……本格的に雨のシーズンとなった、6月下旬。
数日前から降り続く雨のせいで海が濁っていても、じーさんの船は相変わらず大漁だった。
たくさんのアジやアコウで生け簀をいっぱいにして、俺たちは意気揚々と港に向かって船を走らせていた。
ちなみに良一の漁師ノートによると、アコウというのはキジハタの仲間らしく、この辺りで獲れる魚の中ではなかなかの高級魚らしい。
「……自分の船が欲しいだと? 多少船を動かせるようになったからと、調子に乗るんじゃない」
船の縁にもたれながら、灰色の空と海の狭間に浮かぶ鳥白島を眺めていると、そんな感じに良一がじーさんに怒られていた。
「船を動かせるだけが漁師ではない。お前は、まだまだ覚えることがたくさんある」
島の漁師は自分の船を持ってこそ一人前と認められるらしいし、良一の気持ちも分かるけど、じーさんの言い分も理解できる。
目標を持つことは大事だと思うけど。正直、俺たちはまだまだ駆け出しだし。もっと修業しないと。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「……なぁ羽依里、お前が自分の船を持つならどんな名前にする?」
鳥白島に戻り、港で魚の仕分け作業をしていると、良一が含みのある笑顔でそう聞いてきた。
「まだその話をしてるのか。じーさんに聞かれたら、また怒られるぞ?」
「今は業者の方と話をしているし、大丈夫だって。で、どんな名前にするんだ」
「そうだなぁ……」
……良一にしつこく話を振られて、俺は少し考えてみる。
船の名前は女性をイメージしてつける場合が多いって言うし、やっぱり『蒼』の文字は入れたいよな。
蒼凪丸とかいいんじゃないかな。凪は海が穏やかな状況を指すし、漁をする上では重要な要素だ。
「ちなみにな、俺はやっぱりのみきま……ぶっ!?」
嬉しそうにそこまで言って、良一がもんどりうって倒れた。
俺は反射的に鉄塔へ視線を送る。雨に霞む鉄塔の上に、黄色い合羽を着たのみきが水鉄砲を構えて立っていた。もしかしなくても、あそこから狙撃したのか。
「う、うう……なんで……脱いでねーのに撃たれるんだ……」
「おー? 三谷のせがれ、どうしたー?」
突然倒れた良一を、漁港にいた人たちが不思議そうに見ていた。まさか、あれだけ離れた鉄塔から狙撃されたなんて誰も思わないみたいだ。
俺はそんな良一に合掌した後、作業に戻ることにした。
……ちなみに、しろはのじーさんの船の名前は『白波丸』だ。最初『しろはまる』って読んだら『しらなみまる』だと訂正された。
さすがに孫娘の名前を付けたりしないよな。たぶん。
「……え、私がどうかしたの?」
そんなことを考えながら、魚の入った籠を運んでいると背後から声がした。振り返ってみると雨ガッパを着たしろはが立っていた。
「いや、なんでもないよ。しろはまる」
「……?」
慌てて誤魔化すと、しろはは首をかしげていた。どうも、考えが口から洩れていたみたいだ。危ない危ない。
「それで、今日はどんな魚が獲れたの?」
「ああ、アジとアコウだよ」
そして、いつものやり取りが始まる。
「じゃあ、アジを5匹と、アコウを1匹貰おうかな」
「はいよ。いつも贔屓にしてくれてありがとうな」
「だから、贔屓じゃないし。頑張ってるから、応援したいだけ」
それを贔屓っていうんじゃなかったっけ。
「ところで、アジはわかるんだけど、このアコウってどうやって食べたらいいんだ?」
「今が旬だし、お刺身が一番だよ。酒蒸しにもできるし、軽く熱湯をかけてポン酢と和えれば、皮も美味しく食べられるよ」
「へぇ、なんでもいけるんだな」
「うん。高級魚だからね」
しろはは珍しく興奮気味に話していた。確かに市場でも、結構高値で取引されていた気がする。
「……それじゃ、またよろしくね」
魚を受け取って港から去っていくしろはを見送った後も、俺は作業を続ける。
その間にも、段々と雨脚が強くなってきた。漁港は立派な屋根があるから安心していたけど、加藤家を出た時は雨が降ってなかったのもあって、実は傘を持っていない。帰り道、どうしよう。
「……おっと、危ない!」
そんなことを考えていると、強い風が吹いた。目の前に置かれたバケツが飛ばされそうになって、俺は慌てて手で押さえる。
「おーい鷹原、彼女が迎えが来てるぞー」
「え、迎え?」
……そんな折、近くにいた漁師仲間がそう言って港の入り口を指差す。
その先を見てみると、雨で灰色に霞んだ港の入り口に緑の傘を差した女性が立っていた。まさか、蒼が迎えに来てくれたのか?
「こりゃ、今日の四天王スクワットは鷹原抜きだな」
「空門の巫女さんを怒らせたら、商売あがったりだ。少し早いが、今日は上がれよ。鳴瀬翁には俺達が言っておくからよ」
「あ、ありがとうございます! お疲れさまでした!」
嬉しいやら恥ずかしいやら。俺は今日の報酬を受け取るのもそこそこに、皆に冷やかされる前に退散することにした。
「……蒼、わざわざ悪いな」
「……蒼ちゃんだと思いましたか? 残念でした。私ですよ」
「あれっ?」
喜び勇んで近づいてみれば、そこにいたのは藍だった。
「……悪い。藍だったのか」
そういえばそうか。今日は土曜日。蒼はお昼過ぎまでは学校に行っているはずだ。
「でも、なんで藍がここに? まさか、迎えに来てくれたのか?」
「そういうわけじゃないんですけど……ちょっとうちまで来てもらえます?」
「うちって、空門の家?」
「そうです。ちょっとわけありでして」
……なんだろう。心なしか、藍の表情が曇っている気がする。
「別にいいけど……何かあったのか?」
「ついてから話します。それじゃ、行きましょう」
藍は俺の質問に答えることなく、くるりと向きを変えて雨の中を歩き出した。俺もそれに続いて、雨の中を歩きだす。
「……ところでさ、傘もう一本持ってない?」
「は? まさか、この雨の中傘を持ってこなかったんですか?」
「朝家を出た時は雨が降ってなかったからさ。ここまで強くなるなんて思ってなかったし」
「アホですね。今は梅雨ですよ? いつでも雨が降ると思って用意しておかないと駄目ですよ」
藍はため息交じりにそう言うけど、足を止める気配はない。仕方ないので、俺も雨に打たれながらその後に続く。
海仕事で既に海水を浴びまくっているし、雨に濡れても今更なんだけど。なんだかすごく惨めな気分だった。
「……ところでさ、藍」
「なんです?」
……そんな中、俺はどうしても気になることがあった。
「今藍が差してる傘さ、それって俺のじゃないか?」
「ぎくっ」
図星だったのか、思いっきり心の声が漏れていた。でも、実際に『ぎくっ』って言うの、初めて聞いたかも。
「な、何を言っているんですか? 証拠でもあるんです?」
「だって、明らかに傘のサイズが藍に合ってないし……なによりネームバンドのところに『加藤』って書いてるしさ」
ちょうど俺の目の前をブラブラしている布の部分に、白いマジックでそう書かれていた。これは先日、俺が空門家に忘れていった傘に間違いない。
「あー……えっと、そのー」
「どういうことか、理由を説明してもらおうか」
確信を得た俺は、そう強めに出る。それにしても、困った時の反応が蒼そっくりなんだけど。さすが双子だ。
「……じ、実はその、家を出た時はちゃんと傘を二本持っていたのですが」
「うんうん」
俺が問い詰めると、藍は観念したのか、渋々とこれまでのいきさつを話し始めた。
