季節もすっかり秋めいてきた、10月上旬のある日。
いつも仕事に使っている船のエンジンが壊れてしまったらしく、突然仕事が休みになった。降って湧いた休日をどう過ごそうかと自室で考えていたところに、笑顔の空門姉妹がやってきた。
「聞きましたよ。今日、暇になったんですよね」
「暇になったのよね?」
「そ、そうだけど……?」
「なら、ちょうどいいですね」
「ちょうどいいわねー」
左右からステレオのように声が飛んでくる。同じ顔だし、なんかドギマギしてしまう。
「それじゃ、これに着替えてください」
「なるべく急いでねー」
……そして気がつけば、俺は近所の山まで栗拾いに駆り出されていた。
「……なんで栗拾い?」
「この山を持ってる吉村さんがね。もう何年も放置してるから好きに採っていいって言ってくれたのよー。やっぱり秋の味覚の代表と言えば栗よねー」
「栗ご飯に焼き栗、渋皮煮。どれも美味しいですよね」
お揃いの長袖長ズボンに運動靴、そして色違いの帽子をかぶった二人はテンション高めだった。
言われてみれば、ご近所の庭では柿の木が立派な実をつけていたし、道沿いの畑はサツマイモの葉で埋め尽くされていた。おすそ分けに梨も貰ったし、島も秋真っただ中、といった感じだ。
「イナリ、今日はよろしくねー」
「ポン!」
蒼の足元に目をやると、今日はイナリも一緒だった。道案内もしてくれるそうだけど、落ちた栗を目当てに野生動物もやってくるらしく、いざという時の用心棒も兼ねているらしい。
「それじゃ、出発しましょー」
「ポーン!」
蒼とイナリを先頭に、俺たちは落ち葉をかき分けながら山の中を歩き出した。栗拾いができる場所は、ここからもう少し山の中に入ったところにあるらしい。
……島といえば綺麗な海や浜辺を一番に思い浮かべるけど、こんな場所もあるんだな。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「……栗拾い、懐かしいです。小さい頃、家族でよく来てましたし」
「藍はおかーさんの作る渋皮煮、好きだったもんねー」
「ですです。おかーさんの作る渋皮煮は絶品なんですよ」
「そうなのか。俺も楽しみだな」
「残念ですが、羽依里さんには一粒もあげませんよ。羽依里さんが仕事に行っている間に、全部食べちゃいますから」
「な、なんだと……人が必死に働いている間に、卑劣な……」
そんな軽い話で盛り上がりながら、山の中を歩く。秘密基地とも離れていて普段は入ったことのない山だけど、イナリと蒼が道を知っているおかげで、迷うことなく進んでいく。
見渡す限り森の中でも、時折秋風が運んでくる潮の香りが、ここが島であることを思い出させてくれる。
「ところでさ、こういう山の中って、松茸生えてたりしないのかな」
「この辺りにはないわねー。島の南側のどこかに秘密の場所があったんだけど。今は忘れちゃったわー」
何の気なしに聞いてみたら、そんな答えが返ってきた。『忘れちゃった』ということは、以前は七影蝶の記憶として持っていたって意味なのかな。俺が持つ蒼の記憶の中にも、松茸に関する記憶はないし。
「イナリ、お前は松茸の匂いが分かったりしないのか?」
「ポンー?」
疑問に思って聞いてみたけど、こっちを振り向いて首を傾げていた。くそ。トリュフを探すようにはいかないか。
「それより羽依里、今日は少し風が強いから、頭上注意よー?」
「え、何?」
蒼に言われて思わず頭をあげると、同時に何か黒い塊のようなものが降ってきた。
「うわっ!?」
反射的に手の甲で受けると、鋭い痛みが走った。弾みながら地面に落ちたものを見てみると、イガに包まれた栗の実だった。
「いてて、軍手してたのに貫通してきたぞ」
思わず軍手を外して手を見る。それこそ無数の針に刺されたように、僅かに血が滲んでいた。
「軍手なんかじゃ駄目ですよ。ゴム手袋、渡しましたよね?」
呆れた表情を見せる藍の両手には、がっちりとしたゴムの手袋がはめられていた。確かに俺も同じ手袋を渡されたけど、どうも手を動かしにくくて。自前で軍手を用意したんだっけ。
「そんなんじゃ、イガは貫通するわよー。それに帽子もかぶっておかないと。さっきみたいにいつ落ちてくるかわかんないんだから」
蒼はそう言いながら自分の被る帽子を指差す。季節柄、日差しも弱くなってきたのに帽子を被るなんて……と不思議に思っていたけど、そういうことだったのか。
「落ちてきたイガがおでこに当たったりなんかしたら、それこそ流血試合ですよ。栗拾いどころじゃないです」
「そ、それは困るな」
俺は汗を拭くために持ってきたタオルを急遽頭に巻いて、即席の帽子にすることにした。頼りないけど、これでもないよりマシだろう。
「なんか急に、『山の男』って感じになったわねー。髭とか生やしてみたら、似合うんじゃない?」
蒼が自分の鼻の下あたりを指でなぞりながら、そんなことを言う。
「それだと、髭原羽依里さんになりますね」
「あはは、違いないわねー」
うぐぐ、言わせておけば。
「でも、それだと……いや、なんでもない」
からからと笑う蒼を見ながら、それだと、蒼もゆくゆく髭原蒼になるんだぞ……とは、とてもじゃないけど言えなかった。だって、はじゅかしいし。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ポンポーン!」
「到着よー」
先程の場所からもう少し進むと、規則的に栗の木が並ぶ場所に出た。どうやらここが吉村さんの栗林らしい。地面のいたるところに、イガに包まれた栗の実が落ちていた。
「それじゃ、拾わせてもらいましょー」
「蒼ちゃん、どっちがたくさん拾えるか、競争しましょう」
「いいわよー。負けないから!」
「二人とも、はしゃぎすぎて転ぶなよー」
「ポーン!」
バケツと火バサミを手に、林の中に散って行く二人の背中を見ながら、俺とイナリは思わず顔を見合わせた。
「……なぁ蒼、こういう開いてない栗はイガごと拾っていいのか?」
その後、俺も負けていられないと栗拾いを始めたんだけど……なにぶん初めてのことなので、要領が掴めない。
「イガが開いてないのは早熟だから美味しくないのよ。イガが割れてるのを選びなさい」
「わかった。割れてるのだな……あいて!」
そして地面の栗に集中していると、俺たちに連れ去られそうになっている仲間を助けようとしているのか、頭上から時々イガグリの不意打ちがある。
タオルで作った帽子は防御力が低いので、それなりのダメージを受けてしまう。うぅ、痛い。
「あー、この辺はイガだけになってるわねー」
涙目になりながらタオルの位置を直していると、蒼がそんな声をあげる。
「それってつまり、先客がいたのかな」
「たぶん、猪が食べた後じゃない?」
「え、この辺り猪出るの?」
「出るわよー。だからこそのイナリなの」
視線を送られて「ポン!」と、元気よく返事していたけど、いざ猪と遭遇したら本当に戦ってくれるんだよな? 俺が最前線に立つのは嫌だぞ?
