あけぼのさがし   作:広田シヘイ

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第三話『食堂の章』

 

 

 

 

 

 

 早朝四時半。

 私は、割烹着に三角巾、そしてマスクという完全装備で食堂を目指していた。

 朝の麗らかな陽射しとはいえ私には辛い。このところずっと屋内で過ごしていたし、この間久し振りに外出したのも深夜だった。

 息が苦しいのでマスクは外してしまいたかったが、少しでも露出面積を少なくしたいという気持ちが勝っていた。

 このような気分を体験すると、自分がいかに閉じ篭っていたかを実感する。

 マスクは、外出しなければならないとする私と、こんな爽やかな空の下を歩くのは(はばか)られるとする私の(せっ)(ちゅう)案だ。

 色々と手続きが必要な、面倒臭い艦娘になったものだ。

 食堂のある庁舎までもう少しの辛抱だと、自分に言い聞かせるように深呼吸したその時、前方に人影を確認した。

 それは、ランニングをしている長良(ながら)だった。

 朝からトレーニングに励んでいることは知っていたが、こんな時間から走っているのか。

 バレないように目線を下げる。何も悪いことはしていないのだが、何故だかとても後ろめたい。

「おはようございます!」

 すれ違いざま元気よく挨拶をする長良に会釈をして応える。おはようございます、と発したつもりだったが、声が弱すぎてマスクに全て吸収された。

「あれ?」

 やり過ごしたと思いきや、長良は後退し足踏みをしたまま私の顔を覗く。

 目線が挙動不審になり鼓動が早くなる。訳が判らなくなって、右手で顔を隠しつつ、どうもと言ってまた頭を下げた。

 二、三歩の沈黙の後──。

「あ、あけぼのっ!」

 長良に叫ばれた瞬間、私は全速力で走り出していた。

 

 

 庁舎のエントランスホールで、私は息も絶え絶えに冷水機の水を飲んでいる。

 とにかく息が苦しい。マスクなどしている場合ではない。

 冷水機のペダルを踏んでいる右足が痙攣する。

 情けない。

 少し走ったくらいじゃないかと自分に呆れる一方で、追いかけてきた長良にも多少腹が立っていた。長良が追跡を諦めたタイミングはよく覚えていないが、多分、百メートルは追いかけられた。

 私は全力で走っていたのに、長良は私の名前を呼びながら、余裕を残しつつ併走していたのである。

 こんな朝から。

 私がちゃんと事情を説明していればそれで良かったのだけど。

 他人と話す準備が出来ていなかったのだ。そんなことに準備が必要になるなんて、これも空白の三ヶ月間の成果だろう。

 水を飲み終えて床に座り込む。もう帰りたいと思ったが、明石さんの工廠を訪れた時にもこんなことを考えていたことを思い出して、小さな自己嫌悪の波に襲われる。

 もうここまで来てしまったし、これで帰ったら今日は長良に不審な格好で歩いていたところを発見されただけで終わるので、多少身を奮い立たせても食堂に辿り着かなければ決意との採算が合わない。

 それでも、今までの生活よりは随分とマシなものだろうが。

 私は自虐的に少し笑って、何とか立ち上がり食堂へ向かった。

 

 食堂はこの庁舎の東側に新設された。以前は二階の西側だったから逆方向である。

 私が元気だった頃から食堂の移設工事は始まっていた。旧食堂の座席数をしっかりと数えたことはないが、多分座れて五十名だろう。

 総員数は当時で百名を超えていたから半分も収容できない。遠征や演習、訓練などそれぞれ当番があるので、同じ時間に全員が集中することはないのだけど、それでもかなり窮屈だった。廊下に席を設けるなどして対応していたのだが、見た目も悪いし、こと食に関することは士気に直接影響するという判断で工事が決まったのである。

 移設が決まって一番喜んでいたのは意外にも青葉(あおば)だった。旧食堂のスペースは青葉新聞の編集部として使用して良いとの許可が下りたからである。

 報せを受けた青葉が狂喜していたのを私はよく覚えている。

 そういえば青葉新聞もしばらく読んでいない。記事の内容はゴシップ寄りだったが、その日の担務表が載っていたので結構便利だったのだ。毎週火曜日と金曜日に掲載される秋雲(あきぐも)の四コマも楽しみだったし。