「住宅地の中を港に向かって歩いていたら、急に強い風が吹いてですね……私の持っていた傘は山の方に飛んで行ってしまって」
あー。確かに今日は時々強い風が吹いてるもんな。
「……それでやむなく、俺の傘を差して歩いてきたと」
「そうです。でも、バレてしまっては仕方ありません。どうぞ、この傘は羽依里さんが使ってください」
藍はそう言って、申し訳なさそうに傘を俺の方に差し出してきた。
「でもそれだと、藍が雨に濡れちゃうんだけど」
「私は構わないです」
「いや、俺が構うし」
男の俺が傘を差して、その隣で女の子がずぶ濡れになって歩いてるなんて、それこそ誰かに見られたら悪い噂が立ってしまう。
「……よし。それなら苦肉の策ということで、こうしよう」
俺は傘を受け取って、そのまま藍の隣にくっつくようにして並び歩く。いわゆる、相合傘というやつだ。
「は? ちょっと、なんのつもりですか。私は濡れても構わないと言ったでしょう?」
俺の行動が予想外だったのか、藍が飛びのきながら、素っ頓狂な声をあげていた。
「だって、こうすればお互いに濡れずに済むし……それに、もし藍が雨に打たれて風邪でもひいたりしたら、蒼も悲しむだろうしさ」
「むむむ……わ、わかりました。今回だけですよ。あくまで、蒼ちゃんのためですからね」
どうにも腑に落ちない様子だったけど、蒼の名前を出したら納得してくれたみたいだ。藍はおずおずと傘の中に入ってくる。
「あ、藍との相合傘ですよ。嬉しいですか?」
強がるようにそう言うけど、藍の目は明らかに泳いでいた。
「うまいこと言ったつもりでいるだろ」
「……だって、こうでも言わないと恥ずかしすぎるじゃないですか。誰かに見られたら、あらぬ誤解を受けそうですし」
「大丈夫。俺は蒼一筋だから」
「奇遇ですね。私も蒼ちゃん一筋ですよ」
そんな話をしたらお互いに気が楽になったのか、俺たちは少しだけ肩の力を抜いて、再び歩き出したのだった。
……藍との相合傘というまさかの体験をしつつ、俺は空門家へ向かって歩いていた。お互いにどこか気恥ずかしさがあるのか、そろって無言だった。
そろそろ住宅地に差し掛かろうとしているけど、これだけ激しい雨が降っているせいか外を歩いている人は皆無だった。おかげで、二人で歩いているところを見られる可能性が低いのは救いだけど。
「……そういえばこの間、しろはちゃんが本を貸してくれました」
「え、本?」
そんな状況で沈黙が続くのが嫌だったんだろう。藍がそう話を振ってきた。
「はい。先日の誕生日プレゼントのお返しだとかで。漫画の本でしたけど」
「……タイトルが気になる」
「確か、祐一☆白書ですよ。面白かったです」
あ、漫画は漫画でも、少年漫画なんだ。
「れいだーん?」
「それです。れいだーん」
俺が空いてる手で指鉄砲を作ると、藍もそれにつられて指鉄砲を作っていた。
「……何やらせるんですか」
……そこで顔を赤くしながら睨まないで。藍も楽しそうにやってたくせに。
「それと一緒に貸してくれた、るろうに謙吾も面白かったですよ」
「ああ、真人との勝負が最高だったろ」
「そうですね。でもあのシーンは……」
それからしばらく、藍と漫画の話で盛り上がった。
藍曰く、眠っている間にも蒼が本を読んでくれたらしいけど、それは少女漫画が主で、しろはから借りた少年漫画は新鮮だったらしい。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
……しばらくして、空門家に到着する。
「ところで藍、そろそろ俺の連れてきた理由を話して欲しいんだけど」
「それはですね。あれです」
そう聞くと、藍は玄関前で傘の水滴を払ってから、近くの軒下を指し示す。
「どれ……?」
その細い指の先を追うように視線を動かすと、玄関のすぐ上に見慣れない物体があった。
「うわ、ハチの巣だ!?」
俺はつい叫んで、思わず玄関扉に手をかける。
「ちょっと。なに勝手に入ろうとしてるんですか。羽依里さんには、今からあの巣を駆除してもらいたいんです」
「え、なんで俺? 業者に頼んだらいいんじゃ」
「それだと、お金かかるじゃないですか。羽依里さん、以前バイトでハチの巣の駆除をしたことがあると自慢げに話していましたよね?」
……そう言えば、まだ蒼が眠っていた頃にそんなバイトの体験談を話した記憶がある。あの時期は蒼に少しでも面白い話をしてやりたくて、変わったバイトばかりやっていたわけだけど。
でも、あの時は業者さんを少し手伝っただけだし。ほとんど素人の俺がハチの巣の駆除を試みるなんて、危険この上ないと思う。
「樹さんとか、こういうの得意そうだけど」
「おとーさんは朝から山に出かけてるわねー。この時期にしかいない珍しい蝶がいるとかで、いつ帰るかわからないのよー」
思わずそう代替案を出すと、玄関近くの窓から蒼がそう教えてくれた。えぇ。樹さん、この土砂降りの中、山に行ってるの。
「……あれ? ところで蒼、学校はどうしたんだ?」
至って自然に話していたけど、なんで蒼が家にいるんだろう。土曜日とはいえ、今日は学校のはずなのに。
「あー……えーっと、実はねー」
蒼は網戸の向こうで気まずそうな表情をしていた。見慣れた制服は着ているし、学校に行く用意はしていたみたいだけど。
「実は今日、蒼ちゃんには学校を休んでもらいました。玄関先にハチの巣があるんですし、危険でしょう?」
言い淀む蒼の代わりに、藍がそう答えた。確かに危険かもしれないけど。
「ああ、だから蒼は網戸の向こうにいるわけか」
「そうなのよー。助けを呼んでくるから、網戸を閉めて絶対に家から出ないでくださいって藍に言われてね。大袈裟よねー」
「大袈裟なものですか。羽依里さん、もし蒼ちゃんがハチに刺されて、かわいい顔に跡が残ったりしたらどうします?」
「たぶん、俺はそのハチを絶対許せない。のみきからハイドログラディエーター改を借りてきて、全力でハチの巣をハチの巣にすると思う」
「らしいですよ。蒼ちゃん、愛されていますね」
「そ、そう……? あたしのために、そこまでしてくれるんだ……えへへ……」
言葉のあやだったけど、蒼は嬉しそうに笑っていた。うあ、あの笑顔は反則だ。
「でも確かに、小さいハチでも危ないって言うしな。刺されてアナフィラキシーショックを起こしたりしたら大変だ」
「ア、アナ、フィラ……ちょっと羽依里、朝から何言ってんのよ!?」
あー、この反応もなんか久しぶりな気がする。相変わらずのピンクで安心した。
「というわけで羽依里さん、ハチの巣の駆除をお願いします。蒼ちゃんに良い所を見せるチャンスですよ」
藍はそう言いながら玄関扉を開け、靴箱の上に置いてあったらしいカンチョールを渡してくれた。
「え、これでなんとかするの?」
「そうです。このままだと蒼ちゃん、一生家から出られませんよ!」
目の前まで来て凄まれるけど、俺の手にあるのはごく普通の殺虫剤だ。さすがに心許ない。
「蒼、この家に防護服とかないのか」
「オーバーねぇ」
そう言って笑う。網戸の向こうの安全圏から言われても。
「でもさ、駆除を始める前に藍も家の中に入った方が良いんじゃないか? 藍が刺されても、蒼は悲しむと思うけど」
「わ、私は良いんですよ。蒼ちゃんパワーで守られてますから。ほら、気にせず始めてください」
「そう言うなら、いいけどさ……」
まぁ、こういうのは男の仕事だし。何より、蒼が頼りにしてくれてるんだ。頑張らないと。