……結局、その後は特に野生動物と遭遇する事もなく、栗拾いは順調に進んだ。
「なぁ蒼、さすがに採りすぎたんじゃないか?」
気がつけば、俺たちの持つバケツはいっぱいになっていた。イガを残し、栗の実だけを集めてるだけあって、結構な重さだ。
「確かに多いけど、吉村さんにお礼としてあげる分と、ご近所さんの分を含めたらこんなもんじゃない?」
山盛りの栗が入った自分のバケツを見ながら、蒼は満足げだ。そういえば、お礼とおすそ分けの分を頭数に入れるの、すっかり忘れてたな。
「それに、栗の実はきちんと下処理をすれば、三ヶ月は冷凍保存できるから」
「へぇ、そうなのか」
「もちろん採りたてが一番ですけどね。イナリちゃんも帰ったら焼き栗を用意してあげますから、楽しみにしていてください」
「ポーン!」
「焦っても、すぐには食べられないわよー。せめて、半日は水につけておかないとねー」
そんな話をしながら、俺たちは帰路につく。行きと違って随分重たくなったバケツから、何とも言えない達成感を感じられた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「あらー、吉村さんとこの栗、久しぶりねー」
その日の夜、本土のパートから帰ってきた碧さんに栗を上納すると、まるで子供のように喜んでいた。
続いて、どうやって食べようかしら、と呟いた碧さんに対し、満場一致で渋皮煮がリクエストされた。
「それじゃ、晩ごはん済ませたらさっそく作ろうかしらねー。蒼、今晩のおかずは何?」
「冷凍庫に鮭が入っていたから、それをグリルで焼いたけど」
食事当番の蒼がそう答える。今日の夕飯は蒼がグリル調理器で作った、鮭の簡単イタリアン焼き。空門家のキッチンには島では珍しい最新式ガスコンロが装備されていて、遠赤外線によるグリル調理機能が充実しているタイプだ。料理好きな樹さんの希望で購入したらしいけど、使うプレートの種類を変えれば魚以外にお菓子やケーキも焼ける優れものらしい。到底、俺には使いこなせそうにないけど。
……思い出してみれば、加藤家のコンロのには魚焼きグリルすらついていなかった気もする。魚、フライパンで焼いた記憶あるしさ。
「ごちそうさまー。それじゃ、さっそく作ろうかしらねー」
余程楽しみなのか、碧さんは夕食を食べ終わると、そそくさと渋皮煮作りを始めた。
キッチンに立った碧さんは「二人が予め水につけておいてくれてたから、鬼皮を剥くのも楽だわー」とか言いながら、ペンチと栓抜きを合体させたようなごつい道具で、ばきばきと皮をはぎ取っている。あれで楽なほうなのか。
食べ終わった食器を重ねながら遠巻きに見ていると、手早く皮を剥かれた栗は鍋に放り込まれ、火にかけられた。今更だけど渋皮煮って、どうやって作るんだろう。
「そうだ。せっかくの機会だし、二人にも作り方を教えておくわ。空門家秘伝の渋皮煮なんだから、しっかりと覚えてね」
そんなことを思った矢先、碧さんがこちらを振り向いて言う。俺もその作り方に興味があったので、姉妹と一緒になってその様子を眺めることにした。
「いい? すでに煮込み始めてるけど、一度に鍋に入れる栗は1キロを目安にするの。そこにひたひたになるまで水を入れて、しっかりと沸騰させるの」
そう説明した後、碧さんは色々な道具を用意し始めた。砂糖はわかるけど、向こうの白い粉は何だろう。塩だろうか。ぜんざいとかに少し入れると甘さが引き立つっていうし。
考えながら流し台を見ると、別のボウルにも栗が入れられていた。
「これは使わないんですか?」と聞くと、どうやら渋皮に傷がついてしまった栗らしく、この場合渋皮煮には使えず、栗ご飯とか、栗きんとんに使うんだとか。
やがてお湯が沸いた頃を見計らって、碧さんは計量スプーンで例の白い粉をすくった。
「沸騰したら、この重層を大さじ一杯入れて渋抜きをするの。そのまま10分くらい煮たら栗をザルに上げて、流水で渋皮を取る」
説明しながら、さっと粉を鍋の中へ回し入れた。あの粉って、重層だったんだ。
「灰汁が出たお湯は一度全部捨てて、綺麗にした鍋に栗を戻してから、またお湯を沸かすの。それが沸騰したらまた重層を入れて、10分煮る。これを灰汁が出なくなるまで、2、3回繰り返してね」
ぐつぐつと沸き立つ鍋を前に、碧さんがそう説明する。姉妹は必死にメモを取っていた。
……それから10分後、捨てられたお湯はびっくりするくらい真っ黒だった。
そして再び鍋にお湯を沸かし、栗を鍋に戻してもう10分煮る。頃合いを見て鍋から出して、もう一度洗う。この作業を何度も繰り返していた。栗の灰汁抜きって、こんなに大変なのか。
「んー、だいたい渋皮と灰汁が取れたかしら。そしたら、今度は水を多めに入れて栗が柔らかくなるまで炊くの。時間はそうねぇ……30~40分ってところかしら。柔らかさの基準は、竹串が軽く刺さるくらいね」
そう言ってタイマーをセットして、シンク台へと向かった。しばし煮込みの時間があるということで、洗い物を済ませることにしたらしい。
「……うん。良い感じに柔らかくなったわね。ここまで来たら最後の仕上げよ。お湯を全部捨てて、はちみつ大さじ1と砂糖500グラムを加えて、焦がさないように注意しながら弱火で30分煮込むの。砂糖を入れた栗はこれ以上柔らかくならないから、きちんと確認してから入れるのよ」
……気がつけば、時計の針は22時半近くになっていた。途中、煮込みの時間が多いとはいえ、栗の皮を剥き始めたのが19時すぎだったから、かれこれ三時間近く作業している計算になる。
空いた時間を利用して、俺や空門姉妹は順番に風呂に入ったりしたけど、火を使っている関係上、碧さんはずっとつきっきりだった。
「よーし完成! 早速試食してみましょー」
碧さんは頃合いを見て、完成した渋皮煮を煮汁ごとタッパーへ移す。そしてその中の4つに爪楊枝を刺し、俺たちへ差し出してくれた。
「いただきまーす」
「いただきます」
姉妹に続いて、俺もできたての渋皮煮を口に運ぶ。うん。まだ温かい。
見た目は栗の形を保っているんだけど、口に入れた瞬間にほろりと崩れ、まろやかな甘みが広がる。砂糖だけじゃこの甘みは出ないし、きっとはちみつの隠し味が効いてるんだな。
「んー、今回も美味しくできたわー」
碧さんは頬に手を当てながら、満足顔だった。渋皮煮は冷凍保存もできるらしく、冷凍すれば半年は持つらしい。
「美味しいです。おかーさんの味です」
「ありがとー。この柔らかさを保つのが絶妙なの。煮すぎると煮崩れちゃうし、煮込みが足りないと固くて美味しくないし」
簡単そうに言うけど、その辺りが長年の経験がものをいう世界なんだろうな。俺には到底踏み込めそうにない。
それにしても、渋皮煮を作るのって、こんなにも大変だったんだ。去年も碧さんの渋皮煮は食べたけど、考えなしに食べていた。次からは、もっと感謝して大事に食べよう。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
……それから約一週間。秋の味覚を堪能する日々が続いた。
先の渋皮煮しかり、栗ご飯に栗おこわ。樹さんお手製のマロングラッセにマロンパイ。
他にも、柿や梨といった果物は食後のデザートの定番になったし、鳥白島近海では獲れないはずのサンマをいただいた時もあった。
特に、徳田がおすそ分けということで松茸をくれた時には、どうやって食べるか緊急の空門家家族会議が開かれるほどだった。
……そんな日々が続いた、ある日。
「う、嘘でしょー―――!?」
夕飯を済ませ、家族揃ってリビングでテレビを観ていると、風呂場の方から蒼の叫び声がした。
俺と藍は両親よりも早く動き、ほぼ同時にソファーから立ち上がると、脱衣所へと向かった。
「蒼ちゃん、どうしました?」
「蒼、どうした?」
一声をかけてから、脱衣所の扉を開ける。まさか覗きでも出たのかと不安に思ったけど、蒼はタオルを巻いたまま、脱衣所に置かれた体重計の上で固まっていた。
