碁石アレルギーとはなんぞや【完結】   作:Una

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第1話 逆行

 まず、父さんが若くなっていたことに衝撃を受けた。

 気にしていた白髪が黒一色に戻り、ほうれい線も薄くなっていた。

 母さんも随分と若々しくなって、一瞬親戚の誰かかなと思ってしまった。

 時間が戻っている。

 恐らく、10年ほど。

 記憶を振り返る。自分は昨夜どこにいたのか、もちろん覚えている。

 自分の中にある最後の記憶は、棋院の書庫だ。

 秀作の、つまり佐為のかつての棋譜に初めて目を通したのだ。

 読み進めていくうちに、気づけば時間を忘れた。

 その美しさに魅せられ、流麗さに心を奪われ、苛烈さに恐れ。

 跡に残ったのは、身を焦がす罪悪感。

 取り返しのつかない罪に怯えた。あいつと出会って、囲碁が大好きになって、プロ棋士になって、初めてあいつが囲碁界にとってどれほどの価値を持つ存在なのかに気づいた。

 

 だから自分は、時間の逆行を願った。

 

 そして気づけば10年も時間を遡って、若返った両親に向かってどちら様ですか? などと言ってしまい、親に向かってなんて言い草だと父さんに叱られた。母さんもちょっと泣いてた。

 ほんとごめんなさい。

 グレたわけではないんです。

 

 

 

 

 それから数日、五月の春気分である自分の感覚ではありえない真冬日が続き、雪まで降って、テレビや新聞で冬季オリンピックやらなにやらのイベントなどを見聞きして、ようやく自分が時間を逆行したのだということに納得した頃。ヒカルは祖父の家にある蔵に足を向けた。

 ハシゴのような階段を登り、その奥へ。

 時間が戻ったのなら、また佐為に会える。そんな期待を胸に。

 今度はたくさん打たせてやる。絶対邪魔しない。小遣いは全部囲碁関連に当てるし、望むなら院生にもなるし、塔矢先生に土下座して弟子入りしてもいい。全部全部、お前に打たせてやるから。

 息をわずかに切らせて辿り着いたそこにはちゃんとあの碁盤があった。佐為が宿っているはずの、虎次郎所縁の碁盤。

 でも、碁盤に血の跡がついていなかった。

 顔から血の気が引くのがわかる。

 ひっ、と。喉の奥で悲鳴が響いた。

 碁盤に向けて、どれだけ呼びかけても、佐為の声も聞こえず、姿も見えず。

 

「どうして、だよぉ……!」

 

 そのまま碁盤に突っ伏し、どれだけ泣いていたのか。気づけば泣き疲れて眠っていたようだった。外はとっくに陽が沈んでいて、じいちゃんが様子を見に来てくれてやっと目を覚ました。

 

 

 

 

 これは罰だ。

 佐為をないがしろにした自分への。

 三日間自分の部屋に引き篭もったヒカルは、自分の身に起きたこの現象をそう結論付けた。

 自分は罪を犯した。

 だから自分は罰を受けなければらない。

 囲碁を辞める? それはとても辛い。でもだめだ。辞めてしまってはいずれ忘れてしまう。忘れてしまえば罰にならない。

 自分は何をした? 囲碁を愛し、千年間囲碁を渇望し続けた佐為に。

 碁を打つ機会を奪い、目の前で見せびらかすように打ち続けた。俺みたいなヘボとしか打てない状態で生殺しにした。あれだけ碁に飢えていたのに。

 罰の基本は、目には目を、だ。

 囲碁を忘れる、じゃあだめなのだ。

 碁を愛し、碁を傍におき、常に碁を考え、そして打たない。

 佐為がそうであったように。

 碁盤の中でそうしていたように。

 なにより、自分が佐為に強いていたように。

 自分の愚かさにうんざりする。

 この世のなによりも、誰よりも碁を愛していた佐為の前でこれ見よがしに碁を打っていた自分を、彼はきっと恨んでいただろう、妬んでいただろう。そんな自分が碁盤に向かって呼びかけて一体どうするつもりだったのか。

 仮に再会できたとして、どのツラ下げて会うつもりだ。

 自分は、罰を受けなければならない。

そうでなければ、佐為に会わせる顔がない。

 口から吐き出された白い吐息が、夜の闇の中でいつまでも目に付いた。

 

 

 

 

 

「それなに?」

 

 当たり前の話ではあるが、父さん母さんと同じように、あかりもまた若返っていた。

 前の時間では、碁に熱中するに従ってあかりとの接点は薄れていった。今思うと申し訳なかったと思う。前回の人生で、あかりが碁に興味を持った原因は自分なのだ。それなのに結局碌に相手をしてやれなかった。もう少し碁を打ってやればよかったと思う。

 

「碁盤だよ」

 

 あの後、じいちゃんに頼んで、押入れにあった折りたたみの囲碁セットを一つもらったのだ。

 とはいえ、じいちゃんには申し訳ないが、自分は碁を打つつもりはない。碁を身近に置き、それでなお打たないという状況を作りたかったのだ。自分への罰として。

 

