を始めた蒼の隣に座って、真剣な表情で参考書に向かう横顔を眺めていた。
「……ちょっと。じっと見つめられるとやりにくいんだけど」
30分も見つめ続けただろうか。俺の熱烈な視線を感じたのか、蒼が参考書から視線を外してそう言う。
「まぁ、気にしないで」
「普通に気になるから。宿題の邪魔しないでくれる?」
「だから邪魔しないように、静かに見てるんだけど」
「そーじゃなくて……羽依里も自分のしたいこととかないの?」
「こうやって蒼と一緒にいるのが、俺のしたいことだからさ」
「そ、そう? なら、もうちょっとくらい、いいかなー……なんてー……」
俺の返答を聞いて、蒼は赤面したまま視線を参考書に戻す。うん。すごくわかりやすい。嬉しいの、隠せてないぞ。
「ところで、宿題だいぶ終わったんじゃないか?」
「そうねー。もう八割がた終わってるわよー」
「蒼は真面目だしな、そろそろ少し手を抜いても良いと思うんだけど」
「それが総崩れの元なのよ。やる気があるうちに完膚なきまでに叩き潰さないと」
そう言って握りこぶしを作っていた。気持ちはわからなくもないけど、蒼ももっと夏休みっぽいことすればいいのに。
「蒼ちゃん、夏休みっぽいことしましょう。デイキャンプです」
……そう考えていたまさにその時。雑誌を広げた藍がリビングにやってきた。デイキャンプ? 聞き慣れない単語だった。
「藍、デイキャンプって何?」
どうやらそれは蒼も同じだったようで、宿題をする手を止めて藍の持つ雑誌を覗き込む。
「これですよ。楽しそうじゃないですか?」
俺も蒼と一緒になって開かれたページを見てみると『今年の夏はお手軽にデイキャンプ!』との見出しがあり、特集記事が組まれていた。
「この雑誌、この間蒼ちゃんと一緒に行った本土の美容室でもらってきたんです。なんでも、今はこんなキャンプが流行っているらしいですよ」
「そーいえば藍、あたしのカットが終わるまでずっとソファーで雑誌読んでたけど、それが気になってたのねー」
思い出してみれば、この間碧さんと三人で本土に出かけたって話をしていたような。美容室行ってたんだ。
「この雑誌、ただでくれましたし。あのお店、気前がいいですね」
「それ、フリーペーパーだしねー。二人よりあたしの方が時間かかってたし、暇そうに見えたんでしょー?」
……確かに本土から戻ってきた日の夜、やけに蒼はソワソワしていた気がする。たぶん、俺の方から気づいて欲しかったんだろう。俺が髪を切る時は島の床屋だし、本土での美容室は頭になかった。うっかりしていたな。
「ところでデイキャンプするにしても、具体的にはどうするの?」
俺が今更ながら後悔の念に駆られているとはつゆ知らず、姉妹は話を進めていく。
「浜辺に皆で集まって遊ぶんです。お昼から、夜まで」
「「夜まで!?」」
思わず、俺と蒼の声がハモってしまった。
「なんですか。別に他意はありませんよ。キャンプの醍醐味と言えばバーベキューですけど、今から準備してもお昼には間に合いません。だからお昼過ぎに浜辺に集まって、暗くなるまで皆で遊んでから晩ごはんを食べて、花火をするんです。どうですか。夏っぽいでしょう」
藍の言う通り、夏を凝縮したようなスケジュールだった。唐突な話かとも思ったけど、きちんと計画は練られているみたいだ。
それに、泊まらないのなら寝袋や大きなテントは必要ないし、場所も浜辺なら移動時間も僅かだ。雑誌に書いてある通り、総じて普通のキャンプよりお手軽で、敷居は低いのかもしれない。
「それじゃ、言い出しっぺの私が皆に連絡しておきます。お二人は簡単な準備だけしておいてください」
藍はそう言うと、少し前まで碧さんが使っていた受話器を手に取り、どこかへ電話をかけ始めた。蒼も再び宿題の方に向き直ってしまったし、俺も一旦部屋に戻って、準備をすることにしよう。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「えーと、必要なものはこれで全部かな……?」
俺はデイキャンプ用に用意した鞄の中を漁りながら、忘れ物がないか確認する。いざとなれば取りに帰れる距離なんだけど、どうせなら準備万端にしておきたい。
「……そうだ。レジャーシートくらいあったほうがいいかも」
