陳列された本を前に、私はただただ呆然と立ち尽くしていた。
どの本を手に取ろうかと迷い始めて、かれこれ一時間は経っているに違いない。
思うに、この書店のディスプレイが良くないのである。
基本、版元ごとに分類されてはいるのだが、作家名で五十音順にきっちり並んでいないし、純文学的なタイトルが続いているかと思えば、急に料理本が挟まっていたりする。それでは探索するこちらのリズムも崩れようというものである。
まあ、手に取った後元の場所に戻さない不心得者も多いのだろうが。
見たところ店の主人も立派な爺だから、直す気力もないのかもしれない。
このままだと本を探しているだけで日が暮れる。そんな事態は何としても回避したい。
気分を変えるため、店の奥の棚に移動する。
そこには参考書や資格本が並んでいた。
海に出られなくなった私には打って付けかもしれないが、今はそういう読書をしたい訳ではない。忘れかけていた未来への不安が押し寄せてきて、何だか鬱屈した気分になった。
溜息を吐いて隣の棚を見る。
全体的に何だか黒い。それは
恥ずかしさで顔が火照るのが判った。不潔である! という嫌悪感と同時に、何だかカロリーの高いそれらのタイトルに興味を唆られているのも事実だった。
中腰の状態から、その本棚に手を伸ばしかけたその瞬間──。
「あー、給糧艦の曙だー」
という何とも間延びした声が聞こえた。
私は身体に電気を流されたかのように痙攣して、反射的に回転し後方を振り返った。
そこにいたのは
「な、何してんのよ北上!」
「奇遇だねー。あは、曙こそ何やってんの?」
私の背後の棚を見て北上はニヤける。
「何もしてないわよ!」
「えー、だってそれエロいやつじゃーん。超エロいやつじゃーん」
「静かにしなさいよ!」
そして二回も言うな。
「お子ちゃまはまだ読んじゃダメなんですよー」
ケタケタと笑いながら北上は言った。
何だか最近妙にツイてない気がする。それもこれもあの日潜水艦から魚雷を喰らったせいである。まあ、あれに関してはツイてるツイてない以前に死にかけたのだが。
「それにしても珍しいね、曙が本を探してるなんて。どういう風の吹き回しさ?」
もの凄くバカにされた気がしたが、確かに本は読まないので反論出来ないのが情けないところである。
北上の言う通り珍しいのだ。私が本屋にいることは。
それも、酒保ではなく鎮守府外の個人書店に。
食堂を手伝い始めて五日経った昨日、間宮さんから明日は非番だと告げられた。
私は休みなどいらないと言ったのだが、しっかり休むのも仕事だと譲ってはくれなかったので仕方なく了解した。
休みが嫌いな訳ではない。ただ、一人で休日をどう過ごせばいいのか判らなかったのである。
潮は出撃中でいないし、漣と朧も今日は演習で夜までいない。
鎮守府内をぶらつくのも、今は何だか恥ずかしいのである。
毎日日替わりの食堂当番にいじられまくったのも影響しているのかもしれない。大破して三ヶ月閉じ篭っていた駆逐艦がひょっこり現れたら珍しいのも解るし、皆が本当に心配してくれていたのも痛いほど判って嬉しかったのだが。
やはり何処か、恥ずかしいのである。
注目して下さいと
かと言って部屋で暇を潰すのも、思い出したくもない地獄のようなあの日々に戻ってしまいそうで、とてつもなく嫌だった。
そういった消極的な理由で外出し、十分ほど歩いて目に付いたこの本屋に衝動的に入店した。
読書は、こういった時間を潰すもののような気がしたし。
そんな経緯は説明していられないので、
「いいじゃない、別に」
とだけ言った。我ながら
しかし、それを言うなら北上が本屋にいることだって珍しいのである。いつも
「北上も人のこと言えないでしょ。何だってこんなところにいるのよ」
「私はこの本屋に結構来るよ」
「嘘つきなさいよ」
「北上様は文学少女なんですよー」
「だから嘘つきなさいって」
「本当だよ。信用ないなー」
少し
いつものように、のらりくらりと適当なことを言ってはぐらかしているのだろうと思ったのだが、この反応だと違うのかもしれない。
「北上が本当にブンガク少女だとして、何でこんな本屋に来るのよ。品揃えも良くないし」
本が見つからない不満も乗せて北上へぶつける。
店の親父さんに聞こえちゃうよ、と北上は笑った。
