……11月。陸の上では風も心地よく、1年でも過ごしやすい時期。
海では赤メバルやシズ、サバに加えてタチウオが獲れて、瀬戸内の海の豊かさを身をもって知れた。
「ううう、寒い」
そして、その寒さも身をもって知っていた。寒い。寒すぎる。
過ごしやすいのは陸の上だけだった。蒼が編んでくれた毛糸の帽子を被り、完全防備のはずなのに。11月の海、侮っていた。
「羽依里、網を上げるぞ! 合わせろ!」
うおお、手が悴んで力が出ない。蒼、俺に元気を分けてくれぇぇ!
……そんなこんなで、早くも冬の装いを呈している極寒の漁を終え、港に戻ってくる。
「さて、来週は鳥白島運動会だ」
仕事の片付けが終わるか終わらないかという時、しろはのじーさんが皆を集め、そう言った。
「既にチーム分けは回覧板で回ってきたと思う。各自、準備を怠らんようにな」
「よーし、今年こそ優勝するぜ!」
「馬鹿、バタフライしかできない良一じゃ勝負にならねぇよ」
良一を含めた漁師仲間たちはやる気に満ち溢れていたが、俺は一人おいてけぼりを食らっていた。鳥白島大運動会? チーム分け? 何も知らないんだけど。
「運動会の前後は仕事も休みになる。しっかり体調を整えておけ」
じーさんはぶっきらぼうに言って、その場は解散となってしまった。回覧板が回ってるのなら、後で空門家の誰かに聞いてみよう。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
仕事を終えて帰宅すると、樹さんがリビングで新聞を片手に優雅にモーニングコーヒーを嗜んでいた。
「ただ今帰りました」
「ああ、おかえり」
新聞を置いた樹さんに挨拶をした後、俺はさっそく鳥白島大運動会について尋ねてみた。
「ああ……今年もその時期だね。確か、回覧板が来ていたよ。まだ回してなかったはずだけど」
樹さんは言って、ソファー脇のテーブルから回覧板を拾い上げると、俺に見せてくれる。
『第78回 鳥白島大運動会』と書かれた表紙に、どこか懐かしいスローガン、配置図、プログラムが並ぶ。
これだけ見ると、普通の小学校の運動会っぽいけど。
「この島の運動会は、島民全員参加で盛り上げるのが通例なんだ。当然、僕たちも紅組か白組に分けられているよ」
「え?」
言われて、次のページがあるのに気がついた。おそるおそるめくってみると、そこには複数枚に分けて、全島民の組み分けと、参加競技が書かれていた。
「……これ、組み分けも参加競技も、強制なんですか?」
「そうだよ。毎年実行委員会が決めるんだ。基本、拒否権はないね」
コーヒーを口に運びながら、さも当然のように言う。えぇ、拒否権なし? 俺、何に出るんだろう。
島民全員の名前が五十音順に並んだリストの中から自分の名前を探すと、すぐに見つかった。俺は紅組だ。
続いて、参加競技は……島一周水泳と、カエル投げ競争、大人の玉入れ競争だった。
「島一周水泳は百歩譲って分かるんですが、大人の玉入れ競争って何です?」
「この島は子どもたちが少ないからね。子供たちが中心の競技は午前中で終わってしまうのさ。そして午後から行われるのが、僕たちが主に出場する『大人の運動会』だよ」
『大人の運動会』。蒼の影響か、ちょっとアダルティーな想像をしてしまった。やばいぞ。俺も影響受けてる。
「羽依里君も島一周水泳に出るんだね。僕は白組だから、お手柔らかにお願いするよ」
ははは、と笑いながら言う。ちょっと待ってくれ。この島一周水泳、白組の出場選手に堀田のじーさんやしろはのじーさんもいるんだけど。勝てるのかな。
「今日も海は寒かったんですが、この競技、その日の気温によって中止になったりは……?」
「僕が島にやってきてからは、中止になったという話は聞いたことがないね。特に島一周水泳は秋季大運動会のラストを飾る花形競技だから、中止はあり得ないよ」
「そ、そうですか……」
樹さんは、「出場選手に選ばれることは最高の栄誉らしいよ」と付け加えてくれたけど、俺は正直自信がない。蒼のおかげで泳げるようにはなったものの、やっぱりプールと海は違うし。
これは俺もしっかりトレーニングしておく必要がありそうだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
その翌日から、俺は体力トレーニングをすることにした。
平日は蒼も学校だし、特にやることもない。仕事から帰宅して一休みした後、住宅地から灯台までのコースを走っていた。
また、同じコースだと体が慣れてしまうので、アップダウンの激しい山道コースも用意しておいた。日によって変えることで、毎回違う負荷を体に与えることができるのだ。
そんなトレーニング自体は良かったのだが、別の問題が生じた。
「おお、空門さんちの。これ、碧姉さんに渡してくれ」
「あらあら、空門さんちの鷹原君じゃない。ちょうどいいところに。これ、碧さんに」
こんなふうに、住宅地を通るたびにもらい物をしてしまうんだ。
空門家の人間として認められてるようで嬉しい半面、それだけこの島での空門家の影響力が大きいんだと、俺は実感していたのだった。
「うう、寒い」
そんな感じでトレーニングを続けていたある日。頑張りすぎて汗をかいたのか、体が冷えてしまった。
早く帰って温まろう……なんて考えながら住宅地を歩いていると、どこからかコーヒーの香りが漂ってきた。
「え、コーヒー?」
これは間違いなく、豆から焙煎されたコーヒーの香りだ。だけど、住宅地でこの香りがする理由がわからない。
「場所は……ここか」
その香りを辿っていくと、なんと駄菓子屋に辿り着いた。え、駄菓子屋?