「ごばん? てなに?」

「囲碁っていうゲームで使うんだよ。白と黒の石をこれの上に交互に置いて、多く陣地を囲った方が勝ち」

「ふーん、面白いの?」

「…………おもしれーよ、すごく」

 

 これは、これだけは偽れない。もう碁は打たないけれど、碁を愛し続けると決めたから。

 碁が好きだ。碁は楽しい。碁を愛してる。

 俺は、碁を一生愛し続けなければならない。

 

「じゃあ、私もやってみようかなぁ」

「え、碁やんの?」

「ヒカルもやってるんでしょ? 教えてよ」

「ん〜…………」

「なによぉ、ヒカルにできるなら私にもできるもん」

 

 できるようになることは知っている。

 碁は、そのルールや定石は至ってシンプルで、故に奥が深い。覚えるのは容易くしかし極めるには人類が千年の時間をかけても未だ道半ば。

 でも自分は碁を打つ気は……いや。

 そうか、とヒカルは思い至る。

 碁を側に置き、碁を愛する。そのために、人に碁を教えるというのはいい案であるように感じた。

 佐為と同じように、弟子と打つのはありとしようか。

 あかりとだけ打つ。

 あかり以外には、俺が碁を打てるということを知らせない。

 俺みたいな下手くそとしか打てなかった佐為の歯がゆさを、少しでも味わえればいいと思う。

 

「でも悪いんだけどさ」

「ん? なに、ヒカル」

 

 ヒカルは折り畳みの碁盤を広げながら、あかりに説明を始めた。

 

「この木のケース、あるだろ? 中にこうして、白と黒の石が入ってるんだけどな?」

「うんあるね」

「これって碁に使う石だから碁石って呼ぶんだけど」

「まんまだね」

 

 蓋を外せば、ジャラジャラとした艶のある石がたくさん入っていた。あかりはなんだかワクワクしてきた。

 子供らしい好奇心と女の子らしい綺麗なものを好む部分が刺激されたのだ。

 

「俺って碁石アレルギーでさ、碁石に触れないんだ」

「え?」

 

 こてん、とあかりは首を傾げた。ツインテールが揺れる。

 あいつは碁石に触れなかった。だから自分も触ったらだめだ。

 俺とあいつの関係を再現するなら、絶対に俺は碁石に触れてはだめだと思った。

 

「じゃあ、どうやってヒカルは碁をやるの?」

「ん、まあこう、相手に石を置く場所を示してだな」

「……私がやるの?」

「考えてみたら面倒くさいよなぁ」

 

 よくかつての自分はこれを了承したものだと思う。まああいつのためなのだからその程度文句言わずやれ、という話なのだが。でも小学生にそれは厳しいかもしれない。

 

「やっぱやめるか?」

「う、ううん! やる。だから教えて!」

 

 ぐい、と碁笥を二つともヒカルから奪い取ったあかりは、両方の石を一掴みずつ碁盤に適当に広げて、

 

「ほら、どうやるの?」

 

 こいつこんなにパワフルだっけ、とヒカルはちょっと引いた。

 

「でもヒカル、碁石持てないのにどうして碁が面白いってわかるの?」

「……碁を知ってる人はみんな面白いっていうから」

 

 

 

 

 

 

 小六になって、つまり5年ほどあかりを鍛えて。

 一応プロである自分と毎日のように碁を打たせて、棋譜を並べながら解説して。

 プロとは言っても大手合いを数えられる程度にしか打っていない、院生に毛の生えた程度のなんちゃってプロではあったけど。

 しかも自分はあかりの指導において、結局一度も碁石を持たなかった。佐為が碁石を持たなかったからだ。いろいろと不便だったけど、碁石アレルギーで押し通した。指で石を置く場所を指定したり、詰碁の課題を紙に書いて宿題にしたり。

 出来る限り佐為の真似をしようとして、上手くいっていたとはとても言えないけれど。

 そんなひどい教え方なのに、あかりはとても熱心に碁を勉強してくれた。かつての自分とは大違いだ。自分はもっぱら佐為と打つばかりで、詰碁や棋譜並べのような一人で勉強するのが苦手だったな、なんて思い返す。

 真面目に勉強するあかりに感化されて、自分も詰碁や棋譜の勉強をするようになったし、棋譜を付けるようにもなった。

 あかりと打ったものだけじゃなく、前の人生で打った自分と佐為の対局だとか、saiとして打ったものだとか、覚えている限り全ての対局を棋譜に起こした。それを基本にあかりに教えてきた。

 これは自分にとってもいい勉強になった。かつての自分では気づけなかった、佐為の布石や意識の先が見えてくる。目を凝らすほどに見えてくる、綺羅星のように輝く創意工夫の数々は、佐為が自分との対局でも決して手を抜いていなかった証拠だ。

 つくづく思う。

 自分は、碁を覚えるべきではなかった。佐為にだけ碁を打たせるべきだったのだ。

 今更後悔しても仕方ないけれど、この美しい宇宙を作り上げる彼に、もっともっと碁を打たせてやるべきだった。棋譜を通して彼が残した宇宙を見るたびに、碁の楽しさと自分の罪深さを自覚してしまうのだ。これもまた罰だろうと思う。

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