旅立ちの日、それは大抵の人々にとって特別な意味を持つものだ。
そんな大事な日──例えば入学式に寝坊したり、初出勤で転んでしまったり…そんな時、意味もなくこの先も不幸が続くのか、などと考えてしまいがちだ。
しかし、それは全く逆の作用をする事もある。
入学式で天気が晴れだったり、初出勤で美人の先輩と挨拶できたりするだけで、それが偶然であってもついつい楽観的になってしまう。
そして、今日の両津はというと、まさにその後者であった。
天気は雲一つない快晴、あの暑苦しかった太陽ですら、自分を祝福してくれているかのよう。これからはうるさい上司の居ない空間の中、2000万でやりたい放題。業務のことなどすっかり頭の片隅に追いやられ、ただ欲望の渦に呑まれていた。
(提督っていっても、座ってちょいちょいーっと書類を片付けるだけだろ?そんなことで2000万貰えるなんて、むふふ…まさかこんなおいしい話が舞い込んで来るとは…!)
「先輩なんかニヤついてますけど、本当に大丈夫でしょうか?」
「どうせ2000万円って聞いて浮かれてるんでしょ?お馬鹿ねぇ。支給されるって言ったって、全額両ちゃんのお給料な訳じゃないのに」
「先輩、その事は分かってるんでしょうか…?」
「さあな。だがここまで来て駄々をこねられても困る。中川も麗子君も黙っているんだぞ」
そんな冷ややかな視線を浴びていることなどつゆ知らず、両津は派出所の前に停車したタクシーを明るく迎えた。
「両津さん……いえ、もう両津提督でしたね。約束通りお迎えに参りました」
「おう明石、一週間ぶりだな。あれから体調はどうだ?」
「はい。おかげさまですっかり回復できました」
「はは、そりゃよかった。それにしても両津提督か。なかなかいい響きだな。ところでそっちの嬢ちゃんは誰だ?」
両津は明石と共にやって来たもう一人の女性に目を向ける。伸ばした黒い髪とメガネが印象的な彼女は、一言で表すと真面目な生徒会長といったイメージ。不真面目な両津にはあまり縁のないタイプと言えるだろう。
「申し遅れました。私、提督の秘書官を務めさせていただく、大淀と申します。先日は明石がご迷惑をお掛けしました」
「あぁ、そんな事気にしなくていいぞ。どのぐらいの付き合いになるか分からんが、まぁよろしくな。…よし、それじゃあ早速向かうとするか」
「先輩、頑張ってくださいね」
「たまには私達も顔をだすから」
「おう。いつでも来いよ」
「両津、改めて言っておくが、お前は葛飾署から派遣される形になっとるんだからな。くれぐれも迷惑をかけるんじゃないぞ」
「もう、わかってますって」
子供を見送る親のように心配してくる部長を苦笑いであしらうと、タクシーの座席に腰を下ろした。
「それじゃあ出発だ!」
部長達の老婆心などお構い無しに、両津の指示でタクシーは無機質に派出所から遠ざかってゆく。その姿が消えるまで部長は最後まで見届けていた。
(無事に帰ってこいよ、両津…)
「そういや明石、ワシはお前の名字しか聞いとらんが、名前はなんて言うんだ?」
「私達に名字はありません。私も他の艦娘も、船の名前がそのまま名前になってるんです」
「へぇ…ってことは、もしかして明石は工作艦、大淀は軽巡洋艦か?」
「その通りです。よくご存知ですね」
「まぁな。提督をやるならこれぐらいは常識よ」
「ふふっ、それは頼もしいですね。…あっ、そろそろ見えてきますよ」
両津の目の前に現れたのは、赤レンガ造りの美しい建造物。太陽の光をキラリと反射する窓ガラスと、等間隔で描かれた白いラインのコントラストが美しい。
「おっ、中々立派な建物じゃねぇか───っておいおい、入口を通り過ぎちまったぞ?」
「いえ、先程の建物は関係ありません。私達の鎮守府はまだ先ですよ」
