蒼は目が覚めた翌日から、必死のリハビリを始めた。
しばらくは本人も『自分の身体じゃないみたい』と苦笑するくらい、なかなか身体を動かせなかった。
そんな中でも、俺は頑張る蒼を少しでも応援したくて、連日診療所に足を運んでいた。
「蒼ー、今日の調子はどうだー?」
「あ、羽依里。いらっしゃーい……」
そんなこんなで、数日が経過した。病室に入ると、昼食が配られていた。
「あ、ちょうどお昼だったのか」
「そうよー。あいたたたたた……」
どうやら、リハビリをした後は必ず全身が筋肉痛に襲われるらしい。
「……はぁ。ほんと、寝っぱなしって体動かなくなるのね。まだ手とか重いし」
消化の良さを考えて柔らかく調理された病院食をスプーンで口に運びながら、ため息交じりにそう言う。
ベッドの背部は当然ギャッチアップされてるんだけど、食事のために身体を起こすのも一苦労みたいだ。
「蒼ちゃん、今日も頑張っていますよ」
そんな蒼の隣で、藍もベッドに添えつけられたテーブルに乗せられた昼食を食べていた。
「みたいだな。蒼、応援してるからな」
「……ん。頑張る」
心なしか、食事のスピードが上がった気がする。
俺は何もできないけど、こうやって話すことで、少しでも力になれたら嬉しい。
「蒼ちゃん、愛されてますね。どうせなら、羽依里さんもここでお昼ご飯食べたらいいですのに」
「いや、俺のお昼は毎回カップうどんだからさ。さすがに持ってこれないし」
「相変わらず貧相な食生活してるわねー」
「うう、そこには触れないでくれよ……ところで、二人の今日のお昼はなんだ?」
「んー、見た目じゃわからないけど、味はハンバーグみたいねー」
「蒼ちゃん、正解です。おかーさんの味には劣りますが、これもなかなか美味しいです」
ちらっと藍のトレーを見ると、ひじきが練り込まれたハンバーグが付け合わせの野菜と一緒に盛りつけられていた。診療所に通い詰めてわかったけど、病院食ってお昼が豪華なことが多い気がする。
「……んぐ、げほ、ごほ」
その時、蒼がむせていた。
「ああ、急いで食べるからだぞ」
俺は急いで水の入った吸飲みを手に取って、飲ませてやる。
この一年間で喉の筋肉も衰えているらしく、どうやら飲み込む力も弱くなっているらしい。
「あはは、ありがとねー」
「全く、ゆっくり食べるんだぞ」
「うん。ごめんね」
「……蒼ちゃん、本当に愛されてますね」
そんな俺たちのやり取りを、藍が何とも言えない顔で見ていた。
なんだろう。言葉の端々に、憎しみの感情が混ざっている気がしないでもないけど。
……朝起きて、朝食や宿題を済ませると、蒼に会いに行く。
お昼を食べに一旦帰宅した後、午後からまた診療所を訪れて、面会時間ギリギリまで蒼と一緒に過ごす。
この夏はそんな日々を繰り返しているうちに、あっと言う間に終わってしまった。
俺は当然のように本土に戻り、学校に通う。でも週末になると、蒼に会うために鳥白島を訪れた。
やってることは去年と同じだけど、今の鳥白島には、ちゃんと起きて、笑ってくれる蒼がいる。
会うたびに、蒼が元気になっていく。それだけで、俺の心境は去年のそれとは全く違ったものになっていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「はーい。それじゃ二人とも、お待ちかねのリハビリの時間よー」
……やがて秋が過ぎ、島に冬の足音が聞こえ始めた頃。
蒼は簡易平行棒を使っての歩行訓練ができるまでに回復した。
若さだけじゃ説明できない、驚異的な回復力だと驚く先生に対し『やっぱり愛の力じゃないですか?』とほくそ笑む藍の表情が印象的だった。
愛の力云々は置いといて、やっぱり一緒にリハビリに励んだ藍や、島の皆の精神的な支えも大きいと思う。
もちろん、蒼本人の頑張りがあってこその結果だろうけど……。
「……あたっ!?」
リハビリする蒼を見守りながらそんなことを考えていると、バランスを崩して床に倒れ込んでしまった。
「うわ、蒼、大丈夫か!?」
まだとっさに体を支えられないらしく、顔をしこたま打ちつけていた。べちって音がした。べちって。
「へ、平気よー。自分で起きるから、手を出さないでね」
「わ、わかってるよ」
思わず駆け寄った俺を制して、蒼は自分の力で立ち上がる。
「……お正月には、三人一緒に初詣行きたいしねー。頑張るわよー……」
左手のトンボ玉を一瞬だけ見て、自分に言い聞かせるようにそう口にする。
その目はまっすぐに、その先の未来を見つめているようだった。
強くて、諦めない。あの日、俺が惹かれた蒼がそこにいた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
……やがて季節が巡り、翌年の4月。島の桜が満開になる頃、蒼と藍は一緒に退院できる運びになった。
「いよいよ、今日退院か……」
漁船の壁に貼られたカレンダーを指差し確認しながら、俺の胸は高鳴っていた。
「……おい、羽依里」
「えっ」
「聞こえなかったか。網を上げると言っている」
「す、すみません!」
思わず、浸ってしまっていた。船長……しろはのじーさんから、呆れたような声が飛んできた。
「まったく、浮かれる気持ちはわかるが、仕事はきちんとしろ」
「はい!」
……ちなみに俺は今、しろはのじーさんに弟子入りして、漁師見習いとして船に乗っている。
俺は今年の三月に学校を卒業すると、すぐに鳥白島に移住して、漁師になる道を選んだ。
