あけぼのさがし   作:広田シヘイ

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第五話『岸壁の章』

 

 

 

 

 

 予報では、夕方から未明にかけて荒れるらしい。

 西の空から、邪悪と形容したくなるような黒く重い雲が迫っていた。

 一方、こちらはまだ風も波も穏やかで、直上には抜けるような青空が広がっている。

 その境目は余りにも明瞭で、空に線が引かれているかのような錯覚を覚える。

 私は、その段階を踏んでいくという発想のない空に辟易として、ただただ呆然と水平線を眺めているのであった。

 私は、岸壁に立っている。

 あれほど怖かった海も、こうして眺めている分にはなんともなくなった。

 私は気付いたのだ。

 海に出よう、海に出なくちゃ、と思うから心が乱れる。

 諦めてしまえば、なんでもない。

 このコンクリートの内側で生きるのだと思えば、全く平静を保っていられる。

 何も難しいことはなかったのだ。

 食堂当番も先ほど御役御免になった。間宮さんと伊良湖さんから、卒業おめでとう、と言われた。二人が言うには、私は次の段階に進む時期に来たらしい。

 二人に謝辞を述べた後、その足で工廠に向かった。明石さんに正式に弟子入りを申し込むつもりでいたが、夕張がピリピリしていてそんな空気ではなかった。なんでも、新型爆雷の最終調整をしていたらしく、私を見るなり、デリケートな作業だから喋らないで、と言い放った。

 挨拶さえ許されないのなら弟子入り志願など絶対に出来ない。

 そのくせ他人に喋るなと釘を刺しておいて、聞いてもいないのに、これは対潜兵器の革命だ、完成した暁にはこれを《夕張式対潜弾投射機》と名付けようと思う、などと譫言(うわごと)のように呟いているものだから、明石さんと私は目を合わせて苦笑していたのである。

 岸壁にいるのは、夕張の作業が終わるまでの暇つぶしだ。

 しかし、予定が変わってしまうかもしれない。

 

 

 ──今夜、二三〇〇(フタサンマルマル)に潮のいる第一艦隊が帰投予定だ。

 

 

 夕張の進捗状況次第では、先に七駆の面々に艦種変更を報告しなければならないかもしれない。それを考えると大変に気が重かった。また、皆を落胆させてしまうかもしれない。

 いっそ、青葉にわざとこの話を漏らしてしまおうかと思うほどだ。

 青葉のことだから、新聞に書くだろう。

 オフレコで、と念を押しても書くだろう。

 そんなくだらないことを考えていたら、桟橋にある人影に気が付いた。

 誰だろうか。鎮守府の中だから関係者である筈だが、艤装は装備していないようだ。髪が長いから女性であろう。椅子に腰掛け釣りをしているようだ。

 釣り。

 鎮守府で。

 私は、(おもむろ)にその桟橋に近付いていった。

 

 人影が誰か判別出来る距離まで接近して、私はなんだか呆れてしまった。

 それは、我が鎮守府の第一艦隊旗艦、長門だった。

 ジーンズに白のタンクトップという出で立ちで、くわえ煙草をしながら虚ろな目で水面を見つめている。余程釣れないのだろう。私が発見してから微動だにしていない。

 そりゃ釣れないだろう。聞いたことないもの、鎮守府で釣りなんて。

「何してんのよ、長門」

 そう言うと長門はこちらを向いて、おう、と言った。その拍子に煙草の灰が落ちる。

「曙か。何してるって、見て判らんか、釣りさ」

「何で釣りなんてしてんのよ」

「してはいけないか?」

「いけなくはないけど、理由は聞きたいわ。いないわよ、魚なんて」

「いなくはないだろう。海なんだから」

 そう言って長門は、(かたわら)に置いてあったバケツをひっくり返して、座れと言った。

 ほら、もう釣る気ないじゃん。釣果もなかったんじゃん。

 私は一応、有難うと言って腰掛ける。

「で、第一艦隊旗艦様が何で釣りなんてしてんの?」

「お前もしつこいな」

「だって第一艦隊は出撃中でしょう。なのに旗艦の長門が鎮守府で釣り糸垂らしてたら、そりゃ気になるわよ」

 長門は自虐的に少し笑って、休暇さ、と言った。

「私だって好きでこんなことしてる訳ではないんだよ。今の旗艦は金剛だろう」

「だったら休まなきゃいいじゃない」

 そう言うと長門は困ったような顔をした。

 長門は、こんなに表情豊かな艦娘だったろうか。

 見慣れない私服姿と相まって、私はドキリとした。

「提督が休暇を取れと煩瑣(うるさ)いのだよ。私はそんなものはいらないと断り続けてきたんだが、ついに強制的に二週間も空けられてな。こうして困り果てているところだ」

 空き缶に煙草の灰を落とす。空き缶が酒ではなくジュースなのが長門らしい。

「何処か旅行でも行けばいいのに」

「実はもう行って来たのだ。一週間ほど滞在する予定が二日で帰って来たがな」

「え、二日で?」

「そう、二日だ」

 そう言って長門は笑う。

「情けないものだな。やはり陸は合わないんだよ。山間(やまあい)の温泉場だったんだが、湯に浸かった後に何をしていいのかも判らないし、何より海が見えないと落ち着かなくてな。なんだか、自分が異質な存在に思えてくるのさ。自意識過剰なのかもしれないが、周りに見られているような気がして居心地も悪かった──」