「こっちって…お、おい、まさかこの森の中かよ!?」
しばらく林道を抜けると、目の前にかなり頑丈そうな鋼鉄の門が現れた。
(なんかやけにゴツイ門だな。何だか塀も高いし…まるで刑務所だ)
想像とは違った佇まいに多少不自然さを感じたものの、その感想は次に見たもののインパクトによってすぐにかき消されてしまった。
「な、なんじゃこりゃぁっ!?」
古い、汚いという感想を通り越し、ノスタルジックな雰囲気さえも醸し出すこの建造物。戦後直後にでも建てられたようなその出で立ちは、両津の通っていた小学校にそっくりだった。
「こ、これが鎮守府かよ…」
「あ、あはは…すみません、何しろ忙しくて手が回らないもんで…」
「遠目で見たら廃墟にしか見えんぞ…」
鎮守府の名前の彫られた正門を通り、建物の入口付近に車を停車させる。
車から降りると、艦娘達がズラリと整列しており、両津の到着を待っていた。
「両津提督に敬礼!」
「結構な数だな…これ皆艦娘か?」
「ええ。全員この鎮守府の艦娘です」
「提督、お待ちしていました」
隊列の中から代表として、一人の女性が両津の前に立った。腰に届きそうな長い黒髪をたなびかせ、その隙間から見えるキリッとした目付きは、彼女のストイックな性格を表しているかのようだ。
「私は長門。今日は皆を代表して挨拶をさせてもらっている」
「おお、長門ってことは戦艦か。やっぱり戦艦は雰囲気が違うなぁ」
「ん…そ、そうか。…コホン。艦娘達はご覧の通りの人数だ。すぐに覚えるのは難しいかもしれないが、今日からは毎日顔を合わせる仲だ。なるべく早く覚えてやって欲しい」
「たしかにこりゃ結構多いな…ざっと見ただけでも20人以上はいるな。他にはどんな奴が…ん?」
「どうされましたか?」
「大淀、あそこに子供が紛れ込んでるじゃないか」
「いえ、その子達は───
「ほらほらお前ら、ここは子供の遊び場じゃないぞ?遊ぶなら他の場所にしなさい」
「なっ、失礼ね!暁は子供じゃないわ!」
「暁ちゃん、それは無理があるのです…」
「提督、貴方は勘違いをしている。確かに私達は小さいが、れっきとした艦娘さ」
「な、なに?お前達がか?」
見た目通りならまだ10歳前後だろうか。
彼女らが嘘をついているとは思っていないが、檸檬より少し年上ぐらいの少女が未知の生物との戦いに挑んでいるとは到底信じられなかった。
「私は暁型駆逐艦、一番艦の暁よ」
「同じく、二番艦の響だ」
「三番艦の雷よ!」
「よ、四番艦の電なのです」
「おいおい、元気なのは結構だが大丈夫なのか?こんな子供を戦場に連れ出して…」
「我々は戦うために生まれてきた艦娘だ。普通の人間とは違う」
「そりゃそうかもしれんが…」
「疑うなら確かめてみるか?私達の実力を」
「そうですね。折角この鎮守府にも提督が来たんですから、演習をみてもらいましょうよ」
「Burning…Loveッ!!」
「電の本気を見るのです!」
狙い澄ました一撃が、海面に浮かぶ的を的確に撃ち抜いて行く。演習弾とはいえ大きな砲撃音は見るものを圧倒するには十分すぎる威力だった。
「す、すげぇ…まるで本物の軍艦みたいだ」
「これで分かって貰えた?私達が戦えるってこと」
「あ、ああ。それにしてもお前達、いつからこんな事やってるんだ?」
「えーっと、確か訓練が始まったのは三年前だから…私達が九歳の頃ね」
「きゅ、九歳からそんな事してるのかよ!背負ってる装備といい、まるで電極+みたいだな」
「でんきょく…ぷらす?」
「あぁお前らは知らんのだったな。でもそんなに小さい頃から訓練じゃ、遊ぶ時間もなくて大変だったろう?」
「…ううん、大丈夫よ」
「私達は──だから」
「えっ…」