このご時世、卒業後の進路に『漁師』なんて書いたせいか、担任や進路指導の先生が腰を抜かしていた。
息子は進学するとばかり思っていた両親にとっても寝耳に水だったらしく、三者面談の時には二人揃って学校に押しかけてきて、俺を必死に説得してくる始末だった。
両親には、これまで散々迷惑をかけた申し訳なさはもちろんあった。でも、俺は自分の意志を全力で貫いた。
一度決めたことは曲げない。諦めない。蒼に教えてもらったことだった。
数時間に及ぶ話し合いの末、最後は大人たちが根負けし、渋々ながら俺の進む道について了承してくれた。
「おい、羽依里! 一人だけペースが速いぞ! 合わせてくれ!」
「ああ、悪い!」
少し前の出来事を思い出していると、今度は一緒に網を上げていた良一から怒られてしまった。
彼は俺と同じく、島の漁師になる道を選んだ。
4月とはいえ、海の水はなかなかに冷たいんだけど、良一は船の上では常に上半身裸だった。
もしかして、合法的に裸になれるからこの仕事を選んだんだろうか。
「今日はなかなかに大物揃いみたいだしな! 羽依里、海に落ちるなよ!」
「わ、わかってる!」
知った顔がいるのは心強いけど、自然が相手の漁師の仕事。体力勝負だし、毎日必死だった。
「……よし。まぁ、今日の所はこんなものだな。帰港するぞ」
昇ってきた朝日が海面に反射し始めた頃、船の生け簀が魚でいっぱいになったのを確認して、じーさんが帰港の指示を出す。
「マダイが多いが、中にはママカリもいるな。そこそこの儲けにはなるだろう」
生け簀の中を泳ぐ魚たちを見ながら、じーさんがそう言っていた。マダイはわかるけど、ママカリってなんだろう。
船のエンジン音が響く中、ふと浮かんだ疑問について思案していると……視線の先に、淡い桜色に染まった鳥白島が見えてきた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「……おはよう、二人とも」
港に戻って、良一と魚の仕分け作業をしていると、しろはがやってきた。
「おう」
「しろは、おはよう」
「今日はどんな魚が獲れたの?」
「マダイと……えっと、ママカリだってさ」
俺は仕分け用のかごに入った魚を、しろはに見せる。
「じゃあ、大きめのマダイを3匹と……そっちのママカリは中くらいのを10匹貰おうかな」
そう言って、袋を差し出してきた。彼女はこうして、毎朝獲れたての魚を買いに来る。
しろはは学校を卒業した後、親戚の人がやっている島の食堂で働いているらしい。たぶん買った魚はそこの食材として使うんだろう。
「ところで、このママカリって魚、どうやって食べるの?」
「大きいのは塩焼きにもできるけど、小骨が多いから酢漬けにして、お寿司にするの」
「へぇ。アジ寿司みたいになるのかな。美味しそうだな」
「……漁師になったのに、魚のことを私に聞かないでほしいんだけど」
「ごめん。まだ新米だからさ」
俺も色々な所でバイトをしてきたけど、漁師の仕事は初めてだし。まだ右も左もわからない。
「仕事もそうだけど、魚についてもっと勉強しないと」
「じーさんからも以前、同じことを言われたよ」
なんだかんだで、あの人の孫らしい発言だった。俺は魚の入った袋をしろはに手渡しながら、苦笑いを浮かべるしかなかった。
「……そういえば、蒼たちは今日退院なんだよね?」
代金と引き換えにその袋を受け取りながら、しろはがそう聞いてくる。
「ああ。その予定だよ。お昼過ぎだから、14時くらいじゃないかな?」
「……やっぱり、立ち会うよね?」
「当然。俺は蒼の彼氏だしな」
「じゃあ、15時くらいに蒼たちと一緒にため池に来て。皆が二人の退院祝いをしたいんだって」
「それは蒼たちも喜ぶと思うけど……なんでため池?」
退院祝いなら、食堂でやったほうが色々と楽そうだけど。
「それは秘密。蒼たちには伝えてあるから、あなたも遅れないでね」
「ああ、ありがとうな」
「うん。それじゃ」
そこまで言うと、しろはは最後に一礼して去っていった。
……お祝いしてくれるのは嬉しいけど、なんでため池なんだろう……?
「……そうだ羽依里、昼飯は軽く済ませておいた方がいいぜ?」
結局答えてもらえなかった疑問を頭の中で反芻していると、ホースの水で船の汚れを洗い流していた良一がそう言う。その口ぶりから、彼は何か知っているらしかった。
「良一、隠さないで教えてくれよ」
「悪いが、秘密だ」
聞いたところで含み笑いを返されるだけで、しろはと同じように何も教えてくれなかった。まぁ、行ってみればわかるだろう。
「……お前たち、片付けが終わったら、いつものあれをやるぞ」
そう結論付けた時、仕入れ業者との取引を終えたじーさんが数人の漁師仲間を連れてこっちにやってきた。
あ、やっぱり今日もやるのか……。
「「いくぞ! ししんそうおう!」」
仕事が終わった後は、じーさんや良一を含めた漁師仲間たちと、締めの四天王スクワットをするのが通例になっている。
思えば、島の男はこうやって日常に四天王スクワットを取り入れて、日々体力づくりをしているわけか。じーさんたちが超人的な体力を誇っているのも納得だった。
「朱雀! ざく! ざく! 玄武!」
まだ慣れない仕事で疲れた身体に鞭打ってスクワットをやってると、変な脳内物質が分泌されてる気がする。ランナーズハイならぬ、スクワットハイだ。これやばい。ざく! ざく!