「太ってる……」
「「え?」」
「太ってるのよーーー!」
奇しくも俺と藍の声がハモった直後、再び絶叫。体重計の数値を覗き見ると、俺が識っている体重より5キロも増えていた。蒼の名誉のために具体的な体重は口にしないけど。
「きっとこれ、バスタオルの重さよね! 濡れてるし、きっとそうよ!」
どう声をかけるべきか悩んでいると、何を血迷ったのか、蒼はバスタオルを外そうとする。
「蒼ちゃん、落ち着いてください! 羽依里さんが見ています!」
「別に羽依里になら見られてもいいわよ! すでに何回か見られてるし!」
そんな蒼を藍が必死に止めていた。半分開いたドアの向こうで両親が何事かと見ているんだから、そういうことは大声で言わないでほしい。
……その騒動が落ち着いた後、松茸以来の空門家緊急家族会議が開かれた。
「どーして太ったのかしら……」
家族五人が一堂に会する中、蒼はテーブルに両肘をつきながら頭を抱えていた。
「やっぱりこの時期、秋の味覚を色々ともらっちゃうし。ご飯をたくさん食べすぎちゃったのかしらねぇ」
そう言う碧さんの前には、皮を剥かれ、綺麗にカットされた柿が置かれていた。最初はテーブルの真ん中にあったんだけど、蒼が横にどけたんだ。
「それだけじゃないわ! この間、おとーさんが通販代行で買ったマカロンのせいよ!」
「美味しいって食べてくれてたのに、ひどい言われようだねぇ」
突如として矢面に立たされた樹さんが苦笑しながら頭を掻く。最近は駄菓子屋の方でも『秋のスイーツフェアー』と銘打って大々的に高めのお菓子を売っているし、これは樹さんより、駄菓子屋のおばーちゃんを責めるべきだと思う。
「そうよ。樹さんは二人のためを思って通販したんだから。責任を押し付けるのはお門違いよ。空門だけに」
「上手いこと言っても誤魔化されないんだから! そう言うおかーさんも、パート先で余ったメロンパン、毎日のように持って帰ってるじゃない!」
「だって勿体無いじゃない。そのままだと捨てられちゃうんだから」
碧さんが頬に手を当てながら、目を細める。確かにここ最近、台所にずっとメロンパンが置かれている気がする。どれも『表示価格よりレジにて半額』のシールが貼られていたし、碧さんなんだろうなぁとは思ってたけど。
「マカロンもメロンパンも、ついつい食べちゃう蒼が悪いって、おかーさん思うんだけど」
「うぐっ……」
勢いに乗っていた蒼は、正論を口にされた瞬間押し黙る。確かに甘いものの誘惑に負けた蒼も悪いかもしれないけど……。
「蒼、俺は多少太ってても好きだぞ?」
「は?」
俺はそんな蒼を慰めようと、考えられる最善の言葉を口にするけど、藍みたいな声が返ってきた。蒼は眠っている間にかなり体重が減ってしまっていたし、体重が増えたらむしろ喜ぶべきだと思うんだけど。乙女心って複雑だ。
……というか、同じように食べてるはずの藍は全然太ってる感じがしない。さすがに藍の体重は知らないけどさ。
「……羽依里さん、なに見てるんですか?」
碧さんの隣に座る藍に視線を送ると、そんな台詞とともに睨み返された。怖い。
「正直なところ、蒼も食欲の秋にかこつけて色々食べ過ぎたのよ。ほら、学校帰りにクラスメイトと一緒に買い食いしてるって話、おかーさんも知ってるわよ?」
「はうっ」
「駅前のスタパにも新商品出てるし、宇都港の近くに時々来るたい焼き屋さんも、季節限定で芋あんとか出してるしねー」
「うぐぅっ」
どうやら痛い所を突かれまくっているらしい。見えない槍が次々と蒼に刺さっていくのがわかる。
「うぅ……わ、わかったわよ! こうなったら、ダイエットするわ! 食欲の秋は今日でおしまい! 明日からスポーツの秋!」
追い詰められた蒼は、だんっ、とテーブルを叩きながら立ち上がって握りこぶしを作る。急にダイエットとか、極端だなぁ。
「羽依里、運動部だったってことは、こういうの得意よね! コーチングして!」
「え、俺?」
頑張れ、蒼……と、どこか他人事でいると、不意に矛先が俺に向いた。
「羽依里、お願い!」
蒼は困惑する俺の両肩を隣の席からがっしりと掴んできた。涙目だし、とても断れる雰囲気じゃなく、俺は頷くしかなかった。
そんな俺たちとテーブルを挟んだ両親は困ったような表情を浮かべ、藍は隅にどけられた柿を手元に引き寄せて、こっそりとつまんでいた。これは、本当に俺がやるしかなさそうだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
……その翌日から、蒼のダイエット大作戦が始まった。
「ほら、蒼、朝だぞ!」
夜のうちにダイエットプログラムを考えてノートにまとめた俺は、朝一番にそのノートを見せるべく、蒼の部屋を訪れていた。
ちなみに今日は日曜日。俺も仕事は休みだし、天候は快晴。絶好の運動日和だ。
「あーうー」
そこまで早い時間というわけじゃないんだけど、蒼は俺の声に淡い反応を返しつつ、髪を爆発させたままベッドの中を転がっていた。
「ダイエットするんだろ! スパッと起きろ!」
こうなったら、俺も鬼コーチにならないと。というわけで、蒼の布団を乱暴に引っぺがす。
「げっ!?」
すると、思いもよらぬ光景が飛び込んできた。何故か布団の中に藍も居て、蒼の腰のあたりに抱きついて寝ていた。しかも、何故か半裸で。
「んあー、最近、朝に弱いのよー……。ぼーっとなるっていうか、起きれなくて」
姉が抱きついていることに気づいていないのか、蒼はぐーっと背伸びをしながら上半身を起こす。
「そ、そうか。表で待ってるから、運動しやすい服装に着替えてきてくれよ」
俺は静かに後ずさり、そのまま扉を閉めた。直後、「なんであたしのベッドに居るのよ―――!」みたいな声が聞こえた気もするけど、俺は何も見ていない。聞いていない。
「ごめん、おまたせー」
それから20分ほどして、何事もなかったかのように蒼が表に出てきた。
髪は運動しやすくポニーテールにまとめられていて、服装は体操服だった。
……やばい。蒼の体操服姿いい。すごくいい。普段から制服姿はよく目にするけど、体操服姿なんて拝む機会ないもんな。
「どうしたのー?」
「い、いや。なんでもないぞ。それより、このトレーニングメニューを見てくれ」
俺の意志と関係なく伸びきった鼻の下を気づかれないよう、俺は持っていたノートを蒼の目の前に広げる。そこには、俺が夜遅くまで考えたトレーニングメニューがびっしりと書かれている。
「げ、もしかしてこれ全部やるの?」
「今見てるのは平日のメニューだ。平日は学校があるけど、しっかりとカロリーを意識することが大切だぞ」
「……ひょっとして、食事制限とかもあるの?」
蒼の顔が名前の通り青くなった。昨日は勢いで食欲の秋は終わりだと断言していたけど、食事制限は気乗りしないらしい。
「いきなり食事制限を始めるとどうしてもリバウンドが来るし、きついから長続きしないんだ。長く続けるために、平日は有酸素運動を増やすことを意識しよう。例えば、できるだけ階段を使ったり、船の中でも席に座らずに歩き回るとかさ」
現状、取り込んでしまったカロリーはとにかく消費する作戦だ。蒼はまだまだ若いし、代謝も良いだろうしさ。
「それより注目してほしいのは、こっちの休日のメニューだよ。今からやるのはこれだからさ」
「……ねぇ。初っ端から灯台へ向けてダッシュって書いてあるんだけど、冗談よね?」
「冗談なもんか。灯台に着いてからも、腕立て伏せにスクワット、腹筋と目白押しだぞ。休日は時間に余裕があるし、身体を苛め抜くハードなメニューを組んだからな」
「鬼――――!」
ノートを俺に投げ返しながら、蒼が叫ぶ。あれ、そこまできついメニューでもないと思うんだけど。
「……全く。そんなメニューこなしていたら、蒼ちゃんが筋肉ムキムキになってしまうじゃないですか」
その時、ため息交じりの声が聞こえて振り向くと、いつの間にか藍がやってきていた。妹と同じように体操服姿で、髪型も同じだった。