「あ、羽依里、いらっしゃーい」
驚いていると、店番をしていた蒼が俺に気がついた。
そういえば、今日は土曜日。蒼も午後からは島に戻ってきていたのか。
「蒼、コーヒーの香りがするんだけど、ここなのか?」
「そうよー。一杯飲んでく?」
言って、蒼は駄菓子屋の奥を指差す。そこには本格的なコーヒーメーカーとミル、そして様々な種類のコーヒー豆が置かれていた。樽で。
「お願いしたいけど、なんかやけに本格的だな」
「島には自販機もないから、あったかいコーヒーなんて飲めないしさ。おとーさんのツテや通販代行を使って、世界中の豆を取り揃えてあるの。気合入ってるでしょ」
正直、気合い入れ過ぎだと思う。確かに樹さんなら、娘たちがコーヒー豆欲しいと言ったら樽で送ってくれそうだけどさ。
「あれ、羽依里さんじゃないですか」
その時、背後から声がした。振り向くと、そこには藍と良一が立っていた。
「藍はわかるけど、良一は駄菓子屋に用事か?」
「利きコーヒーに挑戦したいと言うので、連れてきたんです」
「ほう、利きコーヒーとな」
これだけたくさんの種類が揃ってるんだし、確かに面白そうだ。けど、良一はコーヒーに詳しいんだろうか。
「俺はテントコレクターだからな。キャンプの翌日はモーニングコーヒーと決めてる。コーヒーにはうるさい男だ」
心の中の質問が顔に書いていたのか、良一がそう教えてくれた。なるほど。キャンプとコーヒーは切っても切れない関係だな。
「というわけで、勝負だ。羽依里」
「え、勝負?」
唐突に言われて、俺は面食らう。勝負って、利きコーヒーで?
「蒼と藍に頼んで、五種類のコーヒーを淹れてもらう。その銘柄を多く当てられたほうが勝ちだ」
「いや、やめておくよ」
「なにっ!?」
少し考えて、俺は努めて穏やかにそう答えた。勝負とかじゃなく、優雅にコーヒーを嗜みたいしさ。
「……羽依里さん、蒼ちゃんの前だというのに、勝負から逃げるんですか?」
「え?」
その時、藍がジト目で俺を見ながら言った。
「いや、逃げるなんて、そんなつもりないけど」
「逃げてるじゃないですか。ほら、やりますよ」
まごついているうちに藍が俺の背を押して、先にカウンターについていた良一の隣へと並ばされる。ちょっと、そんな無理矢理……。
「さすがにノーヒントじゃ厳しそうだから、銘柄は先に教えておいてあげるわねー」
そんな俺を見ながら、蒼が笑顔で言う。その後の説明によると、淹れ方は全て中煎りで、銘柄はランダムにブルーマウンテン、モカ、マンデリン、コロンビア、コピルアクらしい。
「ブルーマウンテンは流石の俺でも知ってるけど、コピルアクって何?」
空門姉妹のどちらともなく聞くけど、教えてもらえなかった。まぁ、わかったところで味の違いなんてわからないんだけどさ。
「そうそう。負けた方が全ての代金を支払ってくださいね」
「え、マジで?」
言い添えられた藍の言葉に、俺は耳を疑った。良一は「いいぜ。それくらいリスクのある方がいい」と自信ありげだったが、確かブルマンってものすごく高いんじゃなかったっけ。
「それじゃ、利きコーヒー、スタート!」
やがて俺と良一の前には、小さな紙コップが5つ並べられた。正直、銘柄ごとの味の違いがわかるほどコーヒーを飲み慣れていないけど、勝負である以上、なんとか勝ちたい。
「よし、まずはこれだ!」
俺は一番右端のカップを手に取って、香りをかいだ後、コーヒーを口に含む。
……うむ。苦い。
次に、その隣のカップを手に取り、同じように香りをかぎ、口へ運ぶ。
……これも苦いな。
……やばい。全然わからん。
続けて真ん中のカップに手を伸ばし、中味を味わった後、俺は頭を抱えた。
もとより、それぞれの銘柄の特徴すら知らないんだ。わかるはずがない。
隣の良一を盗み見ると、うんうんと頷いていた。あいつ、わかっているのか?