カンチョールの決して広くはない射程圏内にハチの巣を入れるため、俺はじりじりとその距離を詰めていく。
そんな俺の動きを察したのか、見張りのハチ達が心なしか慌ただしくなってきた。俺は先に攻撃を仕掛けるべく、殺虫剤の引き金に指をかけた……その時。
「おや、羽依里君。うちの前で何をしてるのかな?」
門の方から聞き慣れた声がした。思わず見てみると、紺色のレインコートを着た樹さんがこっちに歩いてきた。
「おはようございます。実は、藍からハチの巣の駆除を頼まれまして」
「どれどれ……?」
俺がそう説明をしながらハチの巣を指差すと、樹さんはメガネの位置を調整しながら、それを追うようにして視線を送る。
「ふむ。これはフタモンアシナガバチだね。これはまた、悪い所に巣を作ったものだ」
巣を確認すると、そう言いながら苦笑いを浮かべていた。そう名前を呼ばれたハチ達は、ぶんぶん言いながら巣の周りを飛んでいる。
「最近家の周りにハチが多いとは思っていたけど、まさか巣を作っていたとはね」
はっはっはと豪快に笑う。藍はそんな父親のシャツを引っ張りながら、声をかける。
「おとーさん、羽依里さんはハチの巣の駆除経験があるそうなんです。せっかくなので、やってもらっていいですか」
「そうなのかい? なら、お手並み拝見といこうかな」
ちょっと藍、なに言っちゃってくれてるの。あわよくば、樹さんにお願いしようかと思っていたのに。
「ところで樹さん、ハチ用の防護服とかないですか?」
「はは、防護服なら倉庫にあるけど、このハチは大人しい種類だし、必要ないさ」
ダメ元で聞いてみたら、あったよ防護服。使わせてもらえそうにはないけど。
「たぶんだけど、羽依里君が以前駆除したのはスズメバチじゃないかい? このハチはスズメバチと違って攻撃性も低いから、念のために、このタオルで頭を守るくらいで十分じゃないかな」
「ありがとうございます」
そう言って、タオルを手渡してくれた。俺はそれをバンダナのように頭に巻きながら、必死に駆除の手順を思い出していた。
「もうひとつアドバイスをするなら、向こうの水道ホースから水を出して、巣にかけるといいよ。彼らは水が苦手だからね」
「でも、巣に水をかけたりしたら逆に襲われませんか?」
「大丈夫だよ。彼らはその水を雨水と勘違いするんだ。スズメバチと違って攻撃されたとは思わず、雨に濡れるのが嫌で逃げるんだ」
なるほど。自分たちが巣を作った場所が悪くて雨水が入ってしまった。そう考えるというわけだ。ハチによって全く習性が違うんだな。
「それに、彼らは巣に執着するタイプのハチでもないからね。大方のハチがいなくなってから、ゆっくりと巣を除去すればいい」
「わかりました。やってみます」
今更ながら、やけに詳しいと思っていたらこの人は昆虫学者だった。詳しいのも当然だった。
「……よし! いくぞ!」
そして三人に見守られる中、俺は右手にカンチョール、左手に水を出したホースを持ってハチの巣と対峙する。
まず、最初にあいさつ代わりにカンチョールを一発。続いて先を半分潰して勢いを増したホースの水を思いっきり振りかける。
それだけで、巣の中のハチ達は大混乱に陥ったみたいだ。襲われるのも覚悟したけど、特に攻撃を仕掛けてくるわけでもなく、巣を捨てて散り散りになって逃げていく。
「おおお、これはなんか楽しいな」
樹さんが特に身を護る素振りをしていないのも分かる気がする。カンチョールを握りしめてはいたけど、結局はホースの水だけでほとんど事足りた。ものの数分もしないうちに、巣の周りのハチは全くいなくなってしまった。
俺はそれを見て、駄目押しの殺虫剤を噴射。巣に全く動きがないのを確認してから、本体ごともぎ取ってゴミ袋に入れる。これで駆除は完了だ。
「……うん。まぁ合格だね」
一部始終を腕組みしながら見ていた樹さんが、そう言って合格点をくれた。昔のバイトを必死に思い出しながらの駆除だったけど、なんとかなったみたいだ。
「さすが、羽依里も男の子ねー。かっこよかったわよー」
同じく駆除作業を見ていた蒼が、そう言って笑ってくれた。あの笑顔を見れただけで、俺は報われた気がする。
「……ところで羽依里、びしょ濡れになってるけど大丈夫?」
「え?」
ホースやらを片付けていると、窓越しの蒼にそう言われた。今更だけど、俺は全身ずぶ濡れになっていた。
元々雨や海水で濡れていたのもあったけど、どうやらハチの巣の駆除に夢中になって、ホースの返り水を思いっきり浴びてしまっていたらしい。
「うへぇ……」
俺は思わず身体に張り付いたTシャツを引っ張る。この時期だし、気付いてしまうと生暖かくて何とも言えない気持ち悪さだ。
「急いで帰ってシャワー浴びることにするよ。それじゃあ」
「あ、羽依里待って!」
駆除も終わって俺の役目は終わったし、早々に立ち去ろうとしたその時、蒼に呼び止められた。
「その格好で帰ったら、風邪ひいちゃうわよ。せっかくだし、うちでシャワー浴びていかない?」
「え?」
「羽依里が濡れたのは、あたしたちにも責任があるし……おとーさん、いいでしょ?」
「ああ、構わないさ」
窓越しに蒼からそう懇願された樹さんだったけど、快諾してくれた。
水が滴るほどの状態なのに人様の家に上がるわけにはいかないと思ったのだけど、俺は樹さんにリアルに背中を押されながら、空門家に上がらせてもらうことになった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
……その後、俺は場の空気に流されるようにシャワーを浴びていた。
これまで何度か使わせてもらったことがあるけど、空門家のシャワーは加藤家のそれと違って途中でお湯が水に変わったりしない、最新式のやつだ。
浴室の壁に備え付けられた銀色のハンドルのところには、ご丁寧に温度調節ができる目盛りまでついている。
「いやー、極楽だな」
身体を洗った後、目の前にあったシャンプーを使って頭を洗う。ラベルを見た感じ、外国製っぽい。
「あれ、でもこの匂いって……」
ごしごしと泡立てていると、どこかで嗅いだことのある匂いが鼻をつく。どこだっけ。
……思い出した。蒼の髪の匂いだ。隣に座って話をする時とか、よくこの香りがしていた気がする。
「ということは、蒼もいつもこのシャンプー使ってるわけだよな……」
ここは蒼の家だし、それは当然なんだけど。いつもこの場所で蒼が身体を洗っていると考えてだけで、その、色々と想像が膨らんでしまう。
「……だ、駄目だ駄目だ。しっかりしろ。鷹原羽依里! 冷静になれ!」
思わず温度調節のハンドルを冷水に合わせて、最大水量で頭に浴びせかける。
「うっきょおおぉおぉ―――っ!」
そして、予想以上の冷たさに変な声が出た。
「ちょ、ちょっと羽依里、大丈夫?」
……その時、背後の擦りガラス越しに蒼の声が聞こえた。思いっきり聞かれてしまった。恥ずかしい。
「だ、大丈夫だよ。ちょっと煩悩をね」
「なんかよくわかんないけど、タオルと着替え、ここにおいとくからねー」
「え、着替えも用意してくれたのか?」
「だって、あの濡れた服じゃどうにもならないでしょー? おとーさんの古い服だし、気兼ねなく使って」
「わかった。ありがたく使わせてもらうよ」
蒼と話しているうちに、変な想像をした自分が恥ずかしくなって、俺は紛らわせるように頭を洗いはじめた。
「……せっかくだし、背中流してあげよっか?」
「「へっ!?」」
……今、何か聞こえてはいけない台詞が聞こえたような。