「あれ、なんで藍がいるんだ?」
「蒼ちゃんが頑張っているのに、家で一人グータラなんてしていられませんからね」
そう言って体操服の裾を引っ張る。ところで、その体操服はどこで手に入れたんだろう。胸元に『空門』と書かれているし、蒼のお古とかかな。
というか、藍は別にダイエットする必要はないと思うけど……なんて言葉が喉まで出かかったけど、言った所で「は?」と返されるのがオチだし。言わないでおいた。
「……あれ。もしかして羽依里さん、私と蒼ちゃんの体操服姿に欲情してるんじゃないですか」
「よ、欲情!?」
「そ、そんなわけないだろっ! それより、まずは灯台までダッシュだ! いくぞ!」
「だから、鬼――――!」
図星だったけど、俺は全力で話を逸らし、蒼の尻を叩くようにして走り始めた。藍がすごく何か言いたそうだったけど、黙ってついてきた。
「おー、空門の双子ちゃん、今度はスポーツの秋かい?」
「島の運動会はまだ先なのに、精が出るねー」
「は、はーい!」
灯台に向けて住宅地を走っていると、色々な人が声をかけてくれる。そういえば、来月は島の運動会があるんだっけ。そんな内容の回覧板が空門家に届いていた気がする。
島にも小学校があるんだけど、運動会は島を挙げて行うらしく、蒼曰く「普通の運動会じゃない」らしい。俺も今年初参加の予定なんだけど、楽しみなような、怖いような。
「うう、登り坂きつい……!」
……やがて住宅地を通り過ぎ、灯台への道に差し掛かった。ここは緩やかな坂道が続いていて、歩く分にはそこまで感じないけど、走るとなると結構な負荷がかかる。本当に良いトレーニングになるぞ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「シショー、おつかれさまです! どうぞ!」
三十分ほどかけて灯台に辿り着くと、そこには紬がいて、特製ハチミツドリンクを用意してくれていた。
「ありがとー。おいしーわねー」
「疲れた体には甘いものが一番です!」
そう言って、笑顔で涼しげな容器を掲げる。ベージュのデコラ襟のブラウスにチェック柄のスカート。なかなかに秋らしい服装だけど、静久が用意したんだろうか。
「……って、甘いの飲んだら意味ないじゃないのーーー!」
特製ハチミツドリンクを一気に半分くらい飲んだ後、蒼は天を仰いでいた。
「まぁ聞け。それは俺が紬に話を通して用意してもらったんだ。ハチミツは砂糖に比べてカロリーが25%も少ないし、ポリフェノールが入っていて抗酸化作用もある。しかも、そのドリンクにはレモンも入っているから、ビタミンCによる疲労回復効果も期待できて、体に良いんだぞ」
「そういうの聞くと、罪悪感も減るわねー。紬、もう一杯貰える―?」
「はい! どうぞ!」
「……まぁ、どんな食品も摂りすぎは体に悪いんだけどな」
「早く言いなさいよ―――!」
走って喉が渇いているのか、早くも二杯目に手を出した蒼をそう諫めると、再び天を仰いだ。
「まぁ、摂取したカロリーは今から消費すればいい。行くぞ、まずはスクワットだ! ガンガン燃焼させるぞ!」
「おおー、ネンショーケー、ネンショーケーってやつですね!」
紬がどこかで聞いたことあるようなセリフを口にしていたが、俺は敢えて流してコーチングに集中する。ここからが本番だぞ。頑張れ蒼!
「はー、はー、はー……」
それからは俺も一緒になって、20分ほどスクワットをした。
何故か紬も参加してきたけど、本人曰く「男の人たちがいつもやっているので楽しそうでした」らしい。でも、それって四天王スクワットのことだよな。ざくざく。
「むぎぎぎぎ……こーかいの連続です」
慣れない動作に、紬も疲れたんだろう。地べたに両手をつきながら項垂れていた。というか、紬はスカートなんだからあまり無理しないで。裾が長いから、見えこそはしなかったけどさ。
「き、きっついわねー……」
「本当です……」
俺は普段から四天王スクワットで鍛えているから平気だけど、姉妹は膝が笑っていた。
「少し休んだら、もうワンセットだ。下半身に効いてるの、わかるだろ?」
「か、下半身に……!」
……至って真面目な話をしているのに、蒼は速攻で顔を赤くした。なんか今日の蒼、ピンクモードになりやすい気がする。体操服だからかな。
……まぁ、運動してくれるなら何も言わないけどさ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
それから気を取り直し、腕立て伏せや腹筋といったメニューを一通り消化した。
初日ということもあり、さすがに姉妹揃って疲れ果てたとのことで、帰りはウォーキングをしながらゆっくりと空門家に戻ることになった。
「うー、結構な汗かいたし、ちょっと冷えるわねー」
その道すがら、隣を歩く蒼がぶるっと身を震わせた。海沿いの道に吹く風はこの時期にしては冷たいし、体操服姿は目の保養にはなるんだけど、できたら俺みたいにジャージの上下を用意した方が良いかもしれない。
「ほら蒼、これを着ろ」
俺は着ていた上着を蒼に羽織らせてやる。その時、ふわりといい匂いがした。
「……羽依里さん、やりますね。これで蒼ちゃんの好感度大アップですよ」
「はっ!?」
……その様子を藍に思いっきり見られていた。しまった。気を抜いていた。
「ち、違う! 何か下心があってのことじゃないぞ! ダイエットしてて風邪ひいたりしたら、元も子もないからな!」
「はいはい。そういうことにしておきますよ」
俺は必死に言い訳をするけど、軽くあしらわれた。本当、他意なんてないのに。
「……おお、二人とも、ちょうどいい所に」
「蒼ちゃんや。これを持って帰っておくれ」
「これ、碧さんへの献上品」
……やがて住宅地まで帰ってくると、これまた何人もの島民から声をかけられ、大量のもらい物をしてしまった。
サツマイモに、梨、柿、ナガレコに、まさかのイセエビまで。相変わらず、島は食欲の秋全開といった感じだった。
「うーん、このサツマイモ、大学芋にしたらおいしそう」
「蒼ちゃん、ダイエット中ですよ」
「わ、わかってるわよっ……!」
三人が三人とも、様々な荷物を手に住宅地を練り歩く。まぁ、これはこれで重しの代わりになって、良いダイエットになりそうだけど。
「……その体操服、島の中で見ると新鮮だな」
「うっさいわねー」
そして駄菓子屋の前を通り過ぎようとしたところ、良一から声をかけられた。今日は日曜で仕事が休みということもあり、駄菓子屋で時間をつぶしていたみたいだ。
「で、御三方はなんでそんな格好をしてるんだ? 島の運動会はまだ先のはずだが……」
「えーっと、これには色々理由があるのよー、その、スポーツの秋だし」
蒼はなんとか誤魔化そうとしているけど、体操服姿で両手にサツマイモの入った段ボール箱を持つ姿は、かなり異質だった。
「……ははあ。わかったぞ。ダイエットしてるんだな」
「ぎくっ」
痛い所を突かれ、蒼は心の声が漏れてしまった。その反応を見て、良一が「そーかそーか。食欲の秋だもんな」と、頷いている。
「……良一ちゃん、それ以上蒼ちゃんを辱めるようなことをすれば、私が許しませんよ」
萎れる妹を助けるため、腕組みをした藍がずいっと良一と蒼の間に割って入った。
「小さな頃、ザリガニに大事な所を挟まれた話、皆にしてあげましょうか」
「是非聞きたい」
「やめろっ! 藍様やめてっ! パンドラの箱を開けないで!」
興味があったので即答すると、良一は猛烈な勢いで土下座していた。それくらい、掘り返してほしくない過去なんだろうか。
「別にダイエットが悪いなんて一言も言ってねーだろ! せっかくだし、俺が良い減量方法を教えてやるよ!」
「え、そんなのがあるの?」
藍が閉口したのを見て、良一が起き上がってそう言う。減量方法と聞いて、蒼も目を輝かせる。
「ああ。名付けて、のみき式トレーニングだ」
「は?」
……その名前を聞いた瞬間、蒼は一転訝しげな表情を見せた。のみき式?