「お、お疲れ様でしたー!」
……たっぷりとスクワットをした後、報酬を受け取って、今日の仕事が終わった。
まだまだ見習いということで取り分は少ないけど、この充実感は何物にも代えがたいものがあった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ただ今戻りましたー」
「あ、羽依里君、お疲れさま」
仕事を終えて、下宿先の加藤家に帰宅する。居間に行くと、鏡子さんがいた。
鏡子さんは俺の叔母にあたる人で、鳥白島での滞在先を探していた俺を、快く受け入れてくれた。
「これ、今日の分です」
「もう。気にしなくていいのに」
俺は先程受け取った報酬の中から、その日の下宿代を渡す。
鏡子さんは気にしないでと言ってくれているけど、それだと俺の気が収まらない。
いつか自分で家を持って生活ができるようになるまで、毎日払い続けるつもりだった。
「朝早くからの仕事でお腹空いてるでしょう。せめて、ごはんだけでも用意してあげられたら良かったんだけど。私の料理はね……」
「いえ、それこそ気にしないでください」
鏡子さんは申し訳なさそうに顔を伏せる。この人の料理は見た目と香りは良いんだけど、味がその、すごく個性的だ。
本人もその辺は自覚しているみたいで、同じ家に住んでいても食事は別に作る……というのが暗黙のルールになっている。
「冷蔵庫に何かあった気がしますし、適当に食べますよ。それじゃ、少しシャワー浴びてきます」
そう言いながら俺は居間を抜けて、脱衣所へと向かう。
……ちなみに、俺にも鏡子さんと同じ加藤家の血が流れているせいか、料理の腕はからっきしだった。
でも、しろはに料理を教えてもらったり、港でもらってきた魚を捌いてみたりして、必死にその血に抗っている。
最近は魚を焼いても消し炭にはしない程度には上達したし、魚の刺身だって作れるようになってきた。
そういえば、しろはに習いながらイカを捌こうとした時、イカが切られまいと暴れた拍子にスミを吐いて、しろはが全身真っ黒になってしまったこともあったっけ。
「あの時は、本当に悪いことをしたなぁ……」
俺はシャワーを浴びながら、あの時のくろは……いや、しろはの姿を思い出して、つい思い出し笑いをしてしまうのだった。
「えーっと」
シャワーを浴びた後、台所へと向かい、冷蔵庫を開ける。
すると、昨日刺身にして醤油に漬けておいた鯛が目についた。
「今日はこれで鯛茶漬けでも作るかな」
炊飯器からご飯をよそい、良い感じに醤油の染みた鯛の切り身をその上に乗っけて、お茶をかける。そこにワサビと胡麻を添えて完成。
簡単だし、これなら失敗のしようがない。
「それじゃ、いただきます」
……朝とも昼とも言えない微妙な時間だけど、午後からの退院祝いはお腹を空かせておけと言われたし、今くらいの食事がちょうどいいかもしれない。
胡麻とワサビの風味を感じながら、サクサクとお茶漬けをかきこむ。じーさん直伝の料理だけど、なかなかに美味しい。
「……あいてっ」
勢いよく食べていたら、飲み込んだ拍子にのどに痛みが走った。
どうやら、切り身の中に骨が残っていたらしい。うう、喉に刺さってなきゃいいけど。
食事を済ませた後は自分の部屋に戻り、畳の上に腰を下ろす。
漁師の仕事は朝が早い分、昼前には終わる。普段なら、この後蒼に会いに診療所に向かうところだけど……。
「まだ10時半か……」
壁の時計を見てみると、なんとも中途半端な時間だった。
今日は蒼たちも退院の準備で忙しいだろうし、あまり早くに診療所に押しかけても迷惑になりそうだ。
「どうしようかな」
どうやって時間を潰そうか考えていると、畳の上に置かれた一冊のノートが目についた。
確かこのノート、前に良一から借りたやつだ。鳥白島近海に生息する魚の種類や特徴、調理方法に至るまでまとめられた、良一お手製の漁師ノートらしい。
「……よし、時間もあるし、少し勉強しよう」
俺はそう意気込んで、漁師ノートを開く。今朝のしろはの件もあるし、もっと魚について勉強しないと。
「えーっと、メバルは春を告げる魚。その名の通り、目が大きく出っ張っていて、胎生で、冬に仔魚を数万匹生む。赤メバルや黒メバルといった種類があるが、基本的に白身の美味しい魚なので、焼き魚に刺身、煮つけにしても美味で……」
「ぐー……」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「……はっ」
気がつけば、畳が目の前にあった。
「しまった。寝ちゃったか……」
漁師ノートを開いて、速攻で眠ってしまったらしい。
まだ仕事を始めて一ヶ月も経ってないし、夜も明けぬ時間からの仕事に身体が慣れていないみたいだ。
「あいててて」
変な体勢で寝てしまったせいか、身体を起こした拍子に背中が小気味のいい音をたてた。
「仕事で身体が疲れているところにシャワーを浴びて、お腹がいっぱいになったら、そりゃ眠くなるよな……」
人間も動物だし、これは必然の流れだと思う。終業後の四天王スクワットも、疲労感に拍車をかけている気がするけど。
「……あれ、ところで今、何時だろう?」
腹の下になってしまっていた漁師ノートを片付けながら、壁の時計を見る。
……時計の針は、14時ちょうどを指していた。
「し、しまった!」
確か、蒼たちの退院時間は14時だったはずだ。その後の予定もあるし、これはまずい!
俺は部屋を飛び出すと、身支度もそこそこに診療所へ向けて走り出した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
住宅地を全力で駆け抜けて。診療所に到着する。
ちょうど入口の所で、蒼と藍が両親と一緒に先生たちへ挨拶をしているところだった。
今入っていくのも悪いし、俺は少し離れたところで、息を整えながらその様子を見ることにした。
「二人とも、退院おめでとう」
「あなたたち姉妹がいなくなると、この診療所も寂しくなるわねー」
先生に続いて、看護師さんが二人に退院祝いの花束を渡しながら、本当に残念そうに言う。
「「長い間、お世話になりました」」
おのずと、二人の声が揃う。この辺り、やっぱり双子だった。
「またいつでも遊びに来てくれていいからね」