「ちょっと藍、あたしの声真似しながら変なこと言わないでよ!」
「変なこととはご挨拶ですね。せっかく蒼ちゃんの心の声を代弁してあげたのに」
「おとーさんも藍もいるのに、そんなことできるわけないでしょーーー!」
一瞬驚いたけど、どうやら藍のイタズラだったらしい。心臓に悪いからやめてほしい。
「そ、そんなことより羽依里、せっかくだし、お昼ごはん食べて帰らない?」
蒼の方も恥ずかしくなったのか、そう言って話題を変えてきた。藍の横やりが入らなければ、むしろそっちが本題だったのかもしれないけど。
「もしかして、蒼が作るのか?」
「そうよー。最近、少しずつできるようになってきたの」
先の誕生日を祝ってあげたお礼として、蒼は最近しろはから料理を習っていた。その進捗状況については全く教えてもらえてないんだけど、彼女の口調からして、それなりに自信がついたみたいだ。
「それじゃ、ごちそうになろうかな」
「いいわよー。腕によりをかけたげる。それじゃ、ごゆっくりー」
……やがて、背後の声は弾みながら遠ざかっていった。
「これはお昼が楽しみだな」
「蒼ちゃんの手料理が食べられるのも、私が自主休校させたおかげですよ。感謝してくださいね」
誰にでもなくそう呟くと、背後から藍の声が帰ってきた。まだ脱衣所にいたんだ。
「ああ、今回ばかりは藍に感謝だな」
「でしょう。学校にお休みの連絡入れるの、結構苦労したんですよ」
「え、そうなのか」
「そうです。私と蒼ちゃんは声が似てるのか、空門蒼の姉ですと説明しても、なかなか分かってもらえなくて。蒼さん本人じゃないわよね? って担任の先生に何度も確認されました」
決して嘘をついてるわけじゃないんだけど、双子だし。声も似てるもんなぁ。
「というわけで羽依里さん、蒼ちゃんの料理、どんなものが出てきても残さず食べてあげてくださいね。約束ですよ」
……ちょっと藍、そんな言い方されるとすごく気になるんだけど。蒼の料理、うまくなったんじゃないの?
「ふふっ」
まるで俺の心を読んだかのように意味深な笑いを残し、背後の気配が完全に消えた。これは、俺も覚悟を決めないといけないかも。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
シャワーを浴び終えてしばらくすると、昼食の時間となった。
キッチンでせわしく動き回っている蒼を見ながらダイニングへと向かうと、そこには三人分のごはんと取り皿が用意されていた。
「あれ、三人分? 樹さんは食べないの?」
碧さんがパートで昼間は家にいないのはいつものことだけど、樹さんはさっきまで家にいたような気がするけど。
「おとーさん、ちょっと役所に行ってくるって言ってましたよ。長引くそうで、お昼は外で食べてくるそうです。いいですから、座ってください」
「そうなんだ。せっかくの蒼の料理なのにな」
……まさか樹さん、逃げたんじゃないよな。偶然。偶然だよな?
俺は一抹の不安を感じながら、藍に促されるがまま席に着く。
「はい。お待たせー」
席に着くと、すぐに大皿に乗った料理がダイニングテーブルの真ん中にどんと置かれた。同時に豆板醤の良い香りが鼻腔をくすぐる。
「これって、回鍋肉?」
「そう! ご近所さんから、たくさんのピーマンとキャベツをもらってねー」
蒼はそう嬉々として話す。豚バラにピーマン、キャベツ、長ネギといった具材があめ色のタレに絡まっていて、すごく美味しそうだ。
美味しそうだけど……。
「なぁ蒼、さすがに量が多くないか?」
「……ごめん。張り切って作りすぎちゃった。いつも気を付けるように言われてるんだけど」
明らかに三人で食べるにしては多すぎる回鍋肉を前にして、蒼が俯く。いつも言われてるってことは、今回が初めてってわけじゃないらしい。
「……羽依里が食べてくれるって思ったら、嬉しくて」
……ぐは。上目遣いしながらその言い方やめて。絶対残せなくなるじゃないか。
「多かったら、残してくれて構わないからね」
「蒼ちゃん、大丈夫ですよ。きっと羽依里さんなら食べてくれます」
藍は蒼に寄り添って慰めるようにそう言った後、上目遣いで俺の方を睨みつけてきた。同じ上目遣いでも、蒼とはえらい違いだ。
「仕事上がりだし、結局朝ごはんも食べてないしさ。これくらい余裕だよ」
「そ、そう? 男の子だし、食べられるわよねー? ごはんのおかわりもあるから、たくさん食べて」
俺の言葉を聞いて、蒼の顔に笑顔が戻った。ああ、やっぱり彼女には笑っていてもらいたい。
「それじゃ、いただきます」
……そして、俺は意識を目の前の料理に集中させることにした。
蒼の作ってくれた回鍋肉は、豆板醤のうまみと甜麺醤のコクが合わさった甘辛くて濃い目の味付け。シャキシャキの野菜も負けてないし、ご飯がいくらでも進む。
なにより彼女の手料理だし、美味しくないはずがない。
……でも、量が多すぎる。蒼と藍も一緒に頑張ってくれたけど、まるで巨大な山に挑戦しているみたいだった。食べても食べてもなかなか減らなかった。
それでも、俺は三十分以上の時間をかけて、なんとか気合いで回鍋肉を完食したのだった。
「どうだった? 蒼の料理は」
さすがに食べた量が多すぎてすぐには動けず、ソファーで休ませてもらっていると、樹さんが帰ってきた。
「美味しかったですけど、その……」
「量が多かったんだろう。わかるよ。僕の時は麻婆豆腐だった」
……どうやらその口ぶりからして、樹さんも経験したことがあったんだろう。
「樹さん、やっぱり逃げたんですね」
「人聞きの悪いことを言わないでおくれよ。僕はね、羽依里君を助けてあげたんだ」
「え、どういうことです?」
「たぶん、僕も一緒にお昼を食べると言っていたら、料理の量は倍近くに増えていたと思うよ」
……想像しただけで眩暈がした。
「樹さん、お心遣い感謝します」
「はっはっは。気にしなくていいよ。どうだい、食後のお茶でも。消化を助ける効能を持つ茶葉があるんだ」
「いただきます」
……その後、俺は樹さんに感謝しながら、食後のお茶をいただいた。
そのお茶は変わった香りがしていたけど、すっきりして飲みやすかった。
ちなみにティーカップも変わっていて、樹さんが以前ヨーロッパ土産に買ってきたロイヤルなんとかっていう茶器らしい。
俺にはよくわからないけどビンテージものらしく、碧さんはすごく喜んでいたとか。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
……その後もリビングで樹さんの武勇伝を聞いていたら、いつの間にか時間が過ぎてしまっていた。
壁にかけられた時計を見ると、15時過ぎ。お昼を食べたら帰るつもりでいたのに、思わぬ長居をしてしまった。
「すみません。長々とお邪魔してしまって。そろそろお暇します」
「そうかい? これからがいいところなんだが」
樹さんは残念そうにしていた。確かにこの人の話は破天荒で面白いんだけど。南米の秘境で部族同士の争いを回避するためにどんな手を使ったのか、すごく気になるし。
「……そうだ羽依里君、確か明日は仕事が休みだったよね?」
お礼を言いながらソファーから立ち上がったところで、そう声をかけられた。
「はい。休みですけど……?」
「明日の夜なんだが、今度はうちに夕飯を食べに来ないかい?」
「え、夕ご飯ですか?」
「ああ。心配しなくても、今度は僕が作るさ。それと少し、話したいこともあるしね」
話したいこと?