「まず、のみきの前で服を脱いでだな」
「脱ぐかぁぁーーー!」
一瞬でも期待した自分に怒りが沸いたのか、蒼は羽織っていた上着を良一に投げつけた。ちょっと、それ俺の上着。
「……何を騒いでるの?」
もんどりうって仰向けに倒れた良一に駆け寄り、俺が上着を引っぺがした時、背後からしろはの声がした。
「あーその、実はね……ダイエット中なの」
「え、ダイエット?」
「そうなのよー。しろはは無縁よねー」
「うん。毎日チャーハン食べてるからね」
気恥ずかしそうに後ろ頭を掻く蒼に対し、さも当然、といった表情でしろはが言う。毎日チャーハン食べてたら、むしろダイエット必要な気がするけど。もしかして、しろはにとってチャーハンは完全栄養食だったりするんだろうか。
「だから二人とも体操服着てるんだね。食事制限とかもしてるの?」
「それはあまり考えてないんだけど、状況によっては検討しないといけないかもな」
そこからは蒼に変わって、俺が説明する。運動で順調に体重が減ってくれれば万々歳なんだけど、これだけは続けてみないとわからない。休日はいいとしても、平日は俺の目が届かないしさ。
「それなら、チャーハンのご飯の半分をこんにゃくにするだけで、だいぶカロリー抑えられるよ。お腹は膨れるから、満足感は得られるし」
しろははそうアドバイスをしてくれた。全てがチャーハン基準だったけど、良一のやり方よりよっぽど効果がありそうだ。純粋にカロリー抑えるだけなら、こんにゃくはうってつけだ。
「……でも、ダイエットって言う割には、色々食べ物持ってるけど」
「ああ、これねー。さっき住宅地を歩いてたら、たくさんおすそ分けもらっちゃって」
蒼がサツマイモの入った段ボール箱を軽く持ち上げながら言う。
「今の時期は仕方ないよね。実りの秋って言うくらいだし、私も買い出しに家を出て、お店に着く前に両手が塞がっちゃうことあるし」
そう言って苦笑する。確かにしろはの言う通りで、ダイエットのために昼間走るとなると、こうやって貰い物だらけになるわけだ。貰ったものは当然、消費しなければいけなくなる。そして太る。なんというジレンマだろう。
「蒼はダイエット中だしさ。できるだけおすそ分けもらうの減らしたいんだけど、何か良い手がないかな」
「うーん……」
俺の熱意が通じたのか、しろはは口元に手を当てて、真剣に悩んでくれていた。貰い物を蒼だけ食べるなって言うのは簡単なんだけど、それだとあまりに蒼が可哀想だ。他の皆だけで食べても、それはそれで美味しく感じないだろうしさ。
「……のみきに頼んで、島内放送でダイエット中だと発表したら? それならおすそ分け、減ると思うけど」
「減るかもだけど、そんな恥ずかしいことできるわけないでしょーーー!」
珍しく蒼がしろはに叫んでいた。言われてもっともだと思ったのか、しろはもすぐに提案を取り消していた。
「……じゃあ、むしろ夜に頑張ってみるとか?」
「よ、夜に!?」
夜という単語を聞いて、蒼の顔は瞬間湯沸かし器のように一瞬で真っ赤になった。
「そりゃあ、あたしだってやぶさかじゃないし。頑張れって言われたら毎晩できるかもだけど、それでどれだけダイエット効果が」
おーい蒼、頼むから帰ってきてくれ。本当に今日はすぐにピンクモードになるんだけど。
「……あなたたち、そんなにお盛んなの?」
「いや、全然そこまでやってないから……って、なに言わせるんだ!」
しろはが蔑むような目で俺を見てきた。止めてくれ。そんな目で見ないでくれ。
「と、とにかく! 静かな夜に走るのもいいんじゃないかな。のみきが見張っててくれるから、ある意味安心だしさ」
俺は無理矢理な理由をつけて、その話題を終わらせた。でも、確かに夜走るのも良いかもしれない。静かで集中できるし、外を歩く人もいないから、おすそ分けもらうこともないだろうし。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
……というわけで、日中の運動から夜のランニングへとメニューを切り替えた。
これなら平日休みを問わず、蒼が学校から帰った後に好きなタイミングでできるし、何より俺の目が届くから運動の効率もいい。
「夜走るの気持ちいいんだけど、そこまで汗もかかないから、燃焼してるって感じはしないのよねー」
さすがに夜風に当たると冷えるということで、しっかりと上下のジャージを着こんだ蒼が言う。俺としては体操服姿が見れなくて残念だけど、蒼の健康のためには仕方のないことだ。
「いや、それでも着実に効果はあるぞ。この時間に神経が昂ると興奮して眠れなくなるから、そこまで激しい運動はできないけどな」
「興奮……! 激しい……!」
またピンクモードに突入した。本当、最近の蒼はどうしたんだろう。欲求不満なのかな。
「ほら蒼ちゃん、帰ってきてください」
近頃は藍も慣れたもので、蒼がピンクモードになるや否や、すぐさまその肩を揺すって現実へと呼び戻していた。
ほとんど人気のない住宅地を抜け、島の中央を走る一本道へと差し掛かる。普段はこのまま港へ向かい、そこから折り返して空門家に戻るコースを採用している。時間にして一時間弱。有酸素運動による脂肪燃焼効果が期待でき、かつ、疲れすぎない絶妙な距離だ。
「……というか、藍もこんな時間まで付き合わなくてもいいんだぞ?」
「私がしたいので、気にしないでください」
俺と蒼の間を走る藍に声をかけると、そんな返事が戻ってきた。まぁ、本人が良いならいいけどさ。
「それともあれですか。欲求不満の蒼ちゃんと二人っきりになって、闇夜に紛れてあんなことやこんなことしようとか……」
「いや、そんなことは考えてないから……」
悪戯っぽい顔をする藍に言葉を返そうとしていると、視界の端に白く光るものが見えた。
「……藍、ストップ!」
「……止まって、藍!」
俺と蒼はほぼ同時に叫び、左右から藍を押し留める。無理矢理に足を止めたその十数センチ先を、一匹の七影蝶がひらひらと横切っていった。
あのまま進んでいたら、間違いなく藍は七影蝶に触れてしまっていただろう。夜は夜で、別の危険があるな。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
……神出鬼没の七影蝶に細心の注意を払いつつ、その翌日からも夜の運動を続けた。
毎日続けられるメリットもあり、今のところは食事制限も必要なく、蒼の体重も順調に減っているようだった。
そして再びやってきた休日。最後の追い込みをしようと意気込む蒼に連れられて、俺たちは朝から秘密基地に集まっていた。
理由は簡単。ダイエット目的の卓球をするためだ。
「やっぱり、島でのスポーツといえばこれよねー」
俺と蒼はペアとなり、かこんかこんとピンポン玉を打ち合う。
「鳥白島卓球部として、蒼が卓球に目覚めてくれて嬉しいぞ」
「そういうわけじゃないんだけどねー」
そんな俺たちの相手をしてくれている天善は、心底嬉しそうだった。蒼も誕生日プレゼントに天善からもらったピンポン玉とラケットを使っている辺り、きちんと考えてあげてるみたいだし。
「そういえばみきちゃん、秘密基地の外にたくさんの木材が積んであったけど、あれは何?」
「ああ。先日、山奥にある古い小屋を取り壊したらしくてな。その時に出た廃材らしい。明日には業者が引き取りに来てくれるはずだが、車が入れるのがここまででな。一時的に置いてあるんだ」
「……ロープとかで固定しておかなくて大丈夫なんです?」
「まぁ、大丈夫だろう」