何人参加するのかも知らないんだけど、砂の上に直接座るよりかは良いと思うし。
「えーっと確か、レジャーシートは……と」
俺はキッチンへと足を運び、右奥の水屋を開ける。
「あれ、ない?」
蒼の記憶だと、ここにあったはずなんだけど。誰かが使って、場所を動かしたのかもしれない。
「おーい、藍―」
とりあえず、リビングにいる藍に聞いてみよう。
『それでは良一ちゃん、あのテントのようなひさしもよろしくお願いします。タープ? よくわからないですが、それでお願いします』
リビングに顔を出すと、藍はまだ忙しそうに電話をしていた。話してる感じからすると、相手は良一かな。
『はい。コンロや食材の準備は天善ちゃんに任せています。もちろん食材は私たちも持って行きますけど。後、美希ちゃんと連絡を取りたいんですが、電話番号教えてもらえますか? ああ、一緒なんですね。だったら好都合です。実はですね……』
のみきが良一と一緒にいる? もしかしてのみき、ラジオ体操の後、直接良一の家に行ってるのかな。
『あと、紬ちゃんと連絡を取りたいんですが。廃灯台に電話がないのはわかっています。静久さんから伝えてもらえますかね? ではその番号を……』
……暫く待ってみたけど電話が終わる気配はない。レジャーシートの場所は蒼に聞こうかな。
「おーい、蒼ー」
というわけで俺は蒼の部屋に向かい、そのドアを軽くノックした後、何の気なしに扉を開ける。
「ひゃあぁぁ!?」
「うわあああ、ごめん!」
すると、蒼は着替えていた。俺は反射的に目を瞑って、素早くドアを閉める。
午後から出かけるんだし、着替えるのはわかるけど……なんで下着つけてなかったんだろう。全力で隠してたけど、一瞬見えちゃったし。
「ノックはしたんだけど、返事聞かず開けちゃったよ。本当にごめん」
「べ、別に今更だし? 羽依里だったらいいけど……心臓に悪いわねー」
閉じたドア越しにそんな声が聞こえる。もちろん俺も罪悪感はあるのだけど、一緒に暮らし始めてからというもの、蒼はこういうことに寛容になってきた気がする。これも、恋人同士だからかな。
「……もういいわよー」
しばらくして、蒼から入室の許可が出た。恐る恐る部屋へと足を踏み入れると、蒼は普通に服を着ていた。
「さっきさ、一瞬水着みたいなのが見えたんだけど、下に着てるのか?」
「そりゃ、浜辺でデイキャンプするんだし、服の下に水着着ておくのは当然でしょー」
「あ、そうか。浜辺だもんな……」
浜辺ってことは、おのずと海に入る機会がありそうだし。水着を着ておくのは必然だとは思う。だけど……。
「それで……羽依里はどうする? 着替える?」
俺の声のトーンが下がったことで、察してくれたんだろう。蒼は心配そうに俺の顔を見上げてきた。
「いや、俺も水着は着ておくよ。万が一濡れたら、着替えもないしさ」
先も言った通り近場だし、最悪着替えに帰ればいいのだけど、俺は敢えてそう口にする。部活をやめて以来、もう長いこと水には入っていないけど、蒼にはできるだけ弱い所を見せたくない。
「それじゃ、俺も着替えてくるよ」
俺は蒼にそう告げると、本来の目的も忘れて自室へと戻った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「はぁ……」
俺はため息をつきながら、ずっと引き出しの奥にしまっていた水着を引っ張り出す。良一に言われて夏前に買ったやつだけど、今日の今日まで身に着けたことはない代物だ。
「もう、大丈夫なのかな……」
蒼が眠ってしまったあの夏、俺は二学期が始まるとすぐに部室へ向かい、皆に謝って部活をやめた。
それ以来、水には入っていない。あえて避けていたわけじゃないけど、不思議と水に入る機会もなかったし。
あれから結構時間も経っているし、俺を取り巻く環境も随分変わった。そろそろ平気になったと思いたいけど……。
俺は渋々水着を身につけながら、どこか漠然とした不安を感じていた。
「……羽依里さん、入りますよ」
「きゃー!」
ギリギリ水着をつけ終わったところで、背後のドアが開いて、藍が顔を覗かせた。俺は思わず叫び声をあげる。
「どうして男の人が悲鳴を上げるんです。ところで、さっきは何か用事だったんですか?」