雰囲気からして、さっきの武勇伝の続きというわけじゃなさそうだ。一瞬、樹さんの目が真剣になったし。一体なんだろう。
「じゃあ、お邪魔させてもらいます」
気になったけど、断る理由もないし。俺は快諾することにした。
「時間は、そうだね……どうせ明日も蒼と一緒にいるんだろう? 追々伝えることにするよ。夕方以後は予定を空けておいてくれればいい」
「わかりました」
「……それじゃ、そろそろ羽依里君を解放した方が良さそうだね。さっきからドアの向こう側で蒼がこちらの様子をうかがっているようだし」
言われてドアの方を見ると、はめ込みの切りガラス越しに蒼のシルエットが見えた。気付かなかった。いつからあそこにいたんだろう。
「ところで羽依里、お腹、もう大丈夫……?」
蒼に玄関先まで送ってもらった時、心配そうに俺を見てきた。
「大丈夫だよ。もらったお茶が効いたみたいだしさ」
「そう、ならいいけど……」
あれだけの量だったし、さすがにしばらく動けなかったけど。今はすっかり平気だ。
「それより、樹さんとばかり喋ってごめんな。蒼も俺と話したかったんじゃないか?」
「へっ? いいのよー。羽依里、おとーさんにすごく気に入られてるみたいだし」
「そうなのかな。普通、娘の彼氏が家に来るとかなったら毛嫌いされそうだけど」
「ほら、この家っておとーさん以外は女の子しかいないし。家に男の子が来てくれて、嬉しかったんじゃない?」
「そんなものなのかな」
「そんなものよー」
まぁ、樹さんとは蒼が眠っている時からの知り合いだし。今更なんだろうか。
「それじゃ、今度は傘忘れないようにしなさいよねー」
「雨降ってるし、さすがに忘れないよ。それじゃ、また明日」
俺は傘立てに刺さっていた緑色の傘を手に取ると、加藤家に向けて歩き出した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
……翌日。午前中にゴミ捨てや部屋の掃除など、溜まっていた家の用事を片付けて、午後からは蒼と二人で駄菓子屋で過ごしていた。
今日も朝からシトシトと雨が降っていて、昼間だと言うのにベンチから見る景色は仄暗く感じる。
「……そういえば、蒼にお願いがあるんだけど」
駄菓子屋の雨どいを伝い落ちてくる雨粒を見ながら、俺はあることを思い出した。
「え、なに?」
「この店にさ、俺が作った魚の干物って置いてくれない?」
「……ここ、駄菓子屋なんだけど」
「それはわかってるけど。日持ちはするからさ」
「そー言う問題じゃないわよー」
店の中にいる蒼の表情はここからだと見えなかったけど、呆れたような声が返ってきた。
「一応、しろはのじーさんに作り方を習ってるから味は良いと思うんだけど、数が多すぎて消費できてないのが現状でさ」
仕事柄、なんだかんだで魚が手に入るから、空いた時間を使ってちまちまと干物を作ってるんだけど。なかなか消費できないのが現状だ。
いくら干しているとはいえ、この長雨の湿気でちょっと怖くなってきたし。
「それこそ、ご近所さんに配んなさいよ。きっと喜んでくれるし、それがご近所付き合いってものよー?」
「わかった。そうするよ」
これまであまり意識したことなかったけど、この島の住人になってそれなりに経つんだし、俺ももっと積極的になってもいいかもしれない。
「それに魚の干物なんて、この島じゃ観光客相手でも売れないしねー。ほい」
そんな話をしているうちに、蒼が二つに分けたパビコを俺に差し出しながら隣に座ってきた。来客もないし、蒼も暇を持て余しているんだろう。
「ありがとう。もらうよ」
色からしてヨーグルト味らしいそれを受け取って、口を切ってから食べ始める。うん。この甘酸っぱい感じが良い。なんとなく、柑橘系の香りがする気もするし。
「ふぁつのしんふぇいふぃんらふぃいのよー」
もごもごと口を動かしながら、蒼がそう言っていた。なるほど、夏の新製品ね。
ちなみに食材の買い出しがあるということで、藍は朝から碧さんと一緒に本土へ行っている。夕方までには戻ってくると言っていたけど。
そして、駄菓子屋の店主であるおばーちゃんはこの雨の中、木戸のおばーちゃんの家に出かけている。ガールズトークならぬ、シルバートークに花を咲かせるらしい。
……つまり今、駄菓子屋には俺と蒼と二人っきりというわけだ。
「……あの、蒼さ」
「んー?」
それに気付いてしまった俺は、妙にドギマギしながら蒼の顔を見る。一方の蒼は素知らぬ顔で、ちゅーちゅーとパビコを食べていた。
「……い、いや。なんでもないよ。相変わらず、食べ方がえろいなって思ってさ」
「はぁぁぁ!?」
一瞬、無性にキスがしたくなったなんてとてもじゃないけど言える雰囲気じゃなくて、俺はそう誤魔化していた。冷静になれば、いくらなんでも駄菓子屋のベンチでそんなことはできない。誰が見てるとも知れないし。
「変なこと考えてないで、羽依里も早く食べなさいよ! せっかくのパビコが溶けちゃうでしょ!」
顔を真っ赤にした蒼からそう急かされて、俺も手の中で半分溶けかけたパビコを口に運ぶ。うう、俺の意気地なし。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「蒼ちゃん、お迎えに来ましたよ」
やがて16時になる頃、傘を差した藍が駄菓子屋にやってきた。その少し前に戻ってきていたおばーちゃんに帰る旨を伝えて、俺と蒼も傘を差して帰宅の途に就いた。
「むー……」
小雨の降る中、俺と蒼は一本の傘に入って、歩調を合わせて歩いていた。今度こそ、正真正銘の蒼との相合傘だ。
「むむむ……」
特に話すことないんだけど、隣に蒼がいるだけで満たされた気分になる。住宅の一角で煩わしく鳴くカエルの声も今は心地いい。
「むむむむむむ……」
それにしても、さっきから後ろからの藍の視線が痛い。そこ変われオーラをすごく感じる。くそ、負けるもんか。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「おかーさん、ただいまー」
「お邪魔します」
「あ、帰ってきてくれて良かったわー。二人とも、ちょっと手伝ってくれる―?」
「「はーい」」
空門家に帰宅すると、待ってましたとばかりに碧さんの声が台所から飛んできた。一緒に樹さんの声もしているし、どうやら一緒に夕飯の準備をしているみたいだ。
「母さん、ブランデーはどこに置いたかな」
「上の棚にあるでしょ? ラム酒なら、その隣の棚よ」
「ああ、そうだったそうだった」
……直後、フライパンから青い炎が上がっていた。なんだあれ。
「あの、俺も何か……」