診療所に遊びに行くというのも変な話だけど、その辺は島ならではのおおらかさなんだろうか。
でも考えてみれば、空門家は藍の一件から、診療所の人たちとは十年以上の付き合いがあるわけだし。あれだけ親しげに話をしているのも納得かもしれない。
「……あら、さっそく彼氏さんも来たみたいよ?」
その時、遠巻きに見ていた俺に看護師さんが気付いたらしい。
「ど、どうも……」
見つかった手前、いつまでも離れているのも変だし。俺は挨拶をしながら、近づいていく。
「あ、羽依里、来てくれたのねー」
そんな俺を見て、蒼が笑顔でこっちに走ってきた。
「蒼、そんなに走るなよ。こけたら大変だぞ」
「平気よー。ここ最近は不思議なくらい体力がついてるし、少しくらいは走っても大丈夫なの」
「でも、なんだかんだで心配でさ」
「羽依里ってば、心配性よねー」
この日のために用意したんだろうか。真新しいパステルカラーのワンピースを着て、無垢な笑顔を向けてくれる。
「……蒼ちゃんの体力がついたのは、たぶん私が夜な夜な全身マッサージをしていたからだと思いますよ」
少し遅れて、色違いのワンピースを着た藍もこっちにやってきた。
「え、マッサージ? 藍、そんなことしてたの?」
「はい。私のリハビリも兼ねてましたし、女の子同士ですから特に問題ないと思うんですが。こう、モミモミと」
……ちょっと藍、その怪しい手の動きやめて。
「……羽依里さん、邪な想像してません? そんな顔してますよ」
「き、気のせいだろ」
うん。完全に心を見透かされたみたいだ。ごめんなさい。変な想像してました。
「そ、そんな俺のことよりさ。二人とも、退院おめでとう」
「え? あ、ありがとー」
「ありがとうございます」
春らしい花が詰め込まれた花束を持って、そっくりな笑みを浮かべる。
……それにしても、蒼はもちろんのこと、何年も眠り続けていたはずの藍がこんなに早く退院できるなんて。正直信じられなかった。
もちろん、藍も目覚めてからずっとリハビリをしていたけど、特に蒼が起きてからの頑張りはすごかった気がする。
一度だけその理由を聞いてみたことがあったけど、その時は『私は蒼ちゃんのお姉ちゃんですから』と真剣な顔で言われただけだった。
今になって思うと、それこそ蒼と一緒に退院したい一心だったのかもしれない。
「今日、晴れて良かったわねー」
「そうですね。絶好の退院日和ですよ」
今は妹の隣で涼しい顔をしているけど、俺は改めてこの姉妹の絆の強さを感じていた。
「……あら、羽依里君も来てくれたのね」
「どうも。娘さんたちの退院、おめでとうございます」
その時、先生との話が終わったんだろうか。二人の両親がこっちにやってきた。
「羽依里君、硬い挨拶はなしでいいよ。いつも娘たちが世話になっているからね」
柔らかい笑みを浮かべながら、二人の父親が右手を差し出してきた。
「どうも、樹さん。お久しぶりです」
俺もそれに応えて、しっかりと握手をする。赤毛の短髪に薄い眼鏡をかけた風貌で、見た目はすごく学者っぽいのに、身体は不釣り合いにがっしりしている。
母親の碧さんとは毎日のように顔を合わせているけど、この人と最後に会ったのは、確か正月だった気がする。蝶専門の昆虫学者で、世界中を飛び回っているせいか、めったに鳥白島に戻ってこない。
まだ春だっていうのに、すごく日焼けしているし。またどこか南の国に行っていたんだろうか。
「今度また、ゆっくりと話をさせておくれよ。君とは妻や娘たちを交えて、話したいこともあるしね」
樹さんは反対の手で俺の肩をばしばしと叩きながら、白い歯を見せて笑う。
「は、はぁ……話……?」
これまで築いてきた信頼関係のおかげか、碧さんと樹さんは共に俺が蒼と付き合うことを認めてくれている。それ以外に話すことってなんだろう?
「……それじゃ。せっかくだし、退院祝いの写真を撮ろうか」
疑問に思っていると、樹さんの眼鏡が輝いた。同時に、見たこともないようなゴツいカメラが鞄から取り出された。え、写真?
「さーて、カメラマンモードに入ったわよ。羽依里君、こっちこっち」
俺が状況を飲み込めずにいると、隣に碧さんがやってきて、小さな声でそう教えてくれた。俺はそんな碧さんに連れられて、足早にその場から移動する。
「よーし、それじゃ二人とも、撮るぞー」
直後、無数のフラッシュがたかれる。山の方から飛んできているのか、無数の桜の花びらが周囲に舞っているし、記念写真としては絶好のロケーションだけど……。
撮影する写真の枚数が一枚や二枚なんてもんじゃない。高速連射機能付きのカメラなのか、三脚に固定して、激写していた。
「こ、これが噂に聞くカメラマンモード」
……思い出した。以前一度だけ蒼から聞いたけど、樹さんは娘たちを溺愛していて、事あるごとに写真を撮りたがるんだとか。
「蒼はもう少し身体を右かな。藍はしっかりこっち向いて! ほら、笑ってくれないと!」
「……娘たちの写真を撮るときは、いつもああなのよー。普段海外で娘たちに会えない分、たくさんの写真を残しておきたいんですって」
俺が呆気に取られていると、碧さんが苦笑いを浮かべながら、そう教えてくれた。
「そ、そうなんですね……それはその、なんというか、情熱的ですね」
「……羽依里君、言い繕ってくれなくていいのよ。気が済むまで撮ったら、そのうち落ち着くから」
碧さんは全てを悟ったような表情をしていた。一方、二人の娘も笑顔でフラッシュの雨に耐えている。
「あの人の書斎には、蝶関連の蔵書に負けないくらい、家族写真をまとめたアルバムがあるから。機会があったら、今度書斎を見せてあげるわね」
「そ、そうですね。その時は、ぜひお願いします」
蒼の小さい頃の写真とか興味あるけど、樹さんの書斎を見るのはちょっと恐い気がするけど。
「ほら、今度は母さんも入って入って」
「はいはい。この辺でいいの?」
そんな話をしていると、今度は碧さんが呼ばれて蒼と藍の間に入る。二人の母親だからそれなりの年齢のはずだけど、見た目も似てるせいかすごく若く見える。こうやって並ぶと、まるで三姉妹みたいだ。
「ねぇ。おとーさん、せっかくだし羽依里とも一枚撮って欲しいんだけど」
またしばらくフラッシュを浴びた後、蒼がそう提案してくれる。嬉しいけど、俺もあの光の中に入るのか?