「ねぇ司令官!これから鎮守府の中を回るんでしょ?私達が案内するわ!」
「あ、あぁ…」
(あいつ今……いや、気のせい…か)
「それにしても結構広いんだなここは。回ってる間に日も落ちて来たぞ」
「ここが最後の案内です。提督室はこの棟の3階なので、今から案内しますね」
「外から見ても酷かったが、中も酷いなこりゃ。…この辺りの床なんかだいぶ軋んでるぞ」
「ま、まぁでも、これなら不審者が侵入してきてもすぐに気付けますし…」
「二条城かここは!」
京都旅行の記憶を頼りに城の景色を思い浮かべてみるが、鶯の声というよりもアヒルの叫びに近いような音と、比較対象がさいはて署ぐらいしかない壁から感じられるのは、風情などではなく床が抜けないかという恐怖だった。
「ここが提督室か。中は…とりあえず手入れはされてるみたいだな」
「提督が来るから暁達で掃除したのよ!」
「へぇ、そうだったのか。ありがとな、暁」
「ちょ、ちょっと提督!頭を撫でないでちょうだい!暁はもう立派なレディなのよ!」
「おっ、生意気言うじゃねぇか」
「当然よ!私が一番お姉さんなんだから!」
「それじゃあ、他の三人にだけ撫でるとするか。ほれ電」
「あ、ありがとうございます…なのです」
「ふふっ、もっと頼ってもいいのよ?」
「…спасибо」
「三人は素直ないい子だ。暁とは大違いだな」
「…むー!どうせ暁は悪い子よ!」
「あー分かった。分かった。冗談だっての」
何年も前から知り合いだったように分け隔てなく接する姿は、まるで遊びに来た姪っ子の面倒を見ているよう。そんな朗らかな様子に、大淀も思わず口元が緩んでしまう。
「ふふっ、提督すっかり懐かれちゃいましたね」
「前から同じぐらいの年のガキの面倒を見てたからな。このぐらい朝飯前よ」
「あ、あの、司令官さん……」
そんな中、末っ子である電がどぎまぎしながら話しかけてきた。両津はすぐになんだと返事をしたものの、彼女は遠慮しているのか、それとも恥ずかしいのか、中々続きを言おうとしない。
「えーっと…そのぉ……」
「何だ、勿体ぶらないで早く言ってみろ」
「は、はい。司令官さんは……花火を見た事があるのですか…?」
「花火?そりゃあ何度もあるぞ。……あっ、そうか分かったぞ、今度の花火が見たいんだな!」
「えっ、あ、その…私は……」
「───だめよ電っ!」
雷に怒鳴られ、ハッとしたように表情を変える電。彼女達のまるでイタズラをしてしまった時のようなバツの悪い表情の意味が、この時の両津にはわからなかった。
「うっ…」
「ご、ごめんなさい司令官!私達そろそろ食堂に行くわ!ほら電!」
「う、うん…」
先程の楽しげな雰囲気が嘘のように、四人はそそくさと外へ飛び出して行ってしまった。
「な、なんだ?急に出てっちまって…大淀、何か知ってるか?」
「……それについては私がお話します」
急な出来事に困惑している最中、四人が出ていった扉の陰から不意に声を掛けられた。
「アンタは…?」
「ほ、鳳翔さん…!」
「鳳翔…って事は、さっき前を通った居酒屋の女将か?」
「はい。先程はお出迎えできなくて申し訳ありませんでした。仕込みの途中で店を離れていたもので…」
「それは別に構わんが……」
「よかったらお二人でお店の方に来てください。簡単な料理ならお出しできますから」
「どうぞ。日本酒とお刺身です」
「ありがとうございます」
「おう、すまねぇな。……うん!流石に取れたて美味いな!」
客が鎮守府内の人間だけとはいえ、流石に居酒屋を名乗る事だけの事はあり、料理の味も店の雰囲気もこのまま外で開店してもやっていける程のクオリティの高さだった。
「それでさっきの話だが…確か花火の話になった途端に逃げちまったんだよな」