「近くに大きいショッピングモールあるでしょ。あそこに行けばいいのに」
「確かにあっちの方が揃ってるけどさ、何か趣がないよねぇ。それに近いって言うけど、地味に遠いんだよー。バイクで二十分近くかかるよ」
──バイク。それでヘルメットを被っているのか。
「でも、趣じゃ品揃えをカバー出来ないでしょ」
「この店ね、実は詩集が充実してるんだ」
詩集。
ほらこっち、と言って北上は角の棚に移動する。
「これ全部詩集だよ」
確かに店舗のサイズと比べてこの占拠率はおかしい。
私もこの棚に目を通していたはずなのだが、あまり記憶になかった。詩など私が読むものではないと
「個人商店って、何気に侘び寂びよねー」
そう言って北上は本を手に取り、ぱらぱらと捲り始めた。
「え、っていうか北上は詩なんて読むの?」
「うん、読むよ」
意外。すっごく。
「何で」
私は身も蓋もない質問をした。
北上は本に目を落としたまま少し考え込む。
「うーん、何だろうな。私たちのやってることと、対極にあるものって感じがするから──かな」
「私たちがやってること?」
「主砲をどーん、魚雷をばーん、みたいなさ」
そう言って北上は微笑んだ。その微笑が微かな哀愁を含んでいるように見えたのは、私の気のせいだろうか。
「そういう真逆のものに触れることって、何か大事なことのような気がするんだよね」
北上の意外な一面を見たような気がして、私は少しだけ動揺した。
何となく見てはいけないもののような気がしたからだ。
正気の沙汰ではない魚雷の搭載数と、それによって叩き出される圧倒的な火力からは想像もつかないようなふわふわした性格こそが北上であり、まさに掴み所がないという言葉がぴたりと嵌るのが北上なのだ。
そんな北上の──掴み所に触れてしまったようで。
大井はこの一面を知っているのだろうかと、よく判らないことを考えてしまった。
「私はこれ買うよ。曙は何も買わないの?」
北上が本を閉じて言う。
「べ、別に関係ないじゃない」
「あ、さっきのエロいやつ買うんだ。先に出てった方がいいかねえ」
「買わないわよ! うっさいな!」
自分でも顔が赤くなっているのが判る。
そんなに怒らないでよ、と北上は笑った。
「迷ってるんだったら、曙も詩を読んでみたら?」
詩──。
「え、わ、私には解らないし、似合わないわよ」
「そんなこと言うんだったら、元々読書自体が似合わないよ」
「北上もでしょ!」
「いいからいいから」
そう言って北上は一冊の詩集を私に手渡した。
何だか表紙からして難しそうである。白黒のあからさまに古い写真と控え目な解説文。教科書で見たような見なかったような、そんな詩人の名前。
「私には、本当に解らないよ」
こうして北上に渡されなかったら、多分一生手に取ることのなかった種類の本だ。
「わからなくていいんだよ。全然──わからなくていい」
「どうして? 解らなかったら、面白くないじゃない」
「私が今言ったことの意味も解らなくていい」
「どういうこと?」
北上は私から本を取り上げて、買ったげる! と言ってレジに向かって歩き出した。
「いいわよ! 私なんて本当に解らないんだから!」
「いいんだってー。可愛い給糧艦が読書しようって言うんだから、北上様奮発しちゃうぞー」
「奮発ってそんな高くないでしょうが! わ、私そんなことされたって読まないんだから!」
「あはは。給糧艦を否定しないねー」
「一応まだ駆逐艦よ!」
私はそう言って一足先に店を出た。
密度の高い空気が私の身体を包む。
暑い──。
店の前には、北上が乗って来たであろうバイクが停めてあった。郵便新聞出前の配達でよく見る型のバイクだ。
私は、
何だかリズムを崩される。
まぁ、元々北上とはそういう感じだから仕方ないのだが。
漣と似ている部分もあるが少し違う。漣は敢えてそうしていることが多いのだが、北上は多分ほぼ天然であのノリだ。漣の場合、根っこは私たちと同じところにあるのが判るのである。
以前朧が北上を評して「人間がでかい」と呟いたことがあったのだが、当たらずと
焦点の定まらない目で揺れる舗装路を見ているうちに、店の戸が開いて北上が出てきた。
「おまたせー」
「待ってないわよ」
「拗ねちゃって可愛いんだからさー」
「やめなさいよ」
北上がヘルメットを脱いで髪を軽く整える。私はシートに腰掛けていたことに気づいてバイクを離れた。