「ああ。構わないよ。入りなさい」
カメラのレンズを覗き込みながら、樹さんがそう言って手招きしてくれる。彼女の頼みを断るわけにもいかず、俺は蒼の隣へ移動する。
「藍、私たちは邪魔になりそうだし、どきましょ?」
「そうですね。お邪魔虫です」
その流れを見て、これはチャンスとばかりに藍と碧さんがそそくさと逃げ出した。
「ほらほら、もっとくっつきなさいな。おかーさんとおとーさんがあなたたちくらいの頃は、もうべったりだったのよー」
樹さんの後ろの安全地帯まで逃げた碧さんは、手ぶりを交えてながら指示を出してくる。なんだろう、この状況。
……その後も入れ代わり立ち代わり、たっぷりと時間をかけて写真撮影をした。
最後の方はタイマーをセットして、しっかりと家族写真を撮っていたし、抜かりはなかった。
「それじゃ、写真ができたら送ってあげるよ。加藤さんのところでいいんだよね?」
「はい。ありがとうございます」
俺は樹さんにお礼を言う。カメラをしまい直した樹さんは、すっかりいつもの感じに戻っていた。
「それで、三人はこれからお友達との集まりがあるんだったわよね。楽しんできて」
「夜はごちそうを用意しておくから、あまり疲れないうちに帰ってくるんだぞ」
「うん、ありがとー」
「晩ごはん、楽しみにしていますね」
二人は持っていた花束を両親に渡しながら、笑顔でお礼を言っていた。
その口ぶりからして、この後の予定は両親も了承してくれているみたいだ。
「すみません。それじゃ少しの間、娘さんたちをお借りします」
「ああ、楽しんできなさい」
「ありがとうございます。それじゃ、いってきます」
見送ってくれる樹さんたちと別れて、俺たちは一路、ため池に向けて歩き出した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
診療所を出発した後、蒼を真ん中に三人で横並びになって住宅地を歩く。
「写真撮りまくるし、へんなおとーさんだったでしょー?」
「いや、何度か会ったこともあるし……あれくらいは許容範囲なんじゃないか?」
以前樹さんと一緒に食事した時、娘二人を溺愛しているのは十分理解したし。まさか、二人の話で徹夜するとは思わなかった。
あの時の熱弁に比べれば、写真撮るくらい……。
「実はおとーさん、今朝ようやく日本に帰ってきたんですが、すっかり元気になった私たちを見て、泣きながら抱きついてきたんです」
藍が呆れ顔でそう言う。まぁ、樹さんは普段家族から一人離れて、海外で生活しているわけだし。感極まったのかもしれない。
「ま、まぁ……それだけ家族を大事に思ってるってことじゃないか?」
「でも、そのままお昼まで、ずーっとですよ?」
「え、マジで?」
「大マジです。ずーっと抱きついてました」
「本当よー。『お前たち、良かったなー! おとーさん、嬉しいぞ―――!』って、お昼過ぎに先生から声をかけるられるまで、ずーっとよ」
「えぇー……」
蒼の声真似が思いのほか似ていたせいか、その情景がありありと思い浮かんだ。なるほど。俺の前だから、樹さんはあれでも抑えていたみたいだ。
「あたしたちの退院日を知って、もっと早く日本に帰りたかったらしいけど、グアテマラの秘境に居たからすぐに帰れなかったんだって」
グアテマラってどこだっけ。コーヒーのイメージしかないんだけど。
「まぁ、昔みたいにビデオ回さなくなっただけ良いですよね」
「本当よねー」
二人は顔を見合わせながら、同じ顔で笑っていた。どうやら、さすがに慣れっこといった様子だ。
「それで二人とも、今からの行き先だけどさ」
「ため池でしょー。のみきから聞いてるわよー」
「少し距離があるからさ、疲れたら言ってくれよ?」
「大丈夫大丈夫。何度も言うけど、本当に体力ついたんだから」
蒼はそう言いながら、腕を曲げて力こぶを作る。まったくできてなかったけど、安心させようということだけは伝わってきた。
「……もし疲れたら、羽依里さんが蒼ちゃんをおんぶしてくれるんですか?」
「「へっ?」」
その様子を見て、口元に手を当てながら藍が悪戯っぽい笑みを浮かべていた。思わず、俺と蒼の声が重なる。
「ああ。どんとこいだ」
俺は迷わずそう返事をしていた。蒼なら何度もおぶった経験があるし、仕事柄、体力だってついてる。
「……しかと聞きましたよ。蒼ちゃん、やっぱり愛されていますね」
「うう、それはそれで恥ずかしいんだけど……」
自分が背負われている場面を想像したんだろうか。蒼が顔を真っ赤にして視線を泳がせる。
「……あれ? それだと、藍が疲れちゃった場合はどうするの?」
「え?」
そう言われた藍は虚を突かれた感じだった。一瞬だけ俺の方を見て、あからさまに顔をしかめた。
「……そうですね。そうなった場合、蒼ちゃんにおんぶしてもらいたいです」
「え、あたし?」
「そうです。そしてその蒼ちゃんを、羽依里さんがおんぶするんです。男の子ですし、できますよね?」
「え、二人同時!? それはいくらなんでも……」
左右から期待に満ちた視線を送られるけど、さすがにそこまでの体力は……。
「あ、ししょーだ!」
「ししょー!」
そんな時、子供たちの声が飛んできた。見ると、数人の男の子たちが声を弾ませながら駆け寄ってくる。いつも駄菓子屋に鑑定勝負に来ていた、あの子たちだ。
「あ、皆、大きくなったわねー」
その子供たちに、蒼は笑顔で手を振る。そう言えば、あの子たちと会うのも随分久しぶりな気がする。
「……あれ、ししょーが二人!?」
近くまでやって来て、初めて藍の姿に気づいたのか、そのうちの一人が驚きの声をあげる。
言われてみれば、退院当日ということもあって蒼は髪を結ってない。藍の髪も同じストレートだし、今日の二人が並ぶと見分けがつかないかもしれない。
……その時、俺の中にちょっとした悪戯心が浮かんだ。
「ああ、お前たちの師匠は改造手術を受けて、二人になったんだぞ」
「改造手術!?」
「すげー! 御免ライダーみたいだ!」
「こっちが蒼ちゃん2号だ」
俺はそう言いながら、藍の方を指し示す。
「は? ちょっと、何変な嘘教えてるんですか。皆さん、違いますからね!」
藍は子供たちの方に走っていって、必死に誤解を解こうとしていた。その姿が何故か微笑ましくて、俺と蒼は笑顔でその様子をしばらく眺めていた。
「……だから、改造手術なんて受けてないです。目からビームも出ません。ロケットパンチもです」
藍は子供たちからの質問に丁寧に答えていた。そして同時に、自分のことを子供たちに話して聞かせていた。
「……羽依里、ありがと」
「え、何が?」
「さっきのアレ、藍が子供たちと打ち解けるきっかけを作ってくれたんでしょー?」
「え? ああ、まぁな」
本当はちょっとした悪戯心だったんだけど、まぁ、結果オーライと言うやつだろう。
「……羽依里さんが変なウソつくから、誤解されちゃったじゃないですか。まったく、業腹ですね」