ああ……リビングに足を運んだ時、藍は電話をしつつも俺に気づいていたんだな。
「浜辺にレジャーシートを持って行こうと思ったんだけど、いつもの場所になくてさ」
「それなら、私が鞄に詰めてますよ。あれって、色々と便利ですしね」
……なるほど。ないと思ったら藍が先に持って行ってたわけか。それなら、これ以上の準備物は必要なさそうだ。
忘れ物の確認を兼ねて、ぐるっと部屋を見渡す。すると出しっぱなしになっていた給料袋が目についた。
「ところで藍、碧さんってまだ帰ってきてないよな」
「まだですね。何か用事ですか?」
「いやほら、今月分の下宿代を支払ってなかったと思ってさ」
「おかーさん、そんなの気にしてないって言ってましたけど」
「いや、そういうわけにはいかないよ」
居候先が空門家に移っただけで、下宿代を支払うのは当たり前のことだ。これだけは譲れない。
「それじゃ、おかーさんの代わりに私が受け取りましょう」
藍はすごい笑顔を見せながら、俺の方に重ねた両手を差し出してきた。
「待って。それしたら、そのまま蒼に貢がれそうなんだけど」
「不服ですか? 羽依里さんにとっても本望かと思ったのですが」
「それはそうかもだけど、こういうのはきちんとしておきたいしさ」
「羽依里さんは真面目ですね。夜には帰ってくると思いますから、その時に渡したらいいと思いますよ」
藍は肩をすくめるような仕草をした後、部屋から出ていった。いつの間にか着替えていたし、藍も準備はできているみたいだ。
「お昼ごはん、できたわよー?」
やがてお昼になると、蒼が昼食を用意してくれた。デイキャンプは午後からということもあって、お昼はがっつり食べていくらしい。
「おお、おいしそうなエビチリだな」
「時間なかったから、市販のソースを使った簡単エビチリだけどねー」
蒼が少し申し訳なさそうな笑顔で言う。香辛料の良い香りがしているし、なによりソースの量の関係か、そこまで大盛というわけじゃない。これは助かった。
「それじゃ、冷めないうちに食べましょー」
軽く挨拶をして、エビチリを口に運ぶ。安定の味だけど、エビ自体はしっかりと下ごしらえされていて臭みもなく、身もプリプリだ。
「うん。おいしいよ」
ピリ辛な味付けで、ごはんがいくらでも進む。パッケージに『ひでんソース使用!』って書いてるだけあって美味しい。
「ところで藍、結局今日のデイキャンプには誰が参加するんだ?」
「私たちの他には、良一ちゃんに天善ちゃん、紬ちゃんと静久さん、美希ちゃんに鴎ちゃん、それとしろはちゃんですね」
藍は箸を持ったまま、逆の手で指折り数えていた。しろはまで来るのか。どんな手を使ったのかわからないけど、突発的なイベントなのによく集めたものだ。
「随分大人数だな」
「こういうのは人が多い方が楽しいですからね。準備の負担も少なくて済みますし、キャンプ用品は良一ちゃんに任せれば万事解決ですから。それと、後で港の商店に食材の買い出しに行きましょう。羽依里さん、荷物持ちよろしくお願いしますね」
「ああ、お安い御用だよ」
エビチリが乗ったご飯を頬張りながら、どこか嬉しそうに言っていた。そんな藍を見ていたら、俺もなんだか楽しみになってきた。
「そーいえば、料理してるときに思ったんだけどねー」
「え、何?」
デイキャンプの話が一区切りして、箸でつまんだエビチリをごはんにバウンドさせていると、蒼が笑顔で口を開く。
「エビって、蝉っぽいわよねー」
……直後、俺と藍の手が止まり、食卓が静寂に包まれた。
同時に、外で鳴いている蝉の声が不思議と大きくなった気がした。
「エ、エビチリ食べてる時に、なんてことを言ってくれるんだ」
「……ごめん。あたしだけトラウマ抱えるの嫌だったから、一蓮托生。死なばもろともよ」
蒼と初めて出会った夏にも、同じことを言われた記憶がある。あれからしばらく、海老チャーハン食べられなくなったってのに。
おのれ蒼。せっかく忘れていたトラウマを思い出させてくれるとは。
「というわけで羽依里、あたしのエビチリ半分あげる」
「え」
古の記憶に震えていると、蒼が自分のエビチリを俺の器に移してきた。
「羽依里さん、彼女さんから料理もらえるなんて嬉しいですよね。私のもあげます」
そんな蒼に同調するように、藍もしれっと俺の皿に自分のエビチリを移していた。笑顔だけど、目が笑ってない。