「あ、いいのいいの。それよりさ、曙、付き合おうか」
「は?」
「この北上様に付き合おうか」
「だから、は?」
「むぅ。何か用事あった?」
「べ、別にないけど。何処か行くの?」
「ちょっと、いいとこさ」
北上は何故か誇らしげにそう言うと、ミラーの根元であご紐を閉じヘルメットを掛けた。
「バイクは?」
「置いてく。もしかして乗りたい? 一応三十ノットくらい出るよ。主機が辛そうな音出すけど」
「結構よ」
んじゃ歩いて行こうか、と言って北上は店の入り口に戻り戸を開ける。
「おじさん、バイク置いてっていい? 夕方頃には取りに来るからさ。──あ、ホントに? ありがとね!」
こちらを振り返って北上は笑う。
こんなに素直に笑う北上を見たのは初めてかもしれない。
何だか私はまた動揺してしまって、少し照れた。
※
十分ほど国道を歩いたところで北上は止まった。
「この坂道の上だよ」
細い横道を見て北上は言う。
結構な傾斜の坂である。私は露骨に嫌な顔をした。
「こんなところに何があるのよ」
「登ってからのお楽しみだよー」
正直足が辛くて気が重い。
それにしても、本当に何の変哲もない住宅街である。国道を挟んで後方にコンビニ、横は、小学校だろうか。坂の向こう側は道が緩く曲がっていて見えないのだが、ひたすら住宅が立ち並んでいるだけである。この先に何があるとも思えない。北上に案内されなければまず来ない場所だった。
「この校舎の中も坂になってたら面白いよね」
「そんな訳ないじゃない」
敢えて冷たくあしらってみる。
北上は笑う。
「何が面白いのよ」
「いやいや、大井っちと反応が全然違うからさ。何か可笑しくて」
「あのね、アンタ大井と一緒にいすぎなのよ。私の対応が普通なんだから。もっと他の艦娘と絡みなさいよ」
「あはは、曙に言われたくないな」
確かに他人の事は言えないのである。
「わ、私はいいのよ。第七駆逐隊で行動するんだから。駆逐隊の中でコミュニケーションがとれていればいいの。北上は第一艦隊だ何だって忙しいんだから」
自分で言っていて恥ずかしくなった。今まさに七駆の中でコミュニケーションがとれていない。
「あ、そうそう。
「何よ急に」
「いや、仲良いの誰かなーって考えてたら思い出した」
北上の中で阿武隈は「仲が良い」という認識なのか。北上が阿武隈にちょっかいを出している様子を傍から見ている感じでは、本気で嫌がられているように思える。
「気にしてたって、何を」
「曙が大破した時の旗艦だったでしょ?」
北上がこちらを振り向いて言った。
確かにあの時の旗艦は阿武隈だったが、阿武隈に過失など全くない。むしろ、大破した私を抱えながらも艦隊をよく無事に帰投させたと称えられて良い。
実際、見えない敵の恐怖にパニック寸前だった七駆を鼓舞し、冷静に指示を出して何とか艦隊行動を維持させたのは彼女である。
阿武隈じゃなかったら私たちもやられていた、と漣、朧、潮の三人が口を揃えて言っていたのをよく覚えている。私は早々に気を失っていたから知らないが、想像は出来る。
阿武隈はああ見えてエリートだ。水雷戦隊の旗艦をやるために生まれて来たようなものなのである。
まぁ、趣味が何となくチャラついてるし天然だし、声も妙に甲高いから、駆逐艦からは完全に舐められているけど。
それでも、彼女が優秀なのは皆知っている。
阿武隈が責任を感じる必要などない。
あれは私が悪いのだ。すべて──私が。
「そ、そんなの関係ないわよ。私が
「曙、そんなことないよ。自分をそんな風に言わないで」
北上は前を向き直して、優しい調子で言う。
「それにさ、旗艦って多分そういうものなんだよ。私はちょっとしか務めたことがないから判らないんだけど、阿武隈見てたら何だかそういう気がするな。艦隊で起こったことの責任は、全部自分なんだよね」
「そうだとしても、阿武隈は──」
「だからさ、曙だってそれなりに元気になったでしょ? 阿武隈が帰って来たらその姿を見せてあげて欲しいなって」
「帰って来たら?」
「阿武隈、今は第一艦隊だから」
そうなのか。潮と一緒か。
それにしても、私がどれだけ周囲に気を使わせてしまっていたのか改めて痛感する。
食堂手伝いに追われて忘れていたし、それで充足感を得てしまっていたからある意味満足もしていたのだけれど。