 十九世紀のアメリカのゴールドラッシュで一攫千金を夢見る日本人を描いた『定吉ラッシュ』というタイトルの作品で、これがなかなか侮れない。

 時々四コマ目で敢えて落とさないのがたまらなくツボだった。定吉がジョン万次郎と偶然出会ったところを最後に私は読んでいないのだが、定吉は今頃どうなっているのだろうか。

 

 そんなことを考えているうちに、新しい食堂の入り口に到着した。

 準備中と書かれた看板を擦り抜けて中に入る。

 そこで、私は思わず息をのんだ。

 落ち着いた焦茶色を基調としたホールは吹き抜け構造で、百名どころか二百名を収容しても余裕がある程の広さだった。中庭に面した曲面はガラス張りで、朝日を柔らかく反射する緑が見える。軍の施設というより、リゾート地の高級宿泊施設だ。

 私はただただ圧倒されて、すごい、と呟いた。

 皆はこんな場所で食事をしていたのかと思うと、何だか悔しいような気持ちになった。

 閉じ篭っていた自分が悪いのだけど。

 それは解っているのだが。

 口をだらしなく半開きにしながら、中空を見上げ呆然としている自分に気がついて、頰を叩いて気合いを入れ直す。食堂内を散策してみたいとも思ったが、それではいけないのだ。それは後からでも出来る、と決意を新たにして厨房を探す。

 辺りを見回すと、二階席の下、開店前の酒保の横にカウンターが見えたので、その奥が厨房なのだろう。

 私は軽く息を吐いてから、歩幅も広くそちらへ向かった。

 近づくにつれ、コーンスープの甘い匂いが鼻腔に侵入して来る。

 今日の朝食Bのメニューだろう。ちなみに、Aが和食でBが洋食だ。定食は朝昼夜それぞれこの二種類しかないが、毎日献立は変わるし、麺類やサイドメニューもそこそこ豊富なので艦娘達からの不満もない。

 大体、百名を超える艦娘の食事をたった二人の給糧艦が賄っているのである。その労働量たるや推して知るべしである。感謝こそすれ不満の出ようはずもない。

 私達にも食堂当番という重要な任務があるのだが、二人の補助や、食堂の新設に伴って明石(あかし)さんの工廠から食堂に移ってきた酒保の管理をするだけで、二人の代わりには到底なれない。

 偉大なのだ。彼女達は。

 多分、第一艦隊の旗艦を長く務める長門(ながと)や、我々艦娘の象徴たる大和(やまと)さんよりも。

 何処の世界でも食堂のおばちゃんは強いのである。

 おばちゃん、というのは二人に失礼かもしれないが。

 

