「……ただいま」
誰もいない家にそう呟いて、部屋にカバンを投げ込み、制服を脱ぎ捨てる。ようやく解放された気分だ。学校なんてものは、本当に窮屈で仕方ない。行かなくちゃならない意味がわからない。
さっと着替え、肩下まで伸びてきた髪を結わえた。そしてボールを抱えて再び家を飛び出していく。わたしには、この身一つとこの一球があれば、それでいい。家を出たところからいつもの場所まで、硬い革のボールを弾ませた。障害物や通行人をかわしながら、ボールも体の一部分のように、わたしのテリトリーから絶対に逃がさない。わたしにとっては、外すべてがバスケットコートなのだ。
町外れにある、廃ビルに囲まれた空き地。そこがわたしの目的地。ここにはハーフコートと、使い古されたバスケットゴールがあり、日夜賭けバスケが行われている。
それにしても、今日は一段と騒がしい。人も多く集まっている。何かあったのだろうか。
「ヘイ、来たな! 面白ぇことになってるぜ。ありゃ、なかなかお目にかかれたもんじゃねぇよ。お前も早く来な!」
野次馬の一人がわたしに気づくと、その群れに道を開けさせ、わたしを通す。人垣の間から、ちらりとゲームの様子が覗き見えた。細い指先からボールが放たれていく様子が、まるでスローモーションのように流れていく。引き込まれるほど洗練された、綺麗なフォーム。そのままボールは、それが当然のようにゴールを通り抜け、途端に歓声が沸いた。
その勢いに、最前列まで押し流され、コートに足を踏み入れる。と、嫌というほどに感じるピリピリとした闘志。しかしコートに立っているのは、線も細く、静かな雰囲気を纏った少年。歳はわたしと同じくらいか。東洋人にしては色も白く、前髪に隠れていない物憂げな右目からは、どこか儚げな印象すら受ける。彼がこの闘志を放っているというのか。
「いい気になるなよ、リトルガイ。これからが本命だ。我らがおてんば姫、“
周りに囃し立てられながら、野次馬の群れに背中をバンと叩かれ、無理矢理コートに押し出された。しかしいい加減、その呼び方はどうにかならないものか。
「キミが……? へえ、随分期待されてるんだね。オレも期待していいのかな?」
「そういうアンタこそ、結構やるみたいじゃん。暇つぶしくらいには、なってくれないと困るんだけど?」
お互いに不敵な笑みを浮かべながら、挑発し合う。
「五本先取ってことで。そっちからでいいよ」
ゴールを背に、ボールを受け取った彼と対峙する。歳は同じくらいといっても、女のわたしと彼とでは、高さの面で不利なのは変わらない。だから、いつもどおりやるだけだ。
一歩分の空間を隔てて、彼はその場でボールを弾ませる。どう仕掛けてくる? 手の動き、重心の移動、視線。目の前の相手のあらゆる情報を集約させていく。
長い時間だったかも一瞬のことだったかもわからない静寂の末に、彼の重心は右足の方へ傾いた。すかさず止めようと一歩踏み出す。ところが次の瞬間には、彼の姿を視界から見失っていた。抜かれた、そう気づいても、もう遅い。今から追いかけても、彼のドライブに追いつけない。そのまま模範的なほど美しいフォームで、彼はレイアップシュートを決めた。その様に、ギャラリーが一斉に沸く。
「リトルガイが一本先取だ!」
「どうした? タイラント!」
さっきのはフェイク。自然すぎて、そうと気付かなかったんだ。だから反応できなかった。……なんて技術の高さ。どれだけの反復練習をこなせばこうなるっていうの……?