「あ、羽依里は休んでていいからね。今日はお客さんなんだし」
せっかくだし、俺も手伝いを申し出ようとしたけど……テーブルをセッティング中の蒼から先に釘を刺されてしまった。
「そうです。正直、この家のキッチンに慣れていない羽依里さんは邪魔になります。リビングで大人しくテレビでも見ててください」
笑顔の蒼とは対照的に、藍はむすっとした表情でそう言う。蒼との相合傘、まだ怒ってるのかな。
「わかった。それじゃ、向こうにいるよ」
言い方こそ棘があったけど、藍の意見はもっともだ。邪魔をしてしまったら元も子もない。
というわけで、俺は慌ただしいキッチンを離れて、一人リビングへと向かったのだった。
「……ふぅ」
ちょうどテレビの前に鎮座する重厚なソファーに一人腰を下ろす。雨の日の夕方ということもあって、リビングの中は微妙に薄暗い。
ちょうど明かりをつけるべきか悩むような、そんな時間帯だった。
「まぁ、待つって言っても少しの時間だろうし。わざわざ明かりをつけるまでもないよな」
そう呟いてリビングを見渡す。壁にかけられた無数の票の標本が、窓から差し込む淡い光を反射して輝いていた。
「そういえばこの中に、一つで500万円くらいする標本があるとか言ってたっけ」
探してみたいけど、もし下手に触って壊してしまったら大変だし、やめておいた。俺の稼ぎじゃ、弁償するのに何年かかるかわからない。
「音がないのも寂しいし、適当にテレビでも見ようかな」
そう思い、テレビのリモコンを探す。見当たらない。
「えっと、確かいつもはこの辺りに置いてあるんだけど……」
勝手知ったる他人の家だ。俺は記憶を頼りに、テレビの近くの棚を探してみる。すると、リモコンはすぐに見つかった。
「……あれ?」
そのリモコンの下に、一冊の本が置かれていた。なんだろうこれ。
俺は何の気なしに、その本を手に取ってみる。その表紙には『藍と蒼・成長記録その1』の文字。
「……アルバムかな」
……その時、悪いとは思ったけど、どうしても中を見て見たくなった。俺は少し悩んだ後、ゆっくりとその表紙をめくった。
――空門藍・空門蒼。9月20日誕生。
最初のページには、産着に包まれた二人の赤ちゃんの写真が一枚だけ大きく貼られていた。横には当時の体重やコメントが書き込まれていて、筆跡からして樹さんっぽい。
ページをめくると、そこから先は一つのページにたくさんの写真が貼られていた。二人は同じ日に歩き始めたとか、好き嫌いも似てるとか。どの写真にも日付と共に色々なコメントが書かれていた。
二人は一緒に七五三詣りして、一緒に保育園に通って、一緒に島の小学校に入学して、一緒に島の運動会に出て……。
写真のアングルこそ違うけど、二人はいつも一緒に写っていた。
以前、少年団の誰かから聞いたことがあったけど、本当にいつも一緒だったんだな。
「……あれ?」
温かい気持ちになりながらパラパラとページをめくっていると……写真の日付が急に飛んだ。
そこに貼られていたのは、ベッドで眠る藍を皆で囲むようにして撮った家族写真だった。
「8歳の誕生日……あ」
その写真に添えられたコメントを見て、俺は察してしまった。蒼に聞いた話だと、この頃にはもう藍は眠ってしまっていたはずだ。
……それからは、ベッドで眠る藍の写真も時々はあったけど、ほとんどが蒼の写真ばかりになった。
蒼だけが小学校を卒業して、蒼だけが中学校に入学して、蒼だけが空門のお役目を始めて……。
そしてこの期間は、コメントも書かれていないことが多かった。
……突然目覚めなくなった娘。当然、両親としても葛藤があったはずだし、さすがの樹さんも写真を撮るのを躊躇していた時期があったんだと思う。
先程とは打って変わって胸が締め付けられるような気持ちになりながら、俺は少し早めにページをめくっていった。
……すると一番最後のページには、記憶に新しい写真があった。無事に退院した二人が、笑顔で退院祝いの花束を持った写真。今年の春に撮ったやつだ。
――2002年4月 藍と蒼、退院。
それだけの文字だけど、そこから嬉しさがにじみ出てくるような、そんな気がした。
これ以後はページは余っているけど、写真は一枚も貼られていなかった。たぶん、二人の退院を期にアルバムも別のにしたんだろう。表紙にも『成長記録その1』って書いてあるし。
「二人が退院する時、樹さんがあれだけ写真撮りまくっていたのも、今ならわかるかも」
「……ほう。羽依里君。見たんだね。僕のコレクションを」
「ひっ」
思わずそう呟いた時、後ろから樹さんに声をかけられた。いつの間に背後にいたんだろう。
「す、すみません。つい、出来心で。悪気はなかったんです」
「はっはっは。気にしなくていいよ。出しっぱなしにしておいた僕も悪いんだ」
プライベートの塊であるアルバムを勝手に見てしまった後ろめたさからそう弁解するけど、樹さんは気にする素振りもなく、俺の肩を叩きながら笑っていた。
「……気に入ったのなら、二人の秘蔵ビデオもあるよ」
次の瞬間、そう言いながら肩を寄せてくる。ちょっと樹さん、意味深な言い方やめて。この流れからすると、幸せ家族のホームビデオなんだろうけどさ。
「……え、男同士で肩寄せ合って、何してるの?」
「やけに仲が良いと思っていたら、まさかそんな関係なんです?」
そんな光景を、しっかりと空門姉妹に見られてしまっていた。二人とも、これは違うんだ。
「おとーさん、羽依里を呼びにいってくれたんじゃないの? 一緒に遊んでちゃ駄目じゃない」
「はは、そうだったそうだった。羽依里君、食事の用意ができたから、ダイニングに来るといい」
蒼にそう注意されて、樹さんはばつが悪そうに首をかきながらリビングを後にする。俺もそれについて、ダイニングへと向かった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ほらほら羽依里君、お客さんなんだから座って座って」
碧さんに促されるままにダイニングに通され、一番近い席に座る。
おそらく6人用と思われるダイニングテーブルは木のぬくもりを感じる木目調で、整然と並べられた食器類も相まって高級感がすごい。
やばい。これは場違いかも。
「そんな緊張しなくても、マナーなんて気にせず食べてくれればいいよ」
俺が変にソワソワしているのを感じ取ったのか、なにやら肉料理を運んできた樹さんが朗らかな顔で言う。
「この人ったら、今日はすごく気合を入れていたのよ。ラム肉まで用意して」
「いや、いつもはここまで凝らないんだけどね。今日は特別だよ」
「そ、そうなんですね」
……ところで、ラム肉って何だっけ。ダーリン好きだっちゃ?