……結局、俺は三人分のエビチリを平らげる羽目になった。全然蝉っぽくなくて、美味しいエビチリだった。蝉、食べたことないけどさ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
……そして14時過ぎ。諸々の準備を終えてから、空門姉妹と一緒に浜辺へとやってきた。
そこにはすでに他の皆が来ていて、日よけのためか四本足の大きなテントが三つも出されていた。
どうやら、そのうち二つは調理に使うみたいで、簡易的な流し台や調理器具が置かれていた。残る一つには、皆が持ってきたらしい荷物が所狭しと置かれている。
「さすが良一ちゃんですね。もう立ててしまったんですか」
「おう。俺はテントコレクターだからな。これくらい朝飯前だぜ!」
そう言ってサムズアップする。良一も、その隣にいるのみきも揃って水着姿だった。良一に見せるためだろうか、のみきはビキニ姿だった。気合が入ってる。
「ところで、鴎は浜辺でもスーツケースを持っているのか?」
「もちろん! 今日はこの中いっぱいに花火を詰め込んできたの! ツムツム、夜が楽しみだね!」
「そですね! 楽しみです!」
揃って笑顔の鴎と紬も水着姿だった。鴎ものみきと同じくビキニだったけど、スタイルの関係かその、ものすごくむごっほだった。
一方の紬はというと、黄色を基調としたワンピースタイプの水着を着ていて、髪色と相まって可愛らしい感じだ。
「パイリ君たちも来たのね。食材はテントの日陰にクーラーボックスを置いているから、その中に入れておいてくれればいいわ。氷もたくさん入っているから、夜までは大丈夫だと思うし」
「わかった。使わせてもらうな」
そして静久は何度か見たことのある青色の水着を着ていた。新鮮味はないのだけど、相変わらず迫力が凄い。正直、目のやり場に困る。
「むぎゅ!? タカハラさんからヨコシマなオーラを感じます! シズクをえっちな目で見てます!」
「え? 見てない! 見てないから!」
その時、大きな声を出す紬を慌てて制する。ちょっと、声が大きいから。
「じー」
ほら、紬が変なこと言うから、蒼からの視線が痛いじゃないか。蒼、違うからな!
「何がどう違うのよー」
「ちょっと蒼、心を読まないで」
「口に出てるわよー? それで……どう?」
「えっ?」
言われてよく見てみると、いつの間にか姉妹も水着に着替えていた。色違いのパレオだった。
「おお……二人とも、すごく似合ってるよ」
「ありがとー。この間本土に行った時、藍と一緒に買ったのよー」
ああ、美容室に行った時に水着も買っていたのか。
「私は別にいらなかったのですが、この夏は絶対必要になるっておかーさんに説得されまして。蒼ちゃんとおそろいだったので、仕方なくですよ」
ということは、二人のその水着は碧さんが選んだのか。碧さん、グッジョブ。
「……むぅ。羽依里さん、鼻の下が伸びてますよ」
「そ、そんなことない。そんなことないぞ」
藍にそう言われ、俺は思わず自らの頬を叩いて気を引き締める。それにしても、今の状況だと服を着てる俺の方が浮いている気がする。
でも、この場で脱ぐのはなんか恥ずかしいし。向こうの岩陰ででも着替えてこようかな……。
「あれっ、今日はしろはも来るんじゃなかったっけ?」
そんなことを考えながら周囲を見渡していると、一人足りないことに気がついた。
「シロハさんは少し遅れるそうです。今日はランチタイムが忙しいようで」
そんな俺の疑問に、紬が答えてくれた。そういえば、しろははあの食堂を一人で切り盛りしているんだっけ。夏休みだし、観光客とか多いのかもしれない。
「忙しいんなら、ツムツムは手伝わなくて良かったの? 最近、食堂でバイトしてるんだよね?」
鴎がスーツケースに腰を下ろしながら、そう聞いていた。どこに持っていたのか、サングラスまで用意している。
「今日は呼ばれませんでした! どうも、バイト代が用意できないとかで」
「あー、忙しいんなら、バイト代作れないもんねー」
「え、バイト代を作るってどういうこと?」
払えないとかじゃなくて、作れない? よく意味が解らなかったので、思わず聞いてみた。
「シロハさんがくれるバイト代は、お手製のチャーハンなんです! すごくおいしいんですよ!」