勝負ではなく運動が目的なので、天善相手にずっとラリーを続けていると、部屋の隅で藍がのみきと何か話をしていた。廃材? そんなものあったかな。
一度昼食を食べに家に戻り、午後から再び秘密基地に集まって、卓球に興じる。
時折休憩も挟みながら、良一やのみき、しろはやイナリと卓球をするうちに、俺と蒼の腕はめきめきと上達していった。
そして夕方近くになった時、一日の総仕上げとしてダブルスのミニ大会をすることになった。優勝者には金一封。一方で最下位のペアは最後まで残って卓球道具の手入れと片づけをするという罰ゲームつき。
すっかり自信のついた俺と蒼はそれを快諾するも、出場するペアはくじ引きで決めるということを、参加表明後に知らされた。
俺と蒼は詐欺だ陰謀だと猛抗議したが、「二人の絆の力があれば、くじ引きでも一緒になれるはずだ」というのみきの言葉に屈し、祈りを込めながらくじを引いた。
……その結果、俺は藍と同じチームになった。
「……どうしてこうなったんです?」
「どうしてだろうな……」
俺と藍は顔を見合わせる。ちなみに蒼はしろはとのペアになった。しろはもめちゃくちゃ強いし、まさに最強ペアといった感じだった。
……そして始まったミニ大会。俺と藍のペアは負けに負けた。
俺にも蒼と一緒に腕を磨いた自負があったし、藍も運動神経はいい。それなのに、何故か勝てない。二人の息が合わず、ダブルスとして機能しない典型的な例を露呈したまま、気づけば1セットも取れずに、断トツの最下位に終わった。
「ふたりとも、あとはよろしくねー。イナリ、帰るわよー」
「ポーン!」
卓球がこの上ない運動になったのか、蒼は上機嫌で秘密基地を後にした。
「じゃーなー」
「二人とも、片付けは頼んだぞ」
そんな蒼に続いて、他の皆も続々と帰路につき、残された俺と藍はその場に立ち尽くす。
「はぁ……」
「まったくもう。羽依里さんのせいですよ。どうしてくれるんです」
「そう言われたって、藍だって最下位決定戦で天善のサーブを思いっきり空振っていたじゃないかっ」
「あ、あれはその、緊張してしまって……羽依里さんこそ、何回サーブミスしてました? 2回や3回じゃないですよね?」
「うぐっ。痛い所を……」
しばらくの間、そんな風にお互いのミスを貶しあっていたけど、いくら言い争ったところで片づけは進まない。秘密基地の小さな窓から入ってくる西日が弱くなっているのに気づいた俺たちは、手早く片づけを終わらせることにした。
天善が揃えている卓球道具の中から缶に入ったクリーナーを取り出し、それを専用のスポンジにつけて、ラケットの汚れをふき取る。その後、ピンポン玉と一緒に箱へとしまう。
続けて卓球台のネットと固定用の金具を本体から取り外し、これもまとめて別の箱に放り込む。最後に卓球台を畳んで、立てた状態で部屋の隅に動かすんだけど……。
「……羽依里さん、しっかり持ってください!」
「いてて、指を挟んだ! 台の留め具、しっかり止まってないんじゃないのか?」
「こっちは止まってますよ。羽依里さんのほうこそ車輪のストッパー、きちんと外してます?」
あーでもないこーでもないと言いつつ、試行錯誤をしながら卓球台を動かす。海の仕事をしているんだし、腕力には自信はあるけど、卓球台ってやけに重たいし、慣れない作業だけあって、どうも勝手が違う。
……そんな矢先、車輪の一部が床板の隙間に引っかかって卓球台のバランスが崩れ、俺の方へ向けて静かに倒れてきた。
「うおおお、やばい!」
俺は素早く身体を投げ出して落下地点より脱出する。直後、ドスンと大きな音がして、卓球台が壁にもたれかかるように倒れた。
「ちょっと、なにやってるんですか」
情けなく地面にひっくり返る俺を藍が腰に手を当てながら見下ろす。見るからに怒ってるけど、どちらかというと力任せに卓球台を押した藍の方に責任があると思うんだけど。
……なんてことは口が裂けても言えず。俺は平謝りしながら卓球台を起こす。すると、台がぶつかった場所に大きなへこみができていた。結構いい音したもんなぁ。
その後、なんとか卓球台を片付けて、「酷い目に遭いました」と、ため息混じりに言う藍の前に立って入口の扉に手をかける。やっと帰れる。
「……あれっ?」
外へと続く唯一の扉を開けようと力を込めるも、扉はびくともしなかった。
「どうかしたんです?」
異変に気づいたのか、藍も俺の隣に並んでくる。扉が開かないことを伝えると、青ざめていた。
「なんで急に扉が開かなくなるんですか。冗談はやめてください」
そう言いつつ、俺に代わって扉を押すけど、俺の力で開かないものが藍の力で開くはずがない。
「羽依里さん、離れてください。思いっきり蹴っ飛ばしてみます」
そう言って助走をつけ始める藍を、俺は慌てて止める。今日の藍はスカートだし、色々と危ない。それに、下手に蹴って足を怪我したらどうするの。
「……それにしても、どうして急に扉が開かなくなったんだろうな。卓球台が倒れた衝撃で、秘密基地全体が歪んだとか?」
「確かに結構な衝撃でしたけど、元々は押したら簡単に開く扉でしたよね? そんな急に開かなくなったりします?」
「そうだよなぁ……」
扉の前で押し問答したところでどうにもならないと気づいた俺たちは、一旦腰を落ち着けて考えてみることにした、
「あの感じは、まるで向こう側から押さえられているような……あ」
そこまで話して、藍は口に手をやって固まった。もしかして、何か思い当たる節があるんだろうか。
「秘密基地の外、廃材がたくさん積んであったの覚えてます? もしかして、あれが崩れたんじゃないですか?」
「あー……そうかも」
……言われてみれば、入口の近くに無造作に積まれていた気がする。それこそ、崩れそうだなとは思ってたけど。
「そうです。きっとそれですよ!」
謎が解けた藍は嬉しそうな声を出すけど、閉じ込められた原因が分かったところで打つ手があるわけでもなかった。
「それで……原因はわかりましたけど、どうやって出るんです?」
「どうやって……って、こっち側から開けられないんだし、誰かが外から開けてくれるのを待つしかないよな」
「誰かって……業者さんが廃材を取りに来るのは明日ですよ? それまで、ここから出られないんですか?」
藍の顔が再び青くなり、同時に身を守るように自分の身体を抱いて後ずさる。蒼に初めて会った時の反応そのまんまだ。さすが双子。
「落ち着いて。さすがに泊まることにはならないと思う。俺たちが帰って来なければ、蒼や皆も心配して探しに来てくれるだろうしさ」
そう言って安心させてあげるけど、藍は落ち着かない様子で、ソワソワと周囲を見渡している。
「あの窓から外に出られないですかね。羽依里さんは無理でも、私ならいけるかもしれません」
藍は部屋の中に転がっていた木箱を引っ張ってきて、その上に立つ。それでも、直接窓には届かなさそうだ。本来は光取りに使われていたっぽい小窓は、なかなか高い場所にあるし。
「結構高さがあるし、狭くないか?」
「やってみないとわかりませんよ。えい!」
脱出への執念か、俺が止める間もなく藍は全力ジャンプ。見事に小窓の縁を掴んだ。
「むむむ……」
掴んだのはいいものの、そこからよじ登るのは無理みたいだ。足をじたばたと動かしているけど、身体が持ち上がる気配はない。
「あと少しなので、羽依里さん、下から押し上げてください!」
……なんか言ってた。先も言ったけど、藍、スカートなんだけど。
「ど、どこを持てばいいの?」
「どこでもいいです! 早くしてください!」
……ええい、ままよ!