しばらくして、説明が終わったらしい藍が子供たちを引き連れてこっちに戻ってきた。心なしか、疲れているように見える。
「ししょー2号、ゴウハラ……ってなんだ?」
「え? ああ……すごく腹が立つという意味です。この羽依里さんはウソつきの上、甲斐性なしですからね」
藍が俺を指さしながら、そう言う。ちょっと待って。何か増えてる。
「にーちゃん、カイショーナシなのか?」
「カイショーナシって、つよいのか!?」
「こらっ、子供に変な嘘教えるんじゃない! 一応、甲斐性はあるつもりだぞ!」
「カイショーナシ! カイショーナシ!」
やがて止める間もなく、甲斐性なしの大合唱が始まった。
「うぅ、心に刺さる……やめてくれ……」
藍に対しての軽い悪戯心だったのに。いつの間にか、逆に藍の策にはまってしまった気がする。
「あははー。藍のほうが一枚上手みたいねー」
「うう……べ、別に悔しくなんかないし」
「本当ですか? 涙目になっている気がしますが」
「き、気のせいだろ」
「カイショーナシのにーちゃんは、二人のししょーの尻にしかれてるのか?」
「そ、そんなことないから! ほら、これ以上のみきを待たせても悪いし、二人とも、そろそろ行こう!」
いつしか藍に完全に主導権を握られていた。このままだと状況は悪くなる一方だし、早々に退散しよう。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
逃げるように住宅地を通り過ぎて、やがて山道に差し掛かる。
「ポーン!」
すると待っていたかのように、近くの草むらからイナリが顔を出した。
「おお、イナリも待っていてくれたのか」
「ポンポーン!」
イナリは二人の退院を喜ぶように、蒼たちの周囲を飛び跳ねる。
「イナリー、久しぶりねー。またちょっと大きくなったんじゃない?」
蒼がそう言いながら、イナリの頭を撫でる。言われてみれば、イナリの身体はここ一年でだいぶ大きくなった気がする。
「これからは、いつでも会えるわよー?」
「ポン!」
嬉しそうにもう一度跳ねる。良かったな、イナリ。
「それではイナリちゃん、甲斐性なしの羽依里さんに代わって、道案内よろしくお願いしますね」
あ、そのネタまだ引っ張ってたんだ。
「ポーン!」
藍の言葉を受けて、イナリが先頭に立って歩き出した。俺たちはゆっくりとその後についていく。
「……そういえばさ、羽依里って料理できるの?」
甲斐性うんぬんの話から、いつの間にか料理の腕前の話題になっていた。
「い、一応できるぞ。刺身とか、簡単なものだけど」
「漁師の仕事をしてるって話ですし、それくらいできて当然ですよね」
そういう藍は……と口に出しかけて、やめた。さすがに10年寝たきりだった藍に聞くのは野暮だろうし。
「男の料理なんて、どこもそんなもんだろ」
「言われてみれば、おとーさんの料理も似たようなものかもねー」
「え、蒼のおとーさんって料理するの」
「するわよー。結構ワイルドだけど」
「ワイルド?」
「野生動物を捕まえて料理するの。島で獲れた猪の丸焼きとかね」
「ポ、ポン?」
「そ、それって料理なのか?」
「そーなんじゃないの? 見た目の割に、美味しかった記憶があるけど」
そういえば、樹さんは何日もジャングルに籠って蝶を探す事もあるって言っていたし。当然、食材も現地調達していたのかもしれない。
そう考えると、結構生活力がある人なのかもしれないな……。
「ポ、ポン……ポンポン……」
そんな話をしていると、俺たちの前を行くイナリの背中が心なしか震えている気がした。
たぶん、野生動物を食べるとかそういう話をしているから、本能的に身の危険を感じたのかな。
「……おお、来たか」
それから少し歩いて、ため池に辿り着いた。するとそこには、のみきの姿があった。
「二人とも、退院早々遠出させてすまないな」
「別にいいわよー。これくらい、いい運動だしねー」
「それでみきちゃん、わざわざこんな所まで呼び出して、どうしたんですか」
「二人の退院祝いを兼ねて、皆でお花見をしようと思ってな」
「え、お花見?」
「ああ。実はこの先に、島一番のお花見スポットがあるんだ。足元に気をつけてついて来てくれ」
「わかった」
俺たちは笑顔ののみきに案内されて、ため池に沿って細い道を進んでいく。
……ちなみに、のみきは学校を卒業した後、そのまま役所に就職した。
今までやっていたことの延長みたいなものだと本人は言っていたけど、明らかに寄合に参加する回数も増えているし、目に見えて忙しそうだった。
そんな仕事の合間を縫って、今回のようなイベントを開催してくれるんだから、本当にありがたかった。
……一方で、隠れて良一と付き合ってるっていう噂があったりするんだけど。本当なんだろうか。
「よし、到着したぞ」
しばらく歩くと、いくつもの桜の木が生えた、こじんまりとした広場に辿り着いた。どの枝も満開の花をつけている。
「わあ……」
「これはすごいですね」
「本当だな。これって、自然に生えたのか」
「昔の人が植えたらしいぜ。三人とも、よく来たな」
「お待ちしていました!」
その見事な桜に気を取られていると、良一と紬の声がした。
声のする方を見てみると、桜の木の下にビニールシートが敷かれていて、そこに先の二人に加え、天善としろはが座っていた。
「えっと、今日はお招きありがとねー」
「ほら、挨拶なんていいから、二人は特等席に座ってくれ。今日は主役なんだぞ」
笑顔ののみきに促されて、空門姉妹は一番奥、大きな重箱が置かれた席へと案内された。
俺はそんな二人から少し離れた、良一の隣に座る。
座ってから桜の木を見上げてみると、風が吹くたびにその花びらが舞い散って、なかなかに壮観だった。
「島の中にこんな場所があったんだな」
「どうだ。驚いたか」
隣の良一が胸を張る。どうやら彼は花見の件を全部知ったうえで、黙っていたらしい。
「良一、勝ち誇った顔をしていないで、早く飲み物を配れ。始められないだろう」
「わ、わかってるよ!」
のみきにそう言われ、飲み物が俺たちに配られた。どうやら、あらかじめ用意しておいてくれたらしい。
「……それでは、飲み物は行き渡ったか? ただ今からお花見を兼ねた、藍と藍の退院祝いを始める。二人とも、退院おめでとう」
「「おめでとーーー!」」
のみきの音頭に続いて、各々が紙コップを掲げる。
「……はい。二人にはお祝いだよ」
乾杯が終わると、しろはが重箱の蓋を開ける。空門姉妹の前に置かれた重箱の中には、鯛の尾頭付きが鎮座していた。
「今朝、羽依里が獲ってきてくれた鯛だよ。この時期の真鯛は桜鯛って呼ばれてね。一番おいしいの」
確かに朝、しろはが鯛を買っていたけど。まさか、このためだったのか。
「……あ、おいしー」
「……さすがしろはちゃんです。絶品ですね」
まずは主賓二人が鯛を口にする。どちらも満足そうな笑みを浮かべていた。