バイト代がチャーハン? よくわからないけど、駄菓子屋のバイト代もぬか漬けだったりするし、そういうものなんだろうか。
「しろはの作るチャーハンは絶品なんだ。鷹原も機会があったら食べてみるといい」
「そうなのか。いつか食べてみたいな」
そう答えはしたものの、俺もそこまでしろはと仲が良いとは言えない。そんな機会が訪れるんだろうか。
「それじゃ、俺はこの食材をクーラーボックスに入れてくるよ。あまり日に当てておくのも悪そうだしさ」
チャーハンの話は頭の隅にでも置いておくことにして、俺は食材の入った箱を持ってテントの方へと向かうことにした。ついでに近くの岩陰で着替えて、俺も水着姿になってしまおう。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「よーし羽依里! 着替えたな! しろはが来るまで、どっちが泳ぐのが速いか競争しようぜ!」
「え、俺と!?」
そして着替えを済ませて皆の元に戻ると、俺の姿を見るなり良一がそう言い寄ってきた。
「だって、元水泳部なんだろ? どれだけ速いのか、勝負してみたくなるのが島の男の性ってもんだ!」
そう言うなり、良一は俺の腕を取って、海に向けて駆けだそうとする。
「いやその、俺はさ」
やる気に満ち溢れる良一とは対照的に、俺は思わずしどろもどろになってしまう。ちょっと待って。まだ心の準備が……。
「……良一ちゃん、ちょっと待ってください」
「ぶべらっ!?」
しかし、すんでの所で藍が良一の足を引っかけた。良一はそのまま盛大に頭から砂に突っ込んでしまった。
「羽依里さんと遊ぶ前に、良一ちゃんは天善ちゃんとビーチバレーの準備をしてもらいます。それが終わったらスイカ割りの準備もです。やることはたくさんあるんですからね」
「はい……」
そうこう言われながら、良一は藍に引っ張って行かれた。もしかして藍、俺に気を使ってくれたのかな。
「それじゃ紬、私たちも向こうで準備をしましょう?」
「そですね!」
「砂浜仕様にしたスーツケース、荷物運びに役立つよー?」
そんな藍を見て他の皆も何か察したのか、続々とその場を離れていった。気がつけば、浜辺には俺と蒼だけが残される形となった。
「皆ってば、変に気を使ってくれたわねー」
「そ、そうだな。まったく、そんなことしてくれなくてもいいのにな……」
恥ずかしさからか、そこで会話が途絶える。おかしいな。普段ならもっと色々話せるのに。
何か話の種でも落ちていないかと視線を泳がせるけど、目の前には雄大な海が広がっているだけだった。特に目新しさはない。
「と、ところで、蒼って泳げるのか?」
「島育ちだし、当たり前でしょー。ていうか、泳げないってどんな感じ?」
「いや、えーっとその」
……しまった。適当に話題を振るつもりが、墓穴を掘ってしまった。
「そういえばあんた、昔部活で色々あって……泳げないんだっけ?」
「いや。泳げるけど……例のウマトラがさ」
「そこはトラウマねー」
いつもは俺が蒼に突っ込むところを、逆に突っ込まれた。それくらい、俺は動揺していた。
「うーん……これは、誕生日にライフジャケット贈って正解だったかもねー」
蒼は半分呆れ顔でそう言った。情けない話だけど、確かにその通りだった。
「って俺、部活のこととか話したことあったっけ?」
「その時、あたしは寝てたけど、しっかりと聞いてたわよ」
……ああ、そういえば、病室で藍に話したんだった。眠っていたけど、蒼もその会話を覚えていたんだ。
「あの後、きちんと部活の皆にも謝ってさ。許してもらえた上で部活をやめたんだ。だけど、それ以来水に入っていないから、平気なのかもわからないんだ」
俺は寄せては返す波を見つめながら、そう説明する。おのずと声が小さくなっているのが、自分でもわかる。
「……あんた、島に住んで漁師やってるのに、海に入る機会なかったわけ?」
「ああ、不思議となかったんだ。避けてるつもりはないんだけどさ」
蒼の言うことはもっともだった。海の仕事に就いていて、泳げないとか致命的だ。
「……じゃあ、物は試し。入ってみましょうよ」
「え」
俺は反射的に目の前に広がる海を見る。一定の間隔で波が押し寄せるだけの、静かな海。それなのに、何故か足がすくんでしまう。