 艦娘とバレている筈はないのだが、と長門は言う。

 多分、見られていたのは事実だろう。

 ただ、それは艦娘だからではなくて、長門の容姿がずば抜けているからに違いない。

 長門は、今でこそ魚のいない海に釣り糸を垂らしている残念な艦娘だが、第一艦隊旗艦を務める様は同性の私でも見蕩れるほど美しい。

 容姿端麗、才色兼備、文武両道、一騎当千。良い意味の四字熟語は概ね長門に当て嵌まる。早い話が完璧なのだ。一方で、お酒が全く飲めなかったり、小動物や可愛いものが好きというとても女の子な一面も持っている。

 このギャップも含めて完璧だ。

 私みたいな者にタメ口をきかれるような隙を作っているところも、皆から尊敬を集めている一因だと思う。

 そんな日本人女性の一つの到達点である長門が歩けば、視線がそちらに集まってしまうのも仕方のないことである。

 異質ではあるのだ。確かに。

「それで、やることがないからこうして呆けているわけ? なんだか、人生の終末みたいな雰囲気だったわよ」

「確かに、隠居にはまだ早いな」

「しっかりしてよ。長門はウチの看板なんだから、私達だって困るのよ。あそこの鎮守府旗艦は私的時間の有意義な使い方も知らない、なんて噂がたったら目も当てられないんだから」

 長門は苦笑して煙草を空き缶に投げ入れる。すぐさま二本目を咥えて火をつけ、ゆっくりと紫煙を吐き出した。

「曙、私はな、実は空っぽなんだ」

「空っぽ?」

「ああ、空っぽだ。〈第一艦隊旗艦戦艦長門〉という仮面を取り上げられてしまっては何もない。薄々気付いてはいたが、今回ばかりは痛感したな。提督があれだけ休めと言っていたのも今は解るよ。こういうことを伝えたかったのだろうな」

 淡々と長門は言う。

 しかし、長門が空っぽだというのなら私は一体何なのだ。駆逐艦という役割も全う出来ず、第七駆逐隊という帰る場所すら捨てようとしている。

 中身どころか、外側もない。

 ひたすら胡乱(うろん)だ。

 自分は、一体何者なんだろう。

「ねぇ、長門。〈自分〉って、何なのかな?」

 長門は私を一瞥した後、水面に目線を戻して、竿をくいっと数度動かした。

「それは、多分言葉の綾だよ」

「言葉の──綾?」

「言葉に出来ると在るように思ってしまうんだよ。その程度のことさ」

 しかし、それでは。

「じゃあ、自分、なんてないってこと? でも、私はここにいるじゃない」

「だから、それでいいのさ。自分とは何か、などと考える必要もないだろう」

 求めていた回答と違って困惑した。

 その様子を横目で見て長門は微笑む。

「そういった問題には曙くらいの年頃に陥り易いんだよ。自分探しとよく言うが、それは結局現状に納得していないか暇なだけだろう。言い換えただけで、実は単純なことなのさ」

「で、でも」

 なんだか言い包められているような気がして腑に落ちない。しかし、言葉が先に続かない。反論出来ず、力んだ指先だけが不規則に動く。

 私の言葉を待っていた長門だったが、そんな私を見兼ねたのだと思う。

「曙も経験はあると思うが、航行中、大雨に打たれてこのまま溶けてしまいそうだと思ったことはないか?」

「もちろん、あるけど」

 何度もある。

 足下は海、上空から数え切れないほどの雨粒にこれでもかこれでもかと打たれて、そのうち何も感じなくなるし、何も考えたくなくなる。

「普段、外界と自分を隔てている境界が曖昧になるんだろうな。私はそんな時いつも思うよ。自分が世界の一部のように思える、のではなくて、実際に世界の一部なんだ、とな」

「世界の、一部」

「そう、全部繋がっているんだよ。それくらい曖昧なものなのさ。だからそんな問いに解答は存在しないし、存在するとするなら、それはとても当たり前すぎて気付いていない、というだけだ」