「……羽依里さん、苦戦しているみたいですね」
そんな折、目の前の藍が俺にしか聞こえないような小さな声で話しかけてきた。
「参加を促したのは私ですし、ここはひとつ、ヒントをあげましょうか」
「是非頼む」
懇願すると、藍はその細い指で、左端のカップを指差し、「実はこれがブルマンです」と言って、ほくそ笑んだ。俺はすかさずそのカップを手に取って、飲んでみる。
「おお、この深いコクと旨味はブルマンで間違いないな」
「……というのは冗談で、その隣がブルマンです。……なんですか、その顔」
俺がドヤ顔で言った直後、藍がにやりと笑う。くそ、嵌められた。
「い、言われてみれば少し違うな。香りは似てるけど」
「……正直にわからないって言えないんですか?」
「うぐっ……ブラックコーヒーが飲めない藍に言われたくない」
「う、うるさいですね。最近、ちょっとずつ飲めるようになってきたんですよ」
藍は少し顔を赤くして、カウンターの奥へと下がってしまった。しまった。もう少しおだてておけば、利きコーヒー対決を有利に運べたかもしれないのに。
……その後、答え合わせが行われたものの、結果は散々。正解数で0―3と完敗した俺は、二人分の代金を支払うことになった。
「合計金額、1万円よー」
「1円か。安いな」
「ちょっと、9999円足りないわよ」
いつもの癖で一円玉を差し出すと、蒼からジト目で睨み返された。え、本当に1万円!?
思わず内訳を聞き出すと、ブルマンが2杯で3000円、コピルアクが2杯で5000円だった。いやいや、高すぎだろ。
「ブルマンはわかるけど、このコピルアクってなんでこんなに高いの?」
「特別だからですよ。美味しかったですか?」
「ま、まぁな」
美味しかったかと聞かれると、返答に困る。どれがコピルアクか、俺にはわからなかったしさ。
「あれ、動物のフンですから」
「うげぇ」
俺が喉を押さえながら思わずえづくと、蒼が「藍、言い方ー」と、笑っていた。その後詳しい話を聞くと、インドネシアに住む動物が食べたコーヒー豆がその……下から出てきたものをよく洗って焙煎した、高級なコーヒー豆らしい。
「いくら高級でも、フンかぁ……」
思わず頭を抱える俺を見ながら、藍が不敵な笑みを浮かべていたのは言うまでもない。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
それから数日後。いよいよ運動会が近づいてきた日の夜。俺は夜のトレーニングに出かけていた。
朝のうちに蒼にその話をしたら「よ、夜のトレーニング!?」と、目を白黒させていた。あれ、絶対ピンク色の想像してたよな。相変わらずだ。
ちなみに現在、時刻は夜の7時。蒼はまだ島に戻ってきていない。
藍曰く、どうやら文化祭の準備が佳境を迎えているらしい。帰ってくるのは碧さんと同じで、最終便になるそうだ。
蒼も学生生活、悔いが残らないように頑張ってるんだな。
「……頑張ってる蒼に不甲斐ない姿は見せられないし、俺もしっかり準備しないと」
誰ともなく呟いて、俺は灯台へ向かう坂道を登り始めたのだった。
……それからたっぷり一時間。筋肉を苛め抜いて空門家に戻ると、玄関に蒼の靴があった。最終便の時間はとうに過ぎているし、帰ってきたみたいだ。
蒼と同じく最終便で帰宅していた碧さんに挨拶した後、俺は脱衣所へと向かう。
外が寒いからと厚着をしたのが仇になった。ウインドブレーカーを脱ぐと、汗だくだった。
「うわ、汗かいたな」
このままだと体を冷やしてしまうし、この時期の汗は早めに拭くに限る。
「蒼ー、タオル取ってくれないかー?」
脱衣所の扉に手をかけた時、中に人がいる気配を感じ、そう声をかける。
「あ、帰ったのねー。今は手が離せないから、入って良いわよー」
許可を取ったうえで扉を開け、棚に置かれたタオルを手に取る。
空門家の脱衣所は暖房完備で温かい。せっかくだし、ここで汗を拭いていこう。
「羽依里、おつかれさまー」
「ああ、蒼もお疲れ」
俺は上半身裸になって、手早く汗を拭く。ちなみに鏡の前では、蒼がドライヤーを使って髪を乾かしている。それも、下着姿で。
「藍に聞いたぞ。文化祭の準備、頑張ってるんだってな」