俺は意を決して、目をつむったまま藍を下から支えに入る。万一にも見てしまわないようにと配慮したんだけど、直後、両手に柔らかい何かが触れた。
「ひゃあっ。どこ触ってるんですか!」
「い、痛い痛い! 顔蹴らないで! バランスが……う、うわーーー!」
「ひゃあぁぁぁーーー!」
突然の攻撃に加え、目を開けていなかったことも災いし、見事にバランスを崩した俺は床にひっくり返る。藍は一瞬遅れて俺の上に落ちてきたので怪我はしてないと思うけど、その手には謎の木片が握られていた。
「いててて……藍、それ何」
「あ」
質問すると、藍は驚いた顔で小窓へと視線を送る。それを追ってみると、そこにあったはずの窓の縁が取れてしまっていた。あれだと取り付く場所がなくて、もう登れそうにない。
「全くもう。羽依里さんが悪いんですよ。もうちょっとだったのに、あんなところ触るから……」
藍は顔を赤くしながら自分のスカートを押さえる。目をつむっていたからわからないんだけど、俺、どこ触ったんだろう……。
そうこうしているうちに、秘密基地の周囲は完全な夜の闇に覆われてしまった。秋の日は釣瓶落としと言うけど、本当に日が沈むのが早い。
「こうなってしまうとわざわざ山に来る人もいないでしょうし、大きな声を出しても気づいてくれなさそうですね。もう、絶望しかありません」
本気か冗談か、藍は遥か頭上の窓を見上げながらため息をつく。秘密基地の中にも電気は通っているし、小さいながら電灯もあるから、完全な暗闇に包まれてしまうことはないんだけど、今の状況に藍は不安を募らせているみたいだ。
「大声でイナリでも呼んでみようか。まだ秘密基地の近くにいるだろうし、もしかしたら応えてくれるかも」
「イナリちゃん、今日は蒼ちゃんが連れて帰っていましたから、無理じゃないですか?」
……言われてみれば、蒼と一緒に帰ってた気がする。くそ、唯一可能性がありそうな森の住人だったのに。今日に限って……。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
……それから一時間ほど経ったけど、誰かが助けに来てくれる気配はなかった。
幸いなことに、天善が常備しているらしいパリングルスやスポーツドリンクがあったので食料には困らなかったけど、それで簡単な食事を済ませた後は、本当にやることが無くなってしまった。さすがに緊張の糸が切れてきたのか、藍も床に座ったまま、うつらうつらしている。
「藍、横になるんならそこにビーチチェアがあるから、それを使ってくれていいぞ」
俺は秘密基地の床に無造作に置かれたビーチチェアを指差す。どうしてこんなところにあるのかわからないけど、あるものは使わせてもらおう。
「ありがたいですけど、一つしかないじゃないですか。羽依里さんはどうするんですか?」
「もし俺が寝ちゃったら、助けが来た時に気づかないだろ。だから起きとく」
「……そんなことを言って、私の寝込みを襲うつもりじゃないですよね?」
「襲わないから!」
思わず大きな声が出る。俺って、まだ信用ないのかな。藍とも、それくらいの信頼関係は築いてきたつもりだけど。
「……冗談ですよ。信頼してますから、助けが来たら起こしてくださいね」
「あ、ああ。わかったよ」
ビーチチェアに寝そべった藍が柔らかい笑顔を向けてくれ、思わずどきりとしてしまった。いかんいかん。相手は藍だぞ。
一瞬動揺した自分を戒めるようにかぶりを振ると、ポトリと小さな音がした。
何だろうと思って見てみると、ビーチチェアの下から大きなクモが這い出てくるところだった。
「げっ、クモだ!?」
「えっ、どこです!?」
俺の声に、横になっていた藍が飛び起きる。
「下、下! うわわ、こっちに来た!」
突如として出現した大グモは、カサカサと床を這って俺の方へ向かってくる。たぶん、ビーチチェアの裏側にずっと隠れていたんだろう。藍がその上に寝たことで、驚いて出てきてしまったんだと思う。
「羽依里さん、やっつけてください!」
藍はビーチチェアの上で膝を抱えた格好で、俺に指示を出す。
「ええ、怖いし!」
「いいからお願いします! 男の子でしょう!」
そんなこと言われても、男の子でも怖いものは怖い。
「うぅ……」
俺はへっぴり腰のまま、近くの箱に入っていたラケットを手に取る。リーチも短くて武器としては心許ないけど、丸腰よりましだ。いくぞ!