 厨房に足を踏み入れる。

 私は少し緊張していた。明石さんの工廠を訪れた時もそうだったが、今や私は立派なストレンジャーだ。

 伊良湖さんの後姿が見える。しゃがんで火力の調節をしているようだった。

「お、おはようございます」

 ぎこちのない挨拶だと、我ながら思う。

「おはようございます」

 しゃがんだまま、笑顔でこちらを振り向く伊良湖(いらこ)さんの表情が一変する。

「あ、曙さん!」

 私は照れながら、どうも、と言ってまた頭を下げた。

「ま、間宮(まみや)さん! ちょっと、間宮さん!」

 伊良湖さんは立ち上がって、奥に向かって間宮さんを呼んだ。こちらを指差し、足踏みしつつ少し跳んだりしている。

 そんなに大ごとなんだ。

 顔を見せただけでこれだけ反応されると、何だかこそばゆい気持ちになる。

 伊良湖ちゃん何かあった、という声が聞こえてすぐに顔を覗かせた間宮さんと目が合う。

 私は苦笑して会釈をする。

「どうしたの!」

 間宮さんも伊良湖さんと同様、とても驚いた様子だった。

 まるで家出娘が帰って来たみたいだ。私は家を出なくて困っていたのだけど。

 間宮さんは駆け寄ってきて、両手で私の頬に触れた。

「曙ちゃん、大丈夫なの! 体は良いの!」

「えぇ、まぁ」

「あら、汗かいてるじゃない! 具合悪いの?」

 それは長良のせいである。

「大丈夫です。さっきちょっと走ったので」

「そう、良かった。外に出られるようになったのね!」

 良かった良かったと繰り返して、間宮さんは私の頬をつねって左右に広げる。

 ふぁりがとうごあいます、と私は言った。

「本当に良かったですね。それにしても、今日はどうしたんです? そんな格好して」

「あら本当。食堂当番みたいじゃない」

 間宮さんは頬から手を離して、しげしげと私の服装を見る。

「えぇ、と。その」

 私は二人から目線を外して頬を掻いた。

 お手伝いさせて下さい、という言葉がすんなり出ない。

 格好も格好だからほぼバレてはいるのだろうが、何だかとても恥ずかしいような、図々しいような複雑な気分だ。

 というのも、食堂の手伝いをするという元々の発想が、私のものではないからである。

 

 

 明石さんの工廠を訪れて散々泣き腫らした夜に、私は工作艦になるという決意を固めていたのである。

 実際その場で宣言もした。弟子にしてください、とも言った。

 そうなったら夕張は私の兄弟子になるのだろうか、いや、夕張は軽巡のままなのだから本格的な弟子ではないはずであり、よって私が一番弟子である、というようなよく判らない想像もした。

 それを聞いた明石さんは大層喜んでくれて、私を思い切り抱きしめてくれたのだが。

 結果、断られた。

 もう少し待って秋になっても海に出ることが叶わないのなら、その時また考えようと言われたのである。

 私はすぐにでもスパナを持ってボルトを締めたかったので、何だかお預けをくらった心持ちだったが、師匠がそう言うのなら仕方がないし、そもそも迷惑をかけた関係各所への挨拶は済んでいるのか、とも言われた。

 潮と漣、朧の三人の顔が頭に浮かんだ。

 しかし、合わせる顔がないと思った。

 その事を明石さんに言うと、じゃあ顔を合わせられるようになってからだね、と言われた。

 確かにその通りなのだが。

 本当に、どんな顔をして会えばいいのか判らないのである。

 潮には、あんな酷いこともしてしまったし。

 その時の私は相当に憂鬱な顔をしていたのだろう。明石さんは考えなくていい、自然体でいい、と言ってくれた。続けて明石さんはこう言った。工廠は時々でいいから、曙の出来る範囲でいいから、他所(よそ)を手伝いなさい、例えば──。

 

 ──食堂とか。

 

 私は多分、憂鬱な表情から苦虫を噛み潰したような表情に変わった。

 食堂がどれだけ大変かは当番をこなすことで理解していたつもりだし、間宮さんと伊良湖さんの力になれるのならそんな嬉しいことはないとも思ったのだが、如何(いかん)せん閉じ篭るようになってからというもの、「食べ物」が苦手になったのである。

 臭いで具合が悪くなるし、酷い時には見ただけで気分が悪くなった。

 食堂手伝いということは、料理される前の「食べ物」とも対峙しなければならず、それは今の私が耐え得るものだろうか。

 明石さんはそんな逡巡を知ってか知らでか、いいから行きなさい! と抜群の笑顔で私の背中を叩いた。

 あんな笑顔で背中を押されると、何でも出来そうな気になってしまうのが不思議である。

 

 私が食堂にいるのは、そんな経緯だ。

 