今度はわたしがボールを持って、彼と対峙する。息つく間もなく、いきなりノーフェイクで左へ切り込んでみるが、しっかりついてきた。すかさずロールターンで一度かわし、後方へ身体を逸らすように跳びながらシュートを放つ。ターンには反応されたが、体勢の悪い状態でわたしのシュートを止めようと跳んでも、彼の手はボールに届くことはなかった。ボールはリングに触れることもなくゴールを潜り抜ける。すると、またもや拍手喝采が沸き起こった。
「さすが俺たちのタイラントだぜ!」
「俺たちの仇、取ってくれよな!」
別に、アンタたちのためじゃない。わたしは楽しめればなんだっていい。
これでお互いに一本ずつ。スリーポイントラインギリギリかという距離だったので、入るかどうか心配ではあったが、上手く決まってよかった。
「驚いたよ。まさかこの距離から打ってくるとはね」
「アンタこそ、思ったよりやるじゃん」
そんな言葉を交わすが、もう相手の実力ははっきりわかった。油断なんてもってのほか。全力でやらなきゃ……負ける。
一進一退の攻防を繰り広げて、ゴールはお互いに三本ずつ。あと二本先に決めた方の勝ちだ。そんな局面で、彼は弾ませていたボールを両手で掴み、そのまま流れるような動作でジャンプシュートを放つ。わたしはその一連の動作を、ただ眺めていることしかできなかった。たったそれだけの単純な動作だったのに、反応できなかった。それほどまでに無駄のない、自然すぎるフォームだったのだ。
「おいおい、肝の座った小僧だな!」
「この場面でノーフェイクかよ!?」
周囲のどよめきが、わたしの負けをいよいよ現実的にし始めていた。あっけなく四本目を決められて、もう後がない。
わたしはダブルバックチェンジで彼の裏をかき、すかさずダックインで右へ潜り込む。上手く彼を振り切れた。よし、このままレイアップで……。そう安心しきった矢先、踏み込むと同時に掲げたボールを、背後から叩き落とされる。
「リトルガイが止めたぁっ!」
「後がないぞ! タイラント!」
振り切ったと思ったのに、それに追いついたっていうのか。ドライブは決して遅いつもりはない。むしろ速い方だとすら思っている。それなのに、なんてスピード……。
「楽しかったけど、これで終わりにしようか。お嬢さん」
彼のその言葉はまるで耳に入ってこない。いや、聞こえてはいるが、頭は別のことでいっぱいだった。このままじゃ負ける。こんな得体のしれない、同じくらいの歳の奴に。このわたしが……。集中しろ。相手を見ろ。ボールを見ろ。まだ負けてない。まだやれる。
彼のフェイクは一流だ。それは認めよう。はっきり言って、わたしでも見抜くのは至難の業だ。だから、余計な情報は切ろう。ボールにだけ集中して、とにかく一本防ぐことにだけ神経を注ぎ込む。
彼が一歩踏み出しても、わたしがすぐに反応し、彼のドライブをことごとく止めてみせる。攻めあぐねた彼は、強引に外からのジャンプシュートに持ちこんだが、わたしが強引にチャージしたせいで体勢を崩した。本当ならファウルを取られるようなプレーだろう。だが、これはストリート。ちょっとくらいラフなプレーは気にしない。それより、あれだけフォームを崩されて打ったシュートだ。まず入らないだろう。わたしは尻もちをついた彼を放って、リバウンドを確保するためにゴール下に急いだ。やや遅れて彼も走ってくるが、わたしの方が早い。先にリングに弾かれて落ちるボールを掴み取り、そのまま得意のフェイドアウェイシュートで四本目を決めた。
「タイラントが追いついた!」
「これはどうなるかわかんねぇぞ!」
さっきまでこの少年の側についていた観衆が、わたしの方にも流れ始めた。
「悪いんだけど、わたし負けるの嫌いなんだよね」
「それは奇遇だね。オレもさ」
お互い睨みをきかせながら、最後のプレーになるであろうこの一瞬一瞬に、全神経を集中させる。その様に見入るように、ギャラリーも誰一人として声を発しようともしない。
わたしはこの状況でも速攻を仕掛け、左へロールで一度かわしてから、すぐさまバックチェンジで右へ切り返した。しかし、それだけでは彼は抜けない。全速力でわたしのドライブに追いついてくる。執念深く勝ちを追い求めてくる。わたしと同じ、負けず嫌いってやつなんだろう。わたしだって負けたくない。勝つのはわたし。
わたしは高速でドライブする足を急停止させるように踏み切り、ジャンプシュートを放つ。フリースローラインのすぐ右側、わたしの最も得意なコース。ここからのシュートを外すなんて、ありえない。彼もボールの軌道から察したのか、リバウンドに向かおうともしない。ゴールネットを揺らす無情な音に、静まり返っていたギャラリーが沸き立った。
「……負けたよ。でも、楽しいゲームだった」
そう言って手を差し出してくる彼は、憑き物が落ちたような、なんだか清々しい顔をしていた。わたしも、同年代でここまでのプレーをする奴を見たのは初めてだった。彼の手を取って、ぎゅっと握る。本当に細い、か弱そうな手だ。わたしなんかよりもよっぽど女の子みたい。
「アンタ、名前は?」
「タツヤ。タツヤ・ヒムロだ。君は?」
「わたしはヘザー。ヘザー・ウェールズ・ミナセ」
「そうか。覚えておくよ」
彼とはまた勝負してみたい。