出撃ゲートに隣接している装備保管庫で、私は
固定具に吊るされたそれは〈No・68 曙〉と書かれたプレートの下で、静かに、そして鈍く照明を反射していた。
自分自身の鼓動に上半身を揺さぶられている。前髪や顎から滴り落ちる水滴は、雨なのか脂汗なのか最早判別不可能だった。
息が苦しい。
それでも──。
私は行かなくてはいけないのだ。
そうして覚悟を決めるように目を瞑ると、何やら幻聴のようなものが聞こえてくる。
(無理だよ。また怖気付いて嘔吐するのが関の山さ)
潮を助けに行かなければ──。
(お前じゃなくても)
阿武隈を助けに行かなければ──。
(他の誰かが行くよ)
此処で行かなければ、私は本当のクズじゃないか──。
(どうしたってクズはクズさ)
艤装に伸ばす手が震える。
(ほら、そんなんじゃ無理だよ足手まといだよ邪魔なんだよ)
煩瑣い。
(どうせ沈むんだよ。潮も。阿武隈も。お前も)
本当に煩瑣い。
(どんなに頑張ったって、どんなに繰り返したって。みんなみんな、沈むんだよ)
「黙れッ!」
私は多分、人生史上最大音量の独り言を放った。身を
艤装の重みが身体に伝わる。右足を半歩下げて、後方に倒れそうになる身体を支えた。
踏ん張った影響で胃液が逆流しそうになったが、なんとか飲み込んで耐える。
一層、息が荒くなる。
私は履いていたシューズを蹴るように脱ぎ捨てて、推進装置を兼ねたブーツへと履き替えた。両足を奥まで入れると、ストッパーが作動して足首を固定する。
行かなくては。
よたよたと
艤装が重い。ブーツが歩き難い。
両舷に林立する無数の艤装が、私の精神を圧迫する。
呼気が勝手に声帯を振動させて、私は多分、呼吸の度に解読不能の音声を発していたが、最早そんなことは気にしていられなかった。
連絡通路の二重扉を抜けて、出撃ゲートに到着した。
それまでとは違った生温い空気が私を覆う。
ゲートには数機のカタパルトが設置されていて、三十メートル程のスロープを下ると後は海面だ。その先のハッチは閉まっていた。
開けなければ。
こちらで開ける場合はどうするのだったか。
もうハッチなど主砲で吹き飛ばしてしまおうか。
主砲──。
あぁ、私は主砲など持っていないじゃないか。
それどころか、何の装備も携行していない。
なんと愚かなのだ私は! これは正規の任務ではないのだから装備が用意されている訳などないじゃないか!
行くのか、それでも。
あの海に。
丸腰で。
あの海に──。
瞬間、迫り来る雷跡がフラッシュバックした。
全身に凄まじい悪寒が走って、私は強烈な吐き気に襲われて地面に
胃の中に何も残っていなかったのか、私はただただ世界を拒絶するように空吐きを繰り返した。
世界がまわる。視界が狭くなる。頭痛が酷くなって、世界そのものが鈍痛に襲われているようだ。
僅かばかりの視界に映る地面には、涎や汗が混じり合った正体不明の液体が垂れ落ちていた。
やはり無理なのか。
私には──無理なのか。
再度、胃が引っ繰り返りそうな吐き気を催して、消化器官の強烈かつ無意味な
──何をしている。
何をしている?
見て判らないのか。
何も出来ず地面に這いつくばってただただ踠いているんだよ。
私は、充血した目で声のした方向を睨みつけた。
其処に立っていたのは、艤装を装備した鎮守府旗艦長門だった。
「何をしている」
腕を組み、眼光鋭く私を見下している。
「お前に出撃命令は出ていないな」
「め、命令が何よ。私の勝手でしょ!」
「行くのか?」
長門のその言葉に覚悟が問われているような気がして、私は回答を避ける。
「──文句ある?」
「行くのか、と聞いている」
冷淡に長門は続けた。
「う、煩瑣いわね。今は少し体調が──」
「お前の体調など知らん」
私の言葉を遮って長門は言った。
「そんなことはどうでもいい。行かないなら其処を今直ぐに退け。邪魔だ」
畜生。
畜生畜生畜生。
腹が立つ。
長門にも。
世界にも。
この吐き気にも。
この、クズでバカで「クソ」みたいな自分にも──。
私は、およそ人とは思えないような奇声を張り上げて立ち上がった。
もう、どうにでもなれよ。
「行くって言ってんでしょこのクソ長門! 対潜能力もない癖に人が弱ってりゃいい気になってこのクソ戦艦がッ!」
軽い吐き気は頬を膨らませて堪える。長門にぶち撒けたところで今更知るものか。
そんな私を見て長門は、何故かニヤリとわらったような気がした。
「それだけ元気なら十分だな。詳しくは長良から聞け。私達は先に出るぞ」
あいつらに感謝するんだな、と言って長門は私の傍を通り過ぎていった。
長良? あいつら?