「ちなみにラム肉ってのは、子羊のことよー。日本だと、北海道のジンギスカン鍋が有名かしら」
俺が困惑しているのを悟ったのか、隣に座ってきた蒼がそう説明してくれた。
「肉自体は通販代行で買った冷凍物だけど、この料理は先日イタリアの料理人から教わったものでね。美味しかったから、是非食べてもらいたいんだ」
樹さんが俺の正面の席に座りながらそう話す。そういえば、この人は少し前までヨーロッパに仕事で行ってたんだっけ。その時に習ったのかな。
「この人、昔から料理上手なのよ。私も料理はそれなりにするんだけど、全然敵わなくて」
パスタの乗った大皿をテーブル中央に置きながら、碧さんが笑顔で言う。昆虫学者なのに、樹さんは料理もできるのか。
「あ、パスタもたくさん用意してあるから、しっかり食べてね。島のアサリを使ったボンゴレなの」
碧さんはそう言いながら、樹さんの隣に座る。やがてサラダの入ったボウルを運んできた藍がその隣に座り、全員が着席した。
気がつけば、目の前には島らしくない料理ばかりが並んでいる。テーブルウェアも相まって、まるで本土のイタリアンレストランみたいだ。
「……さて、それじゃ食べようか」
一瞬の間を置いて、家主の樹さんがそう一声をあげる。
「あの、その前に少し良いですか」
「うん? なんだい?」
その流れを見て、俺は慌ててそれを制止して立ち上がる。
「えっと、今日はお招きありがとうございます」
「はは、今更そんな堅苦しい挨拶は不要だよ」
一応先にお礼を言っておこうと思ったんだけど、樹さんはひらひらと右手を振って、気にしていない様子だった。
「でも、俺に何か話があるって言ってましたし……」
「もちろんあるよ。だが、そんなものは食事の後だ。まずは、料理を楽しんでくれ」
「そうよー。おとーさんの料理、おいしーんだから。冷めないうちに食べましょ?」
樹さんに続いて、蒼にもそう論された。二人にそう言われると、俺も座るしかなかった。
「……わかりました。それじゃ、遠慮なくいただきます」
「ああ。しっかり食べておくれよ。子羊のロースト、おかわりもあるからね」
……その後、皆で挨拶をして料理をいただく。どれも美味しくてほっぺが落ちそうだった。これは、碧さんが絶賛するのも納得だ。
……俺も刺身だけじゃなく、ちゃんとした料理ができる男になろう。
そう心に決めた夕食会だった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「さて、食事も楽しんでいただけたようだし……そろそろ本題に入ろうか」
食後のお茶をいただいていると、樹さんがそう話を切りだした。それと同時に、不思議と周りの空気が張り詰める。
「……もしかしてこの流れ、久しぶりにアレをやるのかしら」
「え、おとーさん本気なの?」
アレって何だろう。蒼と碧さんは顔を見合わせているし。
「そう。そのまさかだよ。空門家・家族会議だ」
樹さんが眼鏡のブリッジを押さえながら、その位置を整える。眼光が急に鋭くなったような。
「あの、家族会議と俺の話、何か関係あるんですか?」
そんな空気の中、俺は恐る恐る挙手して、そう聞いてみた。家族会議なら、俺は居ないほうがいいんじゃ。
「もちろんさ。今日の家族会議の議題は、主に羽依里君についてだからね」
俺について? いったいどういうことだろう。
「では、今から羽依里君にいくつか質問をさせてもらうよ。構わないかな」
樹さんはダイニングテーブルに両膝をつき、顔の前で両手を組んだ格好で、俺に視線を送ってくる。
同じように碧さん、そして空門姉妹の視線も俺に集まっていた。
「はい。なんでも聞いてください」
俺は自然に背筋が伸びる。何を聞かれるんだろうか。
「まず、蒼と羽依里君、二人の馴れ初めを教えてもらえるかい?」
「えぇ?」
予想外の質問に、俺はずっこけそうになった。なにそれ。なんでそんなこと聞くの。
「蒼に聞いても教えてくれないからね。せっかくだし、聞いておこうと思ってさ」
「待ってください。言わなくていいです。聞きたくありません」
言うべきかどうか迷っていると、藍がそう言いながら必死に両耳を押さえていた。たぶん、本気で聞きたくないんだろう。
「藍、いいじゃない。どんなドラマチックな出会いがあったのか、おかーさんも気になるし」
心なしか、碧さんの声が弾んでいる気がする。なんだろう、この流れ。
「えっと、あの時は、その……」
思わず隣の蒼に目配せする。小さいく頷いてるし、話しても大丈夫みたいだ。
「蒼との最初の出会いは……その、寝てるところを手籠めにしかけました……」
……一瞬、その場の空気が凍った。
「ちょっとーーー! それはあたしの勘違いだったでしょーーー!」
「……すみません。言い方に語弊がありました」
直後、ものすごい勢いで蒼が誤解を解いてくれ、凍った空気が融解した。助かった。
「……なるほど、木の下で寝ていた蒼がバランスを崩して倒れそうになったところを助けてくれたわけか」
「ええ、偶然でしたけど」
「それにしても、蒼は相変わらず、どこでも寝るんだね」
「後は、蒼のバイト先の駄菓子屋によく行っていたので……」
初っ端で躓きかけたけど、その後はうまく軌道修正して、当たり障りのない程度に話をした。
話の途中で、着替えを覗いてしまったことが発端となって、かき氷のかけ合いをしたことを思い出したけど、これこそ正気を疑われそうなエピソードだ。話さないほうが良いだろう。
「……うん。二人の馴れ初めについてはだいたいわかったよ。それじゃ次の質問だ」
先の質問に続いて、趣味や特技、仕事の話、島民との関係等、色々なことを聞かれた。
時折碧さんや藍も混ざっていたけど、主に質問するのは樹さんで、どれも当たり障りのない世間話に近い内容だった。わざわざこんな場を用意してまで話すことなんだろうか。
「うんうん。それじゃ、次の質問いいかな」
「はい。どうぞ」
次の質問は何だろう。俺の好きなかき氷の味とか聞かれたりするのかな。
「……羽依里君は七影蝶が見えるんだよね?」
「え?」
少し気を抜いていたわけじゃないけど、思いがけない質問が来た。
「その……はい。見えます」
一瞬躊躇した後、俺は正直にそう答えた。思えばここは空門の家。七影蝶に関しては総本山のようなものだった。
「でも、どうして知ってるんですか?」
「蒼に聞いたんだ。一緒に山に入って、藍の七影蝶を探してくれたとね」
そういえば、樹さんも元は本土の人間だし、碧さんと同じく七影蝶が見えない人なんだろうか。
「……やはり、七影蝶は本当にいるんだな」
その時、樹さんは口元に手をやりながら、すごく小さい声でそう呟いた。
「おとーさん、まさかあたしの話、信じてなかったの?」
「いや、僕個人としてはもちろん蒼の話は信じているよ。でも、昆虫学者としては見えない蝶の存在を肯定することはできなくてね」
樹さんの言うことはもっともだ。それなりに発言力のある立場だろうし、認めてしまったらそれこそ大問題かもしれない。
「でも安心したよ。七影蝶が見える君は、僕達の代わりにずっと蒼を支えてくれていたわけだ」
「え? いくらなんでも、樹さん達の代わりってのは言い過ぎだと思うんですが……」
「言いすぎなものか。僕も碧も、そして藍ですら七影蝶を見ることはできない。つまり、おのずと空門家のお役目を蒼一人に押し付けてしまっていたということになる。そんな中で、君の存在は心強かったと、蒼も言っていたよ」