 コンクリートの上に座っているからそういう考えになる、と言って長門はつま先で地面を二度叩いた。

 意外だった。

 長門があれだけ勇猛果敢に敵を打ち倒していけるのは、確固とした自分を持っていて、揺らぐことのない自信を持っているからだと思っていた。

 長門に〈自分〉はないのだそうだ。

 あるとするなら、それは当然すぎて語る必要のない次元のものだそうだ。

 私は想像する。

 世界に揺らいで、形を変えて、時を超えて──。

 不安じゃないのだろうか。

 不安じゃないのか。

 不安とか不安じゃないとか、そういう話ではないのか。

 

「艦種変更の件に関係してるのか?」

 私は驚いて現実に引き戻された。

「な、何で長門が知ってるのよ!」

「北上から聞いた」

 あの魚雷バカめ。

「か、関係ない訳じゃないけど。ってこの話何処まで広がってるのよ?」

「さぁ、それは判らないが北上もその辺は心得ているだろうさ。曙を心配しているんだよ。気を悪くするな」

 確かに北上は他人のプライヴェートに立ち入らない主義だと思うから、言い振り回すことはしていないだろう。駆逐艦嫌いを公言している北上に心配されているかと思うと、こそばゆいような、恥ずかしいような、嫉妬に狂った大井に刺されるかもしれないと不安になるような、複雑な気持ちになった。

「工作艦でも、海に出る機会はあるぞ」

「それだけが理由じゃないの! 何よ、文句でもあるの?」

 痛いところを突かれて少し攻撃的になった。

「いや、そんなことはないさ。曙の決めたことに口を出すつもりはないし、確かに明石は一人で大変そうだからな」

 ただ──と長門は続ける。

 

 

「結局お前は、駆逐艦であることを捨てられないと思うけどな」

 

 

 指で弾いた煙草が、缶にするりと吸い込まれた。

 何という呪いの言葉だ。

 風が急に冷たくなって、強さを増す。

「どうして──」

 もう決めたことなのに。

 やっと諦められたことなのに。

 長門にそんなことを言われたら。

 この決意が──揺らいでしまうじゃないか。

「どうしてそんなことを言うのよ!」

 そう叫んだその時。

 

 ──サイレン。

 

 それは、緊急事態を告げるサイレンだった。

 頭に上った血がすっと下がって、私と長門は多分同時に鎮守府庁舎の方を見た。

「え、演習?」

「いや、その予定はない。演習のアナウンスは聞いたか?」

「聞いてない」

「曙、すぐに戻るぞ」

 何があったのだ。

 不安が押し寄せてきて、脈が速くなる。

 長門は釣り道具をぞんざいに纏め担いで歩き出した。その顔は、今までとは打って変わって戦闘中の表情になっている。長門は思ったより早足だったので、付いていくのに初め少し駆け足になった。

「何かあったのかな」

 長門は無言で歩き続ける。

 サイレンの音に掻き消されたのかと思い、私は再度問うた。

「ねぇ、長門」

「曙、今遠征に出ているのは誰だ?」

「え、えっと──天龍(てんりゅう)と六駆がタンカーの護衛で、由良(ゆら)と二駆が輸送船団の護衛の引き継ぎ、だったと思う」

「そうか」

 不安を掻き立てるサイレンの音色は、何度聞いても慣れない。

 私はいてもたってもいられなくなって、駆け足で長門の横に並ぶ。それに気づいた長門は立ち止まって、私の頬に触れた。

「曙、安心しろ。皆がそれぞれやるべきことをやれば大丈夫さ。お前も出来るな?」

 私は無言で頷いた。

 よし、と言って長門は遠くを見つめた。私もその視線の先を見る。

 出撃ゲートの警告灯が点滅し、ブザーを鳴り響かせながらハッチが開き始めていた。重々しくて仰々しいその光景を見つめていると、ハッチが完全に開く前にツインテールの艦娘が飛び出して来た。遠目でも明瞭に判る。それは利根(とね)だった。筑摩(ちくま)球磨(くま)睦月(むつき)如月(きさらぎ)がそれぞれ続く。

 待機任務中の即応艦隊だ。

 それを見た長門の表情は、より一層厳しいものになったように思えた。

「急がないといけないな」

 そう言って長門が歩き始めようとしたその時、倉庫の陰から飛び出してきた陸奥(むつ)が、こちらを見つけて走り寄って来た。

「長門!」

「陸奥、何があった!」

 陸奥の顔色が少し青ざめているように思えて、胸騒ぎがする。

 息を切らした陸奥の言葉は、途切れ途切れになる。

「だ、第一艦隊が──帰投中の、第一艦隊が!」

 

 ぽつぽつと、雨が降り始めた。

 

「て、敵潜水艦と遭遇! 潜水艦の魚雷を受けて、阿武隈が中破!」

 

 大きな雨粒が、不気味な間合いを空けて地面を円形に濡らす。

 もう──聞きたくない。

 

「う、潮が大破! 航行不能!」

 

 全身に震えが走って、視界は闇に覆われ何も見えなくなる。

 

 

 私の世界には──ただただ不快なサイレンの音が響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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