「……それじゃ、皆もどうぞ」
でも、この鯛は二人で食べるには大きすぎるので、しろはによって取り分けられてから、俺たちにも振る舞われた。
「それじゃ、いただきます」
一口食べると、柔らかい身が口の中でほどける。ほどよい塩味があって、皮はパリパリで香ばしい。藍の言う通り、確かに絶品だった。
「うん。これは美味しい。しろは、ありがとう」
「う、うん……他にも、色々おかずがあるから。食べて」
率直に感想を伝えると、しろはは何故か顔を赤らめながら、別の重箱を勧めてきた。中には鯛の照り焼きや鯛めしの他、から揚げやポテトサラダといった料理が見える。
「この料理、全部しろはが作ったのか?」
魚料理だけじゃなく、すごくバリエーション豊かだった。やっぱり食堂で働いているだけあって、料理が得意なんだろうか。
「私だけじゃなくて、紬にも手伝ってもらったの」
「そっか、紬もありがとうな」
「いえ、わたしは大したことはしていないので!」
しろはの隣に座る紬にお礼を言うと、その小さな身体をさらに小さくしていた。そこまで謙遜しなくてもいいのに。
この子……紬は灯台で寝泊まりをしている女の子で、いつからか鳥白島に住んでいるらしい。
親友の静久が関西の大学へ進学してしまい、寂しそうにしていた時期もあったけど、最近は島の皆と一緒に駄菓子屋にいる姿を見かけるし、少しずつ元気になっているみたいだ。
むしろ、廃灯台に住んでいるという環境からか、一部の子供たちからは灯台の女神として崇められていたりする。
果ては、あのツインテールで空を飛んでいるところを見たとかいう噂まで流れる始末だ。ここまでくると、一種の都市伝説みたいになっている気がするけど。
「むぎゅ? タカハラさん、どしたですか?」
「え、いや、なんでもないよ」
俺がその顔をじっと見ているのに気づいたらしく、紬が不思議そうに首をかしげていた。
「鷹原、そのポテトサラダは紬が作ったらしい。ぜひ食べてやってくれ」
そんなことを考えていると、のみきにそう勧められた。
「わかった。紬、いただくよ」
俺は紙皿にポテトサラダをよそうと、一口食べてみる。
「……あれ? このサラダの中に細かく刻んで混ぜ込まれているのは……?」
「はい! パリングルスです! 隠し味なんですよ!」
直後、紬がそう教えてくれた。正直、隠れてなかった。思いっきり主張してる。
「まぁ、おいしいけど」
「そですよね! コッペパンに挟めば、これまたゼッピンです!」
そう言って笑顔でどこからかコッペパンを取り出していたけど、それはさすがに遠慮しておいた。
「……そういえば、今日は静久は来れなかったんだね」
「そですね。学年が上がると、さすがにリシューカモクが多いそうです。でも、ゴールデンウィークには来てくれていると言っていたので、楽しみに待ちます!」
なるほど、どうやら静久は忙しい中でも時間を見て、紬に会いに来てくれるみたいだ。
……そういえば最近、その静久と天善が文通をしているとの噂もあるんだけど、真偽の程はどうなんだろうか。
郵便業務も島の役所が担当しているので、それとなくのみきに聞いてみたけど、個人のプライベートに関する事だと言われて、何も教えてもらえなかった。
「……おお、これは美味いな」
当の本人はそんなことなどつゆ知らず、良一の隣でポテトサラダをほおばっていた。
ちなみに、天善は学校を卒業後、家業の修理屋を継いでいる。
本人はまだ修行中だと言うけど、先日は魚船の無線機を修理しに来ていたし、着実に腕を上げているようだった。
「……むぅ」
なんだろう。しろはや紬と会話を始めてから、藍からの視線が痛いような気がする。
「……そうです。蒼ちゃんも今度、お料理しましょう」
「へっ? 料理?」
「そうです。男性の心を掴むのは料理だと何かの本で読みました。蒼ちゃんも、しろはちゃんたちに負けてられませんよ」
「あんた、病室で何の本読んでるのよ……」
「蒼ちゃんのためを思って。日々勉強ですよ」
「それは嬉しいんだけど、変に暴走しないでよー……?」
「大丈夫です。それでですね。羽依里さんの好きな料理を……ごにょごにょ……」
……あの二人、さっきから何の話をしてるんだろう。俺は疑問に思いながらも、唐揚げを口に運ぶ。うん、醤油が染みてて、うまい。
そして、鳥の唐揚げを食べて思い出した。今日は来れていないけど、ふらっと島にやってくる鴎という女の子がいる。
彼女は母親の仕事を手伝っているらしくて、世間が大型連休に入ると島にやって来て、役所と協力して何かしら大掛かりなイベントを企画してくれる。
「あいつ、またゴールデンウィークくらいになったら、やってきそうな気がするな。それこそ、まるで渡り鳥みたいに」
「……あの、羽依里さん。せっかくですし、私の代わりに蒼ちゃんの隣に来ますか?」
そんな風に鴎のことを思い出していたら、藍からそう手招きされた。
「いや、藍も今日は主役なんだから、さすがにそれは……」
「私は構わないですのに。相変わらず意気地なしですね……良一ちゃん! 天善ちゃん!」
俺が尻込みしていると、藍は男子二人の名を叫ぶ。
「おおーっと! 押すな天善!」
「すまないな! サーー!」
「え、ちょっと。二人とも何やって……うわあぁぁーーー!?」
すると、良一たちは何を思ったのか、隣の俺をぐいぐいと押していく。気がつけば、俺は半ば強引に蒼の隣へと移動させられてしまった。
「あなたが隣にいた方が、蒼ちゃんは喜ぶに決まってるじゃないですか。まったく……」
「え? 藍、何か言った?」
「なんでもないですよ」
思わず聞き返したけど、藍はそうはぐらかしながら、しろはたちの方に行ってしまった。
「もー、皆、やり方が強引よねー」
「そ、そうだな」
結果的に隣同士になった蒼が、苦笑しながらそう言う。
「……そ、そういえばさ。羽依里の好きなおかずって何?」
「え、おかず?」
唐突にどうしたんだろう。さっき、藍とそんな話していたような気もするけど。
「もしかして今度、何か作ってくれるとか?」
「う、うん……。か、彼女の手料理とか、お、男の夢、でしょ……?」
顔が真っ赤だし、今の台詞、絶対藍に言わされたやつだな。
「……蒼が作ってくれたものなら、何でも喜んで食べるけど」
「そうじゃなくて……羽依里が好きなものを作りたいのよ」
「そ、そうだなぁ」
俺は思わず鼻を掻きながら、視線を外す。蒼の上目遣いやばい。直視できない。
「好きな料理……えっと、に、肉じゃが、かな……?」
俺は少し悩んで、そう答える。
「あー、家庭の味の定番ねー」
その答えを聞いて、蒼が笑顔になる。
そういえば以前、碧さんから蒼の料理は絶品だと聞いたことがあるし、腕に覚えがあるのかもしれない。
「……でも、肉じゃが……うーん。おかーさん、教えてくれるかしら……」
……直後、蒼は顔を背けて、何やら小さな声で何か言っていった。あれ? 腕に覚えがあるんじゃないの?