「……それそれそれ! 出てけ!」
数分間に及ぶ戦いの末、ようやくクモを撃退することができた。と言っても、床と壁の間の僅かな隙間からご退場いただいただけだけど。頼むから、もう戻ってこないでくれよ。
「大捕物でしたね。やればできるじゃないですか」
壁に手をつきながら疲労困憊の俺の耳に、藍のそんな言葉が入ってくる。
「まったく、一仕事だよ。藍は高みの見物で良いよな……」
そう軽口を叩きつつ、藍の方に視線を戻すと……どこから入ったのか、藍のすぐ近くを七影蝶が舞っていた。
「藍、逃げろ! 七影蝶だ!」
「え?」
思わず叫ぶけど、七影蝶が見えない藍はすぐには動けず。キョロキョロと周囲を見渡す藍をあざ笑うかのように七影蝶は舞い、やがて藍の鼻先に止まった。
「あ……」
小さくそう呟いた後、藍の身体がぐらりと傾く。
「藍!」
俺は足がもつれそうになりながら藍の元へと走り、倒れかけた身体を支える。
「藍! しっかりしろ!」
そして必死に声をかけながら、ビーチチェアに身体を横たえる。その顔面は蒼白で、目はうつろ。これはまずい。
「藍! 気をしっかり持つんだ! 藍!」
かつて蒼が俺にしてくれたように、必死に呼びかける。
声かけの他にも、頬を叩いたり、肩を揺すったり。俺の記憶と蒼の記憶、その両方が持つ知識をフル活用して、藍を呼び戻そうとする。
「お前に何かあったら、蒼が心配するぞ! 戻って来い!」
蒼の名前も交えて、何度も呼びかける。藍にとって、蒼は何よりも大切な存在のはず。その思いが藍を奮い立たせる。そう信じて。
「あ、れ……? 羽依里、さん……?」
しばらくして、藍は無事目を覚ましてくれた。
「大丈夫か? お前、七影蝶に触れちゃったんだぞ」
「そう、だったんですね……」
藍は右手を持ち上げて閉じたり開いたりする。たぶん、体の感覚を確かめているんだろう。俺もそうだったし。
「ごめんな。俺がもう少し早く七影蝶に気付けていたら」
「だ、大丈夫です。それより、痛いので、放してもらえますか」
「え? ああ、悪い」
思いがけず、強く抱きしめてしまっていたらしい。ゆっくりと手を放すと、藍はお礼を言いながらビーチチェアの上に腰掛ける。
「聞いていいのかわからないけど、何の記憶に触れたんだ? 見えたんだろ?」
見た感じ、何の変化もないみたいだけど。
「中世ヨーロッパのメイドさんの記憶です。おかえりなさいませ。ご主人さま」
「……冗談だよな?」
「冗談です」
ふふっと笑う藍に対し、俺は大きなため息をつく。できたら冗談でもそう言うこと言わないで欲しい。七影蝶の記憶に乗っ取られたのかと思って、不安になるから。
「……本当のことを言うとですね」
その矢先、藍も笑うのをやめて真顔になる。
「……私が触れたのは、空門の記憶です」
「え?」
「たぶん、さっきの七影蝶、空門のご先祖様なんじゃないですか?」
「というと?」
「……あの七影蝶に触れた瞬間、私の中に空門の巫女のしてのお役目や島のしきたりに関する知識が流れ込んできました。たくさんの知識と一緒に、ですけど」
「もしかすると、その七影蝶は蒼が昔触れたのと同じ七影蝶なのかもな」
俺の中にある蒼の記憶をさかのぼると、蒼が初めて空門のお役目のために森に入ったのは中学の時。その時に触れた七影蝶が空門のご先祖様だったらしく、そこで同じように空門家のお役目や七影蝶に関する知識を得たらしい。
蒼と同じ空門の末裔である藍が山にやってきたということで、ご先祖様が同じように空門の記憶を渡しに来た……というのも、有り得ない話じゃない。
「……そ、それより、見えるんですけど」
「え、見えるって何が?」
「あ、あれです。あれあれ」
考えを巡らせていたところ、藍が興奮気味にどこかを指差しながら立ち上がった。その先には、先程藍に触れた七影蝶がふわふわと飛んでいた。
「……まさか藍、七影蝶が見えるようになったのか?」
「はい。見えてます」
ひらひらと天井付近まで上がり、またゆっくりと下がってくる七影蝶を、藍はしっかりと目で追っていた。どうやら、本当に見えているみたいだ。
「あれが、七影蝶。蒼ちゃんの言っていた、光る蝶々。やっと、見えた……」
藍はまるで子供に戻ったかのように、頭上を舞う七影蝶をはしゃぎながら追いかける。
そんな藍の様子を、俺は呆気にとられながら見守るしかなかった。
……思えば、蒼と藍は双子だし、藍にも七影蝶を見る力の素質みたいなものがあっても不思議はない。あの七影蝶に触れたことで、まるで波長が合うようにその力が顕現したのかも。
「藍、触らないようにしろよ。例え空門家の七影蝶でも、何度も触っていたら危ないかもしれないからな」
「わかってます。ちょっと一緒に遊んでいるだけですよ」
七影蝶の方もそれをわかっているのか、藍からつかず離れずの微妙な距離を保って空中を漂っていた。
そんな風に蝶と戯れる藍を見ていると、俺も次第に警戒感が薄れ、温かい気持ちになっていた。突然の出来事で驚いたけど、ずっと見たかった七影蝶が見れて良かったな。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
……しばらくして、はしゃぎ疲れたのか藍は眠ってしまった。
そして藍曰く、例の七影蝶は段々とその姿が薄くなっていき、30分もしないうちに見えなくなってしまったそうだ。
俺には未だ見えているし、どうやら藍が七影蝶を見ることができたのは、七影蝶に触れて波長が合っていた、ほんの少しの時間だけらしい。
それでも、それまでは想像するしかなかった本物の七影蝶を見れたからか、その寝顔は満足そうだった。
……ところで、なんで藍は俺の膝を枕にして寝てるんだ?
蒼がずっと見ていたものを見れて満足し、安心しちゃった気持ちも分かるんだけど、これはいかがなものかと。
こんなところ、もし誰かに見られたら……!
「……鷹原、藍、中にいるのか!?」
……そんな最悪のタイミングで、扉の向こうから声が聞こえた。
「え、あ、のみき!?」
「間違いない。中にいるぞ」
「よーし。今、廃材をどけてやるからな」
続けて天善と良一の声がして、がらがらと廃材を取り除く音がしはじめる。待って、開けないで。
……おかしいな。待ちに待っていた助けのはずなのに、今は帰ってくれと願っている自分がいた。
「藍、起きてくれっ」
「んー」
膝の上で眠る藍の肩を揺するけど、熟睡しているのか軽く手を払われた。これは無理っぽい。かといって、俺が無理矢理どくのも……。
「二人とも、大丈夫か!?」
……俺が躊躇していると、勢いよく扉が開いた。
「な……!」
そして駆け込んできた三人は一様に同じ顔をして固まった。
「た、鷹原……これはどういうことだ?」
やがて一番に状況を把握したのみきがハイドロの銃口を俺に向ける。
「待ってくれ。これには深いわけがあるんだ」
俺は藍を膝に乗せたまま、思わず両手をあげる。
「言い訳はあとでたっぷりと聞こう。役所でな」
のみきがそう言うと同時、その背後から青年団の皆さんがどかどかと乗り込んできた。
これは徹夜で事情聴取かなぁ……なんて考えつつ、この場に蒼の姿がなかっただけマシだと思うことにした。
……そんな、秋の夜長。
第十六話・あとがき
皆さん、おはこんばんちわ。トミーです。
今回は島の秋をメインテーマに書いてみました。
前半は食欲の秋で、栗拾いからの、渋皮煮作り。鍋で煮る時間とかかなり細かく書きましたが、これは我が家のやり方を参考にしました。本当に美味しいので、時間に余裕のある方はぜひ作ってみてください。
中盤はスポーツの秋……という名の、蒼ちゃんダイエット大作戦でした。空門姉妹の体操服姿、良いですよね(そこか
そして後半はそのスポーツ=卓球の流れから、秘密基地での閉じ込めイベントでした。元々このイベント自体は短編として考えていたのですが、藍の七影蝶イベントに使えそうだと思って取り込みました。予想通りのオチがつきましたが、藍が七影蝶を見ることができるのは後にも先にもこの時だけになる予定です。
また、本編中にも少し触れましたが、次回は島の秋季大運動会になります。島を挙げての大規模イベント……の予定ですので、楽しみにされていてください。
それでは、今回のあとがきはこの辺りで。
一言感想や評価など頂けましたら、次話執筆への活力になりますので、よろしくお願いします。