樹さんはそう言って蒼の方を見やる。俺もつられて蒼の方を見ると、恥ずかしそうに俯いていた。
「……ありがとう。質問は以上だ。根掘り葉掘り聞いてしまって、悪かったね」
「え、もういいんですか?」
「ああ。もう十分だよ」
そう言って樹さんは目を細めて、冷めかけたお茶を口に運ぶ。そんな様子を見ながらも、俺にはどうしても腑に落ちない事があった。
「あの、もっと聞かないんですか? 例えば俺がこの島に来る前、何をしていたとか。気になりませんか?」
確かに色々な質問をされたけど、樹さんが聞いてきたのは最近の話ばかり。俺の過去については、核心部分には触れていないと思った。
いくら樹さんが島にいない時間が多くても、俺が島にやってきた理由とか、おのずとその耳に入っているはずだ。その真偽を確かめたりしないんだろうか。
「……君が話したいと言うなら聞くけど、誰でも話したくないことはあるだろうしね」
「え……」
「僕達は別に君から直接過去の贖罪を聞かなくても構わない。なにより、羽依里君が蒼を思う気持ちは一年以上かけて十分に理解したつもりだよ。その思いに、過去の出来事なんて関係ないさ」
樹さんはゆっくりと眼鏡を外してその汚れを拭きとり、裸眼で真っすぐに俺を見てくる。そこには昆虫学者ではない、一人の父親としての樹さんがいた。
「……俺にとって、この島で蒼と出会えたことは、とても大きな出来事で。この先ずっと一緒に居たいと、本気で思っています」
その瞳に射抜かれて、俺は思わず立ち上がりそう口にしていた。
「男としても、一人の人間としてもまだまだ力不足ですけど、これからも、全力で蒼を守っていきたいと思っています」
「……まぁ。まるでプロポーズね。蒼、愛されてるわねー」
そう碧さんが茶化すのを聞いて、俺はハッとなる。
口に出るままに喋ってしまったけど、俺、何言ってるんだろう。
「す、すみません。変なこと言ってしまって」
「いやいや、気にしなくていい。必死になる君の気持ちも理解できるからね」
樹さんは両掌を俺の方に向けてなだめるようにしながら、着席を促す。
「……そこでだ。一つ提案をしたい」
「提案、ですか?」
「ああ。聞けば、羽依里君は島に移住してからというもの、ずっと加藤さんの所に下宿しているらしいじゃないか。君さえ良ければ、その家を出て、空門家に住んではどうかな」
「え?」
……それは思ってもない提案だった。俺が空門の家で暮らす? そんなこと、考えたこともなかった。
「もちろん、加藤さんの家と十分に話し合っての上だけどね。できればもっと近くで、君が蒼にふさわしい男かどうか見極めさせてもらいたい」
それは冗談とも、本気とも取れない言葉だった。
「その……提案は嬉しいんですが、他の皆は俺が一緒に住んでも大丈夫なんですか?」
「そのための家族会議なんだよ。この提案は羽依里君だけでなく、家族全員へ対するものだ。これから多数決を取るよ」
そう言って、樹さんが立ち上がる。一度は緩んでいた空気がまた引き締まった気がした。
「……そういえばこの多数決、昔もした記憶があります」
その時、藍が少し不安そうな顔をしながら、そう口にしていた。
「そうなのか?」
「はい。議題は忘れましたけど、子供の頃もこうやって家族会議でものごとを決めていた気がします」
「そうだね。家族が揃わないと家族会議は開かないから、随分久しぶりだとは思うよ」
……そういうことか。
碧さんも久しぶりって言っていたけど、藍が眠っていた間は一度も家族会議は開かれなかったんだろう。眠っていたら、参加できないし。
「それでは多数決を取ろう。鷹原羽依里君に、我が家に住んでもらって構わないという者は挙手」
樹さんがそう呼びかけると、一番に蒼と碧さんが手を挙げてくれた。
「私は良いと思うわよ。羽依里君、良い子だし。家に男の人がいてくれるって言うのは、女性からしたら心強いものだしね」
そう言って隣の樹さんを見やる。仕事柄、家を空けることが多い樹さんへの戒めの言葉のようにも受け取れた。
「あたしも……その、羽依里と一緒に……住みたい」
一方、蒼は声を震わせながらそう言ってくれた。俯いてるから顔は見えないけど、たぶん、紅潮しているに違いない。
「藍はどう? 家族会議、久しぶりでしょう?」
そして、笑顔の碧さんが仏頂面をしている藍に声をかける。
「……私と蒼ちゃんの愛の巣に、羽依里さんが入ってくることは正直許せません」
いや、確かに藍の巣だけど。そこまではっきり言わなくても。
「……でも、蒼ちゃんの幸せが、私の幸せです。だから……賛成、します……」
藍は妹と同じように少し俯きがちに、指先を震わせながら挙手してくれた。
「……ふむ」
その様子を見てから、樹さんも手をあげてくれる。
「子供の幸せを願うのが親の務めさ。皆が賛成なら、僕も異論はないよ」
満場一致。どうやら、これで空門家の許しは出たみたいだ。
「良かったわね。羽依里君。そうと決まれば、早速準備しないとね」
碧さんは嬉しそうに胸の前で手を合わせながら、お茶の片付けもそこそこに立ち上がる。
「ちょ、ちょっと待ってください。まだ鏡子さんと話をしないといけないんですけど」
「心配しなくても部屋は余っているわよ。蒼が良ければ、同じ部屋でも良いし」
「「よくないです!」」
次の瞬間、俺と藍の声が思いっきりハモった。当の蒼はというと、耳から煙が出そうなくらい赤面していた。
……それにしても、少し変わった食事会だと思っていた先に、まさかの展開が待っていた。
もちろん、鏡子さんからの許可はもらわないといけないだろうけど、迎え入れる側の空門家から許しが出ている以上、この提案が反故にされる可能性は低いと思う。
「おかーさん、羽依里さんの部屋は絶対遠くにしてください! お願いします!」
「はいはい。藍もそこまで必死にならないの」
「いっそ、おとーさんの書斎でもいいんじゃない?」
「ははは。それをされると、僕としては困るなぁ」
俺の部屋について激論を交わす藍と碧さん。
その会話に照れ隠しのように参加する蒼。そんな家族を穏やかな表情で見守る樹さん。
……まだ本決まりではないんだけど、この輪の中に加われるのなら、これ以上に嬉しいことはない。仲睦まじい家族を見ながら、俺は心の底からそう思っていた。
第七話・あとがき
皆さん、おはこんばんちわ。トミー@サマポケです。
前回の更新からだいぶ間が空いてしまいましたが、今回は6月下旬、梅雨真っただ中のお話でした。
藍との相合傘はやってみたかっただけです。そして道中に出てきた祐一☆白書やるろうに謙吾はオリジナル漫画です。某有名少年漫画とは何の関係もありませんのであしからず。
また、ハチの巣駆除も原作中では羽依里君質の健闘空しく業者がやっていましたが、せっかくなので羽依里君にやらせてみました。
その中で樹さんの昆虫学者としての一面を出してみたり、今回は空門家について深く掘り下げた感じになりました。
そして空門家家族会議の結果、羽依里君は空門家に住むことが決まりました。次回からは蒼と一つ空の下で生活することになります。
これまで以上にイチャラブ……いえ、親密な関係になると思いますので、楽しみにしていてください。
では、今回のあとがきはこの辺りで。
一言感想や評価など頂けましたら、次話執筆への活力になりますので、よろしくお願いします。
最後までお読みくださり、ありがとうございました!