それだけでは、いけないのかもしれない。
「とまぁ、優しい北上様はそう思ったりする訳なんだなー」
いつもの調子で北上は言う。
北上も照れ隠しをするのだと思うと、何だか可笑しい。
「まぁ覚えていたらね」
と笑いながら言った。
「可愛い阿武隈のためにもお願いしますよーって、ほら見えてきた」
坂の頂上が何となく見えてきた。
あれは──学校か。
「何、また学校?」
「違うよ」
「あれ、中学校か高校でしょ?」
「だから違うって。その手前」
手前。
特に何も見えない。あるのは住宅と、何かの商店だろうか。とりあえず特筆すべきものは何一つない。
「本当に何もないじゃない」
「曙の目は節穴なんかねぇ」
そう言うと北上は駆け足になって、やがてボロボロの古い商店の前で立ち止まり、両手で商店を指差した。
「ほら、ここだよ」
私は自分のペースを崩さずに歩き、北上に追いつくと
「何よこれ」
「駄菓子屋」
「駄菓子屋。有名なの?」
北上はくすっと笑う。
「全然。そんな訳ないじゃん。ごくごく普通の駄菓子屋」
普通の駄菓子屋。
一応「ちょっといいところ」という触れ込みでこんな急な坂道を登ってきたのに、ごくごく普通の駄菓子屋。
私は、急激に撫で肩になった。
「帰る」
坂を下ろうとする私を、北上はヘッドロックして捕まえた。
「待ちなさいな給糧艦見習い。北上様に付き合うって約束じゃない」
「何がいいところよ。人を騙して!」
「まだ中に入ってもいないのに」
「入らなくても判るわよ!」
「曙は全然解ってないね。ごめんだけど強制連行だよー」
「ちょ、ちょっとやめなさいよ!」
首を固定されて、私は文字通り引き摺られた。
ジタバタと抵抗するのも虚しく、後方でガラガラと戸が開く音がした。
「ごめんくださーい」
不思議な間をおいて、いらっしゃい、と老婆のか細い声が聞こえた。
「ほら、曙も挨拶しな」
北上は首根っこをより一層強く引っ張って私を回転させる。
およそ人権なる言葉からは縁遠い扱われようだ。
色々と抗議したい気持ちはあったのだが、目の前の老婆に罪はないのだから、挨拶はするべきであろう。
「どうも」
「あなたは初めてね。妹さん?」
まさか。
「あはは。おばさんったらやだなぁ後輩だよ」
「そう、いらっしゃい。ゆっくりしていって」
そう言って老婆は椅子に腰掛けた。
「何食べようかな」
北上はご機嫌な様子でアイスケースを覗き始める。
私には北上のテンションが理解出来なかった。何故こんな今にも潰れそうな狭い商店で高揚出来るのか。連れてこられた経緯も影響しているのだろうが、正直この場所で滅入ることはあっても浮かれることはない。
私は何だか一気に疲れてしまって、傍にあったソファに腰を下ろした。
年季の入った店内を見回すと、懐かしいという感覚より不安が押し寄せた。
まず商品のディスプレイの間隔が矢鱈に広いのである。
正面のガラスケースには主にスナック菓子が並べられているのだが、基本各種類一個ずつである。一袋ウン十万でないと辻褄が合わない陳列である。さらにその横にはこれまた時代を感じさせる淡い青色の棚があって、胡椒、山椒、ロケットの順で並んでいる。
──ロケット。
ロケット型のお菓子だとか容器とかではなくて、ただのロケットだ。最早売り物かどうかすらも判別がつかない。どれにも値札が付いていないから本当に判らない。ロケットの印象が強すぎて、塩と砂糖を何故置かないのかという疑問が浮かんだのは結構後になってからだ。
果たして商売は成り立っているのだろうかと思ったが、その疑問はすぐに解決された。
ソファのすぐ横の壁は色紙で埋まっている。それは学生の寄せ書きだった。部活動の生徒たちだろう。年号と大会成績なども書き込まれている。
隣の学校の生徒たちが帰り際に寄って行くのだ。何がある訳でもないが、立ち寄らないとそれはそれで物足りない。多分、ここはそういった場所だし、この店はそれだけで成り立っているに違いない。
色褪せた警察官募集のポスターが目に付いた。
卒業生が貼っていったのだろう。もう、十四年も前のものだ。
広告の意味はない。だが、店の老婆にとってそんなことはどうでもいいのだ。
空間は「思い出」で溢れている。
