雪解けて、水流るる   作:仁見頃

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Episode 01

「……ただいま」

 誰もいない家にそう呟いて、部屋にカバンを投げ込み、制服を脱ぎ捨てる。ようやく解放された気分だ。学校なんてものは、本当に窮屈で仕方ない。行かなくちゃならない意味がわからない。

 さっと着替え、肩下まで伸びてきた髪を結わえた。そしてボールを抱えて再び家を飛び出していく。わたしには、この身一つとこの一球があれば、それでいい。家を出たところからいつもの場所まで、硬い革のボールを弾ませた。障害物や通行人をかわしながら、ボールも体の一部分のように、わたしのテリトリーから絶対に逃がさない。わたしにとっては、外すべてがバスケットコートなのだ。

 

 町外れにある、廃ビルに囲まれた空き地。そこがわたしの目的地。ここにはハーフコートと、使い古されたバスケットゴールがあり、日夜賭けバスケが行われている。

 それにしても、今日は一段と騒がしい。人も多く集まっている。何かあったのだろうか。

「ヘイ、来たな! 面白ぇことになってるぜ。ありゃ、なかなかお目にかかれたもんじゃねぇよ。お前も早く来な!」

 野次馬の一人がわたしに気づくと、その群れに道を開けさせ、わたしを通す。人垣の間から、ちらりとゲームの様子が覗き見えた。細い指先からボールが放たれていく様子が、まるでスローモーションのように流れていく。引き込まれるほど洗練された、綺麗なフォーム。そのままボールは、それが当然のようにゴールを通り抜け、途端に歓声が沸いた。

 その勢いに、最前列まで押し流され、コートに足を踏み入れる。と、嫌というほどに感じるピリピリとした闘志。しかしコートに立っているのは、線も細く、静かな雰囲気を纏った少年。歳はわたしと同じくらいか。東洋人にしては色も白く、前髪に隠れていない物憂げな右目からは、どこか儚げな印象すら受ける。彼がこの闘志を放っているというのか。

「いい気になるなよ、リトルガイ。これからが本命だ。我らがおてんば姫、“小さな暴君(リトルタイラント)”が相手だぜ!」

 周りに囃し立てられながら、野次馬の群れに背中をバンと叩かれ、無理矢理コートに押し出された。しかしいい加減、その呼び方はどうにかならないものか。

「キミが……? へえ、随分期待されてるんだね。オレも期待していいのかな?」

「そういうアンタこそ、結構やるみたいじゃん。暇つぶしくらいには、なってくれないと困るんだけど?」

 お互いに不敵な笑みを浮かべながら、挑発し合う。

「五本先取ってことで。そっちからでいいよ」

 ゴールを背に、ボールを受け取った彼と対峙する。歳は同じくらいといっても、女のわたしと彼とでは、高さの面で不利なのは変わらない。だから、いつもどおりやるだけだ。

 一歩分の空間を隔てて、彼はその場でボールを弾ませる。どう仕掛けてくる? 手の動き、重心の移動、視線。目の前の相手のあらゆる情報を集約させていく。

 長い時間だったかも一瞬のことだったかもわからない静寂の末に、彼の重心は右足の方へ傾いた。すかさず止めようと一歩踏み出す。ところが次の瞬間には、彼の姿を視界から見失っていた。抜かれた、そう気づいても、もう遅い。今から追いかけても、彼のドライブに追いつけない。そのまま模範的なほど美しいフォームで、彼はレイアップシュートを決めた。その様に、ギャラリーが一斉に沸く。

「リトルガイが一本先取だ!」

「どうした? タイラント!」

 さっきのはフェイク。自然すぎて、そうと気付かなかったんだ。だから反応できなかった。……なんて技術の高さ。どれだけの反復練習をこなせばこうなるっていうの……?

 今度はわたしがボールを持って、彼と対峙する。息つく間もなく、いきなりノーフェイクで左へ切り込んでみるが、しっかりついてきた。すかさずロールターンで一度かわし、後方へ身体を逸らすように跳びながらシュートを放つ。ターンには反応されたが、体勢の悪い状態でわたしのシュートを止めようと跳んでも、彼の手はボールに届くことはなかった。ボールはリングに触れることもなくゴールを潜り抜ける。すると、またもや拍手喝采が沸き起こった。

「さすが俺たちのタイラントだぜ!」

「俺たちの仇、取ってくれよな!」

 別に、アンタたちのためじゃない。わたしは楽しめればなんだっていい。

 これでお互いに一本ずつ。スリーポイントラインギリギリかという距離だったので、入るかどうか心配ではあったが、上手く決まってよかった。

「驚いたよ。まさかこの距離から打ってくるとはね」

「アンタこそ、思ったよりやるじゃん」

 そんな言葉を交わすが、もう相手の実力ははっきりわかった。油断なんてもってのほか。全力でやらなきゃ……負ける。

 