「本番、もうすぐだしねー。他の子はもっと遅くまで残ってるし、あたしは楽なほうよー」
長い髪をドライヤーの風になびかせながら、鏡の向こうの蒼が苦笑いを浮かべる。鏡が大きいだけに、どうしても下着姿が目に入る。
……思えば、駄菓子屋の座敷で蒼の着替えを覗いてしまったのが、俺たちの馴れ初めだったよな。思いっきり、叫ばれたっけ。
それが今や、一つ屋根の下で暮らす関係になるなんて。蒼も下着姿を見られても全く動じてないしな。
……まぁ、夜も色々してるし、今更なのかもだけど。
「何ー?」
俺の視線に気づいた蒼が目線だけを俺の方に向けた。俺は急に恥ずかしくなって、「いや、髪が長いと、毎日手入れが大変そうだな」なんて言って、誤魔化す。
「羽依里が良いって言うなら、短くするわよ?」
「いや、俺は長いままがいいかな。綺麗だし、短くしたら藍が悲しみそうだ」
「違いないわねー。『切った髪、欲しいです』とか、普通に言いそう」
「有り得そうだ。もしくは、『私も短くします』だな」
「それよねー」
お互いに笑いながら、そんな冗談を飛ばす。どっちも藍なら言いかねないよな。
「そうだ。藍にお風呂空いたって伝えてくれる? あの子、『蒼ちゃんの残り湯に浸かりたいんです』って、あたしの後じゃないとお風呂入らないのよ」
「わかった。まかせとけ」
汗を拭いたタオルを脱衣所のカゴに放り込むと、俺は適当な服を着て、藍の部屋へと向かった。
「おーい藍、風呂空いたぞー」
そう声をかけて扉をノックする。中からの反応はない。
「おーい。風呂空いたぞー」
少し声を大きくして、もう一度扉を叩く。同じく反応はなし。寝てるのか?
「藍、入るぞー?」
一応断りを入れて、その扉を開く。まずベッドに目をやるけど、もぬけの殻。
ゆっくりと室内を見渡すと、隅の机に突っ伏して寝ている藍の姿が目に入った。藍が勉強してるなんて珍しいな……なんて思いつつ、起こすべく室内に足を踏み入れる。
「……うん?」
その肩に手を触れかけた時、開かれていたノートと参考書が見えた。
「小学六年・漢字ドリル?」
……どうして小学生の問題集がここに?
「あー、見ちゃった?」
俺が困惑していると、着替えを終えた蒼がやってきた。
「藍、一生懸命勉強してるのよ」
「勉強……ああ、そういうことか」
一瞬困惑して、すぐに勘付いた。そういえば以前、姉妹と本土へ外出した時、藍は読めない漢字が多かった気がする。
藍がいくら睡眠学習をしていたといっても、漢字とか計算とか、実際にやらないと身につかないことは多い。漢字なんて、その最たるものだろう。読めないとなると、日常生活にも支障をきたす。
病室にいる間なら、睡眠学習の内容だけでもなんとかなったかもしれないけど、世間に出るとなると話は違ってくる。
「藍ってば、10年分の勉強をまとめてやってるの。あたしにも内緒にしてたみたいだけど、通販代行で参考書買ってたら、伝票が目についちゃうしねー」
蒼は優しいまなざしで姉を見る。退院後は島でのらりくらりと暮らしている風に見えた藍も、影で色々と努力してるんだな。
「だから羽依里、今日ここで見たことは秘密ね?」
「わかった。藍に怒られるのは嫌だからな」
「そーそー。藍のことだから、『羽依里さんに知れたら、絶対馬鹿にされます』って言うわねー」
一瞬、藍が起きたのかと思って、どきりとした。それくらい、声が似ていた。さすが双子。
「……頑張れ、お姉ちゃん」
蒼は目を細めながら言い、藍に毛布をかけてあげていた。
第十七話・あとがき
皆さん、お久しぶりです。トミーです。色々ありまして、随分とお待たせしてしまい、申し訳ないです。
今回も前回に引き続き、島の秋をテーマにお送りします。
しかし、秋季大運動会と銘打ってるくせに運動会までたどり着かずに前編が終了してしまいました。
藍が勉強しているシーンはどうしても書いておきたかったのですが、利きコーヒーで遊びすぎてしまいました。
次回はきちんと運動会本編に入りますので、どうか、藍お姉ちゃんの寝顔と下着姿の蒼ちゃんで許してください。
それでは、今回のあとがきはこの辺りで。
一言感想や評価など頂けましたら、次話執筆への活力になりますので、よろしくお願いします。