それは老婆のものなのか、かつての生徒たちのものなのか──私にはよく判らなかったのだが、とにかく私の居場所でないことは確かだった。
私は少し不安定な気持ちになった。そして、空間に自然に溶け込んでいる北上の意味が解らなかった。
「これにしよ! 曙はどうする?」
「何でもいいわよ」
「んじゃ同じのねー。おばさん、これちょーだい」
じゃらじゃらと小銭の音がする。北上は会計を済ませて私の横に座った。
「はい、また奢ってしまったねー」
「はいはい、ありがと」
北上が買ったのは瓶型のチューブに入った二本入りのアイスだった。
「二本あるなら一個で良かったんじゃないの?」
「曙はせこいなー。リッチに行こうよー。お金ない訳じゃないんだし」
確かに、北上の言う通り蓄えがない訳ではない。それはこの仕事が高給だからではなくて(むしろ背負っている責任とリスクに比べて安すぎると思うし、他の職業と比較して実際安い)、単純に使う暇がないのである。寮住まいで家賃も光熱費もほぼないに等しいし、食費も毎月食券が配布されるので基本いらない。お金を使う機会といえば酒保で買う雑誌とお菓子くらいである。
非番の日は街に繰り出して衣服や装飾品等のショッピングを楽しむ艦娘もそれなりにいるが、着る機会もないし、そもそも休みがそんなにないから高が知れている。
我々には香水よりも油と硝煙の匂いの方が似合っているのだろう。
「曙はさ、もう海に出ないの?」
唐突に北上が言った。
チューブを切り離した手が一瞬止まる。
出られるものならば出たい。
しかし、今でも海を見ると心がざわつく。まだ正気を保っていられるだけ改善はしたのだろうが、そんな状態から戦闘をこなすまで快復するとは思えない。
正直、今の私が人並みの生活を送れるようになったのは、その問題を忘れることが出来ているからで、真剣に向き合っていたら──それこそ正気を失う。
「まだそんな段階じゃないわよ」
チューブの突端をぞんざいに千切り捨てて中身を吸う。
「そうかなぁ。もう大丈夫な気はするけどな。曙だって、また出たいんでしょ?」
「どうかしら」
「七駆に戻りたくないの?」
「もう諦めてる。駆逐艦としてはもう無理よ。今、明石さんに弟子入り志願中なの。難しいだろうけどやってみるわ」
「ふーん」
私の結構な告白を北上は軽く受け流した。
「ふーんってアンタ、人をバカにして」
「いやいや、ちゃんと考えてんだなって感心してたのさ」
アイスを咥えながら言われても。
本当に適当な艦娘である。
「でもさ、七駆の子たちには言ってんの? それ」
「言ったって解ってもらえる訳ないでしょ」
「黙っていられる訳もないじゃん」
「そりゃ、そうだけど。た、タイミングってもんがあるでしょ」
「曙が一番に相談するべき子たちだと思うけどなー。一人で抱え込んだってどうしようもないじゃん」
北上はそう言ってソファに身体を深く沈ませた。
「こっちはこっちで色々あんの。解った風な口きかないでよ」
「何があんのさ。ケンカ?」
図星。
妙に恥ずかしくなって赤面する私を、北上は気怠そうな目で見る。
「くだらなーい」
「うっさい!」
「まぁまぁ、どういうケンカなのかは知らないけどさ、そんなんで壊れるカンケイでもないでしょうに」
繊細だこと──と言って北上はアイスの吸入を再開した。
こんなに飄々と返されると、真剣に悩んでいた自分がバカみたいに思えてくる。
「あのさ──」
「ん?」
「北上にとって、大井ってどういう存在なの?」
北上は突拍子もない質問に目を丸くしていたが、やがて少し考え込み、
「友達じゃない?」
と言った。
「それだけ?」
「それだけ、って言われるとなんだか不安になるけど──まぁ、友達だよ」
それ以上の繋がりに見えるが。特に大井はそれ以上の関係を望んでいるように見えるが。
北上は怪訝な表情で見つめる私に苦笑した。
「確かに大井っちの友情表現はちょっと変わってるかもしんないけどさ、曙を含めた七駆の関係と変わらないよ」
姉妹艦ってところも一緒だし、と北上は言う。
「じゃあ、大井は、北上が工作艦になるって言いだしたら、許してくれると思う?」
「思うよ。私が真剣に考えた結論ならね。──あ、いや、許してくれないかな」
「どっちよ」
「あはは、ごめんごめん。状況がよく想像出来なくてさ。まぁでも、真剣に聞いてくれることは確かだよ。だから、それは七駆と一緒だって」