「何のことよ。ねぇ、長門!」
こちらを振り返らずに、長門は右手を上げてひらひらと振った。
宇宙をもう一つ創造出来る程の怒りを発散した
この編成は対潜水艦の編成ではない。敵は、潜水艦だけではないのか。
「なにボケっとしてんのよ!」
その声に驚いて振り返ると、膨大な数の魚雷を搭載した北上と大井が立っていた。
「シャキッとした方がいいよー」
緩みきったトーンで北上は言う。
「あ、アンタ達も?」
「もちろんだよー」
「酷い顔ね。とりあえずその汚い涎を拭きなさいな」
大井がハンカチを差し出した。
「あ、ありがと」
いまいち状況が把握出来ないままに、そのハンカチで口許を拭いていると、耳を
私は二人に、早く行きなさいって、と大声で叫んだが、聞こえていないようなので、カタパルトを指差したりして身振りで伝える。
すると大井は何故か、ふん、と拗ねたような感じで出撃準備に取り掛かった。
北上は私に何か言おうとして立ち止まったが、この状況では聞こえないと諦めたのか、私の頭を撫でながら何がしかの合図を送るように微笑んでカタパルトへと向かった。
やがて一番カタパルトのグリーンライトが点灯して、長門が射出される。続いて陸奥と二航戦、少しの間をおいて北上と大井も勢い良く海へと飛び出していった。
北上を射出したカタパルトが所定の位置に戻ってくる様子を、私は放心しながら眺めていた。
大井から手渡されたハンカチをポケットにしまう。
吐き気は、いつの間にかおさまっていた。
「曙ッ!」
背後を振り返ると、そこには長良と漣、朧が立っていた。
「単独行動はなし、って言ったのにさぁ」
呆れた様子で漣が言う。
「私達だって行くに決まってるでしょ! このクソ曙」
多分、朧は本気で怒っていた。
「どうして」
「保管庫に入ってくところ二人に見られてんのよアンタ。まぁ、考えることはみんな一緒だよね。それより、本気で大丈夫なの?」
「大丈夫よ」
「行くのね?」
「当たり前よ!」
長良は私の言葉を受けて、壁に備え付けられた受話器を手にとって耳と肩で挟む。
やがて長良は、私を振り向いて言った。
「曙、司令官が本当に行くのか、って」
「だから行くって言ってんでしょこのクソ提督ッ! 何度も聞かれたらこっちが心配になるから聞かないで!」
長良は微笑んで、行くそうです、と受話器の向こう側に報告した。その後一言二言言葉を交わした後、いってきます、と主砲の薬室を閉鎖しながら元気に言って受話器を元に戻した。
「さぁ、助けに行くよ」
「しかしまぁ、この子は何の装備も持たないで」
「後ろ向きな。セットしてあげるから」
漣と朧はそれぞれ片手にカートリッジを持っている。多分、ソナーだろう。私は言われるがままに背面を向けた。
「九三式と三式ね。ほいじゃ、スロットに入れるよ」
「ガン積み?」
「主砲も魚雷も持ってかないよ。私達の相手は潜水艦だからね」
よいしょ、という朧の声と共に、艤装の内部で装備が固定される感触が伝わる。
「うし、セット完了。接続状況は?」
「あ、ごめん、まだ火入れてない」
「何してんのよ。そんなことも忘れたの!」
「煩瑣いわね! 色々あってそれどころじゃなかったの!」
艤装の側面下部にあるカバーを雑に開けてスタータースイッチを押す。程なくして、機関は順調に動き始めた。
「ソナーは、うん、ちゃんと認識してる。で、爆雷は?」
「ない」
「は?」
「もうない。私達ので最後だった」
「どうやって戦うのよ!」
「ないんだから仕方ないでしょ! 文句なら提督に言って!」
「朧の寄越しなさいよ!」
装備を強奪しようとして朧と取っ組み合いになった。
「やめなさいよ! 病み上がりは大人しく索敵してなって!」
「あいつらは私がやるの!」
「こんな時に
「間に合った!」
朧の言葉と私達の争いを遮ったその声に、全員がそちらを向いた。
そこにいたのは、台車に奇妙なものを載せて息を切らしている夕張だった。
「ゆ、夕張。なにしてんの」
「曙、間に合ったよ! この子、持っていって」
「何よそれ」
台車に積まれていたのはどうやら装備のようだ。数十からなる小さな弾頭がボックスから飛び出している。祭りの屋台で見る飴みたいだ、と思った。
「新型爆雷よ。これまでの爆雷と違って潜水艦の直上まで行かなくていいし、広範囲にばら撒く必要もない。大体射程は二百から二百五十。一発でも潜水艦に当たれば誘爆してこれが全部爆発する。だから深度の調定も必要ないし、当たればほぼ確実に沈められる。名付けて〈夕張式対潜弾投射機〉よ! 約束通り、曙が一番に使っていいよ」