「それは、あの子達……いえ、私達の育った環境に原因があるんです」
「環境?そういや9歳の頃から訓練してるって…」
「そもそも私達艦娘は普通の生まれ方をしていません。深海棲艦と戦うため、人間の細胞を一から育て、艤装を使えるよう人工的に"造られた"んです。全ては深海棲艦と戦うために…」
「な、なんだと!?そんな漫画みたいな話……で、でもそうか、名字が無いのはそういう事か…!」
「生まれた艦娘は、完全に外界から閉ざされた所で、それぞれの適正に合わせて厳しく教育、訓練されます。それこそ休む暇もなく毎日…」
「休む暇も無くって、休日の自由な時間とかもねぇのか?」
「私達は見た目は人間ですが、その本質は戦うための兵器です。娯楽は非生産的、兵器にはそんなものは不要だと…私達はそう教わりました」
「もし規則を破れば厳しい罰が待っています。私の同期で、こっそり漫画を読んでいるのが見つかり、何日も懲罰房に閉じ込められた子もいました」
「そんな!まだ小学生の子供だろ!?休みもなく毎日そんな事させてたら、おかしくなっちまうだろうが!」
「意外とそんな事ないんですよ。目覚める、食べる、訓練する、寝る。これが世界の全てだと思って生きてる訳ですから、不満を抱く事すらないんです。私もあの子達ぐらいの頃はそうでしたから」
「そんな…」
「ですが、一度鎮守府に配属されればそうはいきません。出撃すれば遠くの街の景色が見えるし、海辺にも色々な物が流れ着いています。自分の生きてきた世界が、いかに小さな物だったのか、嫌でも痛感してしまうんです」
「私も初めてそれを知った時、私も外の世界に行きたいと思いました。でも外に出る事は許されませんでした。何故…他の子は出ているのに私だけが…と」
「答えは誰かに聞くまでもなく、ずっと教えられてきた事でした」
──私達が
「私達はもう諦めがつきました。これが私の…艦娘としての運命だと。だから提督をお迎えに行った時も、外の世界を見ても何も感じませんでした」
「でもあの子達は…今まさに葛藤している時期なのです。実はこの前、四人でこっそり拾った旅行雑誌を食い入るように見ている所を見てしまいました。多分、花火の事はそこで知ったのでしょう」
「……」
『…提督は、花火を見た事があるのですか?』
『だめよ電っ!』
『…ううん、大丈夫よ』
『私達は、兵器だから』
「ええい、そんなの納得できるかぁっ!」
ついに我慢の限界だったのか、両津は腕を振り上げ叫び声を荒らげた。
「て、提督…」
「何が艦娘の運命だ!そんなもん、艦娘を利用する奴の都合じゃないか!お前らだって本当は外に出て、もっと楽しく生きたいんじゃないのか!?」
「そ、それは…」
「あいつらは言葉にはしなかったがな、空に上がる花火が見たいんだよ!花火を見たがる兵器なんているか!?あいつらは絶対兵器なんかじゃない!」
「っ…勿論私達も、可愛そうな事だとは思います…でもっ…私たちは…」
「でももヘチマもあるか!お前達がやらなくても、ワシはやってやるぞ!」
「あっ、提督…!」
そう言い残すと、扉も閉めずに飛び出して行ってしまった両津。大淀はすぐに追いかけようとしたが、既に両津の姿はなかった。
「い、行ってしまった……あ、すみません鳳翔さん、お騒がせしてしまって…」
「いいんですよ。それにあの人の言う事の方がきっと正しいと…正しくあってほしいと思うの。大淀さんもそう思っているのでしょう?」
「私は…」
大淀はその問いに答えることはできなかった。何が正しいのか、自分がどうしたいのか。今までの彼女には、そんな当たり前の事を考えた事がなかったのだ。
今の彼女に分かることはただ一つ。両津の開け放った扉の向こうから、暖かな空気が流れ込んでいる事だけだった。