「じゃあ、少しだけ……」
でも、せっかく蒼がそう言ってくれたんだ。俺は深呼吸をして、右足からゆっくりと海に入ってみた。
……直後、目の前にプールとコースが現れた。たくさんの声援まで聞こえる。明らかに幻聴だ。これはまずい。フラッシュバックというやつだ。
「ひっ」
俺は情けない声をあげながら、飛びのくように海から上がる。
「……やっぱり無理?」
「失敗した試合の光景が浮かんだんだ。完全に忘れてたはずなのにさ」
水に入った瞬間にやってくる、身体がバラバラになりそうな、あの嫌な感じ。
この島で過ごすうちに、いつの間にか忘れていた感覚だった。
身体は思うように動いてくれず、まるで、心の奥底まで水の冷たさが染み入ってくるような……。
「もう、しょうがないわねー」
……その時、右手に温かいものが触れた。
見ると、蒼が俺の手を握ってくれていた。
「部活の厳しさとか、プレッシャーとか、あたしにはわかんないけどさ。あたしと一緒になら入れたりしない?」
「え?」
「彼女と一緒の海水浴。これなら声援も聞こえないし、競争しなくていいわよね?」
言いながら、蒼も恥ずかしいんだろう。それでも目を逸らすことなく、真っ赤な顔で俺の方を見つめてくれていた。
「だからこうやってさ。一人じゃないってわかったら、行けたりしない?」
握った手を俺に見せるようにしてくれながら、眩しい笑顔を向ける。
……そうだった。俺の識る蒼は、どんな辛いことがあっても決して逃げない。島に逃げてきた俺にはない強さを持っているんだ。
その蒼が、必死に俺にその強さを分けてくれようとしている。
……なら、俺も応えないと。
俺はしっかりと蒼の手を握り返した後、前を向いて再び海へ向かって一歩を踏み出す。
ゆっくりと、膝まで水に浸かる。今度は何も変化はない。大丈夫だ。
心から信頼できる人がそばにいる。その事実が俺の足を軽くする。
一歩、また一歩、海の中へ。
声援も何も聞こえない。ただ、穏やかな海が目の前に広がっていた。
「ほら、平気じゃない」
……その声で我に返る。気がつけば、腰の上まで水に浸かっていた。
「ここまで入れたんなら、もう大丈夫じゃない?」
「いや、まだわからないぞ。もし途中で怖くなったら、蒼に抱きつく。いいよな?」
「いいわけあるかーーー!」
「ぶわっ!?」
半分本気でそう言ったら、思いっきり水かけられた。完全に虚を突かれて、思いっきり飲んでしまった。
「や、やったな!」
お返しとばかりに、俺も海水をすくって蒼にぶちまける。
「わぷっ!? ちょっと! さっきまでのしおらしさはどこ行ったのよ! このっ!」
「うわーーー! 海水が目に―――!」
「ふっふーん。これも作戦よ!」
「くそ、卑怯者め! うりゃうりゃ!」
「ひゃーーー!?」
すっかりいつもの調子に戻った俺は、しばらく蒼と不毛な水のかけ合いをした。
そして気がつけば、いつの間にか水に入っても平気になっていた。また、蒼に助けられてしまったな。
第十話・あとがき
皆さん、おはこんばんちわ。トミー@サマポケです。
今回は少し長くなってしまったため、前後編に分けることになりました。デイキャンプから夏鳥の儀まで入れるとか、欲張りすぎましたね。
さて、今回はラジオ体操を入れた関係で漁の様子を描写できませんでしたが、碧さんも一緒の朝食シーンを書けたので満足しています。それにしても、蝶を求めて富士の樹海で徹夜する樹さん、ヤバいですねw
また今回のメインイベントであるデイキャンプですが、藍を中心に準備をする裏で、のみきと良一は朝からいちゃらぶしてるみたいですね。それに負けじと、羽依里と蒼にもハプニングを入れてみました。蒼の何が見えたのかは、皆さんの想像にお任せしますw
そして浜辺では羽依里君のトラウマ克服シーンを描いてみました。
原作中にも夏休みが終わった後、皆にきちんと謝って部活をやめるシーンは描かれていますが、明確にトラウマを克服できたという描写は無かった気がするので、今回は蒼のおかげで克服できた……という風にしてみました。
では、今回のあとがきはこの辺りで。次回はデイキャンプの続きから、夏鳥の儀を予定しています。
一言感想や評価など頂けましたら、次話執筆への活力になりますので、よろしくお願いします。