 言葉に詰まったまま、二人に目線を戻す。

「ほら、言ってみなさいよ」

 間宮さんはニヤけながらそう言った。

「間宮さん、そんな意地悪しなくても」

「伊良湖ちゃん失礼ね。意地悪でも何でもないわよ。何だって伝えないと伝わらないんだから」

 伊良湖さんがこちらを見て苦笑した。

 私は観念して話そうと思ったのだが、口が「お」を発声する形のまま一、二秒固まった。

 往生際が悪い。

「──お、お手伝いさせて下さい」

 そう言うと、間宮さんは満面の笑みを浮かべて私を抱き締め、頭を撫でながら偉い偉い、と繰り返した。

 照れる。

「助かります。有難う、曙さん」

「そうと決まればどーんとやってもらうわよ。曙ちゃんが残したご飯見て、どれだけ心配したことか──」

 その言葉を聞いて、ほぼ毎食残していたことに気がつく。

 先日、潮が持ってきた二人分の夕食も手をつけなかった。

 もしかしたら、私は想像以上に他人を傷つけていたのかもしれない。

「その分、返してもらうんだから」

「す、すみませんでした」

「いいのよ。さぁてと、何をやってもらおうかなーって、そういえばみんなはどうしたの?」

「みんな?」

 二人がきょとんとする。私もきょとんとした。

「当番で来たんでしょ?」

「とうばん?」

 鸚鵡返ししかしていない。

「もしかして、曙さん知らないで来たんですか?」

 二人は何を言っているのだろう。

 脳が高速で回転を始める。

 

 

 ──みんな。

 ──知らないで来た。

 

 

 一つ思い当たる節がある。

 しかし、それは結構最悪だ。それは本当に結構最悪だから、そんな真逆(まさか)があっていい訳がない、と思っていたら後方から声がした。

 悪い予感はあたるものである。

「おっはよーございます」

 振り返り背後を見る。

 そこにいたのは、漣と朧だった。

 今日の食堂当番は七駆だったのか。

 血の気が引いて軽く目眩がした。

「あぁ! あけぼのっ!」

 私は咄嗟に逃亡を図ったが、その経路を朧がカバーリングして塞ぐ。キッチンの台を挟んで朧と私は対峙した。

「何やってんのよ! こんなところで!」

「私の勝手じゃない!」

 軽く右側にフェイントを入れたが、朧は引っ掛からない。

 重心を低く保ち、私の目線を注視している。

 本気だ。

「勝手って。どんだけ勝手すれば気がすむのよ!」

「知らないわよ! いいから通して!」

 一瞬、朧の重心が左足に乗ったので、その隙を突き左サイドへの突破を試みたのだが、朧は戦闘中でも見たことのないような瞬発力を見せて、私の行く手を阻む。

 急制動に床が鳴り、台の上の調理器具も音を立てて揺れる。

 危ない。朧のフェイクに引っ掛かるところだった。

「絶対逃がさないから」

 目を逸らしたら負ける。

 朧と睨み合いながら、ステップを踏み台の中心へとポジションを戻そうとしたその時。

「漣をお忘れですかぁ」

 そうだ、こいつも居たのだ。

 不意を突かれた私は右側から強烈なタックルを喰らって倒れる。そのままマウントをとられて両手を押さえつけられた。

 照明を遮って漣は不気味に笑う。

「おかえりぃ、あけぼの」

 私は声を張り上げて抵抗する。

 左手が外れたと思ったその瞬間、援軍に駆けつけた朧にアームロックを決められ勝敗は喫した。

「逃げられると思ったの!」

「私たち、しつこいから」

 肘がみしり、と音を立てる。込み上げる悔しさに、私が「畜生!」と叫ぶと──。

「あなたたち、何やってるの?」

 とても静かな、しかし強烈な怒気の籠った間宮さんの声がした。

 まるで号令が掛かったように、私達は素早く整列した。

「ここ──食事を作るところなんだけど」

 恐いなんてものじゃない。

「すみませんでした!」

 私達は多分、もの凄く綺麗な角度で頭を下げていた。

 横の漣は指先を伸ばしすぎたせいで、指が外側に()ねていた。

 ひよこか。

 

 三人並んでジャガイモの皮を黙々と剥く。

 叱られた後は、何時だってバツが悪い。

 食べ物と向き合うことを不安に思っていたが、あまり嫌な気分はしない。

 芋は生き物ではないからだろうか。

「あのさ──」

 剥いた芋をごろんとボールに投げ入れて漣が言う。

「一心不乱におジャガを剥くのはいいんだけどもさ。曙、アンタ私達に何か言うことあるでしょ」

「悪かったわよ」

「私、割とマジで怒ってる。何で秘密にしなきゃいけないのよ」

「だから悪かったって。私だってまだ自分の調子をよく解ってないの」

「でも、一番に私達のところ来て欲しかったなぁ」

「心配したよね」

「ねえ?」

「タイミングが無かったの!」

「あ、出た出た。デレのフリが出ましたよぉ」

「ツンだね。懐かしい」

「あんた達本当に怒ってるの! 巫山戯(ふざけ)てるの!」

「巫山戯ながら怒ってるの」

「私は怒りながら巫山戯てる」

 肩の力が抜ける。確かにこの感覚は懐かしい。漣に(もてあそ)ばれている感じと、あくまで真面目にそれに乗る朧の感じ。朧は真剣に天然で乗ってくるから、ぞんざいに怒れないこの感じ。