息が切れている上に早口だったし、結局何を言っているのかよく理解出来なかったのだが、対潜兵器であるということと、明石さんの工廠で交わしたあの些細な約束を、夕張が守ってくれたことは解った。
「本当に大丈夫なの?」
「当たり前じゃない失礼ね。私の腕を信用しないわけ?」
「ちゃんと試験した?」
「だからしたって!」
本当にもう、とぶつくさ言いながら、夕張は私の太腿にベルトを巻き付けて、持参した装備の装着を始める。
照れ隠しで悪態をつく私の癖は、あまり良くないな、と思った。
「接続完了っと。曙、ジャックちょっと錆びてるわよ。ちゃんと整備しなさいよ。繋がってる?」
艤装のコネクタを指で叩いて夕張は言った。
「問題はないみたい」
「なんだかよくわかんないけど良かったじゃん」
「ったくもう、少しは落ち着きなって」
そう言って朧は、私の頬に人差指を押し付ける。
「ま、熱くなっちゃうのも解るけどねぇ。私も今、敵潜水艦に対するヘイトが溜まりに溜まってどうにかなっちゃいそう」
漣が柄にもなく凶悪な顔をして言った。
「よし、じゃあ行こうか。曙、簡単に状況を説明しとくね。詳しくは道中でも話すけど」
長良が私の正面に立って言う。
「帰投中の第一艦隊から救援要請が入ったのが三十分くらい前。敵潜水艦の雷撃を受けて阿武隈が中破、潮が──大破」
長良は最後、少し言い淀んだ。
「旗艦の金剛さんによると敵潜水艦は少なくとも二隻、もしかしたら三隻いるかもしれないって話。私達はこの憎ったらしい潜水艦を叩くよ」
「でも、そしたら何で長門達が出たの? 潜水艦相手にあんな重い編成組んだって──」
「敵の増援が確認されたの。最悪よね」
「ぞ、増援」
本当に、なんて最悪なタイミングだ。
「
事態は、私が思っていたより深刻だった。
「大まかな流れとしては、即応艦隊で出てった球磨と睦月と如月が阿武隈と潮を護衛して退避させる。そして利根と筑摩が第一艦隊にそのまま編入。その後第一艦隊は長門、陸奥、二航戦に雷巡コンビと合流して敵増援を叩く。解った?」
長良が私の目を覗き込む。
解っている。
やるべきことをやれば大丈夫。
「第一艦隊のもう一人は誰?」
「
そう、彼女達は強い。
阿武隈と潮だって、絶対に沈まない。
「解ったわ。二度と浮上出来ないようにしてやる」
報いを、受けさせてやる。
長良は力強く微笑んで、私の頬を軽く叩いた。
「よし、行くよ!」
そう言った長良の後に続こうとすると、漣と朧に止められて肩を組まれた。
「何よ」
「円陣だよぉ」
「曙、足についてるの邪魔」
「仕方ないでしょうが」
私達は艤装をぶつけながら円陣を組んで、前屈みになった。
「やっぱ、一人足りないよねぇ」
「私達の劣等感を煽る胸がない」
「朧はまだある方でしょ。なに、この期に及んで嫌味?」
私達は笑った。
「絶対、連れて帰ってくるよ」
「必ず四人で帰ってこようね」
「それ以外有り得ないわね」
あの海から、潮は私を連れて帰ってきてくれた。
恐怖と、絶望と、悪意に満ち満ちたあの海から。
今度は当然、私の番だ。
どうしたって潮には敵わないかもしれないが、あの優しさと暖かさで、今度は私が、潮の海を塗り替えてやる。
希望で──埋め尽くしてやる。
待ってて、潮。
「行こう、潮が待ってる」
その言葉を合図に、私達は地面を盛大に鳴らして声を張り上げた。
円陣を解いてそれぞれ出撃準備に取り掛かる。
「曙──」
振り向くと、突然夕張に抱き締められた。
「曙、無理しちゃダメよ」
「わかってる」
「みんなを、助けてきてね」
そう囁く夕張の声は震えていた。
「わかってる」
私は再度そう言って離れ、夕張の左胸を拳で突いた。夕張は少しきょとん、としていた。
「大丈夫、この装備がきっと私を助けてくれる!」
夕張式対潜弾投射機を叩いて笑ってみせる。
夕張も、目許を拭って笑った。
「後で、感想聞かせてね!」
後方で、長良が射出される。続いて、小気味よく漣と朧も射出されていった。
カタパルトにブーツを固定する。
外は、雨と風で荒れていた。
でも、大丈夫。
私は曙で、
駆逐艦だから、
第七駆逐隊で、
潮は大切な友達だから、
漣と朧もいるし、
仲間を助けに行くのは、
当たり前のことでとても自然なことだから、
何も、
何も怖くはないことだから、
大丈夫。
そう──大丈夫。
私は目を見開いて前方を睨みつけた。
四番カタパルトの信号が赤から青に変わる。
「曙、出撃します!」
私の世界は、急速に動き出した。