「……さて、花見と言えばあれだな」
蒼の呟きの真意を確かめようとした時、そう言って良一が立ち上がった。
「え、あれって?」
「……かくし芸大会だ」
顎に手を当て、神妙な顔つきでそう言った直後……。
「んんーーー! パーーーージ!」
良一はためらいなく、脱いだ。
「ちょっと待て! かくし芸も何も、その芸は普段から隠してないだろ!」
「羽依里、細かいことは気にするな! さあ、天善もやるぞ!」
「ふっ、仕方ないな」
何が仕方ないのかわからないけど、天善もラケットを手に立ち上がる。
「いやだから、天善ちゃんも隠してないでしょう!?」
まさか、藍がツッコんでいた。気持ちはわかるけど。
「まぁそう目くじら立てず、藍も続きを見てくれ」
「いくぜ、天善!」
「ああ!」
その場の勢いなのか、なぜか天善も上着を脱いで、上半身裸になる。
そして二人はラケットとピンポン玉、そして自分たちの身体を使って、曲芸を始めた。いや、すごい動きなんだけど。まるでピンポン玉が生きているみたいだ。
「って、そんなことしたら二人まとめてのみきから蜂の巣に……あれ?」
反射的にのみきの方を見るけど、のみきは笑顔で腰を据えたまま、動いていなかった。
「のみき、撃たないのか?」
「……まぁ、この場所ならいくら騒いでも人の迷惑にならないし、今日くらいは大目に見よう。あの二人も、蒼たちが退院して嬉しいんだ」
「え?」
のみきに言われて、俺は思わず皆の顔を見渡す。
「相変わらず、男子は元気が良いわねー」
「……しょうがないですね。男の子たちは浮き球と思いましょう」
「10年経っても、俺たちの扱いは相変わらず酷いよな」
「ああ、カエルと同じだとは……」
空門姉妹にそう苦笑されつつも、一層楽しそうに曲芸を続ける良一と天善。
「俺たちが終わったら、次はしろはと紬の番だからな! かくし芸、用意しとけよ!」
「そですね! シロハさん、ここはカクゴを決めましょう!」
「えぇっ、そんなの聞いてないし!」
唐突に話を振られて、やる気を出す紬と、動揺するしろは。
反応こそ様々だったけど、皆は揃って笑顔だった。
ここにいる皆が二人の退院を喜んでくれている。この場に居ると、それを強く感じることができた。
「……皆、楽しそうだな」
「そうねー。これで、ようやく全員揃ったことになるんだし」
そうか。良一たち島の幼馴染にとって、藍も蒼も、両方揃ってこそなんだ。
今、目の前のこの光景こそ、皆が何年も待ち望んでいた光景。島の本来の姿というわけだ。
「……蒼、良かったな」
「……羽依里のおかげよ」
「俺は大したことしてないぞ。蒼の努力の結果だ」
「あたしだけじゃ、何年かかっても無理だったもの。だから、羽依里のおかげ」
「じゃ、じゃあ、二人の共同作業の結果ということで……」
「……へっ?」
言ってから、気がついた。これって思いっきり別の意味に受け取られそうだ。
「い、いや。なんでもないよ。それより手、繋いでいいかな」
「もう。いちいち許可取らなくてもいいわよー」
「……それじゃ、遠慮なく」
俺は蒼とそっと手をつないで、時折花びらを舞わせる満開の桜を見上げる。
来年もこの先も、同じように皆とこの桜を見ることができるように願いながら。
第二話・あとがき
皆さん、おはこんばんちわ。トミー@サマポケです。
蒼アフター第二話。今回は段階的に時間を進め、二人の退院とお花見がメインの回となりました。
実際に半年と少しのリハビリで退院できるかわかりませんが、そこはご都合主義というか、愛の力ということでお願いします。
そして、今回初登場したのが藍と蒼の父親である空門樹(いつき)さんです。
蒼の父親については本編中では藍の過去のシーンくらいにしか登場せず、名前もないので母親と同様に半オリジナルとして名前をつけさせてもらいました。
空門で樹と言えば御神木の迷い橘が連想されますが、そのイメージでキャラを作りました。昆虫学者として海外を飛び回っている関係上、碧さんほどの出番はないと思いますが、登場の際はよろしくお願いしますw
余談になりますが、サマポケのヒロインで父親が健在なのって空門姉妹だけなんですよね。だからこそ、空門一家は仲のいい家族って感じで書きました。多少、こじらせているかもしれませんが。
さて、それ以外では羽依里君や島の皆の生活について書かせてもらいました。
島での生活のために漁師になった羽依里君と良一、家業を継いだ天善、親戚の食堂を手伝うしろは、役所に勤めるのみき、島を離れた静久……それぞれの『アフター』も感じていただけたら嬉しいです。
一方、紬や鴎といった一部のキャラは都合により設定が違っていますが、そこは蒼アフターということでご了承くださいw
言い方はアレですが、これでようやく話の土台作り完了といった感じです。次回は4月下旬の話になる予定です。
では、今回のあとがきはこの辺りで。
一言感想や評価など頂けましたら、次話執筆への活力になりますので、よろしくお願いします。