 疲れるようで、落ち着くような、不思議な感覚だ。

「ごめん。本当にごめん、許してよ。分かるでしょ? その、近いから逆に、みたいな」

「全然解らないっす」

「私も」

 こいつら。

「だから、一番心配かけて迷惑かけた一番大事な仲間だから、なかなか会い辛いっていうの解るでしょって!」

 漣がニヤリと笑う。

「何て? 一番、何て?」

「心配かけたなって」

「その次だよ」

 右も左も敵だ。

 両舷から二人に見つめられる。

 やっぱりこいつらムカつくかもしれない。

「一番、大事な仲間でしょ!」

 漣がフーと声をあげて外国人みたいなリアクションをした。

 朧は冷静に、恥ずかしいと言う。

 悪魔か。

「まぁまぁ、とりあえずはそれでいいか。朧はどう?」

「許すよ」

 許してもらったらしい。

「で、今日から帰ってくんの?」

「帰るって、何処に」

「部屋に」

 あぁ、忘れていた。私達は四人部屋で文字通り寝食を共にしていたのだった。

 しかし──。

 私はまだ皆と同じ任務をこなすことは出来ないし、正直、七駆に復帰することは無理なのではないかと思っている。

 こうして一緒にジャガイモの皮を剥くのが精一杯なのだから、海に出ることなど。

 ましてや戦闘など──。

「まだ、無理かな。戻りたいけど、お互いのためにも別の方がいいよ」

 工作艦への艦種変更を考えていることは黙っていた方がいいと思った。

「待ってるよ」

「早く戻って来てね」

 作業を続けながら二人は言う。

 二人は、私が戻らない可能性を考慮しているのだろうか。

 いや、多分していないのだろう。私が遠くない未来に必ず復帰すると、信じて疑っていない。

 この信頼を私はどう受け止めたらいいのだ。

「それにしても寂しいんだよなぁ。今は朧と二人だもんねぇ」

「ねえ」

 朧と二人。

 潮は。

 そういえば潮はどうした。

「潮は? 風邪でも引いたの?」

「ほい? 風邪は引いてないと思うけど」

「じゃあ、何でいないのよ」

「何言ってんの。作戦行動中だからに決まってるでしょ」

 朧の言葉が頭の中で意味を成すのに時間が掛かった。

 作戦行動とは何だ。

「何よ、それ」

 漣は少し考え込んで、訝しげに私を見る。

「もしかして、潮から聞いてない?」

「何を」

「やっぱり。あの子言ってないんだ。あの時、潮ちょっと変だったもん」

「何のことよ!」

 色々とこじれてるなぁと漣は言う。

 

 

「あのね、あの子第一艦隊に編入されたの」

 

 

 第一艦隊。

 潮が──。

「本当に聞いてないの?」

 聞いていない。

 何の話だ。

「正式に決まったのっていつだっけ?」

「えーと、一昨日だったかな。んで、出撃が昨日の朝」

 目眩がして倒れそうになる身体を、右足を半歩下げて支えた。

 私の知らないところで、一体何がどうなっているのだ。

「だって潮が最終的に決めたのって曙の部屋行ってからじゃん。それまで散々悩んでたのにさ」

「だから、あの時潮ちょっと元気なかったもの。その事で喧嘩でもしちゃったのかなーって思ってたんだけど、真逆言ってないとはねぇ」

 

 ──相談が。

 

 相談とは──そのことだったのか。

 