 一進一退の攻防を繰り広げて、ゴールはお互いに三本ずつ。あと二本先に決めた方の勝ちだ。そんな局面で、彼は弾ませていたボールを両手で掴み、そのまま流れるような動作でジャンプシュートを放つ。わたしはその一連の動作を、ただ眺めていることしかできなかった。たったそれだけの単純な動作だったのに、反応できなかった。それほどまでに無駄のない、自然すぎるフォームだったのだ。

「おいおい、肝の座った小僧だな!」

「この場面でノーフェイクかよ!?」

 周囲のどよめきが、わたしの負けをいよいよ現実的にし始めていた。あっけなく四本目を決められて、もう後がない。

 わたしはダブルバックチェンジで彼の裏をかき、すかさずダックインで右へ潜り込む。上手く彼を振り切れた。よし、このままレイアップで……。そう安心しきった矢先、踏み込むと同時に掲げたボールを、背後から叩き落とされる。

「リトルガイが止めたぁっ!」

「後がないぞ! タイラント!」

 振り切ったと思ったのに、それに追いついたっていうのか。ドライブは決して遅いつもりはない。むしろ速い方だとすら思っている。それなのに、なんてスピード……。

「楽しかったけど、これで終わりにしようか。お嬢さん」

 彼のその言葉はまるで耳に入ってこない。いや、聞こえてはいるが、頭は別のことでいっぱいだった。このままじゃ負ける。こんな得体のしれない、同じくらいの歳の奴に。このわたしが……。集中しろ。相手を見ろ。ボールを見ろ。まだ負けてない。まだやれる。

 彼のフェイクは一流だ。それは認めよう。はっきり言って、わたしでも見抜くのは至難の業だ。だから、余計な情報は切ろう。ボールにだけ集中して、とにかく一本防ぐことにだけ神経を注ぎ込む。

 彼が一歩踏み出しても、わたしがすぐに反応し、彼のドライブをことごとく止めてみせる。攻めあぐねた彼は、強引に外からのジャンプシュートに持ちこんだが、わたしが強引にチャージしたせいで体勢を崩した。本当ならファウルを取られるようなプレーだろう。だが、これはストリート。ちょっとくらいラフなプレーは気にしない。それより、あれだけフォームを崩されて打ったシュートだ。まず入らないだろう。わたしは尻もちをついた彼を放って、リバウンドを確保するためにゴール下に急いだ。やや遅れて彼も走ってくるが、わたしの方が早い。先にリングに弾かれて落ちるボールを掴み取り、そのまま得意のフェイドアウェイシュートで四本目を決めた。

「タイラントが追いついた!」

「これはどうなるかわかんねぇぞ!」

 さっきまでこの少年の側についていた観衆が、わたしの方にも流れ始めた。

「悪いんだけど、わたし負けるの嫌いなんだよね」

「それは奇遇だね。オレもさ」

 お互い睨みをきかせながら、最後のプレーになるであろうこの一瞬一瞬に、全神経を集中させる。その様に見入るように、ギャラリーも誰一人として声を発しようともしない。

 わたしはこの状況でも速攻を仕掛け、左へロールで一度かわしてから、すぐさまバックチェンジで右へ切り返した。しかし、それだけでは彼は抜けない。全速力でわたしのドライブに追いついてくる。執念深く勝ちを追い求めてくる。わたしと同じ、負けず嫌いってやつなんだろう。わたしだって負けたくない。勝つのはわたし。

 わたしは高速でドライブする足を急停止させるように踏み切り、ジャンプシュートを放つ。フリースローラインのすぐ右側、わたしの最も得意なコース。ここからのシュートを外すなんて、ありえない。彼もボールの軌道から察したのか、リバウンドに向かおうともしない。ゴールネットを揺らす無情な音に、静まり返っていたギャラリーが沸き立った。

「……負けたよ。でも、楽しいゲームだった」

 そう言って手を差し出してくる彼は、憑き物が落ちたような、なんだか清々しい顔をしていた。わたしも、同年代でここまでのプレーをする奴を見たのは初めてだった。彼の手を取って、ぎゅっと握る。本当に細い、か弱そうな手だ。わたしなんかよりもよっぽど女の子みたい。

「アンタ、名前は?」

「タツヤ。タツヤ・ヒムロだ。君は?」

「わたしはヘザー。ヘザー・ウェールズ・ミナセ」

「そうか。覚えておくよ」

 彼とはまた勝負してみたい。1on1(ワンオンワン)だけでなく、ちゃんとしたゲーム形式のバスケも。いつかまた会えるだろうか。そんなことは言いだせないまま、彼はその漆黒の髪を揺らしながら去っていった。この少し肌寒い夜のように、凛とした微笑みを残して。

 

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