「潮も、許してくれる?」
潮とケンカしてんだ、と言って北上は笑った。
「もちろん、潮だってそうだよ」
「そうかな」
「そうだって」
北上はチューブをぺしゃんこにして中身を全部吸った。
「曙さ、友達って作るもんじゃないじゃん? 勝手に、気づいたらそういう関係になってるもんでしょ? だから、上手く言えないけど──あーだこーだ言ってないで自然に振る舞うのが正解だと思うんだよね。そっから始まった繋がりなんだからさ」
ね、おばちゃん、と北上は突然老婆に話を振った。
老婆は話をよく聞いていなかったのか、こちらを向いて笑顔で頷くだけだった。
「おばちゃん、友達ってそういうもんだよね?」
北上がもう一度話を振り直すと、老婆はまた小さく数度頷いた。
「卒業しても一緒だねえ。あなた達も今年卒業かい?」
北上と私は目を合わせて苦笑する。
「卒業は──まだかなぁ」
老婆は、そう、と言って卒業生の寄せ書きで埋まった壁を
私は、寄せ書きの中に北上と私の名前があったらどうだろうと想像する。
色褪せているなら悪くない──と思った。
※
夕方、鎮守府に戻った私は、自室のベッドに倒れ込んで北上に勧められた詩集を読んでいた。
正直言うと、内容はよく理解出来ない。
しかし、だからと言ってつまらない訳でもなく、自分なりに情景や心情を想像してみるのは思いの
北上の言っていたことは、こういうことだったのかもしれない。
ふと廊下から足音が聞こえてくる。七駆のものではない。歩調が強いのか少し音が大きい。
やがてドアがノックされる。どうぞ、と言うとドアが開き、壁に寄りかかって斜に構える人影が見えた。
それは大井だった。
部屋の中に入るでもなく私を睨みつけている。
「珍しいわね。何か用?」
「あなた、自分のしたことが判ってるの?」
何かしただろうか。
思い当たることが何もなかったので、素直に、
「ごめん。何も」
と言った。
大井は大きく溜息を吐いた。私はよく判らないままに呆れられているらしい。
「三時間と十二分よ」
「何が」
「ここまで言っても解らないなんて呆れたものね。これからは曙と書いてオロカと読みなさい」
訳が判らな過ぎて怒ることも忘れていると、大井は少し早口になって、
「北上さんの拘束時間よ!」
と言い放った。
──くだらないなあ。
「北上さんの貴重な時間を無駄にして何の罪悪感もないの?」
大井は今、私の貴重な時間を無駄にしている。
「悪かったわよ。以後気をつける」
諦めて謝った方が良さそうだ。
「当たり前よ。十分反省なさい」
はいはい、と応えて本に目を戻す。
しかし、大井はそこを動かない。
気になって仕様がない。
「何よ?」
「何を話したの? 北上さんと」
もう病気としか思えない。私も他人のことは言えないが今は棚に上げていいだろう。
「そんなの覚えてないわよ」
「嘘おっしゃい!」
「本当に覚えてないって! いちいち覚えてる方がおかしいでしょ!」
そう言うと、大井は本当にわからないという顔をした。
「信じられないわ。なんてもったいないことをするの」
本当に覚えてないのね、と念を押して、大井は舌打ちをした。
「まぁ、私も鬼ではないから北上さんと二度と会うなとは言わないわ。その代わり、これから北上さんと話す時は私に許可書を提出なさい。必ず二日前までに!」
私は再び、はいはい、と脱力しきって返事をする。
何が大井をここまで突き動かすのだろうか。
納得しないままに部屋を去ろうとした大井を呼び止める。
「大井、ちょっと」
「もう、何よ」
ドア枠から顔だけ出して大井は言った。
「北上のどこがそんなにいいの?」
「何言ってんのよ。そんなの、北上さんだからに決まってるじゃない」
そう言い残して大井は去って行った。
考えたこともない、というような反応だった。大井にとってそれは自明なのだろう。大井の過剰反応は迷惑以外の何物でもないが、それはそれで気持ちの良い返答である。
開けっ放しのドアを閉めるためにベッドから立ち上がる。
本に目を落としたまま、もう片方の手でドアを押した。
それにしても、
著者は艦娘ではないから当たり前なのだけど。
私も、なんだかんだと言いながら海から世界を見ていたことに気がつく。
ドアがカチャリと音を立てて閉まった。
やはり私はもう一度──海に出るべきなのだろうか。