「七駆離れたくないって煩瑣かったのに。曙、部屋で何があったのよ」

 二人が作業を止めこちらを見る。

 私は、あの日相談に来た潮を怒鳴り散らして追い返したことを話した。

 それを聞いた漣と朧は同時にため息をついた。

「何でそうなるかなぁ」

「反省してるわよ」

「とりあえず潮が帰って来たら仲直りしないとね」

「いつ戻ってくるの?」

「二週間くらいだっけ。十日?」

「予定では十日間だね」

「潮、大丈夫だよね?」

 急に不安になった。

「大丈夫でしょ。第一艦隊だよ? ウチの精鋭だよ」

「よくよく考えたら、潮凄いな」

「差をつけられちゃったなぁ」

 漣は何故か嬉しそうに言った。

 元々、潮は極端に自信がないだけで、センスで言えば七駆で一番なのである。

 それに比べて私は、といつしか癖になってしまったネガティヴな思考に陥るところだったので、頭を軽く振ってそれを振り払った。

 今は、この芋でサラダを作ることが私の仕事なのである。

「次茹でるんだっけ? おジャガは鍋に入れていいの?」

 朧が言う。さっきも少し気になったのだが「おジャガ」という呼び方は今の七駆の流行りなのか。

「まだ水じゃん」

「もう入れていいんだよ。確か」

 私も自信はない。

「どうすんのさ? ジャンケン?」

 よーし、と漣が気合を入れて腕を捲ったので私は急ぎ制止した。

「待って待って! この二択をジャンケン任せにするのはマズイわよ」

「なんでさ」

「恨みっこなし、だもんね」

「いやいや、鎮守府全体から恨まれる可能性があるでしょうよ」

 ノリでやってしまってはいけないことがこの世には沢山ある。おジャガを茹でるタイミングもそのうちの一つだ。

 大体、エキスパートがすぐ近くにいるのだから。この場合。

「聞こうよ。間宮さんに」

 聞いてくる、と言って場を離れようとしたその時、漣に腕を掴まれる。

「一緒に行こうよぉ」

「一人でいいでしょうに」

「曙、もう単独行動はなしだよ」

 朧がもう片方の腕を掴んで言った。

 そんな大袈裟な、と途中まで言いかけて止まった。

 朧の顔は真剣だった。

 漣がにひひと笑う。

「もう逃げられないよぉ」

 観念して二人に従った。

 面倒だが不思議と心地が好い。

 

 私がどんなになっても、二人はこうして離さないでいてくれるだろうか。

 ここに潮がいれば、どんな顔をして笑っていただろう──。

 

 帰って来たら謝らなければならないなと、当たり前のことを思った。

 

 

            ※

 

 

 午後二時過ぎ。

 昼の混雑も落ち着き始めた頃、間宮さんから今日は上がっていいと言われた。

 私としては最後までやり抜きたかったのだが、初日から根を詰めてしまっては保たないからと伊良湖さんからも言われたので、二人の配慮に甘えて部屋に戻ることにした。

 漣と朧には、空いた時間を極力七駆で過ごすことを約束して別れを告げた。

 久し振りに会った割には、思った以上に自然に振る舞えたと思う。

 私の考え過ぎだったのかもしれない。二人には感謝せねばなるまい。

 しかし、潮のことが気がかりだった。

 潮の性格からして、今も不安でいっぱいだろう。

 不安でいっぱいなのに、それをひた隠しにして、必死に作戦を遂行しているに違いない。

 友人失格だな、と庁舎の外に出て空を見上げる。夏の陽射しが容赦なく私を襲った。

 足が重い。

 食堂当番で立ちっぱなしだったこともあろうが、考えてみれば今日の一日は長良に追いかけられたことから始まっていたのである。

 その後、漣と朧とも大立ち回りを演じたし。

「長良のやつ」

 と呟いて疲労の全てを長良のせいにしたその時。

 前方を走る人影を確認した。

「嘘でしょ」

 背中に悪寒が走った。

 向こうも私を確認して速度を上げる。

 

 ──それは長良だった。

 

 何故こんな時もトレーニングをしているのだ。

「あけぼのっ! 待ちなさいッ」

 長良が叫ぶと同時に私は百八十度回頭して、もはや逃げる理由も判らないままに全速力で走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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